live or die
4月9日 PM23時55分。
馬瀬は夜道を歩いている。
4月の夜という事もあってか、ひんやりとした空気が肌の奥まで浸透してきて冷たい。
再就職先を夜遅くまで探していた馬瀬だったが、赤佐内建設から圧力がかかっているのか、面接会場までは呼ばれるものの、『いまあなたにはこんなうわさが立っている』と口を揃えたようにみんなから言われるばかりで、その場で落とされ続けている。
加賀城いわく、面接会場までわざわざ相手が呼ぶのは、その分交通費がかさむし、時間も浪費させる事ができるからである。
そうやって馬瀬の余力をとことんそぎ落としたいのである。スケープゴートにした相手が、万が一にも力を持つ事がないように。
馬瀬からしたら、赤佐内建設に天罰を喰らわせる云々はどうでもよかった。
こっちはただ、しずかに暮らしたいだけなのだ。それなのに赤佐内建設は、マスコミを必要以上にはやし立て、妻と娘すら、この社会で生きにくいようにしようとしている。こんなの、あまりにもむごすぎる。
コツ……コツ………コツ………。
少し離れた後ろの方から足音が聞こえてくる。
ローファーでも履いているのか、かなり硬めの音だった。
馬瀬はごくりと息を呑んだ。
実は“帰宅途中”をあえて装って、今、歩いている。
ネット掲示板には馬瀬の住所までは書き込まれていなかったが、いつもどこの駅を利用しているのかは書かれてしまっていたため、帰宅ルートをすでに把握されている可能性があると加賀城は言った。つまり、待ち伏せして馬瀬を後ろからつけてくる事もあり得るという意味だ。
帰宅ルートを把握しているという事は、自宅の近くで監視する事だってできてしまうので、たとえば、朝、自宅から出てきた馬瀬の後を追う事だってできる。どこで殺すかを加害者側が選ぶ事だってできるのだ。
フォーカスモンスターは白昼堂々ターゲットを殺す事も多いので、もしかしたら、今後ろにいる人物は、ただ帰宅ルートが一緒なだけの普通の人かもしれない。
「…………………」
確認するための方法としては、後ろを振り返って、カメラを持っているかどうか確認すればいいだけだ。
怖い。怖い、怖い、怖い。
確認するのは簡単だ。
ただ、相手がまだシャッターを切ってこないのは、馬瀬かどうかの本人確認が、暗がりのせいでまだできていないだけだからと考えると、こちらがうしろを振り返った時点で終わりである。だったら延々と後をつけられていた方がまだマシなようにも思えてくる。
だけど自分が望んでいるのは首の皮1枚同然の生存なんかではなく、“平穏”だ。つつましくも静かな平穏さえあればそれでいい。
その平穏を勝ち取るためにはやはり勇気は必要だった。
だから馬瀬は勇気を振り絞り、後ろを振り返った。
そして…………。
小汚い男が立っていた。彼は黒の大きなカメラを手にしていた。
ニヤリ。その小汚い男は不気味な笑みを浮かべた。
そして彼はシャッターを切ろうとしたが………。
突如、空高くクルクルと、空き缶のようなものが飛んできた。
その空き缶のようなものは、地面へと勢いよくバウンドしたのち、大量の灰色の煙を勢いよく噴出した。
あたり一帯は一気に煙まみれとなり、どこに誰がいるのかわかりづらい状態となった。
煙が退くとそこには馬瀬の姿はなく、アラキに取り押さえられた男の姿しかなかった。
例の黒いカメラは、地面に壊れた状態で転がっている。
腕力の面では圧倒的にアラキが勝っていたので、この男は、もう逃れるすべを持っていない。
あとはこのまま手錠をかけ、近くに停めてある車にこの男を放り込んでから“彼女”を追えばいい。
「お前にはあとで色々と話を聞かせてもらう」と言いながらアラキは、片手のみで男を取り押さえたまま、懐から手錠を出した。
だが男は不気味な笑みを浮かべながらこんな事を言った。
「クククっ、クスリをね……くれたんですよ」
「はっ?」
