08:押してダメなら引いてみろ
夜会の日から、ウリカはぼんやりとすることが多くなった。
そして、あんなにも通い詰めていたフーゴが顔を出さなくなった。
それが一カ月も続いたある日、エリアスは決めた。
──可愛い妹のためにひとはだ脱いでやろう、と。
あの夜会の日、ウリカは声を押し殺して泣いていた。
それだけでもフーゴとウリカの間になにかがあったのだと察せられたが、ウリカに心底惚れ込んでいるフーゴはすぐに音を上げるだろうと、エリアスは楽観視していた。
ところが、フーゴが姿を見せる様子は一向になく、ウリカは日に日に元気がなくなっていくようだ。
これは兄である自分がひとはだ脱ぐしかない。そう思い、さっそくエリアスは行動に移した。
まずは、フーゴに事情を聞きに行くのだ。
フーゴの家とエリアスの家は仲が良い。どちらの家の者も気軽に家行き来するような間柄である。だから突然エリアスが尋ねたとしても、フーゴの家の者は驚かない。むしろ温かい笑顔で迎え入れてくれる。ここはもうひとつのエリアスの家のようなものなのである。
勝手知ったる様でフーゴがいるという部屋へ向かい、一応ノックをして返事を待ってからドアを開ける。
そこにはいつもよりも元気のなさそうなフーゴと、なぜかエリアスの婚約者であるシーラがいた。
「まあ! エリアス様! こんなところでお会いできるだなんて…! これは運命ですわ。私とエリアス様は運命の赤い糸で結ばれた二人なのだわ! きゃあっ♡ 嬉しい♡」
「…………」
いつもと変わらないシーラの言動にエリアスは一瞬意識が飛びそうになった。きっと若干白目になっていたと思う。
しかし、意識を飛ばすのをなんとか踏みとどまり、シーラから視線を逸らしてフーゴを見ると、フーゴは力なく笑った。
「…よく来てくれたな、エリアス」
「お邪魔している」
「エリアス様はどうしてこちらに? まさか、エリアス様もフーゴに事情を聞きにいらしたの? まあまあ! 私たち、考えることまで一緒なのね…! やっぱり運命だわロマンスだわ!!」
「……あなたも?」
君と一緒にしないでほしい、という台詞を寸前で飲み込み、エリアスは答えた。
するとシーラはとても嬉しそうに微笑み、頷く。
「ええ! だって、最近のフーゴとウリカったら見ていられないんですもの。『ウリカを振り向かせよう会』の一員として見過ごせませんわ」
『ウリカを振り向かせようの会』とは、フーゴがウリカに振り向いてもらうにはどうすればいいかと考える会のことである。会員はフーゴ、シーラ、エリアスの三人だ。ウリカを振り向かせるための作戦を考えながら話をするのが会の活動内容である。
とはいっても、具体的な作戦を考えられたことは──主にシーラのせいで──一度もない。
「…すまないな、二人とも。気を遣わせてしまって」
いつになく口数の少ないフーゴが弱々しく言う。
そんなフーゴを、エリアスとシーラは心配そうに見つめる。
「大丈夫か、フーゴ?」
「…大丈夫なように見えるか? 全然まったく大丈夫じゃない…」
がっくりと項垂れるフーゴにエリアスはなんと言葉をかければいいのかを迷った。それでもなんとかフーゴを励まわなくては、と口を開こうとすると──。
「完全にウリカ欠乏症だ…! ああ、ウリカに冷たい目で見つめられたい馬鹿じゃないのと罵られたい…ウリカがいないと心が満たされない…!!」
頭を抱え、悲痛に叫ぶフーゴの姿は、傍から見れば恋に悩む青年である。しかし、その内容が内容だけに、エリアスは全然まったく同情できなかった。
「…大丈夫そうに見えるけれど」
ぽつりと小さく呟いたシーラの言葉に、エリアスは全力で同意した。
エリアスは引きつった表情で、フーゴになにがあったのかと尋ねると、フーゴは「さあ?」ととても不思議そうに首を傾げた。そんなフーゴの様子にエリアスは脱力しそうになる。
「さあって…なぜ君がわからないんだ…」
