稲辺頼宏の事情2
そして頼宏は失意のまま、あてもなく歩き続けた。
駅近周辺から閑静な住宅街へと移動し、適当に右、左へと進んでは、まるで死に場所でも探すかのようにさまよい続けたのである。
父を殺した事は後悔なんてしていない。ただ、母すら死んでしまった今の世界に、これ以上の意味があるのかわからないだけ。
「………………………」
そういえば、まだ母の眠る墓に花を供えていない。
結局、親戚の墓には入れてもらえず、行政が決めた遠い遠い県の無縁墓地に骨は埋葬された。
だからお墓参りに行こうにも交通費がかかりすぎるため、ずっと後回しにしてしまっていたのだ。
そうだ。お墓参りに行こう。せめて、母の大好きだった花をお墓に供え、人生をそこで終えるのである。
でも…………お金がない。
銀行に貯金すらない。だから、マンガ喫茶に泊まることもできない。
それに、お腹が空いた……。
「………………………あっ」
ふと、頼宏の目に留まったものがあった。
それは、Paisleyと筆記体で書かれた花屋だった。
店頭に白いユリが飾ってあって、とても綺麗だった。
頼宏はごくりと息を呑んだ。
もうこうなったら盗むしかない。空腹については我慢しよう。だって、花さえ盗めば、あとは死ぬだけである。ちょうど人気もないのでチャンスだった。
覚悟を決めた頼宏は、花屋へと近づいて、店頭の前で足を止めた。
そしてユリの茎の部分へと触れ、そこから1本抜きとろうとした。
でも、ふと我に返った。
盗んだ花を墓に供えたところで、母は喜びなどしないだろう。
むしろよけいに悲しむはずだ。
そもそも、父を殺した事が間違いだったのだ。だって、結局1人で母を死なせてしまったから。
後悔がないなんて嘘だ。そう思い込む事で自分の心を守っていただけ。
母と一緒に……逃げればよかったのだ。
愚かだ。なんて自分は愚かなのだろう………。
頼宏は、手をそっとユリから放し、店から出ようとした。
でも、お腹の音がギュルルルと大きく鳴った。
「プリン食べますか?」
「えっ?」
声のした方へと顔を向けると、店内の奥の方のパイプ椅子に座っていた色白の女性が、にっこりとほほ笑んでいた。
店内に人がいるのは知っていたが、まさか見られていたとは思わなかった。
というより、仕事以外で話しかけられたのは、刑務所を出てから初めてかもしれない。
彼女は、頼宏に対し、さらにこう話を続けてくる。
「お腹を空かせた状態のままお花を選んでも、いいお花には出会えないと思うの」
「いや、あの、えっと…………」
彼女はゆっくりと立ち上がり、頼宏へ近づいてくる。
女慣れしていない頼宏は、少しだけたじろいでしまった。
でも、彼女は気にせずこう続ける。
「あっ、そんな大きな体だと、プリンじゃ足りないか……。でもお肉はさすがにね……匂いが」
「あのっ、すみませんっ」
「えっ?」
「お金がないんです」
「えっ……………」
「だから……花が買えません。ごめんなさい。買う気もないのに花に触ってしまって…………」
「…………………そう」
彼女は目を細め、視線を下へ向けた。
そして………、ゆっくりとため息の漏れる音。
当然の反応だなと頼宏は思った。
客ですらない相手に愛嬌を振りまいたところで、一銭にすらならないのだから。
「それじゃあ、帰ります」
「じゃあ、店番してくれない?」
「えっ?」
「私お腹がすいたのよ。でも、奥の部屋に引っ込むとレジが無防備でしょ?」
「いや、でも………」
「会計の時は私の事呼んでくれて構わないから。あっ、私は御影テンマ。ここの店長をしてるの。だから、私の事呼ぶときは御影さんって呼んでね」
「いやっ、だから、その………」
テンマは、頼宏の話を聞こうともせず、さっさと奥の部屋に引っ込んでしまった。
だからレジは今、無防備な状態のままだ。
「…………………うーん」
本当なら、逃げる事も出来た。でも、よからぬ客が来ないとも限らない。
人を14年前に殺しておいてなんだが、ここを離れる事はどうしても良心がそうさせてはくれず、結局彼女が戻るまで店番をする羽目になってしまった。
そして15分後ー。
