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星灯籠  作者: 杜月 佑衣
1/2

星灯籠 前編

一.三十日目


「神沢さん」

 背後から声をかけられて、美陽みはるは振り返った。

 戸口から顔を出した看護師が、会釈をしながらこちらを見ている。

「坂口さん」

 美陽は笑顔を向けると、椅子から立ち上がり、坂口さんの方へと体を向けた。

「ごめんね、話しかけてなかった?」

「いえいえ、大丈夫です。今日はこれからにしようかなと思っていました」

「そう」

 坂口さんは、気のいい顔で微笑むと、そのまま病室内へと入ってくる。

 柔和な表情は、そのまま坂口さんの人柄の良さを物語っている。

美陽はいつも、坂口さんの顔を見ると、ホッとする思いが生まれ。

坂口さんが来てくれる勤務の時は、いつもよりも朗らかな気持ちになっていた。

それはきっと。

眠っている敬人たかとも同じだろう。

坂口さんがベッドの横まで来ると、敬人の様子を眺める。

美陽も同じように、敬人の顔を見つめた。

今日も変わらず、ただ静かに。

眠り続ける敬人は、まったく何の反応も示さない。

ただ、呼吸をしているだけ。

それだけの、存在になってしまっている。

「今日は、良い顔してるわねー」

 坂口さんは、笑顔で敬人の顔にそう言いながら、敬人に掛けられている布団を静かにめくり、背中に手を入れ、そのまま寝返りを打たせた。

「このままいったら、病院じゃなくて、家で看れたりするんですかね」

 美陽は、敬人の背中の様子を見ている坂口さんに話しかけた。

「そうねぇ・・・先生がどうするかによるけど・・・」

 手慣れた手つきで、敬人の介助をする坂口さんは、「でも・・・」と言って、軽く唸る。

「家で看たいの? 美陽さん」

 坂口さんは顔を背後に立っている美陽に向け、笑顔で尋ねた。

 美陽は少し口の端を上げながら、コクリと頷いて返す。

「その方がいいのかな、って思ったり」

 美陽の言葉に、坂口さんは少し目を伏せながら、敬人の体をまた元の位置へと戻していく。

「でも、ひとりで介護は大変よ」

「そうですね・・・」

 美陽は俯きながら、呟く。

 思いを馳せるのは。

 敬人と暮らしてきた、小さな一軒家だ。

 平屋で、バス、トイレは別々になっていたが、十五畳の居間と六畳の和室が一つ、八畳の洋室が一つと部屋が二つしかない。

 当時住んでいた島の住人が、島から本州へ移住する事になり、子供も居ないし、もう誰も住まないから好きに使いなさい、と、敬人がタダで譲り受けた一軒家だった。

 古かったし、小さかったし。

 これから子供を授かりでもしたら、住むには厳しいかもしれないと思うような小さな一軒家だった。

 それでも、新婚で、この島に渡って来た敬人と美陽には、この小さな一軒家がどれだけ古くて、みすぼらしく他から見えたとしても、二人にとってはお城のような感覚だった。

 敬人は、とても物を大事にする人で。

 古いこの小さな一軒家を、今風の家よりずっといい、と、気にいっていたし。

 美陽も、今ではなかなかない大きさの一軒家が、逆に貴重に思えていた。

 『私たちのお城だね』

 そう言った美陽に、敬人は、嬉しそうな顔で美陽を見つめた。

 とても愛おしそうな瞳を向けて。

 初めて、この家で夜を明かした時。

 二人は並べた二つの布団を、隙間もないほど寄せてはいたが。

 いつしか、一つの布団へ寄せ集まるかのように体を添わせ。

 お互い見つめ合いながら、自然に微笑んでいた。

 敬人の手が、美陽の頬に触れると。

 美陽もまた、敬人の頬に手をあてた。

 二人だけの空間は、とても優しく、安らぎを与え。

 互いに、目の前の人が、ただただ、愛おしかった。

 これから二人でずっと暮らしていきながら。

 やがて、子供を授かるだろう。

 その頃には、狭い家だとちょっと困るな、なんて。

 笑いあったりするのだろう。

 そんなことを、ぽつりぽつりと。

 なんとなしに、言葉にしていた。

 愛おしく。

 ただ、愛おしく。

 相手の肌のぬくもりも、感触も。

 永遠のように思えた。

 見つめ合いながら、自然に重ね合う体と心は。

 互いを引力のように、引き寄せ続ける。

 敬人と美陽は、美陽の母をきっかけに知り合い。

 優しい敬人は、美陽と美陽の母の手助けをするようになり。

 そうしていく中、美陽と敬人は、互いに自然に惹かれあうようになり。

 距離を少しずつ縮めていった。

 やがて、時間の経過とともに、互いの距離はやがて0になり。

 二人は『ずっと』を意識しながら、共に時を重ね。

 結婚、という言葉が、意識の中で当たり前の存在となり。

 知り合ってから、一年経たずに結婚をした。

 敬人は、結婚したい意思を美陽に告げた時、美陽は自分と同じ気持ちだったと、とても喜んでいたのだが。

敬人はその時、昔から自分が描いていた未来図を、美陽に話した。

「美陽と結婚して、光島に移住し、そこで子供を育てながら死ぬまで暮らしたい」

 美陽は一瞬、何を言われたか理解できなかったが。

 美陽は、結婚してからも、このまま地元で保育士の仕事を続ける予定でいて。

 結婚しても続けます、と、職員たちにも、そう話していたからだった。

 急に何が起こったのかわからなかったが、美陽は言われた言葉を、心と頭で噛み砕くようにしながら反復し、敬人を見る。

 敬人は、真っ直ぐ美陽を見つめていた。

 理解してほしいんだ、とでもいうような。

 真っ直ぐで凛とした目だった。

 美陽は、その目をしばらく見つめていると。

 美陽の心は、自然と定まっていった。

 どこまでも、行こう。

 ついていこう。

 あなたと一緒なら、どこにでも。

 美陽はそう決めると、敬人に笑顔を向けて。

 深く一度、頷いた。

 敬人はその美陽の答えに、心から嬉しそうな顔をして。

 美陽に近づくと、そのまま美陽を抱き寄せた。

「有難う」

 敬人は、美陽を大事だと言わんばかりに、ギュッと抱きしめながら。

 美陽の顔の横で、心をこめて、そう呟く。

 美陽は、それを真っ直ぐに受け止めて。

 敬人の背中にしっかりと両腕を回すと、もう一度深く頷きながら、敬人と同じくらいの力で強く抱きしめた。

 それが、美陽の、心の底からの返事だった。

「先生、まだ診察してるから、もう少し待っててくれる?」

「あ、はい。全然大丈夫です」

 敬人の体勢を整えてくれると、坂口さんは美陽に笑顔で尋ね。

 美陽は同じく笑顔で頷いた。

「仕事をし続けながら、敬人さんを看ていきたいな、と思ったの?」

「・・・そうですね。でも、そうなると、ちょっと仕事は・・・」

 美陽が曖昧な言い方で濁すと、坂口さんは、美陽に気遣うような目を向ける。

「今続けている事は、続けた方がいいんじゃない?」

「そう・・・ですかね」

「そうよ。敬人さんが元気になった時、また復職するのもしずらくなっても困るでしょ」

「・・・確かに」

 基本的に、人口の少ない島だ。

 美陽が抜けてしまった穴を埋める為、誰かを雇ってしまうと、もう美陽の入るスペースはなくなってしまうかもしれない。

「それに、介護にだけ没頭するような生活になると、美陽さんの精神状態にも良くない気がする。朝から晩まで、ずっと一人で閉じこもってしまうでしょ?」

 その言葉には、美陽も黙ってしまった。

 一日中、目覚めることのない敬人と一緒にいると、悲しみと辛さが押し寄せて、自分のすべてを奪ってしまうような事があるかもしれない。

 ただでさえ、時折、そんなものが襲ってきそうになって。

 美陽は、そこに自分がさらわれないよう、防御策を取っている。

 自分だけの、防御策を。

「先生、手が空いたら顔を出すので、待っててね」

 坂口さんは、美陽を労わるような目で包み込みながら、優しく言い。

 美陽も、坂口さんに小さく微笑みながら、コクリと頷いた。

 坂口さんは、そのまま部屋を後にし。

 美陽と敬人だけの空間が、また静かに訪れ始める。

 美陽は、眠っている敬人の顔を、静かに見つめる。

 ずっと穏やかに、眠り続ける顔を。

 誰よりも、愛しい顔を。

 美陽は、ふと。

 敬人に、甘えたくなる感情が押し寄せてきて。

 敬人の上にかけられている薄手の掛け布団を、そっと胸の下までずらすと。

そのまま、パジャマ姿の敬人の胸に体を近づけ、敬人の胸の上に頬をつける。

 すると、トクン、トクンという、規則正しい心音が、美陽の耳に届いてきた。

 美陽は、その音に耳をすませると、いつも心が穏やかになっていくのを知っている。

 安堵に包まれながら、そっと目を閉じる。

 柔らかな、子守唄のようだ。

 何よりも愛おしい、子守唄。

 パジャマを通してはいるが、敬人の体のぬくもりが、徐々に熱く届いていく。

 そうすると、美陽は自然に思い出していた。

 いつも、一緒に並んで眠る時。

 敬人の胸に、頬を寄せると。

 安らぎが一気に押し寄せてきて、美陽は此処に居られる幸せを、そのぬくもりから強く実感する。

 ずっとこのままでいたいと、敬人に甘える気持ちが湧いて、そのまま敬人の胸に抱きつくように手を回すと。

 やがて敬人の腕が、美陽の肩へと回ってくる。

 敬人の大きな手が、美陽の首の下をくぐり抜けると、そのまま美陽の頭を包み込むようにして、何度も何度も、優しく撫でていく。

 そんな時、美陽は安堵で満たされながら、ゆっくりと微笑む。

 何もかもが愛おしく感じる時間が訪れると。

 美陽は泣きそうになる思いで、この時間とぬくもりが消えないように、と、目を閉じる。

 このままずっと続けばいい。

 そう思っていた。

 そう思い続けていたんだ。

 今、敬人の腕は、美陽の首の下には入らない。

 頭を包み込むように抱きしめられたり、撫でられる事もない。

 それでも、美陽は、敬人の胸のぬくもりを確かめたかった。

 此処に間違いなくあるのだと、感じ続けていたかった。









 しばらく、時間が経ち。

 ふと。

 美陽は、かなりぐっすりと眠ってしまっていた事に気が付き。

 慌てて、敬人の胸から顔を上げ、ここが病室内だと再度確かめると、すぐに敬人の体の上から体を起こした。

「ごめんね、敬人。重かったでしょ」

 美陽は、気遣う瞳を向けながら、敬人に詫びる。

 どれくらい眠ってしまっていたんだろう。

 美陽は、そう思いながら、壁にかけられている時計に目を向けた。

 表示されている時刻を見ても、実際眠った時間がわからない分、正確には確認できないが。

前後の時間を考えると、たぶん、二十分位は眠ってしまってるように思えた。

 きっと重かった事だろう。

 美陽は、ずっと頭を乗せ続けてしまった敬人の胸に手をあてると、申し訳ない気持ちで、優しく何度も撫でた。

 重かったはずなのに、敬人は嫌な顔をひとつもする事もなく。

 苦しげな顔をする事も、なく。

 今も、ただ、穏やかに、静かに眠っている。

「本当にごめんね」

 美陽は小さく、そう呟きながら。

 胸を撫でるのを止めると、今度は敬人の頬から前髪まで、優しく撫で上げた。

「敬人」

美陽は優しく、声を掛ける。

「あなたが眠ってから、今日で、三十日目だよ」

 美陽は、そう。

 敬人に話しかける。

 一体、いつ目覚めるのかわからないまま、時間だけが過ぎてゆく。

 何度、願った事か。

 あなたの笑顔がまた見たい、と。

 美陽は、敬人の額から頭にかけて。

 ゆっくり、ゆっくりと、撫で上げる。

 手のひらに感じる、少し硬めの肌の感触。

 今は、少し冷えて、小さく感じるぬくもりも。

 大事にいとおしみながら、撫で上げる。

 何度も優しく撫でていると。

 美陽の手のひらの熱と合わさり、徐々に、敬人の肌の温度が上がっていく。

 そのぬくもりに、心が和む。

 美陽は、敬人の顔の上に、ちらちらと細やかに射す。

 病室の、レースのカーテン越しに射す陽の光を見つけ。

 ふと、窓の方をへと目を向ける。

 今日は晴天だ。

 窓からは、柔らかな日差しが差し込んでいて。

 敬人の顔も、優しく照らしてくれている。

 美陽は、敬人を撫でたまま、窓の向こうの景色に想いを馳せる。

 病室がある、二階の窓から外を眺めると。

 美陽と敬人が暮らしている家が見える。

 この病院は、島の中央に位置する山の上の方にあるのだが、ちょうどこの病院から三キロほど下に、美陽たちの家はあり。

 窓から覗けば、ふもとに並ぶ家々の一つとして、目に留めることが出来る。

 美陽たちの家は、この島では割と珍しい瓦屋根で。

 しかも、その瓦屋根はかなり年期が入っていて、若干みすぼらしくも見えるものだった。

 その為か、上から見ると、日中はその古めかしい感じが逆に目立ち、視界に入れたくなくても目に入ってくるようになっている。

 その古めかしい屋根を、敬人はとても気にいっていた。

 この屋根がまたいいよね、と。

 ただ、現実は、雨がひどいと、一、二ヶ所は必ず雨漏りする場所があって。

 最初、それに気付いた時は、敬人は慌てて美陽に報告に来た。

「どうしよう、俺、直し方知らないよ」と。

 美陽は笑いながら、

「じゃあ、何か受けられる物を置いて水を溜めておいて、溜まったら都度捨てればいいんじゃない?」と。

 気楽な返事を返し。

 敬人はその返事に、「そうだね」と言って、二人で笑いあった。

「そんな風情もいいじゃない。この家の古めかしい雰囲気が増して」

 基本、楽観的な美陽は、敬人にそう言いながら、台所のシンクの下の扉を開き、そこからボールを二つ取り出すと、二ヶ所、雨漏りしている場所に置いた。

 幸い、雨漏りしている場所はカーペットの上ではなく。

 どちらも、下は木の床になっている場所で、廊下の天井と、トイレの天井からだった。

 島に来る前、百円均一の店で、敬人と美陽は必要だと思う物を買い漁り。

 そこで用意した四つのボールが、本来の使い方ではないが役に立っていった。

 美陽が、雨漏りをしている場所を天井を見て確認しながら、トイレと廊下の床に順番にボールを置いた時。

 美陽の体は、いきなり敬人の腕の中に吸い込まれた。

 背後から、いきなり、抱きすくめられるようにされ。

 美陽はボールを置く為、屈んで起こしかけた体を捉えられたので、そのまま背中を敬人の胸へと預けていく。

 敬人は、体を預けてきた美陽を、ギュッと抱きしめながら。

 その柔らかな感触を、しばらく確かめるかのように、静かに抱きしめ続けた。

 敬人の顔が、美陽の肩に埋められ。

 美陽はそんな敬人の頭に、自分の頭をそっと倒し、コツンとつける。

「ついてきてくれて、有難う」

 敬人は、美陽の肩の上で呟く。

 その呟きは、とても気持ちがこもっていて。

 敬人の、深い想いは熱を持ち、吐息交じりに美陽の肩の上に零れると、

 肌の奥へと染み通るように、美陽の肩を熱くする。

 美陽はその熱を感じながら、柔らかく微笑んだ。

「どこに居てもあなたがいてくれれば、私はそれだけでいいから」

 美陽は、そう言うと。

 自分の体に回されている、固くて太い腕に触れた。

 しっかりと巻きついている、この二つの腕に。

 今までもたくさん、支えてもらった。

 敬人にしてみれば、それは自分もだよ、と言うかもしれない。

 けれど、美陽は、それ以上の気持ちを敬人に持っている。

 尊敬と感謝。

 美陽の心には、いつも。

 敬人に対して持っている気持ちの、根っこの部分はそれがあり。

 その分、いつも出来ることを敬人にしたい、と思っていた。

 敬人が喜んでくれる事をしたい、と。

 そんな気持ちにさせてくれる男性に出逢えたのは、美陽は初めての事だった。

 美陽が、敬人に出逢った時は。

 記憶に残る事が難しいほど、めまぐるしい毎日に忙殺されていて。

 心も失くしてしまいそうになっていた時だった。

 時間だけが、ただ。

 自分の周りを上滑りのように過ぎていく。

 そんな感覚があった。

 その頃、美陽は、母親の介護をしながら、保育士の仕事を続けていて。

 母一人、子一人の美陽の家庭では、母が倒れれば介護をするのはあたりまえの事だったが。

 保育士という、時間が一般企業とは違って不規則な時間帯で働き、残業も多く、給料も少ない職種では。

 母親の面倒をしっかりと見たくても、思うように見れない状況が続いていた。

 母親が、急に患ってしまった、アルツハイマー病。

 まだ、六〇代になったばかりの時に、それは訪れた。

 ある日のこと。

 買い物に行ってくるね、と、昼から外出していた母親は。

 帰宅しようと歩いている中、今居る場所がわからなくなり。

 家に帰れなくなってしまったのだった。

 その日、休みだった美陽は、平日に終えることが出来なかった仕事を家に持ち帰り、クラスの壁面を飾る制作物を作り続けていたが。

 夕方五時には帰宅すると聞いていたのに、八時を過ぎても戻らない母親の事を気に掛けていた。

 いつもなら、連絡をしてくるはずなのに。

 今までだと、母親は何かがあって遅くなる時。

 必ず、美陽に電話かメールで連絡を寄越していた。

 実直で、真面目な性格の母は、そうしないと気が済まない、と。

 美陽が、読む、読まない、返事をする、しないに関わらず、いつも律儀に自分の予定に変更があれば、すぐさま連絡を寄越す。

 その律儀さが、大人になって仕事に追われるようになった美陽には、少し面倒に思う時があり、真面目に電話に出たり、返信をする時もあったが、母親のそういう性格に慣れてきている気持ちが強く、着信があっても、どうせまた伝えていた時間より十分遅れるとか、そう言う事でしょう、と。

