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星灯籠  作者: 杜月 佑衣
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星灯籠 中編

四.三十七日目


「はぁ・・・灯籠ねぇ・・・」

美陽は、木材店の店主にあたるおじさんに、簡単なものだが、作りたいものが書かれている図面を見せていた。

「これを竹竿にぶら下げるのかい?」

「そのつもりです」

 日曜日。

 保育園がお休みの日、美陽は島の中にある木材店を訪れていた。

 美陽が、日曜の十一時頃、木材店を訪れると。

 加工場になっている場所から、木材店の店主のおじさんが、ちょうど外へと出てきたところだった。

 美陽は、笑顔でおじさんの名前を呼ぶと挨拶をし、おじさんへと小走りに駆け寄って行った。

 おじさんも、美陽を視界にとらえると、ニコニコと笑って手を振りながら、「おお美陽ちゃん」と言って声を掛けてくれた。

 おじさんは、紺の作業衣に白いタオルを首に掛け。

 美陽に手を振っている反対の手では、そのタオルで顔に流れる汗を拭いていた。

 加工場はプレハブのような作りになっていて、そこからは従業員や息子さんたちが、木を削っているような機械音が聞こえてくる。

 美陽は、星燈籠を作る為の木枠や土台になる木材を、ここからすべて集めるつもりだった。

 それ以外の材料は、保育園を通じて出入りしている人や、父兄に聞いたりして、木枠以外の物はすべて集めていた状況だった。

 美陽は、父兄に聞いた方が、これはここでもらえるという情報が手に入るのではないかと考えていた。

 島中の店を一軒一軒探しながら辿っていくよりも、お迎えに来る父兄に聞いた方が、人数も多い分、効率良く、良い情報が聞けるかもしれないと思っていたのだった。

 紙や接着剤などは、文房具店でも買えるけれど、問題は、灯籠を吊るす為の長い棒をどうするか、というところだった。

棒に短い木片を釘ででも打ちつければ、灯籠を引っかけられるところは出来るだろう。

ただ、安定性を保つことのできる長い棒を、一体どういう形で手に入れたらよいのか。

 美陽は悩み、棒というタイトルでネット検索をしていると、ふと、たまたまだったが、竹林の写真を見て。

 竹でいいかもしれないと思い立ったものの、一体長い竹はどうやって手に入れることが出来るか、まずは聞いてみようと思っていたのだった。

 長い竹竿が欲しいんですよね、と、自分のクラスの子供をお迎えに来たお父さんに、試しに話してみたところ。

 なんで?と、思った通り、驚いた目が飛んできたので、美陽は素直に、星燈籠を作って掲げたい、という話をした

 こんなデザインで、こんな感じで、と。

 自分の子供を連れて帰る為に、上着を着せてあげながら、子供のお父さんは黙って美陽の話しに耳を傾けてくれ。

 わかった、協力する、どれくらい欲しんだい?と言ってくれた。

 子供のお父さんは、自分の土地の中にある山に竹が生えているから、と用意は出来るよと言ってくれたのだった。

 美陽が、本当ですか、とはしゃいで喜ぶと、先生にはお世話になっているから、と、美陽に、竹を切って持って来れるだけ持ってきてあげると言ってくれていた。

 昨日の土曜日、仕事が終り、敬人が待っている病院へと相変わらず真っ直ぐに向かい、八時頃、いつもの通り、先生の車に送られて家に戻ると。

 子供のお父さんが、美陽の家の前の道路でトラックを止め、待っていてくれているのを見つけた。

 美陽は驚いて、先生の車から降りると、すぐさまお父さんの所へ飛んで行き。

 先生の為に持って来てやったよ、というお父さんの言葉と共に、トラックの荷台に積まれた、長さ五メートル程に調節してくれた竹を、まとめてロープで縛った状態で持ってきてくれていた。

 三十本も用意して、持って来てくれたらしい。

 美陽は恐縮しながら、深々とお父さんに礼をすると。

 お父さんは、恥ずかしそうに後頭部を掻きながら、気にしなくていいよ、と言ってくれ。

 竹の束を荷台から引っ張り出し、一気に持ち上げると、家の壁の前へ倒した形で置いてくれた。

 立ちやすいように、なるべく真っ直ぐなのを用意してあげたからね。

 お父さんの優しい言葉に、美陽はまた深く頭を下げて、礼を述べ。

 お父さんは、いやいや、と言いながら、トラックを走らせて帰っていった。

「あと、木片だけになったんで。これさえあれば灯籠の形になって、ちゃんと吊るすことが出来ますから」

 ニコニコと柔和な顔で頼む美陽に、木材店の店主は、図面を見ながら、うーんと唸りつつ腕を組んだ。

「でもそれ、危なくないのかい?紙だろ、周り」

「そうですね・・・確かに。でも、倒さなければ大丈夫だと思うので」

「倒さない保証もないわな。風が強い日なんか、竹竿ならあっちこっちに揺れてしまうだろうし」

 美陽はその言葉を聞きながら、確かにな、と思っていた。

「安定性が不安だよなぁ・・・」

 おじさんは、そう呟くと、まるで自分ごとのように考え始め。

 顎に、しわしわのふっくらした手をあてながら、うーんと小さく唸る。

 島の人は、温和な人が多く。

 このおじさんのように、基本職人気質で、気性が荒らそうに一見見えても、実はとても温情のある人が多い。

 美陽は、保育園で仕事をしている為、自然と父兄との関わりがある分、その父兄の親御さんとも関わる事があり。

 結婚して引越し当初は、まったく誰も知らない状況だったけれども、保育園で働く事によって、自然にたくさんの人と関われるようになり。

 保育士の資格を持っていて良かった、と、島に来てから特に思っていた。

 きっと違う職種だったら、ここまで島の人たちと関わる事がなかったろうし、何かで積極的に自分から動いたり、何かの集まりや行事などにどんどん参加したりしていかないと、いろいろな人と顔見知りになるのは無理だったろうと思っている。

「危ないですかね、竹竿。水木さんは反対?」

 美陽は、一生懸命、目の前で考えてくれている、店主の水木さんに問いかけた。

 水木さんは、もう六十半ばだが、足腰が強くしっかりとしていて、島中の木材を管理し、建築などにも関わっているおじさんだった。

 背は低いけれど、がっしりとしている体型で、全体的に丸っこい印象があるものの、芯は強く、昔堅気の情に厚い、良いおじさんだった。

 保育園でも、水木さんに頼んで、室内や外に置く家具や、子供が遊べるおもちゃのような物などの作成を依頼する事があり。

 美陽は、木材に関しては、すぐに水木さんが頭に浮かんでいたので、材料集めの中では一番後に回して、他の材料がほぼ揃ってから、ここへやって来たのだった。

「美陽ちゃんちの敷地内に立てていくんだろ、その灯籠」

「そうです、ね・・・。あ、でも先生に聞いてみないとわからないですけれども、一応、病院の前にも数本置かせてくれないかなと思ってて」

「病院の前にもかい?」

 水木さんの丸い目が、もっと丸くなっていく。

「ダメ、ですかね・・・」

 さすがに許可は得ていない事だったので、美陽は、誤魔化すように少し笑った。

「まぁ・・・本城先生は優しい先生だからねぇ・・・いいよと言うかもしれないけれども」

 水木さんは、まあるいしわしわの手で、顎を撫で続ける。

「何かを地面に打ち付けるか、土台を用意してやらないと。そこに棒を刺すようにしないと、危ないわなー」

「地面に、ですか」

「そりゃそうだよ。店ののぼりとかもそうだろ? 土台になる石とか支えられる物があって、そこに棒を刺してるんだから」

 そのおじさんの言葉に。

 美陽は、自分が大事な事を忘れていた事に気がついた。

「そういえば・・・そうでしたね」

 確かにそうだ。

 美陽は、今まで見てきた、店の前にあったのぼりを思い返してみた。

 水木さんの言う通り、のぼりの棒の下には、棒を刺せる為の土台があり、その土台はいつも見るからに重そうに思える。

 倒れないように、という配慮があるんだろう。

「何本立てるんだかわかんないけど、それぞれにその土台まで用意していたら、大変な事になるぞ、美陽ちゃん」

「・・・そう・・・ですね・・・」

 困った。

 立てることしか考えてなかったが、良く考えたら支えが必要なのはわかる。

「ちなみに何本立てるつもりだったんだい?」

 水木さんの問いかけに、美陽はすぐに答えた。

「毎日一本ずつ、増やそうかなって」

「ええっ!」

 水木さんの丸い目が、これ以上ないほどに見開かれ。

 美陽は、水木さんのあまりの驚きように、少したじろいでしまった。

「それ、一本ずつ増やして、家の周りを灯籠だらけにする気かい?」

「灯籠だらけというか・・・まぁ・・・でもそれに近いかもしれないですけども」

 そうしたら、竹竿の三十本もフルに使えるだろうし。

 美陽の脳裏には、子供のお父さんが一生懸命切ってくれただろう竹竿が浮かんでいた。

「ただ、出来れば、と思っていたんで、様子見ながら増やす形になるかもですが。でも、立てるのは一つ二つではなくて、増やしていきたいと思っています」

「・・・敬人君にどんどん見えるようにしたいからかい?」

 急に、水木さんから労わるような目を向けられ。

 美陽は思わず、口をつぐんだ。

 軽く、なぜ灯籠を掲げたいかの意図は説明していたので、そう言われても口ごもる事はなかったのだが。

 なぜか、美陽の心は、そこからは入られなくないと、扉を閉めてしまっていた。

「美陽ちゃんの気持ちは痛いほど理解できるけどなぁ・・・」

 水木さんは、今度は腕を組み始め。

 うーん・・・と呟き、うろうろと歩きながら思案し続ける。

「竹竿じゃなくて、木ならいいんですかね」

 美陽が、うろうろしながら考えている水木さんの姿に声を掛けると。

 水木さんは腕組をしたまま、首を片方に傾げる。

「いやぁ・・・木材だって燃えるからねぇ・・・かえって、塩ビみたいなのがいいんじゃないのかい?」

「えんび?」

「塩ビ管って・・・塩化ビニル管っていうの、見たことあるだろ? ああ、ちょっと待ってな」

 水木さんはそう言うと、一度、事務所兼自宅の中に入っていった。

 二、三分ほどすると、水木さんは玄関の引き戸をガラガラと音を立てて開け、美陽の前へと戻ってくる。

「これだよ。見たことあるだろう」

 美陽は、カタログのような写真付きの本を手渡され。

 中を見ていると、そこには塩ビ管が写真付きで載っていた。

「あ・・・確かに見たことありますね」

 洗面台の、排水溝の下とかにあるものだ。

「下水道の管とか」

「そうそう」

 水木さんは、大きく笑顔で頷いた。

「まぁ、でも、美陽ちゃんが何本立てたいか知らないけど、これを何本も用意するならお金だってかかるしなぁ」

「そうなんですよ」

 美陽は、塩ビ管はいいかもしれないと思っていたのだが。

 何十本も立てる気持ちでいる美陽には、これを全部買って集めるのは厳しいと感じていた。

「となると、やはり土台用に用意して、この塩ビ管に竹竿を差し込むってのはどうだい」

 おじさんの提案に、美陽は顔を輝かせた。

「でも、塩ビ管自体も、また支えるのが必要だからなぁ・・・」

「そうですか・・・」

 また、顎を撫でながら考えこむ水木さんに。

 美陽は、しゅんとうなだれた。

「地面に深めに穴を掘ってさ。そこに適度に切った塩ビ管を差し込んで、そこに竹竿を刺してみるってのはどうだろうな」

「深めに掘った土で、塩ビ管を固定する形ですか」

「そうそう」

 美陽は言われた通り想像してみたが、それならば確かに土台の方は割と固定できるだろうと思っていた。

「ただし、一本で立てるのはダメだな。竹は風の向きと強さでしなるから。竹竿を三本や四本で集めてしっかりと固定した状態で、灯籠をぶら下げるというならば、多少の風が吹いても大きくしなる事はないと思うけど。後は天気の悪い日は避けるしかないな」

「そうですね・・・」

 水木さんの言う話は、どれもこれもごもっともで。

 美陽は、あまりちゃんと考えてなかった事を思い知らされていた。

 確かに、竹竿一本だったら、風が吹くとしなってしまう。

 そうなると、上に吊るしてある灯籠は傾くから、紙に引火でもしたら、燃えてしまう事になって危険だろう。

「太めの塩ビ管がいるかもな。探して、美陽ちゃんちに届けてやるよ」

「えっ、取りに来ます」

 美陽は水木さんの申し出を断ったのだが、水木さんは「いいって」と言うと美陽の肩をぽんぽんと優しく叩いた。

「戻ってくるといいな、敬人君」

 優しく、労わるような目と声に。

 美陽は応えるように、微笑んで。

 その後、小さく頷いた。

「じゃ、この図面に書かれているサイズの木片を作って、塩ビ管も手に入ったら届けてやるから、家で待ってな」

「ありがとうございます」

 美陽は礼を述べながら、深く頭を下げると。

「いいっていいって」

 水木さんはそう言いながら、また加工場の方へと戻っていった。

 美陽は、優しい水木さんの背中をずっと立ち止まったまま、見つめ。

 心の中で深く『ありがとうございます』と、もう一度言葉を向けた。









 これで、とりあえず、目途がついたんだ。

 美陽は、水木さんの家を後にすると、途中、島に一つしかないスーパーに立ち寄り。

 今日の晩ご飯の材料を買っていった。

 普段、仕事をしているのと、仕事が終ると真っ直ぐ病院へ向かうので。

 スーパーに寄る事が出来ない分、美陽は日曜日に主にスーパーに買い出しに行って、一週間分をまとめて買ってきていた。

 敬人の意識が戻らない状態になってから、一人でしか食べないので。

 それだけの日数分を買っても、大した量にはならない。

 昼は、保育園で給食を食べさせてもらえるので、基本、朝と夜の分しか必要ないのだが。

 食べきれる量だけを考えつつ、カゴに野菜や魚、肉などを入れていく。

 島に一つしかないスーパーは、割と広く出来ていて、しかも二階建てなので。

 個人経営のスーパーだったが、食料品から、衣料品、生活用品、事務用品まですべて置いてくれているので、大体はここで揃えることが出来ていた。

 それでもどうしても必要な物などは、一度本州まで船で行き、買って戻ってきたりする事もある。

 本州までの船便は、日にあっても午前、午後、夜と三本しかないので、土日はいつも混雑している状況だった。

 今日も、水木さんの木材店から帰る時。

 いつも、定期船が出る港の横を歩いて通って来たが、たくさんの家族連れや、島には少ないが暮らしている二十代くらいの女性や男性、後は本州に遊びに行くのか、学生の集団がいくつか船にいるのが見え。

 船の中は、人の声で賑わっていて、歩道を歩く美陽にもその声はしっかりと届いていた。

 あの船で帰って来た時は。

 敬人はもう、何も言わない状況になってしまっていたんだよね。

 美陽は横目で、停泊している船を眺めていると。

 意識が戻らない状態の敬人と、先生と共に三人で戻って来た日の事を思い出す。

 敬人が元気だった頃は、まだ、本州に敬人と一緒にデートに出掛ける事もあったが、今は一人なので、本州に行く事はまずなくなった。

 敬人と此処へ移り住む際、一通り、すべての事を片づけてから島へと渡って来ているのもあった。

 晴れている空の下。

 青い海に浮かぶ白い船と、そこから聞こえる楽しげな賑やかな声を聞いていると。

 美陽の心は、急に火を落としたように暗くなっていくのを感じていた。

 悲しい想い出しか、今はない。

 敬人が戻って来て、もう一度元気にあの船に乗って、戻って来る日が来れば。

 私の悲しい記憶も、上書き出来るのに。

 美陽は、船から目を逸らすと。

 真っ直ぐ前を見て、歩き続ける。

 敬人が戻ってくる事をするのだから、大丈夫だ。

 美陽は、そう、心に言い聞かす。

 火が落ちてしまったような、暗く冷たく感じる心に。

 希望の火を灯す。

  大丈夫、大丈夫。

  きっと上手くいく。

 美陽は、その暗闇にとらわれないよう、意識を遠くへ向け。

 食材を買い集める為、家には真っ直ぐ帰らず、遠回りをしてスーパーにやって来たのだった。

 水木さんの木材店から、スーパーまでは、約四キロ。

 ちょうどよく、散歩には打ってつけの距離だった。

 ここから、美陽の家までは、約三キロ。

 いい運動になって、気分転換も図れるだろう。

 美陽はそんな事を思いながら、歩き慣れたスーパーの中を、カゴを片手に進んでいく。

 いつになるかわからないけれど、水木さんが家に来てくれたら、その日から、即、灯籠を作り始めよう。

 そう思いながら、卵のパックを手に取り、カゴに入れた時だった。

 美陽から十メートル程離れたところに、年配の男性と、子供の背中が見える。

 それは、間違いなく、透と透のおじいさんの姿だった。

 二人は手を繋ぎ、おじいさんは片手でカートを押しながら、いろいろな食材を眺めている。

 透は、やはり俯きがちで、おじいさんの手に引かれながら歩くものの、保育園で見ている姿と同様に、覇気を感じることはなかった。

 美陽は、保育園でもそうだが、プライベートでもこの状態なのか、と。

 その透の姿には、ただ心配な気持ちしか湧かなかった。

「・・・透、何か食べたいものはないか」

 美陽は、二人に気づかれないよう、なるべく視界に入らない場所から二人に近づいていき。

 生鮮コーナーの前で売られているパック詰めの魚を見ながら、手を繋いでいる透に話しかけているおじいさんの声が届く辺りまで近づくと。

 自分だとバレないように、二人が居る場所の後ろ側にある、生活用品が並ぶ通路へ入り、棚からぶら下がって売られている商品の裏に身を隠して、二人の様子を窺った。

「透。おじいちゃんな、ぶりを焼いて食べようと思うが、透はどうだ? 食べられるか?」

 おじいさんは、透に話しかけても。

 透は何も言わず、俯きがちにしている。

「透はハンバーグがいいかな・・・この前、良く食べていたものな・・・」

 おじいさんは、自分用なのか、ぶりのパックをひとつ手に取ると、カートの中に置いてあるカゴの中に入れ。

 そのまま、精肉コーナーへと透の手を引きながら、ゆっくりと進んでいった。

「おじいちゃんはハンバーグは作れないから、また、焼くだけのハンバーグを買うけどいいかな」

 おじいさんは、横に並んで歩く透に、都度話しかけているのだが。

 透はやはり、何も答えず、顔をおじいさんに向ける事もなかった。

 美陽は、吊るされた商品の裏から顔を出し、二人がスーパーの奥の方へと進んでいくのを眺めながら。

 なぜ、ここまで透が心を閉ざしてしまったのかが、気がかりでならなかった。

 きっと、おじいさんも、透が心を閉ざしている理由がわかるから、言葉を発するように促したり、反応を求めたりしないのだろう。

 もしかしたら、かなり昔から、この状態だったのかもしれない。

 園長が、おじいさんに確認した時には、透は特に何か障害を持ってるという事ではないとの事だった。

 以前、本州で暮らしていた時は、子供らしくて可愛いかったんだ、と。

 おじいさんは、過去を懐かしむように、園長に話していたと聞いた。

 ただ、園長がそれ以上、透についていろいろと聞こうとしても、おじいさんは口をつぐんで何も言わず。

 すみませんが、迷惑を掛けるが、よろしくお願いします、とだけ言って、頭を深く下げた、と聞いている。

 おじいさんの娘さんという人は、島で生まれて。

 高校進学と共に、本州へと渡ったらしい。

 そのまま、就職し、結婚をして、透が生まれたらしい、というのは、おじいさんの近所などの周辺からの情報で聞ける事が出来たが。

 一体、娘さんはその後、どうしているのか。

 保育園の職員も掴むことが出来ず、ただ、何を聞いても頭を下げるばかりのおじいさんに、それ以上無理に聞く事も出来ず。

 ただ、透は毎日、惰性で保育園へやって来て。

 クラスに居ても何にも反応せず、何にも参加もせず。

 食事だけ食べ、適当に一人でおもちゃで遊び、時間になるとおじいさんと一緒に帰っていく。

 ただ、それだけの毎日を過ごしていた。

 美陽は、二人の姿が行き止まりまで進み、通路を右に曲がって姿が見えなくなるところまで見送ると。

 通路から出てきて、二人が去った姿の方を見つめていた。

  どうにかしたい。

  どうにかしてあげたい。

  何とかしなくちゃ、ダメだ。

 美陽の心には、透へ向ける想いが、むずむずと湧いてくるのを感じていた。








 


