贈り物 ~レムの屋敷~
フランソワはエメラルドのつぶらな瞳を、さらに大きく見開いた。
今しがた自室に届いたばかりだという、父からの贈り物。
父は長兄を連れて、四月の終わりにレムを訪れていた王子たち一行にさきがけて、急に旅立っていったのだが……。
これまでも父は旅先から当地で選り抜いたと思しき品々を、最愛の娘に送ってよこしてきた。
むろん、妻であるカトリーヌや兄たちにも。
そのたび――いくらなんでも差がありすぎなんじゃないの……と三兄などはこぼしていたものだ。
だがこれは――ここ最近のそれは、これまでとは明らかにスケールが違う。
しかも父だけでなく長兄からも届いていて、頻繁に送られてくるそれらの物資でフランソワの部屋はあふれかえっている有様だ。
フランソワ宛に届く手紙や贈り物は――まだ五歳の幼女に家族以外で送ってくる人物なぞひとりしかいなかったが――王姉であるカトリーヌの厳しい目で選別される。いっぽう家族からの贈り物は、直接フランソワの部屋へと運びこまれる。
シャルルたちはともかく、あまりそうした類のことに関して気がきいているとはいえない父からの贈り物には、フランソワはもちろん侍女のエマも困惑するものが少なからず混じっている。
――高価そうではあるけれど……どうしたらよいのか? と。
それでもはじめのうちは女性への贈り物として――たとえば香木などは現在ははっきりいって持て余しているものの――将来はフランソワももっと興味を示すかも……といったものが半ばくらいを占めていた。
しかし――今はそれでは気がすまないのか、伯爵からの贈り物はどんどんエスカレートしていく一方である。
「……みごとな絨毯ですわね」
エマはあえて口にだすのを控えたが、それはサグレー産のシルクと羊毛で織られた最高級の絨毯であった。手狭となった部屋に三分の二ほどが広げられ、同じく最高級だがやや風情の異なる色柄の総シルク織りの壁掛けも、こちらはサイズ違いのものが二枚卓の上に並べられている。
非常に手のこんだつくりで、色彩も豊かなら緻密に織り出されている柄の種類もじつに多彩で、カトリーヌの領主館にもこれほどのものはない。
いずれの品も隙間なくうめつくされた精緻な紋様のなかに、「神」や「生命」を象徴する薔薇や松毬などの植物や動物を見出すことができる。
以前エマは領主館で、侍従からそう教わったたことがあった。
――サグレーはつい先ごろ、イシュワンとの戦に負けたばかりである。
その点を差しひくとどうなのだろう……という疑問が、見る方向によって色彩を変えていく異国の品を見つめるエマの脳裏をかすめる。
――フランソワを溺愛している伯爵からしてみれば、ふさぎがちなフランソワの関心をすこしでもあの事件からそらすことができるならば――と必死に心を砕いた結果が、これなのだろう。
それだけ――今回の事件は伯爵にとっても衝撃だったに違いない。こんな事件がおきたというのに、伯爵は任地にいて動くことができない。自分が傍にいて守ってやることができないという現実が、相当に堪えているだろうことは容易に想像がつく。
これだけ大きいものになるとさすがにカトリーヌもスルーというわけにはいかなかったであろうし、この部屋に届けられたのであるなら……と、エマは目をつむることにした。
しかも、驚いたことには――フランソワはこの贈り物が気に入ったようだった。
あの事件以来どんな贈り物を前にしても、どこか心ここにあらずな笑みを浮かべるだけだったフランソワが――椅子をおりて、絨毯の際にしゃがみこみ、しげしげと見入っている。
……この模様は、どこかで見たことがあるような気がした。
それも――とても甘やかな記憶とむすびついている……。
なかでも、ひときわ目をひいた紅い薔薇の紋様。薔薇は、およそひとの手になるとは思えぬほどの精密さで構成された一枚の幻想的な世界に無数に浮かんでいる。
――そのうちのひとつに、フランソワはそっと指でふれてみた。
羽毛のようにしっとりとなめらかな繊維の感触が、指の腹から伝わってくる。
細密に織りこまれた繊維は、フランソワの指を生き物のように押し戻してきた。さらに押すと、フランソワのふれた部分から流れるように靡いて表情を変えていく。
フランソワの心に、ひとつの小さな波紋がおきる。それは……音も無く微かに。
――なにかが。
紋様をなぞっていた、フランソワの指がとまる。
ゆっくりと広がった波紋は、果てのない靄のなかを虚しく広がって消えていくばかり。
……なんだろう?