 着信音が鳴っているのがわかっていても、電話に出ない時もあった。

 そうしていると、いつも母親からは、大体三度ほど着信が続き。

 反応せずに居ると、やがて、用件が書かれたメールが届いてくる。

 それがいつも、『言っていた時間より十五分遅れるから』というような内容だけに。

 ハイハイ、と言った気持ちで確認し、メールを返さず、そのまま閉じる。

 気が向いた時は、たまに、『わかった』とか『気をつけて』と、短い返信をしていたけれど。

 出かけていたり、リアルタイムにチェックできない時や、何かしていて面倒な時は返信はしないでいた。

いつもはそんな感じだった。

 なのに。

 その日、三時間を過ぎても一向に連絡を寄越さない母親に。

 さすがに美陽も不安を覚え、何度も、携帯を鳴らしたり、メールを送ってみたものの。

 一向に応答がなく、メールの返信もない状況が続いていた。

 状況がおかしい事を感じながらも、美陽はどうしていいのかわからず。

 やがて、時計が九時を回る頃には、美陽はとうとう落ち着かなくなり。

 もう少しで出来あがる状態だった制作物を放り出し、スウェット姿の室内着から、Tシャツにパーカー、ジーパン姿になると。

 小さめのショルダーバックに財布とスマホと家の鍵を入れて、玄関へと向かい、そのまま外へと飛び出していった。

 普段、利用している電車の駅から家までの通り道は、ただひたすら真っ直ぐで。

 昔からあるアパートは、小さくて古いものだったけれども、立地だけはすごく良く、最寄駅から十分もしないで着く距離だった。

 美陽は暗くなり、外灯だけがぽつぽつと付いている道を、ひたすら真っ直ぐ小走りに歩き続け。

 最寄駅まで来ると、改札の前で母親を待ち続けた。

 待ち続けている間も、ずっとスマホの画面はチェックしながら。

 合間に、母親へ電話を鳴らし、メールを送り。

 着信が来るか、返信が来るかを待ち続けた。

 たくさんの人が、電車が来るたび、改札へと押し寄せてくるけれど。

 肝心の母の姿を見かけることはなく。

 美陽は、これはきっと途中で何かがあったのだと思い、どうしていいのかわからないまま、一度、スマホの電話を掛ける画面で一一〇と入力し、警察へとかけてみた。

 繋がった先で応答してくれた人は、事情を聞いてくれ。

 担当の部署に話して欲しいと電話を回してくれた為、美陽は回された先で出た人に事情を話した。

 調べるから待ってほしいと言われ、一度電話を切り、話した人からの折り返しを待っていると。

 五分程して警察から着信が入った。

 電話に出ると、、どうやら此処から三つ隣りの町の交番で、保護された女性がいるというのがわかったと聞き。

 美陽は、既に十時を過ぎてはいたが、そのまま、三つ隣りの町の交番へ向かう為、電車に乗り込んだ。

 美陽が住んでいる駅から、三つ隣りの町は、電車を乗り継いで一時間はかかる場所だ。

 なぜ、母親が急に、美陽に何も相談せず、そんな場所に行ったのか。

 まったく訳がわからないまま、一時間電車に揺られ、三つ隣りの街へと辿り着くと。

 駅から、程遠くない交番へと向かって歩いていった。

「すみません・・・」

 美陽が交番に辿り着いた時には。

 もう、二十三時を過ぎていて。

 交番の周辺は、外灯しかない状態で暗かったが、交番だけは壁につけられているライトのせいで煌々と明るく。

 闇の中、そこだけ浮かび上がるように建っていた。

 その明るさは、不安でいっぱいになっていた美陽の目には、解決への手掛かりを示す希望のようにも感じられ。

 交番に近づけば近づくほど、美陽は少しずつ、ホッとしていた。

 美陽が、ガラスがはめられた引き戸に手を掛け、静かに横に開けていくと。

 オフィスにもあるタイプの無機質な机が一つ、戸口に向かって置かれており、周辺には丸椅子とパイプ椅子を含め、三、四個置かれていたが。

 人は誰も居なかった。

 美陽は、交番の中へと足を進めて、引き戸を閉めると。

 きょろきょろしながら誰かいないかと、その場で立ちつくしていた。

 すると、奥のドアが開いて、制服姿の警官が現れ。

 美陽を見つけると、「はい、どうしました?」と声をかけてくる。

 美陽は慌てて身を正すと、ペコリと小さく頭を下げた。

 母親が見つかったらしいと聞いてやって来た旨を伝えると、三十代位だろうか、大柄で少しぽっちゃり気味の警官は、「ああ、ハイハイ!」と合点がいった表情をして、中の部屋へと再度入っていく。

「おばあちゃん、娘さん迎えに来たよ」

 美陽は、母親を『おばあちゃん』と呼ばれた事に対して、その時、軽く不快感と違和感を感じていたものの、戸口の側で立ちながら母親を待っていたところ。

 警官に片腕を支えられように、一人の女性が出てきた。

 美陽はすぐに、「お母さん」と声を掛けるつもりだったのだが。

 その女性の姿を見た瞬間、その女性が誰か分からず、美陽は黙ってしまった。

 母親は、律儀で真面目な人だったが。

 雰囲気は固い感じではなく、とても穏やかで、面持ちも優しく。

 よく、美陽の友達や近所の人は、母親の事を、しっかりしていて優しい雰囲気だ、と言っていたものだ。

だが、警官から腕を掴まれて支えられた状態で出てきたその人は。

 本当に見た目が、おばあちゃんのように思えた。

 ぼうっとした顔、ぼうっとした目。

 生気を感じられない顔で、顔を斜め下に向けたままで、腕を引かれて警官と歩いてくる。

 そのまま、美陽の傍に来ても、母親は美陽の方を見ず。

 ぼんやりと、うつろな顔で、斜め下を眺めているだけだった。

 その目には、覇気が全くなく。

 斜め下を眺めてはいるが、その目も焦点が定まっていないようにも見える。

 美陽は、まったく信じられない気持ちでいたが。

 表情や、雰囲気はまったく別人のようでも、そこにいる人は紛れもなく母親なのだと。

 服装や、髪型や、顔を再度しっかり見る事で、確認できていた。

 ただ、家から出掛けていった昼の母親とは、一気に容貌が変わってしまったような姿を目の当たりにして。

 美陽は、どうしていいのかわからず、困惑したまま立ちつくしていた。

 警官は、そんな美陽の様子を見ると、一度事情を話した方がいいと思ったのか。

母親を、机の近くのパイプ椅子に座らせ、ここに座って待っていてね、と声を母親の顔を覗き込みながら話しかけていた。

 けれど、母親は、椅子に座っても尚、斜め下を眺めていて。

 警官の言葉にも、何も反応を示さない。

 どうしたらいいのかわからないままの私の前に、警官は会釈しながら歩いてくると。

 黒ぶちの四角い眼鏡を指で押し上げながら、私の前に立ち、話しかけてきた。

「おばあちゃん、認知症かな?」

 その、思いもよらない問いかけに。

 美陽の顔は歪み、眉を寄せて警官を見る。

 何て事を言うのだと、詰るような思いで見つめたが。

 警官は、冷静な表情で、美陽に問いかけてきた。

「おばあちゃん、病院や施設には通っているのかな?」

 警官が、さっき美陽が母親を迎えに来たと言ったにも関わらず、すっかりおばあちゃんだと思ってしまっているのは。

 たぶん、今まで見てきた認知症のおばあちゃんやおじいちゃんが、こんな雰囲気だったからなのかもしれない。

 美陽は、認知症だと断定するような言い方で問いかけてきた警官に、非難の目を向けていたものの。

 冷静な警官の態度と、それ以上の正解はないような物言いに。

 徐々に、今の状況が、どんな状況なのかを受け止めだしてていた。

 今まで、一人で来た事もないような、三つ隣りの駅へと来て。

 何も分からない顔で、ぼんやりと斜め下を眺めながら見ているその人は。

 いつもの母親より、十も二十も老けて見える。

 今日の昼。

「じゃあ行ってくるからね」と。

 昼ご飯を食べていた美陽に笑顔を向けて、アパートを出ていった。

 その母親と、居間の母親は、同一人物ではない。

 それだけは、理解していた。

 美陽は動揺を抱えながらも、なんとか現状を受け止めようとし。

 警官には、改めて「おばあちゃんではなく母親です」と答えると、今日、外出するまでの状態を説明し。

 警官は、固い表情で話を聞き、頷きながら理解を示していた。

 美陽が思った通り、認知症を患った人が、こうやって交番で保護される場合は少なくなく。

 今回も、たまたま、駅から出て二十メートル程の歩道に、へたり込んで座った状態で斜め下を見続けている母親を、通りすがりのサラリーマンが声をかけてくれたものの。

 母親がまったく反応を示さない為、体を抱きかかえるようにして持ち上げ、腕を掴んで一緒に歩き、この交番へと連れて来てくれたらしい。

 警官は、連れてこられた母親の姿を見ると、これは認知症だろうと思い、そのまま預かり、捜索願が出ていないかを確認していたとの事だった。

 美陽から、警察を通じて交番へと連絡が来たのが、それから一時間もしなかったという事で、結果、引き取りに来ると言った美陽を待つ事になったと聞いた。

 私は、警官からの淡々とした説明を、どこか意識の遠くで聞いていた。

 目の前にいる母親が、一瞬にして別人のようになる。

 こんな現実を、今すぐ受け容れろというのか。

 警官の話を聞きながら。

 視線を少し、右へずらすと。

 今もまだ、顔を横に傾け、右斜め下をぼんやりと見つめている母親が視界に入る。

 警官の、どこまでも淡々とした声を、頭の奥で聞いていると。

 徐々に涙が浮かびそうになっていた。

 現実は、時に。

 こんなにも、残酷だ。

 こんなにも。

 美陽は、ただただ。

 今まで、見た事がない状態の母親の前で。

 途方もない不安と孤独が、まざまざと押し寄せてくるのを感じていた。









「美陽さん」

 後ろから聞き慣れた声がして。

 美陽は、いつの間にかぼうっと回想に耽っていたのを、ハッとして止めると。

 慌てて後ろを振り返った。

「あ・・・こんにちは」

 美陽は、声を掛けてきた人を確かめると、ぼうっとしていたのを取り繕うように笑顔を向けた。

 それは、敬人をずっと診てくれている女医さんだった。

 この島に渡って来て、すでに十年が経過している先生で。

 島に住んでいる人たちからも、大変信頼の厚い先生だった。

 有名な大学を出て、そのまま大学病院でしばらく働き続けた後。

 この島に、単身で渡って来たらしい。

 島に、たった一つしかない病院。

 けれど、島の規模からすると、この病院は大きめの病院だった。

 入院施設もあり、ベッド数は僅か五床だが、ほとんど入院する人がいない事を考えると、それは十分の数だった。

 敬人は、先生の厚意で、一人部屋を与えられている。

 島は、高齢化が進み、住民は大体が高齢者だが。

 この島は気候に恵まれ、作物が育ちやすい環境の島なので、百歳近くになっても農業や漁業を続けている人も多く。

 なんでも出来るおじいちゃん、おばあちゃんが多く、どの人も体は剛健で、実際、病院にかかる人も、都会に比べると驚くほど少ないらしい。

 先生は、剛健とはいえ、これからも島の皆が病気にならないような工夫をしたい、と、

 月に数回、島の中の公民館で、健康維持が出来る食生活の話や、運動や体操の指導を行っている。

 とても活き活きとした先生で、いつも笑顔で明るく、元気の良い人だった。

「今日は天気も良くて晴れてるから、敬人君も気持ちいいと思ってるんじゃない?」

 ニコニコと微笑みながら、先生は美陽に近寄ってきた。

「そうですね、本当に」

 美陽は先生に同意しながら、微笑み返す。

「家で看たいって言ってるって、さっき坂口さんに聞いたけど、本気?」

 先生は、美陽の前で立ったまま、軽く腕を組み。

 ん?とでも尋ねてくるような顔で、首を少し横に倒す。

 美陽は、目を伏せて、コクリと頷いた。

「その方が、ずっと傍にいられるから、常に話しかけやすいかな、とも思ったり」

「話しかけ続けていると良い影響があるというのは、私も聞く話だから。気持ちはよくわかるけど」

 先生は腕組を解くと、少し目線を下げている美陽へと手を差し出し。

 ポン、と、その手を美陽の肩に優しく乗せた。

 労わるかのように、何度か、トン、トン、と、肩を優しく叩いていく。

「でも、仕事もしているから大変でしょ。万が一何かで急変した時は、どうするの?」

 優しく問いかけられ、美陽は目だけではなく、顔を伏せた。

「早く意識が戻って来て欲しい気持ちは、痛いほど理解できる。けど、焦っても仕方ないところがあるわね」

 先生は。

 諭すように、美陽の肩を優しく撫でた。

「敬人君の場合、一度全て大学病院で調べている上での、意識が戻らない状況だから、急変するような確率は少ないかもしれないけどね。でも、家で看るのは大変よ」

「・・・私、もっと、何か出来るんじゃないかって」

 美陽は、肩を撫でられ続けているうちに。

 その手の温もりが、自分の心に渦巻く不安を薄めてくれるような気がして。

 素直な気持ちを、ぽつり、ぽつりと話し始めた。

「敬人は、私の母親が倒れた時。本当に私と母の傍にいつも居てくれるような状態でした。母親の病状が重くなり、入院するようになってからも、仕事が終ったら私を保育園へ迎えに来て、病院へと一緒に行ってくれて。一緒に母親に話しかけたり、世話をしてくれた後、私を家まで送ってくれてたんで」