 もやもやと、何かスッキリしないものを抱えたまま。

 美陽はスーパーで買った食材と共に、家に戻った。

 帰り道、三キロの道程は、当初、これから作って立てようと思っている星燈籠の事を考えれば、前向きに心も軽くなって歩けると思っていたが。

 おじいさんと透の姿が、美陽の目と心に焼き付いて離れず。

 どうにもならない思いが、美陽の心を燻ぶらせていた。

 何とかしたいと思ったものの。

 何をしていけばいいのか。

 美陽の心を燻ぶらせているのは、その思いだった。

「・・・ただいま」

 美陽は、答えの出ない思いを抱えながら、家路につき。

 玄関のドアのカギを空けると、中へと入っていく。

 返事があるわけではないけれど、いつも、ただいまと言ってしまう。

 どこかで、敬人が聞いてくれているような気がしていたのもあったからだった。

「・・・敬人」

 美陽は、スーパーの袋を抱えながら、居間に入ると。

 居間の入口すぐのローボードの上にある、敬人の写真に話しかけた。

「敬人なら、どうする? 何が出来る?」

 いつも、誰かが喜んでくれる事をしたい、と。

 それを、生きがいにしていた敬人。

 自分が生まれた理由は、きっとここにあるのだと。

 敬人は信じて、生きてきていた。

 敬人を育てた、義理の父母となったおじいさん、おばあさんは。

 とても温厚で優しい人で。

 生まれてすぐに捨てられた敬人を、施設から引き取る時、人として大切な事をたくさん教えていきたいからと。

 そう言って、敬人の親になったと敬人から聞いている。

 常に、ボランティア活動や、近所の町内会などの活動に積極的に参加し。

 敬人を引き取ってからは、敬人も一緒に連れて歩き回り、人に向ける優しさや思いやりを教えていってくれたとの事だった。

 養子縁組は、敬人だけで、敬人を見た時にこの子はうちの子として育てたいと。

 思ってくれたから、引き取ってもらえたらしい。

 それまでは、定期的に施設に来て、子供たちと遊んだり、おやつを持ってくる優しいおじいさんとおばあさんだったらしいのだが。

 敬人の姿を見て、関わる中、そう思って養子として引き取ったとの事だった。

 実の親からではなかったけれど。

 おじいさん、おばあさんから、とても大事に、愛されて育った敬人。

 敬人に聞いたら、何て言うのだろう。

 今の透君の姿を見て。

 美陽は、敬人の写真をじっと眺めていたが。

 心のもやもやのせいか、つい買い過ぎてしまって重くなっているスーパーのレジ袋を、一度キッチンのダイニングテーブルまで運ぶ事にした。

 何かしたくても思いつかないもやもやは、ついつい、いつもは控え気味にしているお菓子や甘いデザートに手を伸ばさせ。

 いつもよりかなり多めに、レジ袋の中には食料ばかりが詰まっている。

「こんなに絶対食べられないよね・・・」

 美陽はダイニングテーブルの上で、レジ袋の中身を取り出しながら確認していき、ひとつひとつ冷蔵庫にしまっていった。

 プリンとかケーキとか、大福とか、そんなのばかり買っちゃったけど、どうしよう。

 美陽は心の中でぼやきながら、生鮮食品や野菜や、卵や、買ったデザート類もすべて冷蔵庫に綺麗にしまいこむと。

 居間の壁に掛けられている、大きめの時計に目を向けた。

 午後四時。

 そろそろ、行かなくちゃ。

 美陽は、中身がなくなったレジ袋を綺麗に折り畳むと、食器棚の引き出しの中にしまいこんだ。

 敬人が待ってる。

 晩ご飯を作って、食べてから行こうかとも思ったが。

 今は、少しでも早く、敬人に会いたい。

 美陽は心の中でそう呟くと、病院へ行く為、仕度を始めた。

 








「あら、いらっしゃい」

 まるで、居酒屋の常連客にかけるようなトーンで声をかけられ。

 美陽は、本を手にしたまま、声の主の方へと振り返った。

 そこには案の定、先生が笑顔のまま壁にもたれて立っている。

 もはや、友人か、家族か、同居人のような感覚に近いかもしれない。

 美陽に向ける笑顔も言葉も、接し方も。

 患者に付き添う家族へ、という感じではない。

 心からの親しみをこめて、美陽に接しているのが、美陽にも伝わっていて。

 美陽は先生に会えるのも、毎日の楽しみになっていた。

「今日は患者さん、来ました?」

 美陽は笑顔で先生に尋ねる。

「来なかった」

「やっぱり」

 日曜日の、定例の挨拶だ。

 通常、日曜日は病院は休診日なのだが、先生は日曜日も朝から病院の中にいて。

 急患が来た時に、対応できるようにしてくれている。

 夜、夜勤の看護師が敬人を見守りに出勤し、朝、帰っていく頃に、先生と交代し。

 先生はめったに来ない急患の為に、病院に夜まで残る。

 そうして、夜勤の看護師が来ると、またバトンタッチをし、家に戻っていくのだった。

「と、言う気満々だったんだけどね」

 先生はそう言うと、クスクスと楽しそうに笑った。

いつもは「やっぱり」で終る会話が、今日は違っていたらしい。

「誰が来たんですか?」

 驚いて美陽が尋ねてみると、先生はクスクスと笑いながら答えた。

「犬」

「犬?」

 何を言われたのかわからずにいると、先生はおかしそうに笑いながら話しだした。

「春島さんのところのお子さん、今小学一年生なんだけど・・・わかるかな」

「あ、はい。わかります。活発な男の子ですよね」

「そうそう。その子が犬を連れて、泣きながらやって来たのよ」

「へぇ」

 そんな泣きながら歩くようなイメージの子じゃなかっただけに、美陽は少し意外な気持ちになっていた。

 どちらかというと、ガキ大将のように、周りの中でボスになるタイプの子だったから。

「どうしたの?って聞いたら、ハチがさっき怪我をしちゃったんだって。泣きじゃくりながら話してきて、ハチを私に差し出してきたのよ」

 美陽はそこまで聞くと、ふっと息を吐き出すように笑った。

「獣医さんじゃないんですけどね」

「何でもやってくれるから行って来い、って、春島さんのお父さんに言われたんだって」

「そんな。先生、便利屋みたいに言われてる」

「ほんとよね」

 クスクスと二人で笑っていたが、美陽は先が気になって尋ねた。

「で、そのワンちゃんの手当てはしてあげたんですか」

「もちろん。何でもやるもの」

 先生が得意げな顔でそう言うので、美陽は吹きだすと、そのまましばらく笑い続けていた。

「先生、そのうち医者じゃないものまで求められそうですね」

「そうね。そうなったら助けてくれる?」

「私で出来る範囲なら」

 いたずらっぽい顔で聞かれた美陽は、先生に笑顔で快諾した。

「心強い」

 先生はクスクスと笑いながら、美陽へと近づいてくる。

「・・・今日は何を読んでいたの?」

 美陽の両手に握られている、開かれた本を見ながら、先生は訪ねてくる。

「宇宙の真理、です」

「え?」

 美陽の言ったタイトルに、先生はきょとんとする。

 予想をしていなかった言葉だったんだろう。

「私もよくわかんないんですけど」

「それなのに読んでるの?」

 先生は吹きだすと、声に出して笑いだした。

「いや、だって、たまに敬人が読んでいたんですよ。なんか面白そうだから、って。でも、内容が難しくて、途中までしか読めてないって言ってたのを思い出したんで、今日はこれ」

「難しいって言ってたのに読んであげてるんだ」

「こうでもしないと、今後、読める機会がないかもじゃないですか。読んでても、私もさっぱりわからないんで、敬人、今頃どこかで顔をしかめてるかもしれないです」

「そうね。訳わかんないよ、って言ってるかもしれないわよ」

「じゃあ買うな、って話です」

 テンポの良いやり取りが続き、美陽と先生はそのままお互い、笑いながら話し続けていた。

 こんな風に、友達のように気さくに話せるのも、先生くらいかもしれない。

 美陽は、そんなことを思っていた。

 島に来てから、友達と呼べるような人は出来ていなかったけれど、年は十以上離れているけど、先生は美陽にとって、とても大事な人になっていた。

 敬人を助けてくれている人であり、自分もまた、安らげる人。

 美陽は、先生がとても好きだ、と、会話が楽しく弾む中、改めてそう思っていた。

「敬人君、起きないと、ほら。またずっと読まされるわよ、聞きたくない内容の本」

 クスクスと笑いながら、先生は敬人の前へと来ると。

 敬人の腕の辺りを、ポンポンと、優しく叩く。

「そうよ。起きないと、敬人。じゃないと、私、今日はこれをずっと読むからね」

「ほら、奥さん、脅してるわよ。早く起きないと」

 二人でからかうようにしながら、交互に敬人に話しかける。

 敬人はそれにも答えず、静かに眠り続けている。

「もー、しょうがないんだから」

 美陽がまた本をしっかりと開き直すと、再び読み聞かせる体勢になり。

 そんな美陽に、先生は「そうだ」と呟くと。

 先生へと顔を向けた美陽に、先生は片手をグーにして、もう片方の手のひらにポン、と、打ち付ける仕草を見せた。

「美陽さん、晩ご飯、まだ?」

「はい、今日はまだ」

「じゃあ、ちょっと一緒に食べない? ここに運んでくるから」

「いいですけど・・・何か作るんですか?これから」

 美陽が聞くと、先生は、今度は両手をパチンと小さく重ね合わせた。

「通院してるハナさんから頂いたケチャップがあってね。これが無農薬で本当に美味しかったんだよね。良かったらオムライス作るけど食べていく?」

 美陽はその誘いに、快く乗った。

「はい、ぜひ」

 笑顔で応える美陽に、先生はにっこりと微笑むと、「じゃあ」と短く言って軽く片手を上げ、そのまま病室から出て行った。

 美陽は先生が部屋から出ていくのを見送ると、また、手にしていた本を両手でしっかりと開き、敬人に話しかけ始める。

「起きないと、ずーっと読んじゃうからね。目が覚めたら、あれはキツかった、って言っても遅いから」

 美陽は、意地悪そうな顔でそう言うと。

 敬人の顔を、じっと見つめる。

 反応はしない。

 何一つしない。

 わかっていても、聞きたかった。

 たまには、意地悪な事も言ってみたかった。

 少しでも、一ミリでも、何か反応するかもしれないから。

 美陽は、静かに眠り続ける敬人を見つめていたが。

 すぐに、開いている本を、パタンと静かに閉じると。

 そのまま、本をサイドボードの上へと置いた。

「・・・やっぱりやめた。ねぇ、敬人。聞いてくれる?」

 美陽はそう言うと、敬人の額から頭までをゆっくりと撫でていく。

 愛をこめて、優しく、優しく、撫でていく。

「敬人、この前話した、透君って子がいるって言ったでしょ。あの子、入園してからもう一週間経つんだけど、やっぱり何も変わらないんだ」

 美陽は、敬人に答えを求めながら、話し続ける。

「誰とも話さないし、顔も上げない。いつもずっと部屋の隅っこで、絵本を読むか、適当なおもちゃを持っていって、一人でずっと遊んでる。遊んでるって言っても、夢中になって、とかじゃなくて、ただ一人で黙々と車のおもちゃを動かしていたりするだけ。楽しそうでも何でもないんだ」

