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花街道殺人迷路  完結  作者: 神邑凌
4/5

花街道殺人迷路 5-4


「指名手配だろう。解かっているよ。俺帰るから」

「ご苦労さん」

検事水島あきらは吉村刑事に電話を入れ一連の取調べの全てを事細かく説明した。

「近日中に岐阜県警にお願いして実地検証をもう一度しましょうか?」

吉村がその様に言うと水島は、

「でも当時何かがあっても山田絵美も白井健三も口裏を合わせるでしょうね。私は二人の取調べを連日してそれで感じた事は、既に二人の間には話は出来上がっていると言うか、狂いが無いと言うかその様な感じでした。」


「では今更あの場所へ行って検証しても意味がないと」

「その様に思われます。それで私が思った事は二人で龍志君を殺した可能性がありはしないかと感じた事です。絵美も白井も子供が邪魔であった事は確かで、魔が刺してと言うかあの時何かが起こったから、あの様な結果に成ったと思ったのです。

絵美も何か隠している様にも思えますし、当然白井も然りです。それで返答に苦しく成った様に見せかけて、実は落し所を心得ていると言う具合で強かな所があります。


こう成れば絶対的な事実を突き付けないと、あの二人を起訴する事は出来ないと思います。」

「其れは十分判っています。奈良の南本さんや稲葉さんも随分骨を折って頂いていてご苦労されています。」

「もう僅かで一年に成りますね。」

「はい。早いもので・・・」


「私は白井に念を押して帰らせたのですが、万が一白井が逃走を図る様な事があれば、今度は重要参考人として引っ張る事が出来、それで無理矢理起訴に持って行き自白に追い込む事も可能ですが、勿論そこまで持って行くには問題もありますが」

「その可能性があるでしょうか?」

「其れは彼らが結束をしていると思う事を崩す事だと思います。あの二人に暗黙の内に取引と言うか、お互いに生じる利益があると思われるからです。 

詰まり絵美が白井に噛み付いていたにも関わらず、子供が死んでしまったのにその後が無いのです。詰まり相当言い争っていた筈なのにその以後何も無いのです。


私は状況を思い浮かべて不思議に思った訳です。白井はここでも肝心な所で霧に包まれた様に成るのは何故でしょう。再現して見る必要があると思われます。やはり再検証を岐阜県警に早急にお願いしましょう。そして徹底的に追い詰めましょう。」


名古屋地検水島あきらの提案で山田龍志君の水死事故について再検証が執り行われる事となった。そこには当時の携わった全ての者が召集される事となった。

更に刑事も猪倉亜紀殺人事件の関係刑事も頭を並べて参加した。

岐阜県警の西野巡査長も駆けつけて当然龍志君の救命に携わった消防署隊員や、同日同じ川下でキャンプをしていた家族の夫妻にもご足労願った。

再検証が始まって白井と山田絵美は事件当日の行動を問い詰められる事になった。 

「山田さんそれに白井さんのお子さんの事故は、あの事故以後色んな事を言われる方が居られ、討議の上再検証をするべきであると判断致しました。

この事故に関して警察官、消防隊員、又貴方方がキャンプをされていたこの場所から百メートルほど川下でキャンプをされていて溺れている子供さんを見つけられたご夫婦にもお越し頂きました。


そこでお聞き致しますが、お子さんが居なく成った時に白井さんは何処で居られましたか?」 

「薪拾いをしてここへ戻って来たら居なかったのです。」

「では山田さんは?」

「ええ、ここへ戻って来て健三に聞いたら居なかったので「どうしたのよ」と聞きました。

「知らない」って言ったので争う様に成って」

「其れは何故でしょうか?」


「だから私は子供の頃から山で薪を拾ったりしていたので勝手が解かっていて、健三に子供を頼んで山へ登りました。それで戻ったら龍志が居ないと言われてびっくりして周りを探しまくり、それでも居なかったから、川下でキャンプをしていた方に捜して頂こうと思ったのです」

「それでは川下でキャンプをされていたご夫婦にお尋ね致します。この場所からどれ位の所でテントを張られていたのでしょうか?」

「百メートルほど下流です。調度あの草が生い茂っている所です。あの草を利用してテントを張った事を覚えていますから」

「それで一度お聞きしたかも知れませんが、ご主人が見られた山田さん達の事をもう一度お聞きしたいです。」

「はぁ・・・」


「子供さんが溺れて亡くなっていた訳ですが、その前に遡るとどの様な事が起こっていたのか、貴方が見て覚えている範囲で良いですからおっしゃって下さいますか?具体的には男の方がどうであったかとか女の方がどうであったのかとか?」

「其れは何時の事でしょうか?」

「だから子供さんを見つける迄の事です。子供さんが居なくなったと言って来るまでの二人の行動です。」

「其れは鮮明になど覚えていませんが、そんな他人さんの事をじろじろ見る事などありえませんから」 

「でも目に映った何かがあったのではないでしょうか?」

「わかりました。記憶が正確かどうかは判りませんが、旦那さんが薪を提げてテントの横まで帰られた姿は覚えています。何故なら私たちも薪を集める事を考えていたからです。

奥さんが山に登って行った事も覚えています。子供さんの事は判りません。旦那さんが薪を置いてそれからの事は判りません。奥さんも山に上がって行ってからの事は判りません。でも旦那さんが見えられてそれから奥さんが山から帰って来られて、それでその時チラッと見かけました。小走りで帰られる奥さんを見かけました。

「其れから貴方は二人が言い争っているような所を見かけた訳ですね。その後に」

「ええ、奥さんが強い口調で何かを言っているのが解かりました。」                

「喧嘩をしている様でしたか?」

「其れは判りませんが何かきつく当たっている様な感じでした。」                 

「奥さんはその時薪を沢山持っていましたか?」

「いえ、何も持って居なかったです。」

「では山田絵美さん、今この様におっしゃられて居られますが間違いないですか?」

「はい。」

「それで貴女は本当に薪を拾いに山へ行って居たのですか?」

「行っていました。どうしてその様な事を聞かれるのですか?」

「今日は言い返すのは止めて下さい。聞かれた事だけにお答え下さい。それで集められた薪をどうしたのですか?」

「薪を?」

「そうです。薪は?」

「多分集まりすぎて健三に運んで貰おうと山の中へ置いて来たと思います。確かそうでした。」

「間違いないですか?」

「はい」

「白井さん山田絵美さんが言われた事に間違いないでしょうか?」 

「俺知らないよ。そんな事聞いて無いから」

「でも山田絵美さんが小走りで帰って来てその事を先ず言ったのではないのですか?」

「違います。子供が居ない事を絵美は言いました。」

「変ですね?山田絵美さん。どうして子供の事が一番なのですか?薪の事が第一ではないのですか?」

 

「でも気に成ったからテントを覗き込んだら居なかったから、夏だから入り口を開けていたから直ぐに判って、それで居なかったから・・・薪の事も忘れてしまい」


「それで白井さんに食って掛かった訳ですね。でも貴女はお子さんが居ない事はその時点まで知らなかった訳ですね?」

「ええ」

「では何故小走りでテントに戻られたのですか?山へ登っていて薪を沢山集め持ちきれなくなって、お疲れではなかったのですか?沢山薪を集められて自分では持てない位重かった訳ですから、本当なら汗を流しながらゆっくりとテントに歩いて帰るのが普通でしょう?幾ら山間部でも真夏ですよ。」 

「・・・」


「どうしました?説明して頂けませんか?山田さん」

「其れって小走りに見えただけなのではありませんか?この方たちは遠くから見ていたのですから、其れに私たちをじろじろ見ていた訳ではないでしょう。だからその様に見えただけで私は決してその様な事は覚えていません。」

「どうでしょうAさん?」

「では今この方にあそこから同じような歩き方をして頂ければ判ります。」

「では山田絵美さん一度あの場所から小走りでここへ来て頂けますか?貴女が小走りと言わないなら歩いてもかまいませんが。我々はAさんが当時テントを張られた所まで行って見て頂きます。ではお願い致します。坂の下りまで行って下さい。」

「解かりました。」

「我々も向こうへ行きます。」

山田絵美がAさんの要望に基づき山裾からテントまで歩き始めた。

「あんな遅くでは在りません。もっともっと早かったです。」

「山田さーん。もっと早く歩いて下さい。いや小走りで」

「いえ、まだあれでは歩いているだけです。彼女は走っていた事をはっきり覚えています。だって何かがあったのかと思った位ですから」

「山田さーん。走ってみて下さい」

「そうです。あれ位の早さだったです。」


「解かりました。これで十分です。それであの夫婦の事で何か他に思いついた事は無いでしょうか?ここでなら聞かれる事も有りませんから、あの二人の側へ行けば気を使って頂かなければ成りませんから。勿論お名前もAさん夫妻にさせて貰っていますから」

「だから検事さん。今の話は意味ある話かも知れませんね。さっきあの奥さんは薪の事を言っていましたが、旦那さんに取りに来て貰う様に、でも検事さんが言われた様に考えれば不自然ですね。だってあの角度の山だから結構きつい筈だから、小走りで戻るって事は山で何かを感じたとか見たとかあるかも知れませんね。

だってあの上に行って見ますと結構見晴らしが良い筈。我々は前日から来ていましたので既に登っていて、上の木立の隙間から良く見えるのですよ。キャンプしている所が、だから何かを見たのかも知れませんね。それで一目散に戻って来たとか」

「そうですか・・・そう言えば状況から考えられますね。鋭い勘をされている」


「いえいえ、素人考えですが・・・・」

「Aさんここから子供が地面を這っていたなら判るでしょうか?」

「気にすれば判るかも知れませんが、気にしなく何となくなら全く判らないでしょう。」

「つまり貴方が彼らを見ていたが、その時子供さんが居ても這っていたならわからなったと言う事ですね。」

「だってここは可成草が高く生えているでしょう。だから余計に見えないですよ。」 

「そうですね。では戻りましょう。又今後思いつく事がありましたならどんな事でもおっしゃって下さい。」

白井と山田絵美の元へ戻った。


「山田さんAさんの記憶の中にはっきりと貴女が山から小走りでテントへ戻った事が確認出来ました。それにこれから登りますが、あの山からは結構この当たりが良く見える様ですね。Aさんたちは前日からキャンプをしていて、既にあの山へ登った様です。それで木立の隙間からこの当たりは良く見えるみたいですね。これから確認しますか、それとも話を進めますか?」

「・・・」

「貴女は何かを見られたのではないのでしょうか?子供さんに関する何かを、だから一目散にここへ山から降りて来られたのではないのですか?」


「いえ違います。何を言っているのか解かりません。」

「ここへ戻られて一目散に噛み付く様に健三さんに何かを言われたのではないのですか?」

「覚えていません」

「居なく成った子供さんの事を言ったのでしょう?白井さんに『どうしたのよ?龍志は?』って。違いますか?」

「・・・」

「これから貴女が薪を置いて来られた所へ行きましょう。場所は当時に警察が記録していますから。貴女があの時に供述した事を確認しながら、では行きましょう」

山田絵美が薪を置いた儘にして山を下った事が書かれていて、薪を紐で束ねて運んで貰う積りで手ぶらで降りて行った所、子供が居ない事に気が付いて、それで薪の事も忘れていた様であると記されていた。


その場所へ行ってみると山の境界で樫の木が一本植えられていて、その下は獣道に成っていて直ぐに判ったので、刑事たちはその場に立って直ぐに気が付いたのは、その場所から下の景色が良く見える事であった。更に目を細めると山田たちがテントを張っていた所から直ぐ側の川岸まで見る事が出来たのである。

「山田さん貴女ここで汗を拭きながら下を見ると何かが起こっていたのではないのですか?子供さんが川原の川岸まで行っていたとか、若しくははっていたかヨチヨチと歩いていて、危ない状態に見えたのではないのですか?」


「そんな事は無いです。」

「山田絵美さん貴女は龍志君の事が邪魔であった。居ない程良いと思っていた。父親であった同郷の篠原信輝に捨てられた事で気を病んでいた。だから龍志くんが居ないほど良いと、まして白井は全く子共に関心など無く、寧ろ子の事を嫌っていると思っていたから尚更邪魔に成っていましたね。違うでしょうか?」

「・・・」

「違うでしょうか?」

「だから私が子供に何かをしたって言われるのですか?」

「いえ違います。貴女はこの上からテントの辺りを眺めて何かを見たのではないでしょうか?子供さんが大変な事に成りそうであるとか、だから貴女は薪をこの場所へ置き、慌てて山を下りテントに小走りで近づいて行き、そこで白井と何かを話して言い争う様な事と成った。違うでしょうか?


ここからテントまで下りて行くには二百五十メートルと前に書かれてあります。更に山の中を下る時はまったく下は見えません。だから貴女は焦って駆け足で降りて行ったのではありませんか?其れは子供さんが川の中に落ちそうな状態ではなかったのですか?

Aさんにもお聞き致します。山田さんが山の方から小走りで降りて来て直ぐに川の方へ向かいませんでしたか?」

「いいえ、行っていないと思います。何故なら二人で睨み合う様にしていて、奥さんが何か激しく話されていたので、只全ては見ていませんが、でも其れからテントの中を見たり車の方へ行ったりして、その足で私たちの方へ遣って来て、子供さんが居なく成ったと言われてびっくりした次第です。」


「ありがとう御座います。

山田さん、何故山から走りながら降りて来たのか言って頂けますか?お子さんの水死事故は本当の所は事故ではなく、無責任に放任していたとか虐待若しくは未必の故意であった事が想定されます。違うでしょうか?

