花街道殺人迷路5-3
殺されていた女性には思わぬ人間関係が浮上してきて混迷を極めた。
そして追求すればするほど不可解な出来事にぶち当たることとなり、捜査部長南本は頭をかしげて思案のまいにつが続いた。
❶
「そうです。白井は花と共に散るのです。」
その言葉に吉村は、
「面白いですね。でも白井はこの前にしょっ引いた時に拘留延長までして落とせなかったので、あいつも知恵が付いて弁護士とか煩い事を言い出したから、今度は慎重にやらないと内の署の沽券にも関わりますので」
「そうですね。」
「では一度泳がせましょう。」
「ええ、絵美が白井と動くでしょう。」
「そうだね。逮捕される事を今度は意識せざるをえんからね。あのブレスレッドを考えた時に」
それでも納得が行かないのか稲葉は、
「しょっ引きましょうよ。何とかなると思いますよ。」と口にして不満顔に成っていた。
「稲葉君、熱田署の判断を尊重しないと。我々はサブなのだから被害者は吉野ではないのだから」
「そうですね。解かりました」
「それでこれから私達は又絵美の事をもう少し調べる事に致します。何故なら私先日絵美が子供を亡くした所の消防署へ行って来ましたが、その時良からぬ事を聞きまして、其れが気に成っていて、絵美にも言いたかったのですが、消防署員の方に迷惑に成り、守秘義務にも反してはいけないと思ったので控えましたが、その事を更に調べ様と思います。」
「そうですね。先日言って居られましたね。」
「だからまさか自分の好きな女の子供が溺れて死んで行く姿を見ながら、薄ら笑みを浮かべていたなんて考えられませんからね。どれだけ白井と言う男が悪い奴かって成るでしょう。」
「そうですね。」
「だから絵美の事をもっと詳しく調べる事にします。」
「なるほど。存分にやって下さい。」
南本と稲葉は熱田署を後にして山田絵美が生きてきた痕跡を辿る事にした。
市役所に行って山田絵美の戸籍を調べる事から始め、そしてその頃からの僅かだけ行った専門学校の友達にも会う事が出来、調べ始めると絵美は、僅か十六歳で婚姻届を出していて、男は十九歳の左官見習いであった。ほんの少しだけ専門校生であったが、中退して働き出産して、それから間もなく男とは別れ保護を受けながら子育てを続けたようである。そしてその内居酒屋に職を変え子を育てた様である。
居酒屋には幼い子の託児所があり、絵美にとって申し分のない働き場所と成った様である。
そこへ白井健三が先輩の友永達と良く飲みに来ていて知り合いに成り、深い関係に成った様である。ところがそれから半年も経たない時に、みんなでキャンプに行きあの事故が起こった。
そして消防隊員が言っている、白井は子供が死んで逝く最中に薄ら笑いを浮かべていた様である。そこで戸籍から絵美と始めて関係を持った男の事を調べてみると、名前は篠原信輝職業左官見習いと成っているが、彼は同じ土佐の高知の出で、名古屋で偶然知り合いに成ったのであるが、同郷のよしみで急接近した様である。
絵美が妊娠して籍を入れ、とても仲が良かった夫婦であったが、男が浮気をした為に絵美は棄てられ、泣く泣く男から離れて行った様であった。
それでも子供を産みどうにか育てている事は対したものであると、その当時友達だった女性から聞く事が出来、更に絵美が今勤める居酒屋の店長にも同じ様な言葉を聞く事と成った。
更に絵美が産んだ子が、僅か一歳に及ばない時に死なせてしまった事が気に成って調べる事にした。
絵美は左官見習いの男篠原信輝と恋仲に成り直ぐに深い関係になった。親元を離れていた絵美には自由があり、まんまと同郷の男の虜に成ってしまったようである。
初めての男であった。やがて絵美は身篭った為に寮で居られなくなって専門学校も中退して、それから市のお世話に成りながら無我の中で生きていた所へ妹の美鈴が郷里からやってきて、同じアパートで暮らし始めたのであった。
当時子供を生むに当たってお金が無く、夫である左官見習いの篠原信輝が、友達からお金を借りながら返さなかったので喧嘩に成り傷害事件を起こしている。
そんな身勝手な男であったから、僅かの間に他に女を作り絵美から姿を消したようである。子供の出産費用は結局未払いに一部成り、市役所が中に入り、絵美はそれから又働き出してからそのお金を返したようである。融通の効かない病院であったので絵美は出産と言う大きな出来事と同時に、お金の工面に随分骨を折ったようであった。
絵美が出産した病院の名は中部医科大学付属病院であった。
その後父親も名古屋に来て妹は父親と暮らす様に成り、絵美と息子龍志と二人の暮らしが始まったようである。
その後絵美は皮肉な事に子宮筋腫に成って、若くして子供を二度と産めない体に成った様である。だから今でも時折絵美は中部医科大学付属病院へ検診に行っている。
南本と稲葉は可成の事を精力的に聞きながら、絵美が子宮筋腫と言う病魔に冒され哀れな姿に成っている現実を知った事に成り、言葉を詰まらせる現実を知ることとなった。
二度と子供を産めない事は女にとってどれほど辛い事か男には解からない。
南本もまた幼子を失っている。其れと同時に妻も南本から離れて行った。
《刑事とは何ぞや!》と自分自身を問い詰めたか、計り知れない。仏さんの前に座って時計の針が何週廻っても動けなかった事もあった。
滂沱の如く涙が溢れた事もあった。
刑事三十年ここまで来るのにどれだけの犠牲があったかを考えるだけでも心が痛く成った。二度と帰らない子供。そして妻。絵美もまた同じように二度と産めない体で自分と同じ道を歩んでいるのかと思うと南本は目頭を熱くしていた。
白井は相変わらず大学へ通っていたが、容疑が晴れた訳ではなく、思いのほか重圧に苦しんでいてとうとう大学を辞める手続きをしていた。其れは当然で、殺人犯として重要参考人とまでは行かなかったが、任意同行を求められた事は確かで、更に拘留延長までされて只事ではない事は関係者の間では儘成らぬ状態に成っていた。
白井は再三絵美のアパートを訪ねていたが、その頃には絵美も白井に不信感を持つ様に成っていた。『絵美、警察に何を聞かれても余計な事を言うなよ。我慢しろよ。我慢だぞ』と言って薄ら笑いを浮かべた。南本はそんな白井の動向を見逃す男ではない。絵美のアパートに白井が入り込んだその後にドアをノックしていた。
「ご免ください。吉野警察署の南本で御座います。再三お邪魔して申し訳御座いません。宜しいでしょうか?」
「又ですか?なんでしょうか?」
「ええ、少しばかりお聞きしたい事がございまして」
「そうですか。でも今はお客さんですから」
「判っていますよ。白井さんでしょう」
「そんな事までお判りですか?一体何なのです。」
「いやぁお二人が揃っておられる時にお聞きすれば良いかと思いまして」
「ではお入りください。手短に」
南本が入って行くと白井は顔色を変えて
「俺帰るから、こんな人と聞きたくも話したくも無いから、帰るから」
「でも今着たばかりじゃない?」
「いい、帰る。」
「健三、貴方はっきり言ったら事件には関係無い事を。言えないって事ないでしょう?」
「絵美、馬鹿言うなよ。気をつけてしゃべれよ。さっき言っただろう。俺とにかく帰るから」
「白井、いや白井さんでしたね。そんなに慌てないでもう少し居られたら、私は直ぐに帰らせて貰いますから」
「嫌だね。あんたの言う事なんか聞きたくも無いからな。」
でもこれだけ聞いてから帰って貰えますか?」
「何を?」
「絵美さんから聞いていないの?」
「何も?」
「あのねぇ、吉野で先日猪倉亜紀さんが付けていたブレスレッドが見つかった事を聞かれていないの?」
「知らない?」
「絵美さん、あんな大事な事なのに言ってあげてないのですか?」
「絵美何だよ、それって?」
「私から言うよ。白井」
「なんだよ」
「お前、吉野で絵美さんらを奥千本の広場に残して、殺された亜紀さんだけを車に乗せ下の方へ下った時に、お前何と言った?女が降ろしてほしいって言ったから車から降ろしたと言っていたわな。その後亜紀さんはどう成ったのかも知らないって。その言葉に嘘が無いのか?大事な所だぞ、もう一度聞く、あの言葉に間違いは無いのか?」
「間違いなんか無いよ。」
「それなら何故亜紀さんのブレスレッドが違う所に落ちている?其れももっと上の方で。お前絵美さんらをあの場所に残して、亜紀さんに乱暴を働こうとして抵抗され殺してしまったのだろう。首を絞めて違うか?」
「知らない」
「知らない事は無いだろう。明日にでもお前の住家へ警察が礼状を持って行くからな。逮捕状かも知れんぞ。大学を辞めたから寮から追い出され、新しく見つけたアパートに大勢の警官が押しかけて行くからな。猪倉亜紀さん殺害容疑で」
「知らないって」
「もし逃げたら全国に指名手配をするからな。」
「止めてくれよ。知らないって」
「嘘付け!亜紀さんをあの後どうして殺した?」
「知らない!やっていないって俺」
そこへ見かねて絵美が口を挟んだ。
「刑事さんあんまりです。見てられないです。刑事さん証拠を見せてください。健三がやったと言う証拠を。見せられないなら帰って下さい。ここは私の家です。貴方にここを取り仕切る権利など無い筈です。私これから出掛けるので皆出て行って下さい。」
「解かりました取り乱して。それでは明日白井健三の逮捕状を取って又来ます。もし逃走を図ったなら全国に指名手配致します。失礼します。」
南本と稲葉は絵美のアパートを後にした
「先輩良いのですか、私はこの展開の方が良いと思いますが、先輩が言って居た様にここは名古屋熱田署の吉村さんの考えも入れないで良いのですか?」
「いやぁこんな流れで成ってしまったから、今と成っては仕方ないだろう。吉村さんには私から誤るよ。」
「まぁいいですけどね。今度は白井を徹底的にとっちめてやりましょう。」
「失敗したら内の署長に名古屋まで手土産を持って行って貰うかな」
「ええ、でも其れは南本さんがお膳盾をして下さいね。」
「よっしゃぁ、これから帰って吉村さんに事情を話そう。」
ところが地検は判を押さなかった。白井の逮捕は証拠不十分で時期尚早と判断され逮捕状は出なかった。到底起訴に至らないと判断したのであった。
❷
南本たちは間借の身だったので何も言えず黙して堪えた。稲葉は当然張り切っていたので、がっくりと朝から気を落としていた。
それで南本は翌日再度嫌われる事を覚悟して朝から山田絵美を訪ねていた。仕事に行く前だったので気忙しかったが、山田は快く応対してくれたので南本は正直驚いたのであった。
「健三、はっきりしないですね。私も苛々して来て、いつの間にか刑事さんの見方をしている様に成って悲しく成って来て、それで昨日はあんな事言ってしまって。
刑事さんが私の事を思って頑張って下さっている事を知りながら済みませんでした。」
「そうですか。そんな風に捉えて下さっているとは思いませんでした。嬉しいです。」
「そうでしょう。刑事さんだって子供さんを亡くされ、とても辛く嫌な思いをした事を言って下さって」
「其れは確かですが・・・」
「だから私刑事さんが言う様に健三を愛しているとか愛されているとか最近思う様に成って来て。この前でしたか健三が来て、『警察に余計な事しゃべるなよ』って言われて、まるで脅しですのよ。そんな事言うのなら潔白を証明すればいいのに」
「其れが出来ないのかも知れませんよ。今でも逮捕状は出ていません。でも白井は強がり言って本当はびくびくしているかも知れないのです。其れは実際に犯行に及んだかも知れないから」
「刑事さん私あの人が万が一猪倉亜紀さんを殺していたとしても、最近では受け止めるだけの覚悟が出来ている様に思えています。
これだけ騒がれたら誰だって参りますから、健三だって初めは笑って過ごしていたのが、今では大学は追われる始末で寮も出なければ成らなくなったし、それに刑事さんが昨日言った様に、新しいアパートに警官が大勢押しかけて来れば他の住民にだって迷惑に成り、その内又出なければ成らなく成るでしょう。
もう無理です。健三と付き合うのは。疲れます。店長も気にしていて迷惑を掛けています。もし健三が犯人なら私だって関係無いって訳にはいかないから、今の所を辞めなければ成らないかも知れません。お店や店長に迷惑が掛かりますから」
「絵美さん今日は可成きつい事を言いますよ。この際言ってしまいます。
あのね、貴女が子供さんを亡くされた時の事を」
「もういいです。又思い出したくないですから」
「そうでしょうか?私は貴女が絶対忘れる事の無い様に毎日線香をあげ、手を合わせておられるのもだと思っています。こんなに綺麗にお花が添えられ、ご飯もきちんと供えられ、毎日欠かさずされている事は直ぐに判ります。
だから貴女は思い出したくないと言うのは間違いで、毎日忘れる事など絶対出来ないと思って居られる事は解かっています。
何故ならこんな私でも自責の念に駆られてと言いますか、自分の子に毎日線香はあげさせて貰っています。解かって貰えるでしょう?」
「ええ」
「ですからこの際言わせて貰いますが、白井の事で良からぬ事を知った訳です。貴女を任意で警察に来て頂いた時にも言った事ですが。
白井が貴女のお子さんが流されて救急車が来て、救急隊員が必死に人工呼吸をされAEDで治療をしていた時に、白井がじっと見ていて薄ら笑いをして見ていたと聞きました。異様な感じに見えて驚いたとも言って居ます。それで消防隊員の彼らは『旦那さんは何を思っている』と驚いたようです。幾ら子供に興味など無いと言っても、好きな貴女の子供さんなのですよ。それを聞いて私白井ってとんでもない奴だと思いましたよ。私態々貴女方がキャンプをして辛い目にあった長良川上流の岐阜の小金田まで行って来て聞いた事です。
この話を貴女が白井にしたら白井は怒るかも知れないです。でも貴女の心の中で冷静に一度考えてみて下さい。白井の事を誰よりも知っているのは貴女ですから」
「前にも聞きましたね。でもその話を私は出来れば聞き流す程良いのかも知れません。今この子は帰って来る事は無いのですから、しかし白井は今夜にでも来るかも知れません。私はどの様に考えれば良いのか今何とも言えません。今の話を健三に言っても意味が無く、其れはタブーかも知れません。今更そんな事って思います。この子が生きて居る時から健三は冷たかったから、貴方が言われた事はありうる事だと思いますが、でもしようがないです。その分私がこの子を大事に致します。」