フランソワの疑問に呼応するかのようにまた……波紋が再生まれる。
なにかがひっかかっているのに……思い出せそうで、出てこない。
絨毯に見入ったまま、フランソワが動かなくなってしまった。
その様子に、エマは五歳の子供にあまりふさわしいとも思えないこの絨毯がよほど気に入ったのかと、戸惑いを覚えつつも声をかける。
「……こちらは、しばらくこのままに致しましょうか?」
するとエマの小さな女主人はこくりと頷いた。その間も視線は絨毯に釘付けのまま。エマのほうをちらりとも見ようとしない。
――集中しすぎると他者が目にはいらなくなる。悪いとは一概に言えないが、それも時と場合による。エマとカトリーヌがいずれなおさなくては、と考えているフランソワの困った癖。
しかしエマは正直なところ、ほっとしていた。
あれ以来、その癖も――すっかり影をひそめていたのだ。
そうしてまた、じぃっと見入っている。
今日はもうフランソワの気がすむまで、絨毯はこのままにしておくほかないだろう。
この絨毯を部屋に敷くには家具の配置もいろいろと動かさなければならないし、そうなるとカトリーヌの意見も当然きいたうえでなければならない。
エマはこの場をほかの侍女たちにまかせて、いったんはこの部屋に持ち込まれすぐさま厨房へと運ばれた長兄のもうひとつの贈り物の準備ができたかを見に、続き部屋へと入っていった。
……よくよく見ていると……ほかの花に見えなくもない。
中心の円をとりまく卵形の花弁は五枚。それを三日月形の花弁がとりかこむようにならび放射状に広がっていく。――ありのままにではなく、一種類の花をすべて同じ意匠で表現した花は、見ようによってはアネモネにも、ほかの花弁の多い花にも似ているような気がする。
――フランソワは目にした途端、これを薔薇だと思った。
……新たな波紋が、先にできた波紋に追いつき重なる。
「――フランソワ様、シャルル様からの贈り物にございます」
甘い香りが部屋にただよってきた。すぐにこうばしい匂いが追いついてきて、フランソワの鼻腔をくすぐる。
焼きあがったばかりの菓子と茶器を手際よくテーブルにに並べながら、エマは続けた。
「今朝届いた南国のドライフルーツをつかったお菓子でございます。シャルル様からそのようにしてさしあげるように、とのお指図がございましたので……」
――またひとつ、波紋が生まれる。
一心に絨毯に向けられていたフランソワの大きな瞳が、エマに向けられる。
いや。――エマの手もと、甘い芳香を放つ焼き菓子へと。
「これはなかなかこちらでは手にはいりませんものね。――どんなお味なのか……お茶をおいれいたしますので、焼きたてをさっそくお召しあがりになってくださいな」
どんな……味か?
それまでの執着がまるでうそのように、フランソワはあっさりと絨毯から離れた。香りに引き寄せられるようにテーブルについたフランソワは、エマが焼き菓子をとりわけてくれる様子をまじまじと見つめる。
お菓子の上のドライフルーツは、南国の太陽の光を凝縮したような色をしていた。
フルーツは花のかたちに切りそろえられ、生地は小さな子供でも食べやすいように丸く小さく焼いてあった。
このお菓子……以前にも……。
――たなびき薄くなった靄の向こうに、おぼろげに透けてみえているのは……。
蓋のついた壷からとりわけてくれて……。
――この次までに調べておきます。
このお菓子のはいっていた壷。……そこに描かれていた模様。
――サービス過剰の王子様は、フランソワがなにげなく視線をやった先にあるものを目ざとく見つけては、尋ねもしないのにそれにまつわるお話を聞かせてくれた。
それは、遠い国のとても有名な産地の壷だと教えてくれた。フランソワがなかでも鮮やかな紅い花はなにかと訊いたら、王子様のかたちのよい唇が開きかけてとまった。
それから……一月くらいがたった頃、王子様から手紙が届いた。
喜びいさんで開いた手紙は、フランソワがまだ習っていない言葉や言い回しが多くて、絵本を読むより大変で……母にお願いして読んでもらった。
――あの壷の紅い花は「薔薇」の花でした。
もちろんその前後には、王子がそれをどのように調べたか、どういう意味があるものなのか――認めてあったのだが、フランソワの心に響いたのはこの一文と、王子の労作を読み終えた母のこの言葉だけ。
……とにかく。――王子様はフランソワと過ごした時間がとても楽しかったそうよ。
絨毯と壷。そこに描きだされた紅い花はそっくり同じではないけれど……異国の情趣にあふれ、雰囲気がとても似ている。
……どんな、味か?
――すっごく甘くて美味しいんだよ。
波紋が生まれる。それまでよりずっと大きく。
それまでの波に追いつきのみこみ、その勢いに視界をおおっていた靄がたちまちのうちに晴れていく。
――わたし……知ってる。
まだ手にとってさえいない果実の――甘酸っぱい味が口のなかいっぱいに広がる。
――たぶん。……ううん、きっとそう!!
あのときを境に、フランソワは味覚を失ってしまっていた。あんなに嫌だった苦い薬でさえも、顔色を変えることなく飲み干してしまえるほどに。
――それが。
フランソワの喉がかすかに鳴った。思いがけなくも嬉しい反応に、たしなめるのも忘れたエマがフランソワのてのひらに焼き菓子をのせる。
ひとくち、含んだだけで。
王子の蕩けるような笑顔がよみがえる。
ぽろぽろと、フランソワの頬を涙が伝う。大粒の涙がとめどなく溢れて……。
……泣かない! って決めていたのに。お母様やアレン兄様たちの前で、ぜったいに泣かないって!
あの日の思い出が、陽だまりのようにフランソワの心をつつみこんでいく。
――泣いてはいけない。わたしに、泣く資格なんてない!
ほんとに怖い思いをしたのは、怪我をしたのは、痛い思いをしたのは! ……酷い目にあったのは――わたしじゃないもの!!
――あのときも王子の優しいまなざしが、フランソワを救い出してくれた。
あの通路で……光のなかから現れた王子が、真っ暗な闇の恐怖から、おびえるフランソワを解放してくれた。
堰を切ったように、必死にしがみついて泣きじゃくるフランソワを、王子の胸が抱きとめてくれた。
あたたかくて、安心できて……耳元でなんどもささやいてくれた。
――もう、大丈夫だよ。
なにもかも、とめどなく溢れる熱い涙が洗い流してしまった。あとはもう頭のなかが真っ白になり空っぽになって……。
フランソワのなかで止まっていた時間が、ようやく回りはじめる。
あの事件のあと、決して泣かないと心を決めた。じぶんのために、母が、兄たちが、周囲の者たちがこれ以上悲しむのを見たくなくて――頑なまでに守り続けた。
幼いながらも、こわれそうになりながら懸命に踏ん張っていた。
それは――あの惨劇から助けだされて後、フランソワがはじめて人前で見せた涙だった。




