表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

安綱

作者: 雨野 海

都の北には、大江山という険しい山があった。


人が住むような所ではなく、夜は月にさえ照らされない魔境だった。


大江山には鬼が出る。


この地方を過ぎ行くだけの旅人であっても知っている事だ。


女を攫い、子を食う魔。


鬼の噂を広める事で人は夜の山を警戒し、ひどく怖れた。


夜の山を歩くこの若い山伏も、山の恐ろしさは知っていた。


「誰か、誰かおられぬか。」


日はとうに沈み、山が夜の顔を覗かせた時刻。


山伏は疲れきった顔で、寂れた山小屋の戸を叩いた。


「何者か。」


山小屋から低い男の声がする。


「道に迷った者だ。どうか、今晩だけ寝床を与えてはくれぬだろうか。」


山伏は声の主に恭しく述べた。


戸がそっと開き、大木のような大男が姿を現す。


山伏の息を呑む声が聞こえただろうか。


狭い山小屋には不釣合いなほどの大男が立っていた。


山小屋の主人は山伏の姿を一瞥した。


「出家の者か。」


出で立ちから、大男はそう判断する。


「いいだろう、入れ。」


その言葉を聞き、山伏は畏まりながら小屋に入った。




「この山に来たのは初めてか?」


山伏が持っていた酒を大男に渡すと、大男は嬉しそうに酒を受け取った。


大男は「酒を呑むのが何よりの楽しみ。」といいながら、ぐいぐいと酒を呑み、とたんに饒舌になった。


「うむ、今日中にこの山を越えるつもりがこの始末だ。」


山伏も酒を呑みながら大男と話をする。


「そうか。この山に鬼が出る事は知らなんだか?」


大男の鬼という響きが山伏を竦ませた。


「いや、知らぬ。」


山伏はそう答えてから酒をあおった。


「この山にはな、酒が好きな鬼がでるそうじゃ。わしのような奴じゃな。」


大男はそう言いながら、酒瓶を傾ける。


「それはそうと、おまえさんは何故こんな山奥に住んでいるのだ?」


山伏はそう尋ねた。


「山は落ち着く。俗世の鬱陶しさもない。」


「そうか。」


大男は酒を運ぶ手を休める。


「ぬしは人を殺したことがあるか。」


何かを思い出したように、山伏にそう尋ねた。


山伏の手がわずかに止まり、すぐに「いや。」と答えた。


「人は刀で人を斬る。刀は人を殺す。はて、悪いのは刀だろうか。」


大男は微笑を浮かべる。そして、次のように付け加えた。


「生きるために、人を食うしかない奴がいたら、そいつが人を食うのは罪か?」


山伏に向けた問いかけだった。


山伏はすぐさま答えを返す。


「刀で人を斬ろうが、悪いのは人。人を食うことでしか生きられない奴がいるのなら、そいつが人を食うのは仕方のない事だろう。」


「そうだな。刀に罪は問えん。人食いに人を食うなというなれば、それは死ねと言う事だ。」


大男は酒を流し込む。


「人を斬らぬ刀は刀に非ず、また、人を食わずして人食いとは言えぬだろう。」


「そうとも言える。だが、人を殺す前の刀はただの鉄塊で、人を食う前の人食いはただの人だ。人を殺す行為が、自分自身を変えるのだな。」


山伏がはっとして酒を飲む手を止める。


「山に篭り、とりとめもないことを考えるようになった。酒を飲むと話が長くなっていかんな。」


大男が立ち上がる。


「強い酒のようだ。少し早いが休ませてもらおう。」





大男は眠りについたようだった。


山伏に扮した男は隠しておいた刀を取り出す。


その男、源頼光は役人からの指示を受け、大江山の鬼を退治しにきた。


鬼の名は酒呑童子。


目の前でいびきをかいて眠っている大男の事だ。


国中を探してもここまで強い鬼はいないだろう。


正面きって倒せるような鬼ではない。


そこで頼光は一計を案じた。


童子の好きな酒を好きなだけ飲ませ、泥酔したところを、討つ。


酒は神々より賜った神聖なものだった。


頼光は静かに構え、そして童子めがけて勢いよく刃を落とした。


刹那。


頼光の殺気を感じた童子が目を醒ます。


首を狙う一閃、それを外せば自分が殺されるかもしれない。


童子が刃を受け止めようとするが、それに構わず振りぬいた。


童子の豪腕が刀の先を遮る。


怒号が響いた。


「貴様、謀ったな。」


童子の顔は、まさしく鬼の様。


鮮血が散り、童子の腕がぼとりと落ちた。


頼光が再度構える。


童子の機先を制さねば、自分が死ぬのだ。


殺人刀。


二の閃が童子の首を狙った。





大男は昔の過ちを悔いていた。


役人の指示を受け、人を殺した事を。


理由を知らず人を殺し、後になって役人の政敵を殺したと知った。


それからしばらくして、役人が大男の命を狙うようになった。


都を離れ、山に入るまでに何人も殺すことになる。


しかし、そんな事はどうでもいい。


ただ、何も考えずに人を斬った昔の自分が嫌だった。


もはや大男は人に非ず、鬼であった。


最初の一人を殺した時に、鬼になった。


大男が人を斬る刀だというならば、役人は刀を握る悪人であろう。


どれだけ飾ったところで、刀とは人を殺す道具。


その事を、当の刀は知らなかった。





鋭い一撃は寸前でかわされる。


しかし、頼光の二の閃は童子の胸を切り裂いた。


童子の胸に鮮血が咲く。


「何故…」


童子が呻く。


「貴様が鬼で、私が人だからだ。鬼が人を食うのは仕方なし、その鬼から身を守るために鬼を討つのも仕方なしだ。」


童子は初めて人を殺した時を思い出した。


理由も知らず人を斬った愚かな自分。


その報いがこれだ。


命令されるがまま人を殺し、これまで苦しみ抜いてきた。


この男はどうだろう。


鬼を討つと信じ、自分が刀であるとも知らずに過ごすのだろうか。


「その刀の銘はなんだ。」


言うべき事は他にあるはずなのに、そんな言葉が童子の口から出た。


頼光は「安綱」と答える。


暗闇が童子を襲う。


目の前が見えなくなったのだ。


「その刀はぬしに似ている。」


童子は死に掛かった声でそう呟いた。


「何を言う。この刀は貴様を斬る理由を知らないが、私は知っているぞ。」


「ほう、ぬしはわしを斬る理由を知っているのか。」


低い声でそう搾り出す。


頼光は「そうだ」といいながら刀を構える。


童子は、まるで過去の自分と話しているようだと思った。


この若者という刀を握っている誰かがいる筈だ。


童子を斬る理由。


それを伝えれば、この若者は自分と同じような道を辿るのだろうと童子は思った。


童子が口を開く。


恐らく、これが最期の言葉となろう。


「わしが人を食らう鬼だからだ。」


言い終わると同時に、頼光の刀が童子の首を落とした。





名刀、童子切安綱。


今、ここで斬ったのは鬼か人か。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