桜が咲くまでに 5-5 完結
❶
篠崎茜弁護士と別れて、南本は吉村に磯崎茜の困り果てている姿を見せる事と成った。
其れは吉村の言葉で証明された。
「南本さん流石ですね。あの弁護士は狼狽えていましたね。間違いなく何かを知っているのでしょうね。田所光樹の関係者から依頼され白井健三の弁護をしたのでしょうね。それで都合が悪く成って一気に白井から手を引いたわけですね。南本さんの思う儘に事が進んで行っている様に私には思われます。一気に潰して掛かっては如何ですか?」
「いや、これからが大変だと思うよ。物証を探さないと」
「あの弁護士と田所が会っている現場とか証言とかがないか調べましょうよ。」
「そうだね。ここまで来れば弁護士の先生も田所光樹も事実なら動く筈だから、ここは皆に応援を頼み彼らを張る事にしていただこう。」
身に押し寄せてくる緊迫した何かを感じながら、南本は吉野へ二日ぶりに戻って行った。
吉村と小村は検察庁に頼んで拘置所に赴き白井健三の取調べをしていた。南本から言われた言葉を裏付ける為であった。
「白井良く思い出せよ。お前が吉野で亜紀さんを拉致して誰かに渡したと言っているが、その事を証明出来なければ、お前は検察官の言う様に十五年の刑に近い時を刑務所で暮らす事に成る事は解かっているな。
其れが嫌ならしっかり思い出して主犯格の人物を我々で逮捕するしかお前の刑は短く成らないぞ。他の刑罰も六年があるからお前は今度出て来た時はおじさんに成っていると言う事だ。だからお前はしっかり思い出す事だな」
「分かりました」
「それでその男の背丈は判らないのか大体でもいい?」
「大体なら。百七十五くらいかな」
「それで顔つきは、ここに写真があるからしっかり見なさい。」
「分からない。こんな眼鏡なんか掛けていなかったしサングラスをしていたから」
「顔の格好は?」
「分からないな。横顔を見た程度だから、軽くご苦労さんとか言ったが、其れも横顔だったから。何しろ深く帽子を被っていて目を合わす事が無かったから」
「何か覚えていないか?何でもいいから」
「暗かったからなぁ。でもハンドルを持っていた手の事を覚えているな」
「手を?」
「そう、真っ白な手だったから良く分かった。バーテンとかしていそうな手だった。色白で、其れと右手の親指と人差し指に間に小さなホクロがあったな。」
「どれ位のホクロが?」
「本当に小さかったよ。ゴマ粒くらいの、でも白い手だったから黒さが目立ってはっきり分かったな」
「其れは手のどの場所になるかな?紙に書いて貰えるかな」
「いいよ。俺覚えているから、きちんと書くよ」
「事実ならお前少しは刑が軽くなるからな。しかし龍志君を殺害した罪は大きいからな」
「分かっているよ。だから俺罰を受けているのだから、控訴もしなかっただろう。」
「よし分かった。心を入れ替えてやり直す事だな」
「その積りだよ」
「ところでお前、国選の方では無く前の弁護士の先生から何かを聞いていないか? つまりお前を弁護する事に関して」
「いや知らない。何もかも任せてほしいと言われ、それに可成のお金も用意するからと言われたので黙っていたけど、でも何も正直知らないから俺は。
俺って騙されているのかも知れないし、利用されているのかも知れないな。でも子供を死なせた事を言われれば逆らえなかったからな。俺には解からないな。絵美が俺を売ったのかも知れないし、全てあのホクロの男が知っていると思うな。間違いなく」
「裁判で何故言わなかったのか?」
「いやぁその時は気が付かなかった。今気が付いたと思う。だって誰からも聞かれなかったから気が付かなかったって事だと思う。」
「白井、お前の話が本当なら良いけどな、期待しているよ」
吉村刑事は白井が書いたメモを大事に懐に仕舞って名古屋拘置所を後にした。
「南本さん大きな収穫です。白井に今日会って来て、吉野で亜紀さんを拉致して第三者に渡した時の事を聞いて来ました。
その男は色白で百七十五センチぐらいで、ハンドルを持つ手に特徴があった様です。
右手の親指と人差し指の付け根に小さなホクロがある事を見つけた様です。ゴマ粒ほどではっきり覚えていると言って居ます。」
「そうでしたか、其れは大きな収穫だね。でも裁判の時検察を愚弄する様な言い方をしていたようですが、その時白井はその事を言わなかったのでしたね。」
「ええ、誰からも聞かれなかったから言わなかったと言うより、私がその様な質問をして始めて思い出した様ですよ。」
「其れがもし田所光樹先生なら大変な事に成る訳だね」
「ええ、だから私は白井と別れてから胸騒ぎがして来て、明日、早速田所光樹を訪ねて都合により任意同行を求める事に成るかも知れませんね。背丈も同じくらいですし」
「成程、重要参考人ですな。被疑者と言うほどいいのかな。私もご一緒したいですね。ここまで来たのだから」
「ええ、その積りでお電話差し上げましたから」
「では朝一でお伺い致します。」
翌日吉村と南本、更に小村と稲葉まで繰り出して中部医科大学付属病院へ車は向かっていた。狭苦しい中で更に女性警官の奥寺睦も乗っていた。
奥寺睦巡査部長が妊娠したのではないかと企てて、田所光樹に近づく事としたのであった。
駐車場で男たちが雁首を揃えて奥寺の連絡を待っていたが、昼前に成って彼女が車に戻って来て残念そうに「田所先生にはホクロはありません。両手とも真っ白で上品な綺麗な手です。」それだけであった。
❷
四人の男供が顔を見合わせながら落胆の色を隠せなかった。
「こんな時もあるな、長い刑事生活の間には・・・こんな日は私が奮発して皆さんにカツ丼でもご馳走しますね。」
南本刑事が力強く口にしたが、心なしか苦しそうであった。『思うように行かないものだ』と誰もが思う事となった。
田所光樹を疑う事は、四人にとって今まで考えていなかった事の起こりである事は分かっていた。
だから例え田所光樹の指の間にホクロを見つけても、其れがどの様に事件に結び付くのかさえ全くの白紙であったが、それでも白井の証言により、第三者の存在が確実に成り、其れが更に田所光樹なら、手段を選ばず繋がりを見つければ良い事であり、又其れは間違いなく現実的であった。
しかし田所光樹の指にはホクロ等はなく、あっけなくその線は、その日の内に鳴りを潜め様としていた。
それでも南本は田所光樹の心に変化が起こっていないかと考えて、其れは婚約者の猪倉亜紀の心の変化を思ってのものであった。
彼女の友達であった澤田が亜紀の事を不思議に言っていた事が気に成っていたのである。
大切な休暇を婚約者と過ごさず女友達の澤田と過ごした事が気に成っていたからである。その女心は南本ではなく女の澤田が発した言葉であったから、尚更気に成っていたのであった。
南本は田所光樹の線を決して棄てる事なく、再度白井健三を愛知地検に呼び出し問い訪ねる事とした。
その時南本は前日熱田署女性警察官の奥寺睦に持たせた田所との会話の隠しマイクを持っていた。
そのテープの中に
「どうされましたか?」
「お目出度では御座いませんね」
「下腹が痛い?」
「様子を見てみましょう。」
「お大事に・・・」
田所の言葉は繊細で本の僅かであったが、はっきりと聞き取る事が出来る言葉であった。
「白井よ、この声に覚えがないか?」
「これは医者だな。俺医者なんかに係わりないからな。分からんよ」
「良く思いだせよ。お前はこの声で脅された事があったのと違うのか?良く思い出せよ」
「脅された?俺が」
「そう、お前は以前この声の男に長良川で子供を死なせた事を目撃していたと言われて脅された筈。それでこの男の言う事を聞かなければならなかった筈、違うか?