「車で来てくれたの?」

 先生の問いかけに、美陽は小さくクスッと笑った。

「いえ、自転車です」

 そう言うと、美陽は顔を上げて、先生を見る。

「敬人らしいでしょ」

「そうね」

 お互い、クスクスと笑いあう。

 それは、敬人がどういう人か知っていての、共有できる気持ちだった。

 敬人は、余計な物は持たない人だった。

 可能な限り、自分で出来る範囲の物だけで動く。

 余計な物を持たないから、お金もかからない。

 基本、動ける体があればそれだけで十分だから、と。

 本当に、生活に必要な物しか持っていない人だった。

 美陽は、母親をきっかけに敬人と知り合い

 やがて、自然に付き合うようになった後。

 敬人が、所有している物の少なさに驚いたものだ。

 知れば知るほど、敬人は、美陽が知っている誰よりも優しく、穏やかで。

 とても物と人を大事にする人だった。

 元々、そういう人なのかと思っていたが。

 敬人は、実は、親が居なく。

 生まれたその時に、児童養護施設の前に捨てられてしまった敬人は、そのまま施設で育てられきたとの事だった。

 施設にいる理由はそれぞれでも、親を失った境遇の子供たちの中で育ってきた敬人は。

 関わってくれる施設の職員や、子供同士の関わりの中で、自然に、人は支え合う事が大切だと。

 学んでいったらしい。

 敬人が、小学校に上がる頃には。

 あいつは施設で暮らしてるんだ、と、親がいないということで、変な差別を受けたり、悪口を言われたりしていたこともあったそうだが。

 それでも、敬人は捻くれず。

 そうやってしてくる相手に対しても、変わらず優しく接していったらしい。

 どうしてそうしていたのか、と尋ねると。

 そうやってしてくる人たちもまた、いつ、自分と同じ立場になるか分からないから、と。

 ある夜、敬人は、美陽を抱きしめながら、そう話してくれていた。

 どうして、そんな幼い頃から。

 誰かの立場を想う事が出来るのか。

 自分も、中学の頃、父を失い、母と共に暮らしてきたが。

 そんな風には思って来れなかった。

 美陽が、自分がダメな存在のように思えると、腕の中で敬人に言うと。

 敬人は優しく微笑んで、言った。

 それは、元から出来たわけじゃなくて。

 関わってくれた、途中から親代わりになってくれた、おじいちゃんとおばあちゃんがいてくれたからだよ、と。

 話してくれた。

「おじいちゃんと、おばあちゃん?」

 美陽が、敬人の暖かい胸から顔を上げ。

 敬人の顎の辺りを見上げると。

 敬人は、優しい瞳を、美陽に向けた。

「施設に遊びに来ていたおじいちゃんとおばあちゃんがいたんだ。その二人は、いつも施設で暮らしている子供たち全員に声を掛けたり、一緒に遊んだりしていた。そのうち、おじいちゃんとおばあちゃんは、小学生だった俺を引き取りたいと言って来たんだよ。どうしてかわからないけれど」

 敬人は、そう話すと。

 美陽を見ていた目を、また上へと向けた。

 美陽の目からは、敬人の顎の下が見える。

 敬人はどこか、遠くを見ているようだった。

 今は亡き、二人を思い出している。

 そんな風に美陽の目には映った。

「おじいちゃんとおばあちゃんは、俺に大事な事を教えてくれながら育ててくれたよ。どんな事が起きても、何をされても、人を責めてはいけない。恨んではいけない。それよりも、人が喜んでくれる事はどんな事かを、思い、考えながら生きる人になりなさい、と」

「すごいね・・・」

 美陽は、敬人の言葉に感心しながら呟いた。

 どんな事をされても責めない、恨まない。

 人の中で生活してきて、それはなかなか厳しいのではないか。

 みんな、いつでもどこにあっても、誰かが非難されない日はないような気がする。

 自分は非難されなくても、誰かはされていたり。

 自分の身の周りではそんな事が起きない日も、誰かは誰かを責めたり、揶揄したり、非難する話を、人づてに愚痴で聞くこともあれば、テレビから流れてくる話で聞くこともある。

 人は、残酷だ。

 そう感じることさえ、あったのに。

 美陽の仕事は、保育士で。

 女性だらけの職場では、様々な事が起こる。

 陰で、誰かが誰かを責め、詰る声だって聞こえてくる。

 そんな中、黙々と働きながら。

 自分もまた、あんなように言われたりするんだろう。

 美陽は、そんな事を思いながら働いていた。

 自分は言わなくても、誰かは誰かを責める社会。

 そんな世の中。

 なのに、敬人を引き取ったおじいちゃんとおばあちゃんは。

 周りがそう言っても、敬人はするな、と。

 敬人に言って、育ててきたのだろう。

「おじいちゃんとおばあちゃんは、いつも言っていたよ。愛される事を求めるより、先に愛しなさい。目の前にいる誰かの為に、今出来ることがあるか考え、行動しなさい、と。俺は生まれてすぐ、施設に捨てられてそこで育てられたけれど、きっと捨てた親を憎むな、恨むな、という事と、愛されなかったという事実に捉われるのではなく、自分が愛していけばいいんだ、という事を、俺に伝えたかったんじゃないかな、と思っていたよ。大人になればなるほど、それを実感していった。なんで俺にそう言い続けていたか、おじいちゃんとおばあちゃんは、俺が高校を卒業してすぐ、この世を去る時に言い残してくれたんだけど」

 敬人はそう話しながら。

 腕の中にいる、美陽の髪に目を落とし。

 そっと、その柔らかな髪を優しく撫でる。

「そうして積み重ねた良い事や良い思いが、最終的に、いつしか俺を救ったり、支えてくれるような日が来る事に繋がるって。だから、続けていきなさい、と言っていた。おじいちゃんとおばあちゃんは、それが俺に向ける最大限の愛情だと、そう言っていたよ」

 敬人を引き取ったおじいちゃんと、おばあちゃんは。

 敬人の高校卒業をお祝いした後、それぞれ、順番に亡くなっていったそうだ。

 けれど、それはどちらも苦しむこともなく。

 どちらも、普通に夜眠って、朝起きるはずなのが起きてこなかった。

 そういう逝き方をしたらしい。

 当時の敬人は、ただ驚き、悲しく。

 ある朝、起きて来ないおじいちゃんを見にいくと、そこには別人のように冷たくなって、眠り続けているおじいちゃんを見つけ。

 敬人は、泣きながら、冷たくなったおじいちゃんを抱きしめたそうだ。

 その後、本当に後を追うように。

 ちょうど一週間後に、同じ逝き方でこの世を去っていったおばあちゃんをも、また泣きながら抱きしめたそうだ。

 その逝き方は、本当に眠ったまま、静かに息を引き取った逝き方で。

 どちらも、一切苦しんだ形跡がなかったらしい。

 立て続けに亡くなってしまったから、警察が家にやって来て、いろいろと敬人は事情聴取を受けたらしい。

 誰よりも家族として悲しんでいる敬人に対し、疑いの目を向け。

 おじいちゃんとおばあちゃんは、司法解剖にまで出される羽目になってしまったとの事だった。

 警察は、時には、取調室で、財産目当てで、二人に何かしたのではないか、と、敬人を詰問する時もあった。

 それでも、敬人は。

 おじいちゃんと、おばあちゃんが教えてくれた生き方を、忠実に守った。

 どれだけ警察に責められても、敬人は警察を責めなかった。

 どれだけ警察から嫌な言葉をかけられても、敬人はただじっと目を閉じ、その言葉が去るのを静かに待った。

 敬人は、ただ、真実を述べ続け。

 やがて、不審な点がひとつもないことがわかると、警察は手のひらを返したように、敬人に接し。

 取り調べを受けている容疑者から、急にお客様のような扱いをされるようになり。

 一人の警官は、敬人が釈放される日、玄関先までわざわざ見送りにきたらしい。

 それはまるで、余計な事を言うなよ、とでも言われてるくらいに。

 不自然な気遣いをする態度だったらしい。

 敬人は、警官の貼り付けられた笑顔に見送られながら。

 自分に掛けられた疑いが晴れたことだけ、安堵し。

 そのまま、おじいちゃんとおばあちゃんの遺体を引き取り。

 二人が元から、亡くなった時にと用意していたお墓の中に、遺志に添い、一緒に埋葬したらしい。

 敬人はその時、お墓の前で手を合わせながら。

 二人に『有難う』と言われているような気がした、と。

 まるでそう言われているかのように、陽の光が急にお墓の石材の上を照らしだしたのを見たらしい。

 それは、敬人が二人に向けた気持ちに応えてくれているかのようだった、と。

 過去を思い出し、懐かしそうな目をずっと遠くに向けながら、敬人は、ポツリポツリと呟くように話していた。

 敬人が教えられた生き方は。

 敬人が大人になっても変わらず、続けられていた。

 美陽と出逢った時も、そうだった。

 美陽と敬人は、今から一年半ほど前に。

 路上でバッタリと出逢ったのだった。

 けれど、それは、ナンパでも、出逢った瞬間に互いに何かを強く感じて、など。

 そんな始まりではなかった。

 その日、仕事から家まで帰る途中だった敬人は、駅の近くの歩道で、子供のように泣きだした母親の前で、困り果てながら声を荒げている美陽を見つけ。

 どうしたのか、と、美陽たちの後ろから近寄ると、声を掛けたのだった。

 それは、美陽が、一向に家に戻らない母親が、三つ隣りの街の交番で保護されているのがわかり。

 母親を交番へと迎えに行き、電車に乗って、二人で何とか家まで戻ろうとしている最中の事だった。

 住んでいる最寄りの駅に戻って来た時には、既に、0時を回っていて。

 真夜中なだけに、声を掛けてきた男性に不審な気持ちを抱いた美陽は、「何でもありません」、と答え、敬人に背を向け、泣いている母親の手を引いて、歩きだそうとした。

 だが、母親は、嫌だ嫌だと泣きながら言い、体を動かしてだだをこね始め。

 美陽が、握っている母親の手をさっきよりも強く引いても、一向に歩きだそうとしなかった。

 泣きながら嫌がる母親に、「ちゃんと歩いてよ・・・!」と。

美陽も思うように動かなく、意思疎通が出来ない母親に、気持ちが追い詰められる中、涙を流しながら、大きな声で母親を叱り。

 その声に大きさや鋭さに反応したのか、母親は、もっと大きな声で嫌だと言って、左右に身をよじって抵抗し始めた。

 一気に苛立ちを感じた美陽は、爆発しそうな思いを抱えたまま、母親の手を思いきり力づくで引いて歩きだすと。

 母親は、嫌がる自分の体の動きとは反対方向に引かれてしまった手のせいで、そのまま腕を捻ったような形になってしまい、「痛いぃい!」と絶叫するような大きな声で叫ぶと、そのまま歩道の上に転がってしまった。

 どうしていいのかわからず、ただ、おかしな方向に曲がってしまった腕を、すぐに離す事しか出来なかった美陽は。

 歩道に泣きながら転がっている母親の姿に、絶望感と、受け容れられない現実との間で、心と頭がパンクしそうになっていた。

 涙を零しながら地面に転がり、「痛い、痛いぃ」と喚くように叫び続ける母親のもとへ、半ば呆然としながら美陽は近付くと、自分も涙を流したまま道路に膝をつき、そのまま母親の体の隣に、お尻を落としてペタリと座りこんだ。

 母親は、もう。

 何も分からないのか。

 私の事も。

 何もかも。

 母親は美陽の前で、左右に体を倒しながら痛んだ腕を掴み、「痛い、痛い」とただ叫び続ける。

 美陽は、その母親の姿に、どうしていいのかわからず。

 涙をボタボタと地面に落としながら、歩道の上を転がり続ける母親に声を掛ける。

「お母さん、帰ろう。帰ろうよ。もう帰ろう」

 怒ったらダメだと、思い直した美陽が、優しい声で母親に声をかけても。

 母親は、痛みにだけ敏感になっているのか、「痛い、痛いよぉ」と言いながら、歩道を転がる事をやめない。

 やがて、母親の体が車道の方へ転がりそうになった為。

 美陽は慌てて片膝を立て、立ち上がって母親の体を起こすんだ、と、動こうとしたのだが。

 それより先に、敬人は、乗っていた自転車をすぐさま降り、歩道の端に止めて動かないようにすると。

 そのまま、美陽より先に走って、母親の元へと向かっていった。

 敬人は、車道の方へと転がっていった、母親の体の横に出ていき。

 その場にしゃがみこむと、それ以上、母親の体が転がり続けないようにした。

 そのまま「大丈夫ですか?」と気遣う言葉をかけながら、母親の体を背中から抱えあげるようにして一度起こすと、路上へと座らせる形を取らせた。

 そうすると、母親はなぜか、泣き声を上げなくなり。

 敬人の言葉に対し、『痛い』と叫ぶ事もやめて、大人しくしている。

 敬人は、その母親の状態を確かめると、「これ以上進むと車が来て危ないですから、歩道まで運びますからね」と優しく声をかけ。

 母親がじっと静かにしているのを確認すると、敬人はそのまま、母親の体をお姫様だっこのような形で抱え上げ、立ち上がった。

 母親は、あんなに『痛い、痛い』と言い続けていたのに。

 知らない人に抱え上げられ、嫌がるかと思いきや、敬人の腕の中ですっかり大人しくなっていた。

 美陽は、半泣きのような顔で、歩道の上で呆然と立ちつくしていたが。

 敬人は、母親を抱え上げたまま、美陽の前まで歩いて来ると、

「良かったら、お母さんをこのまま家まで送りますよ」と。

 優しい笑顔で、声を掛けてきた。

 その言葉に美陽は驚き、首を横に降って「大丈夫です」と何度も断ったのだが。

 敬人は、美陽を労わるように見つめ、言葉を続けた。

「大丈夫なようには全然見えないから。お母さんを送り届けたら、僕も家に戻ります」

 敬人はそう言うと、何も言えずにいた美陽に、「すみません」と申し訳なさそうな顔でお願いをしてきた。

「さすがに僕もこの状態で長くは歩けないと思うので、おんぶに変えたいんですけど、手伝ってくれますか?」

 美陽はまだ躊躇っていたものの、今はこれしか家に戻る方法がないと判断し、仕方ないという気持ちのまま、コクリと頷いた。

「お母さん、すみません。一度おんぶに変えたいので下ろしますが、またすぐおんぶしてお母さんを連れていくので、大丈夫ですからね」

 敬人は、抱き上げている母親の顔に向かって、そう優しく話しかけると。

 母親は大人しく抱かれたまま、敬人の言葉が理解出来るのか、コクリと小さく頷いた。

 美陽は、なぜ、ここまで母親が、今初めて会ったばかりの敬人に、こんなに素直になるのか理解できなかった。

 敬人は母親を気遣うように、そっと母親の体を下に下ろしながら、母親の足を地面に着かせると。

 そのまま美陽を見て、手助けをするように目配せをしてきたので。

 美陽は慌てて、地面に足をつけて中途半端な姿勢で立っている母親の背中の後ろに回ると、支えてくれていた敬人の腕に代わって、母の背中を胸で受け止め、支えるように後ろからそっと抱きしめた。

 もしかしたら、さっきのように嫌がるかと思うと不安になり。

母親の背中を抱きしめる際、少し躊躇いがあったのだが、母親はさっきとは全然違って大人しくなっており、美陽が抱きしめても、静かに美陽の胸に背中を預けていた。

 敬人は、母親の体の前で背中を向け、そのまま地面へとしゃがみこみ、片方の足を立ち膝状態にすると、後ろに両手を差し出してきた。

「いいですよ」

 敬人の声かけに、美陽は、

「お母さん、お兄さんがおんぶしてくれるからね」と声をかけ。

 抱きしめている母親の背中を、自分の体でゆっくりと敬人の背中の方へ押し出しながら、徐々に敬人の背中に抱きつかせるような姿勢を取らせた。

 すると母親は、まるで子供のような顔で、敬人の背中にもたれていき。

 顔を横に向けた状態で、頬を敬人の肩へと安心するかのようにくっつけていた。

「家はどちらですか?」

 母親をそのままおんぶして立ち上がると、敬人は美陽に顔を向けて尋ね。

 美陽は、家の方向を指さし、「十分くらいで着きます」と伝えた。

 敬人と美陽は、そのまま並んで歩きだし。

 敬人は、そのまま母親をアパートまで連れていき、二階にあるアパートの部屋の中まで、ずっと母親をおんぶしたまま入ってくれた。

 部屋に入ると、おんぶをしたまま待ってくれている敬人に対し、美陽はすぐに、寝室の畳部屋に行くと、素早く母親の布団を敷いていき。

 敬人は、その布団へと母親を連れていくと、敬人は布団の横で腰を下ろし、母親の体が布団の上へと降りていくようにしていく。

 美陽は、ずるずると敬人の背中から滑り降り、ぐにゃりと体を倒しながら布団へ膝をついていく母親の体を後ろから支えると、そのままゆっくりと布団の上に、体を抱きかかえるようにしながら寝かせていった。

