1-22始まり
物語は始まります。
二人の人生がまた新しく始まります。
始まり
鈴虫のなく夜。八月も中ごろになったこの日。まだまだ準備中の俺たちはともに書き物をしている。
いろいろと必要なものがあることを知って、正直驚きと後悔がないとは嘘つけない。
この部屋のすぐ外には大きな樹がある。それで蝉がうるさいこともあったが、今日はむしろ鈴虫の心地いい声が聞こえる。
お盆休みを利用して二人で作業する。俺は少し息をつきながらの作業だが、アカネは黙々と進める。普段俺が仕事でいない間にもやってくれているというのに。
アカネには頭が上がらない。
俺に心配かけないように黙っていろいろなことをしてくれる。おかげで突拍子もない俺の決断も現実的なことになっている。きっと俺にはもったいない女なのだろう。だからといって、手放す気はさらさらないがな。
「なー」
俺がちょっと休憩している間に時間が来たようだ。
なーこがその合図をくれる。
十一時を回るとなーこに教えるように言っていた。それを待って、アカネも深く息をつき、ものを片す。
さぁ、寝よう。もう明日にしよう。
あ、そういえば言ってなかったが。
今はアカネも家に暮らしている。ふふん、いいだろう。
眠れるまで少し、思い返そう。
7月8日。俺は再び病院にいた。
「おぉ、俺、これで大丈夫かな…」
「うん。大丈夫だよ。まぁ、一発二発は覚悟しないとね」
「お腹痛いから明日にしたいんだけど…」
「別にいいけど、その分お父さんは回復して強くなるよ?」
「…、いいわ。行こうか」
アカネのお父さんとお母さんが入院している病院に俺たちはいた。
7月7日に、俺たちはここへきて、プロポーズらしきものをした。そして準備を整えてまた来なさいというお母さんの言葉に従い、俺は外へ出た。
まさか、その日に戻ると思っていたが翌日になったのは、完全に俺の無知が原因。
即日で指輪がもらえないとは。アカネには「その日にもらえるわけないじゃない。むしろ一日でもらえたのがすごいことだよ」といわれた。
なので、翌日また病院に来ることが決まり、家においてあるクリーニング帰りのスーツを着てくることにした。
病室の前、俺だけが一人かしこまった格好で焦っている。アカネはずっと前から平常だ。そんなものなのだろうか。
そういえば、昨日目を覚ましたお父さんだが、今日はすでにICUを出て一般病棟に移ったらしい。とんだ化け物だ。確かにもう数日かけて回復したら、俺、殺されるかもしれない。お父さんはお母さんとアカネを愛しているというしな。
準備はできている。
覚悟もできている。
俺はアカネと手をつないでその病室の扉を開けた。
「いや、ちょっと待って。もうちょっと」
手をかけて、扉を引くところでストップする。後ろでアカネのため息が聞こえる。お願いチキンと呼ばないで。違うんだ。とってに汗が付いているんじゃない。これはあれだ。さっきつけたアルコール除菌がつけすぎているだけだ。
ちらっと開けて閉めたことで、少し中の様子が見えた。比喩ではない。鬼が見えた。
「アカネ。ちょっと背中さすってくれるか」
「はいはい」
俺は左手をアカネとつないでいたが、アカネはその手を放して背中をさすってくれる。ああ、落ち着く。止まりかけた心臓がまたゆっくり鼓動を戻してくれる。
その時というときほど、扉が開く。出てきたのはお母さんだったが、俺の心臓は凍りかけた。
「二人ともいらっしゃい。どうぞ」
「はい。失礼します」
後について、部屋に入ると、ベッドにお父さんがいる。こちらを睨んでいるといってもいいのかな。
お母さんはそのままお父さんの後ろの椅子に座る。俺はというと、通された扉も自分で閉められないで、ただ生唾だけ飲んでいた。
お父さんの第一印象はそうだな。事前に聞いていたとおり。
アカネから仕事は聞いている。そう警察官だ。
いかにも強そうな体格で、まるでテレビでよくある犯人を追いつめるような顔をしている。身長は高い。ベッドはかなり大きいはずなのに、ぎりぎりのところだ。短髪で、首も太く、二の腕なんかを見ると筋肉がすごくてその腕は軽く俺の首をへし折れそうだ。
そんな人が俺のことを睨みつけているんだ。ちびりそうだよ。
「名前は」
イメージより低い声でお父さんは尋ねる。
「あ、ハヤトです」
それで話は終わる。
俺はずっと、立ったまま。そういえば昨日お母さんの所でもこうだった。
俺は存外人見知り。
そういえば、アカネもお母さんも口を開かない。こういう場だからか。よくわからない。
「あ、あの、お父さん」
「あぁ!?」
「すみません…」
怒り方がアカネにそっくりだ。
おこなの?