耳をほじくって良く聞き思い出すんだな。思い出さないとお前は十五年豚箱暮らしだからな、良く考えて思い出す事だな。この声だっただろう?」
「いや判らんよ。話している内容が全く違うから想像が付かないから、何か特徴でもあったなら判ると思うんだけど。」
「お前の様に関西弁ではなかったのか?」
「いや関西弁では無かった。あの時脅された時も吉野で女を渡した時も、名古屋独特の言葉だったと思う。違和感の無い話し方だったから。」
「違和感があったのではないのか?」
「でも俺も名古屋へ来て二年以上経っているから名古屋の言葉も耳で覚えていたから違和感など全く無かった。名古屋弁らしい話し方だと今でも思う。」
「白井お前は主犯格の男の存在を言っているが、その男の手にホクロがあったと言ったな。しかし我々はお前の言葉を信じて捜査しているが、目ぼしい男にはホクロなど無い。全く綺麗な手で、お前はここに来て嘘を並べているのではないかと考えてみた。」
「刑事さん、俺今更嘘なんか言わないよ。そんな根性ならこんな風に刑務所に入って刑に服すより控訴して戦うよ。でもそれを止めて刑に服しているのだから今更其れは無いと思って貰いたいな。
俺刑務所から出る頃には親父もお袋も元気で居てくれるかは判らないけど、罪を償ったなら二人に侘びたいと思う。絵美にも許されるならその様にしたい。だから俺は今言っている事は本当だから」
「わかった白井信じるよ。それでこのテープの声には覚えがないのか間違いなく。」
「いや、今思い出しているのだけど似ている様な気もしている事も確かで、だからと言って間違いないのかと言われれば自信など無いけど。」
「はっきりしないんだな。」
「あぁ申し訳ない。俺あの時は警察に言われたらお終いだから、恐くて緊張してしまって」
「そうか分かった。白井も観念したのか随分気を入れ替えた様だな。しっかり反省をしてもう一度やり直すんだな。まだまだこれからの人生だからな」
「あぁ」
南本は熱田警察暑に電話を入れ吉村と小村の両刑事に事の成り行きを報告して、田所光樹の声と全く別人であるとは言わなかった白井健三の事を口にしていた。
「これから愛知地検にお願いして田所の任意同行を求めて首実検をしたいのですが如何でしょうか?」
「ええ、南本さんがその様に思われるのならやって下さい。直ぐにお伺いします。」
吉村はその様に答えた。
二日後
田所光樹は愛知地検から任意で呼び出されしぶしぶ応じる事となった。
「田所先生お忙しい中申し訳御座いません。今刑務所で刑に服している白井と言う男が、貴方と婚約されていた猪倉亜紀さんの殺害に関して真犯人がいると息巻いているのですが、それでまさかと思いますが、貴方にもお聞きして置く事に成りまして、南本刑事が先日貴方を訪ねて行かれたと思いますが、その時犯人を近い内に捕まえて見せると言って居たと思います。
間違いなく犯人は我々の手で包囲されていると思われますが、それで犯人が白井健三にこんな事を言って脅した様で、其れが事実であったので怖く成って亜紀さんの殺害に加担した様です。
❸
ただ白井が言うには、あの男はあくまで亜紀さんを拉致しただけであると言っています。亜紀さんを殺したのは別人であると。
作り話であると我々は読んでいますが、それで白井が何処の誰か判らない男から脅された様で、その時に言われた言葉を覚えている様で、その犯人と思われる人物が言った言葉を皆さんに言って貰っています。
良いですか、田所先生ここに書かれた言葉を言って頂きたいのですが・・・」
「何故私が?」
「だから犯人が白井に言った言葉です。白井は事実を言われたから怖く成って緊張して可成覚えている様に言っていましたから・・・録音して頂いて声を白井に聞いて貰う積りです」
「・・・」
「先生、貴方だけではありません、可成の方に録音をお願いしておりますからお気楽に」
「・・・」
「先生、どうぞ」
【白井さん貴方が長良川の上流へキャンプに行って子供さんを殺しましたね】
【白井さん貴方が子供さんを足で突いて溺れさせたのを見ていた人が居ましてね。其れって殺人でしょう。幾ら子供でも可哀相に、これから警察に言いますから】
【これから私が言う事をしてくれれば見逃してもいいですよ。更にお金も渡しますから】
「先生ありがとう御座います。お世話に成りました。この声を白井に聞かせて思い出させますから。全く関係ない声ならこれから疑われる事も無いでしょう。
これは貴方を疑うと言うより、貴方が全く関係ない事を証明する為のものですから。 貴方は他でもない亜紀さんの婚約者なのですから。それに任意ですからお断り頂いても構いませんでしたが、良く来て話して頂きました。感謝申し上げます。」
「いえ、疑いが晴れれば幸いです。」
「そうですか、その様におっしゃって頂いて気が楽に成ります。何しろ貴方のお父様は名古屋の医師会副会長をされている方、この様な事は恐れ多い大変恐縮な事で、何卒事件解決にご理解ご協力頂ければ幸いです。」
「はい」
ところがその録音テープがその日の午後刑務所から検察庁に護送された白井の口から興奮気味に発せられた言葉は、
「この声です。この冷めた様な声です。間違いありません。調子に乗っている様な顔も知らない筈の俺をまるで支配している様な感じに俺は思えました。だから体が小刻みに震えていた事も覚えております。この声です。この男です。この男は一体誰なのですか?」
「其れは今は言えないな」
「だって俺刑務所で居るのですよ」
「でもお前には弁護士が着いているから聞かんでくれ」
「刑事さん、間違いないから」
「・・・」
「刑事さん、どうしたのですか?あまり嬉しくない様な感じですね。間違っていないって・・・ そうか俺にお金を摑ませて逃れ様とした奴だから、あの男金は持っているな、それに権力者かその身内。違うか刑事さん?それに検事さんも」
「・・・」
「余計な事を言ったのかなぁ俺?」
そのやり取りを聞いていた南本は首を縦に振りながらこの事件が終息にさしかかった事を確認していた。
中部医科大学付属病院には二人の刑事がスタンバイして、待合室から田所の動向を監視する様に睨んでいた。
田所は何時もと変わりない様子であったが、時折物思いに耽る様な仕草を見せていた。
その日の夜に成り、田所光樹は男の子の出産に立会い、一段落した時に愛知地検から任意同行を求められた。
其れは言わば重要参考人とする扱いであると捜査員は多数を占めていたが、田所の立場やその取り巻きの事を考えて、当たり障りのない方法を選んだのであった。
白井健三もまた刑務所から愛知地検に向かっていた。
「田所さん先日貴方に読んで頂いたあの文章を犯人の白井健三に聞かせました所、以前も今回も貴方の声であるとはっきり言いました。
脅されていたのでとても緊張していて、何もかもを良く覚えていると、其れに今鏡の向こうで貴方を白井健三が確認しています。其れは貴方が吉野山で夕方猪倉亜紀さんを白井から受け取り、薬品で眠らせて連れ去った男と貴方がおそらく同じであると、今確認を取りました。当日貴方は眼鏡を外しサングラスを掛け、更にハンチング帽を被っていましたね」
「待って下さい。今私は任意で此方へ来させて頂いた訳ですね。申し訳ないが今日は早朝から三人の赤ちゃんが生まれたので大変疲れています。そんな訳の解からない話でこんな扱いをされて大変迷惑です。
私が亜紀さんをさらった様な事を言われても意味が分かりません。だってそうでしょう私は亜紀が亡くなった時は名古屋でずっと後輩の男と居ましたから、貴方方の言う事は間違っています。見当違いです。申し訳ないですが何も言う事などありません。失敬な!失礼します。」
田所光樹は厳しい顔をして椅子から立ち上がって一礼をして部屋から出て行った。検事以下誰も何一つ反論出来なかったのは、田所にはバックに父親の名古屋市医師会が控えていたので慎重に成らざるを得なかった。
去ろうとする田所の背中に南本刑事は声を荒げて
「田所さん、それで誰かがお聞きしたかも知れませんが貴方があの日に、詰まり亜紀さんが殺された日に何方とご一緒でしたっけ」
「言ったでしょう。」
「其れが今一度確かめたくて。何方でしたっけ?」
「小山って言う奴ですよ。小山徹ですよ。東山公園近くで住んでいます。何方かに言いましたよ。」
「そうですか、ではその方にもう一度お会いして確かめさせて頂きます。間違いが無いと良いのですがねぇ」
「何も無いですよ。当たり前でしょう」
「そうですか分かりました。」
田所が帰った部屋に鏡越しで見ていた白井健三を呼び寄せ
白井今のお前の言う事は間違いないと私は思う。
お前だって今は心を入れ替えて前向きに考えている事も私には分かる。それでホクロの件だけどそのホクロはどんな風だったか思い出せないかな?」「どんなって?」
「だから私はふと思ったのだけどサングラスをしてハンチング帽を被って、少なくとも変装をしていた訳だ。メガネをしていなかった事も、其れとそのホクロだけどお前は見間違う事は無かったのか?これを見てみろ?」
「ホクロだね」
「ホクロと違うよこれは、マジックで田所が来る迄に書いた訳だよ。あの男に見せるとどの様な表情に成るか確かめたくって、それで今お前に見せるとホクロと言ったな。
あの夕暮れの暗い所で犯人の白い手を見て、そこに小さなホクロがあったとお前は言ったが、其れは犯人がお前にその様に思わせる為の仕込んだ事ではないのかな」
「そう言えばあいつの右手がハンドルを持っていて特に良く見えたかも知れないな」
「つまりお前にその手の黒子を見せる事が目的であった。」
「それで俺あの男がホクロがあると思って、それを覚えていたから、犯人にはホクロがあると思い込む事に成ったと言う訳ですね」
「白井もう一度犯人を思い出してくれ。其れと今出て行った田所の姿を・・・」
「俺は間違いないと思うな、あの男が俺と出会った男であると思うな」
「間違いないか?」
「いや、やっぱり正直わからない。慌てていたから」
「そうかご苦労さん。もう一度よく思い出してくれるか、これからは真面目に頑張れよ。」
田所が口にした、当日のアリバイを裏付けた東山公園近くで住んでいる、田所の後輩小山徹を即座に張る事にした。熱田署の刑事小村から早速電話が入って来て、小山が動き出した事を知った南本は稲葉を伴って小山の後を追った。
小山は田所光樹の所へ向かうかも知れないと思う気で逸って急いで向かっていたが、小山は予想外にパチンコ屋に浸かっているようであった。
❹
