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しばらくそのまま崖に沿って進んでいくと、ちろちろとなにか水の流れる音が聞こえてきた。
……川? この近くに川が流れているの?
星のその予想は当たっていた。星の歩いて行った先には河原があり、そこには小さな川が流れていた。その小川を発見するのと同時に、星は久しぶりに暗い森の中を抜け出した。すると突然、高く透明な空に無数の星の光が出現した。その光は本当に美しかった。眩しかった。星は思わずその光景に見とれてしまい、その足を止めて大地の上に立ち尽くして顔を真上に向けるようにして、空を見上げた。星の吐く白い息が透明な空の中に消えていく。
『君は本当に無茶をするね』そんな魚の声が星の背後から聞こえてくる。
「……当たり前でしょ? そもそもこれくらいで諦めるようじゃ、初めから森に来ようなんて思わないわ」星を見ながら星が言った。
星の見上げる冬の星空は、先ほどまで見ていた星空よりも美しく綺麗に輝いて見えた。それは見れば見るほど、明らかに先ほどまでとは違う星空のように思えた。いつの間にか星の見上げる星空は星の知らない星空に変わっていた。
星は改めて、その星空を詳細に観察する。澄んだ夜の中に星々は青白い光を放って無数に輝き、その中でも星の集まっている場所は淡く濃い青色に輝く靄のように観測できた。そこから外側に向かうほど、空は暗い色に染まる。吸い込まれるような夜空。それは空というよりもどこか深い海のようだと星には思えた。
星は今、夜の海の底に立っていて、そこから美しい青色の海面を眺めているのかもしれない。その青色の海の中には、はっきりと白く光る完全な球体をした美しい月が浮かんでいる。星空が変わっても月はなにも変わらなかった。
その月の姿を確認して、星の心は少しだけ臆病になった。星は視線を大地の上に戻した。星は後ろを振り返った。そこにはさっきまで星が歩いてきた暗い森がある。
その暗い森の生み出す闇の中には『緑色の冷たい目をした黒い魚』が一人ぼっちで浮かんでいた。
その姿を見て星はとても驚いた。魚がその姿を星の前に現したのは、契約のとき以来、今が初めてのことだった。
「どうしたの? その姿を現わすのは危険だって言っていたのに?」星は緑色の目をした魚に問いかける。
『僕だって好きでこんなことをしているわけじゃないよ。ただ、今はこうしたほうがいいかなって、思っただけだよ』
黒い体を持つ魚の姿は周囲の闇と同化していて、よく見えない。ただ、そんな魚の輪郭だけは、その目と同じ色をした緑色の淡い発光色がゆらゆらと揺れながら、その形を闇の中に描き出している。
久しぶりの自分の体がきちんと動くのか確認するように、魚は闇の中をゆっくりと泳ぎ始める。
星の視界の先で、緑色の光が優雅に真っ暗闇の中を泳いでいるのが見て取れる。魚の動きはとても軽快だった。どこまでも泳いでいけそうな雰囲気がある。だけど魚は、森の中の暗闇から決して出てこようとはせずに、青白い星の光のもとにいる星の近くまでは決してやってこない。黒い魚は闇の外に出ることはできない。魚は闇の中でしか泳げない。その場所でしか生きていけない存在だった。
星は懐中電灯の明かりを消した。星の出ている場所では懐中電灯の明かりは必要ない。星は黙っている。魚も沈黙している。
「それってどういうこと?」先に沈黙を破ったのは星だった。
「……私との契約を破棄したいってこと?」
星は魚が実体化した理由を自分との契約破棄のためだと考えた。(そんなことが実際に可能なのかはわからない。と言うか、今の段階だと不可能だと思う。でも、それでもとにかく今の魚は『自分との縁を切りたい』と強く思っているのだと星は思ったのだ)いつもわがままばかりを言う星に、ついに魚は愛想をつかしてしまったのだと思った。
『……違うよ。そういう意味じゃない』魚は言う。
「違うの?」
『違うよ。僕が君の前に自分の本当の姿を現したのは契約を破棄するためじゃない。君とこうしてきちんと会話をするためだよ』魚は言う。魚の声はいつものように星の頭の中からではなくて、きちんと魚の口から聞こえてくる。
『君は自分が魚になったらって思うことはあるかい?』
「魚? 私が?」星は言う。
『そう。暗い海の底でさ。君は一匹の魚になるんだよ。誰もいない海の中で一人ぼっちで生きる孤独な魚になるんだ。ちょうど今の僕と同じようにね』
星は魚になった自分を想像してみる。それは確かにあまりいい想像ではなかった。