「呑めばね……簡単に死ねる薬です。別れた妻の娘が私に会いに来て、イジメに遭ってるって相談してきて……、そしたらあの人が、勇気を出してコレを呑めば楽になれるって………ククククク、タダでくれたんですよぉぉっ!!!!」
男の手首の袖から煙が噴出され、アラキの顔に思いきりかかってしまった。
そして男は思いきり自分の奥歯をガッと噛み砕き……、
「これで私も死ね…………死ね…………ぐっ………」
男は泡を噴いて死んでしまった。
どうやら奥歯の中に即効性の毒が仕込まれていたらしい。
アラキは両目にはげしい痛みを覚えた。
眼球の中心まで浸透していくような、そんなはげしい痛みである。
「チッっ!!!くそっ、目が見えねぇっ!!」
夜の時間帯のせいもあってか、外灯の光がボンヤリとしているのが見えるだけで、あとは真っ暗闇である。
トモイは以前、アラキにこんな事を言っていた。
目に見えるモノだけですべてを判断する癖がアラキにはあると。
あと、固定観念が強いところがあると。
まさにその通りだった。
こんな小汚い男が、袖に催涙スプレーを隠し持っているなど微塵も思わなかった。
だけど鹿津絵里は、数か月前から裏の世界で自らの体を売ってまで金を荒稼ぎしていた。だから、催涙スプレーを含む武器を何種類かひそかに購入していてもおかしくはなかった。
とにかく、優先すべきは加賀城の後を追う事だった。
この男の遺体の回収は後でもいい。
一方その頃。
その加賀城はというと、馬瀬とともに見通しのいい場所に来ていた。
「びっくりしましたよ加賀城さん。でもこれで私が殺される心配がもうないという事ですね」
「…………いいえ」
「えっ?」
「さっきので証明されました。事態は思った以上に悪い方向に進んでしまっている事に……」
「どういう……ことですか?」
「彼はフォーカスモンスターではありません」
「じゃあ、模倣犯??」
「それも不正解です。ただ、厄介な事には変わりありません。今の状況を仕組んだ黒幕は、人を思いのままに操り、こうしてこちらをかき乱そうとしているのだから」
「それってつまり………私たちはまんまと、フォーカスモンスターの作戦にハマろうとしている?」
「いいえ、その逆です。相手はあえてこちらの作戦にハマって来たんです。こちらがどういった布陣で攻めてくるのか把握するために」
それがわかったからこそ加賀城は、この見通しのいい場所に移動した。
見通しの悪いところは危険だ。遠距離でも相手の写真を撮る事ができるカメラから逃げきるためには、一方通行の道だけには入ってはいけない。なるべく十字路を挟む道でないとすぐにゲームオーバーだ。
それに鹿津絵里はバカじゃない。
本当に馬瀬の冤罪に気づいていないかも疑わしかった。
馬瀬を前々から殺したいと思って付け回していたのならなおさら、馬瀬が赤橋署の中へ入っていったところも見ていたはず。
それなのにこのような行動に出たという事は…………。
「そうか。ターゲットは…………私です。あなたじゃない」
「えっ」
だとしたらこの場所は、逆にデッドゾーンだった。
少数人数の布陣でしかこちらが挑めないと知った時点で、仕掛けてくる可能性は高かった。
相手が“歩兵”をまだまだ隠し持っているのならなおさら、馬瀬が巻き添えで死んでも構わないとすら思っているだろう。
加賀城はセンシビリティ・アタッカーの力をオンにした。
彼女の瞳がわずかに赤く発光し、髪がふわり、ふわりと宙へと浮いた。
「…………1人………2人………3人………8人………」
今、加賀城達を囲うようにして、感情を押し殺しながらも近くに潜んでいる人間が8人もいた。
なるべくチカラは使いたくなかったが、こんな状況になってしまっては、出し惜しみなんてしていられなかった。
センシビリティ・アタッカーの属性は電気である。だから、スマホはもちろんだが、遠隔式の爆弾がどこかに仕掛けられていた場合は、爆弾の電源さえちゃんと入っていれば、この能力でも位置を特定はできる。
田端翔を説得するために夕桐高等学校へと訪れたあの日、もっとこのチカラをうまく使えていたならば、硫化水素爆弾の設置にも気づけていたかもしれない。