 美陽は少し顔を上げると。

 先週一週間の、透の様子を思い浮かべていた。

「他の子たちが近寄っても、何も答えない。友達がおもちゃを差し出しても受け取らない。何もかもを塞ぐようにして、自分の中に閉じこもってしまっているんだよね」

 美陽はあの小さな体に。

 一体、どれだけの思いが詰まっているのだろうと思っていた。

 子供なのに、子供らしくない。

 すべてを閉じてしまっている状況は、傍から見ても子供らしくなく、異様な姿にも捉えられる。

 けれど、美陽は。

 そんな風にしか出来ない何かがあるとしか、思えなかった。

「敬人・・・敬人なら、どうする。透君に、何をしようとする? 何をしてあげる?」

 答えが返って来ないのは、わかってる。

 それでも、敬人に問いかけたかった。

 何か、ヒントが掴めるかもしれない。

 いつも、人の喜ぶ事を考えて動いてきた敬人を見ながら考えていたら。

 何か、良い案が浮かぶかもしれない。

 そんな淡い期待を抱きながら、美陽は敬人を撫で続けた。

 すると。

 額から降りてきた手が、敬人の顎に触れ。

 チクチクと刺すような痛みが、美陽の手に伝わる。

「・・・また髭伸びたね、敬人。剃らないとね」

 美陽は、黒くぶつぶつと伸びてきている髭を、そっと右手の指先でなぞっていった。

 チクチクと刺さるような刺激が指に伝わる。

 それを感じながら、美陽は、また。

 想いを過去へと馳せ始めた。

 この小さな痛みを、何よりの幸せだと感じていた、あの日の夜を。










「敬人」

 美陽は、その時、敬人の胸の中に包まれていたが。

 ふと、頭の上から規則正しい寝息が聞こえてきたのを感じ、顔を上げて敬人の名前を呼んでみた。

 敬人は答えず、すぅすぅと、寝息を立て、目を閉じている。

 美陽は、静かに眠り続ける敬人の頬に。

 そっと手をあててみた。

 一度既に愛し合った後、互いに裸のまま抱きしめ合い、美陽もそのまま眠りに落ちたのだが。

 なんとなく、目が覚めてしまったらしい。

 美陽は、静かに眠り続ける敬人の頬をそっと撫でていると、顎の辺りがちくちくとするのを感じていた。

 髭が少し、伸びてきているのだろう。

 その感触を手のひらで感じた時。

 美陽は、一つの記憶を思い出していた。

 それは、島に移住してきて、二日後の事。

 その日、敬人と美陽は、午後から結婚式を海辺で行っていた。

 島に一つだけ教会があり。

 そこの神父さんが見守る中、二人は海を目の前に、白い砂浜の上で永遠の愛を誓った。

 その日は、とても晴れた日で。

 青い空と白い雲は、明るい太陽の陽差しと共に、今日から家族となる二人を包み込み、どこまでも祝福してくれているように思えた。

 波も穏やかに、静かに寄せては返していき。

 優しいBGMを繰り返し奏でては、二人を祝福する。

 二人は新婦の言葉の元に、指輪を交換し。

 その場で、優しく誓いのキスを交わした。

 それ以外、誰が見守るわけではなかったけれど。

 二人は、二人がいれば、それだけで幸せだった。

 きっと、美陽の母も、父も。

 敬人を育てた、親代わりだったおじいさんも、おばあさんも。

 美陽と敬人を、天国から祝福しているだろう。

 そんな風に二人は思いながら、たった二人だけの結婚式を挙げた。

 神父さんは、敬人と美陽を心から祝福してくれ。

 敬人と美陽は、結婚式を終えると、神父さんに心から感謝の意を伝えた。

 やがて、神父さんが海辺から去った後も。

 二人は砂浜に腰をおろし、ずっと寄せ返す波と、広がる青空を、降り注ぐ太陽の光の下で眺め続けていた。

 いつまでもこの島で愛を育み、家族を増やしていきながら、永遠にずっと、ここで暮らしていこうと。

 改めて、二人で約束を交わしたのだった。

 そのまま、ずっと二人は砂浜で並んで座り。

 やがて、夕暮れが押し寄せていく中。

 二人は海を後にすると、帰る途中にあるレストランを経営している店で、晩ご飯を済ませ。

 そのまま、二人を待つ家へと帰宅していった。

 敬人の念願だった、一軒家。

 古めかしくも、風情と愛情は溢れんばかりある一軒家に。

 二人は帰宅すると、そのまま自然に抱きしめ合った。

 このぬくもりと存在があれば。

 どんな事も超えていけるし、どこまでもやっていける。

 美陽は敬人を抱きしめ、抱きしめられながら、強くそう思っていた。

「敬人さえいれば、何もいらない」

 美陽が、想いが溢れるまま、そう呟くと。

 敬人は、美陽を一気に横抱きに抱え上げ、そのまま寝室へと運んでいった。

 寝室には、布団が敷かれてなくて。

 運んだはいいけれど、畳に寝かせるわけにもいかず、二人は笑いながら布団を敷く事にした。

「ベッドだったら良かったのにね」

 ちょっと照れくさそうに言う敬人が、美陽にはただ可愛くて、愛おしいだけだった。

 二人で協力して布団を敷き終わると、美陽は、「これが初めての夫婦の共同作業じゃない?」と言って、敬人を笑わせ。

 美陽はそのまま、敬人の体に勢いよく抱きついていった。

 敬人は笑いながら、美陽を再度抱え上げると、優しく布団の上に寝かせ。

 美陽は両手で、敬人の頬を包み込みながら、真っ直ぐ見詰めてくる敬人の目を見つめ返していた。

 少し、手のひらがチクチクする。

 敬人の伸びてきた髭が、手のひらに当たっているのを感じていた。

 やがて、敬人の唇が、美陽の唇に降りてきて。

 二人は互いを愛しく抱きしめ合いながら、深くキスを交わし続けた。

 敬人の顔が、美陽の首の根元に埋められ。

 美陽は顔を少し持ち上げる。

 敬人の体の向こうには、クッキリと黄色く染まる月が浮かんでいた。

 島は、下界から、星や月の光を防ぐ程の、イルミネーションのような強い光がない分。

 空からの無数の光を確認する事が出来る環境だった。

 その夜の月は、とても綺麗な大きな満月で。

 黄色というよりも、オレンジに近い光を放っていた。

 優しい、ぬくもりのような温度を感じるような色。

 敬人と、暖かな光に包まれながら、そっと目を閉じていった。

 あれから、一ヵ月。

 その日と同じように、手のひらで敬人の髭の感触を感じつつ。

 美陽は、結婚式をした日の幸せな気持ちを、今も変わらず感じていた。

 美陽は、頬から手を離すと、少し、ひげが生えかけてきている顎に。

 自分の唇を、そっと近づけていった。

 唇が顎に触れると、チクチクする感触が訪れて。

 けれど、それは刺すような痛みではなく。

 ここに間違いなく、敬人が生きていて、存在している。

 小さな感触は、敬人の命の在処を教えてくれていると感じていた。

 人は、不思議なものだ。

 これ以上ない、という存在に出逢えると。

 こんな気持ちになるのか。

 目の前にある、いてくれる存在が、命が。

 例えようもない宝物のように思える。

 この存在は、自分の中で大切な宝物で。

 どれだけ時間を経ても、その価値は何も変わらず。

 いつも光り輝いている。

 そんな風に思える。

 その光は、命そのもので。

 ただ、その命が在る事に感謝しか浮かばない。

 その有難さを伝える為に。

 その存在に敬意を払いながら。

 美陽は、そっと。

 優しく、敬人の顎に唇を寄せ続ける。

 こんな風に、自分が。

 自分以外の誰かの存在を、心から尊く、いとおしむことが出来るなんて。

 思いもしなかった。

 やがて、その感触が美陽の唇から離れると。

 いつの間にか、目を覚ましていた敬人が、美陽の額に唇をあててきた。

 美陽が目を閉じると、そのまま敬人の唇は、美陽の唇を包み込むように重ねられ。

 二人はそのまま抱きしめ合いながら、深く唇を重ね合った。

 お互いを、かけがえのない存在だと伝えあう為に。

 唇を動かすたびに洩れる、息のひと粒さえも逃がさないほどの密の空間で。

 そのまま、二人はまた互いの肌に触れあい、想いを交わし合い、確かめ合った。

 女性に生まれて良かった、と。

 初めて思えた、思わせてくれた人、存在。

 これ以上の宝物は、何一つなかった。


 

 

 






 ふっと。

 美陽は、遠のいていた意識が戻ってくるのを感じていた。

 何か、美味しそうな匂いが漂っている。

 美陽はハッキリと意識が戻って来たのを確認すると、匂いにつられるかのように辺りをきょろきょろと見回してみた。

 先生が作ると言っていた、オムライスが出来たのかもしれない。

「美陽さーん」

 開いているドアから、先生が二つのお皿を持った状態でやって来た。

 美陽は慌てて椅子から立ち上がると、先生の側へと駆け寄り、一つの皿を受け取る。

「ありがとう」

 先生は美陽に微笑むと、自分のお皿をしっかりと両手で持ち直した。

 美陽の手元には、先生が作ってくれたオムライスがある。

 とろとろの半熟卵に、ケチャップで文字が書かれていた。

「敬人さんが戻ってきますように」

 美陽は半熟玉子の上に器用に書かれた文字を、そのまま音読する。

「良く読めたわね」

 先生はわざとふざけたようにそう言うと、丸椅子を病室の奥から運んできて、適当な場所に置くと、腰を下ろした。

 美陽は、今まで敬人の前で座っていたパイプ椅子を譲ろうしたが、先生は「いらない、いらない」と言って手を顔の前で横に振る。

「先生、ありがとうございます」

 美陽がパイプ椅子に腰をおろして、オムライスが入ったお皿を太ももの上に置くと。

 先生はニッコリと微笑んで、首を横に振った。

「もらったケチャップの美味しさを共有したかっただけだから。気にしないで」

「はい」

 先生の優しさに、素直に美陽は微笑むと、改めてオムライスの上に書かれた文字を見る。

 『敬人さんが戻ってきますように』

 先生は、私を元気づけようとしてくれたのかもしれない。

「いただきまーす」

 横から声がするので顔を向けると、先生は既に皿に入れていた大きめのスプーンでオムライスを掬って、口に運んでいるところだった。

「これ・・・敬人にも食べさせてあげたいな」

 美陽はそう言うと、敬人に「見える?」と言って、オムライスが入った皿を、崩れない程度に傾けて、敬人の目の前に見せてあげた。

「そうね。早く起きてもらわないと。腕が鈍るし、無添加ケチャップが無くなるって言っといて」

 その言葉に、美陽はまた声に出して笑ってしまった。

「そうですね、伝えます」

 笑いながら先生を見ると、先生は、ちらりと美陽を見て、ふざけた表情をしたままでオムライスをまた口の中へと運んで行った。

「敬人・・・オムライスだよ。覚えてる?」

 美陽は、そのオムライスを食べようと思ったものの。

 オムライスを眺めていると、敬人との思い出が、また蘇ってくるのを感じていた。

 敬人が作ったオムライス。

 お母さん、本当に美味しそうに食べていたっけ。

 懐かしい想い出が、美陽の脳裏をよぎる。

「・・・席、離れようか?」

 先生は、食べながら、美陽に問いかけ来た。

 美陽はハッとすると、先生を見て、首を横に振った。

「大丈夫です。さっきゆりかご乗ってたんで」

 『ゆりかご』

 その言い方で通じるのは、たぶん先生だけだろう。

 先生は、美陽がいつも、この『ゆりかご』に乗る事は理解している。

 それが、どんな理由で乗っているのかも、わかってくれていた。

「そう。ならいいけど。邪魔なら出ていくから大丈夫よ」

「いえ。先生にいてもらえたら、敬人も心強いです」

 美陽が笑顔でそう言うと、先生は嬉しそうに微笑んだ。

「そうね。そう言い続けてもらえるように、頑張るわ」

 先生は、力強くそう答え、またオムライスをスプーンですくうと、男らしい感じで口に運ぶ。

 先生のオムライスは、食べる一口が大きいのか、あっという間に四分の一程度しか残っていなかった。

 美陽は先生の言葉が、とても嬉しく。

 敬人はきっと、絶対に戻ってくる、と、確信に近い気持ちが湧いてきて。

 それは、美陽の心をとてつもなく癒していった。

「先生と一緒に居ると、元気をもらえますね」

 美陽はそう言うと、なるべく字を壊さないように、区切りのいいところにそっとスプーンを差し込むと、卵とご飯を掬って口に入れた。

「美味しい!」

 とても美味しいケチャップに、美陽は思わず目を見開いたまま、歓喜の声を上げた。

 先生は嬉しそうに、ニヤッとする。

「でしょう。すごいでしょ。ハナさんにまたもらえそうならもらっとこ」

「いいな・・・」

 素直に呟く美陽に、先生は苦笑した。

「ちゃんと美陽さんの分も聞くから大丈夫」

「はい。ありがとうございます」

 ちゃっかりとお願いに成功した美陽は、次の一口も言葉の区切りの良さそうな所でしっかりとスプーンで掬って口に運び。

 もぐもぐと、美味しさを堪能しながら噛み締める。

 そうしていると、また、敬人との思い出が蘇って来ていたが。

 今は、ゆりかごに乗るのをやめようと、美陽は敢えてそこには思考を運ばなかった。

「食べたら、帰ろうか」

「はい」

 もうすぐ、八時だ。

 夜勤の看護師さんがやってくる。

 美陽は既に食べ終えそうな先生に頷き返すと、残っているオムライスをせっせと口の中へと運んで行った。

 










 美陽は、八時半ごろ。

 夜勤の看護師と交代した先生の車に乗せられて、家路へと向かっていた。

「先生」

「なに?」

 先生は、前を見たまま運転を続け。

 美陽はそんな先生に、助手席から体を先生の方へと向けると、声を掛ける。

 お願いをするつもりだった。

「先生、いつも、本当に良くしてくれて、本当にありがとうございます」

 美陽が急に礼を言って、頭を下げたので、先生はチラリとだけ美陽に目線を寄越すと、「何言ってるの」と言って笑いだした。

「礼なんか必要ないでしょ。私は好きで二人を見てるんだから」

 その言葉に、美陽の頬は緩んだ。

「はい・・・ありがとうございます」

「いいってことよ」

 楽しげな言い方で、先生は美陽に返してくる。

「先生、あの、私」

「ん? なに?」

「星灯籠・・・文献、貸してくれてありがとうございます。おかげでこういうのを作りたいって言うのも決めて、材料も集められる事になったんですよね」

「ほんと? すごいわね。星灯籠、やってみるんだ」

「はい。本来の意味合いとはちょっと違いますけど・・・でも、敬人が迷わずに戻って来れるような目印と思いながら、作っていきたいなって」

「いいじゃない。それ、ぜひやって。私も病院から見るの楽しみにしてるから」

「はい」

 美陽は返事をすると、先生を真剣に見つめる。

 先生は、急に真剣な顔で見つめてきた美陽の意図が掴めず、視界の端でチラリと美陽の雰囲気を読み取った後、「どうしたの?」と尋ねてきた。

「私の家に、星灯籠をいくつも並べていくんですが、もし良かったら、病院の敷地にも、星灯籠を設置してもいいですか?」

「え、病院の敷地に?」

 驚いた声に、美陽は一瞬、ダメかな、と心がひるんだのを感じていた。

「木材店の水木さんと話していたんですが、塩ビ管を地面に深く刺しこんで、そこに竹竿を何本か重ねて巻いて強化したものを刺しこんで、作った星灯籠を吊るすつもりでいるんですが・・・病院の前の敷地の一部にも、星灯籠を作って立たせてもらえないかなって、思って。敬人の体はこっちだよって。うちの家から病院へと明かりを辿れるようにしたいんです」

 美陽のお願いを、先生は黙って聞いていたが。

 やがて、しばらく考えたのち、先生は口元を緩めて、「いいわよ」と言葉を返してきた。

「ほんとですか!」

「ただし、事故や怪我に繋がるような事にはならないように気をつけてくれるなら、だけど」

「はい、大丈夫です」

 美陽はそう言うと、真剣な顔のままで、頷いて見せ。

 先生は、それをまた視界の端で確認すると、小さく微笑んで美陽に返した。

「昔、作ってみようかと思った事があったけど・・・本当に作る美陽さんはすごいわ」

 感心したように隣で先生が呟く。

「作ってみようと思ったんですか?」

「そう。失いたくない患者さんがいてね。作ってあげたら、留まってくれるんじゃないかって思った事があるのよ。その人、今の敬人さんみたいに意識がない状態だったのよね。星灯籠の絵をなんとなく見ていた時、これを掲げたら、もしかしたら、戻って来てくれたりして、なんて思ってたのだけど。灯籠を掲げる、本来の意味とは違うのにね、なぜか私も美陽さんのように戻って来てくれるんじゃないか、って、その時は思えたのよ」

「その人は・・・」

「その人はね、敬人さんと違って、他の内臓の状態も良くなかったから・・・そのまま、ね」

 先生は、美陽を気遣うかのように、語尾を濁した。

「敬人さんは、私も何があっても助けたいから。その星灯籠、私の願いも書かせてもらおうかな。私も作り方教えて」

「はい・・・!」

 先生の言葉に、美陽は顔を輝かせ。

 感謝でいっぱいの気持ちで、先生を見つめていた。

 先生は前を見たまま、また微笑んで。

 片手だけハンドルから外すと、美陽の二の腕辺りをポンポンと優しく叩いた。

「一緒に頑張ろう」

「はい!」

 美陽は、二の腕を優しく叩いてくれた先生の手を、ぎゅっと両手で握りしめると。

 感謝の気持ちをこめて、自分の胸の方へとそのまま押し当てた。

「ちょっ、と!惚れるからやめて!」

 困ったように言ってくる先生の言葉に、美陽は吹きだすように笑い始め。

 先生も一緒になって笑い始めた。

 車は、徐々に美陽の家へと近づいていく。

 滑らかに走っていくその姿は、これからの先を暗示しているかのように、美陽には思えてきて。

 どれだけ、『いつ』という保障や、『必ず』といった宛てがなくても、気持ちは暖かな希望で満ちていた。

 美陽は、それがとても嬉しく、幸せに思えていた。

 










五.四十五日目


 透は。

 入園してから、二週間が経った。

 透は、それまでの間、相変わらず俯きがちで、黙り続けている。

 その顔はもう、二度と上がる事がないのではないか、と思うほどで。

 保育士たちはみな、何とかできないかと、透を心配し続けていた。

 たとえば、透を抱き寄せて、意思疎通を図ろうとしても。

 透は、抱こうとする腕をすり抜け、時には両腕を前に出し、保育士の体を突っぱねて拒否をする。

 一度、元気な中堅の先生が、「よっしゃー」と明るく声をかけながら、一気に透を抱き上げた事があったが。

 透は、パニックを起こしたかのように顔をひきつらせ、抱き上げた先生の体を蹴り、両腕を振りまわせるだけ振りまわして暴れ、よろめいた先生の腕から解放されると、地面に転がるように落ち。

 心配した保育士たちが駆け寄ると、逃げるように体を起こして、園庭の柵の方まで一気に逃げていってしまった。

 柵から外には出なかったのでホッとしたが、透は、一切、必要以上に触れることを許さず、会話も拒否し続け。

保育士たちは心配しながらも、お手上げ状態のままで、時を過ごすしかなかった。

 透がいつか、何かで心を開いてくれないかと、時間を見ては、毎日のように小さな会議を開いて、何か興味が湧くものがないか、など、話し合いを続けていた。

 毎日話し合い、これならどうだ、あれならどうだ、といろいろ案を考え、楽しめるように、興味を引けるように、と子供たちの前で様々な声掛けや、気を引けるようにと、みんなでお菓子作りをしてみたり、子供たちが参加して作り上げていける制作を展開していっても。

 透の心には、何も響かず。

 どれだけ声を掛けて、誘っても、動かず。

 ただ、部屋の隅にいるだけだった。

 毎日、部屋の隅で、絵本を開くか、おもちゃを適当に動かすだけ。

 食事の時間だけは皆と同じテーブルに座るが、食べ終わると、すぐに離れ、部屋の隅へとまた向かって行く。

 そんな中。

 美陽は、園長と職員にお願いをしていった。

 自分を一人、透の専属にさせてもらえないか、と。

 毎日、たくさんの子を見なくてはいけないのは重々承知だったが、美陽は敢えて、職員にお願いをした。

 朝から帰るまで、ずっと、透と二人で過ごさせて欲しい、と。

 美陽の言葉に、職員たちの意見は分かれ、賛同を得られない方の意見の方が多かったが。

 園長はじっと考えたのち、美陽にそれでいいと許可を出してきた。

 もし、それで透の心が開いて、集団に参加できるようになれば、透もおじいさんも救われていくだろう、と。

 園長はそう職員全員に呼び掛け、美陽の意見を尊重するように伝えた。

 一部の職員は、少し不満げな声を上げた事もあったが、園長が言うならと、最終的にはみんな賛同してくれ。

 美陽は深々と頭を下げ、「よろしくお願いします」と職員全員に礼を述べた。

 これが、吉と出るかどうかは、わからない。

 けれど、やってみないとわからない。

 美陽は、透としっかり向き合う事に決めた。

 そうして。

 入園してから、十四日目の今日。

 美陽は、おじいさんと手を繋がれて保育園にやって来た透を、玄関で笑顔で出迎えた。

「おはよう、透君」

 透は相変わらず、何も言わず、俯いている。

「おはようございます」

「おはようございます。今日も頼みます」

 美陽は透の前にしゃがみこみ、透に挨拶をした後、立ちあがっておじいさんに笑顔で挨拶をした。

 透のおじいさんは気遣うような笑顔を美陽に向け、挨拶を返してくれる。

「今日はちょっと、忙しくて。本州まで行かなくちゃならないんですよ」

「じゃあ、このままお預かりしますね」

 美陽は、おじいさんが肩に掛けていた透の荷物が入った布製のカバンを、おじいさんの手から受け取った。

「じゃあな、透。じいちゃん、行ってくるからな」

 おじいさんは、隣に立っている透の頭を撫でながら声を掛けると、美陽に一礼をし、そのまま玄関から出て行った。

「透君、お部屋に入ろうね」

 美陽はそう、透に声を掛ける。

 そのまま静かに立って、透が動くのを待った。

 こちらから、必要以上の接触はしない。

 それでも傍にいつもいるよ、ということを伝えていくつもりだった。

 透はしばらく黙って立っていたが、やがて靴を脱ぎ、下駄箱の中に靴を運んで行くと、そのまま廊下を黙々と歩き始めた。

 美陽はその少し後ろを静かについて行き、透が部屋に入っていくのを見て、自分も中へと入っていく。

「透君、おはよう!」

 何人かの保育士が透に笑顔で声を掛けるが、透は無言で部屋の左奥へと進み。

 ペタリ、と床に直接座りだす。

 そこは、いつもの透の定位置だった。

 きっとここが安心するんだろう。

 美陽は、そこへ座ったのを見ると、おじいさんから預かった衣類などの荷物を、透専用の箱の中にしまい、透の隣へと移動する。

「透君、おもちゃいくつか出すから。好きなのを持っていっていいからね」

 美陽は、透の横にしゃがんで、そう声を掛けると、また立ちあがり、部屋の押し入れを開いて、おもちゃが入っている箱を四箱、順番に出すと、部屋の中央へと置いていった。

 遊んでいた子供たちが、新しいおもちゃの方へワッと集まりだし、好きな物や興味のあるものを掴んで持って行き、その場で遊び始める。

 子供同士で声を掛け合いながら、ごっこ遊びをしている子たちもいれば、一人、集中して車が走れるような通路を積み木で作り、おもちゃの車を走らせるような、工夫して遊んでいる子もいる。