 母親は、いつの間にか、敬人の背中の上で眠ってしまい。

 布団の上に寝かせていっても、目を覚ます事はなかった。

 交番に保護される前、何も訳がわからない状態のまま歩き続けていた分、体が疲れ果てていたのかもしれない。

 美陽は、母親の体に布団を掛けてあげながら、自分の向かい側で母親を労わるように見つめている敬人に、改めて礼を述べ、頭を下げた。

「本当に有難うございました。助かりました」と。

 敬人は、頭を下げる美陽に笑顔で首を横に降ると、すぐに立ち上がり。

「いえ。家に無事に戻れて良かった」と美陽に言った。

 その優しい言葉と、柔らかな笑顔を向けられ。

美陽は一瞬、胸を打たれたような思いになり、立ち上がった敬人を見上げていると。

 敬人は優しく美陽を見つめ返しながら、ペコリと小さく会釈した。

「じゃあ、僕はこれで」

 敬人はそう言って、さっきよりも深く会釈すると、そのままアパートの部屋を出て行った。

 真夜中だからだろう。

ドアの閉まる音が、気遣うような音で、小さく響く。 

 美陽は、その音を意識の奥で聞きながら。

 目の前で、眠り続けている母親を眺める。

 スヤスヤと、何事もなかったような顔で眠り続ける母親を見ながら。

 美陽はなぜか、敬人が去った小さなドアの音を、少し切なく感じていた。









「美陽さん」

 美陽はまた、ぼんやりと過去を回想し続けている事に気づいて。

 慌てて、ハッとした顔で目を見開くと、すぐさま先生の顔へと、顔を向けた。

 先生は、そんな美陽を少し静かに見つめていたが、優しくこう告げてきた。

「大丈夫? 少し疲れてるんじゃないの?」

 美陽はそう言われ、慌てて首を横に降った。

「いえ、大丈夫です。例のやつです」

 美陽がそう言うと。

 先生は、「わかってはいるけど」と言いながら、美陽を労わるように微笑んだ。

「今日、たまたま園長先生に会ったけど、来月発表会があるから、みんな残って仕事したり、家でも仕事してるから、みんなの体調が心配なのよねって言ってたわよ」

 先生の気遣いの言葉に、美陽は、それはそうだ、と思ってはいたが。

 出来ることがある今の状況の方が、美陽にとっては気が楽だった。

 何かに没頭できる時間がある方が、漠然とした不安に襲われる事も、寂しさや哀しさが訪れる事もないからだった。

「もし、あまり眠れないとかあったら、体を少しストレッチでほぐしたり、寝る前にはスマホを見ないとか、少し工夫をするとよく眠れるし、体の疲れも取れるわよ」

「はい・・・」

 美陽は、少し無理に笑顔を作りながら、返事をした。

「もし、あまり眠れないのが続くようなら、軽めの睡眠薬のようなものもあるから言ってね」

「わかりました」

 美陽はそう言うと、心配な顔を向けている先生に大丈夫だと伝えるべく、今度は気合いを入れてしっかりと微笑み、頷いてみせた。









 明日。

 新しい子供が島にやってくる。

 美陽は、病院を後にすると、家まで真っ直ぐに山道を降りながら向かって行った。

 病院から家までの距離は、徒歩で三十分位だ。

 今日は日曜日で、美陽が勤めている保育園はお休みで。

 その分、敬人にたくさん話しかけられるだろうと思っていたのだが、今日はどうしてか美陽の心はずっと回想の中を彷徨うようになっていて。

 敬人に話しかける、というよりは、敬人との過去を思い出し続ける日となってしまっていた。

 美陽は、いつも。

 毎日、敬人に話しかけに来ていた。

 保育園は十七時までなので、終ってもすぐに駆けつけやすい環境だったのだ。

 美陽はいつも病院へ着くと、先生が病院に残って仕事をしている間、敬人の側で話しかけていた。

 今日は、こんな事があったよ、と、保育園であった出来事や。

 美陽自身の気持ちや、敬人への労わりの言葉を掛け続けていた。

 先生は、一通り仕事を片付けて帰る頃になると、病室にいる美陽に声をかけ。

 二人は一緒に、病院を後にする。

 先生は車通勤な為、そのまま美陽を家まで送り届けてくれ、自宅へと戻っていっていた。

 島だからこそできる、アットホームな関係だ。

 美陽は、そんな環境と先生に、深く感謝をしていた。

 そんな毎日を過ごしていたが、今日は美陽は先に病院を出てきた。

 明日、入園する子供の準備を家でしようと思っていたからだった。

 美陽が働いている保育園は、子供を二カ月から六歳まで預かっていて。

 二十名程の人数を預かっていた。

 島は、高齢化が進んではいるものの、美陽と敬人のように本州から引っ越してくる若夫婦もいたりで。

 一時期は、園児は十名いるかいないかの状態を保っていたようだが、最近は特に0歳から三歳までの赤ちゃんの割合が増えてきている。

 今回、本州から引っ越してくると聞いたのは、四歳の男の子だった。

 美陽の保育園は、縦割りという方式で、0歳児以外はみんな、同じクラスで生活を共にしている状態だった。

 今、0歳児は五人いて、そこには保育士が二人いて。

 それ以外の年齢はバラバラだったが、みんな一つのクラスで生活をしていて、そこには保育士が五名ついている。

 今回、新しくやってくるという四歳の男の子の担当を引き受ける事になった美陽は、一通り、新園児が保育園で生活するにあたり、必要な物を準備する為、名札やお道具箱などを用意していた。

 家に帰れば、その続きをしなくてはならない。

 山を下っていくと、ちょうど、眼下には海が見えて。

 昇っていた陽が、ゆっくりと水平線へと降りていく姿が見えていた。

 あの海で。

 敬人は高台から落下し、溺れ。

 そのまま、意識不明となってしまった。

 本州でずっと、自動車工場で働いていた敬人は。

 島でも同じく、小さな自動車工場を経営している会社で、技術者として勤めていて。

 優しい敬人は、いつもその仕事以上の事を、島の人たちにしていた。

 山の上にある病院に通院するおじいちゃん、おばあちゃんたちを営業車で送り迎えしてあげたり。

 買い物を手伝って、重たいものを運んであげたりしていた。

 頼まれる内容によっては、船に乗って、出かけて戻ってくる事もあり。

 敬人を頼っている島の高齢者の人たちは、敬人が来ると本当に喜んで、いつも敬人に野菜や新鮮な魚などを持たせてくれ。

 明るく気さくな美陽も、敬人と一緒に、島の人たちに可愛がってもらっていた。

 あの日、敬人は。

 島の高台にある公園に、観光で来ていた親戚を連れていきたいと、昔から住んでいるおじいちゃんに頼まれ。

 敬人はその家のワゴン車を運転して、おじいちゃんと親戚を皆乗せて、高台の公園へと連れていってあげた。

 その中には、五歳と三歳の男の子の子供がいて。

 敬人たちが車から降りた時、その子も一緒に降りたのだが。

 おじいちゃんが、見晴らしの良い場所へと、皆を案内して歩きだし。

 親戚の夫婦と子供と敬人が、一緒に話しながらおじいちゃんについて歩きだした時。

 後ろから急に、ブルンという大きなエンジン音が聞こえたらしい。

 異変を感じて敬人が振り返ると、運転席のドアが開いた状態になっているのが見え。

辺りを見ると、目を離せない状態で辺りを駆け回っている三歳の男の子だけに、全員がいつのまにか気を取られてしまっていたらしく。

 五歳の男の子が、一緒についてきているのを確認していなかった事に気づいてしまった。

 敬人は急いで走りだし、車まで駆け寄っていく。

 その日は天気があまり良くなく、もうすぐ雨が降りそうな空の色で、風も強い日だった為。

 さほど、この場所に長居する状況ではなかったので、辺り一面を見て回ったら、すぐに次の場所へ行こうという話になっていたという。

 その為、車はたまたま、キーを差し込みっぱなしにしていた状態で。

 五歳の男の子は、いたずら心でそのキーを回してしまったのだった。

 ドアが開いている運転席から顔を出し、後ろを覗き込んだ男の子は、急いで駆けつけてくる敬人の姿を確認し、きっと怒られると思ったのだろう。

 また運転席の中へと慌てて引っ込んでしまったが、敬人の後ろから男の子の名前を呼んで叱り飛ばす父親の声を聞き、驚き。

 驚いた衝撃で、ハンドル横にあるギアに手がかかり、そのままドライブに入ってしまったようで、車はそのまま、前進をし始めてしまった。

 運悪く、そこは崖に向かって、緩い傾斜になっていて。

 ゆっくりだが車は確実に加速しながら、崖を取り囲む木の柵へ、どんどん向かって進んでいく。

 敬人の後ろから母親の叫び声が上がり、敬人はもっと加速して走ると、なんとか動いている車に辿り着き、開いている運転席の横から中へ無理やり飛び乗り、運転席で震えるように固まっている男の子を抱えあげるようにして持ち上げ、運転席からなんとか下ろすと。

 男の子は、走っている車から押し出されるような形になった為、そのまま地面に倒れるようにして転がっていった。

 敬人はそれを見届けると、車を止めようと、ギアに手を伸ばして止めようとし、ブレーキを掛けようとしたが。

 敬人も、この状況に動揺してしまっていたのだろう。

 ブレーキではなく、アクセルを一瞬踏みこみ、そのまま車は一気に加速して木の柵を突き破り。

 車ごと敬人は、十五メートル下の海へと飛び込んでいってしまった。

 その事故があった事を聞いたのは、美陽が保育園で、ちょうどお昼寝をする子供たちについていた頃だった。

 保育園に電話で警官から連絡が入り、緊迫した状態で園長から話を聞いた美陽は、許可をもらい、慌てて事故が起きた海へと、必死に走って向かっていった。

 海岸へ繋がる堤防へと辿り着いた時、敬人を捜索する為、警官や漁師の人たちが必死になって海の上を捜索していて。

 その頃には、すでに、事故が起きてから一時間は経過していた状況だった。

 辺りには、事件を聞いた島の人たちがたくさん集まっていて。

 皆、心配な顔をしながら、手を組み、祈っている人も何人もいた。

 美陽は顔をくしゃくしゃに歪め、敬人の名前を叫びながら、堤防をこれ以上行くと海へと落ちてしまうくらいの場所まで近づいていくと。

 状況を祈りながら見守る島の人たちに、それ以上は近づかないようにと、美陽は後ろから羽交い絞めにされてしまった。

 病院の先生も、話を聞いて車で駆けつけてきて、島の人に抱きしめられながら敬人の名前を呼び続ける美陽の傍へと近づくと。

 美陽に話しかけ、見つかって救いだされたら、自分がすぐに対応するから心配するなと、美陽の体を前から抱きしめながら、強い口調で言い聞かせていた。

 美陽はその言葉に、先生に抱きつきながら、泣き始め。

 先生は、「大丈夫、絶対見つかって助かる」と何度も何度も言い聞かせながら、美陽を強く抱きしめ、背中を撫でながら励まし続けた。

「見つかったぞー!」

 その声が大きく上がったのは、それからすぐで。

 美陽はその声に、目を見開いて振り返った。

 漁師で船を出していた人が、美陽たちから五十メートル程離れた場所で、水面にうつ伏せで浮かんでいる敬人と、落下した場所から離れた場所で斜めに浮かんでいる車を発見し。

 数人で浮き輪をもった状態で海に入ると、そのまま敬人の体を沈まないように抱えてくれ、敬人はそのまま漁師の人に抱きしめられながら、ロープで船の中へと引き上げられていった。

 漁船はすぐに、堤防へと近づき。

 ギリギリまで堤防まで船を寄せると、先生はすぐに持ってきていた救急用のカバンと共に漁船の中へと乗りこんでいき、敬人の状態を確かめ始めた。

 意識はなく、どこかで打ち付けたのか、頭部は血で濡れ、血は頬へと流れてきていて。

 先生はその状態を確かめると、すぐに漁船の船長に、このまま本州に行くようにと促し。

 美陽にも一緒に付いてくるように声をかけ、美陽は泣きながら漁船へ乗り込むと、そのまま敬人を本州の病院へと運ぶ事になった。

 先生は、救急車を港に呼ぶ手配を行い。

 漁船は、これ以上出せないくらいのスピードで海の上を走り抜け。

 船の上で、先生は出来る限りの処置を行っていった。

 敬人は助け出された時、心音を感じられなかったのだが。

 先生がすぐに、人工呼吸を施していったことで、弱々しいながらも心音を確認する事が出来るようになった。

 飲んでいた水も少し吐き出したが、意識は戻らず。

 頭部の上の方は、何かにぶつかったのが原因なのか三センチ程裂けている場所があり、血はずっとそこから流れ続けていた。

 先生はその血を止めるべく、急いで処置を施し、傷にガーゼをあてると、包帯で頭を巻いてなんとか流血を食い止めてくれ。

 美陽は、青白い顔で意識を失っている敬人の隣で、敬人の名前を呼びながら、敬人の手をずっと握りしめていた。

 物凄いスピードで走り抜けた船が、三十分ほどして本州に辿り着くと、待っていた救急車に敬人は運ばれ。

 先生と美陽も一緒に乗り込み、本州の総合病院へと敬人は運ばれていった。

 処置をされ、心音もしっかりと打つようになり、頭部の傷も浅いものだった為、五針縫ったが、検査をしても特に問題はなく。

 美陽と先生は、これで助かった、と、安堵していたのだが。

 問題は、そこからだった。

 敬人は、何時間経っても、何日経っても、目を覚ます事はなく。

 先生は、次の日、島へと戻らなくてはならない事情があったので戻って行ったが。

 美陽は、そのまましばらく、敬人の傍につき、意識が回復するのを待ち続けた。

 だが、一向に目を覚まさない。

 総合病院の先生方も、何か他に問題があるか、再度、敬人の検査を隈なくしていったが。

 特に、何かを併発している事も、確認されず。

 入院してから二週間後、敬人は生きてはいるが、意識だけが戻らない状況になってしまっていると、担当の医者から、美陽は説明を受けることになった。

 今の状況だと、脳死とまでは言えないが、なぜ意識が戻らないのかがわからない、と言われ。

 このままの状況がもし続くと、やがては植物状態になる可能性もあると聞き、美陽は目の前が真っ暗になる気持ちに襲われていった。

「検査しても問題は何もないのですが、崖から車ごと落下した際、強いショックを受けたせいで、意識が戻らないのかもしれません」

 そんな説明を受けても。

 美陽の心には、何も届かなかった。

 呆然自失、といった状態が、その時の美陽には一番合っていた言葉だっただろう。

 でも。

 どんな状況でも、時間は流れ。

 明日は変わらずやってくる。

 美陽は、過ぎていく時間の中、敬人の隣にずっとつきながら。

 眠り続ける敬人の顔を見、このままショックを受け続けていても、何も変わらない、と。

 気づき始めていた。

 いつも、誰かの為にと。

 動いてきた敬人。

 私がこれくらいでショックを受けて、何も出来ない状況になってしまったら。

 きっと敬人が、一番悲しむ。

 美陽は、弱く震える心を奮い立たせるように、眠り続ける敬人の顔を見ながら、自分に発破をかけ続けた。

 そうして、敬人の為に、これから何をするのが最善か、何をしていこうと考え始め出した。

 敬人の意識は、必ず呼び戻す。

 私が必ず、呼び戻す。

 最初は弱く震える心だったが、眠っている敬人の顔を見つめていると、これでは、このままではいけない、絶対に元に戻すんだ、という決意が胸の中を燃えあがらせて、体を熱くしていき。

