風椿碧の想い3
その喫茶店の名前はCAMELという。
かわいらしいラクダの看板が目印の小さなお店である。
店内は、ダークブラウン一色のアンティーク風なつくりとなっている。
今、他に客はなく、若い銀髪の男性がカウンターにいるだけだ。
すると、客の入店を知らせるベルの音が鳴った。
もちろんやって来たのは、碧と、あと例の彼女の2人だ。
碧は、この銀髪の男性とは高校生時代からの仲だ。
たまに一緒にご飯を食べたりもしている。
名前は、遠藤炭弥。もちろん、ここの店長だ。
碧から見ると、まあまあイケメンだ。でも恋人はなし。
というより、恋愛自体に興味が持てないらしい。
「炭弥さん、シャワー借りてもいいですか。この人を乾かしたいんです」
「えっ、ああ、いいけど?」
炭弥は、事情を深く聞こうとはせずに、2人を奥の方へと案内した。
この喫茶店は、炭弥の自宅と一体となっていて、2階建てだ。
でもシャワー室は1階なので、階段は上らずに突き当りの廊下を右へと進んで、正面奥の脱衣所の中へと入った。
そして炭弥は、2人にこう言った。
「来客用に下着とパジャマはあるから、俺、あとで持ってくるよ。まあ、パジャマって言ってもラフなデザインのものだから、外をそのまま気軽に出ていけると思うよ」
「ありがとう、炭弥さん」
「気にせんといて」
炭弥は、いったん脱衣所から出て2階へと向かった。
碧は「じゃあ、いまのうちにシャワー浴びなよ」と言って、炭弥に続いて廊下へと出た。だって、いくら女同士とはいえ、彼女が服を脱ぐのをマジマジと見つめるわけにはいかない。
「……………………」
すると扉越しに、布ずれの音が聞こえ始めた。
彼女が服を脱ぎ始めたらしい。
ゴクリ………。
なんていうか、こう扉越しだと逆に、生々しく聞こえてしまうのはおかしい事なのだろうか。
音だけだと、よけいな想像力も働いてしまうというか…。
ガラッ。
シャワー室へと入った音が聞こえた。
つまり………。
つまり今は何も着ていないという事で………。
ヤバいヤバいヤバいヤバい。これ以上はなにも考えるな。
碧は頭をブンブンと振りながら、よけいな妄想を振り払った。
すると、炭弥が着替えを持ってやって来る。
「あっ、炭弥さん。本当にありがとね」
「ええって。気にせんといてな……。それにしても………」
「えっ」
「髪の毛があそこまで伸び放題の状態でも髪を切らないって事は、美容院に行くお金どころか、ハサミを買う余裕もないってことかもね」
「それってつまり………」
「ホームレスか、マンガ喫茶難民か………」
「……………………そんな………」
「ん?碧ちゃん。あまりあの子の事情を知らないみたいやな」
「うん。行き倒れてたからここに連れてきただけ」
「そか……。碧ちゃんは相変わらずの変人やな」
「えー、そうかなー」
「普通はせいぜい、救急車を呼ぶくらい。それか、見なかった事にして通り過ぎるか…………」
「まあ、一度見なかった事にはしましたけどね………」
「それでも放ってはおかなかった。普通はそこまでせえへん。だって、そこまでして他人のために時間を費やしたくはないはずだから」
たとえば、第一志望の面接に行く途中で、行き倒れている人がいたとする。さて、その人のために、面接を放ってまで助けようとする人は、どれだけいるかどうか。
そういう意味で、炭弥は碧の事を変人だと思ってる。
そして30分後。
炭弥は、2人のために特製ナポリタンを作ってあげた。
もちろんこのナポリタンは、普通のお客様も注文できる人気メニューだ。
いつも提供の際は、1人用の鉄製ホットプレートに入れた状態で出すため、冬でもすぐに冷めないし、熱々のまま味わえる。ジュウゥといった音も、さらに食欲をそそられる。
特製のコーヒーとよく合うので、セットで頼む人が多い。
例の彼女は白地のトレーナーと黒のスウェットに着替え、碧と一緒に壁際のテーブル席に座った。
そして目の前に、2人用のナポリタンが置かれた。
「あの………さっきのスマホのこと………」
「いいって、いいって。それよりも、食べなよ」
「…………でも………」
彼女の気持ちはよくわかる。
だって、スマホを壊した事は悪いことのはずなのに、シャワーを浴びさせてもらった上に、ナポリタンまでご馳走だなんて、気が引けてしまうのは普通の反応だ。
それでも空腹には勝てなかったようで、生唾を1度飲み込んだのちに、結局彼女はそのナポリタンを食べたのだった。
そして……空になったホットプレートが2つ………。
「私………蒼野まといって言います」
「へっ?おお、そうなんだ。きれいな名前だね」
そしてまといは碧に対し、こう言葉を続けた。
「いつも…赤橋市支店のマンガ喫茶ポムポムで寝泊まりしてます」
「……………………」
やっぱりマンガ喫茶難民だったのか。
「夜の18時にはだいたいいます。いまは無理でも、スマホの弁償代は必ず稼ぎますので………1ヶ月後くらいに徴収しに来てください」
「そんなに気にしなくてもいいのに………。あっ、私、風椿碧っていうの。女優なんだ。てっ、知ってるか?私有名人だし」
「知りません」
「えっ?」
「私、テレビ持ってないし、パソコンでドラマとか見ないので」
「………そっ、そっか………」
なんだか恥ずかしくなってきた。
知ってて当然でしょみたいな感じで話してしまって、バカにもほどがある。
スマホの弁償代については、必ず徴収しに行く事を約束した。
本当は、諸見沢専用スマホの事なんてどうでもよかったのだが、このままだと彼女の気持ちの方がすっきり晴れないと悟ったので、渋々ではあるが、OKしたのだった。