「そうですか。それなら良いのですが、絵美さんがそれで良いのなら。其れとこの事も言い辛いのですが、貴女は二度と子供が産めない体に成ってしまったと聞きました。お気の毒にと申しますか、何と言って良いのやら・・・」
「いいえ構いませんよ。もう諦めましたから、でもその事はこれ以上言わないでください。刑事さんにそんな事を言われても辛いだけですから。」
「それでお子さんを産んだのは中部医科大学付属病院でしたね。それに子宮筋腫の手術をされたのも同じ病院だったのでしょうか?」
「そうです。」
「実はこの病院は私気になる事がありまして、それで貴女の担当された先生は何方だったか覚えて居られませんか?」
「何故そんな事を聞かれるのでしょうか?」
「はい、この病院は今回の事件の被害者に当たる方が関わっているからです。」
「何方でしょうか?」
「其れはご勘弁ください。」
「中部医科大学付属病院で出産は田戸先生、子宮筋腫の手術は尾上先生でした」
「判りました。関係が無いと思われますが、念の為にお聞きしておきます。」
「それで健三はこれから」
「ええ、再び任意で地検に来て貰って昼夜問わず追求します。良くドラマでやっているように追求します。白井は若いのにドンと構えていて自信たっぷりだから取調べもきつくなるでしょう。犯罪を起こす様な者は強かで根性も可成強く間単には落ちない訳で、ですから此方も時には強引に攻める訳です。そうでないと口を割らない事が多く、まるで戦争です。言わばやるかやられるかと言う事です。」
「そうですか?健三は其れではどの様に成って行くのか分からないのですね。」
「ええ正直言って可成微妙で、事件に関係無いとは言えないと思います。」
「そうですか。」
「ではこれで失礼致します。今度は白井が逮捕される事に成るかも知れませんので、当分来られないと思います。どうかお子さんをこれからもお大事になさってあげて下さい。」
「ありがとう御座います。」
南本と稲葉は山田絵美のアパートから引き上げながら、
「逮捕以外にないな。逮捕しないとあいつは自殺をするとか逃亡を図るとか何かが起こりそうに成って来たね。」
「そうですね。山田絵美も心の中が大分変化してきた事は私にも判ります。南本さんなら何か山田は心を開いていると言うか許していると言うか、その様に思われますから私なんかより何もかもが判っているのでしょう?」
「何もかもかは判らないけど、所詮人の子白井は間違いなく落ちると思うな」
「間違いなく犯人であると?」
「私はその様に思う。いつ自白するかの事だけだと」
「そうですね私も思います。絵美があのように冷静に考えていると言う事は、絵美も犯人は白井であると思い始めたって事でしょうね。」
「そう、いい加減見切りを付けたく成ったのかも知れないな」
「そんな感じですね。」
「ところが今夜にでも白井があのアパートに行き絵美を抱きしめて『好きだよ』とか言えば絵美は又心が元通りに成るだろうね。其れが女心と言うか男と女だと思うな。」
「深いですね。私にはまだその域の事は分かりません。」
「犯罪を起こす奴の裏には女の影があるって言われるのはそれと同じで、今はその反対の現象と言う事になるね。」
「つまり白井の犯罪であると私達は思い込んでいても、実際は山田絵美も関わっているかも知れないと言う事でしょうか?」
「そう、蓋を取ってみればそんな事だってあるから」
「恐いですね。」
「連続殺人を起こすやつなんてまるで人の命なんか虫けらと同じに思っているからね。そりゃ真実を知った時は身震いするよ。」
「南本さんでもそんな思いをされた事があるのですね。」
「ある。綺麗に生きている者には考えられない事だから、毎日常識を基本にして生きているのだから」
❸
「南本さん、では山田絵美は何れかの形で関わっているとお考えでしょうか?」
「思うね。あの人は本当ならあんな白井の様な男と付き合う人ではないと思うから。もっときっちりとして常識もあり、真人間と思われる人と付き合っているほど良いと思うな今更だけど。
だから何らかの形で白井と同じように何かを庇っている様に思うな。でも遠くない時期に何もかもが判る事になる筈。時効なんてありえない事件だと私は思うな。」
「それで南本さんが先ほど絵美に聞いていた事で気に成ったのは、絵美が子供を産んだ時も子宮筋腫の手術をした時も、中部医科大学付属病院と言っていて、あれって亜紀さんの婚約者の田所光樹さんが勤めている病院なのでしょう?」
「そうだよ。だから被害者と言ったんだよ。」
「やはりそうでしたか。でも関係ないでしょう?」
「そうだと思う。でも全く関係ないかと成ると、絵美が携わって来た過去の事だから、何かがあるかも知れないから。又必要なら行ってみよう。絵美さんの担当医の事も聞いているから」
「でも絵美って女も可哀相ですね。白井に嫌がられながらもあの子を必死で守っているって感じですね。」
「そうだね。でも絵美は言って居たように、子供の事も大事だけど白井の事も大事に思っているようだね。
だから私が子供の事を言い始めた事にも本当は煮えるほど腹が立って居たかも知れないのに、でも聞き流した様な言い方をしていたね。本当なら普通の神経なら、死にそうな子供を見ながら薄ら笑いをしていたなんて事知ったら、どれだけ辛いかどれだけ腹が立つか・・・でも絵美は今更って言ったから、仏さんに毎日手を合わせている事と矛盾しているね。
絶対何かがあると思うな。私は」
「そうですか?」
「ある!」
「・・・」
「稲葉君、吉野へ帰ると満開だな。」
「そうでしょうね。これだけ暖かく成って来たから。早いでしょうね。散るのも」
「そうだな。桜は儚い命だと私も思うな。吉野へ着てから一年近くなるが、あの街は歴史があるし、凄い所だと思うな。それで桜、桜と騒いであっと言う間に散って、空しくて、それでも歴史があって悲話があって、私も最後はあの地でも好いかなって思う様に成ったよ。歳を食い過ぎたのかも知れないね。」
「南本さんは後どれ位で定年ですか?」
「三年を割ったなぁ。まさに吉野の桜だよ。」
「そうですか・・・」
「敗軍の将多くを語らず・・・なんて事ない様にしないとね。」
「それって白井を取り逃がすって事ですか?」
「そんな事無いよな。」
「当たり前ですよ」
南本と稲葉は帰りながらその様な会話を交していた。
熱田署に帰るなり、
「南本さん聞き捨てなら無い事が起こっていますよ、白井と連絡が付かなくなっているのです。朝から。それで常に連絡をしていますが携帯の電源を切っていて、山田絵美にも連絡する様に伝えましたが今の所何の返事もありません。」
「吉村さん、私この前から白井にブレスレッドの事をつい言ってしまったから、あいつ動いたのかも知れないなぁ。貴方に言っておくべきでしたが、つい忙しくて山田絵美にも同じ様な事を言って居ます。それで白井にも山田絵美にも逃げたりしたら直ぐに全国に指名手配をするからとも言ってあります。逃げましたか?」
「其れはまだ解かりませんが可能性としてあります。」
「吉村さんあいつは黒でしょうね」
「其れはまだ・・・」
「それで指名手配に成りますか?」
「ええ、事の次第ではそう成ると思います。」
「それなら出来るだけ早く身柄確保される程良いのかも知れないですね。変な事に成ったら事件が明らかに成らないですからねぇ」
「南本さん今夕緊急会議をしてはっきり致しますから、まだ此方で居って頂けますか?」
「はい。」
「連絡が付かないと成ると問題ですから。逮捕状を出して頂く様に致します。」
「お願い致します。」
夕刻熱田警察署に於いて、猪倉亜紀さん殺害事件容疑者白井健三を指名手配する事が決まり全国の警察署にその全容が流された。
そして白井健三は翌日大阪市のサウナの店長の通報で逮捕される事となった。
結して逃げていた訳で無く、あまりに警察から電話が掛かる事に嫌気を刺して態々大阪まで来て寛いでいたのであった。
白井健三は元々大阪の生まれで高校まで万博会場があった近くで暮らしていたので、就職先を探す事も目的で舞い戻っていたのであった。
絵美はそんな事とは知らずに何時か来てくれる事と思いながら、三日も連絡が無い事に気を病んでいた。
【奈良県吉野郡吉野町吉野山で昨年の九月二十二日早朝起きた殺人事件の重要参考人が逮捕されました。名古屋市在住の白井健三を大阪のサウナで本日身柄確保し通常逮捕致しました。】
午後に成り白井健三は名古屋熱田警察署に護送され、ふてぶてしい顔で南本や吉村と顔を合わせる事と成った。
白井健三の身柄は南本たちの手で容赦なく取り調べられる事と成った。
「白井よ。何もかも解かっているのだから吐いちまえば気が楽に成るぞ。これから黙って何日も頑張るのか?朝も昼も夜も無いからな。夜中の三時からあくる日まででも俺らはやるからな。三十時間でもぶっ通しでやるからな。解かったか。お前が猪倉亜紀さんと揉み合いに成って亜紀さんがブレスレッドを弾かれて落とした事は認めるな。
あの場所にお前は居たんだから言えるだろう。その後お前は亜紀さんに悪戯しようと、それでも抵抗されイラついたお前は亜紀さんの首を絞めて殺してしまった事は解かっているんだから、
その時亜紀さんは死んでいなかったが、やがて亜紀さんは命を落とす事に成った訳だ。惨い事をしやがって。何とか言えよ。白井」
「・・・」
「おまえなぁ、亜紀さんが履いていた靴についていた泥はあの場所にある泥と同じだったんだよ。それにあの場所に生息しているキツネノカミソリと言う花が亜紀さんのズボンの裾に入っていて間違いなくあの場所でお前が亜紀さんを殺したか、殺そうとしたか解かっているんだよ。言いなよ。」
「馬鹿なこと言うなよ。俺がやったと言うなら動機は?何も無いじゃないか。」
「動機?お前が亜紀さんを殺したのは悪戯が目的であった。それに亜紀さんからお前は馬鹿にされたような思いに成り、腹が立った事が原因で乱暴しようと思った。其れは奥千本の広場で亜紀さんに気を使って心配したにも関わらずバッグで殴られたからで、その事があったからお前は亜紀さんを送って行く時に他の女性たちをそこへ於いて亜紀さんだけを車に乗せ下ったが、あの場所まで降りた時車を止めて亜紀さんに襲い掛かった。乱暴が目的で。
しかし亜紀さんは抵抗をしたので仕舞いにムカッとして亜紀さんの首を絞めて窒息させ、動かなくなった亜紀さんをその場所から少し離れたくぼ地に寝かせ、枯れ葉を被せてそのまま何食わぬ顔で二人の待つ上に向かった。
それとも車のトランクに亜紀さんを隠した事も考えられる。それから夜中まで誰も荷物を出した事も無かったから、亜紀さんが積まれていても誰も気が付かなかった。それとも亜紀さんを蔵王堂近くまで運んで置いて、夜にそっと亜紀さんをあの発見場所まで運んで遺棄した。こんなものだろう。だからお前の亜紀さん殺しの動機は状況からみても間違いなく可能だと言う事だ。」
「何だいそれ。色々考えられるなんて、もっとしっかり調べてからにしろよ。笑わせるな。あんたたちは」
「白井、お前がしゃべれば解決するから。直ぐに」
「何だよそれ」
「白井、これから毎日二十四時間思い出して貰うからな。俺たちは十人で代わる代わるやるからな・・・しかしお前は一人で其れも嘘がばれないかと神経をぴりぴりさせながら質問に答えなければならないからな」
「・・・」
「楽に成れよ白井!」
それでも白井は頑として何も肝心な事は口にしなかった。
身柄は検察庁に移行されたが、其れでも白井は戦う様に黙り込んだ。
しかし犯行の事実は明白で、自白を待たずして本人黙秘のまま状況証拠として固められ、殺人罪で追及される事となった。名古屋地検担当検事水島あきらに終日追及される毎日となった。
《白井健三、猪倉亜紀を殺害した事は明白であり殺人罪で起訴する。
貴方は平成二十四年九月二十二日奈良県吉野郡吉野町吉野山通称奥千本において、名古屋市熱田区在住の猪倉亜紀さん二十六歳に対し、乱暴が目的で貴方が借用していた車に乗っていた亜紀さんに無理矢理襲い掛かったが、抵抗され、貴方は気が動転して思わず亜紀さんの首を絞め絞殺した。
その後亜紀さんの身柄を深夜まで殺害現場近くに、若しくは車のトランクの中に隠し、深夜人気の無い事を確認した上で、その遺体を蔵王堂前の松の植え込みに遺棄した。
然るにこの犯行には第三者の存在など考えられず、貴方の単独犯行であると判断出来る。
その理由として考えられるのは、貴方は車を利用する事が出来、深夜なら誰にも見られる事無く遺体を移動する事が可能で、ホテルの関係者は深夜の出来事は把握していない時間帯である事を考えても、単独犯行で殺害し遺棄に及んだ事を想定出来る。
更に貴方は隠蔽の為に、被害者が持っていた携帯電話を壊して吉野町野々熊付近の吉野川沿いの谷に破棄した事も、被告と共に吉野へ来ていた山田姉妹の妹美鈴の証言から明白である。又猪倉亜紀さんが持っていたバッグも、下市町千石橋下に山田美鈴の手によって棄てた事も証言から明白である。貴方は速やかに全貌を自供し、亡くなられた猪倉亜紀さんの冥福を祈る事が、罪に対する何よりも償いであると思われる。
よって貴方を猪倉亜紀さん殺害事件の被疑者として起訴するものである。然るにその罪は大きく、少しでも罰を軽くしたいと望むなら、被告は全ての事実を白日の下に曝さなければならない。以上です。》
白井は俯いたまま何の反応も見せず聞き入っていた。
殺人で起訴されたと言う事は少なくとも其れが判決と成れば十年から十五年の刑と成る事が考えられ、それを満期まで刑期を全うするなら二十歳すぎの若者も三十五歳近くに成る訳である。
白井にはそんな計算は直ぐに出来た筈が、何も口にする事無く黙って聞いていた。
❹
やがて白井は担当検事水島あきらの顔を見上げながら薄ら笑いを浮かべて溜息をついた。
有無もなく検察は公判請求をして裁判に持ち込む事と成った。
第一回公判が始まり、弁護を引き受けた弁護士篠崎茜は、白井健三が猪倉亜紀さんを殺害したと言う確固たる証拠が何処にも見当たらないと主張し真っ向から争う姿勢を見せた。