それから五時間にも及ぶ間パチンコに勤しみ疲れた顔で出て来たが、満足そうに一万円札を可成握っていた事が分かった。
小山の通信記録を見れるものなら見たいですね。おそらく田所から電話が入っていると思いますが」
「そうだね、あの男が田所のアリバイを証明しているから動かない証拠に成るからな」
「確か吉村さんの報告では、田所はあの男のアパートであの日は二人で飲んでいた事に成っていましたね。だから吉野になど行ける筈が無いと成って門前払いだったと記録されています。」
「それなら無理だな、又出直しかな」
「南本さん今度は私がカツ丼を奢りましょうか?」
「全くだね。小村さん、それに稲葉君あいつに鎌を掛けてみるか?」
「どうされるのです?」
「まぁ見ていて下さい。」
パチンコ店の前で唐突に南本は、
「小山徹さん」
「・・・・」
「小山徹さんですね?私達は警察です。随分稼がれましたね?」
「何か?」
「いえ田所先生の事ですが、貴方の先輩の」
「先輩が何か?」
「ええ大変な事に成りまして。婚約されていた事をご存知でしょう?その婚約者が亡くなられて、その時貴方が田所さんのアリバイを証明された事を。」
「はい」
「ところがそのアリバイに不審な点がある事が分かり、それでこうして来させて貰った訳です。三人も来たと言う事は重大な事とお考え下さい。
つまり貴方があの時もし偽証をされていたのなら、大きな罪に成る事は十分ご存知だと思われます。少なくとも豚箱に入って貰う事に成る事はご存知だと思いますが、最近田所さんから何か電話とか有りませんでしたか?」
「・・・」
「言えませんか?余計なことですが、まさかあの時偽証などされていないでしょうね。そんな事をしたら貴方の将来はむちゃくちゃに成るのですから、其れに好きなパチンコも全く出来なく成る訳ですから人生真っ暗ですよ。
私なら例えお金を摑まされても馬鹿な事はしないですね。思わぬお金が入ってそれを遊興費にすれば一件粋に行くと思うでしょうが、其れは大間違いで豚箱で悔やんでも遅いのです。
それでこれから貴方に色んな事をお聞きしたいのですが宜しいですか?」
「待って下さい。藪から棒にそんな乱暴な事を言われても困ります。」
「だから貴方に今言いたい事は、絶対偽証などしないで下さいと言いたいのです。もしその様な事があれば、罪は重い事を重ねてお伝えして置きます。
何年も豚箱に入って頂かなければ成りませんから、もし今言っておきたい事があれば出来るだけ早く言って下さい。それは貴方の為に成る事ですから」
「貴方は私が偽証をしたと言われるのですね。田所先輩の事で、止めて下さい。」
「ええ既に言って居ます、あの時警察の方に」
「其れって何時頃からいつ頃の時間でしたか?」
「いやぁはっきり覚えていません。随分前の事ですから」
「そうですか、でも以前他の刑事がお聞きした時は、はっきり覚えていますと言われた様ですね。
其れは何故かと言うと、その理由までおっしゃられていますね。」
「そうかな。でも時間が経ったから分からないですよ。誰もそんな事覚えていないでしょう?」
「でもあの時何をしていたのか位思い出しませんか?当時は門前払いと言うか刑事を突っぱねる様に言われた様ですから。其れは余程自信があったからではないのですか?当然田所さんにもお聞きして問題が無かったから、担当していた刑事は納得して大人しく引き返した訳ですから、だから今もう一度思い出して頂けないでしょうか?
今田所さんに容疑が掛かっているのですから後輩として真剣に考えてあげて下さい。一晩中貴方の部屋でいた事に成っているのですから、何をされていたのか思い出せませんか?」
「さぁ、おそらく・・・」
「おそらく、どうされましたか?」
「だからおそらくチェスとか何かをしていたとかだったかなぁ」
「そうでしたか?」
「思い出せませんがお酒を飲んでいたかも知れません。」
「そうですか、でも貴方はあの日はこの様に言って居ます。覚え始めた将棋が面白くって朝まで田所さんと将棋をしていたと、其れって本当だったのですか?」
「そんな事を言いましたか?そうでしたね。今言われて思い出しました。そうでした、田所先輩と将棋をしていました。」
「本当に思い出しましたか?」
「ええうっすら」
「本当に将棋でしたか?」
「どうして?」
「本当に将棋でしたか?もう一度お聞き致します。」
「ええ将棋でした」
「朝まで将棋を?」
「ええ」
「そうですか、でもその時貴方に訪ねた刑事の手帳には、将棋をし始めたが下手過ぎて面白くないと言われ、田所先輩に酒を飲む事を勧められて朝まで飲み明かしたと成っていますが?貴方があまりにも将棋が下手だったから。忘れられましたか?」
「忘れました。すっかり」
「でも先ほど貴方は朝まで将棋を田所としていたと言いました。繰り返しお聞きしたらその様に又言われました。貴方が嘘を言っているのか、以前事件のあった後貴方にお聞きした刑事が嘘を手帳に書いているのかどちらだと思います。」
「・・・」
「何も言ってくれませんか?ではじっくり調べさせて頂きます。貴方が今までに言ってきた事に万が一嘘があったなら、貴方は豚箱に入る事になる事は間違いないのです。
何故なら背景に殺人事件が起こっているからです。その事だけは十分ご理解下さい。ではこれで帰りますが何か言うべき事に気が付いたら直ぐに電話下さい。ご自分の人生を大切にして下さい。良く考えて」
南本たちは小山徹の元を離れて車に乗るなりパチンコ店の駐車場を後にした。
「南本さん、見ましたね。気が付かれたでしょう?」
「何を?」
「えっ、気が付かなかったのですか?」
「だから何を?」
「ホクロですよ。ホクロですよ。南本さん白井が書いたあの手のホクロのメモ今お持ちではありませんか?」
「持っている。」
「見せてください。」
「待ってな、そうか稲葉君は気が付いたんだな。そうか・・・・これだよ」
「同じですね。右手ですよ。間違いないかも知れませんよ。この様なホクロがありましたから、右手だったからおそらくあの男が関わっている可能性があると思いますね。」
「つまり田所と二人で朝まで飲んでいたのは真っ赤な嘘で、小山徹は吉野へ行って居た事が考えられますね。」
「しかし白井は田所の姿を見て面通しをした時に間違いない様な言い方をしていただろう。」
「でも二人を思い浮かべて下さい。年恰好が似ているでしょう。それに吉野のあの場所は既に薄暗かった事や、変装をしていた事を考えると、間違っても仕方ないかも知れないでしょう。それに自信もなさそうでしたし。小村さん署へ戻ったら早速あの男の生い立ちから調べてくれませんか。出身が名古屋でないのなら私たちも調べますから」
「解かりました」
「特に田所との関係を調べて頂ければ」
それから二日が流れ熱田署の小村刑事から南本に電話が入った。
「調べましたからお伝え致します。小山徹二十七歳、生まれは今住んでいるマンションの近くで名古屋から出ていません。それで高校時代は名門高校で、田所と同じ高校だった事で仲が良くなり、先輩後輩の仲で田所が一年先輩に成る様です。
ただ大学は田所は中部医科大学へ進みましたが、小山は挫折をしたと言うか、何につけても付いていけなかった様で、其れは勿論経済的な事もあり、又田所の様な言わばサラブレッドでは無かったので、何時の間にか道が反れて行ったようです。
❺
パチンコは相当好きでまるでセミプロの様な状態に成っている様です。つまり定職にはついていない様です。
「それで小山は車を持っているのですか?」
「ええ、乗っています。白っぽい車を。名義は父親の名で登録されていますが」
「それは吉野へ彼岸で帰られた大阪の三好さんって方に、あの現場で目撃された車では?。確かクリーム色とか言っていましたな。」
「そうですね。それは今は同じであるかは判りません。」
「小山はあの日田所光樹と自分のマンションで居った事に成っているが、実は二人とも吉野へ向かっていたと考えると辻褄が合いませんかな。つまり我々は田所光樹のアリバイを崩す事に猛進していたが、そうではなく証人の小山を調べなければならないのかも知れないね」
「ええ、パチンコの資金欲しさに田所に頼まれ嘘の証言や、更に亜紀さんの拉致にも手を貸しているかも知れないですね。」
「それで田所から小遣いを貰った。其れも相当な金を」
「つまり田所があの男を操っているかも知れないですね。」
「任意で引っ張ろうか?小山徹を。小山には猪倉亜紀さんを殺さなければ成らない動機など無いと思うが、しかし田所の後輩だから亜紀さんとも接触があると思われるね。
まさか亜紀さんと田所の目を盗んで密通なんて事は無いと思うが・・・解からんからなぁ男と女は。」
「でもそんな事をするより田所の言う事を聞いてお金を摑むほど誰だって得な事ですからね」
「そうだね。しかし何故亜紀さんを殺さなければならなかったかと考えると、小山は絶対その様な事はしないと思うな。先輩の彼女でしかもパチンコの資金の出所でもあると考えると、つまりこの二人に亜紀さんを殺す動機があるのは、あくまで田所だろうね。」
「でもそうだとしても動機は?」
「全く分からないね。亜紀さんの持ち物から何かが出てくると思って徹底的に調べたが何も出なかった。
亜紀さんの友達にも聞いて、亜紀さんに少し変化があった事は言って居たが、徹底的なものではなかった。何があったのか二人に・・・小村さんもう一度初めから考えて見ましょう。
猪倉亜紀さんは考えられないような卑猥な下着を着けて死んでいた。しかしあの人は決してその様な女性ではなく、清楚で上品でしかもしっかりしている言わば凛とした女性であった。しかし亜紀さんは無残な姿で殺されていた。第一発見者の伊能康孝さんは商売女である様に思うと印象を口にしている。
何故その様な事を亜紀さんにしたのか・・・其れは亜紀さんの事を憎んでいたか恨みがあったか、それとも亜紀さんをその様な女であると世間に思わせたかったのか」
「それって犯人は気が小さな男かも知れませんね。寧ろ女かも。亜紀さんに何か妬みとか恨みとかある女かも」
「面白半分にあの様な事をしたって事もあるかも知れないしね。嬲り者にして殺してしまったって事も実際あったからね。」
「其れが田所だと考えられるでしょうか?」
「おそらくそんな事はあり得無いと我々は思っていたが、実は可能性があるかも知れないね。金持ちは時々悪い遊びをするからな。少女を買春したり奴隷の様に扱ったり過去にはあるからなぁ。小村さん、緊急会議を
開いて貰って小山の任意同行を求めて貰いませんか?