美陽は、敬人をどうにかして昔のような状態に戻す事を心に決め、その為に出来ることは何でもしようと心に誓った。

 島に来る時も、敬人がいればそれだけでいい、と思っていたし。

 島に来てからも、敬人が幸せになれる事をしたいと決意した。

 ある晴れた日。

 二人だけの結婚式を、白い砂浜が広がる海辺で行った時も。

 美陽は、向かいにいる敬人に向けて、心で誓ったのだ。

 あなたをどこまでも一生愛し抜く、と。

 そしてどこまでもあなたを守り続ける、と。

 私があなたを幸せにするのだ、と。

 美陽は、その誓いを思い出していく中。

 徐々に、自分が受けたショックが和らいでいくのを感じていた。

 すると、絶望だけで満たされていた視界が開け。

 急に窓の外の太陽の光が、柔らかく輝いて目に映り。

 希望はそこにあるような気がしてきた。

 諦めてはいけない。

 必ず、敬人を救いだすんだ。

 この状況から。

 美陽はそう誓うと、島にいる先生へと電話をし。

 これからの相談をし始めた。

 先生は、美陽からの相談を受けると、わざわざ、本州までやってきてくれ。

 そのまま、入院している総合病院までやって来ると、美陽に、敬人の今後について総合病院の担当医と話したいと言い、先生は敬人の状況や、これからの事について何をしていけばよいかなどの話を担当医と詰め。

 病室で、敬人を一人見守っている、美陽の隣へと戻ってくると。

 美陽にこう告げた。

「美陽さん、島へ帰ろう。敬人君を連れて。美陽さん一人が敬人君を見守るんじゃない。私も意識が回復できるよう、一緒に見守るから。手伝わせて」と。

 美陽は、その暖かな言葉と、すべてを包み込むような先生の表情に。

 堰を切ったように涙を溢れさせた。

「必ず治しましょうね」

 先生は、顔を手で覆って泣きだす美陽の体を、真正面からしっかりと抱きしめながら。

 何度も何度も、美陽の背中を撫でてくれた。

 そうして、美陽と敬人と先生は。

 翌日、敬人を引き取り、そのまま島へと戻って来た。

 それからずっと。

 敬人は先生のもとで見守られ。

 今日も変わらず、眠り続けている。

 でも、敬人は。

 生きている。

 心音は、正しく打ち続け。

 脳死とまではいえない状況が続いていた。

 敬人は、大丈夫。

 必ず、助かるし、意識は戻る。

 毎日、毎日。

 美陽は、いつもいつも、呪文のように繰り返し呟いて。

 自分の意思の堅さを高めていく。

 敬人は必ず助かる。

 意識は戻る。

 必ず戻る。

 何度も何度も繰り返し、唱え続けた。







 

 チチチッという鳥のさえずりが聞こえ。

 ふと、意識が戻ってくるのに気づく。

 美陽は、今もまた。

 ふっと、回想に浸っていた事に気がついた。

 今回の回想は、一番辛い時の事。

 それでも、強い決意を固めて、敬人と共に島に戻って来た事を思い出すのは。

 寂しさに襲われたり、辛い気持ちがやってきたりする時には、逆に力になる事があった。

 美陽は、知っていた。

 想い出は、優しいゆりかごだ。

 いつも優しい記憶で、満たしてくれる。

 寂しさも、悲しみも、辛さも。

 ゆりかごに揺られている時は、すべてを忘れられた。

 私が会いたい敬人に会えない。

 私と話し、笑いかけ、抱きしめてくれる。

 会いたい敬人に、会えない。

 そんな爛れるような切なさも、焦がれる気持ちも。

 ゆりかごに揺られていれば、すべてを忘れられる。

 だから、美陽は。

 いつも好んで、回想ばかりしていた。

 敬人との記憶。

 敬人との思い出。

 その時間に耽っていると、あっという間に時間は過ぎて。

 どんな深い夜の中にいたとしても、また、朝がやって来る。

 美陽が、いくら戻ってくると、毎日信じ続けていても。

 それはいつ、という宛てがないだけに、不安がいきなり押し寄せる日もあるから。

 美陽はうまく、自分をコントロールする為に、回想に自分を泳がせるようにし始めた。

 それが自分を支えてくれ、なんとか今に至っている。

 もちろん、支えてくれる人が周りにいて、成り立っているのもわかっていた。

けれど、一人、家で過ごす時間は、思いのほか、心を爛れるように焼く時があり。

 美陽はそれをしっかりと痛みとして感じてしまうと、ただただ、泣いてしまうような状況になっていた時期があった。

 自らを強く励まし、信じ続けているのに。

 時間の経過と共に、信じたい気持ちと並ぶように、不安も形作られていく。

 悪い言葉を伴いながら。

 その不安が、美陽の心をもてあそび始めると、美陽はそこから抜けられなくなるのを知っていた。

 たまたま、ある時。

 美陽が、急激に押し寄せてきた不安に襲われていた時があった。

 美陽は、痛みで喘ぐ胸を押さえ、苦しんでいたのだが。

 その時、居間に飾られている、敬人と自分が映っている写真を見て。

 美陽は、様々な想いを声に出し、泣きながら、写真を見つめて話しかけていた。

 すると、話している内容から、当時の記憶が思い出され。

 美陽の意識は、自然にそちらへと流れていった。

 気がつくと、その記憶は、美陽の心と不安を癒し。

 悲しみや辛さや、胸の痛みを、まったく感じなくなっていた。

 ふっと、回想から戻ると、美陽の涙は、頬の上で乾いていて。

 美陽の痛みは、癒されている事に気づいていた。

 そんな風に自分を癒す回想や記憶を、美陽は、ゆりかご、と名付けていた。

 そこに揺られると、自分の痛みは消され、不安が押し寄せずに、押し流され、溶けていく。

 良い想い出と、良い記憶を辿り続けると、いつからか自然と、自分の中に力を生みだすようになっていき。

 ゆりかごに揺られながら、美陽は、必ず記憶と想い出の中にいる、その頃の敬人とまた会える、という希望と確信を抱くようになっていた。

 けれど、ゆりかごは、いつの間にか癖になってしまっていて。

 一人になると、ぼんやりと回想に耽り始めるようになってしまい。

 病院で、先生から疲れているのか、と心配されたり、保育士の同僚からも、大丈夫?と聞かれてしまう時も、たまにあった。

 それでも、自分にはゆりかごがあるとわかっているから、今の自分を保っていられる大きな要因の一つになっている。

 それが正しい方法なのか、良くない事なのかはわからなかったが、今の自分を保っていられるのならばそれでいい、と、美陽は割り切っていた。

 さっきも、先生から心配をされてしまい、美陽はいつものだから、と伝えたけれど。

 先生は、ゆりかごだけではない、疲れのようなものを、美陽から感じとっていたのかもしれない。

 美陽は、黙々と山道を歩きながらも、一度深く息を吸い、大げさに吐き出してみた。

 そうすると、胸のつかえが、幾分軽くなったような気がしてくる。

 美陽は、再度、大きく息を吸い、大きく吐きだした。

 ここ連日、まったく休みがないような状態で、発表会に向ける作り物ばかりしていて、確かに睡眠不足は続いていた。

 睡眠不足になると、気持ちの面でも体の面でも、良くない事は知っている。

 先生はそこも、見抜いていたのかもしれない。

 今日は、やる事をやったら、早く寝よう。

 美陽は、先生の指摘をしっかりと受け止め。

 そのまま、足早に山道を降りていく。

 先ほどよりも、太陽は水平線へと近づいて。

 辺りの視界を、茜色で包み込んでいた。

 美陽は、その茜色を眺めていると。

 寂しさを感じるよりも、何もかもを優しく照らす、明かりの色に似ていると思っていた。

 見える? 敬人。

 すごく綺麗な夕焼けだよ。

 美陽は、心の中で、どこかにいるはずの敬人に声を掛ける。

 敬人。

 また、明日ね。

 夕焼けを眺めながら、美陽は家路へと真っ直ぐに向かっていった。










二.三十一日目


「すみませんなぁ・・・」

 朝、島に住む、おじいちゃんに小さな手を引かれ。

 連れてこられた四歳の男の子は、赤いキャップをかぶり、Tシャツ姿と短パン姿で、保育園へとやって来た。

「人見知りが激しいもので」

 おじいちゃんは、すまなそうにそう言うと。

 ずっと俯いている男の子の手をゆっくりと離し、しゃがむような姿勢で話しかけた。

「透。先生と一緒に遊んでいるんだぞ。おじいちゃん、夕方迎えに来るからな」

 おじいちゃんが、優しく声を掛けても。

 透と呼ばれた男の子は、黙って俯いたまま、何も言わなかった。

「大丈夫ですよ」

 美陽は心配そうに透の顔を窺うおじいちゃんに、優しく明るめにそう声を掛けると、おじいちゃんは、すまなそうな顔をして、微笑み。

「じゃあ、頼みます」

 というと、透の頭を何度かポンポンと優しく叩いて、去って行った。

「透君、こんにちは」

 美陽は一度しゃがむと、透の顔の高さよりも自分の体を低くして、透に声を掛けた。

 でも、透は何も答えず。

 美陽の顔を、見るわけでもなく。

 ただ、俯いて、下を見つめながら、じっとしているだけだった。

「保育園の中に入ろうか。先生、ずっと側にいるから、大丈夫だからね」

 美陽は、そう透に声をかけながら立ち上がると、透の手を握り、ゆっくりと歩き出した。

 透は抵抗する事もなく、美陽と共に歩きだす。

 美陽は、隣で歩いているその小さな姿を、見守るように見つめながら、保育園の中へと透を連れて行った。

 俯いて黙って歩くその姿には、何か見えない思いがぎゅっといっぱい閉じ込められているように見え。

 美陽は歩きながら、そんな透の状態が気になっていた。










「・・・でね。透君、全然その後も喋らなくて。ずっと俯いたままだったんだよ」

 美陽は。

 仕事が終り、真っ直ぐに病院へと辿り着くと。

 今日も変わらず敬人の傍に座り、眠っている敬人の横で声を掛け続ける。

「明日もきっと、この状態だと思うんだ」

 美陽は、初日が終った透の話を、敬人に話して聞かせていた。

 あの後、おじいちゃんが迎えに来るまで、一言も声を発さず。

 おじいちゃんが迎えに来ても、喜ぶ事もなく。

 ただ、黙り続け、おじいちゃんに手を引かれて歩いて帰っていく。

 美陽や他の保育士たちは、透のあまりの寡黙さに、やはり尋常じゃない物を感じていた。

「入園する経緯も、結局ざっくりとした話しか聞いてないって園長が言ってて。おじいちゃんにもう一度詳しく確認した方がいいかもしれないねって、話になってるんだよね」

 美陽はそこまで言うと、ふうと、小さく吐息をつく。

 透の姿は、何か、疾患があるようなのとは、また違う様子に見えていて。

 小さな体の奥に、何か重たく暗いものを、抱え込んでいる状態にも見えていた。

 雰囲気がとても暗く、その年齢の子供らしさがまったく感じられない。

 それは、今まで何人も子供と関わって来た美陽でも、あまりない状況だった。

「なんとか四歳らしく、話してほしいし、はしゃいでほしいし、笑ってほしいんだけどね」

 美陽は困ったようにそう言うと、じっと眠っている敬人の額に手をあてて。

 いつものように、ゆっくりと優しく、髪の方へと撫で上げていく。

「・・・敬人なら、どう接する?」

 美陽は、少し微笑みながら、敬人に尋ねる。

 いつもいつも、人の事を優先にして、大事にしてきた敬人。

 あなたなら、透君に、どう接しているのだろうか。

 美陽は、そんな事を考えながら、敬人を撫で続けていた。

「お疲れ様」

 美陽の背後から、いつもの声がして。

 美陽が振り返ると、優しい笑顔が迎えてくれた。

「お疲れ様です、先生」

 美陽が顔をほころばせて先生に声をかけると、先生も嬉しそうな顔を見せ、美陽に近づいてきた。

「もう少しですか?」

「そう。でももうちょっと話してたいでしょ」

「ああ・・・」

 美陽は、壁に掛けられている時計を見る。

 時刻は、十九時半だった。

「でも、もう先生、仕事終ったんですよね」

「今日はちょっと早かったの」

 先生は美陽の隣に来ると、ごめんね、と小さく声を掛ける。

「え、全然です。謝らないでください。むしろいつも病院が終っているのにお邪魔して」

「それは全然構わないから」

 今更何を言いだすの、とでも言うかのような先生の目が美陽を捉える。

「すみません」

 美陽は苦笑して謝ると、納得したような顔で先生は微笑んだ。

「今日、ちょっと電話しなきゃならない人がいるのよね。もし大丈夫なら帰ってもいい?」

「もちろんです。帰ります」

 美陽はそう言うと、笑顔でパイプ椅子から立ち上がり。

 眠っている敬人の顔に目を向けると、上体を屈めて敬人の顔へと顔を寄せ。

 そのままそっと、敬人の唇に自分の唇を押しあてた。

「帰るね、敬人。また明日ね」

 敬人の閉じた瞼に言い聞かせるように美陽はそう言うと、瞼の上と、額の上にも唇を優しく落とし。

 額から髪へと頭を何度か撫で上げると、後ろで待っているはずの先生を振り返った。

 が、そこには先生はおらず。

 美陽が辺りを見回すと、先生はいつの間にか、奥にある窓の前へと立っていて、外を眺めていた。

「あ、ごめんなさい、先生。お待たせしました」

 美陽が気遣うように言いながら、窓の前に立っている先生へと近づいていくと。

 先生は、窓に反射して映る美陽のすまなそうな顔に笑顔を向け、首を横に振った。

「此処から見る夜景も、なかなかよね。この時間帯はまた」

 先生はそう言うと、窓の鍵を外し、ゆっくりと窓を横へと開いていく。

 ふわり、と、夏の生ぬるい風が頬を撫でて行った。

「そうですね。まだ、家の灯りが見えますものね」

 美陽が隣に並んでそう言うと、先生は横でコクリと頷く。

「小さな明かりもこうして横に並ぶと、綺麗ですよね」

「そうね。まるで星燈籠みたいに見える」

 美陽は聞き慣れない言葉に、ふと隣の先生の顔を眺めた。

「星燈籠、って、なんですか?」

 そう尋ねると、先生は美陽に顔を向け、微笑んだ。

「江戸時代くらいまであった風習で。東京の青山の辺りで行われていたのよ。お盆になると星燈籠と言って、棒の上につけた灯籠を高く掲げるという習わしがあったの。高さを競いながら掲げていたみたいね」

