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 あっと思う間もなく、フランソワが倒れこんだテーブルの上にあった水差しとカップが盆ごとひっくりかえる。

 次の瞬間には、盛大な音をたてて水差しが床に転がり、フランソワの身体もそのあとを追うように落ちていった。



 ――よもやここまでの事態を見越していたわけではないだろうが、床にくず折れたフランソワの姿は、錫製の食器のおかげで水に濡れただけですんだ。

 とはいえ、身につけていた寝衣は薄手のものだ。打ちつけたところがじんじんと熱をもちはじめている。

 水びたしの床に呆然と横たわるフランソワの身体には、寝衣に隠れて見えないだけであちこちに痣ができてしまっていることだろう。



「――フランソワ様っ!」


 幼い主が眠っているはずの部屋から聞こえたただならぬ音と悲鳴に驚いて、フランソワの許しを得るのも忘れて寝室の扉を開けた侍女は、悲惨な主の姿を目に留めるや血相を変えて駆け寄ってきた。


「なんてことでしょう。――お怪我は?」




 思いもよらない事態に焦りつつも、侍女はてきぱきと濡れた寝衣を脱がせてフランソワの身体を拭きながら、白い肌にできた青あざと擦り傷を素早く確認した。


「こんなに……。痛くはございませんか? ――ああ、いったいなにが……」


「……ごめんなさい」


 侍女がはっとして口をつぐむ。まだ若い侍女は、涙をためて身をこわばらせているフランソワの小さな身体を肌触りのいい大きな白布でくるんだ。


「お寒くはありませんか? 服をお着せしましたら、すぐに奥様にお知らせしてまいります。お湯のご用意をお願いしてまいりましょうか?」


「――だめ!」


 とっさに大きな声がでた。フランソワの剣幕に、侍女の顔に動揺がはしる。


「申し訳ございません、傷に……しみますよね」


 どうやら侍女は勘違いをしているようだ。


「だめ。お母様には知らせないで」


 これで侍女はようやくフランソワの真意に気づいたらしい。彼女は一拍、間をあけた後、かたい声で異を唱えようとした。


「……ですが、フランソワ様――」


「エマを、エマを呼んできて」


 侍女の手をとり、懇願する。


「お母様に、心配かけたくない……」



 侍女はすこし厚手の普段着を選んで着せ付けると、フランソワを寝台に座らせ掛け具を腿の上までのせ、


「こちらでじっとしていてくださいませ。お言いつけどおり、エマ様をお呼びしてまいります」


 と言いおいて、そそくさとフランソワのもとを離れていった。



 


 侍女は気が動転していたのだろう。この部屋で起きていた、もうひとつの異変に気がつかなかった。

 フランソワの目の前の壁には、あの夜と――同じ穴があいていた。


 壁であったところからこころもち離して置かれた長椅子の横に立ち、フランソワはそれをじっと見つめていた。

 今ここに侍女はいない。ついさっき急ぎ足で出ていった。




 ――夢じゃ、なかった……。



 ずっと不安に感じていた。

 あれは夢だったんじゃないか? って。

 あんなことが、ほんとうにあったのか? って……。

 なにもかも、熱にうかされてみた、幸せな夢……。



 フランソワは、夢をよくみる子供だった。

 貴重な美しい挿絵入りの本を読んでもらった夜には、不可思議な神話の世界に遊んだ。

 お伽ばなしを聞いたときは、怖い妖精がでてきたと言って泣いたこともある。

 今よりもっと小さい頃には、目覚めてからも寝ぼけて夢の続きを見ているような発言をして、そのたびエマに笑われたものだ。



 わくわくすると、このうえもなく楽しい夢をみた。


 王子との思い出は……。

 とうの王子がとんでもなく綺麗な男の子だっただけに、時が過ぎてゆくほどに自信がなくなっていく。


 とっても優しくしてもらった。

 まるで、物語のなかのお姫さまみたいに――。


 だから、もしかしたら――と考えてしまう。いつもの「夢」だったのではないか、という可能性を。

 霞をつかむようにたよりなくて。このままにしていたら、いつか消えてしまうのではないか、と。



 それが――。

 漠然と抱いていた不安のほうが、消えた。通路の出現によって。

 フランソワのなかで俄然、しぼみかけていた希望がふくらむ。


 フランソワは吸い寄せられるように入り口へと近づいていった。

 

 この通路の向こうには……。


 フランソワの捜していたものは、王子と自身とを結びつけるもの、――その事実を確認できるものだったのかもしれない。






「――なにしてるんだ? フランソワ!」


 通路をのぞきこんでいたフランソワが、ぎょっとして振り返る。

 フランソワの背後にあった長椅子の陰から、アレンが顔をだした。彼もまたぎょっとした顔をしている。

 