 美陽は、わざと中央に出したおもちゃの辺りに、一度腰を下ろした。

 しばらくすると、透君は立ち上がり、ゆっくりと部屋の中央に置いたおもちゃ箱の前へ来ると。

 自分が好みそうな、おもちゃを探し始めた。

 美陽は、透は割と車のおもちゃが好きな事に気づいていたので、なるべく車のおもちゃや、車を使って遊べそうなおもちゃが入っている箱を中心に選び、床に並べていたのだった。

 透は案の定、箱の中から車を三つ取りだすと、そのまま部屋の隅へと運んで行き。

 腰を下ろすと、床に車を走らせながら、遊び始めた。

 両手に車を掴んで、互いを交差するような状態で床に車を走らせている。

 もう一つの車は、車のお尻を壁に向けておいているところを見ると、そこは駐車場のようなイメージなのかもしれない。

 美陽は遊びだした姿を確認すると、そこから立ちあがり、車を二つ掴んだまま、透の側へと歩いていった。

 透は、美陽が近づいてくると、一度車を動かすのを止める。

 美陽は気にせず、透から三十センチ程離れた場所に腰を下ろすと、そのまま美陽も車を床に走らせて遊び始めた。

 美陽はしばらく、そうしながら、静かに車を床に走らせ続ける。

 動きを止めていた透も、美陽が特に何もしてこないとわかると、また車を床に走らせ始めた。

 しばらく二人で横並びに、車を動かしながら、それぞれ遊んでいたが。

「さー、みんなお片付けの時間ですよ! 今日はひのまる公園まで散歩しに行くからねー」

 と、保育士が立ちあがって全体に声をかけ。

 子供たちは、「ハーイ」と言って、もう一人の保育士が用意したおもちゃ箱の中におもちゃをしまい始める。

「美陽先生、今日、ひのまる公園に行くの?」

 三歳の女の子が、美陽の側へとやって来て、可愛く小首を傾げて尋ねてくる。

「そうよ。今日はみんなでひのまる公園に行くの」

「やったぁ」

 にまっと一気に顔を崩して笑う女の子の笑顔は、とても可愛く。

 笑う事で持ちあがった、もちもちしてそうな頬が、幸せだと言わんばかりに膨らんでいた。

「お片付けしたら、甲斐先生のところに集まるんだよ。そのままみんなで出かけるからね」

「うん!」

 女の子は嬉しそうに返事をすると、持っていた熊のぬいぐるみを片手に、おもちゃ箱の方へと走っていった。

 美陽はその姿を見届けると、隣でまだ車を動かし続けている透に声を掛ける。

「透君、今日はお散歩なんだ。ひのまる公園には、ブランコもあるし、滑り台もあるし、とても大きな公園なんだけど、鳥もいっぱい飛んでくるし、お散歩中の犬にも会えるよ。そろそろお出かけの仕度、しようか」

 美陽はそう声を掛けると、透の反応を待った。

 透は無反応のまま、車を動かし続けている。

 部屋の中央では、十五名の三歳から六歳までの子供たちが集まり、保育士二人が子供たちに散歩に行く時の注意点などを話しているところだった。

 一人の保育士が、美陽に目を向け、どうする?というような顔をしてきた為。

 美陽は少し微笑むと、「残ります」と答えた。

 美陽を見た保育士は、微笑んで頷くと、声を掛けている保育士に目配せをし、話を続けている保育士もまた、頷いて返した。

「じゃあ、みんなで行くよー! 今お話ししたみたいに、ちゃんと二人ずつ手を繋いで歩く事。お兄ちゃん、お姉ちゃんは、小さい子の手を移動中は絶対に離さない。わかった?」

 声を掛けた保育士に従い、子供たちは「はーい」と声を上げる。

「じゃあ、美陽先生、よろしく」

 保育士二人は、美陽を振り返ると、声をかけ。

 美陽は笑顔で、コクリと深く頷いた。

 子供たちは先導する保育士と共に部屋を出て行き、美陽と透は二人で残った。

 透は、ずっと車を動かし続けている。

 美陽は、その透の姿を見ながら、どうしていこうか考え。

 一度、事務室へと戻ると、麦茶が入ったボトルを取り出し、それを事務室で保管していた小さめの水筒に入れる。

 職員のお菓子が入っている引き出しから、おせんべいやおかきやクッキーなどをいくつか取りだすとレジ袋に入れ、美陽は水筒と一緒に部屋へと運ぼうとした。

「美陽先生、頼むわね」

 美陽が事務室から出ようとすると、背後から園長が優しく声を掛けてくる。

 美陽は「はい」と笑顔で応えると、事務室を出て、部屋へとまた戻っていった。

 透は、ずっと車を床で動かし続けている。

 駐車場のような場所に止められていた車は、今度は少し離れた場所に置かれていて、一台は手元で動かされ、もう一台は駐車場のような場所に入れようとしているような動きが見えた。

「・・・これ、ドライブに行ったのかな」

 美陽は、透の前へとしゃがんで、持ってきた水筒と、お菓子が入った袋を床に置くと、先ほど、駐車場に止まっていた方の車を指差して、透に話しかけた。

 透は無言で、何も言わない。

「こっちは忙しいのね、お仕事中かな」

 美陽は、せわしなく動かしている方の車を指差し、尋ねる。

 案の定、透は無言だったが、美陽は優しく声を掛け続ける。

「透君の車の世界は、賑やかで楽しそうね」

 そう声を掛けると、美陽は床に置いた水筒と、お菓子の袋を掴み、太ももの上へと乗せる。

「透君、その車と一緒に、先生とすぐそこのお庭に出ない? 車がドライブするには打ってつけの良い天気だし。お茶とお菓子も用意したのよ」

 美陽はそう言うと、お茶の入った水筒と、お菓子を、透の目の前で軽く振った。

 すると、透は一度手を止め、表情がわかるほどではなかったが、顔を少し美陽の方へと向けてくる。

「もうお部屋には誰もいないし、先生と二人だけだから、好きなことしていいよ。先生も退屈だから、透君と一緒に外でお茶飲んで、お菓子食べたいんだけど、いいかな?」

 美陽が『好きにしていい』というのを強調して伝え、自由な感触を与えようとすると。

 透は、手を止めたまま、しばらく考えている様子だった。

「先生、先に行ってるね。そこのベンチに座って、お茶とお菓子もそこに置くし。先生、ベンチでぼーっとしてるけど、透君、出たくなったらいつでもお部屋からお庭に出てきて、好きに遊んでいいからね」