白井健三が猪倉亜紀さんを車で連れて行ってから二人の待つ広場に帰るまでの間に、殺人が起こった等考えられないと主張したが、検察も亜紀さんの首を絞め殺して、そのまま車のトランクに隠せば簡単な事であると切り返した。
更に亜紀さんは小柄で僅か四十キロほどで華奢な体、首を閉めて殺す事など簡単でしかも短時間で出来る事を諄く主張した。そしてあの場所に遺棄する事もゴミ袋の様な所へ隠して運ぶ事も可能であると説いた。
検察の思い通りの方向に事は進んで行っている様に誰もが思え、白井の単独犯で殺人事件として成り立つ様に感ずる流れであった。
ところが弁護士の篠崎茜は
検察は状況証拠の積み重ねに過ぎず、物的証拠を検察は見せるべきであると抵抗を繰り返しし、亜紀さんの首を絞めた時に亜紀さんの爪の間から白井の皮膚が出て来たとか、その様な物がないのかと検察に詰め寄った。更に亜紀さんのブレスレッドが白井と争って落としたのであると言う証拠を示す様に詰め寄った。
しかし其れは亜紀さんの靴についていた土からも、あの場所で生息する野草のキツネノカミソリがズボンの裾の折り目に着いていた事からも判断出来ると検察は反論した。 しかし検察もそれ以上確定する物は無く、本人の自白に頼らざるを得なければ成らなかった。
裁判長が優しく、
「白井さん、何か申し述べる事がありますか?殺人罪ですから相当の実刑を求刑することになりますが何か意義が御座いますか?」
「俺はそんな事はしていません。殺人など出来る事が無いです。確かにあの人、猪倉亜紀さんを車に乗せて下へ向かいましたが、『降りたい。』と言われたから降ろしてあげただけで、全く覚えの無い話です。
ブレスレッドが落ちていたとか言う話も、彼女が何処かで落としたのかも知れないし、俺にはさっぱり分かりません。罪も無い俺に殺人罪で求刑をするのなら、もっとしっかりした証拠を突きつけて貰わないと俺困ります。だって検察官の言う事を真面に受け止めていたなら俺殺されるかも知れないから・・・全く・・・」
「以上ですか?」
「だから裁判長。俺本当に知らないから」
「それで宜しいか?」
「はい、俺にはこれ以上言う事などありません。俺無実です。携帯は認めますが携帯は。」
真実は一つであるにも関わらず若干二十歳を越したばかりの堂々とした白井の言葉で検察側は重く圧し掛かる何かを感じる事となった。
南本刑事は検察官から何もかもを聞きながら埒が明かない事実も知る事と成り苦虫を噛んでいた。
『白井の人物像を壊さないと埒が明かない。あの男の心を開くには山田絵美の心の中にあるものをぶつけないと始まらない。おそらく山田絵美は白井を憎んでいる筈。あんなに大事に子供を祭っている事が何よりの証拠であると思われる。白井の冷淡でそっけない態度と、絵美の只管に亡き子供を供養している姿に、どれだけの距離あるか計り知れない。
愛し合う男と女のまともなあり方ではない事は確かである。何かが・・・』
南本刑事はそんな事を考えていた。そして心の内を検察官に伝え、又山田絵美のアパートを訪ねる事にした。次の公判までには時間がある。
「山田さん、私はこの歳まで多くの犯罪者を見て来て、何時も感じた事は、この男は再犯しそうだと感じた者は、寸分の狂いもなく再犯して、刑務所に逆戻りをする者が多いと言う事です。長年こんな事をしていると勘が良く成ると言うのか人を見る目が肥えると言うのか、幸か不幸か当たります。今回白井健三の言動をこれまで見ていて、まさにそんな男で在ると思われる訳です。
だから私は貴女に何度も聞きましたのは、
『貴女を白井健三は愛していますか?』と聞き、『貴女もまた白井健三を愛していますか』とも聞いた訳です。貴女が子供さんをきちんと供養されているのにあの男は全く関心を示さないのが、愛し合う男女としては不自然にも思えて来る訳です。
絵美さん白井との間に何も無かったのですか?お子さんの事に関して、あれは単なる事故だったのですか?
貴女のお子さんが息を引き取って行く姿を見つめながら薄ら笑いを浮かべていた男に、貴女は何とも思わなかったのですか?そして今もあの時の出来事が忘れられないのではないのですか?
忘れられないから貴女は無心に成ってお子さんの位牌に泪を流されているのではないのですか?
もう一度言います。白井はおそらく帰れないと思います。
検察の求刑は懲役十五年ほどに成ると思います。
白井が『自分がやりました』と言えば、おそらく其れに近い年数の刑が下るでしょう
これから十五年白井は三十五才を越し、それでも貴女は白井を待って居られますか?殺人を犯した男と其れから暮らさなければ成らない事を覚悟出来ますか?
絵美さん、白井に何かあるでしょう?キャンプへ行って貴女のお子さんが亡くなられた時の前後に。
貴女は白井と言う男に恐さを感じた事など在りませんか?警察を何とも思わないあの不気味な態度は只者では無いと私は思います。
余計な事ですが、貴女は白井の様な男と付き合っていてはいけないと私は思います。
貴女は先祖を大事にしてくれる様な人と付き合ってこそ幸せに成れる様な気が致します。白井は今回の刑で僅かの刑で刑務所を出てきてもまた間違いなく同じことを繰り返すと私は思います。
絵美さん・・・思い出したくない話かも知れませんが、何かあれば言って下さい。お願いします。」
「白井は本当に十五年刑務所に?」
「いえ其れは検察の思う事で今は求刑でも判決でもありません。それでも殺人罪と成るとその辺で落ちつくと思われます。」
「健三は三十五歳に成るのですね。」
「ええその通りに判決が下れば」
「そんなの無理です。」
「何が無理ですか?待つ事が?愛し続ける事が?」
「どちらも」
「知り合いに成ってからどれ位経つのですか?貴女方は?」
「まだ二、三年です。」
「絵美さん、お子さんの生前のお名前まだお聞きしていませんでしたが教えて下さい。それにこんなにお邪魔しているのに線香の一つも挙げさせて貰わないで、今日も挙げさせて貰っても構わないでしょうか?」
「ええ、息子の名前は龍志と言います。動物の龍と志すと言う字で。どうぞ線香を挙げてあげて下さい。」
「龍志君でしたね。そうでしたね。何時か誰かから聞いていましたね。申し訳ない物忘れがひどくて。格好良い名前だ。
そうですか、今生きていれば三歳かそれとも四歳ですね。
この子は貴女の宝だったのですね。土佐の国の武士魂が入っているかも知れないですね。」
「でも父親は土佐でもいい加減な所があったから」
「でも絵美さんの心を引き継いで居るから」
「其れもいい加減な事かも知れません。白井の様な男とくっつくのだから」
「それで絵美さん、私一度お聞きしたかも知れませんが、あの事件に遭った前の日に、貴女方が吉野のホテルへ泊まって、それで貴女は夜の事は全く何も覚えて居らず、ぐっすり眠っていたと言われた事を覚えていますが、今でも同じ事を言えますか?何か言い忘れた事とか言えなかった事など在りませんでしたか?良く思い出して下さい。白井がお腹の調子が悪くトイレに行ったと思っていたが、実は其れは白井の企みで、貴女方をその様に思い込ませる為であったとか、思い当たる事は御座いませんか?そのカラオケをしていた時に限らず夜中に寝ている時でも」
「思い込んでいた・・・と言うより、あの夜健三は一度お布団から出てお尻を押さえながら部屋を出て行った事があった事は在りました。その様な光景が今でもぼんやり覚えていますから、おそらく在ったのでしょう。
どれ位の時間か等判りませんが、でも私が眠ってしまうまで戻らなかったと思うと可成の時間だったのかも知れません。」
「絵美さんはっきり思い出して貰えませんか?具体的に何かがあったとか?」
「其れは無理です。」
「この事は今まで口にした事が無かったのですか?」
「ええ、健三に余計な事を言うなと言われていましたから」
「つまり貴女や妹さんは白井から口止めされていたと言う事でしょうか?」
「妹は分かりませんが私は」
「其れはどう言う意味でしょうか?二人に言ったのでは?」
「いえ健三は今までから私に口止めする事が多くあるから、だから其れが当たり前と思っているのです。」
「余計な事を言わない事が?」
「ええ、」
「絵美さん、今度都合で裁判所で証言をして頂く事に成るかも知れませんが構いませんか?」
「何を?でも其れはわかりません。」
「絵美さん。白井は貴女たちに嘘を言って亜紀さんを殺し車であの蔵王堂まで運んで遺棄したと思われます。車の音とか全く覚えていませんか?」
「彼はトイレへ行ったものと私は思い込んでいますから、その後車の音がしたとか全く判りません。」
「白井健三が夜中にお尻を押さえながら部屋から出て行って暫く帰らなかった事は間違いないのですね?」
「ええ其れは」
「解りました。それで話を元に戻しますが、白井が十五年も帰れない事が現実なら何か言うべき事が無いでしょうか?白井から絶対言ってはいけないと言われている事かも知れませんが、御座いませんか?」
「・・・」
「絵美さん、お子さんの為に、龍志くんの為に」
「・・・」
「何かありませんでしょうか?貴女が間違った道を歩もうとしているかも知れないと思うからです。」
「刑事さん、言えないのです。言ってはいけないのです。私が選んだ道だから」
「それで幸せに成りましたか?満足な人生に成れたでしょうか?私には何か等分かりません。でも白井の事でとんでもない事を隠されている様な気が致します。違いますか?あの男に疑念を抱いている様な事はありませんか?」
❺
「でも言えません。何もかもを失うなんて出来ないです。」
「何もかもを失うとは?」
「・・・」
「絵美さん白井は貴女の心から離れて行き、とっくに失っているのかも知れませんよ。少なくとも白井の心の中に貴女が今でも大きく存在しているかなど分からないと思われます。何故なら貴女の子供さんが亡くなられた時に薄ら笑いをしていた男ですから、その残虐性は今の白井の心にも存在するものと思われます。」
「そうでしょうか?」
「白井は最近捕まるまでに何か気になる様な事を言わなかったですか?」
「我慢しろと言われた位です。」
「我慢しろと言ったのですか?」
「ええ」
「その意味は貴女にはわかっているのでしょうか?」
「さぁ、色々在るから」
「言えない?」
「ええ」
「分かりました。無理は言いません。今日は帰らせて頂きます。私がしている事は、必ずしも白井の為に成る事かそれは判りません。でも貴女もこれからの長い人生、幸せに成って貰わないといけません。龍志君の為にも。ですから何もかもをお話に成って頂いて、貴女の心の中を綺麗にされる事も大事ではないかと思われます。そうする事は貴女の幸せにも繋がる様に思われます。では失礼致します。」
南本は絵美のアパートから離れながら、絵美に「我慢をしろ」と言った意味を考えていた。
何を我慢するのかまるで見当が付かなかったが、其れでも考えていた。
南本はそれから岐阜県警長良川署を尋ねてあの絵美の子供の水死事故の調書を拝見する事にした。
白井健三が検察庁で憮然として何も口にしない現実を打破する事が急務であったからで、やみ雲であったが岐阜に向かっていた。
「突然すみません。此方であった山田龍志君の事故について詳細を知りたくて来させて頂きました。山田龍志君の義理の父親になる男が、籍こそ入れていませんが、母親の山田絵美とは深い関係にあり、当時も一緒にキャンプに来ていた男で白井健三と言う男です。そして今その白井が名古屋市熱田区の猪倉亜紀さんと言う女性を殺害した容疑で身柄を検察に拘束されています。しかし起訴しましたが有罪に至る所まで行かず、検察は公判で物的証拠の不十分な所を攻められています。
それであの白井と言う男の過去を洗いざらい弾き出し、如何なる手段を使ってでも打ち砕きたく思っております。
それで当日の事をお聞き致します。」
「解かります。検察も重要参考人でもあまりにも証拠がないと持ちませんからね。では調べる事に致します。これですね。
【平成二十二年七月三十一日岐阜県長良川上流の通称今川において、名古屋市昭和区御器所通り在住の山田絵美さんの長男山田龍志君一歳が溺死した。
母親は山の中へ薪を集めに行っていてその交際相手も同じ様に薪を集めに山の中へ行っていて、龍志君はテントの中で眠っていたが、二人がテントに戻って来た時は既に龍志君が見当たらず百メートルほど川下でキャンプをしていた家族にも探して貰っていた時、その家族の父親が龍志君が川の中で沈んでいるのを発見し直ぐに助け人工呼吸をして救急を呼んだ。
救急車が着いたのは警察と同時刻で龍志君はAEDでショック療法も試みたが、病院へ着いた時は既に心配停止状態であった。
母親の証言によると、薪を拾っていたから龍志君は寝ていると思い込んでいて戻って来るのが遅かった事を悔やんでいる。
なお母の男友達は・・・何も言わず淡々としながら事を受け止めているのが気になった。無感情である。なさぬ仲であると言う事はこの様なものであるかと思わされた・・・消防士の方は男友達の事を「異様に見えた」と言って居る。消防士が人工呼吸をして他の消防士がAEDをセットして必死に成っているとき、その父親の顔を見上げると薄ら笑いをしていて相当違和感を感じたとその時の状況の感想を述べている。それで保険の関係を調べたが保険には入っておらず悪質な計画性が無いと判断した。】
以上ですね。」
「つまり単なる水難事故となるのでしょうか?」
「ええ、この文章から何も不自然なものは無いと思われます。しいて言うなら男友達の態度ぐらいですかね。
良く保険金目当てで同じような事が起こりますが、この事故には其れらしいものはありませんので、この男友達が薄ら笑みを浮かべてと成っていますが、これも良くある話でご存知だと思われますが、あまりにもショックな出来事だったから、狼狽えて我を忘れてと言う事も考えられますから」
「そうでしょうか?狼狽えてね。でも其れは無いと私は思います。何故なら白井は其れから今まで一度たりとも亡くなった龍志君の位牌に手を合わせた事もない様で、龍志君の事に関しては今も冷酷な態度であるようです。
其れは白井に任意同行を求めて熱田署で調べた時に本人が言っていましたが、元彼の子供など係わり合いになる事はないと言う様な言い方をしていた事を覚えています。」
