表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
31/35

雨   ~レムの林~

 ――ぽた、ぽた……。

 フランソワの頬にあたる滴が、一滴、二滴……と見る間に増えていく。

 暗くたれこめた雲から矢のように降り注ぐ雨を、フランソワは身じろぎもせず受け止めていた。

 フランソワの顎にかかるアレンの髪が、冷たい雨をふくんで今はべったりと首にはりついてくる。

 焦点の定まらぬ見開いた眼を、頬を、額を、髪を――雨は容赦なく濡らしたが、フランソワにおおいかぶさった兄の身体が……熱く、そしてまるで巌のように重たい身体が、その多くを引き受けてくれている。

 だが――今、フランソワの両の掌を濡らしているのは……。



 そこは、フランソワが見知っている林とは、どこか違っていた。

 今季いまフランソワが滞在しているレムの屋敷の庭園にも林がある。レムだけでなく他の屋敷にも林はありよく手入れされていたが、ここはそのどれとも違っていた。

 

 ――どこがどう違うのか。

 それはフランソワが肌で感じているものだから、当の本人もよくわかってはいない。ただ……ここに満ちている気は――力強い。


 しん、とした空気は厳粛でありながら……少しばかり濃密で、それでいて清浄で――ひんやりと湿り気を帯びた空気はうっすらと白くけぶり、フランソワに遊んでほしいとばかりにとりまいている。

 フランソワは小さく身震いをして、そうして子供の本能のままにその身をこのはやしの自然にまかせてみた。

 

 ――すると、とても心地よい。

 身体が軽くなったようで、このなんとも言えない空気に、とけこんでいくような気持ちになる。身体だけでなく心の緊張もほぐれていって……このえも言われぬ気分を心ゆくまで堪能しようとするならば、いっそ横になってしまうのが一番よい気がした。が、――フランソワはその誘惑をどうにか思いとどまった。

 ここまできた目的を、ようやく思い出したのだ。



 目覚めたとき、フランソワはひとりだった。おそるおそる兄を呼ばわる声は、むなしく通路の壁に反響こだまするばかり。

 兄の姿を求めて、通路の先にほのかに見えた明かりをたよりに、フランソワは真っ暗な穴からはい出してこの林へと足を踏み入れたのだった。



 歩きだす前にもう一度、注意深く周囲を見渡してみる。人の手のあまりはいらぬ林には、数多くの木があり草が生い茂っているが、なかでもブナの木が一番多いようだ。


 ――ずっと、屋敷の窓から眺めて思っていた。

 「外の世界」は、どんなところだろう? お兄様たちや、お母様にお父様、……エマたちも出かけてゆく。


 ……なのに。わたしには――許されないところ。


 ――フランソワがもっと大きくなったらね。


 誰に訊いても、みんな同じことを言う。でも、そんなのおかしい! だってもうわたし、アレン兄様がお出かけをはじめた年齢としになっているのに。

 みんな、わたしには言わない。――けど、もうわかってる。

 わたしの身体が……弱いから?

 

 ――それは違うよ。屋敷の外は危ないことがいっぱいあるんだ。アレンは男の子だから……。


 ……危ないところ? ここが?


 フランソワが視線を上げたその先には、葉陰から無数の光の筋が降りそそぎ、ときにたゆたうように揺らめいて――そうして照らしだされた場所がそこかしこにある。

 夢のように美しい――さながらお伽の世界のよう。


 ――見つめるうちにフランソワの心の奥にわだかまっていた暗い気分は、すっかりどこかへ霧散してしまった。



 そうっと、光の束のなかにはいってみる。

 淡く射しこむ光は、フランソワの腕を、足を、身体を優しくつつみこみ、フランソワはまるでじぶんという存在が周りの風景から浮かびあがっているようなそんな不思議な感覚にとらわれた。



 フランソワは光のあたる場所を選んで歩いていった。

 そうするとなにかいいことが起こりそうな予感がした。

 きょろきょろと兄の姿を捜して歩きながら、フランソワは同時にここにはいないもうひとりの人物の姿も追い求めている。



 レムにはアイリスの園の他にもこんないいところがあるのだと……。

 ――王子さまに、見てもらいたい!


 それはとりもなおさず王子に会いたいという気持ちの発露なのだということに、フランソワは気がついていなかった。



 林のなかをいくらも歩かぬうちに、羽音が聞こえた。林を吹き抜ける一陣の風がまるでうなるような声をあげて、フランソワの小さな身体をなでていった。フランソワはふと足をとめた。


 今の風はずいぶんと湿り気をふくんでいた。風が通りすぎていったのを機に、柔らかな光に包まれていた林のなかが急速に薄暗くなってきている。

 見上げれば、梢の間からのぞく空にはどんよりとした雨雲が広がってきていた。



「くそっ、見つからねぇ、いったいどこにあるんだ?」


 予想だにしないほどの近さで聞こえた不穏な声。度肝を抜かれてフランソワは反射的に身をすくめた。

 先程までの静謐な空間せかいがうそのようにざわつきはじめ、男のたてる苛立たしげな足音が、こわばるフランソワの耳朶をうつ。

 男はなにかを捜しているらしくさかんに動きまわる気配がする。男はよほど夢中になっているのか、木立にさえぎられ互いに死角にいるためなのか、まだフランソワに気づいていないようだった。