幸い今回は、そういったモノは近くに仕掛けられていない事はわかった。
つまり、加賀城達がこの場所を選んでやって来たのは、相手の思惑通りというわけでもないらしい。
だがー。
空高くクルクルと飛んできた空き缶サイズの、謎の物体があった。
その物体からは、わずかだが、電気信号が発せられているのが加賀城の目には視えていた。
「ここにいてはだめですっ!!!こっちに来てくださいっ!!!!」
加賀城は馬瀬の手を引き、走った。
すると、その謎の物体は空中で大きく爆発し、馬瀬の背中の服をわずかに焦がしたのだった。
まさか、こっちと似たような手で打って出るなんて………。
しかも、相手の方がはるかに上手だ。命を奪う事をなんとも思っていない分、こちらよりも多くの選択肢を取る事が出来るのだから。
鹿津絵里がここまで大胆だとは思わなかった。彼女についてのプロファイリングが足りていなかったのが大きいが、こんなのはもうテロである。それに彼女は、あのフォーカスモンスターのカメラを手にしている可能性が非常に高い。さっきの男が持っていたあのカメラはただのダミーだろう。
とにかく、出来るだけ遠くに逃げ…………。
カラン、カラン、カラン、カラン。
加賀城の足元に、さきほどの空き缶サイズの爆弾が1個、2個、4個も落ち、派手にバウンドした。
「ひっ」と馬瀬は小さな悲鳴をあげた。
加賀城の目が赤く輝く。
加賀城は、センシビリティ・アタッカーのチカラを使って、爆弾へと手をかざし、爆弾から発せられていた電気をむりやり自身の体へと吸い取った。
すると爆弾はフシュッと煙を立てるだけで、爆発せずに終わった。
それと同時に、周辺に潜んでいた8人が一気に動き出したが、加賀城は構わず“ある方向”へと馬瀬を連れたまま走り出し、懐から拳銃を取り出した。
加賀城の後ろを3人の男達が追い、彼らは再び懐から例の爆弾を取り出したが、アラキが放ったナイフが手首に刺さってしまったので、起爆スイッチは押されずに済んだ。
アラキはまだ視界がボンヤリしていたが、外灯のわずかな光と足音を頼りに、ここまでなんとかやって来たのである。
暗闇から発砲音が聞こえ、弾丸がアラキの頬をかすったが、アラキは素早くナイフを投げ、4人目の男も倒した。
「あと4人残っていたはずだが………逃げたか?」
耳を澄ませても、武器を構えた時に鳴る、あの独特の金属音は聞こえなかった。
一方加賀城は、片手で拳銃の照準を“ある方向”へと定めたまま、まだ走り続けていた。すると物陰に隠れていた“9人目”がいよいよ姿を現し、背を向けて走り出した。
足の速さは双方まったくと言っていいほど変わらず、距離が離れる事も、縮まる事もなかった。
場所は一気に駅近周辺へと変わり、夜の街の住人達が肩を組んだり、客引きをしたりして騒いでいた。
近くに駐在所が見えたので、加賀城は馬瀬をいったんそこにすばやく預け、すぐに走り出した。
そのロスタイムのせいか、若干距離が開いてしまったが、加賀城はあきらめずに後を追った。
おそらく、“アレ”が鹿津絵里である。
爆弾を加賀城が機能停止にさせた事にわずかに彼女が驚いてしまった結果、潜んでいる場所を加賀城に特定されたというわけだ。
今ここで彼女を押さえれば、品川かなめにすべての責任を背負わせずに済む。
だけど、腑に落ちない。
あの爆弾は遠隔操作によるものだった。
遠隔ではなく時間差によるものだった場合、さきほどの4個の爆弾も、もっと早く爆発していたはずである。
加賀城はそれに気づいたからこそセンシビリティ・アタッカーのチカラを利用して、あの爆弾の遠隔機能を停止させたのである。
だからだろうか、最初の爆弾の時は、わざと早めに爆発させたようにしか思えないのだ。
「もしかしなくても、プロファイリングされているのは……わたしか?」
こちらがセンシビリティ・アタッカーの能力者だという事に勘づいていて、それを確かめるために、わざと爆発の時間を早めたり、遅めたりしてみたとか?