「それで解かりました。あの男がここに書かれているような態度であった事が」
「ただ私としましては容疑者の白井を起訴に持っていけるだけの物的証拠をほしいわけです。それで来させて頂いたのですが・・・」
「そうですね。だったらこれから連絡を入れますから、この調書を作った担当者にお会いに成りますか?」
「ええ」
「お知らべ致します。西野ですね。この方は今岐阜警察本部で居ますね。連絡しておきますからこれから行って下さい」
「解かりました。」
南本は岐阜警察本部の防犯課西野巡査長を尋ねた。
「恐れ入ります。それで同じ事をお聞きするより、貴方が調書を取られた時の事をお聞きしたくてやってまいりました。
それで子供が亡くなった後貴方が調書を取られたようですが、一部始終をお聞かせ頂ければと思います。今回の事件に何ら繋がる物がないかと思っています」
「そうですね。私が調書を取ったのは子供さんが亡くなった事が判り病院へ救急と一緒に行って母親とその後話をさせて頂きました。
とても憔悴しきっていて話に成りませんでしたが、それでも何とか聞く事が出来て男友達もあとからご自分の車でやって来ていて聞く事が出来ました。
どうも母親は子供が眠っているものと思い山へ薪を集めに行って居て、子供さんが起きそれで川原へおそらくはって行って落ちたようです。それで流されていた事も誰も知らずに百メートルほど下った所で水の中に沈んでいるのをキャンプに来ていた方に発見された様です。
母親は錯乱するように泣き崩れてとても辛そうでした」」
「それで問題の男の方ですが」
「ええ、私が病院で母親と話している時に玄関の方でタバコをふかしている男があり、場所が場所だけに不謹慎だなと感じましたが、まさかその男が母親の友達であった事を知りびっくりした事を覚えております。
それで側に来て母親の方をきつく抱きしめながら目を見ていた事を覚えています。
母親も男の顔を睨む様に見ていた事も覚えています。変な空気でした。」
「貴方の調書には感情的になった思いを書かれている様に感じましたが、其れは消防の方の話を後に聞いたからでしょうね?」
「ええ、まさにその通りで其れはあくる日の事でありましたが、その前に今話した様に子供の事よりタバコを吸いたい事が先であるのかと思った憤りを感じた事があったからです。そう思われませんか?何はともあれ病状を聞くとか考えるのが当たり前でしょう。まして生死を彷徨っている事を知っていて、だから翌日消防の方の話を聞きながらタバコの事も思い出し、更に呆れ果てた男の心の内を想像しながら、大人気ないですが感受的に成って調書を作成してしまって、それで上司に注意された事を覚えています」
「母親と男が相反する態度であったと言う事は、その事からどの様な事が創造出来るでしょうか?」
「母親って可成気が強いって言うか男を睨みながら泪をこらえていましたね。悔しそうにも見えました。」
「そりゃぁそうでしょうね。男に子供を頼んでおいて薪拾いに出掛けたのかも知れませんね。それであの様な事に成ったから男を責めていたのかも」
「成程ね。その様に解釈すれば母親の気持ちを解かる事が出来ますね。任せておいたのにこのざまはって成り悔しいやら憎いやらと成りますからね。」
「それ以上の事はなかったでしょうか?」
「それ以上って?」
「だから男が故意に企んで子供を死なせて仕舞ったなら?」
「まさかそんな事」
「でも母親は男を睨んでいた訳でしょう。それで涙ぐんでいた。消防や警察が行った時は既に一悶着が収まっていてそれでもまだ揉めていたと考えればどうでしょう?」
「そこまで飛躍されますか。随分検察に苛められているのではありませんか?
焦っておられるのでは?」
「その様に感じられますか?みっともないですね。」
「でも貴方の言う事が事実であったと考えると、我々は大きなミスをしている事と成りますね。考えてみれば貴方が言われた事にも一理がある様な気もして来ました。南本さん、もし貴方が徹底的に調べられるのなら子供の第一発見者の方を紹介致しますから行ってみては如何でしょうか?その方は・・・待って下さいよ。調書に載っている筈ですから聞きます。」
暫くして電話を置き、
「判りました。この方も名古屋の方ですね。名古屋市天白の方です。後で詳しくお知らせ致します。この方にお聞きすればいいかも知れないと私は思います。我々が行く迄に何かが起こっていたかも知れないですから。もっと何かが判るかも知れません。何故ならこの方たちもあの場所でキャンプをされていて、でもあんな事が在ったので急遽帰る様に成った様です。自分たちが楽しもうと思っていた場所で子供さんが死んだ訳ですから」
「成程ね。」
「だからあの時言えなかった事でも今なら冷静に言える事だってあるかも知れません。」
「解りました。お尋ね致します。」
「私は正直『本当に只の事故かな』と思った事も事実です。覆す事は無いかも知れませんが、あの事故を再検証してみる事も必要かも知れません。法的には無理かも知れませんが」
「とにかく私その方を当たって見ます。それに母親にも又会ってあの事故は再検証するかも知れないと言ってみます。何か変化があるかも知れませんから」
「そうされると良いかも知れませんね。私は辛いですが・・・」
「お世話に成りました。」
南本刑事は少しだけ山が動き始めた様な気がして来た。この儘では有罪に持ち込めないと検事に言われている事も確かで正直焦っていた。
熱田署の吉村刑事にも吉野の稲葉刑事にも南本は言われた言葉は、『何故そんなにあの母親に拘るのですか?』と言う言葉であった。
あの母親とは山田絵美の事で、其れは一口に言えば南本も同じ思いの辛さを経験しているからで、独り子を亡くしてしまった積年の思いが、その様な判断をさせていたのであった。
だから南本は拘った。
岐阜県警本部防犯課の西野巡査長にアドバイスされた通り南本は当時同じようにキャンプをしていた天白区に住む家族に会う事にした。
「以前長良川上流へキャンプに行かれてお子さんを助けられましたね。その時の事をお聞きしたいのですが、覚えておられるでしょうか?」
「ええ、はっきりと。だけど亡くなってしまって可哀相に・・・」
「蒸し返すようですが、その時の事を詳しくお聞きしたいのですが。」
「ええ、いいですよ。」
「それでですね。貴方から見て何ら変に感じる事は無かったでしょうか?奥さんが妙だったとか旦那がおかしかったとか、子供さんに関しても不思議な事があったとか、何でも良いですから思い出して頂きたいのですが?」
「ええ出来る限り、でも其れはどう言う意味なのでしょうか?」
「ええ、実は在る事件がありまして、殺人事件が、それであの夫婦が関係しているかも知れないと成り、あの二人の人間性を調べている訳です。だからこの様にしてあの事故も本当に事故であったのかとか、そうでなかったのかとか調べ直しているのです。何か腑に落ちない事が無いかと」
「そうですか。解りました。でも今何を思い出すともわからないですね。」
「では此方から質問させて頂きます。お聞きしたいのは消防や警察が来るまでの事を詳しく言って下されば幸いです。」
「警察が来るまでね。とにかく奥さんが甲高い声を出し私どものテントに向かって来て子供を見かけませんでしたかと聞かれました。大きな声だった事を覚えています。それで旦那さんが後からゆっくりやって来て黙ったまま突っ立っていました。奥さんは私にその様に言って直ぐに自分たちのテントの方へ向かって行き、後を旦那さんが付いて歩いていました。奥さんは小走りだったですが旦那さんはゆっくり面倒くさそうに歩いていました。
それから二人で何かを話し合っていましたが、特に奥さんが旦那さんにきつい言い方をしていた様に見えました。
言うなれば唾を飛ばす様な言い方で話されていた様に見えました。
でも何となく川を見た時派手な色の何かが見え、其れが子供さんである事が直ぐに判り、大声を出しその子を助けたのです。一メートルほどの深さがあり流されている途中でありましたので、少し潜って助けたわけです。二人がやって来た時は、私はその子に初めての事でありましたが人工呼吸をしていました。
旦那さんも奥さんとも変わる事無く私は人工呼吸を続け、奥さんが救急車と叫んでいました。
やがて救急車が来た時は電話をしてから既に二十分が過ぎていて、私は時計を見つめていましたので間違いありません。人口呼吸も一分間に百回と聞いていましたので其れも数えていましたが、何分幼い子供さんであったので力加減が分からず、果して効果があったのか、亡くなってしまって悔いの残る事と成りました。」
「すみませんね。嫌な事を思い出させて」
「今でも思い出すと涙が出てきて、真っ青に成った幼い子の顔が浮かんできてとも辛いです・・・」
❻
「それでその時母親はどうしていましたか?」
「救急車の手配をして子供さんの側に来て大きな甲高い声で叫んでいました。必死に龍志、龍志と言って」
「其れで旦那さんは?」
「其れが何とも言わないで。其れも私にだって、すみませんのひと言も。変わりますとも言いませんから、どうなっているのかと疑いました。
私も必死で、責任があるから止める訳にはいかずそのまま続けていましたが、何とも言えない顔で旦那さんがぼさっと立っていた事が今でもはっきり覚えています。
そのうち救急車や警察も来て私は退く事に成りましたが、其れでも旦那さんからは何一つ聞く事は在りませんでした。普通お世話に成りましたとかある筈でしょう。実に不思議な家族と私には見えました。それでも旦那さんも車で後を追って行きましたから、私たちは消防の方や警察の方に色々聞かれましたが、あの家族の事など悪くなど言えるわけが無く、こんな事今始めて口にした訳です。
それで私達もあんな事がありましたので意気消沈して泊まるのを止めて引き上げる事にしたわけです。」
「貴方が子供さんを見つけた所は流れがありましたか?」
「ええ、ゆっくりと。あの当たりは淀んでいてゆっくりと流れのある場所で、其れはあの方々がキャンプをしていた所も同じで、常に流れていてもそんなに早くは流れていない場所でした。」
「其れでは彼らがテントを張っていた所から流されたならどれ位で貴方方がテントを張られていた場所に着くでしょうね?」
「分かりません。実際あの子供さんと同じ物を流さないと判らないでしょう。ただ彼らが来る迄に私の子たちが浮き輪で浮かんで遊んでいましたから結構時間が掛かっていたようでした。其れが何かあるのですか?」
「これは考え過ぎかも知れませんが、子供さんが流された時に奥さんはどこに居て、旦那さんはどこに居てと考えた時、貴方の証言は可成意味があるかも知れないと思えて、それでどうでしょう何か思い出せないでしょうか?」
「と言われましても、確か旦那さんがテントの側で居られた事を覚えていますが、其れが何時だったとかは思い出せません。何故ならあの方々の事を出来るだけ見ないようにしていましたから。
お互いじろじろ見たりするとプライバシーの侵害と成るでしょう。旦那さんの姿を見て其れからどれ位の時間が経ったのかは分かりませんが、奥さんの姿を見てそれで子供さんが居ないと言い出して」
「では旦那さんの姿を見た時は奥さんは居なくて、奥さんを見た時から僅かの内に子供さんが居ないと言って来た訳ですね?」
「そうです。」
「其れから後に二人でお礼とか言って来られたでしょうか?」
「いいえ誰も。でも其れは当たり前で、子供さんが亡くなられていた訳ですから、私だって律儀にお礼を言われても困ります。返す言葉も無いですから。」
「そうでしたか」
「でも警察と消防署の方は丁寧に言ってくれました。」
「解りました。ありがとう御座いました。」
南本刑事は頭の中で思い浮かんだ事は山田絵美の姿であった。唾を飛ばす様な言い方で白井に食って掛かっていたようであったのでその事も知りたかった。愛知地検に何か手土産に持って帰りたかった事が心の中で充満していて、南本はその足で山田絵美のアパートを訪ねていた。
「再三ごめんなさいね。実は今日あの事故で貴女方の息子さんを見つけた方にお会いして来ました。結果的には助ける事が出来なかったのでとても残念がっていましたが、今でも申し訳なかったような言い方をされ泪を流されていました。
それであの日の事を話して頂いたのですが、色々判って来ました。更に愛知県警の当時あの事故を担当され調書を書かれた方にもお話を聴いて参りましたが、白井健三と言う男の事が今までより更に鮮明に判って来た様な気が致します。
岐阜県警ではあの事故の事を不審に思っている刑事さんも居られ、再度検証をし直す様な事も言っておられました。其れは白井に今殺人と言う嫌疑が掛けられているからで、何れあの龍志君の事故は再検証に成る可能性もあると思われます。絵美さんにももう一度あの現場へ行って頂いて、辛いでしょうが思い出して頂けなければ成らないかも知れません。
それほど白井健三が疑われるような態度であったかと言う事のようです。」
「刑事さん、本当に健三がやったのですか?」
「かも知れません。おそらく・・・彼はやっていないと言い切る事も出来ない訳で、其れが言えたならこんな流れには成らないのです。
今回身柄を拘束された事を考えても、連絡が付かなく成ってしまい保護をする目的でその様になったわけで良からぬ事に成ってもいけないですから、事実をはっきりさせた上で起訴になるか不起訴に成るか調べれば良いのであって、其れが為にも真実を追究しなければ成りません。」
「それで健三はこれからどの様に成るのでしょうか?」
「ええ検察に起訴され公判が始まりました。つまり裁判でその内検察から求刑される訳です。其れが言わば十五年とかに成るでしょう。そして判決が下りるのです。其れは何年に成るかは判りませんが、私の経験ではその数字に近い年数だと思います。不服なら控訴するでしょう。」
「では全く無実で何らお咎めが無いと言う事は無いのでしょうか?」
「そりゃぁ白井に全く覚えが無いと言い張れば可能性はあります。無実であるなら。でも其れってありうるでしょうか?貴方も知っている様に彼は被害者を車に乗せて山を下ったのですよ」
「そうですね。でも彼が犯人だかどうかは判りません。」
「でも貴女なら白井の心の内の事を判っているのではないのでしょうか?