あ、冗談です。
ネクタイが苦しい。いや、違う。のどが渇いているんだ。汗はかいてばかりだが、補給ができていない。言葉もうまく出そうにない。
そういえば、アカネはどんな様子だろう。そこまで気が回らなかった。
そうして意識をそっちに向けると、一歩下がったところでおとなしくしている。でも、見えている。
手を前で組んで、左手を前にして。
指輪が見えるようにしている。
それを見た俺は少し自信が戻る。
「なんだ」
「え?」
お父さんは言う。
「話があるんだろう」と続けた。
「アカネさんのことで話があります。聞いてください」
「…」
お父さんはしっかりと俺を見据える。初めからそうだ。一度もそらさない。
これが親というもの。親父というもの。
「昨日、お母さんにも話しました。こんな状況でする話ではないかもしれませんが、私は今伝えたい。
お父さん。アカネさんと結婚させてください」
「断る」
ここで初めて、お父さんは目をそらす。というより、うつむいた。声も張っていなかった。そのため、俺も圧倒されることはなく、断るといわれても依然、お父さんから目をそらすことはなかった。
俺はお父さんの言葉を待つ。
きっと、俺たちが来る前からお母さんからなんとなくことは伝わっていたんだと思う。
俺の言葉も予想できていた。そう思う。
だから俺は待つ。きっとまだゆっくり考える時間がいるはず。
経験も何もかもお父さんに比べれば幼い俺が、何を言っているんだと思うだろうが、そんな俺でもわかるんだ。今は黙って待つべきだと。
だから待つんだ。
「こういう時、私は娘についてこれまでの人生を語ったりするものだろうが、それを好かん。たかが数年、一緒にいたくらいで、私がこれまで一緒にいたアカネとの日々をわかった気になっても困る。むしろ許さん。だが、君が…、ハヤトくんがそういう人じゃないことはお母さんから聞いて知っている。
君がアカネを幸せにしますとか、そんなことを言っても親の立場から信じられるわけがない。何を言っているのかわからないかもしれないが、理屈じゃない。
君はまだ、結婚させてくださいとしか私に言っていないな。それはなぜだ。私に遠慮しているのか?きっとそうだろう。こんな風貌の私だ。大抵の人は委縮させてしまう。だがそれだけじゃないだろう。ハヤトくん、君は言葉じゃない。理屈じゃない。説明しろといってもできないだろうが、説明してくれ」
お父さんの言葉はしっかり受け止めた。言葉としてじゃない。言葉では伝わらない何かを俺は受け取った。何を言っているのかわからない。だけど、何を訴えかけているのかわかった。
俺も思ったことを訴える。
「俺は今日、ここに殴られに来ました」
きっと男にしかわからない。会話。心の会話。
お父さんはその言葉を聞いて、初めてベッドから降りる。目測で俺より二十センチくらい高い。
俺の前に立ち、何も言わずに一発。平手打。
痛くない。痛みじゃない、いろんなものが込められていると感じた。
ごつごつと俺の何倍も厳しい人生を進んできた手は、重かった。
「私が何を言おうが、君はアカネを連れていくんだろ」
「…そうです」
俺の前に立っていたが、後ろを振り返り、お母さんと顔を合わせている。
「アカネ、こっちにおいで」
お父さんが呼んで、アカネは二人の間に行く。アカネが左手の指輪を二人に見せているのが見える。この辺りは俺が立ち入れない、家族の空間。
そして、お父さんが言う。
「アカネをやることはできない。私の娘だからな。だが、アカネのために幸せにしてやることは許してやる。だから、結婚してもいいぞ。それがアカネの幸せになるのならな」
その言葉を聞いて、俺はほっとする。アカネとお母さんはくすくす笑っている。
俺は結婚を許された。これでやっと、俺とアカネは始まりを迎えられる。俺はそう思った。
そうして油断したところに、お父さんはもう一発平手打を俺に浴びせた。今度はただただ痛いばかり。
「さっきのは親としての一発。今度のは私個人としての一発だ。悪く思うなよ。君が言ったんだ。殴られに来たとな」
このお父さん、つい昨日まで意識がなかったというのに、本当に化け物だ。
「お父さん」
ここで、俺はさらに一発くらった。
「君にお父さんと呼ばれるのは好かん」
この人はそう、警察官とは思えない理不尽さを持っている。俺はそう思った。
「ハヤト、まだ起きてるの?」
「おお、ごめん。もう寝るから」
7月8日はいろいろあった。そのあとのお父さんとお母さんは止まることなく、それは決壊したダムのように言葉が流れ出していた。
明日も早い。もう寝よう。明日はそうだ。もう一つの大事な挨拶。
俺の実家に帰ろうか。
眠くなってきた。もう寝よう。
お休み
ふふふ、殴られてやんの(笑)




