じゅう
紅は、自分が今自立できているのか、座り込んでいるのかも分からなかった。筆が身体のあちこちを走る感覚がもどかしい。桃香の姿も見えなくて、彼女の歌に似た不思議な声が鼓膜を震わせる。閉じそうな瞼をこじ開けて自分の体を見れば、腕に描かれていた植物が、胸元から段々と腹部へ向かっている。
ももか、と再度呼ぼうとした紅の口は半開きになって、涎が溢れた。涎は紅の足元にぽたぽたと落ちた。紅が見ている前で、地面が波紋を作る。涎が溢れるたびに、同心円が庭に広がっていく。
紅を埋め尽くさんとする極彩色の植物は、彼女の恥丘を超えて太ももまで達した。紅の輪郭は、今や桃香が描く植物に浮き上がらされている。肢体を覆う皮膚はあと少ししか残っていない。この世に存在する拠り所が、描かれた植物。美しく毒々しく咲く花は満開で、紅が腕を動かせば花弁が容易に散ってしまいそうなくらい。この後散るしかないものは、美しさの裏に悲しみがある。
爪先まで植物に変えられた紅の前に桃香の声が響いた。
ーーあと少しだから。
筆が紅の顔をなぞり始めた。額から目の周り、鼻、口、顎、それから耳も。涎はこの完璧な瞬間を台無しにしていないだろうか。紅は、植物の瞼をパチパチと動かした。相変わらずぽたぽたと落ちる涎が、自分の足元に水をやっている気がする。地面についた足がカラカラに乾いた喉を癒そうと、必死で土から水を吸い上げている。
桃香に作り替えられた体は、もう動かなかった。極彩色の花を植え付けられた裸体が太陽に照らされている。
ーー紅、綺麗よ。
うっとりとした声が聞こえた。私はどうなってしまうの、と紅は桃香に心で問いかける。桃香、このままここに生えているのは辛いの。地面に根を張ってしまった足を、紅は視線だけで見ようとした。しかし、見えなかった。その代わりに、根から吸い上げた水が体を巡って干からびそうな細胞に届いているのは分かった。
桃香が再度呪文を歌う。その歌に合わせて、紅の背後にいた朝顔たちがしゅるしゅると紅に蔓を伸ばして巻きつき、紅の体を支え始めた。そうしたら、紅の体に描かれた花たちが皮膚を突き破った。体のあちこちで本物の花が咲く。紅の血管が花に繋がっている。
ーーももか、こわい。
次々に実態を伴っていく美しい花に、紅が怯えた様子だった。
ーー私を信じて。
声だけが紅に寄り添う。
ーーどこにいるの、ももか。不安なの。私このまま、植物になってしまうの?
ーーそうよ。でも怖がることはないわ。だって私もこうやって産まれたから。
紅の精神が、植物に成り果てた自分の体だったものの中で泣いている。すでに、紅はどこにもいなくなっていた。極彩色の花を見つめながら、これはもう自分ではない、と思った。桃香が好きだと言っていたのは、こうなる自分を見るためだったのだろうか。
ーー紅、怒ってる?
ーーわからない。でももう、私は元には戻れないんだよね。
ーーいいえ、戻る必要などないの。あなたは新しくなる。
紅の体で開花した花が、だんだんと萎れていく。巻きついた朝顔がまだ美しいままだというのに、紅の体は醜く茶色になる。その中の一輪に種ができていた。
ーーさあ、紅。この中に入って。
桃香に促されるまま、紅は黒く丸い種の中に滑り込んだ。種の中はふかふかしていて心地よかった。紅はその中で、ひっそりと眠りについたのだった。