 美陽は、動きを止め、黙っている透にそう声を掛けると。

 立ち上がって、庭に繋がる大きな窓の鍵を開け、ガラガラと横へ開いていった。

 柔らかく暖かな風が、美陽の頬を通り抜けていく。

 部屋の中にも、その風は駆け抜けて、透の柔らかな短い髪を揺らしていった。

「じゃあ、先に行ってるね」

 美陽は、透の背中に声を掛けると、窓の下に置いてある職員用のスリッパに足を通し、ちょうど部屋の斜め向かいにある木のベンチに向かって歩き出した。

 園庭にある、白木のベンチはとても立派で。

 これも、木材店の水木さんが、保育園の為と、子供たちの成長の為と言って、無償で作って提供してくれたものだった。

 美陽はそのベンチの上に、水筒とお菓子の入った袋を置くと、

 そこに座って、降り注ぐ太陽の光の方へと顔を上げた。

 空は、とても澄んだ青空だ。

 雲が綿菓子のように浮かんで、柔らかな風に押されて、ゆっくりと移動している。

 ・・・気持ちがいい。

 美陽は、ベンチに腰を下ろしたまま、両足を上げ、両手を横へと伸ばして、うーんと伸びをした。

 そうすると、降り注ぐ陽の光のエネルギーを、心地よく吸収できそうな、そんな気がしていた。

 ポカポカと暖かな気温と柔らかな風の気持ち良さに、美陽が思わず目を閉じて、外の空間を全身で味わっていると。

 カサ、という小さな音が聞こえてきた。

 目を開き、開いた手と上げていた足を下ろして、前を見ると。

 透君が、玄関から持ってきた靴を窓の下に置いて、足を中へと入れているところだった。

 片手側には、さっきまで遊んでいた車を、胸と手で抱え込むようにして、二つ持っている。

 美陽は、部屋から出てきてくれた透の姿がとても嬉しく。

 ほんの少しだけど、気持ちが通じたような気がしていた。

 透は、履いた靴を、一度両足とも地面へとんとんと爪先を打ち付け、しっかり足を靴の中に入れて履き終わると。

 車を大事に抱えながら、美陽が座っているベンチの方へとやって来た。

 美陽は敢えて何も言わず、笑顔で透を迎えると、美陽の隣に置いてあったお菓子の袋を開き。

 透は、ベンチの前に来ると、そのまま立ちつくしていたが。

「・・・どれがいいかな。ちょっとここに腰を下ろして中を見てくれる?」

 美陽がお菓子の袋を覗き込んでから、顔を上げ。

 立ちつくしている透に話しかけて、お菓子の袋の横に座るように促すと。

 透は黙ってはいたものの、静かに動き、お菓子の袋がある隣に腰を下ろした。

 美陽は嬉しくて、お菓子の袋の横に座った透に、そのまま袋の口を大きく開いた状態で透の方へと見せてあげた。

「透君、どれがいい? どんなのが好きかな」

 美陽は、そう聞くと、隣に座っていた透はお菓子の袋へと顔を向け、袋の中を覗き込む。

「好きなの、取ってっていいよ」

 美陽が優しく声を掛けると、透は袋の中に手を入れ、ガサガサと探すようにしてお菓子をかき回しながら、ひとつずつ掴んで、どんなものかを確認している。

 一生懸命、好きなお菓子を探すのに夢中になっている子供らしい姿は、美陽から見ていて、微笑ましく。

 可愛くて、頭を撫でてあげたい気持ちになったが、ぐっと堪えて、透がお菓子を選び終わるのを待った。

 やがて、透はひとつのチョコレートを袋から取り出すと。

 俯きがちではあったが、掴んだ手を宙に浮かせたまま、美陽を見た。

「欲しいのあったんだ。良かったね。でも、それだけでいいの?」

 美陽が聞くと、透は黙ったまま、固まっている。

「まだ、好きなのとか食べたいの、取っていいのよ」

 美陽が優しく声を掛けると、透はチョコレートを反対の手にのせると、また袋の中をガサガサと探り始め。

 美陽はそんな姿に、ふっと息を吐くように小さく微笑んだ。

  可愛い。

  とても。

 美陽は、ほんの少しかもしれなくても、透と、意思疎通が出来た喜びに、明るい兆しを感じ始め。

 心が自然に湧き立つのを感じていた。

 このまま、少しずつ、少しずつ。

 心を通わせていけたら。

 美陽は、一生懸命に探して、次にチョコチップクッキーを見つけて袋から取り出し、またクッキーを掴んだまま、美陽の方を見て黙っている透に。

 コクリと大きく頷いて、「食べていいよ」と声を掛けた。

 透はそれを聞くと、クッキーが入った小袋を手で開けて、クッキーを指で掴むと口に運び始める。

 サクッと、透の口からクッキーが心地よい音を立てる。

 ・・・チョコレートが好きなのかもしれない。

 美陽はそう思いながら、水筒の蓋を開けると、コップになる蓋に、中の麦茶を注ぎ込んだ。

「喉詰まるから、お茶もどうぞ」

 美陽はそう言うと、透の横に麦茶が入ったコップを置いてあげた。

 透は、クッキーを食べながら、自分の横に置かれたコップを眺めている。

 美陽は一度立ち上がると、部屋の中へと戻っていった。

 そして、透が運びきれずにいた、もう一台の車を手に、外へとまた出てくると、白木のベンチの前にしゃがんだ。

「この車、ドライブから帰りたいって言ってるように聞こえたんだ。この辺、駐車場かな?」

 美陽はそう言いながら、手にしていた車を地面に置くと、少しそのまま走らせて、透の体の前方辺りに横づけで止めてみる。

 美陽は顔を上げて、ベンチに座っている透を見ると、透は黙って、その車を眺めていた。

 返事は返ってこなかったが、美陽はそこへ車を置くと、また立ちあがってベンチへと戻る。

 美陽がベンチへ腰をおろし、また空を眺めながら、ぶらぶらと足を動かしていると。

 チョコレートの小袋を開けて、口の中に一気に入れた透が、口を動かしながら地面へと降り。

 ベンチに置いてあった二台の車を抱えるようにして、美陽が車を置いた付近でしゃがむと、二台の車を地面の上に走らせ始めた。

 美陽は、その姿を一度顔を下げて確認し、柔らかく微笑むと。

 また、ベンチの背もたれに寄り掛かるようにして背中をつけ、空を見上げる。

 青い空は、どこまでも平等に。

 澄んだ透明感のある色で包み込む。

  とても綺麗だ。

  とても。

 美陽は、空を眺めながら、心で呟く。

  この空を、敬人も。

  今どこかで、眺めているだろうか。

 ずっと空を眺めていると。

 あの日の空が思い出される。

 結婚式を終えた日の、海の前で見た空を。

 どこまでも幸せと希望しか感じなかった、あの日の空を。

 美陽の足もとで、透が、車を地面に走らせている。

 それは、いつのまにかどんどんと範囲を広げ、園庭の範囲内を思うように車を走らせながら動いていくようになり。

 ふと、美陽が視線を園庭へと戻すと、いつの枚か、透の姿は園庭の端の方までしゃがんだ状態で進んでいって。

 美陽が持ってきた、駐車場に止めた設定の車も、今、透が走らせている辺りにある、もう一台の白木のベンチの上に止まっていて。

 そこが駐車場になっているらしく、透はある程度車を走らせては、ベンチの上にある車と走らせている車を交換し、またしゃがんだ状態で車を思うように走らせ続ける。

 それはとても自由で、伸び伸びと遊んでいる姿で。

 美陽は、その姿をとても嬉しく感じ、笑顔で透の遊んでいる姿を見守った。

 二人っきりの状態で、透につかせてほしい、と。

 思ったのは、敬人の今までの姿を思い出している中、自然に思った事だった。

 自分も、何もかもがいっぱいで苦しくてしょうがなかった時。

 敬人に自然に寄り添ってもらい、生活面や気持ちの面でたくさん助けてもらう中。

 敬人に心を開いていき、敬人と愛し合うようになっていった。

 病室で、敬人を撫でながら、いつも、敬人との優しい記憶の揺りかごに揺られると。

 優しく、穏やかで、暖かな敬人しか思い出せない。

 それは、いつも普段から、敬人がそういう人だったというのもある。

 だから、みんな、敬人に関わっていく人は、敬人を信頼して、敬人を愛していった。

 その姿を思い返せば、思い返すほど。

 敬人が、自分と過ごした時間の中を思い返すほど。

 敬人がいつも、自分の隣で寄り添ってくれていた事しか思い出せなかった。

 いつも隣に居てくれた。

 たとえ会えないような時間が多少あっても、心はどんな時も、傍に居るのだと教えてくれていた人だった。

 人は、孤独を感じれば感じるほど、心が固くなり、何もかも塞いでしまうのかもしれない。

 あの日、車が流れる車道に、ふらりと体が傾き始めたのも。

 自分が、厳しい状況の中、荒んでいく体と心が悲鳴を上げ、すべてを抱え込みすぎていたせいだったと思う。

 でも、そんな時。

 隣に来てくれたのは、敬人だった。

 それは、無理矢理でもなく、そっと寄り添うように現れて。

 ひと時ではなく、ずっとそのまま寄り添ってくれた。

 美陽は、園庭内で、体を自由に動かしていく透の姿を見ながら、心に決めていた。

 透君の中で、敬人のような存在になろう、と。

 敬人がしてくれたような事を、透君にしていこう、と。

 今、どれだけ敬人に尋ねても。

 何も返事は返ってこない。

 でも、言葉では何一つ語られなくても、敬人は行動で、今まで私にずっと教えてくれていた。

 何をする事が誰かの為になり、力になるのか、という事を。

 チラチラと陽の光が、園庭内を取り囲む風に揺られる木の葉の動きで、透の背中に光を落とす。

 それは、美陽には、希望の光が少しずつ、透を照らし始めているように見えていた。

 その小さな背中を、守りたい、救いたい。

 その小さな心を覆う、暗闇から引き上げたい。

 美陽は透を見守りながら、その背中に降り注いでいく光に誓った。

 この子を必ず、心を閉じ込める事になった出来事や思いから救いだすんだ、と。

 強く、誓った。










 美陽はその後も。

 透の横に、そっとついて。

 保育園での一日のすべてを、透の横で過ごすようにしていった。

 食事の時も、隣について、特別な声がけはしないが、一緒に食べ。

 お昼寝の時も、透の横に寝転がって、眠ったふりをする。

 透は、横に寝転がった美陽に驚き、拒否するように背中を向けたが。

 美陽は、「先生、ちょっとこの時間、みんなと一緒で眠たいんだ。ごめんね、寝かせてねと、透の背中に声をかけ。

 透が何も反応を返さず、背中を向けたままでいても。

 そのまま、静かに目を閉じ、ただ透の横に静かにいる。

 お昼寝が明け、布団を片付けておやつの時間になると。

 美陽はまた、透の隣にちょこんと座り、一緒におやつを食べる。

 周りの子供たちと会話をしながら、特に透に介助をするわけではないが、ずっと透が食べ終わるまで、隣に座り続けた。

 夕方になり、おじいさんがお迎えに来ると。

 美陽はおじいさんをクラスで迎え、今日一日の透の様子をおじいさんに伝えた。

「透君の車が園庭内をくまなく走っていって、透君はレーサーみたいでカッコ良かったですよ」

 美陽がそうおじいさんに伝えると、おじいさんは初めて、嬉しそうに眉を下げ、目を細めた。

 斜めにバックをかけさせてもらいながら、透はじっと背中でその言葉を聞いている。

 そのまま、透はおじいさんに手を引かれ、玄関まで行き、おじいさんと一緒に靴を履くと。

「じゃあ、ありがとうございました」

 と言って頭を下げるおじいさんに、見送りで一緒についてきた美陽は、笑顔で会釈をする。

「透君、じゃあまた明日ね」

 美陽は、透の背中に声を掛ける。

 透は黙って、何も言わない。

 おじいさんは、そんな透の頭を、ポンと優しく叩き、美陽を見て柔らかな表情で頭を下げ。

 美陽は満面の笑みで、深く頭を下げた。

「いってらっしゃい。気をつけて」

 美陽はわざと、そういう言葉を掛けた。

 おじいさんは、ちょっと驚いたような目をしたが、すぐに笑顔になって、美陽に頭を何度も軽く下げながら、保育園の透明な開き戸を開け、透と共に外へと出て行った。

 美陽は二人の姿が見えなくなるまで、ずっと玄関から手を振り続けた。

  また、明日ね。

 その思いを真摯にこめて。

 透の背中を見送った。

 見えなくなるまで、小さな背中を。









六.五十一日目


「おはようございます。おかえりなさい」

 美陽は、そろそろ来る時間だと思うと、玄関で立って待っている。

 おじいさんと、透が来るのを。

 おじいさんと透は、いつも割と登園時間の締め切りのギリギリに来る事が多い。

 その日も美陽は、八時半近くに玄関に立つと、二人が来るのを待っていて。

 二人がやって来て、玄関の透明な引き戸を開けて入ってくると、笑顔で挨拶をした。

 言葉としては矛盾を感じるかもしれないが、いつも待っているよ、と伝えたくて、美陽はそう声を掛けていた。

「おはようございます。ほら、美陽先生だぞ、透」

 透は、おじいさんにそう言われ、頭をポンポンとされながら、玄関の中へと入ってくる。

 透は、下を向きがちだったが、そのまま玄関ですぐに靴を脱ぐと、黙って靴箱に靴を入れ。

 おじいさんが玄関から上がってくるのを、美陽の横に立って待っていた。

 美陽は、自分の横に透が立っているのが嬉しくて。

 透に微笑み、話しかけた。

「透君、さすが。レーサーは何でも早いね」

 そう声を掛けても、黙ってはいるが。

 ずっと、美陽の隣には立っている。

 おじいさんも、その透の姿を見て、少し泣きそうな顔をしながら靴を脱ぎ、玄関へと上がって来た。

「さ、透君。サーキットへ行こうか」

 美陽はそう声を掛けると、何気なく。

 いつも、他の子供にするように、無意識に手を透へと差し出した。

 差し出してから、美陽はハッとして、しまった、と思っていたのだが。

 透は、美陽の手をじっと見ると、黙ってはいたが。

 恐る恐る、美陽の手へと自分の手を伸ばすと、美陽の手を小さな手で掴んだ。

 美陽は、その透の行動に目を開き。

 おじいさんも、手を繋いでいった透の後ろ姿に、顔を少し横に逸らしていた。

 美陽が少し振り返り、おじいさんの様子を見ると。

 横に顔を逸らしていたおじいさんは、唇を引き締め、ぐっと涙をこらえているような姿に映り。

 美陽は、そんなおじいさんの姿に、自分も泣きそうになる思いに襲われながらも、気を取り直して笑顔を向けた。

「さ、おじいさんもサーキットへ行きましょう。透君、今日はいつもと違うサーキットに行こうと思っているんだけど、どうかな」

 美陽はその小さな手をしっかりと握り、隣で一緒に歩いてくれる透に、声を掛けた。

 透はその言葉に、美陽の方を少し見上げる。

 長い前髪で、目は見えない。

 美陽は、おじいさんからこの前、初めて聞いたのだが、髪を切らせてくれないと言っていた。

 最後に切ってくれたのがお母さんだったと、美陽はおじいさんから聞いていた。

お母さんがしてくれた、そのままでいたいのかもしれない。

「透君と先生と二人で。園庭ではなくて、広い公園に行きたいなって思っているの。みんな出掛けたら、またこっそりおやつとお茶を持っていこう。ね」

 美陽は、透が楽しくなるように明るく声を掛けた。

「あ、おやつの事は言っちゃいけないのに言っちゃった」

 美陽は、しまったという顔をすると、唇に人差し指をあてて、透に微笑んだ。

「内緒ね、内諸」

 言わないでね、とでも言うように、お願いしてくる美陽に対し。

 透はじっと眺めていたが、また前を向いた。

 ほんの少しだけど、首が縦に動いた気がするのは。

 そうあってほしいと思う、美陽の強い思いから見えたものかもしれない。

 どっちであれ、確実に透は美陽に心を預けてきている。

 美陽はその実感を感じつつ、胸が嬉しさと喜びで満たされていった。

 









 その日。

 美陽は、透を連れて、保育園から一キロほど離れた公園まで出掛けて行った。

 そこはとても広い公園で、ブランコや滑り台もあり、敷地が広い分、車を走らせるには絶好の場所だった。

「ここにサーキットを書くのも楽しいかも」

 公園に辿り着くと、二人きりになれる場所に美陽は透を連れて行った。

 滑り台などの遊具がある場所は、子連れの家族などでひしめき合っていて、透が遊びづらいと思ったのだ。

 遊具からは少し離れるが、広い地面があるところに美陽は透を連れていくと、美陽は木が生い茂る方へと歩いて行き、そこから短めの枝を拾ってきた。

 そして、砂が混じる地面に枝を刺すと、力をこめて、ぐるっととても大きな円を描いていく。

「透君がいつも頭の中で思い描くサーキットもいいと思うけど、本当にこういうサーキットを作ってもいいかもね」

 美陽はそう言いながら、地面に、陸上のトラックのような楕円形を描いていく。

 外側と内側に線を引き、線の中を走れるようなイメージの物を描きあげた。

「間には、障害物もあったりして」

 そう言うと、美陽はあちこち歩きながら、少し大きめの石や、落ちていたペンキの缶などを運んできた。

 それを枝で描いたサーキットの上に、いくつか置いていく。

「どうかなぁ・・・こんな場所でも走れたりするかな、車」

 美陽は描き終えると、車を持ったまま、じっと立っている透を見た。

 透はそのサーキットを見ていたが、くるりと体の向きを変え、違う場所から車を走らせ始める。

 あらら・・・ちょっと気持ちに合わなかったかな。

 美陽はその姿に、マズかったかな、と少し反省していたが。

 立ったまま、地面を思うがままに車を走らせていた透が、そのまま美陽が描いたサーキットの方へと車を走らせながら進んでくると。

 地面に置いてあったもう一台の車を拾い、美陽が描いたサーキットの上を、二台の車を使って両手で走らせ始めた。

 本当にレースのイメージを、頭で描いているのかもしれない。

 体重を掛けて、二台の車をスピードを上げて走らせ、カーブで周り、障害物を二台でジャンプするように飛び越えていく。

 額から汗を流しながら、一生懸命車を走らせているその姿は、とても可愛く。

 無邪気に、力のまま走らせている中、とうとう、サーキットの円が立ちあがる砂煙で薄れてしまい、サーキットの姿がわかりづらくなってしまっていた。

 美陽はまた、枝を拾って描き直してあげようと、体を動かした始めたその時。

 透は、一度、二台の車を地面に置くと、美陽より先に、美陽がさっき地面に描いた枝を拾い上げ、美陽が描いたよりも、もっと大きな楕円形を地面に描きだした。

 内側に線も引き、サーキット場を復活させると、透は置いてあった二台の車を掴んで、また思いきり地面の上を走らせていく。

 透の額からは、もっと汗が流れ落ちていく。

 広い公園の広場で、たった二人きり。

 遊具はなくても、思いきり遊んでいる透の姿はとても愛おしかった。

 蝉がジージーと騒がしく泣き続ける声と、透が地面を走らせる車の音だけが響く世界で。

 美陽は次に、何をしてあげたらいいかということを、考えていた。

 透をもっと、喜ばせたい。

 思いきり、遊ばせて、楽しい事をいっぱいしていきたい。

 二人きりの形で、透につかせてもらうようになってから、すでに二週間が経過している。

 透は土曜日も登園するので、日曜日だけ会わないのだが。

 ずっと二人で過ごしていく中、透の存在は、美陽の中でどんどんと大きくなっていき。

 透の反応に関わらず、この子に出来ることをしていきたい気持ちで溢れていた。

 今まで、何年も保育士をしてきて、ここまでの気持ちを抱く子供はいなかった。

 美陽の中で、今、透と関わる時間のすべてが、とても貴重に思えていた。

 お昼ご飯を食べなくてはならない時間が過ぎても。

 美陽は敢えて、思いきり遊んでいる透の姿を止めなかった。

 遊んで遊んで、疲れ果てた透が、少しよろけながら美陽の元へと戻ってくると。

 美陽は、透の前にしゃがんで、持ってきていたタオルで、透の顔から流れる汗を拭いてあげた。

 すると、前髪が上がって、可愛いくりっとした目が顔を出し。

 美陽は、透はとても可愛い顔をしているのだと、初めて知った。

 目が合いそうになると、透はすぐに逸らしたので、美陽はそれ以上は目を合わさないようにし、透の顔と首と頭を拭いてあげると。

「行こうか」

 と微笑んで、透に手を差し出した。

 透は今度はためらうことなく、美陽の差し出された手を握っていく。

 美陽はその手の感触を大事に思いながら、透と二人、保育園へと戻っていった。

 保育園に戻ると、みんなと同じペースで動いてくれないと困る、と、他の職員から美陽は苦言を受けたが。

 本当にごめんなさいと言って、美陽はその職員に対し、深々と頭を下げた。

 隣で透は、そんな美陽の姿をじっと眺めていた。

 みんなが寝る時間になっていたので、美陽と透は、違う部屋でそっと二人だけで昼食をとると。

 静かに眠っている部屋に入っていき、透の布団へと美陽は透と一緒に行き、透を寝かせた。

「おやすみ」

 美陽はそう言うと、透の隣に横になり、透の体の上にバスタオルを掛けてあげ。

 自分も隣で目を閉じ、すぐに眠っているふりをする。

 いつもは、眠っている振りだったのだが、その日、美陽は本当に眠ってしまい。

 ある程度、時間が経ち、ハッと気付くと、自分が寝てしまった事に気付いた美陽は、慌てて隣の透を見たのだが。

 透は、美陽の方へと体を向けて、すぅすぅと寝息を立てて、静かに眠っていた。

 いつも、美陽に背を向けて眠っていたはずなのに、美陽が本当に眠っていたのがわかったからなのか。

 透は、美陽へと体を向けただけでなく、手も美陽の方へと伸ばしていた。

 その手が掴んでいたのは、美陽の長い黒髪の一部だった。

 ―――透君・・・。

 美陽の意識がなかったので、安心して触って来たのかもしれない。

 美陽は小さな手に握られている、自分の髪が、透と自分を繋いでるように見えて。

 無邪気な子供らしい顔で、小さな口を開けて寝息を立てているその顔を見ていると、自然に涙が溢れてきていた。

 抱きしめたい気持ちが溢れてきたが、美陽はそっと起こさないように透へと手を伸ばすと。

 バスタオルがかかっている体の上を、そっと静かに優しく撫でた。

  大丈夫。

  大丈夫だからね。

 美陽は心でそう言いながら、透の体を撫でていく。

  子供らしい、元気な姿になれるまで。

  先生は傍に居るからね。

 美陽はそう思いながら、透の体を撫で続けた。








 

 おじいさんが、透のお迎えに来て。

 美陽は、透の帰る支度を手伝ってあげていた。

 おじいさんは部屋に入るなり、美陽の姿を見つけると、嬉しそうに頭を下げた。

「こんばんは。おかえりなさい」

 美陽はおじいさんに声を掛けると、いつも登園時に持ってくる黄色のカバンを透の体に斜めにかけてあげた。

 透は大人しく、美陽のすることに身を任せている。

「すみませんな。本当に、いつもいつも」

「全然ですよ。今日も透君と一緒で、先生楽しかったよ」

 美陽はそういうと、透の手を繋ぎ、玄関までおじいさんと透君を見送りに歩きだした。

 玄関まで来ると、透は下駄箱から靴を持ってきて、靴を履き。

 おじいさんが差し出してきた手に、手を繋ぐ。

「・・・ああ、そうだ」

 おじいさんはそう呟くと、ポケットから小さな袋を取り出した。

 チョコレートが入っている包み紙だった。

「ほら、透。チョコレート好きだろう。じいちゃん、さっき仕事仲間からもらったんだ。食べていいよ」

 透はおじいさんから、有名なチョコレートの赤い包み紙をもらうと、おじいさんの手を離して、細長い包み紙を開いていった。

「良かったね、透君。今日、チョコレートなかったものね、ごめんね」

 美陽はそう言うと、透にごめんね、と軽く手を合わせて謝った。

 公園に出掛けた際。

 美陽と透は一度、おやつを一緒に食べていたのだが。

 たまたま、美陽が持ってきたおやつの中に、もうチョコレートはなく。

 チョコレートが好きな透に食べさせてあげられなくて、ごめんね、と謝っていたのだった。

「先生もチョコレート好きだから、チョコを食べたい気持ちはわかるよ。来週は用意しておくからね」

 美陽は、公園で透にそう言いながら、他のお菓子を食べさせていたのだった。

 透は、細長い袋から細長いチョコレートを出すと、両手でチョコレートを持ち。

 パキッと真ん中から二つに折って分けた。

 すると、透は黙って、半分になったチョコレートを美陽へと差し出し。

 じっと美陽が受け取るのを待っていた。

「透・・・」

 おじいさんは、透のその姿に、嬉しそうに目を細め。

 美陽は差し出してくれる小さな手に、涙が浮かびそうになり、慌てて笑顔を作った。

「先生にくれるの? 優しいね、透君。ありがとう」

 美陽は透の前にしゃがみこむと、差し出しているチョコレートの前に手を差し出し、受け取ろうとした。

 が、透は、美陽が手を差し出しても、チョコレートを離さない。

 美陽がどういうことだろう、と思っていると、透は口を小さく開いてみせた。

その口を見ながら、美陽がなんとなく一緒に口を開けると。

 透はその開いた口の中へと、すぐにチョコレートを押し込んで来た。

 美陽はビックリした目で、入って来たチョコレートを口の中で受け取り、透が手を離したのと同時に唇を閉じると。

 透は持っていたチョコレートの残りの半分を、美陽の前で口の中に入れ、もぐもぐと静かに食べ始めた。

 美陽は黙ってもぐもぐと噛んでいる透に合わせて、一緒にもぐもぐとチョコレートを食べ始める。

 それは握られていた手のぬくもりの分だけ暖かく、とても甘い味がした。

「行くか、透」

 おじいさんは、透の頭を優しく撫でると、また透の手を握り。

「先生、ありがとうございました」

 おじいさんは美陽を振り返ると、そう声を掛けて、頭を下げた。

 美陽は笑顔で立ち上がると、二人にいつものように声を掛ける。

「いってらっしゃい、気をつけて。透君、また来週ね」

 明日は日曜で。

 透とは会えない。

 美陽がそう声を掛けると、おじいさんはまた深く頭を下げて、透と共に歩き出した。

「透・・・?」

 だが、透はおじいさんに手を引かれても。

 すぐには歩きださなかった。

 しばらくじっと立ち続けていたが、透はやがて、少しずつ前へと歩き出していった。

 美陽はその姿が少し気になったものの、笑顔で二人を見送り続けた。

 透は今日もやはり振り返りもせず、声も出さなかったが。

 その小さな背中は、どこか寂しそうに見えて。

 美陽はやはり、少し心配になっていた。










 美陽は、そのまま十七時半に仕事が終ると。

 真っ直ぐに一度家へと戻った。

 木材店の水木さんが用意してくれた木片は、頼んだ次の日にはもう家へと運んでくれ。

しかも、美陽の家で竹竿の太さを確認し、これなら三本は重ねて一本にした方がいいな、とアドバイスをすると、三本分重ねた直径をパパッと測り。

その次の日の夜には、その直径のサイズを入れることが出来る太めの塩ビ管を、長さ三十センチずつに切ったものを三十個も用意してくれ。

美陽の家に届けてくれたのだった。

 美陽は、まさか塩ビ管まで用意してもらえると思わず、どこから手に入れようかと考えていたのだったが。

 水木さんが、必要量以上の分を用意して持ってきてくれた為、美陽は心から頭を下げ、礼を述べ、代金を支払おうとした。

 が、水木さんは、美陽が差し出した代金を一切受け取らず。

 餞別だ、と言って、頑固な顔で首を横に振り続けた。

 でも、こんなにたくさん、と、ひたすら恐縮する美陽に、水木さんは言った。

「一日も早く敬人君に戻ってきてほしいと思ってるのはさ、美陽ちゃんだけじゃないってことよ」

 美陽は、水木さんのその言葉に。

 涙腺が緩んでくるのを感じていたが、必死に泣くのを堪え、もう一度、深々と頭を下げた。

「可能性がある事はすべてしたいと思う美陽ちゃんの気持ちはよくわかるから。俺にも手伝わせてくれや」

 水木さんは、頭を下げ続けている美陽に、そう言葉を掛けた。

 美陽は、その優しい言葉に、どうしようもなく涙が溢れ。

しばらく頭を上げられなかった。

「また元気になったら、休みの日にでも来てもらわないとな。『水木さーん、忙しいって聞いたけど、何かやることあるかい?』って」

 水木さんは、敬人の口調を真似しながら言い。

 美陽は、その口調が思いのほか似ていたので、息を吐くように笑うと、顔を上げた。

「美陽ちゃんのその涙が、嬉し涙になる日を、俺は信じてるからな」

 美陽が流している涙を手で拭っていると、水木さんはそう力強く美陽に伝え、笑顔で手を振りながら去っていった。

 美陽は「本当にありがとうございます」と大きな声で何度も言いながら、頭を何度も下げ続けた。

 美陽は、水木さんが持ってきてくれた木片と、揃えていた材料で。

 毎日、お見舞いに行って戻って来てから、ただひたすら、黙々と作り続け。

 この十日間で作った灯籠は、全部で五つとなった。

 明日から、それを家の敷地に一本ずつ立てていこうと考えていた。

 すでに、竹竿は三本セットで、緩む事がない縛り方でロープをしっかり巻き付けて小体をし。

 庭には、三十センチの塩ビ管が入る位の太さの穴を、いくつか開けている状況だった。

 天気をスマホで確認すると、明日からは連日、晴れの予報で。

 数日は、星灯籠を掲げられる状況に、美陽は先行きが良い予感を感じていた。

 いつか、必ず、敬人に会える。

 もう一度、私たちは必ず会える。

 お互いをきちんと認識した状態で、必ず会える。

 美陽は、出来あがった星灯籠の一つの中に、太くて短めのろうそくを差し込む。

 灯籠の底は板になっていて、板の下から打ちつけた太めの釘が、ろうそくをさせる土台となっている。

 周りを巡らせた紙は、暑さが薄めの色画用紙の白色を使おうとしていたのだが。

 実は水木さんは、白い和紙も一緒に用意してくれ、美陽にロールのような状態で持ってきてくれていたのだった。

 きっとどこかで買ってきてくれたのだろう。

 使った形跡のない和紙のロールは、ただの真っ白な無地の和紙ではなく、蝶を刻んだようなデザインになっていた。

 おかげで、美陽の作った灯籠は、素人ながらも綺麗な形で目に映り、実際、刺しこんだろうそくに火を灯してみると、それは暖かな灯りとなって、和紙から柔らかな光を放つのを確認できた。

 ぬくもりを感じられるような、灯籠。

 美陽は出来あがり、周囲を暖かく照らす灯籠を眺めながら、そう思っていた。

  ・・・敬人。

  見える?

