きゅう
まず朝顔の前に立つように、と桃香に言われ、紅はその通りにした。桃香に水をもらった朝顔の花も葉も、強い日差しの中だというのに堂々と胸を張っている。鮮やかな赤紫、青。マダラも一色も、混ざりあって壁を作っている。
「腕を出して」
「こう?」
紅が右腕を掌を上に向けて差し出したら、桃香がそこに絵筆を走らせた。あの時、くすぐったいかも、と言っていた理由がわかった。紅はそれほどくすぐったがりではないので、全然平気だったが、細い筆が自分の腕をゆっくり動きながら線を残していくのに、釘付けになった。
柄が古びているにもかかわらず、穂先は弾力があった。毛羽立つこともなく、抜け落ちることもない。一種の強靭さを保ち、紅をあちら側へ連れて行く、という確固たる意思が感じられる穂先だった。
桃香が描くのは今までに見たこともない植物だった。極彩色の花は一つの茎から出て、紅の腕全体を覆っていく。桃香は立ったりしゃがんだり、さまざまな角度から紅の腕を装飾していった。片腕をすっかり覆い尽くして、もう片方の腕に移る。
「これが、儀式?」
真剣な表情で筆を進めて行く桃香に紅は我慢して黙っていたけれど、描かれるだけの時間に暇を持て余し始めていた。最初こそ、何が始まるんだろうという、期待と不安で背筋が伸びる思いだったが、次第に心がだれてくる。なにせ、暑いのだ。日陰になるものがほとんどない。太陽に照らされる夏色の庭には、青年のような面持ちの草ばかりで、少しばかりの陰を作るのは朝顔と山茶花の垣根だった。
「儀式の中の一つではあるけれど、まだ本格的には始まっていない」
桃香の声が少し硬い。筆の動きには迷いがなく、これまでに桃香が積み上げた練習の成果が窺えた。紅の胸元はだいぶ前から汗ばんでいる。太ももの汗が溜まって、つぅっと流れていくのが分かった。汗はそのまま、何にも遮られずに、紅の膝裏の皺を通り過ぎていった。
段々と視界が白くぼやけてくる。それに反して、桃香が動かす筆の感触が次第に輪郭をハッキリさせてきた。不快ではないが、紛れもない異物感が、腕を通して体の芯、特に腹部に集まる気がした。時間にして三十分ほどだが、紅にはこの儀式がいつまで続くのか分からなかった。
両腕を植物の絵に覆われた時、紅には桃香の姿がうっすらとしか見ることができなかった。しかし、彼女の声は明瞭に耳に入ってくる。鼓膜を震わせる、桃香の呪文。この家の扉を開けた時『魔女の秘密の言葉』と言われた、あの音に似ている。
ももか、と呼びたいのに、紅の口からは声が出なかった。筆の感触は次第に鎖骨から胸の方に移ってくる。それが胸の頂に触れた時、紅は思わず顎を持ち上げて呻いた。
だいじょうぶよ、紅。わたしをしんじて。
桃香の呪文が途切れないのに、声が二重になって紅を励ました。