「なんだよ、これ?!」






 なんでこうなったのか、わからない。

 フランソワは今、燭台を手に先をいくアレンのあとについて通路のなかを歩いていた。



 ――困ったことになってしまった。

 フランソワは何度となく、「部屋に戻ろう」とアレンに呼びかけようとした。

 だが、なんと言ったものか? ひとしきり悩んで、けっきょく声にならなかった。

 アレンは、意地になってしまっている。




「――僕とここで会ったことは、アレンには内緒だよ。上の兄上たちにも」




 エマを捜していた侍女から、フランソワが怪我をしたと聞きつけたアレンが寝室にまで入ってきた。

 通路の存在を知られたとき、狼狽したフランソワのとった態度がアレンを不審がらせてしまった。

 アレンの矢継ぎ早の問いにしどろもどろになり、最後には答えられなくなって、フランソワは黙りこんでしまった。



 ――フランソワが、俺に隠し事をしている。


 それがアレンには、我慢ならなかったらしい。

 じぶんの眼で確かめる、と言ってきかなかった。

 ひとりで行くからフランソワは部屋に残るように、とさんざん言われた。勝手についてきたのはフランソワのほうだ。


 苛立ちながらもアレンの言葉のはしばしには、妹を気遣う兄の心情が見え隠れしていた。フランソワがついていく、と言えば思いとどまるかと思ったのだが。


 それにフランソワも、じぶんの眼で確かめたい。――と、そう思ってしまった。


 その部屋の存在を。

 王子と一緒にアイリスを眺めた、あの場所を。

 





 ところが。

 行けども行けども、その場所へは着かなかった。

 フランソワは不安になってきていた。


 こんなに長く、歩いただろうか? こんなに何度も、曲がっただろうか?


 暗くてよく見えないが、ここまで他に道はなかった。

 ――たしかあのときも、通路に沿って歩いていた。

 

 あのときは、途中で転んでしまって、身動きがとれなくなって。

 それから……。


 ジャンから渡された肩掛けを羽織って、王子にしっかりと背中を支えられて……。

 熱っぽい顔をうつむけて、足元だけを見て歩いていた。


 ……王子様と、いっしょだったから?


 あっという間に着いちゃった――ように思っていたのだろうか? 

  





 ついカッとして、さっきはフランソワに言い過ぎてしまった。


 通路をいくらも行かないうちに、アレンは後悔しはじめていた。


 フランソワにこんなところを、こんなに長いこと歩かせて。


 早く出口についてくれないか、と気ばかり焦る。

 フランソワは怪我をしている、ちゃんとした手当てもこれからするはずだった。これ以上フランソワに無理はさせられない。


 遅れがちになるフランソワの小さな姿を見失わないよう、アレンは立ち止まっては蝋燭の明かりをフランソワにかざしてやる。



 ――あのとき、じぶんが折れていればよかったのだ。兄たちなら、きっとそうしていただろう。

 今からでも引き返そうかと迷ったが、このまま進んだほうが早くここから出られるかもしれない。

 フランソワはこの先になにがあるのか、知っている様子だった。だとしたら、フランソワの足でもじゅうぶん行ける距離のはずだ。



 フランソワの額を濡らす玉の汗が鈍い明かりを反射している。アレンは追いついてきたフランソワの顔をそっとぬぐってやった。疲れているのか、フランソワはおとなしくされるがままになっている。



 さっきはフランソワの機嫌をすっかり損ねてしまった。きつく言いすぎたから、すねたんだろう。

 それでいて、暗いところの苦手なフランソワが、言葉とは裏腹になんだかついてきたそうにしていたし……。


 素直に、俺にせがむことができないのだと思って。

 だからよけい、――兄としていいところを見せたかった。






 フランソワの荒い呼吸が、狭隘な通路に響く。

 足元もおぼつかなくなってきていた。

 それでも懸命についてくる妹の苦しげな姿に、アレンはやっと決断した。

 ――遅すぎた、と迷い続けていた己に歯噛みしながら。


「すこし休もう、フランソワ」


 アレンの言葉に、フランソワの身体はまるで糸がきれたようにその場にへたりこんだ。






 どこだろう?



 見上げると大きなブナの木が葉を茂らせている。その葉陰にフランソワはいた。

 そこかしこに、ブナの他にも大小さまざまな樹木があって、ここが林のなかであることをフランソワは知った。 


 見渡せばかなり向こうの雨空には、同じように大きなブナの木が林から突き出て並んでいる。

 フランソワが出てきた出口の穴のその後ろには――。


 ……壁? 

 

 景色が、フランソワの脳内でつながる。


 フランソワは今、屋敷の窓から眺めていた風景のなかに、立っていた。






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