 美陽は、天井の方へと顔を上げると、そのままぐるりと周囲を見回した。

 見えない敬人を探しながら、美陽はきっとどこかにいる敬人に話しかける。

 敬人に見せたい。

  此処が帰る場所だよ、と。

  あなたが帰る場所は此処にあって。

  私はずっと、いつでもあなたの隣で待っているよ、と。

 美陽は、明かりを灯す灯籠の縁を、細い指先でなぞりながら。

 今もどこかにいる敬人に届くよう、心の中で祈るように呟いた。










七.五十四日目


「いいわね、明かりって」

 病院の窓から、美陽の家の方を眺めつつ。

 先生は微笑みながら、呟いた。

「結構見えますよね、明かり」

 美陽は、敬人の手を握ったまま、先生に答えていた。

 仕事が終り、家に一度帰ると、美陽は追加で星灯籠を一つ、明かりの灯る状態で家の敷地内に立ててきていた。

 これで、三本目。

「今で幾つ作ったの?」

「日曜日に結構集中して作れたんで。灯籠だけなら、十五個かな」

「ずいぶん頑張ったわね」

 先生の驚いた目が、美陽を捉えると、美陽は頷きながら微笑んだ。

「はい。もう立てられるだけにしておきたくて」

「そうなの。すごいわね」

 先生は感心しきった目を美陽に向ける。

「ね、敬人。もう明かりも灯したし、真っ直ぐ帰ってきていいよ」

 美陽は、敬人の手を両手でしっかりと握りながら。

 その手に唇を寄せて、言い聞かす。

 帰って来て、と。

「あとで竹竿と灯籠を運ばないとね」

 先生が美陽の家から、病院の敷地内に立てる予定の星灯籠を運ぶ手伝いをしてあげると言ってくれたので。

 美陽は有難く、お願いすることにした。

 先生は信じられないのだが、軽トラックの免許も持っていて。

 長さ五メートルはある竹竿も、持っている軽トラックに積んで走れるから大丈夫だ、と言ってきた。

 なんで軽トラックを持っているのかと尋ねると、島の農家をしていた一家が、後継ぎがいなくてトラックも必要なくなったと言っていたので。

 先生が購入したらしい。

 せっかくだし、いらないのならば買っておけば何かに使えるかも、と思ったから、手に入れたとの事だった。

「ねぇ、ほら。こうやって思いもしない形で役に立つ時が来るものでしょ。最初は使うとしても、まぁ引っ越しくらいかなと思ってたのに」

 と、先生は、少しふざけた感じで美陽に言ってきて。

 美陽も「確かに、そうですね」と言って笑って返した。

 竹竿は三十本もらっていたが、三本ずつで固定して一本の形にしたので、実際に星灯籠として立てられる本数は十本しかない。

 とりあえず、病院には、星灯籠五本分を運ぶ事にした。

 まだ、家の敷地の方を増やしたいと思っている美陽は、竹竿じゃない方法で棒になるものを用意しなくては、と思っていたのだが。

 ここ、四日間で一本ずつ増やした星灯籠を、水木さんが見に来てくれ。

 家の庭で、高々と上がる星灯籠を下から眺めた水木さんは、

「これはいいなぁ。敬人君にわかりやすいわ」

 と言って、天に灯る明かりに目を細めていた。

 竹竿で作っている事が心配だったんだろう。

 水木さんからは、その後、美陽に提案をしてきた。

「うちの余ってる木材くれてやるから。五メートルくらいあればいいんだろ?あと何本くらい立てる気だい?」

 美陽はその言葉に、とんでもない、と必死に断っていたのだが。

 頑固な水木さんは、一度言ったら引く事はなく。

 美陽に何本欲しいかと詰め寄り、美陽は申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらも、「出来るなら、あと二十本位・・・」と答えていた。

 すると、水木さんは任せろ、と言った顔をして、美陽の肩を力強く叩いてきた。

「任せとけ。すぐさま用意してやる」

 そう言うと、水木さんは帰っていき。

 明日、その二十本が届くらしい。

 水木さんは、美陽に電話で連絡を寄越してくれていた。

 その話を、美陽が先生にすると。

「運ぶついでに、うちにも五本くらい持ってきてくれてもいいけどね」

 先生はそう言うと、水木さんに、ついでにこっちにも運んでほしいと、一度病室を離れて電話をしてくれ。

 水木さんは快くオーケーしてくれたと、先ほど聞いたばかりだった。

 たくさんの人に助けられてる。

 美陽はそれを痛感していた。

「なんか・・・思い立った事で、こんなに助けてもらうと思ってなかったんで」

 美陽が申し訳なさそうに呟くと、先生は「何を言うの」と言った。

「みんな、美陽さんと、敬人君に何かしたくてしょうがないのよ。させてあげて」

「いや、そんな」

「本当よ。わざわざこんな小さな島に渡って来てくれた良い若夫婦が、あんな悲しい出来事に遭うなんて、って、島中の人、みんな私の所に来るたびに話していたんだから」

 先生はそう言うと、美陽を励ますように強く見つめた。

「ありがたく受ければいいのよ。人の善意は。それでまた美陽さんも頑張れるんだから」

 先生の言葉に、申し訳なさそうな顔をし続けていた美陽も、先生に目を向けると少し微笑んでコクリと頷いた。

「そう。それでいいの」

 先生はそう言うと、何度も首を縦に振って、美陽を力づけた。

「必ず戻ってくると信じて、頑張ろう」

 先生の言葉に。

 美陽はしっかりとした気持ちで頷いた。

「はい。頑張ります」

 ハッキリとした美陽の口調は、先生の顔をほぐさせた。











八.五十八日目


 しばらく、毎日忙しい日々を送っていた美陽は。

 敬人との記憶や思い出に浸るような時間を持つ事が、少なくなって来ていた。

 透の事と、星灯籠の準備と設置で、手一杯になっていた分、ひとりの時間を長く感じたり、考えこむような事が少なくなって来ていたからだろう。

 美陽は、連日、敬人のお見舞いに行っても、以前ならば、ある程度話すと話題は尽きてきて、そのままひとり、想い出のゆりかごに揺られている事があったのだが。

 今は、毎日、透の事を中心に話したり、星灯籠がまた増えた話などをしていると、敬人を見舞っている時間はあっという間に過ぎるようになっていた。

 美陽は、敬人に出来る限り触れて話しかけながらも、想い出に浸って切なく敬人を想い続けたり、悲しみと辛さがいつもどこか隣合わせだった時よりも、ずっと。

日常でも、敬人の前でも、シャキシャキとした活動的な雰囲気に変わっていき、話す内容も変わっていったのは、美陽自身でも感じているところだった。

 今は毎日、せっせと灯籠作りをしているのと、透に明日は何をしてあげようか、など、いろんな事を考えながら、動かなくてはならなかったからだろう。

 そんな美陽の姿を眺めていた先生は、明るく元気になって来た美陽に対し、良かったと思いながら、「今やれる事を一生懸命やっていくって、とても良い事よね」と。

 美陽が頑張っている事に対し、そう声をかけ、応援をしてくれていたのだった。

 そんな中。

 ある日、おじいさんから、透について話をしたいと、美陽は透を迎えに来たおじいさんから聞き。

 立ち話では済まない雰囲気を感じた為、美陽は園長に許可を取りに行くと、すぐさまおじいさんを応接室へと案内していった。

 今まで、詳しい事を話したがらなかったおじいさんが、何故話してくれるようになったのかはわからなかったが、美陽は応接室にあるソファへおじいさんに座るように促すと、自分もテーブルをはさんだ向かいのソファに腰をおろし。

 美陽は、おじいさんの方へと身を乗り出した姿勢で、おじいさんが話す話に真剣に耳を傾けて行った。

 一体、何が、透が心をここまで塞ぐような事になったのか。

 その疑問は、おじいさんの話によって、一気に解けていった。

 おじいさんの娘は、高校進学と共に本州へ出て。

 そのまま卒業と共に、就職をし。

 ずっと頑張って来たのだが、転勤と言う形でやって来た年上の上司と恋に落ち。

 そのまま二十七歳の時に結婚をしたそうだった。

 しばらくは平穏な生活を送っていたのだが、結婚した旦那さんが、酒を飲むと暴力的になる性質があり。

 娘さんはその暴力にも耐えていたのだが、そのうち、旦那さんは酒を飲まなくても娘さんに暴力をふるうようになっていったとの事だった。

 もう、逃げて離婚をしようと思ってた頃、透がお腹に宿っている事がわかり。

 逃れられない状況に、娘さんは覚悟を決めて、透を産んだとの事だった。

 日頃、振るわれる暴力の中、透を産み、何とか耐えて子育てをしてきたが。

 ある日、大きく育ってきた透までもを標的にするようになった旦那さんは、透を殴るようになってしまい、このままではダメだと、娘さんは透を連れて、家を逃げ出したらしい。

だが、どこに逃げても執拗に追いかけてくる旦那に対し、娘さんは逃げきれない事がわかると。

 透を一度、遠く離れた県外の友達の家に届け、しばらく預かってほしいと懇願したとの事だった。

 透は、娘さんから、必ず迎えに来るからと言われ。

 透は友達の家で、ずっと母親が迎えに来るのを待ち続けていたのだが。

 最初は定期的に連絡をくれていた母親から、まったく連絡が来なくなり。

 透自身も、また預かっている友達も、今後どうしていいのかわからなくなってしまったそうだ。

 毎月、娘さんは、透の養育費を振り込みしてきてくれていたのに、それさえも途絶え。

 友人は透を抱えながら、これからの生活をどうしていいのかと途方に暮れていたらしい。

 その後、友人は、なんとかいろいろと調べ歩き、おじいさんの事を役所から確認する事が出来ると、役所からおじいさんの方へ連絡が行き。

 お孫さんを何とか引き取って頂けないか、という相談を受けたとの事だった。

 それが、つい先月の事だったらしい。

 娘さんは、まったく消息がつかめなくなり。

 今、どうなっているのかもわからなくなってしまったとの事だった。

 心配で、警察に相談をしに行ったおじいさんは、警察の捜索で、どうやら娘さんは生きている事はわかったものの。

 旦那から逃げ続けている状況が続いている為、表立って出て来れない様子だ、と、聞かされたらしい。

 おじいさんは、娘さんが生きている事だけわかれば、まずはそれだけでいいと思い、透を引き取り、島へと連れてきたとの事だった。

 だが、透はその頃、すっかり心を塞いでしまい。

 母親が迎えに来ると言ったまま来ない事、電話で話せていたのに話せなくなった事、友人宅で、友人がいつも透の事を、どうしたらいいのか、このままいてもらうと本当に困る、と周りに話し続けていたのを聞き続けてしまっていた事で、透は心をすっかり閉じ込めてしまったようだ、との事だった。

 友人は、すっかり喋らなく、笑いもせず、俯いたままになってしまった透の姿から、自分の態度を反省をし、迎えに来たおじいさんに深く詫びてきたそうだが。

 おじいさんは、何も謝る事は何一つない、と、迷惑をかけて本当に申し訳なかったと、逆に頭を下げ、透を引き取って来たらしい。

 透は、赤ちゃんの頃しか会った事がなかった為、おじいさんの事も最初は誰かわからなく、会いに行ってもずっと怯えていたそうだが。

 お母さんと透が一緒に写っているのと、自分と三人で写っている写真を見せ、自分は透のおじいちゃんだ、と話をしていくと。

 反応はしなかったが、理解はしてくれた様子で、島まで連れてくる事が出来たとの事だった。

 おじいさんは、透に、必ずお母さんは透を迎えに来るから大丈夫だ、と言って、島へ連れてきたとの事だった。

 そのせいか、毎日、必ず寝る前と朝に。

 窓から遠い海を眺めていて、登園と降園時も、いつも海の向こうを眺めながら歩いていると。

 美陽は、おじいさんから、そう聞いたのだった。

  辛かったろう。

  苦しかったろう。

 美陽はその話を聞きながら、どれだけ透が、怖い思いと不安な思いをしてきたのか。

 手に取るようにわかるような気がしていた。

 心を塞いでしまうのも、無理はない。

 美陽は、ずっと。

 おじいさんの話を、真剣に聞き続けていた。

 一体、これから自分には何が出来るのだろう、と、思いながら。

「先生。あなたが透にしてくれている事、本当に感謝しています。透も少しずつだが、心を開きかけてきてるように見えて、私もホッとしているところでした」

「いえ、まだこれからが大事だと思っていますんで。保育士として子供に元気になってほしいのはあたりまえですし、それにずっと関わっている中、もう他人とは思えないくらいの気持ちになっていて」

 美陽はそう言うと、おじいさんに優しく微笑んだ。

 それは、美陽の本心だった。

 毎日、日曜日以外、保育園の中だけとはいえ、ずっと透と二人で過ごしていると。

 まるで弟か、自分の子のように思えるような感覚になってきているのを感じていた。

「これからも何が出来るか、いろいろ考えて、透君と接していきたいと思っています」

 美陽はおじいさんに対し、今までの状況をこれからも継続していく旨を伝えたつもりだったのだが。

 おじいさんはその言葉に一度深く頷くと、目の前のテーブルに両手をつき、美陽に対し、深々と頭を下げた。

「本当にすまない」

「いえ、本当に気になさらないでください」

 美陽は頭を下げ続けるおじいさんに対し、ソファから腰を浮かすと、顔を上げてもらうように手で促していった。

「どうか顔を上げてもらえませんか? 気になさらなくても大丈夫ですから」

 そう美陽が声を掛けると、おじいさんは、やっと頭を上げて。

 すまない気持ちでいっぱいの顔を、美陽に向けてきた。

「先生は、島へは後から来たからわからないと思うが、生まれてから高校までずっとここに住んでいた娘にとっては、今の現状の話はとてもしづらいものでな。もし、今後娘が、透と一緒に島に住む、と言いだしても、変な噂が流れているような状況では住めなくなる。だから、何も言わず、ただ透を預けてしまったんだ。本当にすまない」

「いえ・・・この内容なら、話すのをためらわれるのは、良くわかりますから」

 美陽はおじいさんをねぎらうように、そう伝え。

「私も他の職員には、細かな事は話さずに行きたいと思います、娘さんは今病気で療養中で、島に透君を迎えに来たくても来れない、というような内容で話すのはどうでしょうか?」

