未到達の悪夢
碧は夢を見ていた。
やたらとリアルな夢である。
碧はそう、市役所っぽい建物の中にいた。
でも、夢の中という事もあってか、ここがどういった場所なのかは、正確な事はわかりそうになかった。
やたらとツルツルとした幅広の白い廊下の壁には、色んな張り紙が貼ってある。
地域清掃活動や、ココロの相談室のお知らせなどがあった。あと、弁護士の無料相談といったモノまで貼ってあった。
人の通りは少ない。
スーツにネクタイ姿のいかつい男性達が多かった。
少し奥の方へと歩いていくと、なにやら隅の方で、2人の男達がこんな話をしていた。
「なんで毒なんか呑んだんだよ、あの人。これじゃあ、自殺って事だろ」
彼らの表情は暗かった。
悲しい……というよりは、やるせないといった表情だった。
「ああ、俺も残念でならないよ。ミイラ取りがミイラになるという言葉があるが、そんな言葉だけでは言い表せない“なにか”があったんだと思う」
「だっ、だけど、それでもさっ、生きる事を投げ出していいものじゃないし、あの人だって、それくらいちゃんとわかってたと思ってたんだけど…。なんか、ほかに選択肢はなかったのかなって、悲しい気持ちになる」
「………俺達はあくまで外野で、当事者じゃないからな。外野側から見た視点でしかわかるわけがないんだよ。だからこそ、相手の事を間違ってると簡単に決めつけ、時には批判だって言えたりもできる。でも、当事者にしかわからない苦悩もある」
「………でっ、でもさ………」
「自殺を肯定するわけじゃないけど、あの人が選んだ道だからこそよけいに、俺は、とやかく言う気にはなれない……。そもそも、こうなったのは、警察上層部に“あんな事”を促したバカがいたせいだしな」
「そうだな。誰だか知らないけれど、許せねえな、ちくしょう」
「できればぶん殴ってやりたいぜ」
そして男達はいっせいにため息をついた。
はたして、いったい誰が死んでしまったのか……。
しょせんこれは夢の中なので、詳しい事はわからないし、突き止める意味もないのかもしれない。
夢なんてそんなものだ。脈絡もないシーンが何度も何度も唐突に切り替わりながら、ふと、目を覚ますものである。
だから時には、モヤッとした気持ちのまま、朝を迎える事もある。
そして碧は目を覚ましたのだった。
「………………………」
ひとりぼっちの朝だった。
耳を澄ましても、フライパンで何かを炒める音も聞こえないし、何の匂いも漂ってこない。足音だって、聞こえない。
当然だ。全部自分自身の手でぶち壊してしまったから……。
あの足音、結構好きだった。
寝静まった夜や、まだベッドから起き上がっていない朝なんかは特に、まといはやたらと忍者のようにすり足で歩くのである。
起こさないための気遣いとはいえ、結構滑稽だった。
でも、そこが可愛くも感じた。
「………………」
だけど、あの足音も、もう聞く事はないだろう。
もう、どうしていいかわからない。
今になって気づいた。真っ白かったはずの天井に、うっすらと茶色いシミが浮かんでいるのに。
もしかしたらこのシミは、以前からあったのかもしれない。そう、まといが出ていく前からずっと。
今になって気づいたのは、いよいよを持って、目を背ける事ができなくなってしまったからだろう。
まといの事は好きだ。でも、これ以上はもう無理だった。
沈黙は肯定と同じだった。
違うのなら違うと、あの時ハッキリと言えたはずだからである。
あの向かい側の監視塔にいた謎の男の正体とか、まっとうな理由があるのだったら、安心させてほしかった。
でも彼女は、こちらが望んだ答えはくれなかった。
あのあと、屋内エリアの方で、正体不明の不審者が複数名、意識不明の状態のまま見つかったと耳に入ってきた。トイレの中とか、人気のない階段裏の隅の方に、その不審者達は倒れていたらしい。
薔薇の麗人の撮影の方は、30分遅れでまた再開となり、無事、すべてのシーンを撮り終える事ができた。
それでも、あんな事があった後なので、不審者の件は瞬く間にニュースとして全国へと広まった。
とある掲示板の方では殺害予告まで書き込まれていたらしいが、どうだってよかった。
「………………」
とりあえず碧はベッドから降りた。
でも、朝ご飯のために手間をかける気にはなれず、今日もまたコーンフレークに牛乳をかけ、それを食べたのだった。
すると、電話がかかってくる。
葵からだった。
『昨日は大変な騒ぎだったね、お姉ちゃん』
「……………別に」
『本当は私が出る予定だったのに。そうすれば、危険に晒されるのは私だけで済んだのに…』
「だめだよ。爆弾とか仕掛けられてたら、あんたが死ぬ羽目になるし」
『うれしいな。そうやってなんだかんだ守ってくれるところ、好きだよ。束縛しがいがある。お姉ちゃんもまた、私からは逃げられないんだなって、実感ができるから』
「…………ううん、アンタとの縁はもうすぐおしまいだよ。私はただ単に、死という短絡的な方法で、束縛から逃れたくなかっただけ」
『………………』
「2人一緒に両親との縁を切れば、アンタの事を救えるんじゃないかって思ってたけど、ホントは違った。あの家を出たあとも、アンタは、私と自分自身をずっと比較し続けて、ドツボにハマっていった」
『………………』
「あの時、私がアンタの目の前から早々に消えていれば、こんな事にならなかったのかもしれない」
『じゃあ何?私を……捨てるの?』
「捨てるんじゃないよ。離れなきゃいけないの。もちろん、これからも口は噤み続けてあげる。アンタがちゃんと、自分自身の足で生きようとしてくれるのならね」
『………いまさら何言ってるの?さんざん私に劣等感を植えつけておいて、無責任にもほどがあるでしょ?』
「しばらくひとりで生きていける分のお金はあんたも持ってるはずだし、コミュニケーション能力に障害があるわけではないのは、私がよく知ってるから、たとえ今の仕事を辞めて他の仕事をアンタが始めたとしても、支障はないはずだよね?」
『…………………』
「だからもう、私と自分自身を比較するのは止めて。自分自身の価値と向き合って」
『…………………』
「あと1ヶ月くらいはつきあってあげるけど、それ以上はもう待たない。だから、それまでに心の準備はしておいてね」
そして碧は電話を切ったのだった。