「そうですね。分かりました。任意なら問題ないでしょう。」
三日後小村と吉村刑事は小山徹を訪ねて任意同行を求めた。 小山は渋々緊張しながら熱田署に来て事情聴取に応じる事となった。
「小山さん良くお聞きください。実は貴方の先輩でお友達の田所さんの婚約者が殺された事で二、三お聞きしたいのですが、実は事件前日貴方のお父上の車らしきを奈良の吉野山で目撃した方が居られまして、ところがその車のナンバープレートが曲げられていてカメラに映っていなかったのですが、調べさせて貰った所、あまりにも似ていて、それで間違いかも知れないですが、貴方にお聞きすれば一番早く分かりますので、それでお越し頂いた訳です。
運転されていたのは若そうな感じの人物がパトロールカメラに映っていましたから。
前にも一度奈良の吉野警察暑の南本刑事と三人でお伺いしたので良くお分かりだと思いますが、絶対嘘は言わないで下さい。
殺人事件ですから万が一嘘があれば大きな罪に成る事を初めに言わせて貰います。
それでですね、貴方は事件前日は自宅で居られ田所さんと朝までお酒を飲んでいた事に成っていますが、それを何方か証明出来る方が居られるでしょうか?まずそのことをお聞きしなければなりません。
実は貴方はあの日自宅マンションで居られたのではなく、実は奈良の吉野へ行って居たのではないかと思う節がある事が分かりました。
其れは犯人の白井健三が猪倉亜紀さんを拉致して、亜紀さんを誰かに渡したと言っていますが、其れは誰だか今は分かりません。おそらく主犯格の男であると思われます。
白井健三は亜紀さんをその男に渡してろくに顔も見ないで分かれたようですが、でも覚えていた事が在りました。
吉野山のあの場所は既にやや暗かったのですが、でもハンドルを持つ手は白くてはっきり見る事が出来たと、白井はその男がサングラスを掛けてハンチング帽を被っていたので人相など判らなかったが、でもハンドルを持つ右手だけははっきり見えた様です。
そしてその手の親指と人差し指の間にゴマ粒ほどの小さなホクロがあった事を見た訳です。
其れがこのスケッチです。それで貴方の手を先ほどから見させて貰っていますが、全く同じ場所にホクロが有りますね。有りますね?同じでしょう?」
「・・・」
「小山さんこれは偶然でしょうか?白井健二はたまたま貴方と同じ所に有るホクロを見たのでしょうか?このスケッチは何一も前に書かれているのですよ。」
「・・・」
「言って下さい。貴方のものではないのですか?白井健三が見たホクロは貴方の手ではないのですか?」
「・・・・・」
「貴方でしょう・・・違いますか?先日南本刑事が言って居たでしょう。嘘をつけば貴方の将来はめちゃくちゃになるって。豚箱で暮らす事に成るって。
貴方の実家にも行って来ました。家族の方が居られました。妹さんやお兄さんも居られました。おばあさんも居られました。当然ご両親も居られました。みんな幸せそうでした。
この人達に悲しい思いをさせて良いのですか?このスケッチに描かれた手は貴方のものでは無いと言えないのですか?全く知らないと言えないのですか?」
「・・・」
「小山さん」
「小山さん」
「すみません。」
「すみませんって何がですか?これは貴方の手だと言う事ですか?」
「・・・そうです。」
❻
「では貴方が亜紀さんを、猪倉亜紀さんを拉致したのですか?」
「・・・はい。」
「どうして?」
「田所先輩に頼まれて・・・」
「それで亜紀さんを殺したのですか?」
「いえ僕は知らないです。殺してなんかいません。」
「では誰が殺したのですか?」
「其れは・・・それは先輩に聞いて下さい。先輩に・・・」
取調室から吉村刑事が飛び出して電話を取って南本を呼び出した。
「南本さん、南本さん驚かないで下さい。今任意で引っ張ってきた小山徹が自供しました。吉野山で亜紀さんを拉致したのは自分であると、其れに亜紀さんを殺したのは田所に聞いてくれと今口にしました。直ぐにお越し下さい。」
南本は突然の電話に激しい興奮を感じながら稲葉を伴って近鉄に飛び乗った。
取調べは続けられ、その間に熱田署の刑事と警察官が六人で中部医科大学付属病院へ向かっていた。田所光樹を重要参考人として身柄を確保する為であった。更に吉村は小山の拘留手続きと田所光樹の逮捕状請求を申請していた。
小村刑事は小山徹の取調べを続けていて
「小山徹さん、今日は帰れない事は分かっているな。只今の時間で猪倉亜紀さん拉致および殺害容疑で重要容疑者として緊急逮捕するから。分かったな」
「はい」
「それで今田所光樹の身柄確保に向かっているから直ぐに逮捕出来ると思う。分かっている事は何もかもを話しなさい。いいか」
「はい」
「それで初めから話してくれるか?」
「ええ、僕パチンコが好きでそれで結構勝つのだけど、去年の梅雨の頃大きく負けた事が在って、其れが何度もサラ金に金を借りて、それで困っていた時、先輩がそんな事を知り金なら何とかしてあげるからって言ってくれて、それで先輩に借りサラ金に返した途端に急に勝ち出して、気持ちが楽に成ったのか、それから夏に成って先輩が突然やって来て、『お金を返さないといけないですね』と言ったとき、
先輩は『あれはいいから』と言われ、それで『代わりにやって貰いたい事が在るから』と成って、其れがあの女性を、つまり先輩の婚約者を拉致監禁する話だったのです。
『どうしてそんな事を?』と不思議だったから聞きましたら、『婚約を破棄されて困っている。畜生!」と苛立つ様に言っていました。
まさかと思う事だったので信じられなかったですが、どうも先輩は可成の口喧嘩をした様で滅入っていました。
その事は誰にもまだ言っていない様で、仲人をお願いした先輩の先生にも、確か戸辺先生と言っていました。先輩を医者として一人前になるまで尽力して下さった大恩人でもある方だと言っていました。
両親と三人で戸辺先生の所へ行って仲人のお願いをした事も言っていました。又亜紀さんが式を吉野でしたいからと我儘を言ったので、それも無理を言って承諾して下さった事も。
先輩、ここで泣きながら泪を一杯流しながら頭をかき困り果てた様に言っていました。
それで婚約をしていた亜紀さんが吉野へ行く事を知り、先輩が亜紀さんを家族から離れた所で無理矢理にでも関係を深め、つまり身籠らせてでも婚約解消を止めたかった様です。
何とかしたかったのでしょう。亜紀さんも先輩の事を好きな時もあった筈で、『お医者さんの奥さんに成れると思うと夢の様です。』と言っていた事も在った事を先輩から聞いていましたから、僕は先輩が可哀相に成って来て、それにお金を返さなくても良いと言われた事も手伝って泥沼に嵌まって行った訳です。
まさかこんな事に成るとは思ってもいませんでした。
あの日先輩と二人で奈良の吉野へ行きました。何故かと言うと先輩は亜紀さんが吉野へ行く計画を知っていたからです。
吉野山の上り口で先輩が車から降りました。二人で行くと具合が悪いと言う事でした。
それで電話を渡され支持された場所へ行き、白井から電話が入るのを待ちました。
