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フォーカスモンスター ~カメラで撮られたら死ぬ~  作者: 七宝正宗
第二十章 深淵
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蛇口から溢れ出る水


 引き続き7月1日。少しだけ時間を遡って、AM7時。 



 まといは碧の家に来ていた。


 碧の住んでいる一軒家は2階が存在しないが、広いので部屋数はそれなりにあり、天井が高く、ボタンひとつで天井のシャッターを開けられるので、家の中にいながら太陽の光を楽しむ事もできる。


 まあ、家の話は別にいいのである。


 女優をもうすぐ引退という事で、テレビ局へ送り迎えする回数も減った。だから、会うのはあの旅行の時以来、5日ぶりだ。本当は昨日、会えないかというメールが来たが、1日短期の派遣の仕事が入ったと嘘をついて断ったのだ。


 でも、もうさすがに断るのはアレかなと思い、今日、碧の家に来ている。



 「よかった、来てくれて」



 碧は穏やかな笑みを浮かべている。

 七王子駅の歩道橋のうえで別れた時と同じように、自信に満ちた目だ。

 そして彼女はあの時、まといに対してこう言ったのだ。





 『じゃあ、まといちゃんは、私の事が1番好きなんだよ』




 あの時すぐに、『違う、私は聖の事が好きなの』と言えばよかったのに、あの自信に満ちた目に圧倒され、結局言えなかった。

 そして今も、口に出して言えそうにない。


 やっぱり気まずい。


 

 「あっ、碧さん、朝ご飯作るね」


 「うん」


 

 とりあえず、気まずさを表に出さないようにと、まといはサッと台所へと向かい、冷蔵庫を開けた。


 「あっ」


 でも、思った以上に冷蔵庫には食材がなかったので、シンプルに厚焼き玉子と味噌汁、ベーコンを焼いた。あと、味のりも添えた。


 この分だと、今日中に買い物に行かないと、今日の夜は外食するにしても、明日の朝のおかずで困りそうだった。お米も買った方がいい。



 朝ご飯を食べている途中、碧はこんな話をしてくれた。



 「薔薇の麗人が思った以上にヒットしちゃってさ、DVD特典にチカラを入れたいって事で、ちょっとだけ女優引退が伸びそうなんだよね」


 「そうなんだ。じゃあ、この際、辞めるのをやめてみたら?」


 「えっ、辞めるのをやめるってどういう事?引退を取り消すって事?」


 「そう」



 引退しますと言って芸能界から去ったはずの歌手も、数年足らずでカムバックしたりもしているので、引退を留まってほしいという声が強いようなら、それもありなのではと、まといは思ったのだ。まあ、一部の人間から見たら、“辞めるのをやめる”行為は、非常に格好悪く映るかもしれないが。



 「うーん、やっぱり、辞めるのをやめるつもりはないかな。目標ができたからね」


 「そうなんだ」


 「やってみる価値はあると思うの。私ね、環境を整えるビジネスをやってみたいなって前から思ってたんだよ」


 「環境を整える?」


 「ほらっ、今自分が置かれている状況や、環境によっては、早々に諦めなければいけない選択肢って、誰にでも訪れると思うの。でも、環境を整えて、ちゃんとした場所をひとつずつ作っていけば、そこに必ず雇用も生まれる。それもワンランク、ツーランク以上の雇用が」


 「…………………うっ」


 

 急に小難しい話になってきた。


 

 「でも、雇用を生めばいいだけの話じゃない。ちゃんと、能力を育てる環境も作りたいと思ってる。体に障害があるかどうかは関係なく、学びやすい場所も作りたい。できれば、雇用と学びの場が両立できるような良いアイディアがあればなと、いま考えてる途中……」


 「そっ、そっか………」



 プスプス………。まといの頭から煙が噴いていた。もちろん比喩だが。


 だけど、おかげで気まずさが紛れた。


 やっぱり碧とは、こうやって何気ない話で、ゆっくりと一緒に時を過ごす方が楽しい。

 愛だとか、恋愛だとかは、この2人の間には必要ないと思ってる。だって、今のままでも充分すぎるほど楽しいから。

 彼女と会うのは5日ぶりだが、そのあいだに、彼女も考え直して、あの時の告白をなかった事にしようと普段通りにしてくれているのならうれしかった。

 それなら、彼女との関係をこれっきりにする必要もないわけだから。



 

 まといは食べ終わった食器をひとつにまとめ、シンクの中へとそっと置いて、スポンジを手に取った。

 そして洗い物を開始した。


 蛇口から流れる水の水圧が、ゆっくりと皿の汚れをそぎ落としていく。


 今日はこの後、さっき碧が言っていたDVD特典についての打ち合わせが予定として組み込まれている。だからホテルで待ち合わせだ。ほかの俳優さん達も顔を出す。


 もちろんホテルまで、まといは彼女を車で送る。

 打ち合わせにそこまでの時間はかからないだろうから、帰りに碧と一緒にスーパーへ寄って買い物を……。



 「あっ……」



 不意をついて碧は、そっと、まといを後ろから抱きしめる。

 両手をまといの腰へと巻いて、顔はまといの肩へと乗せた状態だ。



 「ぅ………」


 碧の吐息が、まといの耳の裏へと広がり、まといはゾクゾクっと来てしまい、体を少しだけうねらせた。 



 「まといちゃん、私ね、1度こういうシチュエーション、やってみたかったんだよねぇ」


 「ぁ………あの、みっ、碧さん。私、洗い物をしてる途中……なんだけど」


 「知ってるよ。どうぞ、気にせず洗ってよ」


 「でっ、でも」



 碧の息で体がゾクゾクっと来ている中で、まともに洗い物なんてできるわけがない。



 「声が引きつってるね。フフフ、いま、まといちゃんがどういう顔してるかわかるよ。金魚みたいに、口をパクパクしてるでしょ?」


 「ぅ…………」


 

 正解です。



 「まといちゃんがどんな事思ってるか知らないけど、もうコクっちゃったわけだし、後には退けないんだよ。それにまといちゃんは今日、ここに、私の家に来た。来ないという選択肢もとれたはずなのにね」


 「そっ、それは……碧さんは大切な親友だから……」


 「親友程度の仲だったら、あの時点でもう私達の仲は壊れてると思うけど?同性同士ならなおさら」


 「そっ、そんな事は………」


 「そうかな?だって“想い”が食い違ってるわけでしょ?親友としての仲を続けたいのに、相手は自分の事を愛してる。友達のままでいましょうと言ったところで、マンガやドラマみたいにそう都合よくいくわけないんだから、絶交するしか道は残されてない」


 「…………………」


 「自覚しちゃいなよ。まといちゃんはね、私が1番大好きなの」


 「ぅ………………」



 蛇口から出ていた水の水圧のおかげで、もう皿の汚れは全部取れてはいたが、それでも、身動きが取れずに、いまだに水を止められないでいる。




 あなたの事は好きじゃない。


 簡単な一言のはずなのに、なぜそれが言えないのか。


 理屈ではわかっているはずなのに、声に出して言おうとする気が、なぜか起きないのだ。



 それに、さっきから彼女の体から、リンゴのいい香りが漂ってきている。

 この前の旅行の時は桃だった。

 


 このリンゴのいい香りに、意識がとろけそうになった。




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