白井が今まで貴女に取って来た態度から、誰にも判らない事でも貴女なら判っているのではないでしょうか?その様に思うからこうして何度も来させて貰っているのです。」
「どうしてでしょうか?言っている意味が判りません。」
「そうでしょうか。実は私あの日の事を聞いているのですが、貴女はお子さんが居ない事に気が付いて白井に詰め寄っていた事を。
更に貴女がお子さんを発見されてからどの様な態度であったかも、更に白井がどのような態度であったかも。
あの人の態度には誰も驚くばかりであったと言われました。それも複数の方から。其れは家族が大変な事に成っている時に誰も白井の様な態度は出来ないと言う事だと思います。
貴女が白井に子供さんが居なくなった時に唾を掛けるような勢いで何かを訴えるように言っていた事を聞きました。
其れは何を言っていたのですか?覚えておられないのでしょうか?他の事を忘れても感情的になっていたその事だけははっきり覚えていると思うのです。どうです?」
「ええ、あれは健三が子供をしっかり見ていないであんな事になったから気が苛立ってそれでだと思います。」
「では貴女は白井に子供を見て居てほしいと言って山へ薪を探しに行ったのですか?」
「いえ、二人とも薪探しをしていたと思っています。龍志はテントの中ですやすやと眠っていましたから、でも私が一番いけなかったのです。何故なら私は土佐の生まれで子供の頃から山とか結構行ったから、何時の間にか道の辺りでは木は落ちて居なかったので、知らぬ間に山を駆け上がっていました。
それで夢中に成って薪を集めていて正直龍志の事を忘れていました。
あの子は一旦眠ると可成寝る癖がありそれで気にならなかったです。それから薪を抱かえて山を下り始めました。それで・・・」
「絵美さんそれからどうされたのですか?」
「それから・・・其れから下へ降りて健三が居り、彼に龍志が居ないと聞かされ動転したのです。」
「絵美さん今山を下り始めたと言って、そこで詰まりましたが何かがあったのですか?」
「いいえ、只詰まっただけです。」
「それで下でキャンプをされていた方にも頼んで探して貰ったが残念ながら子供さんは水の中で発見されたのですね。」
「そうです」
「本当に?そうですか?」
「・・・」
「ごめんなさいね、嫌なことを思い出させて。では今日はこれで帰らせて頂きます。お子さんの事でまた再検証があるかも知れない事をお知らせしておきます。
絵美さん白井が起訴され裁判が始まったから、貴女も傍聴席でも良いですが、証人に成って頂く事が在るかも知れませんのでお伝えしておきます。勿論断られても構いませんが、白井を一日でも早く自由の身にしてあげたいなら協力して下さい。」
「解りました。」
「大丈夫ですか?」
「ええ」
「絵美さん、元気を出して下さいよ。白井は貴女にとって大事な人だと思いますが、もし犯罪者なら決して許してはいけない事をご理解下さい。其れは人間としても国民としても更に恋人としても、貴女の大事な一回限りの人生と思うなら一度その様に考えてみてください。ではこれで失礼致します。
其れとこれは先日岐阜へ行って来て買って来ました。仏さんに供えてあげて下さい。あの時キャンプに行かれて何も買って上げられなかったと思いますからほんの気持ちです。これは岐阜に昔から伝わる玩具らしいです。」
「ありがとう御座います」
熱田署に戻った南本が驚かされたのは、白井が証拠不十分で不起訴に成るかも知れないと言う事を告げられたからであった。それでも南本にもその判断が妥当かも知れないと思えていた。其れは物的証拠が未だに新たに見つからない事に打つ手が無かったからで、吉村も小村も熱田署の刑事はめぼしいものを見つける事が出来ないでいた。吉野署の稲葉も然りで悶々とした時を重ねていた。
それでも南本は検察官が起訴する事を祈る様に願った。
担当検察官の水島あきらはそんなベテラン刑事の南本の心の内を知ってか、白井健三の有罪を勝ち取る方向で意気揚々としていた。
平成二十四年九月二十二日奈良県吉野郡吉野町吉野山奥千本において名古屋市熱田区在住の猪倉亜紀さん二十六歳を絞殺し蔵王堂付近に遺棄したのである。犯行に及んだのは名古屋市愛知文化総合大学三回生の白井健三、二十一歳である。
犯行に及んだ目的は猪倉亜紀さんに吉野山上千本の通称帝の辻において車で接触してそのまま亜紀さんを奥千本まで車に乗せ、怪我の具合を確かめたが大した事は無く、亜紀さんが当日旅館吉野荘を予約していた為に、又時間が押し迫っていたので、旅館へ行く事を白井に告げると白井は亜紀さんを車で送って行く事と成り、後部座席に乗った亜紀さんを車で送る事にしたが、途中白井は美しい亜紀さんにむらむらとして襲い掛かり乱暴を働こうとしたのである。
その時亜紀さんが必死に抵抗して長年着けていたブレスレッドが腕から外れて車の外に飛び散り、亜紀さんもその時白井に抵抗をして車から降り逃げようとしたが殴られたのか気を失い、その時ズボンの裾に犯行現場で生息しているキツネノカミソリと言う彼岸花の花びらが着いた様である。又靴にもその地の土が付着していた。
ぐったりして気を失った亜紀さんを車のトランクに入れ猿轡をして深夜までホテルの駐車場で放置し、深夜に事件現場に遺棄したのである。
それで証拠品の提示として物的証拠は亜紀さん所有のブレスレッド及び彼岸花キツネノカミソリの花びらの破片及び靴に付着していた土である。以上の状況から鑑み白井健三が犯人であることは明白である。万が一被疑者がこの事実に反論するには其れなりの裏付けを示さなければならない。
❼
深夜に白井健三の車はどのカメラにも写っていない。蔵王堂まで行ったと言う証拠など何処にもない。
つまり白井は車ではなく歩いてとか他の車でとかなら理屈は成り立つが、それでも深夜に出て行ったと誰も知らない、まるで証拠など無い。出て行かなかったのかも知れない。つまり上記以外に何一つ確たる証拠の無い状態であったので、水島は心の中で意気込みながら一方で証拠の少なさに火が消えて行く様な思いもあった。
それは証拠の少なさに後で上司にこっぴどく叱られはしないかと思えたのであった。
担当検察官水島あきらは消化不良の様な気持ちの儘で熱田署の吉村刑事にその旨の電話を入れていた。
翌日南本刑事は久し振りに吉野へ帰って吉野で仕事をしていたが、その南本に熱田署の吉村から一本の電話が入った。
「南本さんはっきり言います。今担当検察官の水島さんから電話が入って白井を不起訴処分にした事を告げられました」
「えーぇ不起訴・・・無罪ですか?私は間違いなく有罪を勝ち取って貰えると思っていたのだけど・・・不起訴ですか・・・」
「ええ、何分自供は勿論証拠が無いと言う事で。この儘では起訴しても持たないと初めに言っていましたのでそのような結果に。
ごり押ししても名古屋地検の沽券にも関わる話だと言う方も居られ、状況証拠では言わば作り話でもあると言えると。きつい言い方ですがとも」
「そうですか。そうなりゃぁこれからは迂闊にあいつに手を出せないだろうね」
「そうですね。物的証拠を探さないと埒が明きませんね。でも頑張りましょう。吉野警察と熱田警察の威信にかけても」
「ええ、それにしてもショックだね。しかしあの男どうしてあんなに磐石と言うか肝っ玉が大きいと言うか、悠然としているからなぁ。まだ二十歳を越したばかりのチンピラだろうが?何かがあるな。」
「そうでしょうか?」
「ある。極端な話がもしもだよ。あいつが過去に誰かを酷い目に遭わせて居て、何の罪に問われる事なく今に至っているとか、法律の目を潜って何のお咎めも無く今に至っているとか、まさかと思うけど誰かを殺して誰にも判る事無く逃れているとか・・・そんな事を経験しているから、あの自信があると思うのだけど。この話は内の稲葉にもした事が在るのだけど、あいつには世の中を恐れない何か自信に繋がる事を経験していると思うな」
「犯罪者にはその様な話は確かにありますね。」
「だから私は山田絵美が鍵を握っている様な気がして」
「其れはどうしてでしょうか?あの長良川の事故の件で?」
「ええ、若しかすると山田絵美の生い立ちから当然白井の生い立ちも全部調べる必要があるかも知れないね。そこまでしないとあの男の仮面を剥がす事が出来ないかも知れないな」
「これからは厳しく成りますね。あの白井に付いた篠崎茜って弁護士も結構やり手の様ですよ。まだ若い女性ですが父親も弁護士で、まだ幼い子供がいるのですが旦那も弁護士で、だから余程の証拠を突きつけないと水島さんの言う様に持たないでしょうね。」
「これからも現場に行ってみる積りだけど正直心が彷徨っているね。情けないけど」
「南本さん私今日貴方が気にしている絵美の所へ行って何かないか探ってみましょうか?」
「いや、それは止めて下さい。私に考えがありますから。何故なら絵美は最近私に心を開きかけていると思われるからです。心を開くと言う事は何か白井の秘密に繋がるのではないかと思うからです。ですから今はそっとして置いて下さい。今日にも白井は釈放され絵美を訪ねて行く事も考えられますので」
「解りました。では私と小村は白井の生い立ちから今までの事を調べる事に致します。それに山田絵美の生い立ちも」
「ええ、お願い致します。」
吉野山は葉桜一杯に成っていた。夏の日差しさえまぶしく感じ夏蝉が煩く鳴く季節を迎えていた。
吉野の川には釣り人がまだ寒さの中で腰まで浸かって魚を釣っている。
材木工場からは勝ち誇った様に煙が初夏の風にたなびいていて、まるで気ままに絵を描く画家が戯れている様な感じであった。南本は車を署に置いたままにして、久し振りに殺された猪倉亜紀と同じ行動をとってみる事にした。南本にとって電車で吉野山へ向かうのは相当前に妻と来た時だけであったから、懐かしくもあり亡くした子の事や離婚した嫌な思いまでもを思い出す事と成った。
電車は一駅で終点の吉野へ着きそれから百メートルほど歩いてケーブルに乗る。ケーブルは僅かの距離であるが、揺られながら古の人々がこの地で深い歴史を刻んだ事があったのだと思うと感無量であった。
後醍醐天皇が南朝を開き南北朝時代が、義経の悲話も生まれた。豊臣秀吉も花見にやってきた。頭に入っていた古事を思い出すと、名古屋から態々遥々やって来て不幸な目にあった猪倉亜紀の事を思い出さずに入られなかった。
『亜紀さんよ、捕まえてやるからな』 南本は其れだけを口にしていた。
ケーブルは初夏の風を受けながら僅かの内に終点について惜しむ様に南本は空に成ったケーブルカーを見送っていた。
振り返ると道の両隣に土産物屋が所狭く並んでいて、賑わう人達に急きたてられるようにその場を離れた。
それからゆっくりと上へ上りパトロールカメラのある場所などをチェックしながら更に上に向かった。
しかし南本の頭に何も浮かんで来ない事で辛くさえあった。
白井は昨日か若しくは今日釈放される事が、どうしても頭から抜ける事は無く、寧ろあの男が南本の頭の中を一杯にしていたのであった。
それでも南本は亜紀さんが殺されていた蔵王堂から白井たちが泊まったホテルまでの間に、カメラがないかと捜していた。其れは街が設置したものでなく、今まで気が付かなかった個人で土産物店などが設置していないかと思ったからであった。
万が一あの日に白井が借りた車が深夜に映っていたなら、白井の供述は一気に覆す事が出来るわけで、これまでも目を光らせて来た事であり、今更と思ったがそれでも同じ事を繰り返していた。吉野山の一番上まで神経を擦り減らすようにして目を光らせ足を運んだが、何も見つけるものは無く、南本の頭の中は夕陽に照らされながら疲労困憊の老いて行く老人の様な窮状であった。
白井が不起訴に成った事が南本の心に隙を作ったのか、やや気落ちして其れからの数日間の間吉野で大人しくしていると熱田署の吉村から電話が掛かり
「南本さんどうしたのですか?意気消沈ですか?」
「良く解かるね。」
「そりゃぁ私だって同じですよ。しかし白井はこれから大変だと思いますよ。だって我々が四六時中見張る事に成りますから」
「そうだね。必ず尻尾を捕まえてワッパをかけてやりましょう。」
「ええ勿論。だから元気を出して下さいよ。その内動くと思いますよ。」
「そうだね。では明日にでも行ってみるか・・・山田絵美の所へ」
「もう少し待って下さい。何故なら私の方で彼らの生い立ちなどを調べていますから」
「成程ね、それで今の所何か目ぼしいものがありましたか?」 「白井はともかく山田絵美は初めに付き合った男に酷い目に合わされた様ですね。知っておられるかも知れませんが、山田絵美は土佐高知の出身で男も同じ所で、それで同郷のよしみで結ばれた様ですが、子供が出来てから男は他に女を作って好き勝手していたようですね。
だから絵美は虫けらの様に男に棄てられて随分泣かされた事を聞きました。