待っていると白井が車で奥千本の山道から降りてきて、亜紀さんと取っ組み合いに成っているのが見え、亜紀さんを殴ったのか亜紀さんはぐったりした状態に成り、近づくと白井は折り曲げた僕の車のナンバーを確認して亜紀さんを後ろ座席に乗せました。
白井に誰か判らない様に変装して亜紀さんを受け取り、目を合わすこともなく少し話をして白井もまた慌てて自分の車に戻り、まさかこのホクロに気が付いていたとは思いませんでした。
僕は車の後ろに亜紀さんを乗せたまま山を下り、先輩が待っていた所に行き運転を変わり、近くに見えた駅に向かって歩きました。
電車で帰ってほしいと言われていましたので。それからの事は分かりません。先輩が亜紀さんとどのように成ったのかは」
「それで亜紀さんが殺された事を知ったのは何時だったのだ?」
「其れは先輩から電話が掛かり亜紀さんを死なせて仕舞ったと言われて知りました。
それで僕は先輩が警察に行くものだと思っていましたが、でも先輩は細工したから黙っていてほしいと言われ、それからアリバイ作りをした訳です。」
「つまり貴方と田所が一晩中酒を飲んでいたってアリバイをだな」
「はい、お酒だったか将棋だったか、思いつきだったからはっきり思い出せませんが、でもそうしてほしいって先輩が」
「頼まれたわけだな」
「でもただ頼まれた訳ではなくお金を用意するからって言われて、其れも百万円はするからって、だから俺先輩には随分迷惑を掛けている事もあって、事が事でありましたが躊躇なく返事しました。
でも後日に成り亜紀さんが殺されたニュースが何度も耳に入り、僕は随分悩みましたが、お世話になった先輩の悲痛な声に逆らう事は出来なかったです。
だから警察の方が田所さんのアリバイとか言われた時は震えました。でも先輩は僕には分からなかったですが、亜紀さんが死んだ事で狂う様に成って、これからの事も相談できず黙っていた訳です。婚約を破棄され僕の部屋で一晩中路頭に迷い泣き続けていた事も知っていますから。
先輩は精神病の様に成ったのは演技だったかも知れないと思う様に成ったのは随分経ってからでした。おそらく両方の思いがあったのでしょうね。
思いがけない大金を貰い僕は仕事もする気もなくなって、毎日の様にパチンコに通う様に成りました。そうでもしないと辛かったのです。
ですから僕は先輩に言われて手助けはしましたが、決して亜紀さんを殺すとか絶対していません。ただ眠らせても良いからさらって連れて来て貰いたいと言われただけです。
❼
まさかこんな事に成るとは。先輩が僕の部屋で一晩泣きじゃくっていた事を思うと、将来のある先輩があの時狂い始めたのでしょう。
お医者さんに成って夢も叶い、お父さんの夢も叶えさせた先輩が、何故あんな事をしたのか分かりません。
何度か自首する様に遠まわしに言いましたが、その気は全く無かったのか、逃げられる様に思っていたと今では思います。」
「田所は自分がやったと、亜紀さんを殺したと言ったのですね。」
「ええ殺したとは言いませんが、死なせてしまったと、おそらくそうだと思い話していました。夢中だったのでしょうね?そんな事聞くのが恐くて、あれだけお金をくれたのですからおそらくそうでしょう?」
「ところで田所に幾らお金を借りていたのだ?」
「二十万円です。それから吉野でも又十万円くれました。だから電車で帰る事に成った訳です。その後百万円貰いました。アリバイ作りに」
その時取調室のドアが開き一人の制服警察官が入ってきて、横で立っていた吉村に耳打ちをして直ぐに出て行った。吉村は聞くなり小村に耳打ちをして
「そうですか。緊急逮捕しましたか、そうだって小山、今、田所光樹が緊急逮捕されたぞ。」
「そうですか。」
「お前も誘拐拉致監禁の罪だから大きいぞ」
「でも僕はやっていませんから。殺していませんから」
「なぜこんなにあっさりと何もかもを吐く気になったのだ?先輩のことを」
「僕恐かったから、先日刑事さんが来て色々言われたから、あれから恐く成って来て、それで今日又こんな風になりこれは無理と思ったから・・・幾ら先輩に頼まれた事かも知れないけど刑事さんの言葉が耳に焼きついていて、其れに僕何回も言うけど殺してなど居ないから」
「お金を貰っといて裏切るわけだな」
「そうかも知れないけど、僕は先輩の様にお金も無いから、将来もお金で何とか成るような家庭でも環境でもなかったから」
「なるほど、それでどうにでも成れと思ったわけだな」
「そうかも知れない。でも嘘に嘘を重ねて行っても何れ傷は大きくなるばかりだから」
「そうだな」
「これは簡単な供述調書だからサインして今日はここで泊まりなさい。」
「・・・はい」
それから間もなく六人の警察官に囲まれて熱田署にやってきた田所光樹の取調べが始まった。
「田所、お前の後輩の小山徹が何もかもを吐いたぞ」
取調室の机に座ったのは、其れまで小山を調べていた部屋で立ったまま静観していた吉村刑事であった。「小山がな、お前に協力してお金を貰って毎日パチンコをして働く事さえ忘れていたようだな。亜紀さんの拉致を頼んで二十万円を貸していたのをチャラにしてやり、拉致した日に十万円を渡し、更にお前のアリバイ工作に百万円渡したのだな?」
「・・・」
「みんな判っているのだ。おい田所何とか言いなさい。
亜紀さんを殺した事は認めるな。おい!田所」
「・・・」
「どうした。お前は小山徹を利用して猪倉亜紀さんの殺害を計画していたのだな?動機は?何故婚約までしていた大切な女性を殺してしまったのだ。」
「婚約なんかしていない!」
「そうか・・・小山は言って居たぞ、お前が亜紀さんに婚約を解消されて一晩中泣いていたと、だから何故その様な人を殺せるのか言ってくれ。」
「そんな積りじゃなかった。」
「でもお前は殺してしまったのだな?亜紀さんの首を絞めて」
「刑事さん私弁護士の先生に来て貰います。私に落ち度なんか無かった!あの女が身勝手だったからあいつが悪い!」
「いいか田所、弁護士が来ても亜紀さんは生き返らないのだぞ。殺してしまった事を覆す事など出来ないのだぞ。
そんな事を思うより今は素直に自供する事が懸命だと私は思うな。違うか?弁護士を呼んで、遣った事を正当化して出来るだけ自分を有利にしようと思っているのか?量刑を軽くしようと思っているのか?死んで逝った亜紀さんやこれまで大事に育てて来た彼女のお父さんやお母さんの事を考えずに、お前は弁護士を呼んで罪を逃れて、あわよくば逃げ切ろうとでも思っているのか?
明日の朝には新聞にお前の事が大々的に載る事になる。そしてお父さんは今までと同じ気持ちで診察を出来ると思っているのか?
患者さんがどのように思っているかを考えた事が在るのか?今まで培って来たものを全て壊してしまう事が分からないのか?
お父さんの仕事をぶち壊し朽ち果ててしまう事に成るのがお前には判らないのか?
亜紀さんに婚約を解消されたのも、そんなお前だから亜紀さんは見抜いたと私は思うな。
つまり亜紀さんはお前が今の様に身勝手な男である事を見抜いたと思うな。違うか?