センシビリティ・アタッカーのチカラがどれだけの可能性を秘めているのか知るためだけに………。
どちらにせよ、このチャンスを逃すわけにはいかなかった。
なるべく早く、品川かなめを解放させてあげるためにも…。
鹿津絵里は西赤橋駅へと入っていき、ジャンプして改札を乗り越え、プラットホームへの階段をスピードを緩めずに駆け上がっていく。
西赤橋駅も赤橋駅と同様、わりと広めの駅である。ホームが6番ホームまである。
加賀城も同様に改札口をジャンプして乗り越え、彼女の後を追った。
まだ終電の時間帯ではなかったが、0時を過ぎていた事もあり、駅員以外、人っ子1人いなかった。
駅員が、乗車賃を支払っていない加賀城達の後をすぐに追おうとしたが、足の速さ的にそれもかなわず、どのホームの階段をあがっていったのかすらわからなくなってしまった。
次の電車が、もう30秒もしないうちにやって来る。
加賀城は、ホームの端まで鹿津絵里を追い詰めようと若干距離を縮めるものの、途中で彼女は、軽い身のこなしで線路へと飛び降りてしまい、素早く反対のホームへと移動してしまったのである。
加賀城も同様に後を追おうとしたが、電車が2人の間を遮ってしまった。
「くッ!!」
加賀城は眉間に深いしわを刻んだ。こうなってしまってはもう遅い。
この間に鹿津絵里は反対側の階段を下って、別の改札口から逃走するだろう。
すべては彼女の計算通りだったというわけだ。
もう完敗だ。
この電車が通り過ぎる頃には、いなくなっているだろう。
どうやらこの電車、特急のためか、この駅には止まらないらしい。
「…………………」
加賀城はいったん、馬瀬を預けた駐在所のところまで戻る事にした。
踵を返し、さっき上ってきた階段の方へとゆっくりと歩いていく。
チカラを使いすぎたせいか、頬から首周りにかけて滲み汗がひどく、階段までの距離がかなり長いように感じられた。
両足が重たく、歩くスピードがじれったいほどに、ゆっくりしか出ない。
電車がまだ線路のうえを走っていて、向こう側のホームを遮ったままだ。
だが、それももうじき終わるだろう。そう、1秒も経たない間に………。
しかし、加賀城は急に嫌な予感がして、その足を止めたのだった。
第六感…と言うべきか。
そう、これは、警察と犯罪者のただの追いかけっこではない。
相手は巧妙に心理戦を仕掛けてきている。それに、なんでわざわざこんな逃げにくい駅のホームに逃げてきたのかを考えると、それも含め、彼女の計画のうちと考えた方がいい。
0.1秒の差であっても、彼女の心理を読み間違えたら、死ぬ。
そう、彼女は逃げるためにここに来たのではない。
電車がもうすぐ走り去ろうとしている。
もし加賀城の読み通りなら、まだ鹿津絵里は逃げていないはずである。
加賀城を殺すための、この絶好の機会を逃すはずがない。
だからこそあんな作戦を立て、加賀城のチカラを浪費させ、疲れさせたのだ。
階段まで一気に走って逃げきる体力を加賀城に残させないために。
加賀城はもうニゲラレナイ。
階段までの距離はあんなにも遠いから。
「…………………」
加賀城は懐から拳銃を取り出し、向かい側のホームの方へと構えた。
すると電車がいよいよ通り過ぎ、鹿津絵里が姿を現した。
鹿津絵里の姿は、加賀城の瞳にクリアに映っていた。
鹿津絵里は“あのカメラ”を構えていて、いままさにシャッターを押そうとしている。
「くっ!!」
本当なら、カメラをぶち抜くべきである。しかし、カメラの強度いかんによっては、そのまま弾丸はカメラを貫き、鹿津絵里の顔面にヒットするだろう。死亡確率があまりにも高すぎる。
鹿津絵里は生かすべきだ。でないと、品川かなめの無実を晴らす事ができない。
狙うなら胴体だが、すべて彼女の計画通りに進んでいると考えた場合、防弾チョッキを着てこの場に臨んでいるとみた方が自然だ。
あと、かすり傷程度のダメージでは彼女はひるまないだろう。
「…………………」
だめだ。どこを撃つべきかわからない。
ほどほどのダメージを与える事ができても、彼女の指を10本全部潰さない限りは、相打ち覚悟でシャッターを押されて終わりだ。
どこを撃つべきか迷うくらいなら、今からでもいいから、彼女のフラッシュから逃れるために動いた方がいい。
だけど、そんな時間なんてもう残されては…………。
だが………。
「えっ!!」
突如銃声が駅のホームに2発響き、鹿津絵里の左足首に1発、あともう1発は彼女の首の皮を深く抉ってから貫通した。
鹿津絵里はそれでもなんとか両足を踏ん張り、シャッターを切ろうとするが、がくりと、体が大きく横へと傾いてしまった。
城士松だった。城士松が向こう側のホームの階段をあがってきて、加賀城を護るために発砲したのだった。
それでも鹿津絵里はカメラのシャッターを押したが、加賀城はすでに、地面を蹴って右に大きく飛んでいた。
まばゆいフラッシュが焚かれ、加賀城は目をやられてしまったが、カメラのフォーカスには加賀城の後ろ髪しか映ってはおらず。
駅のホームが爆発した。