「へぇ・・・」

 美陽は初めて聞いた話に関心を示すと、先生は、

「今度、文献を持ってきてあげる」

と言ってくれたので、美陽は笑顔でコクリと頷き、「はい」と返事をした。

 先生は、昔の風習などに興味があると言っていて、前にもそんなような昔話を聞かせてくれた事がある。

「こんな感じなんですかね」

 美陽は、ふもとで点々と横並びに広がる家の明かりを眺めつつ尋ねると、先生は「たぶんね」と答えた。

「明かりがあるといいわよね。亡くなった人にも目印があるとわかりやすいから」

 先生のその言葉に。

 美陽は、ふと。

 心に光る物を感じていた。

 明かり。

 目印。

 その言葉だけが、頭の中に焼き付いて離れない。

「さ・・・帰りましょうか」

 先生は、隣で急に時が止まったように固まっている美陽に声を掛けると。

美陽は、目が覚めたような顔で先生を見た。

「先生」

「ん?」

「その星燈籠、どうやって作るか、知ってますか?」

 美陽の問いかけに、一瞬きょとんとしていた先生だったが。

 美陽の真剣な表情に、美陽が何を考えているのかをすぐに察知した。

「そうね・・・調べてみるわ」

 先生が笑顔で美陽にそう言うと、美陽は嬉しそうに顔を輝かせた。

 先生はその美陽の顔に、同じように顔をほころばせると深く頷き。

 静かに開いた窓を閉じて行った。












三.三十三日目


 へぇ・・・。

 その日。

 美陽は、病院から先生の車に乗せてもらって送ってもらった後。

 リビングで、先生から貸してもらった、東京地方の歴史に関する本を開いていた。

 小さなダイニングテーブルには、淹れたばかりのコーヒーがあり。

 ページをめくるたび、ふわりとコーヒーの良い香りが漂ってくる。

 癒される、コーヒーの香り。

 敬人も、コーヒーが好きだった。

 毎朝、時間がない時も、必ず敬人の為に、コーヒーを豆から落として淹れてあげていた。

 パジャマ姿のまま、寝ぼけた顔でリビングにやって来て。

 二人用のダイニングテーブルに前にある椅子に、腰をかける敬人の頭は、いつもどこかが跳ねていて。

 コーヒーを淹れながらそれを確認して、『今日もだ』とクスッとするのが毎朝の美陽の仕事の一つだった。

 敬人との小さな事を見つけるのが楽しい。

 そんな生活だった。

 東京の歴史に触れる内容は、美陽にはさほど興味はなく。

 それぞれの街の歴史に関しての記述や写真も、へぇ、という程度の感想しか持たないまま、ページをめくっていく。

 先生は、東京から来たと言っていた。

 大学で東京に出てきて、そのまま医者になり、大学病院で十年働き続け。

 どうして、こんな離島に来ようと思ったのか、と、以前尋ねてみると。

 『本当に医者が必要な場所へ行って、医療をするのが夢だった』と。

 優しい顔で微笑んで教えてくれた。

 その為に、必要な経験を積んで、必要な知識を得る為に、ずっと頑張って来たと。

 もうそろそろ、一人でも大丈夫そうだ、と思ったから、この島へ来たらしい。

 四十代に入ったばかりの先生は、穏やかで優しく、そして明るくて前向きで。

 少し、長く治療がかかりそうな患者さんも、先生の前向きさと明るさで元気になり。

 治療に前向きに取り組んでいたら、環境も良いせいか、予定より早く治った、と。

 嬉しそうに話していたというのを、看護師さの坂口さんから聞いた事がある。

 本当に、みんなが憧れる、理想の先生のような感じだった。

 美陽は、ページをめくりながら、ふと。

 目的のページに辿り着いた事に気づいて、目と手を止めた。

 『青山百人町の星燈籠』

 江戸幕府、二代将軍、徳川秀忠が亡くなった年より、始められたもので。

 各戸で高い棹の上に盆灯籠を先につけて掲げていたのだが、それらを遠くから眺めると星のように見えていた、と。

 文献には書かれていた。

 菩提を弔う為だったらしい。

 美陽は、実際の星燈籠が掲げられている、当時の絵を見つめながら。

 これを自分でも出来ないか、と考えていた。

 敬人は、死んだわけではない。

 けれど、浮かんだ魂が、どこかをずっとさまよっていて。

 帰りたくても帰れないのかもしれない。

 そんな事を考えていた。

 文献の意味とは違うけれども。

 星燈籠を作って。

 家の前と病院の前に、並べて立ててみようと思っていた。

 文献を借りる前、ネットで灯籠の写真や提灯を眺めていたが、これならばきっと、そう難しくなく作れそうだ。

 こういう時、保育士をしていて良かったと思う。

 何かを作るような制作作業には慣れていて、想像の幅も広げやすい。

 美陽は、何で灯籠を作るかを考え始めた。

 材料は何が必要かを考えた後、一度立ち上がると白い紙と鉛筆を持ってきて、どんな風に作り、組み立てていくか、絵で書き始める。

 最初は、ネットの写真を見ながら、こんな感じか、と描くだけだったが、自然とこういうのがいいかな、と思えるようになり。

 美陽は結局、正方形のタイプの、小さめの灯籠を作る事にした。

 どこかから木材をもらってきて、小さめにカットし。

 平らな板を一枚を土台にして、そこにロウソクを立てられるよう、板の裏側から釘を打ち。

 土台になる板の四方には、四本、木片で支柱を立て、その支柱と支柱の間には、木片を二本ずつ渡して取り囲む。

 作った木枠の上には、画用紙のような白い紙を貼っていく事にした。

 形の参考にしたのは、ネットで見つけた、灯籠流しの写真だった。

 暗い水面の上に、優しく暖かく灯る灯籠。

 それらは、柔らかく包み込むような明るさで。

ひとつひとつの暖かな明かりが、寄り添うように集まっていた。

 とても綺麗な写真だった。

 写真を見ただけでも、心が安らぐような静けさと、ぬくもりのような暖かさを感じる。、

  敬人に似てる。

 美陽は、その写真の灯籠の明かりを見つめていると、灯籠の明かりは、敬人に似ているような気に思えてきた。

 いつも、本当に穏やかで。

 優しかった敬人。

 ふと、顔を上げると。

 居間の、入口の隣にあるローボードの上に。

 敬人と美陽の写真が、いくつか置かれている。

 中には、美陽の母と三人で写っている写真があった。

 母親は、敬人と美陽の間に座っていて、柔らかく微笑んでいる。

 この写真は、久々に母親が笑顔になった写真で。

 この後、母親の状態が一層悪くなり、施設へ入所が決まっていくのだが、その前に家に来てくれていたホームヘルパーに撮ってもらった、思い出の一枚だった。

 美陽の母が、ある日突然、家に帰れなくなってから。

 結局、あっという間に痴呆の症状が進んでいき、それでも美陽はずっと、仕事と自宅での介護を両立させてきた。

 日中、働いている時は、デイサービスやホームヘルパーを利用し、介護保険の点数が足りない分は、実費で派遣してもらえる民間のヘルパーを利用し、料金が多く嵩んでも、なんとか両立させてきた。

 ただ、美陽の母の症状は進行の一途を辿り、あっという間にすべてを忘れ、誰が誰か分からず、傍に人がいないと徘徊したり、叫びだしたりするようになっていき。

 美陽が帰宅後、看てもらっていたホームヘルパーと交代すると、それからは家からは一歩も出られず、目も離せずの状態が続いていたのだった。

 母親は、その上、夜もいきなり起き上がり、家の中をぐるぐると歩き回るようになってしまったので。

 美陽は毎日、しっかり眠る事さえ出来なくなってしまっていた。

 そんな状態のまま、母親を自宅で介護し始めて、一カ月後。

 美陽はその日、いつもより仕事が遅くなってしまい、ホームヘルパーに連絡をし、時間の延長をお願いした状態で。

 駅からすぐのスーパーで食料品の買い出しをし、仕事の溜まりたまった疲れと、これから家で待っている母の介護が待っていると思うと。

 スーパーから出ても足取りが重く、気づくと俯きがちな状態で、溜息をつきながら歩いていた。

  なんだか、体がふらふらする。

 美陽はそんな事を考えながらも、ふらふらと左右に軽く傾きながら歩くのを止められないでいた。

 それで、問題が解決されるわけでないのはわかっている。

 母親の病が、急に治るわけではないし。

 自分の代わりに、徘徊する母親を夜中もずっと見ていてくれるわけでもない。

  頑張るしかない。

  それしかない。

 母と子、二人だけの生活なのだから。

 父親が病死した後、母親が、ずっと身を削って育ててきてもらったのだから。

 美陽は、挫けそうになると。

 ずっと、そんなことを繰り返し思い続けていた。

 そうしていけば、力が湧くはずだと。

 居間までしてもらったことを、自分が返しているだけじゃないか、と。

 そう思い続ける事で、納得できると思っていた。

 けれど、現実は本当に苛酷で。

 気持ちを切り替えようと思っても、体がついてこない状況が起きてきていた。

 まだ、二十八歳。

 体力もある方だから大丈夫、と思い続けてきた美陽だが、現実、疲れとストレスが押し寄せてくれば来るほど。

 自分を支える根っこから、考えも体力も奪われ、今にも倒れてしまいそうな気持ちになってきていた。

 お金だって、そんなにあるわけじゃない。

 保育士の給料はとても安く、二人分の生活を、美陽の給料だけでやっていくのは難しい話だった。

 母親の年金が少しは入ってくるものの、介護にまつわる公共サービスを最大限に使っている今の状況では、手元にはまるで残らず。

 実際、介護保険外のサービスの利用分は、かなり高額になり、家計を圧迫していていて、食費も切り詰めているような状態だった。

 どうしていったら、いいんだろう・・・。

 不安定に揺らぐ気持ちの分、足元も余計にふらついているような気がしていた。

 少し顔を上げて前を見てみると、家までは、あと七、八分も歩けば着く距離だった。

 足が、進まない。

 看てもらう時間を長く延ばせば延ばすだけ、お金が減る。

  早く帰らなきゃ。

 美陽の心は、現実を謳う。

 いや・・・でも。

 でも、私はもう・・・。

 押し寄せる疲れは、心と頭の中を暗闇で覆い。

 前向きに考えようと思っても、気持ちが沈んで行く。

  考えなきゃいいよ。

  その方が楽さ。

 そんな聞こえないはずの呟きが、頭のどこかで響く。

 心に宿った暗闇は、美陽の思考を奪ってゆく。

  考えたくない。

 美陽は心の中で、ハッキリと呟く。

  もう、何も。

  何も考えたくない。

 何か考えても、もうこの先は、絶望しかないような気持ちにさえなっていた。

 どちらかといえば、美陽は、楽観的で明るいタイプの性格だったが。

 今の状況では、ただ、心も体も現状に蝕まれ。

 何を考えれば正しい答えなのか、わからないまま。

 現実は、時間とお金だけが闇雲に減り続ける。

  もう、疲れた。

 美陽が心で呟いた言葉は。

 思いのほか、美陽のすべてをストレートに貫いた。

 それが、真実。

 紛れもない、今の真実。

 美陽は、いつの間にか俯いていた顔を、また少し上げる。

 そうすると、体の奥底から、深い溜息が溢れだした。

 唇から溢れたそれは、美陽の思考を、また一瞬、深い闇へと引きずりこみ。

 視線がふっと、車道へと向く。

 車道には、行き交う車が間を開けることなく、車線を流れ続けていて。

 美陽は、それを視界の端で眺めながら。

 どこか。

 そこへ吸い込まれたくなるような、変な気持ちになっていた。

  ここへ入っていったら。

  一体、どうなるんだろう・・・。

 顔が、もっと車道を向く。

 ぼんやりとした視界の前で、車が目の前を早いスピードで往来する。

 ふらり、と。

 上体が前へ、傾いた気がした。

 その時だった。

「すみません!」

 ガシッと。

 美陽は、急に、後ろから腕を掴まれて。

 驚きのあまり、体を大きく震わせると、反射的に振り返った。

 そこには。

 以前、美陽と母親に声を掛けてきた敬人が立っていた。

 もう、それ以上は前に進ませない。

 強い決意を感じるほどの力で、美陽の腕は敬人に掴まれている。

 敬人は、驚愕の表情のまま固まっている美陽を、厳しい表情で見つめていたが。

 やがて、力を抜いたように表情を和らげると、美陽に言った。

「・・・少し、休みましょう」

 その言葉を。

 美陽は、時間が経った今、思い出してもしっかりと思い出せるほど。

 記憶に残るだけの暖かさと、優しさが含まれていた。

 ぬくもりのような、柔らかな温度を感じる話し声に。

 美陽は、ただ、呆然としていたが。

 やがて。

 思いは、言葉ではなく。

 涙となって溢れていった。

 ボタ、ボタ、と。

 美陽の両の眼からは、大粒の涙が降り注ぐ。

 何も言えない。

 話せない。

 けれど、言いたい想いはある。

 伝えたい悲しみも辛さもある。

 それは、わかっていた。

 気づいていた。

 美陽は、ギュッと強く腕を掴まれている、敬人の手のぬくもりを。

 どこか、今の自分をしっかりと支えてくれる柱のような感覚に捉えられ。

 ただ、涙が溢れてしょうがなかった。

 敬人は、涙を流し続ける美陽に、気持ちをほぐすかのような優しい微笑みを向けると。

 掴んでいた腕の力を緩めて一度離し、すぐに、美陽の手首の辺りを掴み直した。

 それは力をこめて、ではなく。

 労わるように、そっと、優しく。

「行きましょう。少し、休もう」

 敬人がそう声を掛けて、美陽の手首を掴んだまま、歩きだすと。

 美陽は、優しく引かれる手に、そのまま引き寄せられるように、足を前へと踏み出した。

 疲れた表情を浮かべ、泣き続けている美陽が、敬人が動く方向へ一緒に動き出したのを確認すると。

 敬人は、優しく美陽を見つめながら、口元を小さく緩め、コクリとしっかり、大きく頷いてみせた

 大丈夫だよ、と。

 言葉はなくても、言われている気がした。

 心配しなくていいよ、と。

 美陽は、顔をくしゃくしゃに歪めながら、もっと涙を溢れさせ。

 歩きながら、顔を俯かせる。

 敬人は、そんな美陽の腕を優しく引きながら、歩道をゆっくりと歩き。

 そこから歩いて二分程の通り沿いにある、児童公園まで美陽を連れて行った。

 それは、とても小さな児童公園で。

 ブランコ、シーソー、砂場、子供が乗って揺らして遊べる遊具が二台と、ベンチが二台あるだけの公園だった。

 少し大きな子供たちなら、遊び場所としては物足りない公園だろうが、小さい子供が遊ぶには、狭い分、目が届きやすいのと、きちんと柵が敷地一帯に巡らされているので、保護者にも安心して遊びやすい公園だった。

 敬人は、奥のベンチではなく、道路に面している方のベンチに美陽を連れていくと、ベンチが汚れてないか確認し、パパッと空いている方の手でベンチの上の埃を払うと、美陽に座るように勧めてきた。