亜紀さんは我々の調べでは明朗活発で仕事も出来、しっかりしたお嬢さんだった筈、何ら落ち度の無い女性だった筈だから、私が思うにお前に大いに原因があり、婚約解消に成った事は明白に想像できる。
亜紀さんは全く気の毒な女性であると今思うな。お前の様な男と知り合いに成らなかったらこんな人生に成っていなかったと思うな。
田所、ふて腐れていないで何とか言えよ。腐っていても埒があかんからな。何とか言いなさい。田所、亜紀さんを殺したのだな?殺したのだな?詳しき言いなさい」
「・・・」
「死なせて仕舞ったのだな?」
「済みませんでした。」
「死なせて仕舞ったんだな?」
「はい。」
「亜紀さんの首を絞めて腹立ちまぎれに殺したのだな?」
「はい」
「何処で殺した?」
「吉野山で」
「吉野山の何処で?」
「空き地があってそこで車を停めて、亜紀の目が覚めて話し合おうとして、でも亜紀に罵声を浴びせられ、それで無理矢理関係を迫って」
「そうして亜紀さんと強引に関係を持とうとしたのだな。馬鹿な事を」
「そんな風にでもしないと亜紀はー」
「それで亜紀さんがお前の方を向かせる積りだったって訳だな。そんな理屈何処にある?それでどうした?」
「でも何度も亜紀に婚約解消なんて止めてくれないか、考え直して貰いたいと嘆願しました。でも亜紀は強引で私の言う事に対して聞く耳を持たなかったです。
教授に申し訳ない事に成ることも何度も言いました。でも亜紀は聞き入れませんでした。
暗くなって来たので誰も居なかったから、車の中で亜紀の服を脱がして裸にしようとしたら、亜紀がそんな事をするのなら私舌を切って死にますと言われ、腹が立って亜紀に飛び掛かると亜紀は車のドアに手をやり降り掛けたので、後ろから手を首に回して締めたのです。
気が付けば亜紀はぐったりしていて息さえもしていない事に気が付き、死なせて仕舞ったのだなと思いました。
でもそれで私は気が落ち着いて行く事を感じました。
これで亜紀と婚約をしている事が今なお続いていると思ったからです。
亜紀は私に婚約を破棄したいと言いましたが、でも誰にもまだ言っていないと言っていて、二人の間の秘密であったのです。だから亜紀に思い直して貰いたかったのです。
色んな事を考えると婚約を解消する事は絶対ありえないと思っていましたから、あの日私は亜紀にその気持ちをどんな事をしても伝えたかったのです。」
「それで貴方は手段として、亜紀さんと強引に関係を持って自分のものにしたかったと言う訳ですね。どんな事をしてでも」
「彼女の気性を考えると其れしか方法が思いつかなかった。横面をはたく以外に方法が見付からなかった。彼女は気が強くて私を尻に引く様な女性であったから、更に一方的に婚約の解消を言って来たから、私はどうして良いのか分からなく成って来て、この婚約は私にとってとても大事な事だったのです。
仲人に恩師の戸辺先生にお願いして、其れは私にとって恐れ多い事で、両親と三人で戸辺先生のご自宅にお邪魔して仲人を快諾して頂いたのです。
更に戸辺先生のご配慮で私は医師への道が開けた事も言い過ぎではないと思っています。そんな努力をしている私の立場を無視し、亜紀は婚約を解消したいと言って来た訳です。
その事も話しました。婚約をこの儘にしてくれる様にも何度も言いました。
でも亜紀は一方的で頑なでした。それで話し合う事を私が提案しましたが、彼女は今の度は奈良の吉野へ行くから当分忙しくて逢えないと言って来て、その時のやり取りで行く日や時間も聞く事に成りました。
❽
そして後輩の小山に亜紀さんを吉野で拉致して何処かで待ち合わせをして、亜紀さんがこのまま婚約し続けてくれるか、私が諦めたく成る様な気持ちに成る様にしようと思いました。憎悪の気持ちも芽生えていたのかも知れません」
「其れは早い話強姦とかと言う事も考えていたと言う訳だね。卑怯な事を、それで女の気持ちが汲めるとでも思ったのか?あんたは?」
「ええ、何時の日にかその様な考えも生まれていました。だから亜紀は私からどんどんと離れて行く様な気がして来たからです。しかし私は病院へ行けば戸辺先生に何を聞かれても、亜紀さんとは順調に行っていると言わなければ成らず苦しかったです。
今の立場に成ったのも戸辺先生のご尽力があったからです。でもとんでもない事をしてしまいました。」
「そうだな、遅きだな。
それでその後どの様にした?亜紀さんは息を引き取ったのか?」
「はい、手を当てましたが全く反応が無かったです。瞳孔も開いていました。」
「完全に息を引き取った訳だな?」
「はい」
「それで服を着替えさせたのだな?」
「はい」
「全裸にした亜紀さんを抱きしめてやろうとか思わなかったのか?」
「ええ、死んでしまいましたから。もう何もかもが終わったと落胆しました。裸の亜紀を見ていると何故こんな女に人生をむちゃくちゃにされたのかと悔しかったです。
唾をかけたくなる思いでした。どれだけ勉強をして、どれだけ頑張ったかと思うと・・・親父の顔を見続けながら・・・
涙が止まりませんでした。後輩の小山のマンションで泣いた時は悲しさで一杯に成って、そして亜紀の裸を見つめながら今度は悔しさで一杯に成って」
「馬鹿な・・・勝手なことを。それでその後どうした?」
「ええ服を着せようと思い、何時か頭で思っていた事を実行したのです。つまり亜紀の下着を何処かの呑み屋で貰ったいかがわしい卑猥な下着を着ける事を。」
「其れはどうしてかな?」
「ええ、亜紀は死んでしまった訳ですから、私と何ら関係ない所で死んだ事にしたかったのです。
戸辺先生の事を考えただけでも『とんでもない女性と婚約したのだね。君も迷惑を被ったね。お気の毒に。でも早く判って良かったね。今なら差しさわりなど無いと私は思うよ。気にせずに頑張りなさい。』と、この様に言われる様にするにはどうすれば良いのか考えたのです。
だからあの様な下着に着替えさせ、知らぬ間に起こった二面性のあるふしだらな女の出来事であると、戸辺先生にも家族にも誰が見ても思う様な事にしたかったのです。
だから商売女でも履かない様な卑猥な下着を付けさせ、又着ていた服も亜紀には珍しい派手な服だったので旨くあっていた感じでした。」
「それでわざとあの場所に亜紀さんを遺棄したのは?」
「ええ、わざとあの場所に亜紀を運んだのは、多くの人が見つけ、淫猥な商売女が悪い男に引っ掛けられ、夜中にゴミのように棄てられていたと思わせかったからです。
其れは言い換えれば医師である私には全く関係ない話と誰もが感じると思ったからです。それに態々あの誰もが見える場所と思ったのは、もし亜紀が行方不明などに成ると婚約者の私が疑われる事も間違いなく、其れより早く見付かり私はショックで心がずたずたに成ってしまったと、誰からも「お気の毒に」と思わせたかったからです。
精神科に掛かったのも、何時までも婚約を破棄しなかったのもその為です。
アリバイは小山にお金を渡していて、これからも渡し続ける事も言っていましたので、まさかこんな事に成るとは思いませんでした。」
「判ったあんたの気持ちは・・・しかし何故そこまでして貴方は婚約を解消すると言った亜紀さんの気持ちを考えなかったのかな?」
「そんな気は全く在りませんでした。元々亜紀は私の事を友達に言って居たのは、将来が楽しみと、其れにお医者さんの奥さんに成れるからと嬉しがっていたと聞きました。其れなのに」
「だからあんたが亜紀さんの心を冷めさせた事になるねぇ違うか?亜紀さんは誰からも決して嫌われてはいなかった。自分の事は自分で責任を持って出来る人であった。お医者さんのお嫁さんとして考えた時、十分過ぎるほどの人だったのじゃないのか?それをぶち壊したのはあんただろう?」
「分かりません。」
「それで弁護士の先生を呼ぼうか?」
「いえ、どっちでも構いません。もう良いです。」
「それで良いのか?お父さんが黙っていないのではないのか?弁護士を呼ばないといけないのではないのか?」
「いえ、刑事さんこれからは、いや今からは私独りで生きて行きます。親の顔色を見ないで済みますから。もう終わりましたから」
「そうかい。分かった。では今まで話した事を控えてあるから供述調書にサインして貰えるか?」
「はい。」
「あんたが猪倉亜紀さんを絞殺したのだな!」
「はい。」
供述調書にサインをする田所を見守りながら静かにお茶を入れて一息つかせた。
吉村刑事は取調室から出て携帯で南本刑事に連絡を入れた。
「南本さん、田所も緊急逮捕して今吐かせ供述調書にサインさせました。一件落着です。今どちらまでお越しでしょうか?一刻も早くお越しください。」
「はい、橋を渡りましたからあと十五分ほどで、でもこの橋もこれで終りになると思うと感ずるものが在りますわ」
「そうでしょうね。随分此方へ来られましたからね。」
「ええ、名古屋は私の第二のふるさとに成りました」
「私も小村刑事も貴方とお知りあいになれて良かったと言っているのですよ。色々勉強させて頂きました。
実はつい先ほどまで田所の取調べをしていましたが、南本さんならどの様にこんな時言うだろうなと思いながら取り調べていました。その思いが田所に通じたのかあっさり供述しました。
南本さんの教えが私の頭に入っている事は確かだと思います。お世話に成りました。気をつけてお越し下さい。そして南本さんがこの事件を締め括って下されば良いかと思います。」
やがて南本刑事は颯爽と熱田警察暑に乗り込んで来た。
暫く調書の目を通して田所光樹の取調べが行われる事と成った。
南本の出番である。
「田所さん今供述調書に目を通させて貰いました。貴方が亜紀さんを殺した事も貴方のアリバイが崩れた事も分かりました。
だから私は貴方がどこで何をしたとか聞かないでおこうと思います。此方の刑事さんに詳しく話して下さい。
調度三時間ほど前に此方の吉村刑事からお電話頂き奈良の吉野から飛んで来ました。
私は奈良の吉野警察暑の刑事で南本と言います。前にお目に掛かりましたね。犯人が遠くない時期に捕まると言いましたね。でも私は今まで電車で揺られながら何を思ったかです。
あってはいけない人にあった事に心を痛めたからです。
事件が起こりその犯人は誰であっても仕方なかった事件でしたが、間違っても犯人が貴方であってはいけなかったのです。
貴方は産婦人科のお医者さんに成られてどれ程のお子さんを取り上げて来られましたか?相当な数のお子さんだと思われます。これからも生涯に渡りお医者さんで在れば同じ事をしていた筈です。
お子さんとは、命とは、オギャーから始まるのを貴方はすいほど知っておられる筈です。命の意味を誰よりも知っておられる筈です。なのに何故貴方は人様の命を絶つ様な事が出来たのでしょうか?
