中編 2
なにが起こっているのか、フランソワは今度こそ完全に、思考停止した。
ぎゅう、と握りしめられた両手の痛みで、意識を引き戻されたフランソワの目に飛び込んできたせっぱつまった王子の顔は、なまじ麗しいがために凄みがある。
あまりに近くで熱を孕んだ瞳で見据えられ、フランソワは卒倒しそうになりながらも、どうにか持ちこたえた。
シャ、シャルル様。そんな。近すぎますっ!
心臓は早鐘のように激しく打ち鳴らされ、口はばくばくと虚しく動くだけで、声にならない。
ああ。でも、こちらのサーモンピンクのドレスにしておいて良かったわ!
お母様には「どれでも好きに選びなさい」といわれて、けっこうぎりぎりまで迷ったのよね。
瞳の色に合わせた緑のドレスは洗練されてて大人っぽく見せてくれるけど、顔映りではだんぜんこちらのほうがいいもの。たっぷり広がったスカートと装飾が多くてちょっと重くて動きづらいのが玉に瑕だけれど、今日の殿下の薄いチョコレート色に金糸銀糸の刺繍のはいったお召し物とも、偶然にも相性ぴったり。
それになんといっても可愛らしいドレスって、じぶんがほんとに可愛くなったような、心を浮きたたせてくれる魔法を持ってる。
「わたしはあなたと巡りあえた僥倖を、もう少しで危うくこの手からこぼしてしまうところだった」
フランソワの思考が脱線している間に、シャルルの告白はいよいよ熱を帯びていく。
「……わたしは浅はかだったが」
ここで、シャルルは言葉をくぎり、フランソワのエメラルドの瞳をじっと見つめた。
「わたしは婚約解消を、先の発言を撤回はしない」
…………?
婚約解消の、……発言を撤回はしない?
この流れできて、どうしてそういう言葉がでてくるのか?
フランソワは目をぱちぱちと、うつむきかげんだった顔をあげて王子の顔を見かえした。
―――――――!!
シャルルのサファイアの瞳に射すくめられ、ひるんだフランソワがさまよわせた視線の先に。
蒼空に、なにかが光った。
恐るべき速度で、まっすぐこちらへ向かってくる。
――――――――ヒュンッ!!
矢だ!
そう認識したとたん、フランソワの体は我知らず動いていた。
「危ないっ!!」
声とともに、シャルルはフランソワに突き飛ばされた。
あまりに突然で受け身もとれず、地面にたたきつけられたシャルルの目に映ったのは――――。
パシィィッ!!
飛来した矢を、手にした扇で叩き落とすフランソワの姿だった。
「あっ!」
フランソワの体が大きくよろめく。
「フランソワっ?」
スカートのすそを踏んづけてしまったわ。ああ。こんなことろで、乙女心がアダになるなんて!
フランソワの扇は先ほどの衝撃で、レースの部分が無残に裂けて骨組みの部分が露わになっていた。
陽光を反射して、塗りのはげた部分がきらりと金属質な光を放つ。
矢の飛んできた方角を確認して、フランソワは愕然とした。
続けて放たれた矢が、すぐそこまで迫って来ていた。
正確に、シャルルをめがけて――――。
態勢を崩した、今のこの状態では……。
もう間に合わない!
とっさに判断したフランソワが、シャルルにおおいかぶさってくる。
「フランソワっ!」
フランソワを受け止めたシャルルは、フランソワを抱きしめたまま体を反転させて上下をいれかわった。
ストッ!
直後に左腕に衝撃。矢はシャルルの左腕をかすめただけだったが痺れるような痛みが走った。
――――毒だ!
「――――つうぅっっ!!」
「シャルル様っ?!」
シャルルの体の下から抜け出ようともがくフランソワの体を、シャルルは必死で押さえつける。
――――飛来する矢の風切り音が身近に迫ってくる。
それは、おそろしく鮮明に聞こえた。
ザザァッ。
二人のすぐ近くの茂みから突然に現れた影。
パキイイン!
衝撃はこなかった。
かわりに、この状況にひどく場違いな陽気な声が上から降ってくる。
「よく頑張ったな、フランソワ」
「……お兄様っ?」
日焼けした肌に白い歯を輝かせて、不敬にも王子を上から見下ろしくてくる男。
それはフランソワにとって頼もしい兄であり、シャルルにとってうっとうしい目の上のたんこぶ、……従兄であった。
「フランソワ。俺達が来たからにはもう心配はない。ってもとからこの庭園に潜んでたんだけどね。なにしろだだっ広くて、罠にかかった獲物がどこに潜伏しているのかつかむのに少々手間取った」
「……俺達?」
シャルルが顔をしかめる。
「兄弟全員。部下も含めるとけっこうな人数が王子様たちを見てたってわけ」
フランソワの顔が真っ赤に染まり、シャルルのしかめっ面はますますひどくなった。
長剣を片手にフランソワとシャルルの楯となった偉丈夫は、矢の飛んできた茂みの方をみやり、ぼそりと呟いた。
「一射目で逃げておればよいものを。やれる、と思って欲をだしたのが運のつきだったな」
「……何者の、しわざか? 罠にかけたということは、そのくらいつかんでいよう?」
シャルルの脳裏にまず浮かんだのは、腹違いの二人の兄。
快く思われていないのは承知していたが、まさかここまでのことをしてくるとは?
母である王妃の弟が宰相の位についてからは、ことに顕著になってきていた。
なにより、よりにもよってじぶんのせいで、フランソワの身を危険にさらすことになるなんて!
思い違いであってほしい――――。との願いをこめて、苦しい息の下から問いかける。
フランソワの次兄ユルグはそれには答えず、二人に向きなおると不敵に笑んだ。
「シャルル殿下。妹の上にのっかった狼藉について、今回だけは大目に見てさしあげますよ」
「でも許したわけではないんで、お間違えの無いよう」
アーチの影から現れたユルグによく似た男が、こちらに近づいてくる。
「アレン、おまえ。賊はどうした?」
「そんなの兄上たちにお任せしてきましたよ。男シメあげんの見ててもち~っとも面白くもないし。さぁ、おいで。フランソワ。おやおや、せっかくのドレスが台無しじゃないか」
アレンと呼ばれた男がフランソワを王子から引きはがしにかかったが、フランソワは王子の傷ついた箇所の衣服を扇で裂いて傷口を露わにすると口を寄せていこうとする。
「およし、フランソワ」
だが、フランソワは兄の言うことをきかない。アレンも驚くほどの力で、シャルルに取りすがっている。
シャルル様は、わたしをかばって怪我をなさった。
……わたしはいつも、みそっかすだった。お兄様たちが涼しいお顔で息も乱さずやってのけられることを、わたしはちっともできなくて……。
わたしが、お兄様たちのように強ければ!
「お兄様っ! でも殿下がひどい汗をおかきになってて。矢に毒がしこんであったのだわ、早く手当をしないと」
「うん。でもねご覧、フランソワ。お医者様たちがすぐそこまで走ってきてる」
シャルルの応急処置が行われる横で、ユルグが思い出したようにアレンに問いかけた。
「賊は毒をあおってないだろうな」
「兄上がそんなヘマをすると思う? なにしろ食えないことでは、あの宰相閣下と五十歩百歩のおかただだよ」
「それもそうだな。なんといっても、我が家と王家の最強の交配種であられるからな」