 美陽が提案すると、おじいさんは美陽に対しての申し訳なさだったのか、固く締まっていた表情を和らげ、ゆっくりと頷いた。

「そうしてくれますか」

「はい。もしその内容で良かったら、そのように伝えたいと思います」

「そうですか・・・助かります」

 おじいさんはそう言うと、もう一度、深々と頭を下げた。

 美陽はその姿に、また腰をソファから浮かすと、「頭を上げてください」とお願いをした。

「透君が笑顔を取り戻せるように、私も頑張りますから。ぜひ、一緒に頑張れたらと思います」

 美陽がそう声を掛けると、おじいさんはまた頭を上げて。

 笑顔で見つめてくる美陽に対し、何度も何度も首を縦に振っていた。










 美陽は、おじいさんとの話を終えると。

 保育室で一人で遊んで待っていた透に声をかけ、おじいさんと透を玄関でいつものように見送り。

 事務室に入ると、園長におじいさんから聞いた話を伝えていった。

 無論、約束をしたように、本来の事情とは違う内容で。

 少し心苦しかったが、透の一家を守る為、仕方がなかった。

 園長は、帰ってこない母親が心配で心を閉ざした事を理解し。

 これからも美陽には、透が笑顔を取り戻すまでは、二人で過ごして構わないからと、約束をしてくれた。

 その横で、職員の一部が、あからさまに溜息をついたりもしていたが。

 美陽は、どれだけ職員から文句を言われても、今の状況を続ける事に決めていた。

 『ホントただのズルよね。一人だけ仕事楽でさ。羨ましい』

 『ねぇ。上手く園長に取りいってさ。キモイ』

 ある日、美陽は部屋で敬人と一緒に遊んでいると。

 廊下の方から、聞こえよがしに、職員から文句を言われた事があった。

 その言葉は、一瞬、美陽の心を痛みをもって貫いたが。

 目の前で、美陽と共に絵を自由に描いている敬人の姿を見ていると、そんな痛みは小さく思えた。

 車以外の遊びにも興味を示すようになってくれ、喋らなくても、笑わなくても、前よりはずっと反応があり。

 顔も、俯きがちではあるものの、都度都度、何かがあると顔が上がるようになり。

美陽は、確かに変わってきている透の姿に手ごたえを感じていたので、ここで引く事は一切考えられなかった。

美陽は、透が絵を描き続けている姿に、「少しだけ待っててね」と小さな声で声を掛けると。

立ちあがって廊下へと出て、廊下で聞こえるように話した職員とわざと鉢合わせ。

動揺して、去ろうとした二人に、美陽は後ろから声を掛けると。

「ずっと仕事量では迷惑をかけていて、本当にすみません。本当にごめんなさい」

 と、深く頭を下げて、謝った。

 一度足を止めた二人は、ちらりと美陽を振り返ったものの。

 バツが悪そうな顔で、そのまま廊下を歩いて、すぐに事務室へと入っていった。

「ああ、やだやだ」と言いながら。

 頭を上げて、美陽はその声だけ残された廊下に佇んでいたが。

 一度、深く深呼吸をすると、気を取り直して部屋へと戻ろうとした。

 すると。

 部屋の入口から、透が顔を出して。

 美陽の様子をじっと見ていた。

 美陽は少しびっくりしたものの、すぐに笑顔を取り戻すと、透に近づき。

 声を掛けて、透と手を繋ぐと、部屋の中へと一緒に戻っていった。

 今は、手を差し出せば、すぐに繋いでくれるようになった、透の手。

 美陽は、この手をしっかりと守ろうと心に決めていた。

 その為なら、何を言われても構わないと。

 強い気持ちが心に宿り、ふつふつと湧いてくるのがわかった。

 その気持ちは絶えないと、心に誓っていた。

 おじいさんとの話を伝え終え。

 美陽は、園長に深く頭を下げ、溜息を深くついた職員の横を、軽く頭を下げながら通り抜けていった。

 何を言われても構わない。

 美陽は再度、揺るがない思いで、心に固く言い聞かせた。









九.六十五日目


 その日は土曜日で。

 美陽は着実に増やしている星灯籠を、今日家の敷地に上げたら、これで通算十二本目だなと思っていた。

 明日、雨が降るのと、風が若干強そうな予報になっていたので、明日は上げることが出来ないだろう。

 それは残念だったが、危険な事は出来ないし、掲げても雨で消えてしまうのであれば意味はない。

 毎日一本、と思ってはいたが、天候の都合もあり、毎日増やす事は出来なかったものの。

 天気の良い日には、星灯籠を一本ずつ増やす事にはしていた。

 美陽は家に帰ったら、すぐに星灯籠を追加で一本セッティングして、そのまま病院へ向かおうと思っていた。

 ところが。

 思わぬ展開が、その日の昼にやってきて。

 美陽の予定は、少し変更を余儀なくされる事になった。











「行こうか、透君」

 美陽は、保育園の玄関で、靴を履いて立っている透に声を掛けた。

 仕事が終り。

 本来なら、透はおじいちゃんのお迎えで家に戻っている時間だったのだが。

 今日、おじいちゃんは仕事で本土の方へと船で出かけていたのだが、どうしても戻れなくなってしまった事情が起こってしまったという電話があり。

 帰る場所がなくなってしまった透を、美陽が家に一泊させる事になったのだった。

「透君、先生ね、いつも旦那さんに会いに行ってるんだけど、付き合ってくれる?」

 相変わらず俯いて、何も話さない透にそう話しかけた。

 透は何も答えなかったが、美陽はそのまま透に手を差し出すと、いつものように透は手を繋いでくれ。

 まずは、二人で美陽の家へと向かって行った。

 ・・・お腹、空いちゃうかな。

 美陽は十八時頃、透と共に家に辿り着くと。

 透を中へと連れて行き、居間のソファに座らせて、ここでちょっと待っていてねと声を掛け。

 すぐに居間の一角に出来あがった状態で並べている灯籠を一つと、蝋燭とライターが大量に入ったレジ袋を掴み、外へと出ていった。

 美陽の敷地の周りには、連日灯されていた星灯籠が家を取り囲むように並んでいる状態だった。

 美陽はその一つ一つを丁寧に引き抜きながら、するすると慣れた手つきで後ろへと棒を手で送り、地面へと倒していく。

 棒の上の方に引っかかりを作っており、灯籠の一面の上部には、その引っかかりに吊るせるよう、針金をアーチ形にして灯籠上部にくくりつけているのだが。

 そこにぶら下がっている状態の灯籠の底が、上手く地面へ着くように、星灯籠を地面へと下ろしていき。

 それぞれの星灯籠を並べ終えると、美陽は灯籠の中ですっかり溶けて、形が無くなったろうそくの代わりに、底から飛び出している長めの釘に、新しいろうそくを深くしっかりと差し込んで行き。

 一つひとつの灯籠に、ライターで火を灯して歩いていく。

 地面にある灯籠は、明るく暖かな光を灯し、辺りをぬくもりのような色で包み込んだ。

 美陽は、今日一本増やした灯籠を含め、十二本の星灯籠をそれぞれに掴むと、灯籠の棒の根元を既に地面に開けた塩ビ管が入った穴の上に当て、その状態で少しずつ棒を起こしながら、ゆっくり、しっかりと、穴の中に棒を差し込んでいく。

 それがすっかり奥へと入る頃には、灯籠はかなり上を向いている為、美陽は自分の体に星灯籠を持たれ掛けさせるようにした状態で後ろへ下がり、上に吊るされている灯籠が傾く事がないよう、慎重に、棒が真っ直ぐになるよう、立てかけていった。

 毎日行っていると、作業も慣れたもので、十二本あった灯籠は、二十分位ですべて立たせる事が出来ていた。

 病院から帰って来たら、今日は片づけないといけない。

 美陽はそう思いながらも、しっかりと全部の灯籠を並べ終えていき。

 灯籠をすべて並べ終る頃には、家の上部は、灯籠が生むオレンジの明かりで照らされ、柔らかな色で家を包み込んでいるのが確認出来る。

 美陽は、いつもその家を下から眺めながら、少し微笑んでいた。

 敬人の大好きな家が、暖かな明かりに灯されているのは、きっとどこかに漂っている敬人から見ても目印になって、とてもわかりやすいだろうと思っていたからだった。

 よし、と呟いて、美陽が家の中に入ろうとすると。

 玄関の扉はいつの間にか空いていて、そこには透が立っていて。

 透は、高く昇る明かりの群れを、驚いたような顔で下から眺めていた。

 いつから立っていたんだろう。

 すっかり灯籠を立てることに夢中になっていて、まったく気づかないでいたが、美陽はポカンとした顔で灯籠を見上げている透の傍に歩いていくと、透の横へとしゃがみこんだ。

「すごいでしょ。星灯籠って言うのよ」

 美陽が透の隣から話しかけると、透は少し美陽の方を見たが、またすぐに灯籠を見上げ始める。

「先生の旦那さんがね、おうちに帰って来るように、立てているの」

 美陽がそう言うと。

 透は一度、ピクリと体を震わせた。

 美陽は、美陽の言葉に反応を示した透を、静かにそっと見つめると。

 灯籠を見上げ続ける透に、微笑んで話しかけた。

「先生、これから入院している旦那さんの所に行かなくちゃならないんだ。透君、ご飯、後からでもいいかな? この星灯籠、病院にも立てたいから、そろそろ行こうかと思うんだけど・・・大丈夫かな?」

 透は、隣の美陽の言葉を聞きながら、何も答えずにはいたが。

 やがて、顔を下へとゆっくりと下ろすと、コクリと、小さく頷いた。

 美陽は、初めて問いかけにしっかりと反応した透に、顔を輝かせ。

 透に嬉しい気持ちで微笑むと、透の背中を優しくそっと撫でていった。

「ありがとう。でも、お腹空いたら困るから、お菓子は持っていこうね」

 美陽が撫でても、透は嫌がることなく、背中を撫で続けられながら、美陽がかけた言葉に、またコクリとひとつ頷いて見せた。

 美陽は思いきり抱きしめたくなる気持ちを抑えながら、透の手を繋いで、一度家に入るように声を掛けて、促した。

 透は大人しく、美陽に手を繋がれて、中へと入っていく。

 玄関の扉が閉まる前、透はまた一度、後ろを振り返り。

 立ち並ぶ星灯籠を、じっと眺めていた。

 美陽はその透の姿を見つめながら、ふと、思いついた事があった。

 それは、透も自分と同様に、希望を持てる事に繋がるのではないか、と。

 そう思えた内容だった。

 美陽は、扉が静かに閉まるまで、星灯籠を眺め続ける透の背中を見ながら、これから、どんな風に透に声を掛けていこうかという事を考え始めていた。










 美陽は、お菓子を小さなレジ袋にいくつか入れてあげると。

 それを透の手に持たせ、反対側の手はしっかりと握りながら。

 歩いて、病院へと向かって行った。

 病院までは、途中から結構な山道で大丈夫かなと思ったものの、透君は疲れたという事もなく、美陽と一緒に山を登り続け。

 途中、持っていたお菓子の袋の中から、好きなお菓子を見つけると、透は食べながら歩いていた。

 保育士としては、一度足を止め、座った状態で食べたいところだったが。

 今は、急いで病院へと辿り着きたかったので、美陽は、食べながら歩くのは今日だけにしようね、と透に声を掛けつつ、山道を登り続けていった。

やがて、美陽は無事、透と一緒に病院へと辿り着く事が出来ると、すぐに。

「透君、ちょっと待っててね」

 病院の建物を前にして、美陽は足を止めると、隣の透にそう声をかけた。

 美陽は、そのまま病院の横にある物置の場所まで走っていくと、その中から長さ五メートル程の竹竿で出来た棒を一本ずつ掴んでは、病院前の敷地へと運んでくる。

 それらを、差し込む穴の前にそれぞれ一つずつ並べて置くと、再度、物置まで行き、今度は四角い灯籠を五個、両手にぶら下げながら運んでくる。

 透は、すっかり俯くのを忘れていたようで。

顔は、長い前髪で隠されている分、表情を読み取ることは難しいが、美陽が手慣れた状態で棒の先に灯籠をセットし、灯籠の中に刺し込んだ新しいろうそくに、家で見た時と同様にライターで火を灯していくと。

 塩ビ管を埋め込まれた地面の深い穴の中に、美陽は棒の根元を刺しこんでいった。

しっかりと、根元を固定されるように持ち上げられていく灯籠は、真っ直ぐに空へと伸びていく。

 淡い、オレンジの暖かな火を空へ灯しながら。

 透は、目の前で、美陽がバタバタと五本の星燈籠をセッティングする姿を、ただじっと見続けていた。

 すべて並べ終えると、美陽は少し汗ばんだ額を手の甲で拭い。

 また、家の前の時のように、真下から明かりを灯した星灯籠を眺めている透の横へと近づいていき、隣にしゃがみこんだ。

 美陽は、病院の二階の部屋を、透にわかるようにひとつ指差す。

「灯籠が照らしている二階の部屋があるでしょう。あそこに先生の旦那さんがいるの。ずっと眠ったままで」

 透にそう言うと、透は少し驚いたような雰囲気で、隣の美陽を見つめてきて。

 美陽は、下から灯籠の暖かな明かりに照らされた部屋の壁をじっと見つめていたが、隣の透に顔を向けると、ふっと優しく微笑んだ。

「じゃあ、先生の旦那さんに会ってくれる? 透君」

 美陽はそう言うと、立ち上がり。

 透へと、手を真っ直ぐに差し出した。

 透は黙っていたが、すぐに美陽の手を掴むと、ぎゅっと握り。

 美陽はその手を握り返すと、そのまま病院の玄関へと、透と共に歩いていった。










 美陽は透の手を繋いだまま、玄関から真っ直ぐ二階の病室へと来て。

 ベッドの前まで透を連れて行き、透に敬人を見せてあげた、その時だった。

「あらま。いらっしゃい」

 少し驚いた声がして、振り返ると。

 いつものように、先生が病室の戸口の所に立っていて。

 室内にいる美陽と、初めて見る透を、面食らったような顔で見つめている。

 いつもは美陽しかいないから、驚いたのだろう。

 先生は、ふーんとでも言いたげな顔で、美陽の横に立っていた透を眺めていたが。

 透が警戒して、美陽の体の陰に隠れるようにするのを見ると、ふっと微笑んだ。

「大丈夫、大丈夫。おばちゃん、いきなり君に注射とかしないから」

 先生はそう言うと、片手を上げ、上下に手をひらひらと動かし、警戒を解くように透に声を掛けたのだが。

 透は、美陽の足にしっかり抱きつくようにくっつき、そこから睨むように先生を眺めると、ギュッと美陽の太ももの辺りを片手で掴んでいた。

 美陽は、そんな風にすがってくる透に驚きながらも、嬉しさを感じ。

 嬉しい気持ちのまま、透の頭にそっと手をあてると、そのまま優しく撫でていく。

 頭に手を乗せられた瞬間、透はビクッと体を震わせ、体を固くしたが。

 それでも、逃げるわけでもなく、暴れるわけでもなく、美陽の足に抱きついたままでいた。

 ただ、太ももを掴む手だけは、震えるように動いて。

 戸惑いを隠せないように、もぞもぞとしていた。

 美陽は、そんな透を上から見つめながら。

「大丈夫よ。大丈夫」

 と、優しく包み込むように声をかけ。

 透の頭を、ゆっくりと撫でる。

 いとおしむように、そっと。

 透は、頭を撫でられるたび、体や手を落ち着かないようにもぞもぞとさせていたが、やがて撫でられるまま、体をゆだねるようになり。

 美陽の太ももに、そっと顔を押し付けると、じっと動かなくなっていった。

「可愛いわね」

 少しからかうような口調で先生が言うと。

 美陽は、先生にニッコリと微笑み返した。

「はい。とても」

 そう言いながら、美陽はまた、透の頭を撫でていく。

 透はもう身じろぎせず、ただ、美陽の太ももに甘えるように抱きついていた。

「ほんと、可愛い」

 先生は、本心でそう思っているように呟くと、「じゃあ、帰る頃にまた顔出すわね」と言って、笑顔で廊下の向こうへと消えていき。

 美陽は気を遣ってくれた先生に感謝しつつ、足にしがみついている透に声を掛けた。

「透君、一緒に椅子に座ろうか」

 美陽はそう言うと、透の肩に両手をあてて、足から少し体を離させると。

 小さな手を握って、敬人の前にあるパイプ椅子へと、透を連れて行った。

「どうぞ」

 美陽はパイプ椅子に先に腰を下ろすと、大きく足を開いて座れるだけの空間を作り。

 そこへ手を引いて透に座るように促すと、透は大人しく美陽の太ももの間に腰を下ろした。

 美陽は後ろから、そんな透をそっと軽く抱きしめる。

 透は嫌がらず、大人しくしていた。

「先生の旦那さんなの。眠っているでしょう」

透の耳の近くで、敬人を見たまま、美陽はそっと話しかける。

透はじっと、眠り続ける敬人を見つめ続けていた。

「体は大丈夫なんだけど、目を覚まさないで、ずっと眠っているの。ずっと」

 美陽が優しく語りかけるように言うと、透は少し美陽の方へと顔を向けた。

「起きてほしいから、先生、さっきのお医者さんに教えてもらった星灯籠を作りだしたんだ」

 そう言うと、透は明らかに興味を示した顔を向けてくる。

 美陽はそんな透を感じながらも、真っ直ぐに敬人を見たまま話し続ける。

「亡くなった人はね、毎年夏に、おうちに帰ってくるの。その時にみんな家で、灯籠をつけたり、仏壇にお供え物をしたりするのね。星灯籠もね、本当は亡くなった人に、帰ってくる家はこちらですよ、見えますか?と教えてあげるものなの。先生の旦那さんは亡くなってはいないけど、ずっと体に帰って来れなくてどこかでさまよってしまっているから、先生、旦那さんに帰る場所は此処だよって教えてあげる為に、灯籠を立てる事にしたの。帰る場所に明かりの目印があると、場所がわかりやすいでしょ?」

絵本を読み聞かすような優しい口調で、美陽は静かに話し続けた。

透はじっと美陽を見つめながら、話を聞いている。

「先生、いつも毎日此処に来て、旦那さんに話しかけているの。こうして眠っていてもね、話しかけるとちゃんと聞こえているんだって。だからいつでも戻ってきていいように、明かりを増やしながら、毎日話しかけてる。もういつでも帰ってきていいよ、大丈夫だよって」