信じられません。絶対あってはいけない事を貴方はしたのです。侘びて済む話ではないのです。人の生命の始まりを手助けしている、それを生業にしている貴方にとって、命を絶つ事などあってはならないのです。
貴方には反省など要りません。貴方には後悔など要りません。貴方には改心など要りません。
言い過ぎかも知れませんが、出来れば早く死を選んで、地球から、人類が生きる場所から出て行って下さい。私は貴方にそう言いたい。早く消えてくれる事を望みます。私の言っている意味がお分かりですね?」
「田所さん?」
「・・・・・」
「そんなに泣かれても今更困ります。その泪は思惑が外れたので悲しく成ったからですか?何もかもばれてしまい辛いからですか?後輩に裏切られて情けないからですか?
❾
貴方はね、絶対してはいけない事をした事を肝に銘じてしっかり自覚して下さい。どれだけの人が今辛い思いをしているか考えなさい。明日から貴方の家族は、そして親戚も大手を振って道を歩けなく成るのですよ。買い物にも行けなくなるし、食事だって出来なく成るのですよ。
貴方の一家は婚約者を殺した人の家族と思われるのですよ。そんな事を貴方はしたのですよ。」
「よく解かっています。刑事さんもういいです。もう止めてください。もういいです。だからさっきも言いましたが、これからは私独りで生きて行きますから責任も取ります。もう言わないで下さい。」
「田所、田所・・・其れで済むと思っているのかお前は、いい加減にしろ!亜紀さんは帰らないんだぞ!お前がどれほどの人を裏切り欺き、苦しめる事になるのか解かっているのか?お前の持って生まれた知能やその環境は、誰にも無いものである事を何故解からない。田所死んで誤れ!亜紀さんに誤れ!亜紀さんの家族に謝れ!バカ者めが・・・死んで謝れ!身をもって謝れ!」
大声で怒鳴り、南本は愕然として言葉を詰まらせた。
事の流れを汲んで吉村が田所に「よし今夜はここで泊まって明日から素直に何もかもを話しなさい。いいか?」
「・・・・・はい」
田所光樹は震えながら涙を床に落とした。
それからも田所光樹の取調べは更にくどく続けられ深夜に及んだ。 日を跨いで深夜になっていたが捜査室にコップ酒が用意されみんなで労をねぎらった。
田所光樹は四十八時間熱田警察暑で拘留され、徹底的に供述調書を造られる事になり、其れから検察庁に移され二十四時間の間に十日間の拘留手続きを取られる。其れでもまだ起訴に踏み込めない時は、更に拘留延長され十日間の拘留が認められる。
其れで起訴になるか証拠不十分で不起訴に成るかが決まる。田所は間違いなく自供しているから起訴される事は言うまでもない。
刑事たちはこの様なケースは至って気持ちを整理出来る事が出来、決してたちの悪い事件ではない事は言うまでもない。
折角逮捕拘留しても証拠不十分で不起訴に成るか、或は仮釈放になる悪党を嫌と言うほど見てきている南本刑事などは、何ら不安など無く田所の起訴を信じていたのであった。
事件は解決した。
南本と稲葉は用意されたホテルで風呂に浸かり肩の荷を降ろしていた。刑事にとって至福の時である。
明日は取り調べに終始して、時間があれば亜紀さんのお墓に線香を上げに行く事を頭で考えていた。更に家族に、吉野山の蔵王堂の亜紀さんが遺棄されていた現場に花を添えられてはと助言する積りであった。
南本にとって定年までは後一年半になった。刑事畑を歩いてからでも三十年近くに成った。
どれだけ犯人の醜さを見てきた事か、どれだけどんな人物でも、どんな肩書があっても、犯人となると絶対逃れたいのが人の道である事を知らされた事か、いかに誤魔化し逃げ隠れして嘘を並べ、難を逃れようとする卑怯さや愚かさを見て来た事か、政治家から教師、法に関わる者までお縄にして来た。虫けらの様に殺しをする者も見て来た。家族に危害を加える者など日常茶飯事である。
毎日犯罪が起こり毎日そのニュースで全てが埋まる。そんな事ばかりが今やニュースの全てに成る。
南本は今何を思う。湯船で肩まで浸かりながら走馬灯に映る過ぎた自分を見る様に思い出していた。
田所は今頃泣きじゃくった眼を真っ赤にしてヒリヒリした目の淵を感じながら、辛い夜を迎える事に成るだろうと、犯罪に走る者たちの生き様は可哀相な人生であると思わずにはいられなかった。
そしてその反対側で生きている筈の南本自信も、犠牲になった家族があり、まるで同じ様な道を歩んで居ないかと思えていた。
犯罪者と向かい合い戦い、そして彼らを罠に掛け、彼らに落とし穴を作って落とすのである。それを逮捕と言い白状させると言い、自供させると言い表彰状に成る。
其れが刑事・・・其れが為に家族との団欒の一時も無くし、気がつけば子供が死にそうな時も構ってやれず、抱きしめた時は既に色が変わって浅黒く成った頬に頬を添え、滂沱の如く泣き喚き、それでも妻は背を向け出て行ってしまい一人ぼっちに。一体刑事とは、そして犯罪者とは・・・
「南本さん逆上せますよ」
稲葉の声が外から聞こえて南本はお風呂から慌てて出る。
「南本さん何とか片が着きましたね。私にとって良い経験に成りました。こんな駆け出しの新米刑事と長らくお付き合い下さいまして感謝申し上げます。随分勉強させて頂きました。
これからは少なくとも行き詰まった時は、あの時のようにカツ丼を食べる事を、間違いなく実行致します。おそらく熱田署の吉村さんたちもそうすると思います」
「なんだい私が君に伝えたのは、君が継承してくれるのはそれだけかい?」
「そんなこと無いです。色んな事が一杯で一口では言えません」
「なら良いけど。私が去って行ってからも、頑張って良い世の中に成る様に頑張ってくれるね。治安の良い世の中に」
「そうですね。一人が殺されたらこんなに大勢の者が迷惑を被る訳ですから、どれだけ罪が深いか計り知れませんね。」
「田所って奴は折角勉強して立派なお医者さんに成ってどうしてこんな事に成るんだろうね?」
「そうですね。私らと違って、子供の頃から自分の考えが全て通ったのかも知れませんね。其れで人生のブレーキの掛け所を知らなかったと私は思います。
彼は本当に昔の人の言う他人の飯を食って居なかったのかも知れませんね。だから亜紀さんの気持ちに対処出来なかったと思います。
同じ世代として今のドライな女性の心には付いて行けなかったのかも知れませんね。これは私の考えですが」
「白井健三にもこの事を話してあげたいね。あいつはこれから良い生き方をする様に思うな。六年の刑はあいつにとって良い勉強だと思うな。
私又あいつの所へ行ってやろう。刑事を辞めてからでも、何処かの刑務所であいつは居るだろうから行ってやろうと思うな。」
「南本さん私も定年の頃に成ったら、南本さんの様な心に成る事を願っています」
「でもこれから結婚したら一番に思う事は、家族だからな。凶悪犯人の事より家族だからな。温かい味噌汁を作ってくれる奥さんであり家族だからな」
「分かりました。肝に銘じておきます。明日は忙しいですね。田所の取調べで」
「そうだな。でも熱田署の方にそれは」
「では観光でもして帰りましょうか?これで名古屋は最後ですから」
「そうだなぁ」
「そろそろ吉野は桜が咲きますね。蔵王堂の前で縄に繋がれた田所の実地検証なんて戴けませんね。絵にならないって言うか・・」
「そうだな」
「でも桜が咲くまでに早くしないと、人ごみに曝されたら、あの男も相当神経質だから本当に可笑しく成りはしないでしょうか?」
「仕方ないじゃない。誰もが其れが嫌だから悪い事をしない様に踏み留まるのだから」
「そうですね。」
「今日は眠れるな、久し振りに、ふかふかの布団であんたがいや稲葉君がうら若い女子なら・・・あーぁ馬鹿なことを」
「うふぅ、そうですね。おっしゃる通りですね。」
「寝ようか」
「ええ」
南本と稲葉は深い眠りに付いた。久し振りに飲んだお酒は五臓六腑に染み渡り頑強刑事の心を柔らかくしていた。
