ノーベル文学賞作家作品はつまらない?――自選 面白いノーベル文学賞作家作品
さて、本年度のノーベル文学賞は日系英国人作家、カズオ・イシグロが受賞しました。
私は彼の作品を一冊も読んでいません。というかこれまで何回か読もうとしたのですが、ほぼ1ページも読まないうちにつまらなくて挫折しています。もうあと数ページ我慢して読んでいたら、面白さがわかったかもしれませんが......みなさんはいかがでしょう。
ミクシーの書き込みをみると、今年もだめだったハルキストたちの恨み節からか、ノーベル文学賞はつまらない小説しか受賞できない、という珍説も飛び出しました。
確かにノーベル賞は政治的背景があり、作品が面白くても受賞できない作家や、つまらないけど受賞した作家もいるでしょう。
ただすべてのノーベル文学賞作家作品がつまらないわけではありません。以下、私が個人的に面白いと思っているノーベル文学賞作家作品を紹介します。
1. ニートの日記でノーベル賞?――サルトル『嘔吐』
1964年、史上初のノーベル文学賞受賞拒否という偉業(?)を成し遂げた、フランスの哲学者ジャンポール・サルトル。
彼の本業は哲学で、小説や不条理劇の戯曲はサイドビジネスなのかもしれませんが、小説の代表作『嘔吐』について言いたいことを述べます。
『嘔吐』という小説は、主人公、アントワーヌ・ロカンタンの日記という形式になっている。
ロカンタンは年齢三〇歳前後の独身男性。アパルトマンの一室に一人暮らし。職業は無職、自称伝記作家といったところ。
無職だと世間体が悪いので、隣近所には伝記作家と吹聴している。遺産相続で一生働かなくて生きていける貯金があり、生活費は実質、そこから出ている。
まったくのアマチュア作家というわけでなく、伝記を書いては出版社の知り合いの編集者に原稿を読んでもらい、ときどき買ってもらうこともあるようだが、今、書いている伝記は依頼原稿でなく、持ち込み用。毎日、調べものをすべく近所の図書館に通っては、アパルトマンにこもって原稿を書く。
ところがある日、子供たちが河原で石切りで遊んでいた。大人の自分が混ざろうとして石を持ち上げたところ、ニートである自分を自覚して鬱になる。あるいは吐き気に似た嫌な気持ちになる。この嫌な気持ちがタイトルの『嘔吐』なのだ。
いかがでしょう。主人公は今の時代で言えばニートまたはヒキニートといったところでしょう。
ただし、『嘔吐』はただの日記でなく、ロカンタン自身の心理分析が極端に緻密で普通の小説の心理描写を超え、哲学ないし現象学の論文の域にまで達していることに特徴があります。このへんが実存主義の哲学者、あるいは現象学者サルトルの面目躍如といったところでしょうか。
プルースト『失われた時を求めて』をサルトルは評価していますが、心理分析小説として、『失われた時を求めて』の読みやすい簡易版としてサルトルは『嘔吐』を執筆したのではないか、と個人的には考えてます。
つまりある意味、『失われた時を求めて』のラノベバージョンが『嘔吐』なのかもしれません。
サルトルのもう一つの傑作長編小説『自由への道』は他のエッセーに書いたので割愛します。
2. ヘミングウェイが短編作家だって知ってました?
ところで短編小説家というとどんな作家を思い浮かべますか?
海外ですとオー・ヘンリー、サキ、エドガー・アラン・ポー、モーパッサン、国内では芥川龍之介が有名でしょうか。
実はアーネスト・ヘミングウェイも私個人の評価ではプロパーの短編小説家なのです。
ヘミングウェイというと長編小説に多くの名作があるので、短編小説家と聞いて「?」の人も多いと思います。しかしニック・アダムズ・ストーリーズという短編のシリーズものもあり、短編こそ作家ヘミングウェイの本領発揮ジャンルだと思います。
短編はどれも面白く、はずれは少ないですが、一つ上げると『贈り物のカナリア』がお気に入りです。
おそらくヘミングウェイの作品で世間で一番よく読まれている『老人と海』は私的には駄作です。
長編『武器よさらば』はラストシーンが秀逸。また冒頭の河原の描写も圧巻です。
ヘミングウェイの作品の魅力は、松尾芭蕉の俳句のワビ、サビ、余韻に通じるものがあると思います。
一つ一つの文章は簡潔で、文章自体で読者の心を揺さぶるというのではなく、簡潔な文章を読み終わった後の余韻を味わう、という趣向です。
”ハードボイルド”という語はもともとヘミングウェイのこうした作風に対してつけられたようですが、今日、ハードボイルドと言えば、謎解きものではないミステリーのサブジャンルを指す言葉です。
アメリカンテイストのワビ、サビ、余韻。これがヘミングウェイ文学の魅力なのです。
3. 川端康成がショートショート作家だって知ってました?
