自己嫌悪2
5月21日 PM21:00
まといは、いつもひいきにしてもらっている漫画家の人と、地下のBARのカウンター席で呑んでいた。
木目が際立つブラウンの家具に、棚は、アンティークな雰囲気を醸し出している。
さらに、淡いイエローの照明。落ち着いてお酒を呑むのにピッタリだった。
まといは、さきほど撮った背景の写真を、漫画家さんに確認してもらった。
まといは、ノンアルコールのオレンジカクテルにしておいた。
お酒は苦手だからである。
何度か呑んだ事はあるが、頭の中の血液だけ抜き取られたような、そんなクラクラとした感じを覚えてしまうので好きではなかった。
「蒼野さんには今度、森の中……というより、山の中を撮影しに行ってもらいたいんですよ。もうすぐ、サバイバル編が始まるので」
「山の中ならどこでもいいんですか?」
「崖も込みの方がいいですね」
「なるほど」
「あいかわらず極少数の漫画家さんからSNSで遠回しにイヤミ言われたりしますけどね。漫画の背景を写真に頼りすぎるのは邪道ってね」
漫画家さんはケラケラと笑った。
漫画界のことはよく知らないが、写真という形で背景を“ラク”してしまう行為を好まない人は少なからずいるそうだ。
漫画を描くのはとても時間がかかる作業なので、いかにして時間を短縮し、作業効率をあげるかが、大きな課題というわけである。
「蒼野さん、ちょっとトイレに行ってきますね。ちょっとお腹が……」
漫画家さんは突然青い顔をしだし、慌てて席を立って、奥のトイレへと引っ込んでしまった。
「………………」
飲みかけのカクテルが沈殿したせいで、グラスの底にオレンジの粒が溜まっている。
いつの間にか店内の客が増えていて、壁際のテーブル席に座っていた主婦達が、こんな話をしていた。
「ハッハッハッ!!私はとことん殺人説を推していくからねっ!!!」
「やっぱそうだよねー。うちらがちゃんと騒いであげないと、ケーサツもさ、ちゃんと調べようと思わないだろうし」
まといは、マドラーという名の棒を使って、カクテルグラスの中をかきまわしたが、底に詰まってしまったオレンジの粒は、なかなか取れそうになかった。
「解剖とかしたら、きっと新事実が出てくると思うの」
まといはさらにカクテルグラスの中を、乱暴にかきまわしていく。
「といってもうちら、津島葉菜加のファンでもないんだけどね」
「そうそう、ただのミステリーオタク」
「まあ別に、本当に殺人じゃなければ、それはそれで済む話だしね。誰にも迷惑なんてかからない」
「ハッハッハッハッ、そうそう♪」
ついには、カクテルグラスが横へと倒れてしまい、オレンジの液体がカウンターの上に勢いよく拡がっていった。
まといは、近くにいたバーテンダーに軽く謝り、テーブル拭きで拭いてもらった。
このテーブル拭き、名前をダスターというらしい。
漫画家さんが戻ってきて、戸土間市にある山の中がちょうどいいのではといった話になった。
といっても、戸土間は土地開発の真っ只中なので、許可を取る関係上、すぐに行く事はできないかもしれないが。
いくら聖と恋人とはいえ、それはそれ。これはこれ。
話が終わったので、漫画家さんは先に帰った。
まといは、すぐには帰らなかった。
例の主婦達が、まだ“例の話”に華を咲かせていたから。
「…………………」
今日はカメラを持ってきているので、あの主婦達がこのBARから出て行ったタイミングで店の外へと出て、あとをつけていけば、写真を撮るチャンスには恵まれるはず。
「…………………」
ああいった連中は、たしかに許せなかった。
彼女達はあきらかに楽しんでいた。
心筋梗塞よりも、殺人だった方が展開的に面白くなりそうだから、騒いだだけ。
そこに罪の意識なんて存在しない。
だってさっき、彼女達もこう言っていたから。
『まあ別に、本当に殺人じゃなければ、それはそれで済む話だしね』
つまりは、津島葉菜加のマネージャーが、いわれもない誹謗中傷を受けようとも、本当に殺人を犯していないのであれば、逮捕されるわけじゃないんだから、別にいいじゃんといった考えというわけである。
ワカコの話だと、マネージャーの彼は、精神的に参っているといった感じだった。
このままだと、手遅れになりかねないとも………。
でも………。
彼女達を殺して、いったい何になるというのだろうか。
彼女達のように殺人説を騒ぎ立てた人間は、ほかにもいるはずだ。だから、かなりの数の人達を殺さなければならない。
それに、たとえ全員殺せたとしても、本当にそのマネージャーは、もとの生活を取り戻す事ができるのか……。
否だ。
壊れてしまったものは完璧には戻らない。
たしかに、彼女達みたいな人間は許せない。
だけど、そのマネージャーのためにすべきなのは、人を殺す事じゃない。精神的に寄り添ってあげる事だ。
それに、ワカコにも昨日言った事ではあるが、たとえ1人でも、このカメラで殺す事をしてしまったら、彼女はおそらく後悔する。
今は亡き来栖ミチルのためにも、そんな未来にだけはしたくはなかった。
だからまといは、その主婦達よりも先に、店を出たのだった。