❿
明け方になり一本の電話が部屋中に鳴り響いた。
「もしもし南本さん夜分に済みません。大変な事に成りました。田所が、田所がシーツで紐を作り鉄格子に括りつけ首吊り自殺しました。監視が再三神経を尖らせていたのですが隙を見て」
「それで」
「駄目でした。手遅れでした。決意が強かったのか可成の力で吊ったと言うより自ら締め上げた様な感じで」
「なんて事に!なんて事に!其れで家族には?」
「今此方へ向かっていると思います。」
「気の毒なことに成りましたね。嫌な事を昼に聞かされ、其れで夜にはこんな事を聞かされるのですから、親御さんは堪らんでしょうね。」
「ええ」
「其れで家族の者に田所が亜紀さんを殺した事をはっきりと伝えているのでしょうか?」
「いえそれはまだ何れ家宅捜査が行われる事に成るまでは、それは明日にでも行われる筈でしたが」
「なら大変だ。この時間に警察へ来て息子が死んだ事を知り、更に息子が婚約者を殺した事も確実に知らなければならないのですからね。医師会の副会長でしたねお父さんは?」
「そうです。だからしっかり調書を取っていて大正解です。調書も何も無いのならどんな流れに成るかも判りませんからね。弁護士軍団を組まれでもしたなら」
「その点では良かったですね。私も読ませて頂き決して逃げ隠れ出来ない内容でしたから、幾らお父さんが人物であっても何も言えないでしょう。
ところでこの時間はタクシーもあまりない事も考えられ、出来るだけ早くに立ち合せて頂き、決まりが付けば吉野へ帰ります。」
「そうですね。被疑者死亡と成り幕を下ろす事に成りますね。」
「私たちは明日時間があれば白井健三にも会ってから帰ります。これで名古屋に来る事も無いと思いますので、あの男にも会って報告かたがた」
「そうですか。これで白井の裁判も再開されるでしょうね。あの男はこの事件に関しては大した罪は無かった様です。」
「ええ、良かった。」
南本は電話を切るなり田所光樹にきつく詰め寄った事が頭に浮かんでいた。刑事だから自分のした事を悔い入る事は無いと思いながらも、田所が言われるが儘に死んで逝った事は痛恨の極みであった。まさかが起こってしまった。其れは皮肉にも南本が言った言葉と同じで、産婦人科医の先生が人を殺した事に繋がった。
刑事にしてみれば被疑者が豚箱で死ぬ事を思う事など無いと考える。それでも強烈にきつい言葉を掛けて自白に追い込む事は間々ある。
南本もそれであった筈が、思惑が外れて被疑者は死んでしまった訳である。
ぐっすり眠れた夜中からに比べてとんでもない出来事で朝を迎えたことに、布団の中で南本は大きく溜息をついていた。その状態は暫く続き、またしても刑事の仕事の非常さを知る事と成った。
『刻苦勉励』吉野警察暑の一番奥の署長の頭の上に吊らされた掛け軸に書かれた文字を思い出していた。それは苦労して頑張り一心に励むことを言う
夜が明け南本たちは熱田警察署で暫くの間見守っていたが、後始末を熱田署に任せて白井健三を訪ねた。
「白井、お前が言った事が当たっていたから報告に来させて貰った。お前が勇気を出して話してくれた事で何もかもの片が付いた。六年は長いかも知れないが、しっかりお勤めをしてやり直せよ。誰の人生でもないお前の人生なんだから。」
「わかっているよ。ありがとう。」
「そうか、それならいい大丈夫だな」
「ああ、所で俺から亜紀さんを受け取ったあの男はどうなったんだ?手にホクロがある男。逮捕したんだろう?」
「その男は今頃熱田署で絞られている」
「其れであの男が亜紀さんを殺したんだ?」
「いや違う。あの男は使い走りで他に真犯人が」
「新犯人がまだ居たのかよ。たまげたなぁ。まさか・・・?」
「亜紀さんの婚約者の男が真犯人だった。」
「何だってまさか、やっぱりな、酷いな、其れって?そいつが俺を脅したって訳だな。例のあの声だな」「そう、待てよ、お前良い事言ってくれたな。話しておいてやる。しっかり聞けよ。
お前が絵美さんの子を死なせた事を絵美さんがばらした事を。
子宮筋腫の手術をした時にお前が全く病院へ行かなかっただろう?だから動揺して絵美さんは気が荒れていて、更に子供をこれから絶対産めない体に成った事が辛く成って、其れでついお前が子供を死なせた事を同じ様に入院していたおばさんに言った様だな。腹たち紛れに。
其れでおばさんは耳が遠い旦那に大きな声でその話をしてそれをあの先生が聞いていて」
「あの先生って?」
「だから絵美さんが子供を産んだ時に世話に成った先生。お前を脅した先生。
その先生がお前が長良川で絵美さんの子供をわざと死なせた事を知ったんだ。おばさんの話を盗み聞きしていて、其れで何もかもを調べてお前を脅す事を思いついた様なんだ。」
「其れで俺を脅して来たのかよ。でも何故はっきりしないんだ、逮捕したんだろう?人殺しなんだから?」
「逮捕した。しかし深夜に自殺をしたから分からなくなった。今お前の一言で気が付いた。昨日取調べで気が付かなかったから今と成っては全ては分からない」
「自殺かよ、でも俺はしないからな。でもお医者さんが何故自殺なんかするのか俺には解からんな。」
「お前も人を殺したんだぞ。死んでくれても構わないんだぞ。」
「違う俺絵美と知り合いに成らなかったらあんな事はしていないし、ここへなんか入って居ないと思う。何時か言っただろう。絵美が俺に抱かれていて龍志が絵美に近づいて来た時、絵美は足で龍志を蹴飛ばした話を。
絵美はそう言う女なんだよ。だから俺まで狂わされたと今では思うな。
あの時絵美の事が残酷に見えたからな。俺が龍志を抱き上げて泣き止ませようとしたからな。
其れが長良川で、龍志をこついて川に落とし死なせたあの足は、絵美の足だったかも知れないと今でも思うな。
あの俺と抱き合った時に絵美が龍志にした姿を知らなかったら、俺あの時にした様な事はしていなかったと思う。あんな事をしてしまったけど、絵美はそんな俺を許してくれるとあの時は咄嗟に思った事は確かだから・・・喜んでくれるかも知れないとも思った。
でももう良い。だから俺は絵美の事は完全に忘れる積り。
俺にはあの女は魔物にしか見えない。幾ら仏さんに手を合わせても、あの時の絵美は忘れられない。俺には絶対・・・。刑事さん間違っているかな?」
「でも白井、絵美さんは女として辛い思いをしているのだから解かってやらないと。お前もそんな考え方を持つ様に成れよ。龍志君に心の底から侘びる日が来る事を祈っているよ。六年間しっかり反省と勉強をして、一生死ぬまで龍志君に詫びろよ。ではこれで帰るからな。」
「そんな日が来る様に俺努力するから、頑張るから」
「そうか」
南本と稲葉は電車に乗って名古屋を後にした。山田絵美にも会いたかったが嫌な事を態々聞かす事はないと思いそっとしておく事を決めた。 何れ風の噂で耳にするだろうと思った。
被疑者田所光樹が死んで仕舞ったが、猪倉亜紀さん殺害事件の全容はほぼ判る事となり、この事件が解決に向かった事は確かであった。
南本はそれから新聞やテレビで犯人を死なせた事に対して、取調べ方法にも管理体制にも落ち度があったのではと愛知県警熱田警察署の署長が攻められていた事に苦慮して、責任を感じ、定年まで一年半を残し奈良県警を後にした。
それからの南本は隠棲の如く世間から逃れた生活を一人でそっと生きることを決意していた。
完結
(この物語はフィクションであり、
登場する全てと実存する全てとは
一切関係ありません。)
お疲れさまでした。。。。。。
題名 花街道殺人迷路
作者 神 邑 凌
お疲れさまでした。ほかにもこんな小説を書いています。
◎蟷螂の斧 勝てない相手に勇敢に立ち向かう。◎時効 妻が殺されて復讐に邁進する旦那の記録
◎目撃者 飲み仲間がひき逃げされた現場に出会い犯人を捜し始める。◎挽歌の聞こえる丘 政治家にあこがれた青年が国政にのめりこんでいくが裏表があることを知り、新たな生きがいを見つけるが。。。