貴女が何故山から慌てて降りなければ成らなかったか、そしてそこで貴方が何を見たか、下へ降りて白井さんと何を話されたか、今話して頂く必要があると思われます。

今貴女は子供さんをしっかり祀られているようですが、そんな可愛い子供さんの為にも何もかもをおっしゃって下さい。

もう一度来てあの場所にテントを張って再現しましょうか?」

「・・・」

「白井さん、今言ったことは寧ろ貴方にした質問だったのです。何か思い出したでしょうか?絵美さんが口を尖らせる様にして激しく言った言葉を」

「さぁ・・・」

「何かがあるのですね。貴方方に何かが、不都合な事が在るとはぶらかすのですね。地検へ戻ってもっと詳しくお聞き致しますので」

「帰れないのですか?」

「今日は任意ですから帰って頂いても構いませんが、しかし岐阜県警の本署の方でまだ調べさせて頂かなければ成りませんから、何しろ疑惑が色々在りますから。山田さんも白井さんも・・・

 だから山田さんに先ほど言った様に、何故貴女はこの場所に薪を置いた儘で駆け足で山を降りたのか、その前にここで一体何を見たのか、下へ降りてから白井さんと何か激しく話されていたのはどの様な内容であったのか、又白井さんも話の内容を正直に言って貰わないと行けません。

      

これで岐阜県警に戻りますが良く頭を整理して頂いて向こうへ着くなりお話して下さい。もし何も言って貰えなかったら、これからまたお尋ねしなければ成らなく成りますので、潔く話される事をお勧め致します。」

「検事さんんお思い過ごしです。話すことなど何もありません。」

山田絵美と白井健三は現場から引き揚げて岐阜県警本部に同行を求められたのでしぶしぶ従った。それから今度は吉野警察の南本が山田絵美に関してより詳しいと言う事で代表に成って質問をした。 

「絵美さん今日はご苦労さんやなぁ。でもあんたはどっちやね。子供さんを大事にしたいのかそれとも死んでしまってすっとしているのかはっきりしいや。

毎日線香を上げているのはあれはなんやね?気晴らしか。自責の念に駆られて堪らなくなったからか?殺してしまった罪を悔いているのか?岐阜県警の西野巡査長に言われた様に、あんたはこの儘では疑念に包まれた状態だから、何もかもをはっきり言わないといけないと思うよ。


自分の子供を殺したりする事は罪が重いから間違っていると思う所はしっかり弁明するほどいいと思うよ。絵美さん一体何があったのか言って、誰もが納得する様に。」

「・・・」

「絵美さん、黙っていたらあんたこの儘緊急逮捕に成るかも知れないからな」

「わたし・・・」

「言ってくれるんだね」

「わたし・・・」

「言ってくれるんだね」

「だから健三に聞いてください」

「勿論別の部屋で聞いているから、だから絵美さんが言える事を言ってくれればいいから」

「嫌です。健三に聞いてください」

「しかしあんたが山の上で見たものが何であったのかなど白井も判らないだろう?あんただけしか判らない事と違うの?それをまず言ってくれないと。何を見た?」

「・・・」


「何を見た?」

「子供です。龍志が起きて居る所を」

「それで?」

「それだけです。だから急いで山を下りたのです川が近くだったから」

「降りるには三分か四分で下まで行けるね。それで」

「それで健三が居て、健三に子供はって聞きました。でも健三は知らないって、だから私川を見てテントの中とか車の近くとか見て、それでも居なかったから川下でキャンプをしていた方にお聞きした訳です。子供を見なかったかと」

「それからみんなで捜していて川の中で溺れて沈んでいる龍志君をAさんが見つけたわけだね。」

「そうです。」

「それなら何も隠す事など無いのではないの?絵美さん本当にそれだけ?あんたが上から見た時白井もその近くで居たのでは無いの?だからあんたは白井に食って掛かったのではないの?子供はどうしたのって」

「違います。健三はどこからか戻って来て、それで腹が立って何故見ていてくれなかったかと」


「其れはおかしくないですか?龍志君は泣くとか何か声を出すとかあった筈。それを白井は知らなかったと?不思議だなぁ、あんな静かな所で」

「でも私もそれ以上の事は分かりません。これで全てです。後は健三に聞いて下さい。」 

「分かった。白井に聞く。」

それから白井の取調室に南本は赴き、

「白井今絵美さんから事情を聞いていたが、これから聞かせて貰うが出鱈目が無い様に頼むな。其れで絵美さんが山から駆け足で下りて来た時お前はどこに居たのかを教えてくれるか?」

「山の何処かで居たと思う。それで絵美が山から下りて来たから俺近づいて行ってそれで子供が居ないと絵美が言い出して其れから後はみんなで捜して・・・俺は山裾を川上の方へ行って居たから、絵美は上に登っていて分からなかったと思う。」

「でも白井、川下でキャンプしていた方が薪を持って居るお前を、絵美さんを見るまでに見かけたと言っているぞ。可笑しいのではないのか?」

「だから俺薪を提げて帰って来て又捜しに行ったから最初に帰って来た姿をあの人たちは見たと思うな。俺何度か薪を集めてテントと山を往復したから。だから俺は何も知らないから。」 


「白井お前の言っている事がまともなら、絵美さんはあんなにして毎日線香を上げて毎日手を合わせる事など無いと私は思うぞ。

お前は絵美さんが何故あの様に人が変わったと思う。分かって居るだろう。あれは子供さんに気を使っているのだよ。『ごめんね。死なせてご免ね。まだ僅か一歳なのに・・・死なせて仕舞ってお母さんを許して、貴方が邪魔だったから死なせて仕舞ったの、ご免ね。』おそらく絵美さんはこんな事を口ずさんでいると思うぞ。」


「でも俺あんな女と付き合わなければ良かったな。たまたま飲みに行った店で居ったから構っただけなのに」

「今更そんな事言うなよ白井、絵美さんを数えきれないほど抱いておいて」

「そりゃ男と女だから仕方ないだろう。でもな、あいつ今はもう女じゃないからな。子供も産めない体だから、俺あいつと遣っていても気が抜けて迫力無いって言うかスリルが無いって言うか」

「そんな事言っては私だって怒るぞ。誰でも色んな事情があるのだから、其れよりお前は肝心な所は黙秘だな。そんな事をしていると一生疑念が晴れる事が無いと思うぞ。一生疑われて白い目で見られて、お前はその事はスイほど分かっているのじゃないのか。大学も辞めさされたし寮も出て行かなければならなくなったし、これからも旨く就職出来るとは限らないと思うからな。それで良いのか?そんな人生で良いのか白井よ」                           


「刑事さん、俺帰るからもう帰りたいから」

「白井お前は都合が悪く成ったら同じセリフを口にする。何時も強気だな。それにしてもあの弁護士を雇えるのは何故なんだ。可成お金が居る事は誰も知っている事、其れが何故お前に雇えるのだ。」    

「俺帰りたいから、帰ってはいけないなら言って、刑事さん俺弁護士の先生に電話するから、それであんたらが何か違反していないかも知って置きたいから。汚い手を使うからなあんたらは俺にも人権って奴があるからな」

「白井よ、吐けば楽になるぞ」

「わかったよ。」

夕方まで粘ったが白井も山田絵美も捕まえる事は出来なかったが、それでも消防署員も市役所の職員も言って居た通り、山田絵美の本当の姿を垣間見た気がした。南本刑事には大きな収穫が有った様に思えていた。                 

岐阜県警本部西野巡査長は消防隊員の当時の感想を重んじて、更に捜査を継続して都合により白井を殺人犯として逮捕したい様な言い方であった。

限りなく黒に近い白井であり山田絵美であるが、それでも逮捕する物的証拠も、彼らの言い分をねじ伏せ覆す事の出来る証拠も無く、白井に嫌疑が掛かっている吉野の事件と、子供さんの水死事故の疑惑を裏付ける事は出来なかった。


とうとう九月が来て二十二日を迎える事と成り一年前のこの日の夜に猪倉亜紀さんが殺されていたのであった。それから一年南本が奈良県警に在任出来るのは後二年である。

吉野山で立てかけられていた看板が色褪せて特に赤色で書かれた文字が消えかけていた。

そろそろ看板を新しく書き直さなければ成らない頃に成った時、吉野警察に初老の夫婦が訪ねて来た。 

「私達は毎年の様に此方へ来させて貰っているのですが、まさかこんな事に成っているとは全く知らず、昨日道に立て掛けられていた看板を見て驚いています。


実は私たちは去年も九月に此方へ来させて貰っていて、それであの看板に書かれている車を見た様な気が致します。確かトヨタのマークⅡでしたね。実は私も同じ車を持っていてそれで覚えているのです。   あの看板が掲げられた所でその車を見かけた事を覚えています。シルバーのセダンだった事も覚えています。その時もう一台車が停まっていて何か話されて居た様な気がしました。

若い男の方でもう一台の車の名前は全く知りませんが、色はクリーム色で何方が乗っていたかは判りません。

何か話しをされていたのでしょう。ドア越しに若い男の方が話されて居ました。もう一人の方は車に乗ったままでした。

上まで登る積りでしたが、五時は廻っていて山の中だったので既に薄暗かったのです。だから暗いからあくる日に行く事に成り二台の車から五十メートルほど近くまで行きましたがそこで引き返したのです。


それからもしかするとその内の一台が、私たちが下って行く道を通った様な気も致します。でも其れは曖昧で決して確かではありません。看板を見て昨年の九月二十二日である事も見て間違いなかったから、私達の記憶に狂いが無かったから妻と確認をして来させて頂きました。

まさかあの日に殺人事件が起きているとは全く今日まで知りませんでした。

最近そんな話が多いからマンネリに成って居るのでしょうね。だからあまりニュースは見ない様にしています。誰かが殺されたとか言うニュースが多過ぎるから」

「そうでしたか態々ありがとう御座います。」

南本は心を躍らせ目を光らせ大阪から来たその夫婦に大きく頭を下げて感謝の気持ちを表した。  その初老の夫婦は大阪市在住で、元々先祖が吉野山の方で、今は親戚すら残っていないが、お墓があるので毎年九月には帰って来ている様である。つまりお彼岸にお墓参りをする為に帰っていた訳である。三次荘治と有美と言う名の夫妻で六十手前であった。


「私この事件を担当している刑事で南本と申します。」

「私は稲葉と申します」

「それで早速なのですが、時間が許されるなら現場にご足労願えますか?」

「ええ、いいですよ。何なりと、お供いたします。」

「でも良く覚えて下さっていましたね」

「いえ簡単な事で、いつも九月の二十二日に帰って来ていますから、それでホテルへ泊まって、だから母さんと言っているのですが、お墓参りは私達の最大のイベントで」

「そうなんですよ。結構毎年楽しみにして帰って来ますから」

「それで車はどの様な感じでしたか?」

「ええ、私が乗っている車と全く同じで、只色が違うだけで私も長年乗っていますから看板を見て直ぐに判りました。

あの看板の車の写真が乗っていなかったら私は見逃していたかも知れません。」

「ではこれから現場へ行って色々お聞き致します」

看板を立て掛けている現場に着いた

「ここですね?」

「ええ」

「それでどのような状態でしたでしょうか?」

「そうですね。白い車ともう一台の乗用車が停まっていて、若い人がもう一台の車の運転手に、その姿は分かりませんでしたが、その若い男が両手をもう一台の車のドアの所に掛けて何か話をしている様でした。


私達は道が塞がれていたこともあり引き返した訳ですが、バックしながら彼らを見続けていると、一台の車は、それはマークⅡの方ですね、開いていたトランクを閉め慌てる様に上に登って行きました。もう一台の車はその儘停まっていたと思いますが、坂を少し下って地元の知り合いの方と話している時に一台の車が下って来て、若しかするとその車だったのかも知れません。同じ色だったように見え車の形も似ていた様に思えたからです。でもこの所ははっきりしませんが・・・かあさんは何か覚えていないのか?」

「私は車の事は全く分かりませんね。ごめんなさい」

「それでその二人で話していた様に思った時に友達の様な感じでしたか?」

「其れは分かりませんが、でも一台の車の窓ガラスを開け外から両手を掛けて話す事は我々でも在りますが、其れは可成親しい関係だと思いますよ。」

「でも急いでおられたのじゃありませんの。だって直ぐに一台は上に行って居なく成ったでしょう」

「そうだね。でもあれは我々の車が登ってきたからかも知れないよ。」

「そうかもしれませんね」


「実は貴方方が今見かけたと言われた人物は犯人ではないかと思われ、既に我々は内定しています。ただ証拠が足りなくて起訴には持っていけないのですが、もしこの男が裁判で事実無根と言い張る時は証言して頂きたいのですが」

「良いですよ。こんな所で殺人事件が起こるなんて恥ですからね。何なりと協力させて頂きます。」

この初老の証言が事件を大きく動かす事と成った。

平成二十五年九月二十四日 白井健三を猪倉亜紀さん殺人容疑で通常逮捕した。其れはまるでお彼岸に亜紀さんがあの世から初老の夫婦を使って南本刑事にプレゼントしたかの様なものであった。


早速熱田警察署で取調べが行われる事と成っり、南本と稲葉も同席して厳しく取調べが行われ、白井健三は可成肝の据わった男であるが南本からされた質問に肝を冷やす事となった。      

「白井判ったぞ。」

「何がですか?」 

「お前が乱暴しようとして猪倉亜紀さんがブレスレッドを落とした現場で誰かと会っていたな。誰か当ててみようか?」

「知らないよ。俺、」

「白井誤魔化しても構わんが、お前を見ていた人が居たんだな。今向こうで面透視をしているから、二人も居るから諦める事だな」

「・・・」


「それで白井これ見ろ。これはお前が殺した猪倉亜紀さんの写真だ。この写真を撮ってから一年が経ってしまった訳だ。

亜紀さん殺されなかったなら今頃は結婚して既に妊娠しているかも知れんな。そんな女性の幸せに成る権利さえ奪ったのだからお前は罪を死んでも償わなければならないな。

何もかも白状する事だな。なあ白井其れが罪滅ぼしってものだよ、そうだろう違うか?」 

「・・・・」 

「ところで誰なんだお前と会っていたのは、監視カメラを見れば直ぐに分かるから。誰か言えないのか言えば罪は軽くなるから。

お前はこれから検察庁へ送られて起訴されるからな今度は間違いなく、とりさげたりはしないぞ。お前は亜紀さんを車のトランクに積んでいたが、それをあの場所へ着た誰かに亜紀さんを渡す為にトランクを開けていて、それを見付かった訳だ。

白井、亜紀さんをどうした?誰に渡した?何処の誰と組んで何を企んだんだ。」

看板を読んで吉野署を訪ねて来た三次夫妻が、別室からその姿に写真では判らなかった横顔を見つめながら、

「おそらくあの人でしょう。」と口にした。妻の有美が更に語気を強くして重ねて言った。

「私も間違いないと思いますが何しろ遠くだったけど、父さんよりまだ目がしっかりしていますから」

南本にその事を伝えて取り調べは更に厳しさを増し、大洲目を迎えている様に誰もが思った。

「白井この儘で毎日耐えられるか?さっさと言えよ」

「弁護士を呼んでくれ!弁護士を」

「呼んでやる。でも事実は一つだからな。弁護士先生が親子で掛かって来ても事実は一つだからな。

お前絵美さんはどうする?長良川で自分の子を殺した罪で逮捕されるかも知れないぞ。あの人にも弁護士を着けてやるのか?あれは殺人事件だと私は思う。お前も絡んでいると思っている。川向とか山の中とか川原とか、何処かでお前たちを目撃している人が必ず居ると思われるからそれを捜す。


必ず何処かに居るだろう。今ガラスの向こうでお前を見つめている人が居る様に。この人達はお前が猪倉亜紀さんに危害を加えて気を失わせたか、殺す位の事をしたか私には判らんが、そんなお前を見ていた人が居ったと言う事だ悪い事は出来んな、白井観念しろよ。」

「・・・」

「岐阜県警が山田亜紀を又しょっ引くようだから時間の問題だな。お前何を知っている?何をした?幼子を殺したのと違うのかお前が?それとも山田絵美が龍志君を殺したのか?それとも二人で示し合わせて殺したのか?気楽にセックスしたいが為に、子供が泣くのが嫌だったから、逃げて行った元彼の子であったから、そんな子はお前も殺してしまいたかった。そうじゃないのか?