それから絵美は仕方なく子供を育てなければ成らなくなって、随分ふて腐れた様な態度で市の職員を悩ましていたようですよ。
裏切られたと言う思いが常にあったのでしょうね。ですから子供の事が、邪魔で邪魔で、下手すりやぁ子供を死なせてしまいかねない様な事に成っていた様ですね。」
「山田絵美が?」
「ええ、市の職員が言っていました。この儘では放っておけないと成って扶養したと言っていました。」
「待って下さい。山田絵美が子供の事を嫌っていたのですか?」
「と、思いますよ。だって自分を騙して捨てた男の子だから気持ちは解かりますでしょう?」
「そうでしたか。でも私が知っている山田絵美は、決してその様な女性ではなく先祖を大事に思っている方で、毎日仏さんにお供えをしている様な人で、其れもあの人の仏さんは亡くした子供さんだけだから、今お聞きしていて全く信じられない思いです。まるで別人としか思えませんね。」
「でも私が調べた範囲ではその様な感じで、だから今の山田絵美の状態はお宅へ行っていませんので私には判りませんが、間違いないです。又一度お聞きに成られては如何でしょうか?市役所の方が貴方の言われた事を知ったら驚くと思いますよ。」
「そうですか?」
「でも何故でしょうね?山田絵美は人が変わった様に南本さんの言われた様な女に成っていると言う事は?もしですよ。絵美が今までは先祖を大事になどして居なくて、それで何かが起こり先祖を大事にしなければ成らないと成ったと考えた時、其れは何であるかと想像すれば、誰だって仏様に手を合わせて、辛くてとか悲しくて心が詰まり涙目に成ると言う事は、其れは申し訳ないとか、可哀相な事をしたとか、悪かったとか、後悔や反省、或は懺悔の気持ちがあるからではないでしょうか?思い出して辛く成ると言う事は」
「そうかも知れないね。つまり子供さんが生きている間に苛めたのだろうか?逃げてしまった旦那の事が腹立たしかった事が原因で、子供に当たったのかも知れないね?でも出産費用はその男がみんなから借りまくって用意したと聞いているが、それでみんなに迷惑をかけて絵美が尻始末をしたと聞いているね。」
「ええ、そんな事があって決して男が出て行ってからは穏やかではなかったと思います。苛立つ毎日を繰り返していたと考えた時、時には子供が居ないほど良いと思った事もあったのではないかと考えてもおかしくないと思います。」
「だから子供が死ぬ事になった。」
「其れは分かりませんが、あれは単なる事故であったと成っていますから」
「でも今思うと疑う余地は十分にあると言う事に成るね。」
「最近若い夫婦の虐待とか折檻とかが横行していますからね。簡単に実子を殺してしまう事があるかも知れませんね。」
「山田絵美は実は子供を殺していた。だから其れからの生活で我を振り返り、自責の念に駆られてあのように仏さんを綺麗に祭り、貴方の言うように毎日念を唱え言わば懺悔して、心を落ち着けているのかも知れないね」
「真相はどこにあるのでしょうね。そんな無残な事が在るのでしょうか?でも其れって言わばあの長良川の支流でキャンプをしていて子供さんが亡くなったわけだからその時に山田絵美が子供さんを・・・」
「もし何か在るとしたならその時となるね。私はその時の事を何度も調べているのですが、やはり腑に落ちない事が幾つも在って、寧ろそれは白井の方だけど、でもこうなってくると白井も山田絵美も只者では無いと言う事に成るね。 いよいよあの水死は単なる事故では無かったと言う事に成るのかな?」
「南本さんの今までの話では白井が相当悪で、何かがあると言われていましたが、絵美も同じような立場のようですね。岐阜県警にお願いして再検証って訳には行かないですかね。私一度上司に掛け合ってみましょうか?」
「ええそのように思っています。何かが出る事は十分考えられるからね。是非お願いします。」
電話を切って南本が愕然と成った。あれだけ律儀で常識のある女性と絵美の事を思っていただけに、自分の過去を重ね合わせて心を熱くして涙ぐんでいた事が悔しくさえ思えた。
電話を切ってから一人で冷静に山田絵美の事を考えてみると、頷ける事に気が付いたのは、其れからの山田絵美の容赦のない不運な人生であった。僅か十代にして子供を亡くし更に二度と子供が出来ない体に成ってしまった人生であった。
南本が女ならもっと奥深く山田絵美の悲しみを理解していたかも知れないと思うと、吉村刑事と今まで話した事はそれほど意味があったのかと思ったのであった。
それから一週間が流れ若い稲葉は半袖のワイシャツで身を包み進まない現実とは裏腹に溌剌としていた。
あれから熱田署の吉村からも小村からも南本に何も言って来なく成り硬直状態が続いていた。しかし其れは刑事達にとって犯人を泳がす機会でもあった。
重要な容疑者白井健三を泳がす事で新たな証拠を見つける事が出来る事を願っていた。そして何か致命的な事実を摑めばそこを突破口にして一気に突撃するパターンを考えていた。
山田絵美には既に岐阜県警が息子龍志の水死事故について再検証をする事を伝え、其れが白井健三の耳に入った時どの様な動きをするのか気に成る所であった。
そしてその言葉を伝えた事は双方に曰くがあり、白井も絵美も何らかのアクションを起こす事は間違いないだろうと思えた。
先日の吉村刑事の話にも意味があり、白井のこれまでの言動にも相当意味があり、必ず動く事を南本は信じていた。
白井の行動を追っていた熱田署の小村刑事から、白井が就職もせずに先輩の友永を訪ねて居候をしている事が伝えられた。
友永は既に大学を卒業していて、ただ車を窃盗した前科があり、其れが執行猶予の罪であっても決して一流と言う様な所へは行けず、それなりの就職先であった。
❽
その友永でさえ白井が転がり込んで来た事はあまり嬉しくなく、迷惑そうにする事が多く成っていて、やがて白井はその空気を読まされて身を引く事を決意し、居候に終止符を打つようであった。
其れは友永でさえ白井健三が殺人犯であるかも知れないと思う所であった。
気が滅入っていた白井は苛々しながら山田絵美を訪ねて気を間際らせようと体の関係を迫った。
当然山田絵美は快く受け入れたのであったが、ムシャクシャしていた白井は何時になく激しく山田を抱きながら執拗に責め続けた。思いを果した白井は絵美を強く抱き絞めながら
「絵美、頑張ろうな。二人で」と口にしていた。
抱きしめられながら絵美はうっすら泪を浮かべて頷いていた。
南本刑事が山田絵美のアパートを訪れたのはそんな日が在ってから二日ほど経っていた。
久し振りに白井に抱かれた山田絵美は女を取り戻していた。其れは此方もまた久し振りに訪れた南本の心にズシリと響く事と成った。
「刑事さんもう来ないで下さい。迷惑ですから」
いきなり冷たい言葉が絵美から発せられて驚く事となった。
「山田さん、どうしたのですか?唐突にそんなことおっしゃって」
「だからもう来ないで下さい。あんなに帰れないと貴方は言って居たのに彼は帰って来ました。刑事さんは卑怯です。私を脅かして健三はもう帰って来ないと言って。嘘ばっかり」
「だから私言ったでしょう。最後に決めるのは検察であり裁判長だからって」
「そんな事言っていませんよ。私には十五年ほど彼が刑務所に入るように聞こえましたよ。そんな風に匂わせたでしょう?出鱈目を言って!」
「そうでしたか。もしその様に捉えられたのなら許して下さい。」
「それに貴方が言って居た事で、私の子が死んだあの事故を再検証すると言っていましたね。でもそんな話は作り話でしょう?何処にもないって健三が言っていましたよ。其れも嘘なのですか?」
「其れは正式に申し込んでいると思いますから何れは岐阜県警が」
「本当でしょうか?もういいです帰ってください。貴方の顔など二度と見たくありませんから」
「解りました。」
山田絵美の変わり果てた心に南本は愕然とした。白井が二度と帰れないと言った言葉に引っ掛かっているのか、それとも二人が再度あの子どもの事故について調べられる事に苛立ち拘っているのか、其れとも騙された思いが絵美を苛立たせているのか、間違いなく山田絵美は南本を避けたがっている事がはっきり判った。
そして絵美が白井との関係にうんざりしていたと思いきや、いつの間にか、ぞっこんであるかも知れない事に気が付いたのは、部屋に干されていた男物の下着を見つけたからであった。
そして白井健三が絵美に岐阜県警の再検証の事を何故話したのか分からなかったので、岐阜県警の以前に世話に成り、今は県警本部防犯課の西野巡査長に問い尋ねる事にした。早速西野巡査長から電話が掛かってきて、
「弁護士ですよ。白井の弁護士が聞いて来ましたから答えたようです。確かに再検証の話は今の所確実では無く事実を言った様です。」
「弁護士ですか?」
「ええ、磯崎茜と言う若い女性の方で」
「解りました。」
南本はその時はっと思ったのは、まさかその様な転回に成って行くとは考えられなかったからで、其れは白井が弁護士を立てて戦争を挑んで来る事を意味している様に思えて来たからであった。
資金力があるとは決して思われない白井が、何故弁護士を立てて立ち向かってくるのかが不思議でさえあった。
電話を切った後熱田署の吉村刑事に、白井の経済状態を知りたかったので聞く事にした。確かに白井は大阪市豊中で生まれ極普通の家庭で育っている事を知らされている。
そして学生の身であったこれまでとは違って、今は居候をしている状態。今弁護士を雇ってなど考えられない筈が現にその様にしているのである。磯崎茜と言う弁護士はまだ掛け出しである事には変わりないが、父親も旦那も弁護士だから、あの白井ごときを弁護する事などありえない話と思えるのであった。
これが事件で白井が逮捕され当然起訴され、国選弁護人として磯崎茜を選んだのなら分かるが決してそうではない。南本はその事実を知り、この事件が盤根錯節を極めた事件であると思う意外に思いようがなかったのである。ただ動き出した気は今までにないものを感じて来て、其れはこれから起こる事に妙味さえ感じて来る事と成った。南本は面白く成って来たと思い白井の弁護を引き受けている弁護士磯崎茜を訪ねる事にした。
名古屋市中村区で大きな事務所を構えてやっていて、弁護士が五人連盟でやっている事務所であった。
「突然すみません。私奈良県警吉野署の南本と申します。」
「それでどのような御用で?」
「弁護士の篠崎茜さんにお会いしたいのですが」
「私です。」
「調度良かった。実は貴女が弁護をされている白井健三の事ですが、判らないのは何故貴女があの人を弁護されているのか合点が行きませんでしたから、一度尋ねてみようと成り来させて頂きました。」
「クライアントです。」
「クライアント?でも白井は今まで学生だったし、今も友だちの所で居候をして居り経済的には決して豊かとは言えない筈」
「でもそんな事は私には判りません。現にきちんとお支払い頂いていますから。ご覧に成ります。領収書も出していますから控えがある筈です。」
「判りました。それではお聞き致しますが、白井から貴女に弁護をして貰いたいと言って来ましたか?」
「立ち入った事は言えません守秘義務がありますから」
「篠崎さん、白井が熱田署に身柄を拘束されていて貴女が弁護を引き受けられたのは分かりますが、ご存知の様に白井は不起訴に成った訳ですから、貴方の役目はあの時点で終わった筈。
しかし今も続いていると言う事は、それなりの費用が要る筈です。あの男にそんなお金が用意出来るのでしょうか?」
「そんな事判りません。出来るから再度弁護を頼まれたものであると理解しております。」
「解りました。しかし今回は白井を起訴には出来ませんでしたが、限りなく黒に近い男だと私は思っております。
脈が無かったならこの様に態々奈良の吉野からやって来ません。どうか頭の隅にその事を置かれて弁護される事を願います。長良川の再検証も間違いなく進めますから」
「そうですか、伝えておきます。」
「篠崎さん、今回白井を有罪になることなく不起訴のしたのは私にすればけしからん事だと思いますが、其れは白井が何とかしたのではなく貴方が乗り込んで来たからでしょう。
貴女の父上も弁護士で更に旦那さんも弁護士だなんて誰が担当しても鬼に金棒って事でしょうね。
善と悪ではなく強いか弱いかの違いなのでしょうね。貴女方は悪の助太刀をする訳ですね。」
「刑事さん言葉が過ぎるのではないのですか?」
「まあぁいいでしょう。ではこれで失礼致します。」
南本は腹が立ち直ぐに熱田署の吉村に電話を入れて
「実は今白井の弁護をした篠崎茜って女性と会ってきました。それでどうも白井が今でもあの女性を雇っているようで、でもあの男にそんなお金が有るのかそれも疑問で・・・貴方はこの前白井の実家の大阪の豊中へ行って下さいましたね?