川端康成は若い頃、星新一のように多くのショートショートを書いてました。星新一の純文学バージョンといったところでしょうか。もっとも川端がショートショート執筆当時は掌編小説という言葉を使っていましたが。
川端康成と言えば、短編『伊豆の踊子』、長編『雪国』が有名でしょうが、漱石、太宰、芥川、谷崎、三島といった近代日本文学の他の文豪たちと比較したとき、川端が彼らに勝てるものがあるとしたら、ショートショートしかないのでは(ノーベル賞受賞という実績を除いて)。
ショートショートでおすすめは『月』。
主人公は童貞の美青年で女たちから激モテ。おねえさんやおばさんたちから何度もエッチの誘いを受けながら、乙女ごころを持つ主人公は、かたくなに操を守り続けます。「そういう自分をかわいいと思います」といった風情の仰天のトンデモ童貞礼賛小説!
他の作家が同じストーリーで小説を書いたらキモい作品になるところが、川端の流麗な文体で美しい作品に仕上がっています。
記憶は曖昧ですが、やはり川端のショートショートで美少女の死体またはバラバラ殺人の死体を美しい文章で描写している作品があり、この作品が『伊豆の踊子』や『雪国』以上に、海外の研究者から瞠目されているとのこと。
死体を美しく描写――江戸川乱歩や谷崎が得意そうな分野ですが、彼らは妖艶なデカダンスの世界を描くのが得意なのに対し、川端が描くのはもっとあっさりした端麗な世界です。
このへんに川端のノーベル文学賞受賞作家としての実力があるのでしょうか。
4. ガルシア・マルケス『百年の孤独』は”ビックリマン”文学?
さて、次にご紹介するのはガルシア・マルケスの『百年の孤独』です。
これはストーリーを圧縮した小説。本来、10ページ程度で描写するストーリーを一行の文にまとめる、といったように、膨大なストーリーをできるだけ小さく圧縮している長編小説です。漬物のように圧縮したからこそ独特の味が出る、といった作品で、ストーリー濃縮還元100%小説ジュースといったところでしょうか。
『百年の孤独』は前衛小説でありながら、一般大衆受けする読みやすさが最大の魅力と言えます。
戦後フランス文学の方法論的実験を継承する80年代のラテン文学の前衛性が、文学にうるさい評論家連中から高く評価される一方、キャラクターが漫画チックあるいはアニメチックなので文学嫌いの素人にもとっつきやすい作品になっています。
個人的には『百年の孤独』はビックリマンのアニメを連想させます。
スーパーヒーローが登場して大活躍するというのではなく、プチヒーロー、プチヒロインが大量に登場してはそれぞれプチ活躍する、という感じです。
ビックリマンシールを集める楽しさが、こうしたキャラクター大量生産小説に通じるものがあります。
90年代、文学通を自認する私の知人たちがほぼ例外なく読んでいて、ほぼ例外なくほめていた作品が村上春樹の『ノルウェイの森』とガルシア・マルケスの『百年の孤独』。
時間がたてばたつほど評価の株が上がる小説でしょう。
『百年の孤独』の面白さは、テーマでもストーリーでもキャラクター描写でもなく、前衛文学的方法論。「ところで方法論って何?」という人たちが、『百年の孤独』を面白いと思うのですから、この作品のすごさがわかります。
5. 大江健三郎は中期作品が面白い?
大江健三郎が好きだと言う人はほぼ例外なく初期の作品を好みますが、私は個人的には中期の作品がお気に入りです。
具体的には『同時代ゲーム』と『「雨の木」を聴く女たち』の二作品がすごい。
『同時代ゲーム』は他のエッセーに書いたのでレインツリーについて述べます。
全体が五つの連作短編私小説で構成されています。一人称小説の私小説ですから、小説の書き手は作者の大江自身であり、大江が全編の主人公でもあるでしょう。
普通は第一の小説の続きが第二の小説ですが、レインツリーでは第一の小説の外側の世界が第二の小説、第二の小説のそのまた外側の世界が第三の小説になっていて、入れ子構造になっています。
第一の私小説が終わると、第二の私小説で読者から大江にクレームの手紙が届きます。
「あなたが書いた私小説に私が登場しますが、あの小説で書かれたほど、実際の私はバカな女ではありません」といった感じです。
第二の私小説がおわると同様に第三の小説の冒頭で「あの小説で書かれたほど私の彼氏はヘタレではありません」という手紙が大江に届きます(この後、大江は手紙を書いた女性に会ってホテルでベットインします)。
私小説を入れ子構造にすることで外側の世界へ移動するときにリアリティーが感じられます。また一つの思想やモラル、テーマが入れ子構造の外側の世界に移動すると、より客観的(あるいは弁証法的)に考察できます。
こうした効果を大江はレインツリーで表現したのではないかと思います。