「いや、僕もなぜウリカと喧嘩をしたのか、さっぱりわからないんだ。あの日のウリカはいつになく機嫌が悪くて、これはそっとしておいた方がいいなと思ったんだ。そこで僕はふと、閃いた。──これはドエス道その23にあった焦らしプレイをやるチャンスではないか、と」
「じらし…ぷれい……」
そのドエス道にはいったいいくつの道があるんだ、というツッコミをエリアスは飲み込んだ。
今日は言葉を飲み込んでばかりだな、とエリアスは現実逃避のように思った。
「焦らしプレイというのはだな、焦らして相手を悶えさせるという、ドエス道の高等テクニックで…」
「そういう説明はしなくていい」
焦らしプレイについて語ろうとするフーゴをエリアスは止める。
するとフーゴはとても残念そうに「そうか?」と呟く。
「…しかし、ウリカに大嫌いと言われたのは堪えた……うん、もう二度と言われたくない。今でも思い出すと泣きそうになる…」
急にしゅんと落ち込みだしたフーゴにエリアスはもはや苦笑いしか出てこない。
「なら、そろそろ仲直りをしたらどうだ?」
「そうだな…押してダメなら引いてみろと、ウリカに会うのを我慢してきたが、焦らし過ぎるのも良くないというし、そろそろウリカに謝りに行こうと思ってはいるんだが…またウリカに大嫌いと言われたらと考えると足が向かなくてな…」
どうしたものか、と悩ましくため息をつくフーゴに、どうやらフーゴの方は大丈夫そうだ、とエリアスはほっとする。
フーゴが大丈夫だとすると残る問題はウリカか、とエリアスが考えていると、シーラがそっとエリアスに耳打ちをした。
「どうやら、フーゴとウリカは大丈夫そうですわね」
「…? なぜ大丈夫と言いきれるのですか?」
エリアスが不思議に思い、そう問い返すと、シーラはにっこりと笑って言った。
「だって、いつまでもじっとしていられるウリカではありませんもの」
だから二人はもう大丈夫です、と自信たっぷりに言うシーラにエリアスは言葉を失う。しかし、段々とシーラの言う通りかもしれないと思えてきて、そうですね、と笑い返そうとした時、ノックの音が響き、フーゴが返事をすると、フーゴの家のメイドが顔を出して告げた。
「フーゴ様、ウリカ様がお見えになっております」
その台詞にフーゴは目を見開き、エリアスとシーラは思わず顔を見合わせた。
呆然としていたフーゴだったが、少ししてハッとしてウリカを通すように言うと、メイドはすぐに動いてウリカを連れてきた。
ウリカはエリアスとシーラには目も向けず、フーゴを見て表情を崩した。それを隠すように顔を両手で覆ったウリカに、フーゴは思わず駆け寄る。
「ウリカ…!」
「フーゴ…ごめんなさい…わたし、あなたに酷いことをたくさん言ってしまって…」
「…いいんだ、僕は気にしていない。ウリカが僕に当たることはいつものことだし、それはウリカが僕に甘えてくれている証拠だとわかっているからな。むしろ、謝らないといけないのは僕の方だ…」
「フーゴ…」
二人がようやく仲直りができた、とエリアスとシーラはほっとし、微笑み合っていると──。
「──わかっているじゃない」
「え…?」
きょとんとしてフーゴはウリカを見つめると、ウリカは顔を覆っていた手をゆっくりと下ろし、凍えるように冷たい目をしてフーゴに見つめた。
その目にフーゴはゾクリとした。
──もちろん、いろいろな意味で。
「わたしがどれだけ嫌だって言ってもつきまとっていたくせに…! 突然姿を見せなくなるだなんて、なにを企んでいるの、あなたは!?」
「べ、別に僕はなにも企んでなんか…」
「嘘をつくな!」
「ぐぇっ! ちょ、ウリカ……く、首がしまっ……!」
「企んでいることを言いなさい! どうせくだらないことだろうけど言え!」
「て…手をはなし……!」
怒り狂っている様子のウリカと、それになされるがままのフーゴという、いつもの二人のやりとりに、エリアスは少しの間呆然としたあと、二人らしいと笑ったのだった。