なな
最後のボタンまで留めて、紅は庭に裸足で降りた。待っていてね、と言われたのに、素肌にノースリーブのワンピース一枚だけになって、座敷にいるのが心細くなったのだ。下草の生えた前庭は、夏に暖められていた。足裏で踏みしめる柔らかな雑草、足跡が香る。
紅はあたりを見回して、桃香、と小さく呼びかけてみた。蝉の声と一緒に庭に溶け落ちる紅の声。しばらく待ってみても返事はない。背よりも高い垣根。その硬い葉は山茶花だった。花の季節には間がある。垣根の後ろを覗き込んだら、細い通路になっていた。濃い緑色の道が曲がり角になって、まだまだ続いているようだった。
紅は少し不思議に思った。誰も住んでいない家の植木が、夏だというのに刈りそろえたばかりのようだった。そういえば下草も、丈は紅のくるぶしを覆うくらいの伸びで抑えられている。
もしかして、誰かいるの?
その想像で途端怖くなって、紅の足の進みが速まる。垣根が作る緑の道は曲がりくねりながら、どこまでも続いて、さながら迷路のようだった。
「桃香、桃香。どこにいるの」
五度目の曲がり角に来て、紅は後ろを振り返った。桃香も見当たらないし、このままだと座敷にも戻れないのではないかと、焦りを感じた。ワンピースの下に何も付けていないことなど、とうに忘れ去っていた。後ろには前の曲がり角が見えているだけ。
戻るか進むか考えた挙句、紅は桃香を探して先を急ごうとした。その時だった。
不意に冷たい風が、垣根の隙間から紅の首筋を撫ぜた。人の手かと紛うほどの細くたおやかな感触だった。それに押されるようにして、紅は走った。
紅の後ろから、何かが付いてくる気配がする。紅との距離を一定に保ったまま、足音もさせず、ひたひたと追ってくる。気にしすぎ、と紅は自分を叱咤した。時折冷たい風が紅を撫でてゆく。どこかで水を撒いているに違いない、だから風が冷たいんだ。強がりながら、紅は走った。
突然、蝉の鳴き声に白黒のノイズのような音がかぶさって、紅はそれがホースから出る水の音だとわかった。本当に近いところで水音がする。
この垣根の裏側。
紅が飛び出すと、そこは今までの細い迷路が嘘のように、開けた場所だった。朝顔に水やりをしている桃香は、まだ紅に気づいていない。ホースから出る水に小さな虹ができている。
朝顔は境界にずらりと並んで、青竹の支柱に巻きつきながら高く高く伸びていた。少し離れた地面の上に、鮮やかな緑で染め抜かれた大判の風呂敷を広がって、そこでは蔵から出された箱がお行儀よく座っている。
「桃香!」
息が切れるほど走った紅は、桃香に抱きついた。背中に感じていた気配は、もうなくなっていた。
「紅。まっててって言ったのに。ここは悪戯好きも多いから」
桃香が振り返る。
「一人は嫌だったの」
真剣に言う紅に、桃香が薄らと笑んだ。そしてホースの水を止めて、紅をじっと見つめた。しっかりとしたワンピースの生地は全然透けていないのに、桃香に見られると全部見透かされているようで、紅はもじもじとしてしまう。
「本当に、心細かったんだから」
恥ずかしいのを隠したくて頬を膨らませて言えば、桃香は紅の鎖骨をなぞりながら、彼女の目を覗き込んだ。紅の黒い目には桃香が映り込んでいる。
「ちゃんと準備ができてる、嬉しい」
桃香の目が細まる。庭の朝顔からは、水が滴っていた。