 そう言うと、一度、透は視線を下げた

美陽は、そんな透に、何か思うところがあったのかな、と見つめていたが。

下を向いていた透は少し黙った後、思いきったようにもう一度顔を上げると、美陽の顔を見た。

「・・・起きないの?」

 初めて聞く、透の声に。

 美陽は、目を見開いた。

「・・・旦那さん、何しても起きないの?」

 子供らしい声だった。

 少し高めの、可愛い声。

 本当はとても素直そうな、優しい声だった。

 美陽は、口を開き、話してくれた透を、信じられない気持ちで見つめていた。

 長い前髪に覆われ、目は見えないものの、真っ直ぐ美陽を見て話しかけてきてくれるのがすごく伝わる。

その透の姿に、徐々に美陽の心は、爆発するような喜びと感動が湧いてきて。

 透に嬉しい気持ちが伝わるように、心からの笑顔を向けると、何度もしっかりと頷いてみせた。

「そうなの。何をやってみても起きないの。今まではね」

 そう言うと、透は「あの・・・」と小さく呟いた。

「ん?なに?」

 透に向ける愛情をこめながら、優しく尋ね返すと、透は美陽に、一生懸命訴えるように言ってきた。

「キスしたら、起きないの?」

「え?」

「眠り姫と、一緒でしょ。王子様がキスしたらお姫様は起きたよ。先生も旦那さんにキスしたらいいんじゃないの?」

 昔見た絵本を思い出したのだろう。

一生懸命、内容を思い出すように話してくれる透に。

 美陽は、ただ嬉しくて。

目の淵が緩んでくるのを感じていた。

「それはね、もうたくさんしてるの」

 そう答えると、透はビックリした顔をして。

信じられないように、小さく口を開いていく。

「え・・・だってお話では、目を覚ましたのにね」

 美陽は、そう言う透が、愛おしくてしょうがなく。

 横から手を回して透の頭に触れると、そのまま優しく頭を撫でた。

そして、撫でていない側の透の頭に、美陽は自分の頭をコツンとくっつけていく。

「そうね。お話では、そうだったわね。お話の通りにいけば良かったのに、今はそれだけでは起きないみたいなの」

 そう言うと、透は少し頭を下げた。

 きっと、良い事を教えてあげようと思ったのだろう。

 美陽は、この子は本当はとても優しい子なのだと痛感すると、俯いた透の頭を撫でながら、ふと、窓の外を見た。

 そこには、少し遠くにあるオレンジ色の明かりが、窓ガラスに淡く灯るように映し出されている。

 優しい、明かり。

「・・・透君、部屋からも見てみようか、星灯籠」

 美陽は俯いている透に声を掛けると、椅子から立ち上がり。

 悲しそうに黙っている透の手を引くと、窓の側へと連れて行った。

すると、透は、窓の外を気にするように顔を少し上げてきたので。

美陽は、顔を上げてきた透に、

「こっちの方が見えるよ」

 と声を掛けると、一度、透の横にしゃがみこみ。

 透の両脇の下に手を入れると、一気に上へと抱き上げ、そのまま立ち上がった。

 透はビックリした目で、美陽を見つめる。

 美陽は、そのビックリした目を、愛しく、優しく見つめながら、そのまま抱き上げた透をしっかりと腕の中に抱きしめた状態で、窓の外へを見せてあげた。

「ね、見えやすいでしょう」

 美陽はそう声をかけ、透のお尻を両腕でしっかりと支えながら。

 頭一つ分以上は上にある、透の顔を見上げる。

 透はまだ、面食らったような、動揺していた顔をしていたが。

 美陽がずっと抱きしめていると、やがて固く緊張していたような体の力を解き。

 そのまま美陽に、体重を預けてきた。

 美陽はその感触に喜びを感じ、もっとしっかりと透を抱きしめ直す。

 透が力を抜いている分、しっかりと互いの体が密着される状況になっていった。

 透はそのまま、美陽の肩の辺りに頭を乗せるようになり。

 美陽の肩の上から顔を横に向けると、美陽と一緒に外を眺めていた。

 さっきよりもハッキリと。

 窓の外に並ぶ、星灯籠が見える。

 病院の敷地に並ぶ、五つの明かりの向こうには、美陽の家に立てている星灯籠も群れて見える。

 淡いオレンジの光の集まりは、遠くから見ると、そこだけがオアシスのようにも見えて。

 美陽は灯籠を増やしていく事を、楽しみに思うようになっていた。

「・・・あそこにいっぱいあるのが、先生の家?」

 透は、美陽の肩に頬をつけたまま、窓の向こうを指差す。

「そうよ。十二個あるはず。お天気が良かったら、毎日一個ずつ増やそうと思っているの」

 そう言うと、美陽の肩の上で、透が少し息をのんだような感触があった。

「すごいね」

 小さな声でも、感心したような重みがあって。

 美陽はそんな透に、一度顔を向けた。

 透はじっと、美陽の肩に頬をつけたまま、外を静かに眺めている。

美陽は、しっかりと体を預けてくれる透の重みが嬉しく。

何とか、動かせる範囲で手を動かすと、透の背中の辺りを、そっと優しく撫でていく。

「星灯籠はね、こうして見ると、それぞれは小さな明かりかもしれないけれど、見せたい相手からは、ちゃんと見えるんだって」

 美陽は、きっとそうであろう、と信じている言葉を、透に語りかける。

 どこの文献にも記載はないけれど、美陽はそう、信じ切っている。

 私の想いも、敬人を想い、掲げる明かりも、どちらもちゃんと敬人からは見えて、届いていると。

 美陽は強く、信じていた。

 透は、美陽の言葉を聞きながら。

 美陽の首元に、甘えるように顔を動かし、頬を擦り寄せる。

 透は少し顔を動かして、また窓の外の灯籠へと目を向ける。

「先生、帰って来て欲しいんだ、旦那さんに。今、ちょっと道を迷っているだけだと思うの。だから、教えてあげるんだ。帰る場所は此処だよって。きっとこの明かりを見たら思い出すから。そうだ、帰る場所は此処だから、帰らなくっちゃって」

 美陽が、また。

 窓の外の星燈籠の明かりを見ながら、そう言うと。

 透は、一度、窓を見る為、顔を起こし。

 美陽と一緒にしばらく灯籠の明かりを眺めていたが、また、美陽の首の根元へと頭を寄せ。

 甘えるように、美陽の首元へ顔を埋めた。

 美陽は甘えてくる透を愛しく思いながら、さっきまで背中を撫でていた手で、トン、トンと優しく透の背中を叩いていく。

 お昼寝の時、子供たちを寝かせるような感じで、そっと、優しく。

 しばらくそうしていると、小さな吐息と共に、聞こえるか聞こえないかのような小さな声が零れだす。

「・・・来るかな」

「え?」

 小さな小さな、掠れた声がして。

 美陽は、透に顔を向けた。

 透は、美陽の首元に顔を埋めたまま。

 また、呟く。

「お母さん、来るかな。お母さん、来るかな」

 同じ言葉を、繰り返し呟く透に。

 美陽は、透が話すたびにかかる息のくすぐったさに耐えながら、透に問いかける。

「お母さん?」

「・・・お母さん、お父さんと離婚したんだ。お父さん、いつもお母さんの事、叩いたり蹴ったりしてて、僕も時々叩かれたり蹴られると、いつもお母さんが飛んできて、僕の事抱きしめてくれたんだ。お父さんがそれでもお母さんを叩いたり蹴るのをやめないから、お母さん、僕を連れて家を出ようって言って、家から逃げてきたんだ。でも、お父さんが追いかけてくるのがわかって、お母さん、僕を少し遠くのお友達のところへ連れて行ったんだ。必ず迎えに来るから待っててって言って、お母さんはどこかへ行っちゃったんだ」

 小さな震える声で。

 透は、美陽の肌の温もりを直接感じられる場所で、話し続ける。

 溜まっていた想いが溢れだすのか、声は小さくても、言葉は途切れることはなかった。

「毎日ずっと待っていたんだけど、お母さんは全然来なかった。おばさんは僕が居ると困るって言いだして、僕の事をいつも嫌な顔をして見てくるようになったんだ。おばさんはいつも、僕のお母さんと連絡がつかなくて、このまま置いていかれても困るって。おばさんは周りの人にいつも話してた。僕はそれでも、ずっとお母さんが来るって待っていたけど、でも、お母さんは来なかった。来ないから、おじいちゃんが来たんだ。しばらく島で住みなさいって」

 堰を切るような勢いで、一気に話し始めた透に。

 美陽は撫でるのをやめ、再度、しっかりと透を抱え上げ直すと、ベッドの前まで一度戻り、片手でなんとか透を支えながら、パイプ椅子の背もたれ部分を掴むと。

 そのまま椅子を、窓の前まで引きずって来た。

 椅子を運び終えると、美陽はその椅子に透を抱えた状態で腰を下ろし、しっかりと透を太ももの上に乗せると、安定した状態で抱きしめる。

 透はそうすることで、さっきよりも抱きつきやすくなったのか、透は両手をしっかりと美陽の首に回すと、美陽の首の根元に、もう一度顔を思いきり埋めてきた。

 美陽は、強くしがみついてくる透を、しっかりと強く抱きしめながら、頭から背中を力強く何度も撫でていく。

 わかるよ、何でも言っていいよ、と思いながら。

 何を話しても大丈夫だよ、と、心で話しかけながら。

「でも、島に来ても、お母さん、全然来ない。来ないんだ」

 透の言葉の最後の方は。

 もう、涙声だった。

 辛く苦しい想いが、透から言葉になって溢れると。

それは、美陽の心を鋭く突き刺した。

 美陽の瞳にも、透と同様に涙が溢れ始める。

「待ってるのに、ずっと待ってるのに、来ないんだ・・・!」

 透は、自分の話す言葉に、感情が引きずられ、爆発したのか。

 火がついたように泣き始めると、「お母さん、お母さん」と大きな声で叫びながら、美陽にギュッとしがみついてくる。

 美陽は、そんな透を、力の限りに抱きしめ。

 透の溢れる心の叫びを、きつく抱きしめ、頭と背中を撫でる事で受け止めていった。

 美陽の両目から、透にも負けないくらいの涙が溢れだし。

 透の背中には、美陽の涙が降り注ぐ。

  辛かったね。

  苦しかったね。

  よく耐えてきたね。

 透から聞いた話は、おじいさんから聞いた通りの内容で知ってはいたが。

 それでも、やはり、子供自身の口から泣きながら聞くと、それはかなりの破壊力を持って、美陽の心を悲しみで打ちのめしていく。

 どれだけ、この小さな体で、悲しみと辛さに耐えてきたのか。

 ひとりぼっちのような思いと不安を抱えながら、お母さんを待ち続け。

 もう来てくれないかもしれない、という絶望の中で、きっと暮らしていた。

 母親の友達には、疎まれるような言葉を掛けられ。

 どうしていいのかわからない、行き場のない気持ちと体に、小さな心は、きっとズタズタに裂けていったんだろう。

 美陽は、透が息苦しいと思うかもしれないという程、強く強くギュッと抱きしめながら、やっと吐き出した透の想いと心が落ち着くのを待った。

 今はいっぱい吐き出させたい。

 透の溜め込んだ想いが軽くなるまでは、ずっと抱いていよう。

透の気が済むまで、ずっとこうしていよう。

 美陽は、透の頭を抱え込むようにして撫でながら、透の頭に自分の頭を寄せた。

 しゃくりあげる透に対し、受け止めるかのように背中に手をあて、トントンと優しく叩いていく。

 もう、心配しなくていいよ。

 もう、一人じゃないよ。

 もう、寂しくないよ。

 美陽は、透と一緒に涙を流しながら、心の中でそう透に言い聞かせ続けた。

 きつくきつく、小さな震える体を抱きしめながら、透に届くように心で言い聞かせ続けた。

 透が泣き終わる時まで、ずっと。










 徐々に、泣き声が小さくなっていくのを感じながら。

 それでも美陽は、透をきつく抱きしめるのを止めなかった。

  大丈夫だから。

  もう、何も心配いらないから。

 抱きしめながら、心で呟き続けた美陽の想いが、透に届いていったのか。

 ずっと叫ぶように泣きっぱなしだった透も、徐々に力が抜けていくように声が小さくなっていき。

 そのまま透を見守っている美陽の腕の中で、やがて脱力したようになって、美陽の体に体重をかけながらもたれていく。

 ズルッと、美陽の体の上を滑るように崩れ落ちそうになっていく透に、美陽は再度、しっかりと抱え上げるように抱き直すと。

 透は泣き疲れてしまったのか、すぅと寝息を立て。

 美陽の腕の中で、眠りに落ちてしまっているのがわかった。

 美陽は、壁に掛けられている時計に目をやると。

 既に時刻は、八時を回っているところだった。

 透はたぶん、二十分以上は泣き続けていただろう。

 全身で全力で泣いていたような状態だったから、きっと疲れたんだろう。

 美陽は、自分の腕の中で、糸が切れたように眠りに落ちた透を見ると。

 片手で、透の体を自分の体に押し付けるような形で支えながら、反対の手で、涙と鼻水とで、顔じゅうに絡みついた長い髪を、手のひらで撫でるようにしながら、取り除いてゆく。

 すると、元々の可愛らしい顔が現れてきて。

 美陽は、透はとても色が白いのだと、その時、初めて知った。

 髪を切らせてもらえない、という話を聞いていたが、透はそのせいでおかっぱのような髪型になっていたので、眠っている顔だけを見ていると、女の子のように見えなくもなかった。

 白い肌は、泣き腫らしたせいで、瞼や頬が真っ赤に内出血でもしたかのように腫れていて。

 美陽は再度、額や頬から、髪の毛がまとわりつかないように後ろへと撫でつけてあげると、よいしょ、と声をかけながら椅子から立ち上がり、

グッタリとしている透の体を抱きかかえながら、敬人が眠るベッドまで来て、敬人の横の、少しだけ空いているスペースに美陽は静かに腰を下ろした。

 敬人は、美陽が腰をおろしても気づかずに。

 すーっと静かな寝息を立て続けている。

「・・・敬人。透君、すごく辛かったね」

 美陽は敬人に話しかけながら、サイドボードにあるウェットティッシュを、筒の容器から抜き取ると。

 そっと優しく、透の泣き腫らした顔を撫でるようにして拭いていった。

「本当に、本当に、辛かったね」

 美陽はそう言いながら、透の顔を綺麗に拭いてあげると、起こさないように気をつけながら、ウェットティッシュを足元にあるゴミ箱へと捨てた。

 すっかり涙で白く乾いたところも綺麗になり、腫れていない場所は艶々とした子供らしい肌が見えてきて。

 美陽はそのきれいな肌を、指先でそっと押してみた。

 ぷにぷにと、子供らしい肌の柔らかな感触が伝わってくる。

「・・・落ち着いた?」

 背後から声がかかって振り返ると、戸口のところには先生が立っていて。

 美陽は微笑むと、頷いた。

「まぁ・・・ゴジラでも来たのかと思うくらいの泣き声だったけど」

 からかい半分、心配半分と言ったような顔で、先生は透を抱きかかえている美陽へと近づいてくる。

「辛かったんですよ。とても」

 美陽はそう言うと、あどけない顔で眠りにおちている透の頭を、そっと額から撫でてあげた。

「泣いている声の状態を聞いていたら、そんな風に聞こえたわね」

 先生はそう言うと、美陽と同じように、赤くなっていない頬の部分を、指先でぷにぷにと押していく。

 美陽は、自分と同じ事をした先生がおかしくて、少し笑ってしまった。

「なによ。触りたくなるでしょ。このきれいな肌」

「わかります。私も触ってました、今。子供の肌って、本当にきれいなんですよね」

「ねぇ。子供診てて思うもの。どう変わっていくとこういう風になっていくのかしらね」

 先生が困ったように自分の頬を両手で包み込むので、美陽はクスクスと笑いながら、「まだまだ大丈夫ですよ」と言葉を掛けた。

「まぁまぁ、気持ちのこもらないフォローを有難う」

「そんなことないですよ」

 茶化したように言う先生に、美陽は不満げに返す。

「ところで。看護師さん来たから、送っていくわよ、美陽さん」

 先生はそう言うと、軽く親指を立てて、後ろの戸口を指差す。

 美陽は笑顔で頷くと、敬人に目を向け。

「敬人、今日は全然話せなくってごめんね」

 と声を掛けると、体の向きを敬人の方へ変え。

 透を何とか抱えたままで、敬人の唇へとキスをした。

 『目を覚まさないの?』

 敬人の乾いた唇に、そっと唇を落とすと。

さっき聞いた、可愛い透の問いかけを思い出す。

  そうだよね、敬人。

  それだけで目覚めれば、良かったのにね。

 美陽は、しばらくの間、静かに唇を重ねていたが、やがてゆっくりと顔を上げ。

 静かに眠る敬人の顔を見つめた後、額にも、一度唇を落とし、そのまま頭を撫でた。

「敬人、また明日ね」

 美陽はそう言うと、だらりと美陽の体からはみだすように崩れていた透の体を、再度しっかりと抱き直し。

 よいしょ、と言う声がけと共に立ち上がると、しっかりと透を縦に抱き上げた。

 いつもより少し上に持ち上げ、肩の上に透の頭をしっかりともたれさせてあげるように抱っこすると、脱力して重くなっている体も運びやすくなる。

 美陽はそのまま、戸口で美陽を待っていてくれた先生のところへと歩いていった。











 先生は、美陽と透を車に乗せると、そのまま美陽の家へと送って行き。

 美陽は透を抱っこした状態で車から降り、先生に礼を言って別れると、透を抱っこしたままでなんとか鍵を開け、家の中へと透を運んでいった。

 透を一度、居間へと運び、ソファの上に寝かすと、そのまま寝室へと向かい、布団を二組敷く。

 一つは、敬人の布団だった。

 もう、ここ三カ月近く、誰も眠っていない布団。

 シーツや枕のカバーを透用に新しいのに取り返ると、美陽は、敬人がそこにいた時と同じように、布団を二つ横並びにした状態でセッティングし。

 居間へと戻って、ソファの上でずっと眠り続ける透の体を横抱きに抱え上げると、寝室へと真っ直ぐ運んでいった。

 透は、まったく起きない。

 どれだけぶりに泣いたのかはわからないが、何かの糸が切れてしまったかのように眠っている。

 透を抱きかかえたまま、寝室の中へと入ると、美陽は透を、敬人の布団の上にそっと寝かせていった。

 美陽の布団の隣に誰かが眠るのは、とても久しぶりで。

 そこに人を寝かしてみると、どこか不思議な感覚を覚えていた。

 それは、なんて言うのだろう。

 いつも、そこにいたのは敬人で。

 でも、今、眠っているのは敬人の半分の体にも満たない大きさの透で。

 いるべき人がいなく、違う人が寝てるという、違和感に近いのかもしれない。

 隣に布団を敷いているのに、いるはずの敬人はいない。

 美陽はそれを痛感すると、急に胸が、嫌な音を立ててざわざわしたものに襲われてくるような気配を感じ。

 慌てて、意識をグッと閉じる。

 それ以上考えないようにしないと、美陽の心には、一気に寂しさや不安が襲ってきそうな感覚があった。

 一度、思考を無理やり止めると、美陽は熟睡している透の体に、そっとタオルケットを掛けていった。

 透の顔は、腫れもだいぶ治まり、元々の白い肌がしっかりと目に映るようになってきている。

  一人でいっぱい耐えて、頑張って、偉かったね。

 美陽は心の中で、透にそう声を掛けると。

 眠っている透の額から頭に掛けて、そっと優しく撫でていった。

 いつも、病室で、眠っている敬人にするように撫でていく。

  ・・・おやすみ、透君。

 美陽はそう心で呟くと、そっと透の額に唇を押しあてた。

 ぐっすり眠って、明日は元気になるよう、願いながら。













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