子供に何の罪がある?僅か一歳の子に何の罪がある。山田絵美が毎日仏さんに手をあわせて涙ぐんでいるのは『あの時殺してしまってごめんなさい』って懺悔しているのではないのか、龍志君を助けてあげなかった事を悔いているのではないのか?お前なら判るだろう?白井何とか言えよ、何があったか言えよ、吉野山で何をしたか、長良川で何をしたか、はっきり言えよ、白井よ」       

「・・・」

「白井よ」

「煩いな!弁護士は?」

「弁護士が着たら事実が変わるとでも思っているのか、今までにしてきた事を覆せるとでも思っているのか、白井お前のそのふてぶてしい態度は何処から来ているか言ってやろうか?お前は長良川で龍志君が死んだ時身に付いた悪知恵だろう。其れは言い換えれば殺人をしてもばれなければ何の問題など無いと思い込んだからだろう。


お前の実家の大阪の豊中へも行ってある。お前の両親はそんな性格では決してない。慎ましやかで遠慮気味に暮らしている優しい方たちだ。

近所の人達もお前の家族を誰一人悪く言う者など居ない。其れがどうなってこの様な事に成ったのか、ふてぶてしいお前が誕生したのか、私にはわからん。なぁ言えよ、白井何が在った。この儘ではどうにもならんからな、さぁ大きな声で私を馬鹿にする様な事を言えよ。


警察は間違っていると言えよ。お前の言う事が正しかったならお前を帰してやるから・・・

吉野山でお前が会っていた人物は誰なのか、何の為に会っていたのか、その時亜紀さんはどうなっていたのか、何もかもを言えよ、それをはっきり判りやすく言ったなら、更に何の罪でもないと我々が判断したなら無罪放免にしてやるから、帰っていいから、どうだ白井?」

「いいよ、弁護士呼んでくれ。あんたの話はうっとうしいから。俺黙秘権って奴を使わせて貰うから」


「くそ生意気な奴だなお前は。しかし白井黙秘権を使っていても耳の中にはお前がしてきた事が私の声で入ってくるわけだ。頭の中は龍志君が死んで逝ったあの時の事が走馬灯の様に思い出される訳だ。

猪倉亜紀さんが死んで逝った姿が眼に浮かんで来て頭の中を駆け巡る訳だ。

所詮お前も人間根っこから悪ではない筈、真面目に暮らす親父さんやお袋さん、それに隣近所で暮らしている人たちも居るわけだ。お前はそんな二人やお前に優しくしてくれた近所の人たちが目の前に浮かんで来て耐えられない筈だ


お前は親に逆らうものなんて何も無い、大学も行かせて貰い何不自由無く育てて貰ったお前に何の不足がある。何も無いだろう。親をこれからも苦しめるのか、年老いて行く親を世間の流布に曝されながら苦しめさせるのだぞ、お前は何を考えている。後六十年生きるかも知れないお前はこの儘で良いのか、良く考える事だな。

言っとくが弁護士はお前の事より法律を重視する事を忘れてはいけないからな。人を殺した奴は必ず罰せられる事を忘れるなよ。」

「・・・」


「ありがとう御座いましたあの男はその内落ちるでしょう。つまり自供するでしょう。貴方がたが吉野署へ行って頂いたから急転して解決に繋がる様な気に成って来ました。

正直あの男は年甲斐も無く図太い根性で難儀しております。一筋縄では行かないようですが、でも時間の問題でしょう。本当にお世話に成りました。」

「いいえ、お安い事で。私達はこれで何回も吉野へ彼岸に行っております。其れも毎年九月二十二日です。春の彼岸もあるのですが、春は花見の方が多く旅館も満杯で、私達は実は元々あちらで住んでいた事もあって旅館もお友達の所でお世話に成っていますので、満杯に成る春に行くと反ってご迷惑に成り、他のお客さんを泊めれば一人前のお金が取れるのですから・・・だから秋のまだ部屋に空きがある時ならと思い、それで何時も秋の彼岸にお墓参りに」


「そうでしたか。でも偶然と言うのか仏様が引き合わせて下さったのか、この事件の大きな分岐転に成る様な気が致します。

あの方も吉野警察から何度も起こしに成り困憊尽きる思いで頑張っておられます。

白井健三って男、判るでしょう。あの黙りまくったふてぶてしさ。又これからは時々ニュースなども見られてあの男の事を気にしていて下さい。

其れと何か思い出したら吉野警察署の南本さんまでご連絡下さい。ご無理と思いますが白井が会っていた時のもう一台のクリーム色の車の事を何か思い出して頂ければ、この事件は大きく前へ進むと思われます。おそらくこの事件の核心と言っても過言では無いと思います。」

「解かりました。じっくり家内と思い出してみます。一日も早く事件が解決されますように」


吉村刑事は態々名古屋まで来て貰った証人大阪市の三次夫妻に労をねぎらった。


白井は警察の手から離れ検察に身柄が移される事となった。そして検察は二回目であった事もあって又状況を判断して、この儘では以前にあった様に逃走も考えられ、裁判所に拘留手続きを申請したが、白井は弁護士の言う儘に黙秘を続け落ちることはなかった。

だから供述調書は白紙であったが、更に拘留延長を申請して、それでも黙り続ける白井に検察は拘留期限を迎えて、猪倉亜紀さん殺害事件の重要容疑者として起訴に踏み切ったのであった。


翌日熱田警察署の吉村刑事も猪倉亜紀さんの実家を訪ねて線香をあげ白井を起訴に持ち込んだ事を報告していた。一方南本刑事は山田絵美が自宅に帰るのを待って訪ねていた。

「絵美さん、白井が起訴に成りました。ご存知でしたか?」

「いいえ知りません。私は分からないです。そうですか・・・」

「其れに貴女もこれから岐阜県警があの儘では黙っていないと思われます。貴女の言動にいささかも嫌疑が無いならこの儘で済むでしょうが、白井も何も口にしなかったし疑わしき箇所がありましたから・・・其れは解かるでしょう?」


でも私なりに辻褄が合っていたと思っていますが」「どうでしょう?結局今白井は言葉を失くして黙り込んでいる訳です。何かを言えばボロが出るって事ではないでしょうか。だから黙秘権を使ってと言う訳ですが、其れって私に言わせれば単なる逃げ口上で、言い換えれば私が犯人ですと言っている様なもので、後に成ればつまらない時に逆らっていた様なものであると気が付くと思いますよ。大人気なかったと、」「それで健三はこれからどの様に成るのでしょうか?」「ええ、公判が始まりつまり裁判に成るのです。今度は検察も引き下げることはないでしょう」


「裁判ですか?」

「ええ、何回も真実を求め審議が繰り返される訳です。それで最後に判決に成って刑が下る訳です。」

「でもその時に無実なら無実と言えば良いのですね。」

「ええ勿論、しかし無実なら裁判に成るまでにそう言っているでしょう。

だからここまで来れば罪が重くなるか軽くなるか、その被疑者の心構えだと思いますよ。観念して素直に白状するか、それともしぶとく逆らって否認するか、其れは当人が決める事です。


嘘を言うと大きく影響しますし、量刑の度合いが変わるでしょう。罪人も真面目な罪人と悪辣な罪人が居る訳で双方の刑の差は可成に成るでしょう。

絵美さん白井をこれから見ながらご自分の事を考えて下さい。先日の長良川での再検証で、貴女も白井も只事では無かっただろうと誰もが思っている事は間違いないです。もし隠された事実があるなら今の内に言って下さい。罪に成る事があれば今の内に。

心に仕舞っていると誰でも疲れます。もし一度嘘を付けばその嘘から又嘘が始まる事は誰でも知っています。そしてそこから決して幸せなど生まれません。違うでしょうか?罪が重く成るだけなのです。」

「わたし・・・」

「まぁ慌てないでゆっくり白井を見て行きましょう。裁判が始まれば又行ってやるのでしょう?」

「さあ判りません」

「でも行ってあげて下さい貴女の目でしっかり見届けて下さい。白井健三と言う人物を」

「・・・」


それから間もなく検察が公判請求し第一回公判が行われた。

「白井健三貴方は平成二十四年九月二十二日奈良県吉野郡吉野町吉野山において名古屋市熱田区殿田四の六の九在住の猪倉亜紀さん二十六歳を殺害した容疑について審議いたします。被告の住所本籍大阪府豊中市今入六の三、現住所は名古屋市昭和区新井四の二コーポ日の木田二○三号職業無職年齢二十一歳

尚被告は黙秘する権利を認めます。」

「被告人前へ出なさい。貴方に課せられた罪状猪倉亜紀さん殺害を認めますか?答えなさい。」

「俺がやったって事?俺知らないから、何か証拠でもあるのかな。俺黙秘させて貰うから」

「弁護人は何か申し述べる事が在るでしょうか?」

「いえ今の所何もありません。」


「其れでは検察官冒頭陳述に入ります。申して下さい。」

「はい裁判長、この事件は控訴事実に基づく犯行までに至った事実を述べさせて頂きます。被告白井健三は事件当日山田絵美、山田美鈴姉妹と奈良県吉野郡吉野町吉野山へ行き、猪倉亜紀さんを見つけわざと車で接触して腰辺りにぶつけ、『大丈夫ですか?』と心配そうに声を掛け、親切と思わせ車に乗せた。


又猪倉亜紀さんも女性二人が乗っていて更にその場所が狭かった事と後ろから車が来ていた事も手伝って、言葉に甘える様に被告の車に乗ったのです。それで通称奥千本の広場まで行きそこで落ち着いてきた猪倉亜紀さんの顔を見ながら、被告は女性たちに飲み物でも買ってくる様に言って、亜紀さんと二人に成り、そこで車で接触した亜紀さんの腰の辺りに手をやり『大丈夫か』と案じた所、亜紀さんは女性たちが居なく成り被告と二人であった事で気が張っていて、被告が腰に手を掛けた事で危険を感じ持っていたバッグで被告の手を払おうとしたら、勢いが余って被告の顔に当たりバッグの底が当たったので、酷く痛かった被告はムカッとして亜紀さんの腰から更に上半身に手を伸ばし、暴れ始めた亜紀さんの体を押さえ、更に服を摑んで亜紀さんのブラウスに手を掛けボタンが飛び散る事となった。


 そこへ飲み物を買いに行って居た山田姉妹が帰って来て、争っている姿を見た途端、被告が亜紀さんを手篭めにしている様に見えた姉の絵美は「止めなさい。何しているのよ、健三」と大きな声を発したので収まった。

姉の絵美が亜紀さんに事情を聞き、ボタンの取れたブラウスを脱ぎ自分の持っていたシャツをあげて事が収まったのである。

それから山田姉妹をその場に残して、被告は亜紀さんをその日に泊まる筈の吉野荘まで車で送る事に成り、二人で坂路を降りて行ったが、問題はここからで亜紀さんは車が下り始めてから二百メートルほど下った所で被告に思わぬ事をされたのである。


被告は車を止め亜紀さんに乱暴して気を失わせ猿轡をして、そして拉致し車に乗せた所で待ち合わせていた者に亜紀さんを渡したと思われるのである。

その誰かとはこれからの裁判で被告が述べる事にあると確信している。尚遺体検証の結果として、猪倉亜紀さんの口に猿轡がされていた痕跡を証拠として提出致します。又被告が猪倉亜紀さんを拉致監禁したと思われる場所には亜紀さんが常に着けていたブレスレッドが落ちていた事や、亜紀さんのズボンの裾の折り目の内に、あの場所で生息している野草のキツネのカミソリと言う彼岸花の破片があった事からも立証出来る訳です。

 

更に被告はその場所で誰かと親しく話していた事も証人が居り、間違いなく被告は猪倉亜紀さんをあの場所で拘束し自由を奪った事は間違いないでしょう。もし被告が今言い表した事を覆すのなら、間違いを正し事実を立証するべきであります。

 被告は一貫して黙秘を貫くようですが、状況証拠から言って罪状は明確で、一刻も早く罪を認め刑に服する事を望みます。」

「裁判長、」

「弁護人どうぞ」

「検察は徹底的な証拠を未だ提示しておりません。被告が間違いなく遣ったと言う証拠が在るでしょうか?何も在りません。何処に物証があるのですか?被告が遣ったと言う証人が居るでしょうか?犯人は猪倉亜紀さんの首を絞めて絞殺したわけですが、何処に被告がやったと言う証拠があるのでしょうか?被告に何か決定的な犯行に及んだ証拠があるのでしょうか?状況が被告にとって不利だから必ずしも被告に嫌疑が掛かる事などあってはいけないのではないでしょうか。検察は確固たる証拠を示される様に申し述べたい。」

「裁判長」

「検察官どうぞ」

「今弁護人は検察に対し確固たる証拠をと言われましたが、其れは言い換えれば被告が被害者と接触していた事が判っているにも関わらず、その所の事を一切述べていない事がこの事件の最大の焦点なのです。

 

被告がその部分を正直に話されたらこの事件は瞬時にして解決に向かうでしょう。状況的には逃れられない所に被告は居るのです。よって無罪と言うなら拘わりが無いと言う事を証明する事が何よりも大事だと思われます。ここに被告を見かけた証人も居りますので、次回の法廷に於いて証人尋問を申請致します。」


裁判はまだ入り口である事は誰もがわかる事となった。

南本は裁判の様子を熱田署の吉村刑事から耳にして熱く思うものは無かったが、其れでも走り出した事を感じていた。南本はまるでびくともしない白井の心に今突き刺さるものは何であるかと思ったのは、山田絵美を係わらす事であった。それは二人の中に亀裂を生じ挿すと言う意味である。 

「絵美さん一度白井の裁判に行かれませんか?何れあの男の弁護をしなければならない時が来るかも知れませんから、現時点で弁護士が何も言って来ていないのなら傍聴席に座られては如何です。

それで何よりも大事な事は白井がどの様な事をしたかと言う事ではなく、貴女がこれからの人生をどの様に生きて行くかって事ですよ。貴女の将来の為に裁判に行かれて白井の思う所を伺って見ては如何でしょうか?」 


「其れも大事でしょうね。でも私はこれからどの様に成るかは判りません。子供の事もややこしく成っていますから。」

「でも貴女に非が無ければ良いのではないのですか?其れは貴女が考えて下さい。次回の公判は十一月一日です。    

お越し下さい。出来れば変装してと言うか、白井に判らない様にして来られるほど彼も話し易いでしょうね。見つからない様に」

「解かりました。」


南本は山田絵美のアパートを後にして愛知地方検察庁に赴いていた。担当検事の水島に会って次回のちょっとした作戦を話す積りであった。

「水島さん、今度の公判で白井をこの様に攻めて頂けないでしょうか。其れはこの事件には関係ない話ですが、山田絵美の子供が死んだ事故の事と其れに纏わる話を繰り広げて頂きたいのですが」

「しかし其れは弁護団から即座に異議を申し出て来るでしょうね」        

「でも本件に一見関係ない様に思われますが、被告がこのまま黙秘を続けると言う事は被告に疚しい事があるからだと判断出来るのです。

ここに示す事は被告にとって重大な事で本件にも大いに関係ある事だと思われます。・・・・まぁこの様に言って口火を切って頂きたいのですが」      

「それでどの様な内容の事を?」

「今付き合っている女性の事です。」

「山田絵美ですね。」

「そうです。御存じの通り実は山田絵美が同郷の左官見習いだった男と結婚して、その男は山田絵美に子供が出来た途端に逃げる様にして出て行った訳です。それで山田絵美はその後に知り合いに成った白井と好い中に成り、子供が邪魔に成って来て、その後ご存知の様にその子が水難事故で亡くなったのです。


白井はその子が死んでくれても良いと思うほどの冷たい関係であった事も手伝って、今岐阜県警があの事故には不自然な要素があると再検証をしている最中ですね。

そこで白井の心の内に秘めたものなのですが、この事は本件にも大いに関係ある話で、今白井が山田の事をどの様に思っているかと言う事なのです。だから被告人尋問で白井に聞く訳です。」

「白井が山田絵美をどのように思っているかをですね?」

「ええ、でもここで一番大事な事は山田絵美が子供を亡くした後子宮筋腫に成って、二度と子供を産めない体に成ってしまった事なのです。それを白井はどの様に思っているかと言う事が何より大事な訳です。当日山田絵美に誰にも分からない様に傍聴させます。勿論白井も知らない訳です。」

「それで南本さんは何が狙いなのですか?」

「二人の仲を裂く事が目的です。そして本音で話してくれる事が目的です」

「本音とは、真実ですね。山田絵美の心の内ですね?」

「そうです」

「ややこしいですが・・・解かりました。貴方のご意向に沿える様な尋問を致します。」

「そこに突破口があると思われるからです。」


第二回公判

検事による被告人尋問を執り行います。

「被告人は親しくされている女性が居られますね?お答えください。」

「お答えください」

「・・・・」

「裁判長このように被告人は黙秘を貫いている様ですが、決してこれは良い事ではなくこの様な態度は被告人の為にあらず罪がより重くなる事を言ってあげて下さい。

弁護士もこの儘では裁判に成らない事を忠告致します。

そこでもう一度被告にお聞き致します。貴方が今付き合っている方は何方でしょうか?」

「・・・・」

「では此方から申します。貴方が何も口にされないのならそれで宜しいです。不利に成る事だけは言っておきます。」

「・・・」

「山田絵美さんですね。山田絵美さんと長らくお付き合いをしていますね。それで以前に山田さんと長良川へ行った時に起こった山田さんの子供さんの水死事故に関して、岐阜県警で不審な点が多いとの事で再検証していますね。」

「裁判長、」

「弁護人何でしょうか?」

「検察官が言っている事は本件には全く関係ない話と思われます。」

「いえ、大いに関係ある話である事はこれからお聞き頂ければお解り頂けると思われます。」

「では検察官は続けて下さい。」

「はい、何故この話をしなければ成らないかは、被告の態度から読める事でもあります。被告はこれまでからこの様な態度を繰り返しています。そして分が悪くなると黙秘を貫き、其れは言い換えれば決して事実に向かう態度ではなく、あくまでも逃げ通そうとする強かな態度に他ならないのです。


被告の恋人山田絵美さんは被告の事を愛しています。しかし被告は山田絵美さんの連れ子を決して愛してはいないばかりか、その子が亡くなった時、まさに息を引き取らんとする時に、被告は薄ら笑いであったと、その冷酷な心に関係者が驚くほどの心を持った男なのです。 

好きな女性の子供が死んだ訳ですから、心の何処かで大なり小なり悲しむのが普通ではないでしょうか?

