閑話 1
「……殿下。シャルル殿下」
フランソワ?
迷路となった庭園の通路を、何者かが足早に近づいてくる。
「やはり、こちらにおられましたか? シャルル殿下」
…………やっぱり。あなたか、叔父上。
今は宰相となっている王妃である母上の弟、グレアム侯爵が休憩のためにおかれたベンチで寝こけていた俺を迎えにきたのだ。
まだ若いな、グレアム侯……。
俺、このとき、十歳くらいか?
兄上たちの巨大生垣迷路遊びにつきあうのも、最近はだんだかもうばかばかしくなってきて、つい居眠りをしてしまった。
せっかく、フランソワと二人きりでいる夢をみていたのに。貴重なんだぞ。あそこの兄弟は、俺の夢にまでしゃしゃり出てくるんだ。
珍しく、二人きりだったのに……。
とりあえず、迎えがくるまでの時間をつぶすために地面に書いてた落書きを消さなくちゃ。今まで頭のなかで考えてるだけだったけど、こうやって書き出してみると想像がどんどんふくらんで、面白くなって夢中でけっこういっぱい書きすぎてしまった。通路の地面いっぱいつかってつごう何百メートル、……だろう? ――――これは、さすがに庭師に悪い気がする。
……と思って消しはじめてはみたものの、けっこう書くだけで体力つかってたみたい。きれいに消すのは、さらに大変だ。それに消すのが、なんだかもったいなくて。
ながめていると楽しいことが具体的に頭のなかにいくらでも浮かび上がってきて、空想の世界の幸せな気分に浸ってしまってうとうとしてしまった。
「これで、詰みました。王子様がたの包囲網はほぼ完成です。ご協力に感謝します、ダニエル子爵。そして、これからもよろしくお願いします」
窓から差し込む西陽のいたずらか、柔和に微笑むグレアム宰相の顔に落ちる影が酷薄な表情を見せている。
シャルル殿下に似た面差しも、今はまったくベツモノに見えるな。
内心でそんなことを思いつつ、王宮の宰相の執務机の前で、フランソワの長兄、ダニエル子爵は頭をたれた。
「恐縮です。宰相閣下」
「あとは、シャルル殿下がお目覚めになれば。想像していた以上の成果です」
宰相はいつになく上機嫌だ。今なら、問題はないかもしれない。
「その。訊いてもよろしいでしょうか?」
「どうぞ」
「包囲網とは? 閣下の先ほどの仰りようでは、シャルル殿下も含まれているように聞こえますが」
ダニエル子爵は、まずはもっともな質問から切りだした。
「もちろんです! むしろ逃亡願望の強いシャルル殿下を追い込むための今回の作戦でした」
「……はぁ」
……逃亡願望? どちらかといえば、追っかけ願望じゃないのか? ふと浮かんだ考えは、ひとまず封印する。
「なにしろシャルル殿下は幼い時分から、第三王子というお立場にそれはもう異様なまでに執着しておられましたから。その理由はおわかりでしょう? 子爵ならとうぜん」
…………それは、もう。
「…………フランソワ、ですか?」
「いかにも! 失礼ながら小さいころのフランソワ嬢は、ほんとうにお体が弱くていらっしゃった。それでシャルル殿下は幼いながらに一計を案じたのです。たぶんその頃すでに殿下のお耳にもはいっていたのでしょう。出来のイマイチな上の王子様たちではなく、シャルル殿下をお世継ぎに、とせっかちな貴族たちの噂話が」
子爵は、宰相の目にもはっきりとわかるように顔をしかめてみせた。
つまりは、「病弱なフランソワのために、シャルル殿下は未来の王の座をなげうとうとしておられる」――――と宰相は言っているのだ。
ここはちゃんとアピールしておかねば。
我らとて、体の弱い女性に王妃という大役が務まる、などと思ってはおらぬ。
なればこそ、殿下にフランソワを諦めさせようと、もうずいぶん前からさんざん横やりをいれまくってきたのだ。それでもなお、いっこうに諦めない殿下のしつこさには。……おっと、いかん。つい空想のなかとはいえ殿下を殴り飛ばしてしまった。
「シャルル殿下は凡庸な王子の姿をよそおってこられましたが、わたしの目はごまかせません。王子として、そして次代の国王として稀に見る資質を持っておられる。ただひとつ、唯一にして最大の欠陥をのぞいて」
あのやたら綺羅きらしい見た目に加えてすきのない身のこなし、服装選びのセンスも抜群で、社交の場で見かけるシャルルは完璧な貴公子の姿そのものだった。あれで凡庸を装ってた、って、あとは会話の内容か? 上の王子二人にくらべて、そういえば彼の美貌以外で特に話題にもならないということは、可もなく不可もない受け答えに終始してた、ってことなのか。
そしてやたら大袈裟に祭り上げられた欠陥について心当たりのありすぎるフランソワの長兄は、痛みはじめた頭をおさえ宰相の言葉を待った。
「シャルル殿下の行動原理が、――――「だれにも邪魔されないところでフランソワ嬢とのんびり過ごしたい」にはじまり、……そこで終わってるところです」
――――やっぱ、殴っておいて正解だったわ。
「わたしが殿下の秘めた願望に気づくきっかけとなったのは、殿下の落書きです」
こめかみを押さえる子爵をしり目に、宰相はたんたんと話をすすめる。
「普通に見ただけでは、十歳の子供が通路の幅いっぱいにびっしりと書きなぐった、なんら意味をなさないデタラメな絵の落書きでした。ですが、てんでんばらばらに描かれたそれらの絵の向きを変えて、正しく方角と縮尺をあわせてつなぎ合わせれば、何枚もの長大な地図ができあがることに気付いたのです」
「……ほう」
うすうす気づいてはおりましたが、これはまた類い稀で厄介な才能をおもちですな。
「地図には目的地、東の最果ての地ですが、そこへ至るまでの詳細なルートが描かれていました。途中通過する国の地図には主要な街道と河川が描きこまれ、地形の問題や紛争などで通過困難とみられている地帯には×印。この当時、最も安全に旅行できると考えられていたルートの他に、……風光明媚なところや観光名所を網羅した、「愛の逃避行ルート」もございました」
「…………の、逃避行?」
すべてを言葉にするのは、わたしの美意識が拒否したぞ。
なんだ? そのこっぱずかしい、ルート名は?