つまり今は白井の事をお聞きしたいのですが、それで経済的にどうかって事を聞きたいのですが?」
「ええ行って来ましたよ。それで経済的にと言われましても極普通の家で、決して裕福なって感じではなかったです。お金の事など実際は分かりませんが、白井自身も車を買えた訳ではなく先輩に借りていた位だから、裕福とは言えない環境で巣立っていたと思います。
もっとも起訴にでもなれば調べられるのですが、家宅捜査は出来ませんから、それにしてもあの男今回はしっかりした弁護士を立てて来た様ですから、話はどのように成るやら分からなく成りましたね。」
「まさに、でも亜紀さんと言う亡くなった方が居るわけだから是が非でも見つけてやらないとね。」
「そうですね。」
「白井の後ろに誰かがいるなんて事は考えられないが、弁護士の動きを探る必要も在るかも知れないね。お金の出所を知る必要が・・・」
「今度は白井を参考人で来さす事も無理でしょうし、かと言って容疑者と位置づけて身柄を拘束する事も出来ない様だし、何か新しい証拠を見つける事が先決ですね。」
「大変難しく成って来たね。弁護士だって迂闊に白井と出会う事などしないと思うし、万が一白井にスポンサーがいたなら、そこから何かが判るかも知れないが、それを見つける事は大変だな。
この事件は今回白井を起訴出来ないからと言って無罪放免ではなく、限りなく黒に近い男であるから、今更他の容疑者を捜す事など考えても仕方ない事で、白井が亜紀さんを車で送る途中で彼女に乱暴を働こうとしたと推測される訳であるが、あの場所からどのような行動をしたのかが最大のポイントだな相変わらず」
「南本さん。出来れば我々もその場所へ行かせて貰えないでしょうか?」
「良いですよ。一度来られますか吉野へ?」
「ええ、是非遺棄現場は以前見せて貰いましたが、南本さんがおっしゃる全ての場所は知りませんから」
翌日吉村刑事は吉野警察を訪ね南本と落ち合った。
「ようこそ吉野へ」
「事件発生当時に来させて頂いて先日猪倉さんを連れて来させて頂き、そして今又来させて頂きました。いいですね吉野は、つい先ほど電車から魚釣りをしている方が見えましたよ。長閑で良いですね。」
「でも名古屋だって大きな川が一杯だから其れに海もあるから」
「其れもそうですね。でもここは長閑で良い所です。」
「だから私は事件など起こらないと思い気楽にしていたのですが。とんだ事に成って」
「全くですね。こんな所で殺人事件なんて不自然ですね。」
「ではご案内致します。これから吉野神宮駅から電車で終点の吉野へ行き、そこからはケーブルカーで上に上がり、そこからは歩いて現場まで行きます。」
「分かりました。」
二人は電車に乗って吉野山へ向かった。
「ここですね。猪倉亜紀さんが殺されて遺棄されていた場所は、金峯山寺って言うのですね。」
「ええ、又の名を蔵王堂とも言います」
「私今でもはっきり覚えていますが亜紀さんが着けていた下着は、特にパンツはきわどいものだった事を覚えています。当然ブラジャーも同じような物であった事も。あの清楚な顔立ちで品も良い亜紀さんの顔を思い浮かべると、どうしてもあの下着は合わなかったと今でも思い出します。妹さんの瑠璃さんも一番にその事を言っていましたからとにかく強く覚えています。
それで私の弟がゴルフをしていてその景品にあの様な言わば賞を貰った事があると言っていました。
あの様な物は大人の下着を売る店とかに在る筈で、当時その様な店を可成当たりましたが今現在も摑めていません。
誰かが何か目的が有って履かせた事は間違いないのでしょう。南本さんならどの様にお考えでしょうか?」
「私は亜紀さんがあの様な下着を着ける女ではない事を分かっているので、誰かに履かされていたと言う事は・・・それにあんな目立つ所に遺棄されていたと言う事と繋がっていて、更に発見された時は大きく足を開いていた事を思うと、第一発見者の修験者の稲生康孝さんって方が先ず発見して思った事は、商売女であると思ったと言って居た様に、駆けつけた警察官の誰もが思った事だった様で、虫けらのように棄てられた何処か外国の国の女であると思った訳ですなぁ。」
「でも実際はアパレル会社のレモーラと言う会社の販売主任であり、考古学が好きな真面目な女性であった訳ですね。しかも婚約中でもあった。」
「そうだね。つまり亜紀さんは誰かによってイメージを変えられた訳だな。犯人はそうしたかったから態々下着を着替えてまで、更にあんなに見付かる場所に遺棄したって事だろうね。」
「何故でしょう?」
「何故?亜紀さんが憎かったのかな?笑いものにしたかったのかな・・・」
「亜紀さんは婚約中でした。それで年明けの春には結婚する予定であった訳ですね。そうなった事を妬んだ男がいたのでしょうか?亜紀さんの過去を更に調べてみる事も必要かも知れませんね。でも其れはとっくに調べてくれている筈、でも未だに何ら引っ掛かる事も浮かんで来ないですからね。
同僚の小村刑事も亜紀の交友関係を当たっていましたが、何も出て居ないようです。」
「私は亜紀さんと言う人が誰かに嫌われていたとは思わないのだが、だから白井とたまたま吉野山で出会い不幸な事に成ったとしか思えないのだけど、もし何かがあると成れば婚約者にも聞いてみないとね。」
「まさかですがね。」
「そう、そのまさかから何が出てくるかも知れないからね。」
「では私名古屋へ帰ったら小村刑事と一緒に中部医科大学付属病院へ行ってみます。」
「中部医科大学付属病院?」
「そうですよ。」
❾
「そうだ、そうだったね。いつか山田絵美と話をしていてその病院である事を聞いた事があった事をうっかり忘れていたよ。これだ、これ。このメモだ。確かその病院で山田恵美が子供を産んだのは田戸先生で、子宮筋腫の手術は尾上先生だったな。手帳にはその様に書いてあるな」
「そうですか。そんな事までお調べだったのですね。」
「婚約者の田所光樹はその頃はまだ医者の卵だったのかも知れないね。ここで登場すれば何か繋がりが在ると思うのだが・・・」
「では一度調べてみます。何か知っているとか亜紀さんから悩みを聞かされていたかも知れませんから、このごろ逆恨みをしてストーカー的な事をするやからがいる事も事実ですからね」
「では一度当たってみて下さい。では亜紀さんが殺害若しくは気絶させられたかと思う例の場所へもう一度行きましょう。」
「分かりました。」
「ここからは可成在りますが、吉野を散策しながらと思いお願い致します。途中に白井が泊まったホテルもありますし、亜紀さんが泊まる筈だった旅館も在ります。
吉村さん何かを見つけて下さい、突破口を。
それに亜紀さんが試しに初めて食べた柿の葉寿司のお土産屋さんも途中にあります。そこへ寄ってみましょうか?調度お昼前だし」
「ええ、お願い致します。」
食堂に着くなり店主が笑顔で馴染みになった南本を見て、
「ああ、刑事さん良くお越し下さいまして」
「いえ、今日は名古屋の刑事さんも一緒ですから。それで柿の葉寿司とおうどんでもお願い致します。」
「毎度、それで犯人はまだですか?」
「ええ相変わらず、吉村さんこのお店で亜紀さんは始めて柿の葉すしを二つ食べられている事も判っています。其れが午後五時前と。店主がおっしゃるには」
「そうですか、それで亜紀さんはその後ほんの僅かで白井の手で何処かへ」
「そう、そうだと思います。ここへ寄った亜紀さんが、泊まる筈であった旅館を越して行き、更に上に登って行き、そこで白井の車に接触され事故に遭った訳です。
その事故をお酒の配達をしていた扇谷酒店の扇谷信三さんが、カーブの上り坂の曲がりきった所で止まっている車にびっくりして、睨むように見つめていると、女性が車に乗せられていて中から女性が引っ張っていた様に見えたらしいです。其れが山田姉妹の妹だった訳です。
それから車に乗せられた亜紀さんは怪我が無かったかと親切に言われ、又女性が二人だったので安心したのでしょうね。一番上の奥千本の広場まで車を走らせ、そこで山田姉妹に飲み物を買ってくる様に行って、白井は亜紀さんと二人きりになった所で、亜紀さんの腰を障り怪我がないかと口にしたが、亜紀さんは恐さを感じて持っていたハンドバッグを白井めがけて振り払った時、白井の顔にそのバッグの底が当たり、それでカッとした白井は亜紀さんに更に近づいて肩に手を掛けると、亜紀さんは暴れだし白井の顔をバッグで殴り続けたのです。それで腹が立って来た白井は亜紀さんの服を摑んで押さえた様です。
亜紀さんの服のボタンは上から二個取れ下着が丸出しに成って、そこへ山田姉妹が飲み物を持って帰って来て、姉の絵美が「何しているのよ」と大声を出し事が収まった訳です。ではその場所へ食事の後行って見ましょう。」
「はい」
奥千本に着いた。
「ここがさっき言った場所です。ここで白井は亜紀さんの服を破りそれからの事は分かりませんが」
「亜紀さんに怪我が無いか心配だと言いながら、乱暴が目的であった事も排除出来ないと言っておられましたね。以前に」
「そう、でも白井にしてみれば女性たちが帰って来た事が誤算で、白井の目論みは女性たちが帰って来るのはもっと遅くと思っていた筈で、何故なら飲み物の自販機は白井が思っていた物はもっと遠くであった為で、ところが実際は車から見えない所に自販機があり時間的には半分以下の時間で彼女たちが帰って来た訳です。
でもその後姉の絵美が亜紀さんを慰めるようにして、自分が持っていた服やズボンを亜紀さんに渡し、その場で服は着替えたと言っています。
問題はそれからですな、それからつまりここから亜紀さんは白井の運転する車で泊まる筈だった吉野荘まで下る積りであったが、白井の話では途中で亜紀さんが『降りたい』と言い出したと言う訳です。
そこは何処であるかとも、誰かに出会わなかったかとも何度も聞きましたが、一向に誰も居なく又内の稲葉刑事も何度もその白井が言う当たりを丹念に聞き込みをしましたが、何も摑めていないのが現実で、それではこれから白井が亜紀さんを、ここから車が通れる道を下りて、旅館まで行く途中で乱暴を働こうとしたと予測される場所で、或は拉致監禁したと思われる場所をご案内致します。」
「目に見えて来そうで見えていないのですね。」
「そう、ここからは我々の推測ですが、では行きましょう。」
二人は木立の中へ入って行った。
「ここです。ここで白井が亜紀さんに乱暴しようとして、それで亜紀さんのブレスレッドがこの辺りに落ちていて、今は無いですが内の稲葉がこの辺で車の轍を見つけて、ただ残念なことに雪が降り確認は出来ませんでしたが、ブレスレッドのお陰で、それであの後白井らを重要参考人として任意同行で三人を引っ張ったのです。」
「そうでしたね。ここがねぇ。亜紀さんに何か大きな変化が起こったのでしょうね。抵抗をした事は間違いないのですから、ブレスレッドが落ちていたと言う事は。でも白井は何も言わない。」
「其れとこの場所でこの彼岸花が当時は咲いていて亜紀さんのズボンにかけらが入っていたのです。
あいつはここで亜紀さんの首を絞めた事は間違いないと私は思っているが、吉村さんならどの様に思います?」
「ええ、その考えて妥当だと思いますが、ただ死亡時刻がその日の深夜から翌日の明け方までだったしょう。夕方五時とか六時ではなかった筈だから、そうなると白井が犯人ならここへ来てから、僅かの内に上で待つ女性たちの元へ帰った訳ですから、物理的に可能でしょうか?」
「だから一度気絶させておいて車のトランクへ積んだか、或はこの辺の何処かへ置き去りにして木の葉を掛けて隠しておいたか、夕暮れだったから観光客は誰も来ない時間。まして地元の人はこの辺はあまり来ない場所だから何時までも誰にも判らない筈。
白井はその後女性たちの元へ何食わぬ顔をして戻り、彼女たちを車に乗せてホテルへ向かった。夜カラオケをしていたと女性たちは言っていたが、その間に白井はお腹の調子が悪いからと言ってトイレで三十分ほど出て来なかった事に成っています。それを誰も疑う事は無かったらしい。又夜に白井はお尻を押さえながらトイレに行ったようであったと絵美は言っているが、戻って来た事は知らなかったと、其れは白井が戻るまでに可成時間が経っていた事も考えられ、だから絵美が眠ってしまったかも知れない。」
「そこが問題なのですね。その所の確実な証拠が」
「そう、吉村さん突破口を」
「私が?そうですね」
「刑事暦三十年。どうしたものか?」
「でもここまで来れば白井だって追い詰められている事には変わりない筈。ここで一言口にすれば何もかもが崩れると思いますがねぇ」
「しかしあの弁護士の磯崎茜って何者なんだ?」
「磯崎法律事務所だから親父さんの七光りって所でしょうね。」
「一体どう成っているのかね?白井如きの男に弁護なんて不思議だなぁ」
「そうですね。何かがあるかも知れませんね。あの男には。」
「ここで亜紀さんを羽交い絞めにして何処かへ運んだ事も考えられるね。猿轡をしてなら誰にも判らないからな、トランクの中に入れてとかすると、でもそのトランクは車を解体して既に無いわけだから困ったもんだ」
「でも其れって旨く出来た話ですね。亜紀さんの遺体を積んでいたかも知れない車のトランクが、解体されている事も計画性があったかも知れないと思うと。」
「そうだね。車を解体したのは結構大阪郊外の山の中で誰も出入りもしない所だから、何もかもを処分出来るからな。乗っていた物は直ぐに全部焼いてしまった筈だから、其れは白井も、白井に車を貸した先輩の友永淳も分かっていた訳だから、胡散臭い解体屋も絡んでいるかも知らないし」