それを笑いながら捉えているその言わば冷酷な根性をこの被告は持ち合わせているようです。この事実を本件と関係ないと判断されればこの事件の解決が遅く成るでしょう。


被告が幾ら黙秘を続けていてもそれは被告自身に何ら意味が無いばかりか、大きく弊害がある事を弁護人 は知らしめるべきだと思われます。」

「被告人は何も言わなくとも良いのですか?貴方は検察に何も言わなくても良いのですか?被告人は答えないと不利に成りますよ。」

「なら言わせて貰う。俺あんたらがおかしな事を言うから俺まで可笑しく成って来たぜ。絵美が俺を愛しているって言ったか知らないけど、其れに俺が、子供が死んでも悲しがっていなかったって言ったけど、じゃぁ絵美はどうなんだ?  絵美は自分の産んだ子なのにどれだけ嫌って、嫌って、俺なんかよりあいつが子供は死んでくれても良いと思った筈だよ。あいつが殺したようなものだよ。」


「でも貴方は山田さんと深い関係にありましたね?」

「あったけど、だけど俺には他に付き合っている子も居てるから、あいつが居なくても問題ないから、其れにあいつは子供も産めない体だろう、俺そんなの嫌だから。俺長男だから子供の産めない子なんて問題外だから。正直俺絵美の事などどうでも良いから・・・。」

「被告は今言った言葉は本心なのですか?」

「そうだよ」

「裁判長、被告はこのような心を持った人物なのです。」

「なんだよ・・・そんな裁判じゃないだろう?」

「では黙秘を止めますか?正直に話されますか?」

「・・・・・」

「これで尋問を終わります。」

南本はその白井の言わば心無い発言を検事水島から耳にして心を痛めていた。更にそれ以上に心を痛めたのは山田絵美であった。

南本に誘われて始めて裁判に来て傍聴し、どれだけ心が痛んだか、其れは山田絵美が目を真っ赤にして退廷する姿で十分分かる事となった。

玄関先で待っていた南本は山田絵美を見つけるなり近付き、「お疲れ様でした。はっきり言います。絵美さん勉強に成ったでしょう。私は入れないので全ては判りませんが、検事から大まかな事を聞いていますから。それで白井の心の内を垣間見た様な気がしたでしょう?」

「刑事さん私の立場は健三を庇う事だと思って今日来ました。彼の何か役に立たないかと思いながら、でも今は全く違う感情が芽生えていますと言うより、心の中を覆い尽くしているのは、健三を許せない気持ちに成って来ています。私これからどうすれば良いのか分からなく成って来ました。」

「絵美さんのこれからは絵美さんが考えるべきです。真っ直ぐな道を選ぶべきです。これまでの事は全てリセットして、これからの大切な貴女の人生を健全な道である様に考えるべきです」

「私は健三との事で守る事などないのでしょうか?彼が発言した事が全てなのでしょうか?」

「一体何を言いましたか?」


「だから健三が私の事などあまり頭に無い様で、まして子供の産めない女なんて問題外だからって、他にもっと好きな子が居る事も」

「そうでしたか。そんな事まで・・・其れは酷い、絵美さんあんな男の事など忘れなさい。折角貴女は心を入れ替えて仏さんを大事にされているのだから、今の心を大切にされないと決して幸せに成らないかも知れませんよ。まだこれからの長い人生だからもっと大事に生きて下さい。」

「そうではなく私検察側の証人に成りたいのです。何故なら私言わなければ成らない事が」

「其れは何でしょうか?」

「でも今は言えません。家に帰ってもう一度冷静に考えます。」

「では検事側の証人申請をしておきますから次回公判でお願い致します。それで良いのですね?」

「ええ」

しかし第三回公判で山田絵美は姿を見せなかったが、第四回公判でその姿はあった。


「証人尋問をさせて頂きます。」

「検察官は尋問をどうぞ」

「第二回公判で述べました様に、白井健三が親しくしていた女性を証人としてお越し頂きました。山田絵美さんで御座います。同証人は白井健三に関して述べる事が在るゆえ自らの希望で証人に成って頂きました。では証人の話をお聞き下さい。どうぞ山田絵美さん」

驚いたのは白井健三で、目を丸くさせながら検察側証人の山田絵美の姿に疑念を表していた。 


「はい。私は山田絵美でございます。第二回公判で実はあの傍聴席の片隅で全てを聞かせて貰っていました。白井さんが私の事をどの様に言われていたかも十分過ぎる程耳にしていました。私の事を恋愛対象の女性と見ていない事や、他に付き合っている方が居られる事や、そして何より辛かったのは私が子供が出来ない体である事に対して、あまりにも薄情な考えである事に驚くばかりで震えながら聞いていました。しかしながら私は白井さんの事をこれ迄只管に愛して来た積りでしたから、その心の中に在ったものがこれ程までに違っていたのかと、あまりにもショックで生きる望みさえ失った毎日を繰り返していました。


 第三回公判に出てこれから話させて頂こうと思う事を話させて頂く積りでしたが、もう一度冷静に成って考え直し、そして今日同じ結論に達したので、こうして話させて頂く事を決意しました。

其れは検察官が言われたあの私の子供が水死した時の事であります。」

「そんな事関係ないじゃないか。何を言っている絵美お前は馬鹿か!」

突然被告の白井が大声は張り上げて山田絵美の顔を睨み立ち上がった。

「被告は黙って聞きなさい。静粛に。これ以上勝手な事をすると退廷させますから」

裁判長が白井にきつい目をして睨み大きめの声を出し制し、更に「証人は続けて下さい。」と優しく付け加えた。

「私と白井さんと子供の龍志と三人で夏のある日に長良川上流の今川と言う所にキャンプに行きました。


河原に着いたのは昼も過ぎていてそれから泳いだりして夕方に成って来て、夏でしたがやはり山間部、夜は薪を燃やして暖を取りながら食事をする事がキャンプの醍醐味であると考えましたから、テントを張り子供を寝かせて、それで二人で薪拾いに出かける事にしました。

龍志は気持ちよさそうに寝ていて私は安心して薪集めに精を出しましたが、健三さんは後からあまり気が乗らない様な感じで付いて来ていました。


 私は山裾にはあまり木が落ちて居なかったので、山を駆け上るとパラパラと枯れた木が落ちていて、更に上へ登って行きました。私は四国土佐の出なので子供の頃からその様な事を何度もして来ていますから、夢中に成って薪を拾い集めていました。気が付いたら二百メートルほど登っていたと思います。白井さんの姿は何処にもありませんでした。

更に登り木が生い茂っていましたから、どれ位登ったのかは分かりませんでしたが、汗が可成出ていて、でも爽やかな風が吹いていたので気持ち良く薪を可成集めて下り始めたのです。


登り始めてから二十分は経っていたと思います。それで可成の薪を紐で括り提げながら下り始めて、調度樫の木が一本立っている所で下るのを止めて汗を拭こうとしました。

その場所は風通しが良く、木立の間からテントが張られている事も、川原の様子もたまたま見える事が出来、川原を見ますと健三さんと龍志が川辺で居る事が直ぐに分かりました。それで私は・・・それで・・・」


「それでどうしたのですか?」

「おい絵美止めろよ。絵美!止めろよ。卑怯な事を言うなよ。馬鹿たれが・・・絵美・・・」

白井健三は又大きな声を張り上げ山田絵美の目を睨んで立ち上がって叫んだのである。そして刑務官の阻止する腕を振り切って絵美に近づこうとしたのである。 


「被告は退廷しなさい。退廷を命じます。」

裁判長の甲高い言葉に白井健三は二人の刑務官に引きずられながら退廷して行った。

「証人は続けてください。」

「はい、私はその場所から見てはいけないものを見てしまったのです。其れは・・・それは・・・健三さんと龍志が川辺で居りました。

汗を拭きながらそっと見ていると、龍志がはいながら川辺に近づいて行きました。川辺は斜めに成っていて落ちそうに成った龍志の体を、健三が助けると思って見ていましたが、決してそうではなく健三は・・・健三は・・・健三が・・・」

「どうされましたか?」

「健三は龍志を足で突いて川の中に落としたのです。流される龍志を見ました。私はびっくりして薪をその場に置いたままで駆け下り、山裾まで出て来て健三の方へ駆け寄りました。それで龍志の事を聞くと健三は・・・健三は・・・健三は・・・」

「落ち着いて話してください。待ちますから・・・何が起こったのですか?落ち着いて」 

「健三は私が子供の事を言うと、私の両方の肩を強く摑んで私の目を見て言いました。 

『絵美、お前は龍志を嫌っていたな。俺もあの子はどう成っても良いから、龍志は今天国へ逝ったから、絵美俺を地獄へ落とす様な事をしないでくれよな。これから二人でやって行こう二人で』 『何を言っているの?』と言いましたが、『龍志が川の中に落ちた』と健三は言いました。


私はそうではなく『貴方が足でコツいて龍志を川に落とした事を知っているのよ』と言いましたが、『又これから二人で仲良くやって行こう』と、其れに『お前も龍志の事を邪魔に思っていたじゃないか』と言われ、『川の方を見るなよ。下でキャンプをしている連中に怪しまれるから、分かったな』と言われました。

それから私は決して川に近づく事無く車の下とかテントの周りとかを捜し、その後川下でキャンプをしている方たちに子供が居ないと助けを求めたのです。


暫くして子供は下の方が発見して下さいましたが、既に青白く成っていて、まず助からないだろうと思いました。山の上で健三が龍志をこついて川に落とすのを見つけてから既に十五分位過ぎていたと思います。

私は龍志を抱きしめながら悔しくて、悔しくて、大声で叫びたかったです。この子を溺れさせ殺したのは健三であると・・・でも健三の『これから二人でやって行こう』と言った言葉と、私は心の隅で龍志の事を邪魔者にしていた事は事実でしたから、正直ホットした気持ちが芽生えた事も事実です。


でも其れは龍志が位牌に成って僅かの命を終えた事で気が付いたのです。何と残酷な人間であるかと、私は死んで侘びても足りないと思う様に成って来ました。 線香をあげた事も今まで無かった私ですが、あれ以来毎日の様にお経を唱え、線香をあげ悔やんでいます。

しかし健三との仲は子供が居なくなった事で再三彼が私のアパートへ来る様に成り、今までより睦まじく成った事は確かですが、私はその度に仏様の扉を閉め健三を刺激しない様にしていました。


警察沙汰にも成る事無く、子供を忘れる事が何よりであると私は次第に思う様に成って行き、其れはとても辛いものでした。

でも神様はそんな身勝手な私を許してはくれませんでした。

《貴女はこれより子供を産む資格などありません。これからの人生は供養に明け暮れしなさい。》と言われた様な思いにかられたのです。

子宮筋腫に成り子宮を取り除く事を余儀なくされたのです。当然です。当たり前です。私はこの裁判で健三さんが黙秘権を使い何も話さないと聞いています。でも少なくともあの長良川で起こった事故は事故でなく殺人であった事は確かなのです。健三が間違いなく龍志を殺したのです。」

「これで検察側の証人尋問を終わります。」


第五回公判の冒頭において裁判長から、

「白井健三、被告はこの度の公判において一念に黙秘に徹しているが、その思いでこのまま公判を続けるより、被告はまず岐阜県警から長良川幼児殺害事件の容疑で逮捕状が出ている事実があり、本件は一時宮廷とする。」


異例であった。

裁判長が被告白井健三にこれまでの態度に煮えるものがあったのかきっぱりと口にした。

白井健三はその後岐阜県警警察本部に身柄を拘束される事と成り、あれだけ息巻いていた筈が、人が変わった様に成って行った。それでも弁護士篠崎茜は白井を弁護する態度を変える事は無かった。

岐阜県警の当時担当であった西野巡査長は固唾を飲んで見守る中で取調べが始まる事と成った。何一つ口出し出来ないジレンマに西野は悔しがったが、以前に何一つ疑問を持たなかった事の失態を悔やんだ。


白井は供述で、山田絵美が再三子供龍志の事をうっとうしく言っていた事を何度も耳にして、その言葉が後押しと成りあんな事をしてしまったと悔やむ様に口にした。白井は直ぐに検察の手に渡り起訴される事と成った。

弁護士篠崎茜は直ぐに仮釈放の申請をしたが却下され、それでも再三拘置所へ白井の接見に訪れ白井を励ました。


南本刑事は吉野警察暑に戻って通常の勤務をこなしながら岐阜県警の西野巡査長から電話を貰って、白井の近況を耳にして不思議に思っていたのであった。 《何故あの男に其れほどまでに力を注ぐ者があるのか》

お金など全く無い筈の白井の弁護を引き受けて、泥沼に入って行く様な道を選ぶ必要がどこにあるのか?

南本は何よりもその事が気に成って、それは言い換えればこの事件の鍵を握っているのではないかと思う様に成っていた。

南本は吉野を経ち名古屋へ向かっていたのは翌日であった。             


「篠崎さん、貴方が弁護している白井は腐った奴ですよ。おそらく猪倉亜紀さんの殺害もあの男でしょう。裁判は中断しましたが、あの男は二人の殺人に関わっている事は間違いないでしょう。」

「其れは貴方が思う事で事実ではないと思います。貴方はその様に思いたいだけの事ではないのでしょうか?」

「それでもいいです。私の事など。しかし貴女があの男に入れ込むのは何故なのですか?岐阜県警の西野さんも言っていましたが、取調べをして不振な事など何も感じなかった当時の事を悔やんでいました。失態として記録に残るのですから当然でしょう。

 実はその話を昨日聞かされて貴女の事を思い出したのです。貴女は随分お若い方だから、経験される事は勉強に成る事は解かりますが、貴女の弁護士人生の汚点にならないかと危惧しています。そうは考えた事御座いませんか?」

「ご心配ありがとう御座います。しかし至って冷静に対処していますからご心配に及びませんから」  

「何方です、本当のクライアントは?」「白井健三さんですよ。守秘義務がありますから」 

「其れは分かります。でもそのクライアントが実は主犯格って事も今と成っては考えられるのです。白井が亜紀さんを車で旅館まで運ぶ途中で、亜紀さんと取っ組み合いに成ったと考えられますね。白井が居った場所も分かっているのですから、更に目撃者が居りますから、ですからあの場所で誰かと会っていて亜紀さんがその場から消えた事になるのです。


つまり白井は亜紀さんをあの場所で誰かに渡した事になる訳です。クリーム色の車だった事も分かっているのです。貴女は白井に都合よく騙されて動かされているのではないのですか?       

