安綱
都の北には、大江山という険しい山があった。
人が住むような所ではなく、夜は月にさえ照らされない魔境だった。
大江山には鬼が出る。
この地方を過ぎ行くだけの旅人であっても知っている事だ。
女を攫い、子を食う魔。
鬼の噂を広める事で人は夜の山を警戒し、ひどく怖れた。
夜の山を歩くこの若い山伏も、山の恐ろしさは知っていた。
「誰か、誰かおられぬか。」
日はとうに沈み、山が夜の顔を覗かせた時刻。
山伏は疲れきった顔で、寂れた山小屋の戸を叩いた。
「何者か。」
山小屋から低い男の声がする。
「道に迷った者だ。どうか、今晩だけ寝床を与えてはくれぬだろうか。」
山伏は声の主に恭しく述べた。
戸がそっと開き、大木のような大男が姿を現す。
山伏の息を呑む声が聞こえただろうか。
狭い山小屋には不釣合いなほどの大男が立っていた。
山小屋の主人は山伏の姿を一瞥した。
「出家の者か。」
出で立ちから、大男はそう判断する。
「いいだろう、入れ。」
その言葉を聞き、山伏は畏まりながら小屋に入った。
「この山に来たのは初めてか?」
山伏が持っていた酒を大男に渡すと、大男は嬉しそうに酒を受け取った。
大男は「酒を呑むのが何よりの楽しみ。」といいながら、ぐいぐいと酒を呑み、とたんに饒舌になった。
「うむ、今日中にこの山を越えるつもりがこの始末だ。」
山伏も酒を呑みながら大男と話をする。
「そうか。この山に鬼が出る事は知らなんだか?」
大男の鬼という響きが山伏を竦ませた。
「いや、知らぬ。」
山伏はそう答えてから酒をあおった。
「この山にはな、酒が好きな鬼がでるそうじゃ。わしのような奴じゃな。」
大男はそう言いながら、酒瓶を傾ける。
「それはそうと、おまえさんは何故こんな山奥に住んでいるのだ?」
山伏はそう尋ねた。
「山は落ち着く。俗世の鬱陶しさもない。」
「そうか。」
大男は酒を運ぶ手を休める。
「ぬしは人を殺したことがあるか。」
何かを思い出したように、山伏にそう尋ねた。
山伏の手がわずかに止まり、すぐに「いや。」と答えた。
「人は刀で人を斬る。刀は人を殺す。はて、悪いのは刀だろうか。」
大男は微笑を浮かべる。そして、次のように付け加えた。
「生きるために、人を食うしかない奴がいたら、そいつが人を食うのは罪か?」
山伏に向けた問いかけだった。
山伏はすぐさま答えを返す。
「刀で人を斬ろうが、悪いのは人。人を食うことでしか生きられない奴がいるのなら、そいつが人を食うのは仕方のない事だろう。」
「そうだな。刀に罪は問えん。人食いに人を食うなというなれば、それは死ねと言う事だ。」
大男は酒を流し込む。
「人を斬らぬ刀は刀に非ず、また、人を食わずして人食いとは言えぬだろう。」
「そうとも言える。だが、人を殺す前の刀はただの鉄塊で、人を食う前の人食いはただの人だ。人を殺す行為が、自分自身を変えるのだな。」
山伏がはっとして酒を飲む手を止める。
「山に篭り、とりとめもないことを考えるようになった。酒を飲むと話が長くなっていかんな。」
大男が立ち上がる。
「強い酒のようだ。少し早いが休ませてもらおう。」
大男は眠りについたようだった。
山伏に扮した男は隠しておいた刀を取り出す。
その男、源頼光は役人からの指示を受け、大江山の鬼を退治しにきた。
鬼の名は酒呑童子。
目の前でいびきをかいて眠っている大男の事だ。
国中を探してもここまで強い鬼はいないだろう。
正面きって倒せるような鬼ではない。
そこで頼光は一計を案じた。
童子の好きな酒を好きなだけ飲ませ、泥酔したところを、討つ。
酒は神々より賜った神聖なものだった。
頼光は静かに構え、そして童子めがけて勢いよく刃を落とした。
刹那。
頼光の殺気を感じた童子が目を醒ます。
首を狙う一閃、それを外せば自分が殺されるかもしれない。
童子が刃を受け止めようとするが、それに構わず振りぬいた。
童子の豪腕が刀の先を遮る。
怒号が響いた。
「貴様、謀ったな。」
童子の顔は、まさしく鬼の様。
鮮血が散り、童子の腕がぼとりと落ちた。
頼光が再度構える。
童子の機先を制さねば、自分が死ぬのだ。
殺人刀。
二の閃が童子の首を狙った。
大男は昔の過ちを悔いていた。
役人の指示を受け、人を殺した事を。
理由を知らず人を殺し、後になって役人の政敵を殺したと知った。
それからしばらくして、役人が大男の命を狙うようになった。
都を離れ、山に入るまでに何人も殺すことになる。
しかし、そんな事はどうでもいい。
ただ、何も考えずに人を斬った昔の自分が嫌だった。
もはや大男は人に非ず、鬼であった。
最初の一人を殺した時に、鬼になった。
大男が人を斬る刀だというならば、役人は刀を握る悪人であろう。
どれだけ飾ったところで、刀とは人を殺す道具。
その事を、当の刀は知らなかった。
鋭い一撃は寸前でかわされる。
しかし、頼光の二の閃は童子の胸を切り裂いた。
童子の胸に鮮血が咲く。
「何故…」
童子が呻く。
「貴様が鬼で、私が人だからだ。鬼が人を食うのは仕方なし、その鬼から身を守るために鬼を討つのも仕方なしだ。」
童子は初めて人を殺した時を思い出した。
理由も知らず人を斬った愚かな自分。
その報いがこれだ。
命令されるがまま人を殺し、これまで苦しみ抜いてきた。
この男はどうだろう。
鬼を討つと信じ、自分が刀であるとも知らずに過ごすのだろうか。
「その刀の銘はなんだ。」
言うべき事は他にあるはずなのに、そんな言葉が童子の口から出た。
頼光は「安綱」と答える。
暗闇が童子を襲う。
目の前が見えなくなったのだ。
「その刀はぬしに似ている。」
童子は死に掛かった声でそう呟いた。
「何を言う。この刀は貴様を斬る理由を知らないが、私は知っているぞ。」
「ほう、ぬしはわしを斬る理由を知っているのか。」
低い声でそう搾り出す。
頼光は「そうだ」といいながら刀を構える。
童子は、まるで過去の自分と話しているようだと思った。
この若者という刀を握っている誰かがいる筈だ。
童子を斬る理由。
それを伝えれば、この若者は自分と同じような道を辿るのだろうと童子は思った。
童子が口を開く。
恐らく、これが最期の言葉となろう。
「わしが人を食らう鬼だからだ。」
言い終わると同時に、頼光の刀が童子の首を落とした。
名刀、童子切安綱。
今、ここで斬ったのは鬼か人か。