「はい。あちこちに細かく走り書きされていたメモをつぶさに検討した結果、各地の一番いい季節にその地を訪れることができるよう、あと同じ場所に二日以上とどまらないように、などなど、感心を通り越していっそ呆れてしまうくらい様々に計算されておりました。後者は、明らかに追手を意識してのものでしょう」
「…………つぶさに検討って。殿下の落書きを保存して解読していたように聞こえるのですが」
「まんま、その通りですよ。わたしでさえ、どうも地図らしいとは一目でわかりましたが、全貌をつきとめるまでに半日かかりました。並の者では地図であることさえ気づかずに消してしまったことでしょう。そのうえで殿下の心情をわたしなりに解釈し、もっとも適切と思われる言葉を選んで命名させていただきました」
今、なにげに自慢されましたな? 宰相閣下。
他の者にはできないだろう? って。
わたしとてそれくらいは、……ここは張り合うところじゃないな。だが。
「……あんがいヒマですな。宰相閣下」
――このくらいは言わせてもらう。
「とんでもない。コトは深刻でした。幸い当時の殿下はどんなに緻密に調べ上げ計画を練り上げようとも、夢想するしかできない子供でしたけれど、これでそれを実行に移すことのできる力を身に着けてしまわれたアカツキには? と、想像するだけで、ゾッとしましたよ」
「殿下はそんなにご旅行好きでしたか? たしかに妹のいる保養地には何度も足をお運びいただきましたが」
「しらばっくれないでください。理由は明白でしょう? 殿下おひとりでは、「愛の逃避行」はできませんからね」
…………。
「けっこう気に入ってらっしゃるんですね? そのネーミング」
「「愛の逃避行」も国王の身分ではまずもって実現不可能ですが、第一王子が立体子されれば、いるだけで絵になるけど大して役にはたたない第三王子の有効活用法として外交に名を借りた国外脱出も夢ではなくなるかもしれませんからね。上の王子様がたも、できれば殿下が国内にいないほうがなにかと気は楽でしょうし、後押しするかもしれません。身の安全をはかるなら、自国の王宮より友好関係にある他国でってのもあながち悪くはありませんが、それを逆手にとって姿をくらますことも考えられなくもないのです。目的地がかの地だとして、たしかに一万キロの彼方までは、あなたもあなたのご家族も、そうおいそれと邪魔しに出かけていくこともできないでしょうからね」
おいおい。……いささか仮説が、飛躍しすぎてないか?
「……その口ぶりだと、不可能ではない、と言っているように聞こえます」
「実際そうでしょう? あなたがたが本気になりさえすれば。そして我々は、殿下にも、あなたがたにも、そんなことに本気になられても困るんです!」
「そんなことに」とはなんたる言いぐさか。ここはひとつビシッと言っておかねばなるまい。
殿下だけでなく我ら一族も、フランソワを軽んじるのは許さない、というところを、この宰相閣下に知らしめておく必要がある。
「そうするだけの価値がある、と思うから、本気になるのです。そんなこと、と一概に切り捨ててもらいたくはありません」
「……平行線ですね。……まぁ、そんなわけで。わたしも殿下のエネルギーの方向性を変えるにはどうしたらいいか、ずいぶん考えましたよ」
「そうでしょうな」
……それができていれば、我らもフランソワを危険に巻き込むこんな作戦の指揮を引き受けたりはしなかった。
ぎりぎりまで殿下を助けなかったのは、――――確実に賊の身柄を確保するために必要な時間を稼ぐためであった、……ことだけは断っておく。
……二人きりでどこか遠くへ行きたい……。誰にもじゃまされないどこか遠くで。それで二人でずっと一緒に過ごすんだ。
――――シャルル殿下は、まだ夢のなかである。