いつか振り返った時貴女はこの裁判の事を思い出し無念に思うかも知れません。馬鹿な弁護をしてしまった事を」

「それでもう良いですか。ご忠告ありがとう御座います。白井健三はこれからは量刑の事を考えて素直に成るでしょう。出来るだけ罪が軽く成る様に話していますから」

「そうですか。それなら良いけど」

山田絵美もまた岐阜県警に出頭を求められて取調べをされたが、決して白井に龍志の殺害を頼んだ事など無く、罪に値するものは無く無罪放免と成った。


しかし事如く説教されたが、絵美は毎日自分を戒めていたので素直に聞き入っていた。一方白井は起訴されてから僅かで公判と成り裁判が始まった。その傍聴席に山田絵美の姿を見る事は無かったが、白井は自責の念に駆られて疲れ果てた心の内を表していた。

今まで自分自身を鼓舞して来た心が力尽き朽ち果てるような時を迎えていたのであった。  

「被告は以上の事実に相違ない事を認めますか?」

「はい裁判長」

判決                

「主文、被告を懲役六年の刑に処す。」

刑が執行された白井は弁護士のアドバイスに耳を傾ける事無く、高裁に控訴する事も無く、うなだれた日を刑務所で重ねていた。              


そして猪倉亜紀殺害事件の公判が再開される事となった。

「被告は公判中において、別件の山田龍志ちゃん一歳の殺害事件の容疑で逮捕され、起訴に至り公判により実刑六年の判決に至った事で現在服役中であるが、被告は本件公判が始まった時は、第一回公判から第四回公判まで黙秘を貫いて来ましたが、これからもその様にされるのでしょうか?裁判長として冒頭にお聞き致します。出来るなら素直に供述され刑に服される事を希望します。心証が悪く成ります事を付け加えさせて頂きます。其れは言い換えれば量刑に繋がるからです。」                    


検察官論告求刑 

「被告は一貫して黙秘を貫き公判を重ねて来ましたが、被告のこの事件に関して状況は至って分が悪く、猪倉亜紀さんを拉致若しくは監禁殺害した事は明白であります。

未だ判明していない事もありますが、其れは被告が素直に供述すれば事は足りる話で、一刻も早く供述される事を強く忠告致します。

猪倉亜紀さんが当日の夕刻に被告と車で吉野山奥千本の空き地から下って行き、亜紀さんが誰にも見つけられる事無く、被告の手で殺害されたか或は拉致監禁された事は明白であります。

更にその時に被告の仲間が存在する可能性も証人によって判っていますが、その事実を被告が隠す以上、被告は単独犯として我々は見る事になるのです。


よって被告白井健三を猪倉亜紀さん殺害の罪で懲役十五年を求刑します。」

「弁護人申し述べる事は」

「今検察官から求刑された事は、あまりにも乱暴で、未だ確定的な証拠など全く無い状態である事は裁判長もお分かりだと思われます。全てが状況による判断で、『間違いなくやった』のではなく『間違いなくやっただろう』なのです。猪倉亜紀さんが口に猿轡をされた痕跡があった訳ですが、その何処かに被告の何かがついていたとかまるで無いのです。猪倉亜紀さんの遺体から被告に繋がる物など全く無いのです。


被告が山田絵美さんの子供を死なせた事は間違いないですが、だからと言ってこの事件も被告がやったと決め付ける事は危険な判断と言えるでしょう。全く別の事件であると考えるべきでしょう。

遣ったと言う証拠も無く、やっていないと言う証拠も無く、この時点で求刑に至る事は危険な事ではないでしょうか。もっと調べ尽くす事があるのではないでしょうか?」

「被告は最後に述べる事が在りますか?」

「・・・。」


それでも粛々と公判が進みとうとう判決の日を迎えた。

判決 

「主文、被告を懲役十五年の刑に処す。被告はこの判決に不服のある時は明日から十四日の間に控訴してください。」


弁護士篠崎茜は即日控訴に踏み切った。

南本刑事と稲葉刑事は吉野の古びた店でおでんを食べながら話に弾んでいた。

「求刑十五年、判決も同じ、それにあいつは子供殺しで六年の刑が確定しているから詰まらない人生だな。どうして豊中のあんな両親の元で生まれながらあの様な人生に成ったのか、何処でボタンを掛け違えたのか私には解からんな。 


それにしても誰かを庇っている事は間違いないと私は思うな。弁護士費用が何処から出ているのか、今回の求刑は検察が白井の心の中を(えぐ)る様な事で、おそらく弁護士の先生は間に入って悩まされる事に成ると私は思うな。」

「其れはどうしてですか?」

「もしだよ、白井が誰かを庇っているなら今の判決で十五年、それに岐阜地検の六年を足せば二十一年に成る。やくざが服役して出てくれば格が付いてとか言う話もあったけど、それは昔の話、白井はやくざではないし、だから私が思うにあいつは今刑務所で悩んでいるかも知れんな」                              


「いっそ何もかもを言ってしまおうかと思案して」 

「そう、何もかもを言ってしまうと言う事は、あいつが亜紀さんを殺したのではなく、第三者が居るって事に成るからな、実行犯が」

「其れは十分考えられますね。クリーム色の車を考えると。現に白井の車はあの夜、何処のカメラにも映っていませんからね。あの現場から亜紀さんを誰にも判らない様に担いで、蔵王堂まで行ったなんて事考えられませんからね。


夕方薄暗く成った時に亜紀さんを蔵王堂近くの何処かに隠していたなら別ですが、其れだったらホテルから抜け出して、亜紀さんを担いであの場所に遺棄する事も可能ですが」

「あの弁護士は口が堅いから、これから白井は控訴してどの様に思うかだろうね。仮に誰かの罪を被ると成ったなら、殺人だから三千万円の報酬でも可笑しくないからな。二十年それを我慢出来るかだな」

「一体誰でしょうね?まさか白井の先輩の友永淳って男居ましたね。あの男は白井に影響を与えたのは確かでしょう。大学教授の車をかっぱらう位の男ですから、相当悪い事をしている可能性も在ると思いますよ。でもあいつはお金がないか、其れに亜紀さんを殺す理由もないか」 「そう言う考えならお金が有ると思うのは、知っている範囲では親父さんが開業医をしているあの先生だけだな」

「あの先生ね?」

「婚約者の田所光樹」


「まさか、其れはありえないと思います。だって長い間ショックで寝込んでいて精神科に通っていた位だから、其れに一度あの先生を病院に訪ねてお聞きした事があった筈ですよ。熱田署の吉村さんだったかアリバイも聞いている筈ですよ。」

「でもそれもお金で誰かにやらせれば可能な話だろう。アリバイだって工作をすれば何とかなるかも知れないし」

「そりゃそうですが、でも其れは無いでしょう。婚約者ですよ。田所さんは」

「そうだね。そこまで考えると私もつまらん人間だと稲葉君に怒られそうだな。


所詮刑事って嫁まで疑う情けの無い人種かも知れんな。」

「でもそれで三十年。南本さんは後二年弱ですね。刑事人生から卒業するのは」

「そう、子供も嫁も失い、刑事を辞めた後は人様を信頼する様な事を残された時間でやってみたいな、罪滅ぼしに。」

「其れってどんな事でしょう?」

「だから一切命令系の無い事を・・・掃除夫とか」

「まさか南本刑事が掃除夫を」

「そう命令など無い所で働きたいな。黙々とトイレ掃除とか」

「止めてくださいよ。私南本さんを目標にこれから長い刑事生活をする積りですから、そんな事をお聞きしたら夢が無くなり戦意喪失するでしょう」

「其れもそうだね。でも私はそんな事を考えている事は確かなんだ」

「そうですか。私も南本さんの歳に成ればそんな気になるかも知れませんね。」

「そうだね。同じ人間を豚箱に入れる仕事だから、命に関わる事も当然だからね。でも結婚しりい来たら奥さんは大事にするんだよ。

女は警察官となんか結婚しないよ。男と結婚するんだから。極普通の平和や男を求めているから。」

「そうですか」


控訴審始まる。

「白井健三の控訴審を始めるにあたって弁護側は新たな証拠を提出して下さい。新たな証拠についてのみ審議致します。

しかし新たな証拠となるものは殆ど無かった。

「裁判長」

「はい弁護人」

「ここで私から陳述を述べるべきでありますが、被告に関し新たな証拠も得ておりません。ただ被告人から新たな陳述を述べて頂きます。本人が希望しておりますので、この事は被告人最終陳述とお考え下さい。」

「解かりました。それでは被告は最終陳述を述べて下さい。」

「裁判長俺大阪の人間だから関西弁で話させて貰うから、それでも良いでしょうか?」


「いいですよ。お好きな言葉で、ただ簡潔に」

「それで俺刑務所で考えたんだけど、この裁判がどの様に成るかと考えたら気が遠く成って来て、それで俺もう疲れたから、弁護士さんには悪いのだけど正直に話そうと思う。

二十一年も豚箱でなんて、俺おっさんに成るまで刑務所で暮らさなければ成らないなんて溜まらんから・・・だから俺何もかも言う事にしたよ。

俺この裁判で殺人事件の容疑者に成っているけど、検事さんよ、もっとしっかり調べて貰わないと。大事な人の事を忘れているわな。


本当の犯人を。俺にお金を渡して俺を操っている犯人を。判らないかなぁー

では話すから。

一年半ほど前の夏だった。つまり平成二十四年の夏、誰だか知らないけど俺に電話がかかってきてこの様に言われたんだ 

『白井さん、貴方が長良川の上流へキャンプに行って子供さんを殺しましたね』と『何言っているんだ』と言い返したら、『白井さん貴方が子供さんを足で川に突いて溺れさせたのを見ていた人が居ましてね。其れって殺人でしょう。幾ら子供でも可哀相に、これから警察に言いますから』と言われて、俺あの事がばれていた事が怖く成って、『待ってくれ。俺付き合っている女の為にあんな事をしただけで、俺はあんな事はしたくなかったんだ』と言うと『でも殺してしまった訳です貴方は、殺人を犯してしまった訳です。』と言い返されて、それで言葉を失くしていたらその男が『これから私が言う事をしてくれれば見逃してもいいですよ。更にお金も渡しますから』と言われ、其れが猪倉亜紀さんの拉致監禁だったんだ。


仕方なく応じると、三日ほどした日に亜紀さんのスケジュール、それに地図から亜紀さんの背格好や写真など、更に他には絶対使わない事も言われて携帯電話等が送ってきて、亜紀さんが奈良の吉野山へ行く事も書かれていて、更にそこで実行するようにも書かれていて、絵美に吉野へ行く事を話したら妹の美鈴も行きたいと言い出して、二人には秘密で俺は亜紀さんをつける事にして、それでチャンスがあれば亜紀さんを拉致監禁してその男に渡す事を考えたんだ。乱暴してもいいとも書かれていたが、それは出来なかった。


それで先輩も盗んだ車に火が着いてはいけないと思っていたのか、気前良く車を貸してくれ、更に帰りはその車を売って帰って来てほしいと言われ、その売った代金は俺にくれる事も約束していたから、俺も気持ち良く先輩の言う事を聞いて、それで実行した訳。

亜紀さんに車で接触した帝の辻って所は調度狭かったので、前を歩く亜紀さんに少しだけぶつかる事は簡単やった。


それに女性たちが旨く亜紀さんを安心させてくれたので段取り良く行き、其れから俺女性たち二人を残して車で降りて行き、広場で車を止めて亜紀さんに襲い掛かり、亜紀さんは驚いて逃げようとしたが、俺首を絞め、苦しそうにしている亜紀さんの口に猿轡をしてトランクに入れ、それから男の指図を電話で聞く筈であったけど、いきなり男がやって来て、亜紀さんに何か薬品を嗅がせて男の車に乗せて、俺に『世話になったね』と言って『早くここから離れてほしい』と言われて、ほんの少しだけ話をして俺急いでトランクを閉め、上で女性たちが待っている所へ行って、暫くしてから彼女たちを乗せ、同じ道を下りホテルへ向かったんだ。その時男はもう居なかった。 


俺の役目はここ迄で、亜紀さんは俺と別れた時は睡眠剤をかかされたのかすやすや寝むっていた。

これで全て、ここからは弁護士の先生が良く知っている筈。だって俺の様な者を弁護してくれるのだから、それなりの理由がある筈、違いますか先生。だから俺は無罪ではないけど殺したりなんかしていない、懲役十五年なんてむちゃくちゃだよ。いくら金をくれるって言われても」

「では被告にお聞きします、貴方が亜紀さんを渡したのは誰なのですか?それを答える必要があります。」

「だから俺は知らない。電話なら出来るけど名前も何も知らない。若い男っていうだけで、弁護士の先生に聞いて貰えますか?」


「其れでは弁護人、貴女は被告の言っている事を理解出来ますか?法廷は真実のみを求める場です。この法廷は殺人事件の法廷です。弁護人が知っているのなら、今はっきり言われるのが法に携わる者の役目であると考えます。」

「裁判長、待ってください。今暫く待って下さい。私には答える義務などありません。今暫くお待ちください。休廷に」

「それでは休廷と致します。午後一時から再開致します。」


 ところが午後一時に成っても弁護人は姿を現さなかった。磯崎茜が突然白井健三の弁護を降りたのである。其れは弁護事務所に電話を入れて事務所として対処した結果であった。

つまりクライアントに合わせる顔がないと判断した可能性を抱かせて磯崎茜は法廷を後にした。

急遽国選弁護人が選ばれたが被告にとって不公平で不利益な状態である事から、公判は一時中止と成り翌日に延ばされる事と成った。

翌日

白井健三の弁明の続きが始まった。

「被告人貴方は罪から逃れようと作り話をして法廷を混乱させているのではないのですか?偽証などの行為は貴方の量刑に大きく関わって来ますから十分注意して下さい。それでお聞き致しますが貴方が昨日供述された事に間違いはありませんか?」

「はい裁判長」


「其れでは再度弁明を続けて下さい。」

「解かりました。だから俺はその男が誰であるかどうして俺の事を詳しく知っていたのか不思議だったから、とにかく恐かったなぁ、何時警察がやってくるかと思うと。

でも刑務所で考えている時其れが誰であるか直ぐに判った。だから俺弁護士の先生にあんな言い方をしたのです。

つまり俺が龍志を川に突き落として殺してしまった事を知っているのは絵美だけだと思ったから、今なら絵美に問いただす事が出来るけど、俺刑務所に入れられているから其れも出来ない。でも絵美が関係している者が俺を脅している事が一番考えられる訳で、もし万が一あの時川向で誰かが見ていたなら其れは分からないけど。でも誰も居なかったから。絵美が誰かに俺を脅すように仕組んだと考えるのが妥当だと俺は思ったな。」


「山田絵美さんは貴方を憎んでいたのですか?