 すぐ近くにあったひときわ大きなブナの木に身を寄せて、その影からフランソワはそっと足音のするほうをうかがう。

 すると心配していたより男との距離があって、フランソワはその錯覚が木立のいたずらなのだと兄たちに教えてもらったことを思い出した。 



 痩せた小作人風の男が、一本のブナの木の周りをうろついている。

 なかば朽ちかけているらしいその樹の枝を男の手が乱暴に引き寄せるたび、はらはらと葉が落ちていく。にわかにできあがった朽ち葉の敷物を意にとめるふうもなく、男はそれを踏みしだき落ち着きなく動き回ってはある物を捜していた。


「――フランソワ? そこにいるのか?」



 足音をフランソワのものと勘違いしたのだろう。右手の少し離れた木立のほうから兄のアレンが呼びかけてきた。

 あまりの間の悪さにぎょっとなったフランソワが、あわてて兄のほうに向き直ろうとする。

 幹に隠れるようにして両手をつき男のほうに半身を乗り出していたフランソワは、反対側を向こうとして樹にぶつかり、あろうことか後ろ向きに倒れてしまった。



「……こどもっ!?」


 突然の背後の物音、木陰から突如転がりあらわれた子供の姿。男の狼狽ぶりは尋常ではなかった。

 事態の異常さに気づいたアレンが、素早くフランソワのもとに駆け寄り、その腕をとって助け起こす。

 フランソワを背中でかばい男と対峙したアレンは、幼くとも領主の息子たる威厳をもって不審者を問いただした。


「ここで――なにをしている?」


 男のいる場所からすこし離れたところに小枝のはいった籠がある。アレンは兄たちについて森へ出かけた折の森番の話を思い出した。そしてもう一度男の顔を見やってから――精一杯の虚勢をはって言い放った。


「ここでの枝打ちは禁じられている! たとえ朽木であろうともだ。――どこの者だ?」



 目の前で傲然とたちはだかった少年は、裕福な家の子なのだろう。こぎれいな服を着て、大の大人に指図するのも慣れたふうだ。――だが。


 ――わが子ほどの年齢にしか見えない!


 そのアレンに叱咤され、男の顔がみるみる歪んでいった。



 男には家族があった。――だが、なにもかも失った。

 男は恨んだ。己の運のなさを、不甲斐なさを。……あのとき、俺にもっと金があれば。

 金さえ――あれば。


 だからこそ、男はこのチャンスを逃すわけにはいかなかった。

 

 思いがけなく持ちかけられたこの仕事は、男にとって造作もないことのように思われた。

 その報酬は、男にとって破格の額だった。男がどんなに身を粉にして働いても、手にした金はその十分の一にもならなかった。

 それが、手にはいるのだ。

 樹の枝にむすばれた恋文を持ち帰る。――ただそれだけで。


 そうしたら……俺はこの金を元手にして、なに不自由なく生きていける暮らしを手に入れるんだ。

 そうとも! ひもじさとも、宿の心配とも――癇癪もちの女房とも俺を小ばかにするガキどもともおさらばだ!

 俺を蔑み、見捨てた奴らを、見返してやる!!


 男は依頼人から厳に言いつけられていたことがある。誰に気づかれても、見られてもいけない――と。


 男の右手が、腰帯にさした小斧に伸びる。


「――逃げろっ。フランソワ」


 少年の小憎らしかった表情がさっと驚きに変わる。男はわずかに溜飲をさげたが、だがこれで満足するわけにはいかなかった。

 男の小斧を握る手には汗がじっとりとにじんでいる。さほどの時間がたっていないにもかかわらず、ぬるつく汗は男のうちからとめどなくあふれてくるようだった。もっととてつもない凶器を手にしているかのように、右手が異様に重かった。


 少年の声に、後ろに隠れていた子供はとっさに動けないようだった。

 男が間合いをつめていくぶん少年も後退ろうとしていたが、それができずに徐々に距離が縮まっていく。

 状況は、男に圧倒的に有利だった。……なのに。

 踏み出せばもう手の届くところまで、男は来ていた。――なのに。

 男の足はとまったまま。……永遠とも思える時間が流れていく。

 血が頭に駆けのぼりくまなく体内を駆けめぐって男の身体を熱く火照らせたが、なぜか頭の芯は冷えていて喉はカラカラに渇いていた。


 このじりじりとした均衡を先に破ったのは、少年たちのほうだった。

 あと数歩のところにまで迫った男のただならぬ様子に、少年は気が急いたのだろう。たまりかねて――早く行け、とばかりに子供の背中を押しやる。

 押された子供はころんでしまった。


 ――見ればまだいとけない。まるで女の子のようだ。……こんなかわいい子供は見たことがない。


 男は一瞬ひるんだ。だが。

 男をねめつける少年の向こう気の強そうな顔が――重なった。重なって、男のなかでなにかが外れた。


「……俺には、なにもできないと思ってやがるんだろう? ――くそっ。どこまでも馬鹿にしやがって!!」


 男は、手にしていた小斧を振りかざした。


 


 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