「悪い奴が集まればこんな事に成るのでしょうね。」
「悪知恵を働かせて狡猾にやるからな。私は白井にどんな事があっても許せんからな。ここで亜紀さんの首を絞めた事は間違いないんだから、亜紀さんの靴にここの土がついていてズボンの折り目からこの花の破片があって、あの時は調度咲いていたから間違いない筈・・・」
「それで車で白井が夜中に亜紀さんを運んだと成った時、でも白井が乗っていた車が何処かのカメラに映っていなかったのですね?」
「ええ、でも何か方法がある筈だと私は思うんだけど」
「誰か仲間が居たって事は無いでしょうか?何処かで亜紀さんを白井から預かったとか、婚約した亜紀さんに恨みがあるとか、亜紀さんを苛めてやろうと思ったとか、南本さんが言っていたように何しろ婚約中ですから、もし亜紀さんが恨まれる様な事があれば身勝手な考えの奴に殺される事もありうる話と成るでしょうね。」
「それで白井から失神した亜紀さんを引き取り何処かで殺した。在りうる話かも知れないね。
私は白井の単独犯行だと思っていたが・・・やはり文殊の知恵って言うか、吉村さんのおかげで私の思いつかないことを知れたよ。」
「白井はあの夜ホテルから一歩も出ていないと考えた時、今私が言った推測もありうる話ではないでしょうか?」
「そうだね。全くそうだね。吉村さん名古屋へ帰ったなら婚約者の田所光樹の当日のアリバイ、それに今浜松の工場で働いていると言う白井の先輩の友永淳のアリバイも取って貰えますかな。まさかと思いますが」
「ええ、そうします。」
「其れと今でも当たって頂いていると思いますが、白井の交友関係で大学時代の仲間なんか、不審な奴が居ないか調べて貰いますか、其れと山田絵美、美鈴姉妹の交友関係も、第三者を考えた時この辺に何かがあるかも知れませんからね。」
「でも南本さん結局白井を追及する事が一番早道なのでしょうね。もう一度検事に相談致しましょうか?」
「でも何一つ進捗していないからな」
「其れもそうですが一度私から検事に言います。」
「つまり任意同行を求めるって事だね。」
「ええ、それも含めて、白井には弁護士が着いているようですが、山田には着いていないと思います。だから山田姉妹を責めてそれで探る訳です。」
「では、貴方にお願いするよ。ここまで態々来て下さったのだから何か感じるものがあったと思うから。」
「そう致します。」
それから七日後に山田絵美と妹の山田美鈴が地検に呼ばれて抵抗する事無く検事水島あきらの言葉に素直に応じていた。
「山田絵美さん、この事件は未だ解決に至らないのは白井健三が本当の事を口にしないからだと私は思っています。
彼が何もかもを話せばこの事件は簡単に解決に至るでしょう。しかし誰でも自分が不利に成る事など言いたくないわけで、例えどんな犯罪をしたとしても、その事実から逃れたいと思うのが当たり前で、おそらく白井も心に中で同じ思いで居ると思われます。
それで最近気に成っている事は、新事実として貴女の過去を調べさせて頂きましたら、貴女は十六歳の時結婚され男の子供を授かり、でも旦那はいつの間にか出て行かれた訳ですね。言い換えれば貴女は失礼な言い方ですが棄てられた訳ですね。
だから貴女は出て行ってしまった夫の篠原信輝を憎んだ。更にそんな男の子供まで憎み始めた。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いって奴ですね。今の貴女は全く違いますがその頃の貴女は今と正反対であった。
つまり子供さんを事故で亡くされた時の頃は白井と言う男が居て、更に嫌いで仕方なかった子供が居た訳ですね。言い換えれば貴女はあの時子供が死んでいても良かったのではないでしょうか?水難事故に遭った時、白井が子供の弱りきった顔を見つめながら薄ら笑いを浮かべていた様ですが、貴女もまた同じ様に子供さんが死んで逝く事に抵抗など無かったのではないでしょうか?
❿
そして死んでみて始めて自分が思っていた事に対し罪悪感が生じ、そこで始めて懺悔と言うか人の慈悲と言うものが生まれたのではないでしょうか。どうです違いますか?」
「・・・」
「貴女が子供さんの事を面倒に言って居られた事は市の職員から聞いています。つまりあの水難事故は貴女も白井も望んだ事故であったと言う事が言えるのではないでしょうか?」
「いえ、決して望んでなどいないです。私は薪を集めに山へ行っていましたから、まったく偶然起こった不幸な事だと思います。」
「そうでしょうか?でもこの様にして実際事故が起こり、嫌っていた子供さんが亡くなったとなると、難しい言葉でいいますと「未必の故意」と言う言葉があるのですが、これは起こるべき事が解かっていてあえて何もしなかったと言う事になり、其れは罪になるのです。子供さんが眠りから覚めてはいながら川に近づくことも可能であった。
其れは白井にも言えて、これから岐阜県警があの事故を再検証する予定ですが、貴女に大きな責任がある様に思われます。この事故は保険など入っていなかったので穏便に済ませた様ですが、どうもここに来て貴女方二人とも殺意とまで言えなくとも望んでいた事故であった事と推測も出来るようです。
山田絵美さんこれまで述べて来た事に異存があるでしょうか?」
「いえ、確かに龍志の事を嫌っていた事は認めます。だって生み棄ての様にされたのですから、貴方が女なら少しは解かって頂けると思います。悔しかったから、だからあの子が居なく成れば良いのにと思った事もありました。でも死んで仕舞い、居なく成ってみて其れにこんな体に成ってみて色んな事が解かりました。健三に冗談で『お前は女じゃないからな』って言われて余計に辛く成って、それでそれから仏さんを守らなければと思う様に成って」
「山田絵美さん、貴女は絶対龍志君を殺したりはしていませんね?」
「していません。」
「では白井は?」
「さぁ解かりません。」
「解からないのですか?していないのではないのですか?」
「そんな事はしていないと思います。」
「龍志君は考えてみると可哀相なお子さんですね。父親に棄てられ母親に嫌われ、それで僅か一年程で幕を閉じなければならなかったのですね。それから幾ら美味しい物を供えられても食べる事が出来ないのですから。」
山田絵美が泣き出した。
隣で座っていた妹の美鈴も咳払いをして黙していた。
そして水島は絵美に、
「絵美さん、貴女と白井さんが薪を拾いに行っていて、それで貴女がテントに戻った時、子供さんが居ない事に気が付いて白井に食って掛かったのでしょうか?
何故なら川下でテントを張っていた方が、『貴女が白井に口を尖らせて食って掛かっている様であった』と言って居ますが、一体何を言って居たのでしょうか?覚えていませんか?随分興奮していた様に見えた様ですよ。」
「其れは。それは・・・」
「どうしたのですか?言えないのですか??何を言ったか知りたいですね?覚えているでしょう。目くじらを立てて話した事ですから」
「其れは子供の事です。何故子供が居ないのかと聞いただけです。」
「口を尖らせてまるで喧嘩をしているように見えた様ですよ。子供さんが居なくなっていて、それで強く聞いたのですね?どうしたのって?龍志はって?」
「ええ、そうです。」
「其れから貴女は近くでテントを張っていた家族に子供が居ないと助けを求めた訳ですね?」
「そうです。」
「それから間もなく貴女の子供さんが川の中から見付かったのですね?」
「はい。」
「それで白井さんはどのようにしていましたか?」
「一緒に捜していました。」
「つまり貴女が白井さんに子供が居ないと食って掛かった時にあの人はどの様に言われたのですか?」
「判らないって言いました。でも私はそんな事無いでしょうってきつく言いましたが、でも焦って来てあの家族に縋る様に声を掛けました。
見当たらなかったから、だから健三がそれからどうしたのかはっきり覚えてないです。」
「幾ら嫌っていても邪魔に思う子であっても実は結構可愛いものでしょう。」
「勿論です。だから私必死に成って探しました。」
「殺したりしなかったのですね。」
「当たり前です。変な事言わないで下さい。これ以上こんな事が続くのなら私帰ります。」
山田絵美の心の内を知った検事の水島あきらは二日後白井健三を呼び寄せた。しぶしぶやって来た白井は横柄な態度で椅子に深く座って、両手をポケットに仕舞い俯いたままで検事水島の言葉を聞き始めた。
「白井さんありがとう御座います。実は今回の事件もさる事ながら、貴方と山田絵美さんと龍志君がキャンプに行かれて、龍志君が亡くなった事故についてお聞きしたいと思います。
それで山田絵美さんは龍志君の事を彼の生前はと言いますか、元彼と別れた時点から龍志君の事が嫌いに成った様ですが、貴方の場合はどうなのでしょうか実のところ?」
「どうって言われても俺は初めから子供の事など何とも思っていなかったよ。だからあの様な事が起こったからって動揺なんかしなかったよ。
態度が可笑しかったとか非常識であったとか言われるけど関係無いから、寧ろ絵美はあの子を嫌っていたからな。俺の顔色見てその様な態度をしたのか知らないけど、それで死んでからあいつしおらしく成ってさぁ」
「でもどちらかと言えば死んでくれれば良いと思った?」
「ああ、そうかも知れない。あんな餓鬼居ると面倒だから、する事も出来ないからな。検事さんそうだろう?」
「邪魔で殺したい位だった」
「そんな事は無いけど。しかし邪魔だった事は確か、其れは絵美だって同じだと思うよ。」
「白井さん、あの日の事を思い出して下さい。貴方と絵美さんが薪を集めに山へ行っていて、絵美さんがキャンプのテントの所へ帰って来た時、あの人が貴方に口を尖らせながら何か叫んでいた様ですね。其れって一体何を絵美さんが言って居たのですか?とても強い口調で言っていた様でしたから覚えているでしょう?言って置きますが絵美さんからも同じ事をお聞きしていますから慎重にお答えください。」
「・・・」
「白井さん。どうしたのですか?思い出せないのですか?」
「待って下さい。思い出すから」
「夜は何を食べようかと言う話でしたか?」
「まさか、馬鹿な!そんな事は無い」
「では何でしたか?しっかり思い出して下さい。」
「解からんわ」
「そんな事無いでしょう。絵美さんが口を尖らせて貴方に食いつくように言って居た筈です。二人の様子を見ていた方が居られたのですから」
「思い出せないな。」
「いや解かっているのに口にするとまずくなるからその様に言われるのでしょう?」
「・・・・」
「言って下さい」
「だから絵美が子供の事を知らないかと聞いただけだよ。貴方は何をしていたのよって」
「他には?」
「多分それだけ」
「それで貴方は?」
「知らないって言ったよ。だって知らないんだから」
「絵美さん他に何も言わなかったですか?随分興奮されていたようですから」
⑪
「何も言わないよ。それだけ言ったと思う。それであいつは急いで川下でキャンプを張っている家族の方に走って行ったのを覚えているな」
「では何故絵美さんが貴方に突っかかる様に言ったのですか?貴方が龍志君の面倒を見る約束を絵美さんとされていたのではないのですか?だから絵美さんは貴方に子供の管理を任せて山の上まで薪を集めに行っていたのではないのですか?」
「待ってよ、あんた俺に責任を負わせるなんて割りが合わないな。俺あの子に何の思いも無いから、絵美はそんな事俺にする訳無いだろう。変な解釈は困るなぁ全く」
「では子供さんが居なくなった前後の事をお聞きしますが貴方はどこに居ましたか?」
「山の裾で薪を探していました。」
「龍志君がテントから出て川に向かっていたのを全く見なかったのですか?」
「当たり前でしょう。」
「でも泣き声とか?」
「全く知らないです。」
「今言った事に間違いないのですね?」
「ええ、それにしても検事さん今更この様な事を聞いて何が関係あるのです。貴方は猪倉さんの事を調べているのでしょう?おかしいでしょう。過ぎた事ばかり言って」
「それなら貴方に言いますが、貴方は猪倉亜紀さんを何処で降ろして乱暴して、其れからどの様に成ったかをここで言ってくれれば良いのですよ。
この儘貴方を拘束して逮捕する事も可能ですから、その事を頭の隅に入れて置いて下さい。当然起訴に持ち込む事も可能ですから。裁判に成れば貴方は可成不利な状況証拠を覆さなければ成らないのですよ。
出来ますか?幾ら優秀な弁護士がついて居ても事実をひっくり返す事は来ませんから。今度は取り下げたりしませんから。
貴方はあの山道で猪倉亜紀さんに乱暴を働き、それからあの方をどうにかした事は状況証拠として十分考えられますから、貴方は其れが出鱈目で全く作り話であると言えるでしょうか?
何処に私が今言った事を覆す根拠があるでしょうか?亜紀さんがその後旅館に向かって歩いていたと言う証拠があるでしょうか?誰かが見ていたと言う証人を貴方は見つけられるでしょうか?言えるものなら言って下さい。貴方が何も言わないから貴方と山田絵美さんの過去を調べなければならないのです。
白井健三さん貴方と山田絵美さんの生き様や何もかもを」
「検事さん俺帰るから」
「帰りますか?この状態で・・・そうですか・・・」
「帰らせて頂きます。」
「そうですか、白井さんご苦労さんでした。決して雲隠れなどしないで下さい。又同じように成りますから・・・」
「指名手配だろう。解かっているよ。俺帰るから」
次話④に続きます。