「おそらく俺が龍志を川に突き落とした事を見ていたなら、心の中が煮えくり返っていたかも知れないから」

「しかし山田絵美さんは子供が死んでほっとしたとも供述していますよ」

「そこの所は分からないけど、いろんな思いが交錯していたかも知れないし、だから絵美は泣く日もあり、ほっとする日もあり、だからあの男との間に居るのは絵美しか考えられないよ、俺には、違うかな。」

「絵美さんに、貴方が誰かに脅されている事を言いましたか?」

「何で、絵美に俺が龍志を川に突いて落としたと言えないだろう。実際にそうなんだから。変に疑われてもややこしくなるから。まさか絵美があの時見ていたなんて考えもしなかったから。」


「では貴方は亜紀さんを渡した男性は、どの様な人だと思われますか?」

「俺にはさっぱり見当がつかないけど、絵美が俺に恨みを持って何かを仕掛けたとしても、何故猪倉亜紀さんを拉致しなければ成らないかって事に成り、俺にはさっぱりわからないな。

裁判長あの弁護士の先生に聞けば直ぐに分かるかも知れませんよ。言わなければ成らない義務などありませんか?もしそうなら勝手だな。高いお金取って挙句の果てに逃げるなんて」

「検察官それに弁護人、被告の弁明を精査すると、この公判には事実関係に矛盾が有り過ぎます。よってここで打ち切り、一審を破棄して差し戻します。」


南本刑事と稲葉刑事は顔を見合わせながらため息をついていた。

『一体どうなっているんだ』其れが二人の率直な感想であった。

其れは熱田署の吉村刑事や小村刑事にも言えた事で、白井の爆弾供述に誰もが驚かされた事であった。

南本が一度は容疑者として疑った事のある婚約者の田所光樹には資金的に可能だったので真っ先に浮かんで来たが、だからと言ってそれだけであって、他に根拠など微塵も浮かばなかったので、その考えは直ぐに鳴りを潜めた。

「嫌な事件だな。こんなに努力していても空回りをしている様に思うな。この際あの弁護士に詰め寄るしか道はないな」

「でもそれは無駄なのでしょう。話さなければならない義務など無いのでしょう。」


「そこは稲葉君『日本国民として、更には法曹界で生きて行く貴女として汚点を作るのですか?』と聞けばいいじゃないか、

しかし、と思ったのだけど、あの弁護士今は白井の言うように事が進んでいたなら、その黒幕の弁護を引き受けているかも知れないな。近い内に逮捕される事に成るのだから。全く全容は急変して盤根錯節って所だな。」

「白井が言って居た携帯を見て番号を突き止めれば分かるでしょう。」

「でもその電話も返したようだし、計画的な犯行なら双方の携帯がプリペイドとか第三者の名義に成っていると思うね。だからその線では簡単に判らないと思うな。」


「一審が破棄だからもう一度警察に白井を戻して詳しく掘り下げてみましょうよ。熱田署か地検に行って白井をもう一度取調べをしましょうよ。」

「そうだな。あの男私らを舐めているからな」

「でも今は六年の刑で服役中だから逃げる事は出来ませんから、腰を落ち着けてじっくり掛かりましょうよ。」

「そうだな、私が卒業するまでに何とか解決したいものだな」

「大丈夫ですよ。あの弁護士が出頭してくるかも知れないでしょう。明日にでも」

「其れは無い。あの一家は弁護士一家、下手すりゃ事務所の沽券に関わるからな」

「それでは白井を問い詰めるしかないですね。でも一体白井を脅す様な事を言ったのは誰でしょうね?」「絵美かな?」

「普通絵美と思いますね。」

「絵美なら何故ってなるし、どんな目的があってと、影で白井を脅して何の意味がある、第一猪倉亜紀さんとどんな接点がある?」

「そうですね。解からないですね」

「絵美が白井を裏切るというかおとしいれるとしたら、或は万が一脅迫するとしたら、猪倉亜紀の事を今は考えないでおこうか、何故かと言うと其れは龍志くんが殺された事に対する復讐って事に成るな。でも絵美は既に白井の事を前の裁判で暴露して懲役六年の刑に追い込んでいるのだから、更にそんな事をするかって事だな」


「もうしないでしょう。そんな事は。だって二人は深い関係が最近まで続いていたのでしょう。白井が裁判で絵美の事をないがしろにしたから、絵美は腹が立ってあんな事を暴露したけど、傍聴するまではあんな感情では無かった筈でしたよ」

「白井の関係からは引き出せないのかな?第三者を」

「やっぱり白井の言うようにあの弁護士が鍵を握っているかも知れませんね。」


「得てして弁護士っていう族は、お金のある人達に傾く人種だから世話が焼けるなぁ。あれが素人なら犯人隠匿の罪でとか言えるが、何しろあの連中は一枚も二枚も上だからなぁ」

「皆生きる為なのですかねぇ。」

「絵美に聞いてみようか?第三者に告げる事が出来るのは絵美だけだから。絵美が誰に何を言ったかを調べる事にしようか?私これから名古屋へ行く。

それで絵美の帰りを待ってそのあと時間があれば吉村さんと出会って今後の事を話し合ってくるよ。白井にも会えるなら会って来るから」

南本はその夕方に名古屋に入り絵美が勤める居酒屋へ足を向けていた。


彼女に会う時は何時も無理押ししているから、絵美の役に立つ事も心の内と思いお酒も入って機嫌よくほろ酔いに成った。

そんな南本を絵美は気を良くし嬉しそうであった。仕事が撥ねて何とか落ち着いたのは午後十一時に成っていて、底冷えが始まった夜の道を二人で絵美のアパートに向かっていた。

「絵美さん落ち着きましたか?白井に散々な目に遭わされてさぞ辛かったでしょう。法廷に出られてからそれからは?」

「岐阜へ二回ほど行きましたがその後の事は何も知りません。健三の事を忘れ様と思っています。」


「そうですか、それほど良い貴女はあんな男とくっついていてはいけない。白井は懲役六年の刑と成りましたよ。その事を知っていましたか?」

「いえ、全く知らないです。聞けば判ると思いますが、でも誰からも何も聞いていません。六年ですか。仕方ないですね。天罰です。」

「其れでも白井は上告と言って刑が気に入らなかった時にもう一度裁判を受ける事が出来たのですが、白井は上告しなかったですね。今に成って気が付いたのでしょうね、人の命の尊さを」

「そうですか、あの人が、其れは私も同じで、今どんなに拝んでみてもどんなに泣いてみても龍志は帰りませんからね。可哀相な事をしたと思います。


だから今でも決して忘れられないのはやはりあの瞬間の事で、何故私があの時健三が止めるのを振り切って龍志を助けてやらなかったかと思う事です。大きな声を上げて川の中の龍志を捜せばあの事故は起こっていなかったかも知れません。いや人間としても親としてもその様にしなければならなかったのです。

私健三に怒られた事がありました。若しかして健三より私に殺意があったのかも知れないと今でも思う事が。

其れは健三に関係を求められて事が始まった時に、龍志が泣きながら近づいて来て、それを見た私は足で龍志を退け払っていました。面倒だったから、其れも有ります、でも健三に抱かれたかったから、だから私は泣く龍志を足で蹴飛ばす様にしていました。軽くでありましたが龍志はひっくり返り頭を床にぶつけて大きな声で泣きました。


健三はそんな私を見て             

「お前は鬼か」と言いながら龍志を抱き寄せていました。私はそんな女です。健三だけが悪いのではないのです。

元彼にあまりにも酷い仕打ちをされた事が何時までも尾を引いていて・・・」

「絵美さんもう良いでしょう。貴女はそれなりに苦しい思いをさせられたのだから、もう良いでしょう。忘れる事ですよ。

それで随分遅く成ってしまったからお家に着くまでに帰ろうと思いますが、一つだけお聞きします。貴女は白井健三が貴女の子供を川に故意に落とした事は、この前に裁判で判りました。


しかし貴女と同じように龍志君が流される所を見ていた誰かが居った様です。誰か判りません。この度の猪倉亜紀さん殺害事件の裁判で、白井健三は共犯者が居る事を仄めかしています。

其れと白井はその人物に脅されていた事も、其れって絵美さん何方かわかります?」

       

「わかりません。まさかあの時誰かが何処かで見ていたかも知れないのですか?それならその頃に警察に情報を流すとか無かったのでしょうか?川に落とす所を見たと?」

「其れは無かったと思います。現に単なる水死事故で処理されたわけですから」

「そうですね。健三が脅されていたとは、まさか・・・」


「でも現実に白井はそうであったと供述しております。その第三者が真犯人であると。更にどこの誰であるかもわからないと。確かに総合的に検証しますと、白井健三が一人で全てやったと成ると少々無理がある事も確かです。第一動機と言うのか、目的の分からない事件と成るのです。」

「その殺された亜紀と言う女性と誰が知り合いなのでしょうか?健三とその方と共通する事があるのでしょうか?何方がその方と共通する事があるのでしょうか?」

「実はそれを貴女にお聞きしたくてやって来たのです。」

「私に?」

「ええ何でも構いません。ただ私が前から気にしていた事があって、それは貴女がお子さんを産んだ時と子宮筋腫の手術をされたのが中部医科大学付属病院でしたね。

それで同じ大学病院のお医者さんの一人が、殺された猪倉亜紀さんの婚約者なのです。おそらく関係無いと思われますが、貴女と共通すると言えば確かに重なるものがあるかも知れませんね。」


「でもその先生は?お名前は?私を担当して頂いた先生は 産婦人科は田戸先生でした。子宮筋腫の手術は内科の尾上先生でした。この方々に何か問題があるのでしょうか?」

「いえ、問題御座いません。」

「そうでしょうね。お二人とも親切にして頂いて、特に子宮筋腫の手術は悲惨なものでしたから、随分落ち込んでいた事もあり、尾上先生には心身ともに助けて頂いた事を覚えています。」

「子宮筋腫の手術をした時は白井と既に付き合っておられましたね。」

「ええ、でも健三は病院へ来てくれた事一度も無かったです。薄情なと言うか」


「では辛い毎日が続いていたのでしょうね」

「でも妹が毎日通って来ていましたから然程思わなかったです。心の中では私は健三を許していましたから、寧ろ自分自身を責め続けた毎日でしたから。自責の念に駆られてなんて生易しいものでは無かったです。

二度と子供が産めない体に成ってしまった訳ですから。其れって女の基本でしょう。恋愛をするにも無くてはならないものでしょう。随分ベッドで一人で泣きました。」


「でも白井は全く来てくれなくても、妹さんには白井の事を何も言えなかった筈、龍志君を川にこついて流して溺れさせた事を見ていた事など言えないですね。貴女自身も責任追及される事も考えられ、それでは何故助けなかったと言われるのが誰もが思う事だから話さなかった。 つまり貴女の言動で接点がある者など居なかったのでしょうね。ただ私が気にしている亜紀さんの婚約者も、中部医科大学付属病院に勤められていたから、彼は今も産婦人科に努めている筈ですが、絵美さんはその方の事は全く知らないでしょうか?出産された時の事です。」

「お名前は?」

「田所光樹先生です。この人は産婦人科だから正しく龍志君を産む時に係わった可能性がありますね。」

「待ってくださいね。若しかしてその先生まだ見習いって言うか研修医って事ないでしょうか?」


「ええ、貴女が出産をした頃はそうかも知れません。だから貴女と接点があると言うか、貴女の出産で係わった事があるかも知れませんね。」

「その先生ってお幾つ位でしょか?」

「若い方ですよ、亜紀さんが殺されていた時は婚約者のその先生は二十八歳でしたから、貴女と接点が在ったとするならその時はまだ二十六くらいですね。」

「若しかしたらあの先生かも知れませんね。名前は知りません。痩せていて神経質そうな感じで、でも優しかった事を覚えています。いろんな手続きをして頂いて、そんな先生が居りました。主治医の田戸先生は年配の方で、そう言えばまだ経験が浅い先生だったのでしょうね。」

「その先生に色んな事を話さなかったでしょうか?」

「色んな事をと申しますと」


「家族の事とか、とにかく色んな事を」

「ええ、私市役所の方にお世話に成ったから、随分色んな事を洗いざらい話したと思いますよ。其れはその優しい先生にも主事の先生にも看護師さんにも、話さないといけなかったから」

「つまり子宮筋腫の手術をされた時は内科であったけど、その時は産婦人科であった訳ですね。科が違うと先生方は交流とかないのでしょうか?」

「解かりませんが、子宮筋腫の手術をした時は多くの先生に声を掛けられた事を覚えています。頑張れよって」

「絵美さん、もしかしてその時に誰かに白井の事を話さなかったでしょうか?白井が貴女のお子さんを溺れさせて死なせてしまった事を。悲しみにくれる毎日を送っていた筈、だからふと誰かに白井の話をしてしまった事は無かったでしょうか?悔しくて涙ぐんで或は高ぶった心で」

「そう言えば言ったかも知れません。自暴自棄に成った事もありましたから」


「もしですよ。もし貴女が堪らなくなって誰かに例えば同じ病室の人にでも、或は同じ様に入院していて親しく成った方とか、或は先生とか看護師さんとかに白井の事を言わなかったかと思いまして、どうですか?」

「そんな風に言われれば在ったかも知れません。」

「貴女は白井のあまりにも酷い仕打ちに、悔しくて、悔しくて子供を産めない体になった事で逆上する様に感情が高ぶって」


「ええ、あります。思い出しました。誰かに言いたかった時もありましたから。でも絶対警察になんか言わないでくれる事も言ったと思います。」

「何方にどんな事を言ったのか覚えていないですか?」

「患者さんで仲良く成った方だと今ふと思い出しています。子宮筋腫の手術をした後です。」

「絵美さん今日の所私は遅いから帰りますが、出来るだけ詳しく思い出してくれませんか。又明日にでも来ます明日では早過ぎるなら明後日にでも」

「刑事さん態々奈良から大変でしょう。しっかり思い出して刑事さんにお電話差し上げます。」

「そうですか、お願いします。大変大事なことだと思われます。」


 それから二日が過ぎて南本刑事に山田絵美から電話が掛かってきた。

「刑事さん色々思い出してみまして具体的に口にした事があった事を思い出しました。其れは子宮筋腫の手術をした後、病院で仲良くして頂いたおばさんが居り、そのおばさんに話した様に思います。いろいろ励まして頂いた方です。

確か病院の屋上であのおばさんよくタバコを吸われて居たので再三出会い、それで親しく成ってつい話した記憶があります。 でもその内その方は結構しゃべりであまり関わらないほど良いと言われる方が居り、その内に距離を置く様にしましたので、でも間違いなくそれらしい話をしたことを覚えています。


他の誰とも健三の事は話さなかった事も確かに思い出しました。」

「それでそのおばさんはそれから?」

「だから警戒する様に何方かに言われて、それから避けましたので以後の事は分かりません。」 

「それでどの様な事を話したのですか?詳しく言ってくれますか?」       

「ですから健三が私の子供を川に突き落とした事を言ったのです。悔しくてもう二度と子供が産めない体に成った事で気が滅入っていて、其れでつい話してしまったのです。辛いやら悲しいやらで」

「そのおばさんの事をもっと知りたいのですが」                

「いえ私は名前も何も知らないですが、あの人は


内蔵が悪いとか言っていましたから、あの時に入院されていた方を調べれば判ると思いますが、確か岐阜県の方で下郎温泉が近くにあると言っていました。お年は六十半ばであるとも言っていました。時折旦那さんが来られていましたから、それにその旦那さんの片手が不自由な様で、荷物を提げるのに困っていた姿を見かけた事があります。」

