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「ねえ、海。あなたは動物の中でなにが好き?」
思い出の中で幼い星は海にそんな質問をした。
「ライオン」
海は笑いながら、すぐにそう星に答えた。
「ライオン? どうして? あんまり可愛くないよ? むしろ怖いよ?」星はそんなことを海に尋ねる。
「だって、すごく綺麗なんだもん」そう言って海は机の上で両開きになっている世界動物図鑑の中のライオンの写真を指差した。
その写真は、ライオンの雄と雌がつがいになって一緒にサバンナに寝転がっている写真で、海はその雄ライオンのほうを指差しながら笑っている。海にとってライオンとは雄ライオンのことなのだ。
雄ライオンのたてがみは確かに綺麗だと思ったが、その真ん中にある牙のついた口や、鋭い目つきがどうしても幼い星には怖くてたまらなかった。
そんな昔の記憶をなぜか星は唐突に真っ暗闇の中で思い出していた。
別にそれがなにか特別な思い出だったというわけではない。星は小さいころの、と言っても初等部のころの話だけど、自分のことがあまり好きではなかったし、それはどちらかというと思い出したくないほうの記憶に分類されている思い出だった。なのに、なぜかそんなことを思い出した。
あえて理由を探せば、成長した海がライオンに少し似ている、ということくらいだろうか?
海は背が高く、とてもすらっとしていて、そのくせ、猫科の動物のようなしなやかな肉体を持っていた。海の長くて美しい黒髪も、どことなくライオンのたてがみのように思えなくもない。学院の陸上部で、海はいつも星の前を走っていた。星はいつもそんな海の背中を追いかけていた。海は美しくて、とても強い人だった。だけど同時にすごく孤独な人でもあった。
いつも優雅に一人で寝そべって、だらけているように見えるのだけど、でも、とても強い目をしているのが海の特徴だった。星はそんな海の強い目に憧れていた。
そんな海の強い目が今の星には必要だったのかもしれない。
……私、一人になって落ち込んでいるんだ。だからこうして、こんなに昔の海の思い出に頼ってる。情けないな。そんなことを星は頭の中で考えていた。
ずっと星と一緒に旅をしてきた黒い魚は、今は星のそばにはいなかった。魚は闇の中に、それも魚がいつも逃げ込む闇の深度よりも、もっと、もっと、ずっと深いところに潜り込んで、その姿を消してしまった。
もちろん、実際には契約があるので二人は完全に離れ離れになることはできないのだけど、魚はいざとなったら今のように暗い闇の中に潜り込んで星の前から姿を消してしまうことが何度かあった。旅の途中、今回と同じように星と魚はくだらない内容で喧嘩したことがあった。二人ともまだまだ子供なのだ。でもその度に、どちらかともなく謝って仲直りをしてきた。でも今回は今までの喧嘩とは状況が違う。二人はすでに森に辿り着いている。星は命の危険を犯している。
魚のやつ、今回はかなり本気で怒っていたな。もしかしたら魚は本当にこのまま、もう二度と私の前に姿を現さないつもりかもしれない。
闇は永遠に続いている。
その闇の中で星は今度は澄くんのことを考えた。
澄くん、澄くんか……。
澄くんって、動物に例えると、なにに似てるのかな?
星はそんなことを突然連想した。先ほどの海との思い出がまだ星の心のどこかに残っていたのかもしれない。
最初に思い浮かんだのは犬だった。
なんとなくだけど、澄くんは犬っぽいと思う。青猫と仲が悪いのも、澄くんが犬っぽいせいかもしれない。
それもどちらかというと子犬というイメージだ。実際の澄くんは背がとても高いけど、なぜか星が頭の中でイメージする澄くんは子犬だった。
澄くんの笑顔が、子犬のイメージに近いのかな?
星は澄くんの顔を頭の中に思い浮かべる。その顔は笑顔。そういえば、澄くんはいつも優しい顔で笑っていた。
出会ったばかりの星に対してもそうだし、自分のことを嫌がっているそぶりを見せる青猫に対してもそうだった。
澄くんは全然怒ったりしなかった。
でも、青猫が飛び出していったときと、それに私が門に触れようとしたとき、私を止めようとした澄くんの声はとても男らしい力強い声をしていた。それで星は驚いてしまったのだ。世間知らずのお嬢様育ちの星は男の人が苦手だった。
あのときの澄くんは子犬ではなく、まるで狼のようだった。
誰よりも誇り高くて、なによりも一人を恐れない強さがあった。そのときの澄くんの目は、どことなく星の憧れる海の目に似ていた。
それだけじゃない。空を見上げる仕種もそう。それに星を見守るような笑顔もそう。考えてみれば、澄くんと海には意外と共通点が多くある。澄くんと海はとてもよく似ているんだ。
どうしてだろう? ただの偶然なんだろうか?
そんな風に澄くんのことを考えながら、しばらくの間、暗闇の中を歩いていくと、星の前方で懐中電灯の光が不自然に湾曲した。なにかある。星は少し注意しながら、先に進んで行く。