 美陽は、ベンチへと差し出された敬人の手のひらを見、そのまま力が抜けたようにベンチに腰を下ろす。

 よろけるように座ったから、ドスッと少し大きめの音がした。

 敬人は、腰を下ろした後、ずっと俯いている美陽の隣にゆっくりと腰を下ろすと。

 掴んでいる美陽の手首を、そっと美陽の太ももの方に持っていき、美陽の手を太ももに置かせ、そのまま静かに手首を離した。

 解放された手首は、急に、すうっと風を感じる。

 美陽の手首は、敬人のぬくもりが離れてから、小さな寒気を感じていた。

 大きな手。

 美陽の細い手首は、すっぽりと敬人の手の中に包み込まれて。

 そこにもし意思があるならば、ほんのわずかな時間だったけど、子供のようにその手に甘えていたような気がする。

 美陽は、まだ敬人の手の感触が残る手首を、そっと反対の手をあてて、覆い。

 寒くなった手首を暖めるように包み込んだ。

「・・・ちょっと待っててね」

 敬人はそう言うと、ベンチから腰を上げ。

 辺りを少し見回した後、ベンチから離れて歩きだした。

 美陽は、ずっと俯いて地面を見つめたままで。

 どうしていいのか、わからなかった。

 敬人が戻って来たのは、どれくらいだったのか。

 たぶん、わずか、二、三分ほどだっただろう。

 その短い時間も、心も体も疲弊していた美陽には、どこか長く感じていた。

 いつ、戻るんだろう。

 ぼんやりと、敬人が戻ってくるまで、そんなことを考えていた。

 ポツンと一人。

 ベンチに取り残されていると。

 いつもは小さな公園、と思っていたはずの公園が、広くさえ思える。

 途方もなくカラカラになったような心が訴えていたのは。

 たとえようもない孤独感だった。

  誰にも頼れない。

  助けてもらえない。

  私は、一人だ。

 そんな思いだけが、心の奥の乾いた所から、燻ぶる煙のように漂っている。

「・・・はい」

 伏せている顔の前に。

 差し出されたのは、温かいココアの缶だった。

「どうぞ」

 優しい声と共に、差し出されているココアの缶を。

 美陽は、そっと手を差し出して受け取る。

 缶はまだ熱く感じるほどだったので、片手で受け取った缶を一度太ももに置くと。

 少し冷めるのを待ってから、ココアの缶をそっと両手で包みこんだ。

 ・・・暖かい。

 そのぬくもりは、なぜか。

 美陽の中にある芯を、少し暖めてくれるような気がした。

 真夏に、こんな暖かい飲み物を置いている自販機ってあるんだ。

 美陽は、両の手のひらの真ん中にある缶を眺めながら、ぼんやりとそんなことを考える。

 敬人はまた、ゆっくりと美陽の隣に腰を下ろすと。

 自分が買ってきた缶のプルトップを開ける。

 プシュっと小さく空気が抜ける音がして、プルトップを奥に曲げると、敬人はそのまま缶を口につけていった。

 美陽は、なんとなく何を飲んでいるのかが気になり、顔を上げて隣を見る。

 美陽より、十センチ程高いところに、缶の中味を飲んでいる敬人の横顔があった。

 ゴク、ゴク、と飲み干すたび、敬人の喉仏が上下する。

 男の人らしい、太い首が、美陽にはたくましく目に映った。

 コーヒーだ。

 缶を一度口から離し、太ももの辺りに置くと、隣でじっと見つめてくる美陽に、敬人は顔を向ける。

 瞬間、ドキッとした美陽は、慌てて顔を逸らして正面を向いた。

 無意識に、手の中のココアの缶を、ぎゅっと握りしめる。

「・・・ココア、嫌いでした?」

 隣から、敬人が声を掛けてくる。

 気遣うようなトーンで。

 話しかけられ、美陽は、どこを見ていいのか分からないままに目をさまよわせた後、とりあえず正面を向いたまま、首を横に振った。

「ほんと?」

 敬人は、自分の太ももに両肘を置き、少し前かがみになったような体勢で、隣の美陽を見てくる。

 美陽は、恥ずかしくなって、無意識に敬人とは反対の方を軽く向いてしまった。

「・・・大丈夫です。嫌いじゃないです」

「嫌いじゃないって事は、好きじゃないって事だよね」

 眉を寄せ、しまったというような顔をした敬人の雰囲気を掴むと。

 美陽は、そんなことない、と言う為、慌てて顔を敬人へと向けた。

 すると、太ももの上で肘をついて手を組み、その手の上に顎を乗せたまま、下から美陽を見上げている敬人と目が合い。

 美陽は再び、ドキッと胸が弾んでしまうのを感じていた。

 なんでこんなにドキドキするんだろう・・・。

 美陽は、今も尚、優しい瞳で見上げてくる敬人の顔に。

 体の奥から、ドキドキと何かが浮かび、波打ちだすのを感じていた。

 美陽が意識をし出すと、それは一層騒がしく、波打つ音を増していく。

 困ったような心境でいると、表情にもそれが現れていたらしい。

 その顔と同じ顔を、敬人もしてしまっていた。

「ごめんね、コーヒーにしようか悩んだんだけど。女性だから甘い方がいいのかなって思って、ココアにしちゃったから。聞いてから行けば良かったね」

 敬人の気遣いの言葉に、美陽はさっきよりも激しく首を横に振る。

「いいえ、違うんです。ココアもコーヒーも好きですし、甘いものも好きですし、甘くないものも好きです」

  何言ってるんだろ。

 美陽は、落ち着かないような感じでアワアワと慌てて喋っている自分が、なんだかとても滑稽に思えた。

 『みんな、準備は出来た? 今日はね・・・』

 なんて。

 毎日、毎日、たくさんの子供たちの前で、堂々と大きな声で話をして、子供たちにこれからする事に対して期待感を持たせるような、明るい声掛けをして引っ張っているのに。

 今の自分がしていること、下手すると子供以下かもしれない。

 どうにもならない自分を持て余すかのような心境で。

 自分が挙動不審な感じになっているのも嫌な美陽は、とりあえず隣の敬人を子供の父兄と思いこんで、話しかけてみることにした。

「コーヒー、お好きなんですか?」

  父兄。

  この人は、父兄以外の何者でもない。

 そう言い聞かせると、幾分、いつも登園と降園時に、明るく笑顔で父兄に話しかけている自分が蘇ってきた気がしていた。

  そうよ、いつだって、ニコニコと笑顔でこちらから話しかけにいっているのだから。

  慣れたもの、慣れたもの。

 美陽はそう呪文のように言い聞かせながら、普段のような感覚で、敬人に笑顔を向けてみた。

 敬人は、急に取り繕ったような笑顔で話しかけてきた美陽に、少し面喰っていたものの、やがてニコッと微笑んだ。

 その柔らかく、無邪気な感じのする笑顔は、本当に子供のように、可愛くて。

 それを見てしまった美陽の体内は、またひとつ、ドキンと大きく音を鳴らす。

「好きです。中学生くらいの頃から、ずっと」

「へぇ・・・早いですね。コーヒーデビュー」

「そうですね。おじいちゃんとおばあちゃんが好きだったから」

「あ、そうなんですか・・・」

  祖父母に育てられたのかな?

 美陽は、敬人のその言葉に、そんな事を想像していた。

「さっき」

 敬人はさっきよりも、真剣な顔になり。

 美陽を、真っ直ぐに見つめる。

 美陽は、一度落ち着かせたはずだったのに。

なぜかさっきよりも騒がしく、テンポが上がりだす心音を、どうにかして抑えたいのに、と。

無意識に右手を、胸の真ん中にあて、グッと押し付けるようにしていた。

 この激しくなるドキドキを抑えたい。

 ただ、それだけだった。

「さっき、車道に吸い込まれそうになっているように見えたんだけど・・・」

 敬人が、少したしなめるような口調で言ってきたので。

 美陽は少し、目を泳がせた。

  別に、していいことじゃないのは、わかってるし。

  本当に死ぬ気だったわけじゃない。

  ただ、その向こうはどうなるのかと、一瞬思ってしまっただけ。

  それだけだから。

 心の中では、雄弁に。

 今の心境を語りだす。

 けれど、実際の美陽は、言葉に出す事が出来なかった。

 たしなめられ、してはいけない事をした事を。

 十分、わかっていたからだった。

「俺、怒っているわけじゃないんだけど。この前、道路にいた子だなって思っていたら、急にフラフラと車道の方へ歩き出していくからさ。本当に驚いて、慌てて走って来たんだよ。絶対死なせてなるもんか、って」

 真剣な顔と、真剣な口調で話す敬人に。

 心の中での言い訳は雄弁だったのに。

 いくらでも、言葉を並べられていたのに。

 敬人の、真剣な眼差しと表情は、しっかりと美陽を捉え。

 美陽の言葉を封じてしまった。

 安易な、適当な言葉は、返せない。

 そんな事はしちゃいけない。

 そんな気にさせる力が、敬人にはあった。

 それは、敬人がとても誠実で、真摯だったからだろう。

 きちんと、向き合わなくてはならない。

 本当の自分で。

 そう、無言で伝えられているような気がしていた。

「・・・本気で、死のうと思ったわけじゃないです」

 美陽は、ぽつり、ぽつり、と。

 小さな声で、話し始めた。

 本来、美陽は、割と楽観的で、ポジティブな性格の方だ。

 何かが起きても、じゃあこうすればいいか、など、今出来ることは何かを考えて、切り替えていけるタイプだった。

 けれど、今の美陽には、そんな力は残されていなかった。

 ただ、ただ、疲れた。

 疲労が体に蓄積されていくに従って、美陽の思考は、無意識にネガティブな方へと引きずりこまれていく。

 すべては疲れが元凶だとわかっていても、体も心も休められる時間も余裕もない。

 八方ふさがりのような環境で、美陽が出来ることは、ただ目の前のものをこなしていくだけで。

 美陽が楽しめるような時間や、心おきなく休める時間は、何一つなかった。

  誰にも助けてもらえないから。

 ただ、その言葉だけが、身と心を焼き尽くすかのように爛れさせていた。

「でも・・・もう、どうしていいか、わからなくなって」

「うん」

 美陽が、少し俯きがちに、ポツリポツリと話す言葉を。

 敬人は横から、美陽の顔を見つめる。

 その表情は、美陽の気持ちや辛さを一緒に受け止めようとする思いで満ちていた。

 美陽は、隣で優しく、真剣に聞いてくれる敬人の様子に。

 話しながら、じわっと涙が浮かんでくる事に気づいていた。

 この人は、真剣に自分と向き合ってくれている。

 敬人の姿勢は、そう感じ取れていた。

 ひとりではないような気がして。

 美陽はそのまま、小さな声で話し続ける。

「毎日、毎日、朝も夜も母親は徘徊を続けてて。全然、私も眠れていないんです。母親に少し強めの睡眠薬を飲ませても、数時間で目が覚めて起き上がって歩きだしてしまうんで。危なくて目を離せないですし、外に飛び出しても困るので、結局いつも一緒に起きてしまっていて」

「うん・・・辛いね」

 深く同調する、とでも言いたげな顔で、頷いて見せる敬人を視界の端に捉えると。

 話し続けていた声が、どんどん掠れて震え。

 ボタボタと大きな涙が、再び美陽の両目からこぼれ落ちてゆく。

 こうなってみて、初めて。

 美陽は、自分が相当追い込まれていた事に気づいていた。

  もう、いつのまにか、いっぱいいっぱいだったんだ。

  気持ちも体も、何もかも。

 そう自覚すればするほど、美陽の涙はどんどんと溢れ。

 美陽は顔を両手で覆って、声に出して泣き始めた。

 嗚咽と共に、美陽の肩が上下する。

 その上下する肩を、そっと宥めるように。

 敬人の大きな手が、美陽の右肩にそっと乗せられ。

 ポン、ポンと、優しくゆっくりと、美陽の肩を叩いていく。

 辛かったね。

 その手は、そう言ってくれているような気がして。

 美陽は、溢れる自分の思いと敬人の優しさに、更に声を出して泣き続けた。

 敬人は、美陽の涙が止まるまで、ずっと隣にいてくれた。

 美陽の肩を、そっと優しく叩きながら。









 ・・・敬人。

 ・・・お母さん。

 回想しながら、美陽は写真立ての前に立ち。

 そのフレームを手で掴むと、自分の胸の位置まで持ってくる。

 まるで、自分のお母さんかのように。

 敬人は、ずっと優しく温かく、お母さんに接してくれた。

 美陽はそっと、小さく微笑む。

 過去の記憶のどこを切り取っても。

 敬人が優しくなかった事はない。

 特に、美陽の母親に対しては、出来る限りの事をし続けてくれた。

 あの日、思い詰め、疲れ果てていた美陽と再会した敬人は。

 美陽の気持ちが落ち着くまで、そっと隣に寄り添い。

 美陽が落ち着いてからは、一緒に美陽の家へと向かっていった。

 公園で泣きやんでから、美陽は、「もう大丈夫です」と敬人に言ったのだが。

 敬人は「その言葉は信憑性がない」と美陽に言うと、一緒に家に行ってもいいかなと尋ねてきたのだった。

 美陽は最初、敬人のその言葉には抵抗する気持ちが疼いたのだが、敬人は母にも会っているし、自分も不安定で、このまま家に帰ってもどうなるかわからないと、思い直し。

 敬人を連れて、一緒に家に帰る事にしたのだった。

 美陽と敬人が家に着いて、部屋の中へと入っていくと。

 既に、時間外として残ってくれていた、派遣のホームヘルパーに延長料金を支払い。

 美陽は、そのまま泣き腫らした目で、居間のダイニングテーブルの椅子に腰かけている母親に話しかけに行った。

 どこを見ているのか、見当もつかないような中途半端な視線で、美陽を捉えた母親は。

 美陽が話しかけても、曖昧な『あー』『うー』というような声しか発しない。

 敬人は、反応の乏しい母親の介護を、話しかけながらしている美陽の姿を目の辺りにし、しばらく美陽が母親に話しかけている姿を見つめたのち、寝室へと向かって行った美陽の側へと近づいて行った。