「分かりました病院へ行って聞きます。そこまで判っているなら直ぐに見付かるでしょう。それで貴女が退院される時はそのおばさんはまだ病院で居たでしょうか?」

「其れは意識していないから分かりませんが、姿を見たと思います。」

「では一度当たってみます。」

南本刑事は山田絵美からの電話を切るなり熱田署の吉村刑事に、そのおばさんの事を現状報告して捜して貰う様に依頼した。

吉村刑事は長らくこの事件が解決に至っていない事に焦りを感じていた事も確かで、南本の言葉に目を輝かせて聞き入っていた。


そして直ぐに病院に聞き込みをして、そのおばさんが岐阜県下郎郡下駄で住んでいる相川初江六十八歳である事を突き止めていた。

「南本さんおばさんの詳細が分かりましたからお知らせ致します。それでこれから行って来ます。」

「では私もお付き合い致します。」

南本も吉村も事件が解決に向かっている様に思えて来ていた事は確かであった。

その様に思う事が何よりであると二人とも思った事も確かで、其れが活力である事も感じていたので、極当たり前の様に南本と吉村は身支度をして岐阜に向かっていた。


「相川さんですね。それでお聞き致しますが、貴女が病院に入院されていた時、同じ様に入院されていた山田絵美さんって方を覚えておられるでしょうか?」 

「いえ分かりません」

「そうですか?でもその方は貴女の事を良く覚えておられましたよ。子宮筋腫の手術で入院されていた方で、年齢は二十一歳で貴女と屋上で良く話をされた事があると」

「あーぁそれならあの人だ。旦那が子供を川に突き落としたとか言って居た人だ。」


「そうです。」

「私は名前なんか知らなかったけどあの人の事は良く覚えているよ。だって旦那が子供を死なせたとか言って聞き捨てならない事を聞いたから、泣きながら言っていたね。可哀相に。

でも今更絶対警察には言わないで下さいって、それで子宮筋腫でしょう。堪らなかったと思うわ可哀想に。」

「それでですね、その事を貴女が聞かれて誰かに話された事がありませんか?」

「その事って旦那さんが子供さんを川に突き落としたって事を?」

[はい]

「主人に言った事があります。あまりにも衝撃的な話であったから。誰も居ない病院の電話で話した事を覚えています。何か用事があった時についでに、それで何かあったのでしょうか?私悪い事をしたのでしょうか?」


「いえ、そうではなく、その時の事を良く思い出して頂けますか?」

「だから病院の公衆電話がありそこからしました。勿論側には誰も居なかった事を確認した積りでした。あそこは自動販売機があって廊下を曲がるとベンチがあり、そこから少し奥に行くと電話がありましたから、そこからは誰も見えず、だから世間話の積りでした事を覚えています。」

「貴女のお声はいつも同じ感じでしょうか?大きめですが・・・」

「ええ、主人の耳が遠い事もあって自然と声が大きく成ってしまいこんなものです。」

「貴女が今言われた事を浮かべて見ますと、廊下があり自動販売機があり、そこから曲がって又廊下があり、其れからベンチがあって、そのベンチの奥側に電話が置かれているのですね?」

「そうです。そこから奥にはエレベーターがあります。」

   


「つまり貴女からは自動販売機は見えないのですね?」

「ええ、直角に曲がりますから、でも誰かが居れば音が聞こえて来るでしょう。でもその時は聞こえて来なかったから誰も居ないと思いまして、それであの様な事を話したのです。でも話し込んでいる時に販売機の「ガチャン」と言う音がして電話を切りました。」

「つまり誰かに聞かれていた可能性があるかも知れないのですね。その大きなお声だから」

「ええ、もし誰かが居たなら間違いなく聞こえるでしょうね。娘に良く言われますから声が大き過ぎるって、聞かれていた可能性はあります。」

「分かりました。ではもう一度お聞きしますが、この話はご主人以外に話された事は無いでしょうか?」

「ええ、だって言わば殺人でしょう?折檻なんてものではない筈です。私はあの子があれで幸せに成れるとは思いませんでしたが、でも黙っていてほしいって言われたから誰にも言わなかったです。

でも解かるのです。自分を棄てて行った男との間に出来た子だから気持ちは分かりますよ。宜しくやっている後添えがしたことだから」

「それで相川さん、電話を切ってから貴女はどの様にされたのですか?」

「さぁベンチに座ってその場でじっとしていたと思いますよ。」

「その時に誰かに出会わなかったでしょうか?」


「暫くして白衣の先生が前を通りエレベーターに乗って登って行きました。エレベーターは上向きのサインが出ましたから」

「白衣ねぇ。その先生について何か覚えていませんか?」

「さぁ何かと言っても。若い先生であった事は確かです。すらっとしていて神経質な感じでドアが閉まる時に私の目を見た事を覚えています。きつい目つきであった事も。何か私の顔を確かめる様な目つきで」 

「その先生の顔を今でも覚えているでしょうか?」

「ええ、顔より目つきがはっきり分かります。変な言い方ですが、ぞっとするような目つきで」 

「それでその先生を見られたのはその時が初めてでしたか?」

「ええ、何も意識しないでしょう。先生は一杯居るのですから、担当の先生ならともかく」

「それでは相川さんご足労をお掛け致しますがその先生のお顔を確認して頂けないでしょうか?」

「いいですよ。」

其れから相川初枝を吉村刑事の車に乗せ、三人で中部医科大学付属病院へ向かった。

相川初枝が入院していたのは内科である。その棟には内科の他放射線科、婦人科、小児科がある。


一階の待合室で相川初枝を囲んで暫く話し込んでいて

「これでは何処に居るかなんて判る筈がない」と誰もが思い内科以外の科を捜す事を決めた。

自販機がある階より上の婦人科に行った時に、其れは事件解決に勢いを付ける出来事が起こる事と成った。上の階へ上るなり白衣の先生が目に入り

「確かあの方は婚約者の田所先生かな?」

吉村刑事が言ったその言葉に、

「あの人です。私と目が合ったのは」

其れは同時であった。


相川初得は躊躇なく言い切った。寧ろ吉村刑事は自信なさそうであったが、其れでも自分に言い聞かせる様に頷いていた

「待って下さい、整理します。」

三人は待合室に戻り誰も居ない事を確認して

「いいですか相川さん。もう一度旦那さんと話された事をよーく思い出して下さい。貴女が旦那さんに何を話されたかをよく」

「私の事だから・・・おそらくあの子がまだ十六で子供を生んだ事や、一歳ほどの子供を亡くしてしまった事、今付き合っている男がその子を死なせた事、其れに実家が四国の土佐であると言って居た事や、今付き合っている男は、好きだけど籍を入れていない事など、あの子から聞いて覚えている事を口にしたと思うわ。」


「其れを今見た先生が聞いていた可能性があると言う事ですね。それで貴女の事をエレベーターに乗る時にじっと見て確認した事も考えられますね。

更にエレベーターで上の階へ上がられた事は、婦人科が上の階にある事からも頷けますね。

それで今気が付きましたが、上の階には、つまり婦人科の階には自動販売機は無かったから、誰でも内科の販売機で買わなければならない様ですね。」 

「刑事さん、あの方をお二人はご存知なのですか?」

「ええ私は、でも此方の南本さんは今初めてです。」

「それでどの様な事を?」

「それを今は言えませんが、刑事がごそごそしていると言う事はあまり良い事では無いとだけ言って置きます。

では相川さんこれからご自宅へお送り致します。今日は有り難う御座いました。助かりました。」


吉村は南本を駅で降ろして相川初枝を送って行った。

それから南本が吉野へ向かっている時に吉村から電話が入り続きが始まった。 

「南本さん、まさかと思われますが、まさか婚約者の田所光樹が何か関係をしているとは、まさか、まさかですね。」

「そうだね。私は可成疑ってはいたが、それでもまさかと言う気持ちが強くてここに至ったのだから、だって誰もが一番考えたくない事だからね。」

「そうですよ。普通婚約者が殺されたら誰だって変に成りますからね。」

「でも私は田所が気になったのは、山田絵美が子供を産んだのも、子宮筋腫の手術をしたのもあの中部医科大学付属病院で、そこに勤めているのが田所光樹だって事が気に成った事だね。

今まで全く結びつかなかったが、ここに来て接点が出来たって事になるのだろうね。

田所が飲み物を買いに下の階に降りて来て、偶然自動販売機の所で相川初江の電話の内容を聞いてしまったと成るね。」


「でも何故山田絵美の事を聞いたからと言って其れがどの様に展開するのでしょうね?まるで関係の無い話の筈?」

「吉村さん、山田絵美に田所光樹について何か接点が無いかを聞きましょうよ。確か出産の時は田戸先生で子宮筋腫の手術の時は尾上先生でしたね。でも何かが有るかも知れないですからね。とにかく山田絵美に聞いてみては」

「分かりました。これから直ぐに行って来ます」

吉村刑事は山田絵美がまだ帰宅時間ではなかったので彼女の仕事場に尋ねた。

スマートホンに収めた田所光樹の動画を提げて、山田絵美は、                   

「この方見かけた事があります。一度か二度、確か入院した時に、龍志の出産の時ですよ。最初に入院とか問診とかの手続きをした時に。それから退院の時に一度位は話をしたかも知れません。でもはっきりはしていませんが、特に親しかったわけでもありませんから」

山田絵美は動画を見ながら即座にその様に言った。


帰り道 

「南本さん、山田絵美が田所光樹と接触があった事が分かりました。でも問題は何故白井健三がそこで絡んでくるかと言う事ですね。」

「白井健三が何故だろうね?そのばあさんが電話で・・・田所先生がその電話を聞いていて・・・」

「そうですね。山田絵美から白井に直接話す事など考えられないですからね。白井の悪口なのだから。飛躍して考えれば白井の事を訴える事に成る事だから、第一白井が病院にも来なかったから、絵美は苛立って子宮を取る手術をして、気が滅入ってあの様な事に成ったのですから。第一出産する頃はまだ白井とは知り合って居ませんでしたからね。」


「吉村さんここまで来れば、その渦中の人物を調べる必要が出て来たね。田所光樹を」

「そうですね。今の時点では白井との接点は全く無いと思われますが、何処で繋がっていても可笑しくないと思われますね。

絵美は知らなかったけど白井は病院へ来ていたかも知れないし、お金の事で何か揉めている事が有ったかも知れないし、絵美が子宮筋腫で入院していた事も田所の耳に入っていたかも知れないし、何しろ一年前に何らかの形で関わった事は間違いないと思うから調べてみましょうよ」

「ああ、吉村さんの言う通りだね。」


それから二日後二人は中部医科大学付属病院に赴いていた。

「田所先生、猪倉亜紀さんの実家に事件の経過を随時ご連絡致しておりますが、お聞き頂いて居るでしょうか?」

「いえ、最近はあまり連絡しておりません。私も出来るだけ早く忘れたく成って来ていますから、此方からも出来るだけ関わらない様に考えています。ただ命日に行ってあげようと思っていて、又時折お墓に行かせて頂いて線香を上げさせて頂いております。


犯人が捕まったと聞いては居ますが、今更思い出す事も辛いですから、裁判があると思いますが静観しています。ところでどの様なお話があるのでしょうか私に?」

「ええ、実は犯人に挙げた男が白井健三と申しますが、今別件で逮捕して裁判に成り殺人罪で懲役六年に服しております。

その白井健三が自白した内容に、本件には他の犯人が居る事を促していて、実はその事で裏取りをしている訳です。白井の言う様にその事を立証する証言もあり、突き詰めていると貴方の関係者にさしかかった訳です。


それでお伺い致しますが、嫌な事を思い出して気分が悪く成れば言って下さい。中止致しますから。

それで先ずお聞きしたいのは貴方は山田絵美さんを知っていますね?」

「山田絵美さん?いえ判りません。」

「そうですか。でも山田絵美さんは貴方の事を知っておられましたよ。」

「でも私は判りません」

「では言いますよ。山田絵美さんは

子供を生むに辺り貴方に最初問診されたり、入院にあたって説明を受けたりした事を覚えていましたよ。」

「そうですか。そんな事は毎日しているので私には判りません。其れは何時の事でしょうか?」 

「三年余り前の事です。」

「刑事さんそれは無理でしょう。其れからどれだけそんな方と向かい合っていると思われます。絶対無理ですよ。覚えている事なんて」

「それでは他の質問をさせて頂きます。白井健三と言う男の事は全く知らないでしょうか?」

「分かりません。其れって確か刑事さんが言われた犯人の名前ではないのですか?」

「ええそうです。全く知らない?」

「ええ、知りません。」

「それではこの病院で入院されていた岐阜の方で相川初江さんと言う七十位のおばあさんの事を知らないですか?濁声で大きな声を出す方で内科に入院されていた方ですが」

「知らないです。」


「そうですか。でもその方は貴方とお会いしたと言って居られますが、実は先日もその方にここまでお越し頂いて確認させて貰ったのですが・・・」

「知りませんねぇ・・・」

「向こうの方は覚えていると言って居りますよ。既に何年か前の事ですが、内科の階の自動販売機の所でと迄具体的に言って居りますが?」

「いえ分かりません。私はコーヒーが好きだからあの場所は良く行きますが、常に誰かに会っていると思います。近くにナースセンターもあり常に人がいますから。」

「そうですか、でも相川さんはその日はあの方と貴方しか居なかった事を言って居ますが」

「変な事を言わないで下さい。一体何をお聞きしたいのですか?私も忙しいですから紛らわしい言い方は止めて下さい。そんな人のことを探る様な言い方を」

「ですから貴方が相川初絵さんを全く知らないと」

「ええ知りません。」

「相川さんと出会われたのは、猪倉亜紀さんが殺された二ヶ月ほど前の事ですよ。」

「其れはどう言う意味なのですか?」

「だから貴方も亜紀さんの真犯人を探したくありませんか?仇を討ちたくありませんか?折角婚約され翌春には結婚される予定だった相手の方なのですよ、そうでしょう?」


「刑事さん私今気分が宜しくありません。折角忘れ様として努力して来ましたのに、又変に成るかも知れません。お帰り下さい。これ以上精神科へお世話に成りたく等ありません。お帰り下さい。もう過ぎたことです。迷惑です。」

「そうですか、どうもすみません。では後二つだけ質問させて下さい。其れは貴方が先ほど言いました自動販売機の前で、相川さんの電話の会話を聞いてしまったと思いますが如何ですか?」

「いえ知りません。第一覚えておりません。そんな他人が何を言って居たとか会話内容が何であったとか。ましてその相川って人のことなど」

「ではもう一つ、貴方は弁護士の篠崎茜さんを知りませんか?」

「知らないです。」

「全く知りませんか?」

「知らないです。」


「ではこれで帰ります。お邪魔致しました。お体に気をつけて下さい。でも田所さん犯人がいよいよ見付かる所まで来ていますからご期待して下さい。我々が仇を討ちますから」

南本は薄っすら笑みを浮かべて田所光樹の元を去った。

その時南本に感じるものがあり、心の高鳴りを静めるのに苦労していた。

「南本さんこれでは振出ですね。田所には我々の心証を悪く思わせるだけで終わりましたね。あれで又病気にでもなれば、我々にも責任が有りますから困りましたね。」

「吉村さん、私はあと二年弱で定年。だからこの歳に成った事を恥じる事など無く、これまで培って来たものを大いに発し無ければならない筈。貴方には見えないものが私には見えるのかも知れないね。」

「どう言う事です其れは?」


「あいつの微かに震える唇だよ。十年も前にもあった事だが、犯人がまさかと思う人物で、今田所を見つめながらその男の事を思い出していた訳だ。犯人はお前だと。」

「まさか何故です?」

「いやぁ勘だよ。単なる、だから私は貴方に言いたいのだけど、又内の稲葉にも言った事あるのだけど、現場から浮かんでくる勘だと思うんだ。経験から浮かんでくるものだと思うんだ。