軽くご飯を済ませたテンマは、奥の部屋へと頼宏を連れていき、ご飯とふりかけを用意し、そして、食べるように言った。
店番をしてくれたお礼らしい。
頼宏は最初、結構ですと言って断ったが、テンマは『気にしないで』と言って再び店の方へと戻ってしまった。
いったいなんのつもりだろうと頼宏は思った。
たしかに頼宏は困っていた。でも、相手側からすれば、頼宏がどんな事情を抱えていようが、ただの得体のしれない人間なわけで……。恵まれない子供に寄付をするのとわけが違う。
「…………………」
それでも頼宏は空腹に耐えきれず、結局ご飯を食べたのだった。
本当なら、食べ終わったあとに、さっさと出ていくべきだったのだが……。
日々の肉体労働と、マンガ喫茶という窮屈な場所でしか寝れていなかった疲労がどっと出てしまって、その場で寝てしまったのだった。
目を開けると、そこにはテンマの顔があった。
頼宏はすぐに起き上がって、テンマに謝罪した。
茶碗や箸は、すでに片づけたあとだった。
「ごっ、ごめんなさい。すぐに出ていきます」
頼宏はその部屋をすぐに出たが、花屋のシャッターはすでに閉まっていて、どこから出ていけばいいかわからず、あたふたとしてしまった。
すると、テンマは口元に手をあて、噴き出すようにして笑った。
「ふふっ、ここの花屋、一軒家と一体になってるから、出ていく時は裏側にあたる玄関の方からじゃないとね」
「そっ、そうですか、じゃあ裏口に………」
頼宏はテンマの横を通り過ぎる。
でも、急にめまいがして、片足をついてしまった。
額がとても熱い。
「大丈夫っ?」
「だっ、大丈夫です。すぐに出ていきますから………」
「熱があるじゃない。駄目よっ。またふらつきでもしたら、危ないと思うし」
「でも………」
「遠慮しないで。明日お店休みだし。看病くらいできるから」
テンマは無理やり布団のうえに頼宏を寝かせた。
結局、2日間まるまるテンマに看病をさせてしまったのだった。
なんだかもうしわけないと思ったので、頼宏がお店の手伝いを申し出たら、どうせなら店員として働いてほしいという事になり、住み込みという形になった。
当時のペイズリーは、まだ花の宅配をやっていなかった。テンマがそもそも免許を持っていなかったからだ。でも、頼宏は免許を持っていたので、だったら宅配サービスをはじめたらどうかという話になったのである。
ちなみに、中型免許も取得しているので、中型宅配トラックも運転できる。
とにかく、彼女には恩を返したかった。
ほかのバイトに比べたら時給はそこそこではあるが、寝る場所もあり、3食ご飯が食べられる。こんなにいい場所はなかった。
最初の3か月間は緊張の毎日だった。だって、女性と一緒に暮らしているわけだから。でもいつの間にかその緊張も感じなくなって、居心地の良さを感じるようになった。
彼女は、ほかの人達とは違って警戒心の目で見てこないし、優しいのである。それに、こちらの深い事情を無理やり聞いてくるような聞きたがりでもない。ちょうどいい距離感だなと思った。
人を殺した事については、何1つ明かしてはいない。
本当は、せいぜい2.3ヵ月のつもりだった。
ほかの宅配要員の人が見つかった時にでも、やめればいいと思ってた。だけど今のご時世、どこも人手不足のようで、時給をそこそこしか出せないこのペイズリーに、バイト希望者はなかなか現れなかった。
だから、7ヵ月以上も居座る事になってしまった。
そして、あの高校生の事件が起こった。
すでにいやな予感はしていた。あの事件から1時間もしないうちに、記者と思われる人達がうろつくようになったからだ。
それでもこの花屋を離れなかったのは、13年……いや、15年前の事件を覚えてる者など、さすがにもういないと思ったからだ。
でも……いた。
ちょうど頼宏が軽トラへと花を積んでいる最中に、50代くらいのしわの深い男性に、声をかけられてしまった。
「こんにちわ。ククッ、君ってさぁ、昔、父親を殺害した事がある極悪人だよね。へえ、花屋で働いているんだぁ」
その男は、気味が悪いくらいににやりと笑みを浮かべたのだった。