「美陽さん。寝ていいよ」

「え?」

 母親をパジャマに着替えさせようと、寝室の押し入れから母親のパジャマを出していた美陽は、近づいて横から話しかけてきた敬人を、驚いたように見つめた。

「寝ていいよ、美陽さん。俺、お母さんの事、見守ってるから」

 敬人は、優しい顔で美陽に寝るように促してくる。

 けれど。

 そんな事を言われて、はいそうですか、ありがとう、と答えるわけにはいかない。

 美陽は、そんなことを言いだした敬人に、急に怖さと不信感を持ち始めていた。

 私を寝かせて、何をする気なんだろう。

 訳のわからない母と二人にした瞬間、母を放置して、物色出来るものは物色して、お金でも盗んでいくとか。

 考えたくないけど、寝込みをいきなり襲われる、とか。

 美陽の頭の中には、嫌な想像だけがグルグルと回り始める。

 どれだけ嫌な想像をし、嫌な表情をして、何も返事をせずにいても。

 敬人は何も、変わらなかった。

「いろいろ心配している顔してるけど」

 敬人は困ったように眉を寄せ、曖昧な微笑みを浮かべる。

「命に変えて、今、美陽さんが心配していたり不安に思うような事はしないから」

 敬人はそう言うと、私に背を向け、居間にいる母親の所へ向かうと。

 母親の体の前にしゃがんで、見上げるように話し始めた。

「お母さん、俺、わかるかな。前に外で会ったんだよ」

 優しい声で問いかけられ。

 遠くを見ながら、ぼんやりとしていた母親は、敬人の方にゆっくりと顔を向けた。

「お母さん、俺、おんぶしてここまで連れてきたの、覚えているかな」

 敬人は続けて、優しく語りかける。

 母親は、ぼんやりとした表情を敬人に向けていたが。

 母親の太ももの上に置かれていた手が、伸ばした敬人の手によって、そっと包み込まれて撫でられると。

 徐々に、ぼんやりした顔が、目を覚ましたようになってきて。

 敬人を見ながら、嬉しそうに微笑んだ。

 不信感いっぱいの顔で、母親の前にしゃがみこむ敬人の背中を見つめていた美陽は。

 その母親の態度と表情に、一瞬息をのんだ。

 それは、ずっと母親がアルツハイマーになってから、見せたような事がないような顔。

 柔らかく、穏やかに、嬉しそうに微笑んでいる。

 いつもは、何も分からないような顔をして、美陽が何をしても反応が乏しかったのに。

 敬人は、柔らかく嬉しそうに微笑んで、『あー』と返事をする母親に、同じように柔らかく微笑み返すと。

 そのまま、母親の手を今度は両手で掴みながら、指先で母親の手を、トントン、とそっと叩く。

 安堵感で満たされていくのか、母親の顔は、もっともっと柔らかな表情になってゆく。

 美陽は、狐につつまれたような顔をして、二人を眺めていた。

 敬人は、その状態で、美陽を振り返った。

 美陽の怪訝な瞳と、敬人の真っ直ぐな瞳がぶつかると。

 敬人は微笑んで、美陽に向けて頭を下げた。

 『大丈夫だから』

 そう言われているような気がした。

 敬人は、また前を向いて、母親を下から眺めながら。

「気分はどう?」など、話しかけている。

 わからないはずの母親も、何かを優しく語りかけられているのが伝わるのか。

 にこにこと微笑みながら、『あー』と言いつつ、頷いて返す。

 噛み合っているようで、合っていない会話と、やり取りなはずなのに。

 何かが、通い合っているように見えていた。

 美陽は、その姿をじっと見続けていると。

 どうしてか、急に体中の力が抜けてきて。

 美陽は、足元から崩れるようになり、ドンッと言う大きな音と共に、床に膝をついた。

 急に大きな音がしたので、驚いた敬人は、寝室の方にいる美陽の方を振り返ると。

 美陽は、畳の上に敷かれた母親用の布団の上に膝をついていたが、そのまま崩れ落ちるように前へと倒れ込み。

 その後は、意識を失ってしまったような状態で、一気に眠りについていった。

 糸が切れたように眠りに落ちた美陽が、次に目を覚ました時。

 柔らかな陽射しが、カーテンを通して部屋の中を照らしていた。

 美陽の体は、敷かれた布団の中にしっかりと入っていて、上にはちゃんと掛け布団がかけられ。

 何が起きたんだったっけ、とわからないまま、美陽が顔だけを動かして周囲を見回すと。

 さほど離れず敷かれていた隣の布団には、母親が幼子のような顔で眠っているのが見てとれた。

 母親が眠っている布団は、いつも美陽が眠っている布団で。

 美陽は、自分が寝ていた布団が、母親用の布団だという事に気づき。

 ふと、そのまま、肩の上辺りまで掛けられていた、掛け布団に顔を近づけてゆく。

 柔らかな掛け布団の感触を感じつつ、そのまま顔を布団の中に埋めてゆくと。

 そこには、昔から親しんだ、母親の優しい香りがした。

 美陽は思わず、目を閉じる。

 小さな頃から、この香りがとても好きだった。

 父親を亡くしてから、母親はそれまで以上に働くようになり。

 朝は七時には家を出て、夜は二十二時近くになって帰ってくる毎日だった。

 その当時、まだ中学生だった美陽は、母がいない状況に、時折、寂しさが募ってしまう時があった。

 そんな時、美陽は自分と母親の布団を敷くと。

 わざと、母親の布団の中に体を滑り込ませるようにしていた。

 その中は、母親の香りで満ちていて。

 美陽はいつも、安心していた。

 化粧品とも、シャンプーの香りとも違う。

 けれど、大好きな母親の香り。

 柔らかく、心底安らげる、良い匂い。

 その当時も、よく、母親の匂いに包まれながら。

 目を閉じて、母親の存在を確かめていた。

 美陽は、掛け布団に顔を埋めながら。

 そんな時代を通り抜けてきた事を、懐かしく思い出していた。

 学校から帰ってくると、部屋にひとりで、ぽつんといて。

 母親が、夜中、美陽の為に作ってくれていたおかずを冷蔵庫から出して、ひとりで食べ続けていると。

 母親の作る食事は美味しいはずなのに、なぜか味気なく思えていた。

 そんな時、心はいつも寂しく、一人ぼっちなような気がしていた事が記憶の中に蘇る。

 あの当時の自分が蘇り。

 そして、美陽はふと思った。

 今は自分が大人になり。

 母親に、何かをしてあげられる立場になって。

 母親を助けてあげられるのだ、と。

 今までも思っていたはずなのに。

 余裕の無さの中で思っていたせいか、いつのまにか義務感だけを感じてしまう毎日になってしまっていた事に気づいていく。

 何より、心が大事なのかもしれない。

 ちゃんとお母さんに向き合いたい、と、思える素直な心が。

 美陽は目を閉じながら、そんな事を思っていた。

 しっかり、ぐっすりと眠れたせいなのか。

 意識は明瞭で、頭は冴えている感覚があり。

 心も穏やかで、安らぎを感じている。

 顔は布団に埋めたまま、目だけ動かして、隣を見ると。

 隣で眠っている母親の姿を、美陽はとても穏やかな気持ちで見つめることが出来るようになっていた。

 それと同時に、ここ一、二ヵ月、どれだけ母親に心からの笑顔を向けていただろう、と思い返す。

 仕事と介護の両立で、心と体が極限に追い込まれてしまっていた。

 そこから解放されたようになった今、安らぎに包まれながら、美陽は改めて感じとっていた。

 限界まで来ると、人は、どうしようもなくなるものなんだ。

 そんな小さな悟りのような言葉が、美陽の脳裏をよぎっていく。

 それは、真っ直ぐに納得できる言葉となって、体の奥底まで沁みとおっていく。

 今ならば、これからならば。

 もう少し、暖かく接してあげられるし、もっと笑ってあげられるかもしれない。

 ―――いや。

 美陽は、布団に顔を埋めているのをやめると。

 眠っている母親の姿を、顔を動かして見つめた。

 子供のように口を開け、カーカーと、定期的に息を吐き出す音を繰り返している母親は。

 いくら、昔とは別人のようになってしまっていても。

 間違いなく、母親だと、認識できる。

 美陽は、母親を見つめながら。

 小さく口角を上げた。

  お母さんだ。

  紛れもなく。

  ちゃんと。

 美陽の心に浮かぶ、素直な感想は。

 美陽をずっと取り囲み続けた、苦しみの呪縛から解いてくれた。

 もう、今までの母親じゃない、と。

 爛れるような心で、今の母親を否定しなくてもいいんだ、という気持ちになっていた。

 認めたくなくて、いつもの母親に会いたくて、理解したくなくて。

 美陽は、どこかでいつも、母親が帰れなくなってしまったあの日からずっと、葛藤をし続けてきていた。

 今まで通りの母親に会いたい、と。

 こんなのは母親じゃないのだと。

 だからこそ、介護に関わる自分の心も、どこかしたくない事をしているような、義務感のようなのが湧いていたのかもしれない。

 けれど、今、隣で。

 すっかり病気が進んだ顔で、でも無邪気な子供のような横顔で眠っているのを見ていると。

 自分の思いや悩みは、小さく思えてきた。

 大変なのは。

 何よりも、紛れもなく母なのだ。

 自分でもコントロール出来ないものに支配され。

 どこか、まだ明確な意識がある場所が、今の母親にあったなら。

 きっと、どうしてこんな事をするのか、言うのか、と。

 そんな事したくないのに、と、母親が泣いている姿が見えるような気がしてきた。

 自分だけが、ただ。

 苦しくて、辛いんだと、思いこんでしまっていた。

 最初のショックのまま動揺を抱え、その後はただ、時間に追われ、疲労と余裕の無さとが自分の優しさや、正しく判断する力を奪っていったのだ、と。

 美陽はそう、心の中で深く噛み締めるように感じていた。

「お母さん・・・」

 美陽は小さく、母親を呼び掛けてみる。

 母親は、まだ口を開けたまま、カーカーという息を吐く音だけ出した状態で、眠り続けている。

「お母さん・・・いっぱい怒ってごめんね。お母さんじゃないみたいとか思ってごめんね。本当にごめん」

 美陽が、小さな声で、母親の隣で呟いていると。

 母親は、たまたまなのだろう。

 身じろぎをするタイミングだったのか、一度ビクリと体を震わせると。

 息を吐き出すような声で、あわはわ・・・と聞こえるような声を、喉から出した。

 美陽は、隣でクスッと笑い。

 そのまま、掛け布団の端を両手で掴んで持ち上げると、掛け布団に顔を埋めながら、クスクスとしばらく笑い続けた。

 たまたま、タイミング良く返してきた、母親の姿が嬉しくもあり、可愛さを感じたり。

 ただ、面白かったりと、美陽はそのまましばらく笑い続けていた。

 可愛かった。

 そんな母親が。

 美陽の心に小さくても、暖かな光が灯ったような感じになる。

 その穏やかな気持ちに満たされていると、居間の方で、ガサッというような物音がしたのに気づいた。

 美陽は目を見開き、一気に上体を起こすと、そのままの姿勢で居間の方を窺った。

 母は、美陽が勢いよく起きても、気づかずに隣で眠っている。

 二人しかいない家に、物音なんて・・・。

 美陽は、急に怖さと不安とで緊張が体中を走るのを感じながらも、そのまま布団から抜け出し、足音を立てないように、寝室から居間に繋がる境目まで、静かに歩いて行った。

 寝室と居間を仕切る二枚のふすまは、どちらも最大限に開いている状態だったが、美陽はそのまま壁側に体を寄せると、ふすまに隠れた状態で空間から顔だけを少し覗かせ、居間全体を確認する。

 二DKで八畳ほどしかない狭い居間は、それだけでも十分見回せる程だった。

 居間の真ん中に置かれている四角い折畳みテーブルの横に、誰かが横になっているのが目に入る。

 美陽は眉を寄せ、そこに居るのが一体誰なのかわからず、緊張が増す中、顔を居間の方へともっと差し出す。

 長い足が、テーブルの下から見える。

 美陽の位置から見えるのは、寝ている人の背中だった。

横向きになって、向こうを向いて眠っている人は、体の形から男性のように思える。

 美陽は、胸が緊張でドキドキと騒がしくなるのを右手をあてて押さえつつ、どうしたらいいのかと考えていたが。

 眠っているように思える男性が、急に体を動かし、こちら側へと寝返りを打ったので、美陽は思わず驚き、反射的に後ずさりをしてしまい。

 ガタン、と、体がふすまに当たって、大きな音を立ててしまった。

 しまった・・・!

 美陽はふすまの陰に体を隠し、慌てて一度布団の方を振り返ったが。

 母親は何も気づかず、相変わらず口を開けたまま、『カー、カー』という息の音を定期的に吐き出しつつ、眠り続けている。

 母親が起きなかった事はホッとしたが、美陽は怖くて、そのまま居間の方を見れなくなってしまっていた。

 居間からは、ガサ、と衣擦れのような音がする。

 きっと、カーペットから体を動かした時に起きた音なのだろう。

 美陽は無意識に、自分の体を強く自分の両腕で抱き寄せ、そのままの体勢でもっと後ずさりし、寝室の奥へと下がって行った。

 どん、と、後ずさりしていった背中が、寝室の一番奥に置かれているたんすにぶつかって止まると、美陽はもう、どうしていいのかわからなくなってしまっていた。

 怖い・・・。

 どうしよう・・・。

 体を抱きしめつつ、右下を見ると。

 母親が、子供のような顔で口を開けたまま、眠っている。

 どうして男の人が家に・・・。

 混乱する意識と、不安とで、何を考えていいのかさえわからなくなっていた時。

 ガタ、と小さく音がして、美陽はビクッと体を跳ねさせると、体をギュウッと尚一層強く抱きしめ、これ以上進めないのはわかりながらも、タンスへと背中を押しつけて行った。

 タンスが美陽の背中に押され、少しだけ斜めになる。

 ガタ、と小さく音を立てた、ふすまから出てきた姿と顔は。

 美陽には、見覚えのある顔だった。

  あ・・・。

 その顔を見て。

 美陽は、時が止まったような感覚で、しばしぼうっとしていたが。

 向かいに立っているその人の顔を見ているうち、昨日、何があったのかをやっと思い出してきた。

「あ・・・」

 小さな声が、美陽の口から洩れる。

 すると、向かいに立っている敬人は、いつも美陽に向ける優しい顔で微笑んだ。

「おはようございます」

 礼儀正しく挨拶をされ、美陽は昨日の夜、とてもお世話になっていたんだという事をハッキリと思い出し。

 自分の体を固く抱きしめていたのを解くと、背筋を整え、深く体を折り曲げて謝った。

「す・・・すみません、昨日は私、すごくご迷惑を」

 急に美陽が謝りだしたので、敬人は驚いたように、「いやいやいや」と畳みかけるように言って、美陽に顔を上げるように促してきた。

「そんな謝ったりするような事じゃないから。体上げてくれますか?」

 敬人の優しい声に、美陽は下げていた頭をどうしようかと躊躇したものの。

 気を遣わせるのも悪いからと、申し訳なさそうな顔のまま、体を持ち上げ。

 敬人の方へと顔を向けた。

「ゆっくり眠れました?」

 柔らかな表情で、敬語で聞いてくる敬人に。

 その表情と優しい口調に、美陽はどこか、拍子抜けしたような感覚になりながらも。

心配そうに、真っ直ぐ見詰めてくる瞳に応えたく、コクリ、と素直に頷いた。

 その美陽の姿に、向かいで敬人は、嬉しそうに目尻を下げる。

 良かった、と。

 心から思っている笑顔だった。

 どこまでも、どこまでも。

 この人は、本当に優しんだ。

 美陽はこの時点で、向かいに居る敬人が、どれほど優しい人なのかを理解し。

 しっかりと受け容れることが出来ていた。

 この人は、誰かを傷つけたり、悪い事をするような人じゃない。

 雰囲気からして優しい雰囲気を漂わせている敬人だったが、美陽は昨日までは、ずっとどこかに疑いの目を忘れずに向けていた。

 でも。

 今日、こうして夜が明けて。

 優しく佇んでいる敬人の姿を見ていると。

 そんなことはまったくの杞憂なのだと、美陽は知った。

  この人は、本当に優しい人だ。

 美陽は、こんな人が世の中にいるんだなと、心の隅で思っていた。

 学生時代の頃から、美陽の中では、男性はどちらかというと、騒がしいような、乱暴なイメージがあった。

 短大も女子だらけで、卒業後も保育園にそのまま就職したのもあり。

 美陽は、彼氏と呼べる存在が今までいた事がなかった。

 こうして、一人の男性と長く時間を共にした事もなければ、ここまで向き合った事はなかったように思える。

 クラスメイトの男の子に、淡い恋心を向けた事もあったが。

 ただ、思うだけで済ませてきてしまっていた。

 美陽の家は、経済的に厳しかったので、とにかく勉強をして、良い短大に入り、奨学金で短大を卒業した後は、夢を叶えて保育士になり、奨学金を返しながら頑張っていく。

 それが、美陽の学生時代から、ずっと思ってきた事だった。

 夢を叶えたら、母親を楽にさせてあげようと思っていたのだった。

 高校時代は、部活にも入らず、学校が終るとバイトに真っ直ぐ出かけ。

 家の最寄り駅の近くにあるファミリーレストランで、十七時から二十一時までウェイトレスをして働き。

 そのまま家に戻ると、まだ働いていて帰ってこない母親の為に、おかずやおみそ汁などの食事を作ると、すぐに勉強を始める。

 美陽は、レストランの賄いで晩御飯を済ませられるので、食事代が一食浮くので助かっていた。

 そうこうしていると、二十二時に母親が帰宅し。

 美陽は、勉強をしながらも、帰宅した母親と一緒に話す時間が好きだった。

母親は美陽と話しながら、美陽が作って増やしてくれた食事を食べ終えると、それぞれお風呂に入ったりして時間を過ごし。

美陽は、いつも二十四時に布団に入っていた。

 母は、美陽が寝室で二人分の布団を敷き終わり、布団に潜っても。

 美陽の為に、作れそうな料理を作って、作り置きにし、タッパーに何種類か詰めていく。

 美陽が、朝食べられるものと、お昼のお弁当に持っていけるようにと、作っておいてくれるのだった。

 美陽は、そんな母親の背中を寝室の開いたふすまから、横になっている状態で眺めるのが好きだった。

 自分の為に、自分に喜んでもらいたくて、料理をしている母の背中は。

 時に、疲れているように見えることがあって、美陽はそこまでしなくていいよ、適当でいいよ、と声を掛けるのだが。

 母は決まって、笑顔で美陽を見ると『大丈夫』と答えていた。

 『したくてしているのだから、気にしないで寝なさい』と。

 美陽はそう言われるのがわかっていても、母親に気遣いの言葉をかけていた。

 中学時代、父親が病死してから、たった二人。

 ずっとこうやって、支え合って、生きてきた。

 二人だけの空間が当たり前で、密で。

 だからこそ、景色が変わってしまった環境に、美陽の心と体はついていけなくなってしまっていた。

 でも。

 今、ここには。

 自分を助けてくれた人がいる。

 美陽は、目の前に佇んでいる敬人を。

 いつの間にか、見つめてしまっていた。

 それは、なんと言えばいいのか。

 その時の美陽には、まだわからなかった。

 けれど、それはやがて。

 それほど時間を空けず、美陽は気づいていく。

 その時、感じた気持ちは。

 想いが生まれる始まりだったのだ、と。

 その後、美陽と敬人は連絡先を交換し、メールや電話でやり取りをするようになり。

 敬人は、毎日、いつも必ず、美陽に連絡を寄越し。

 その都度、母親の状況を確認してくれた。

 状況に合わせて、敬人は、「手伝うよ」と、家にやって来てくれ、職場の人から使わないからと借りて来れた、と言って、持って来てくれた車椅子に母親を乗せて、三人で一緒に買い物や散歩に出掛けたりもするようになった。

 敬人と出逢ってからの時間は、すべて。

 何もかもが、輝いて見えていた。

 あんなに介護と仕事とで疲れ果てて、母親の徘徊に付き添い、眠れない日もあって、体も心もボロボロになっていたのに。

 敬人と出逢ってからは、すべてが変わった。

 今まで生きてきた世界に、光が溢れるようになり。

 敬人がしてくれるサポートが、ただただ嬉しくて、幸せで。

 重苦しかった毎日が、明るく、楽しく生まれ変わってゆく。

 敬人と出逢って、初めて知った世界だった。








 

 美陽は、乗っていたゆりかごから、意識を戻してくると。

 手に取っていた写真立てを、静かに定位置に戻した。

 この写真立てを見ると、余計に。

 美陽を懐かしく、優しい記憶に誘ってくれる。

 美陽はこの写真を、とても大事に思っていた。

 とても愛している写真だった。

 ・・・さ。

 星燈籠、作る準備をしなくちゃ。

 さっきまでの回想の余韻を、十分に味わった後、美陽は、心の中でそう呟くと。

 その場でさっきまで手にしていた写真をしばらく眺め、中に写っている敬人と、隣に嬉しそうな顔で写っている母親に、小さく微笑んだ。

 今、自分に何か出来る事がある事が、嬉しい。

 美陽はそう思いながら、またテーブルへと戻っていった。

 明日から、早速、材料を集めよう。

 テーブルに置かれた、必要な材料を掻いたメモを手にしながら。

 美陽は効率良く集める為の方法を、考え始めていた。









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