物証は先ずどれだけ勘を働かすかで決まるものだと私は思う。

今田所光樹には何も物証がないが、あの小刻みに震えていた唇に大いに勘を働かせれば、必ず物証が何処かから沸いて来ると私は読んだって訳」


「そうですか・・・」

「そう、これからあの男の事を徹底的に調べよう。何かを摑む事が出来ると私は思う。」

「解かりました。それで何をすれば」

「まず田所と関係が在ると思われる人物に当たる事にしよう。其れは言うまでも無く婚約をしていた猪倉さんの家族だろう。それから白井を弁護していて急に辞退した弁護士篠崎茜だろう。

今ならあの弁護士を呼ぶ事も出来る訳だ。それに白井の弁護から離れた訳だから、あの岐阜のおばさん相川初絵さんとも何処かで関係が無いかと言う事も調べる必要があるかも知れない。この様に考えるとやらなければなら無い事が一杯あるね。」

「ええ、詰めて行きましょう。」

「吉野に花が咲く迄に片を付けたいがねぇ」

「綺麗なのでしょうね。吉野の桜は」

「実は私もゆっくりとは見た事が無くってね。事件が解決すれば又皆さんで花見酒でも。吉村さんも一緒に」

「ええ、楽しみにしています。

これから私は田所光樹に関する材料を捜してみます。それで基本に帰れで、まず猪倉亜紀さんの所へ行って何かを探します。メモ帳に書かれていたあの方の性格から言って、まだ他に何か見落としているものがあるのではないかと思います。どうでしょうか?」

「ええお供致します。」

「メモ帳の字を思い出してみると結構綺麗な字で書かれていた事を思うと、他にも何かが在りはしないかと、つまり亜紀さんと田所の成り染めや、亡くなる迄の心境を書き綴った物がないかと思いまして、

メモ帳の吉野行きの頭の所に『やめようか』と書かれていた事も未だ解決には至っていないですからね。南本さんあれって今思えばおなじ道具で書かれていたのかも知る必要があるかも知れませんね。つまり同じ日に書かれて居たのか、其れとも全く別の日に書かれていたのか、同じペンであったのかも」 


「其れはあの時にも思ったのだけど、何処かへ行く計画を立ててそれで『やめようか』と冒頭に書く事など考えられないから、全く別の日に書かれていたと考えるべきだろうね。問題は何をやめるかと言う事だと思うよ。」

「そうですね。吉野行きではない事だけは判りますね。では何をやめたかったのか・・・当時会社を辞める様な事を考えていたとは考えられないばかりか、張り切っていた訳だし、会社で慰安旅行も計画無かったし、友達とも何か計画を立てていた訳でもなかったから、残るものと言えば婚約ですね。」


「其れは無いだろうと私は思っているのだけど、何かメモがあの冊子以外に残っていないか、其れに亜紀さんに変わった事が無かったか、心が揺らいだ事が無かったか、今更だけど家族に聞いてみよう。」

二人は猪倉亜紀さんの自宅を訪ねていた。 

「まさかと思いますが、今日はお聞きし難い事をお伺いに来させて頂きました。

亜紀さんの婚約者の田所さんの事で」

「彼が何か?」 

「ええ、捜査線上に田所さんが浮かんで来まして、それで間違いであると我々も思っているのですが、間違いであると言う事を立証するのも仕事で、それで亜紀さんの遺品に何かヒントがないかと再度調べさせて頂きたく思いお邪魔した次第です。


公判ではお聞き頂いた通り白井健三が第三者の犯行を仄めかしました。

実際物理的にはあの男が言った事には一理があると思われます。それにあの男の弁護を引き受けていた弁護士が、雲隠れする事態に成った事で、あの男が口にした事が裏付けられた様にも思われます。

だからあの弁護士を問い詰めて犯人を追求する積りですが、職業柄簡単にはいかないと思われ回りを固める事が大事かと思い、それでこうして来させて頂いた訳です。」

「では何か出て来ると思われるなら、亜紀の部屋はあの儘にしていますから存分にお調べ下さい。亜紀が亡くなってから既に一年と四ヶ月が過ぎましたね。


南本さんは吉野と名古屋の間をどれほど往復されたか計り知れないと思われます。どうか一日でも早く犯人を逮捕して頂きます様に、その為にはどんな協力でも惜しみません。さぁどうぞ亜紀の部屋へ案内致します。」

「はい亜紀さんが書き残された物がないか知りたいのですが、前回は衣服とか下着とか重点的に見せて頂きましたから、今回は書き残された物がないかと思いまして」

「どうでしょう。家族であっても誰も人の書いた物など見ませんからね。」

「兎に角何かヒントがないか調べさせて頂きます。」

「それで田所さんに疑いが掛かっているのでしょうか?信じられません。だってあの方亜紀が殺された時は随分落ち込まれ気を使われ・・・まるで錯乱する様に成られ、精神科にまで掛かって治療をされていたのですから、其れが又どうして?」

「全く我々の勘違いなら良いのですが、今の所まだ何とも言えません。ただ一本の線で繋がって来た事は確かで。それで亜紀さんと田所さんの軌跡を辿る必要があると判断したのです。         

つまり二人が知り合った時から婚約に至った時や、更に亜紀さんが亡くなられたあの九月二十二日までの事を。


二人が知り合いに成られたのは、亜紀さんのお友達と合コンに行って出会われた事はお聞きしています。それで婚約されたのは何時だったのかお聞きしたいのですが?」 

「確かあの年の八月に成る頃でした。それで向こうさんが秋に式をとおっしゃられていた様ですが、亜紀は来春が良いと言って、其れも吉野で挙げたいと言い切った様です。

私達はあまり関わらなかったのは、あの子は昔から強引で周りの意見に耳を傾ける事の無い子で、だから全てあの子任せで事が進んでいたと思います。」

「婚約されてから殺されるまでに約二ヶ月弱が過ぎた訳ですが、この間に何か変わった事など御座いませんでしたか?」


「あの子はどんな事でも顔に出さない子で、兎に角男勝りと言うかしっかりしていた事は確かで、気も強い子でした。」

「だから全く感じる事は無かったのですね。」

「はい」

「亡くなられた間近にも何ら変化など御座いませんでしたか?」                  

「無いと思います。寧ろ私や父さんより妹の瑠璃の方が良く亜紀の事を分かっていると思いますが、今日は誰も居なくて」

「そうですか。それでは本棚とか雑誌が並んでいるこの当たりを徹底的に調べさせて頂きます。」

「はい」


南本と吉村は其れから六時間にも及び、三十冊にも及んだ書物の全てに目を光らせながら見届けたが、引っ掛かる物は何も出て来なかった。

猪倉家を後にして、ぐったり成った体と心で二人はおでんを口にしながら、

「こう成ったらあの弁護士の口を割らす以外に無いな」と南本が口にすると、 

「あの生意気な弁護士の女、被疑者隠匿とか何かの罪に当たらないでしょうか」と吉村も、しょぼしょぼする目でおでんを口にしながら地団駄を噛んでいた。


南本が、

「あの亜紀と言う女は家入が悪いのかも知れないな。だから若しかすると外では可成な事を言っている可能性があって、家に帰ると何も話さない。例え良い事であっても悪い事であっても、だから母親には何も伝わっていないって事かも知れないね。

当然父親なんかには全く通じない訳で、妹だけは何とか話していた事が考えられるが、亜紀が合コンに行って、それで田所光樹を見初めてからの事は亜紀の友達であったあの友達の女性から聞きだす事が出来るかも知れないな?あの人の名前は?確か同じ会社の同期で澤田さんだった」

「ではその方に明日にでも会いに行きましょうか?」


「あぁ、行こう。確か内の稲葉と一度行った事があったなぁ。」

翌日南本と吉村は亜紀が勤めていたアパレル会社レモーラを訪ねていた。

「亜紀さんの事で又お伺いしたい事がありまして、貴女と亜紀さんは入社以来の仲良しであった事を前にお聞き致しましたが、それでですね、亜紀さんと貴女が常に話し合われていて、彼女が婚約された後に何か変わった事とかお気づきになられた事がなかったでしょうか?

例えば式を秋に挙げたいと田所さんが希望したが、亜紀さんは来春ほど良いと言い切った様ですが、其れは何故かとか、他にも何か無いでしょうか?どんな些細な事でも」


「さぁ実は今なら思いますが、私この度私ごとですが婚約致しまして、亜紀の気持ちを今なら解かる様に思いますが、亜紀があの年の夏休みに私と二人で旅行に行く事に成ったのです。

亜紀がこれからはこんな事出来ないから貴女と付き合うと言って大事な夏休みの三日間を。

それで二人で九州へ行きハウステンボスなどで遊んで、其れから別府などへ行き帰りました。

でも私今婚約をして彼と居る時がどんなにか楽しくって何だか自惚れている様ですが、でもあの時亜紀が婚約者の田所さんの事を尻目にして、私と付き合ってくれた事が信じられないのです。


今だから思えるのです。亜紀の心に何かあったのではないかと。 

其れは丸三日亜紀と旅行をしていて、あまり婚約者の田所さんの事を口にしなかったからです。

漠然と感じていましたが、今考えて見ますと其れは異常だったのかも知れません。心の中で何かが大きく変化していたのかも知れません。だから旅行中はあまり先の話を何となくしなかった事は覚えています。」

「其れは貴女が亜紀さんに気を使ったからでしょうか?」

「おそらく、亜紀にあえて私から話す事ではないと何となく思ったのでしょう」

「旅行から帰られた亜紀さんの様子は何か変わった所がありませんでしたか?」

「ええ、彼女は以前にも言いましたと思いますが、自分に厳しい人で決して小言など言わない女性でした。だから今悩んでいるとか全く感じさせない人で、何ら変わり無かったと思います。亜紀は言うならば私より何もかもが優れていると思っていますので、亜紀が悩んでいても苦しんでいても全く分からない訳です。

私が解決出来ない事でも亜紀なら簡単に解決出来るだろうと思う訳です。」

「亜紀さんが田所さんと付き合われるまでに、他の男性と付き合っていたと貴女は言って居られましたね。それでその方の消息はあれからも全く知りませんか?」


「ええ、あれ以来退社して以来分かりません。でもあの方は気が弱い方だったから、事件には関係ないと思いますよ。 亜紀・・・田所さんと旨く行っていなかったのかなぁ・・・」

「結局貴女方は婚約の話は全くされなかったのですね。田所さんに対して文句があるとか、婚約を解消したいとか」

「其れは無いと思いますが、でも今考えてみると婚約者の誘いを断って他の人と旅行など私なら絶対しないと思います。

亜紀には悪いのだけど。亜紀は田所さんの事を神経質で気が詰まるとは言っていましたが、其れも難しい仕事だから仕方ないとも言っていました。お医者さんの奥さんに成る心の準備はしていたと思いますから、二人の間に変な事が起こっていなかった事を祈ります。」

「では澤田さんは亜紀さんと夏休みに一緒に旅行をされ、亜紀さんが殺される迄の間に、二人で何かをした事はありますか?」

「何処かへ行ったとか?」

「ええ、または何かを話したとか?」

「当然同じ職場ですから毎日の様に食事も一緒だし・・・話しもしますし」

「ですから今までに無かった事が起こったとか御座いませんでしたか?」

「なんだろう?・・・若しかして亜紀、其れまでお昼に電話など掛かって来なかったけど、あの頃は頻繁に掛かっていたかも知れないですね。食事中に電話に出ていたのを覚えています。私にすれば彼氏からと思い少し悔しかったから良く覚えています。」

「電話の相手が田所さんだったのでしょうか?」

「其れは判りません。でもあの頃はそんな事が良くありました。ですから亜紀に何か変化があったのかも知れません。」

「分かりました。ありがとう御座いました。」

 

南本と吉村はレモーレをあとにしながら「誰も人の事など構っていられないですからね。しかも一年以上も前の事など、でも亜紀に何かがあった様には思いますね。」

「これからあの女弁護士に会ってかましてみるか」

「かましてみる?」

「そうこの辺では言わないかも知れないけど、鎌を掛けるって事。悪く言えば脅し・・・」

「そんな事をして良いのですか?弁護士相手に」

「いやぁ口だけだよ。」

「・・・」

女弁護士篠崎茜を訪ねて

「貴女が白井の弁護をしていて急遽辞退した事は、クライアントが決して白井では無く他の誰かであった事がはっきり判りました。

白井が裁判でした爆弾発言が貴女やクライアントをビビらせた訳ですね。

以前にもお聞き致しましたが一体クライアントは何方なのですか?貴女が何もかもを言って下さればこの事件は解決する様に思いますが、言って頂け無いでしょうか?」


「無理な事を言って貰っては困ります。法律は法律ですから、守る立場の私達が守らなかったら国家が成り立ちませんよ。」

「まさか本気で言っているとは思いませんね。どうも貴女は法律とはお父さんの教えかも知りませんが、力の在る者が勝つ様な言い方をされますね。

今の貴女には白井の事など微塵とも心に無いと言う事ですね。貴女を信じていた白井は奈落の底に突き落とされて重い刑に服す事に成るのでしょうね?其れが貴女の言う所の法律なのですか?

貴女はクライアントに操られて、白井には重い刑に耐え我慢する様に細工したのですね。可也のお金を与える積りでしょう?


しかし白井は自業自得で、山田絵美のこれもまた爆弾発言で、終息していた筈の事故が殺人事件と成り、その被疑者に成り、思いもしない刑が圧し掛かって来て、更に検察からこの度十五年の刑を求刑され、判決も同じ量刑が下され、白井は面食らって事実を供述した訳ですね。

だから隠し通してお金を摑ませようと目論んでいた貴女とクライアントは、思惑が外れて尻尾を巻く様にして逃げる事に決めた。


弁護士さん、貴女は被疑者隠匿の罪ではないのですか?専門家だからそんな事は分かるでしょう。更に突っ込んだ事を申しますよ。貴女に今まで指図をして、更に今庇っているクライアントは、そして白井の控訴審を手助けした張本人は、猪倉亜紀さんの婚約者の中部医科大学付属病院産婦人科医師田所光樹さんもしくはその父上ではないのですか?」

「・・・」


「言っている意味をお解り頂けませんか?検察にお願いして任意で参考人招致をさせて頂いても構いませんが、事件を早く解決するには、貴女の正義で平等な一言が何より手早く進められる事は間違いありません。」

「おっしゃっている意味が分かりません。警察が憶測で物事を言って良いのでしょうか?貴方は私を侮辱されている事を忘れないで下さい。私には何方に対しても守秘義務があります。その事を忘れられて乱暴な発言をされても困ります。迷惑です。」

「先日亜紀さんの婚約者の田所さんにお会いして来ましてこの話をさせて頂きました。決して遠くない時期にこの事件は解決に向かう事をはっきり告げさせて頂きました。


田所さん心なしか私の話を聞きながら唇を震わせていました。

如何なる場合も犯行に及んだ者は、その事実が解き解される瞬間までは誰もが抵抗をします。平然と嘘を並べます。必死で誤魔化そうとし隠そうとします。だから唇も体も手先も震えるのです。声は上ずり心臓の動悸が激しく成り、現実と戦わなければならないのです。

私は三十年そんな被疑者と向かい合って来ました。そして最後はみんなくたくたに成って滂沱の如く泣き続け落ちるさまを見て来ました。

貴女が今私に言っておくべき事があればおっしゃって下さい。貴女が言う国家の為に国家の治安の為に。どうですか?」

「・・・」

「ではこれで失礼致します。又お会いする事があるでしょう。間違いなく」

  

   

次話❺に続きます。

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