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(……一応)

・ 王子シャルル: 七歳  フランソワ: 五歳です。

  本文中に出てくる「シャルル」は、王子とは別人(フランソワの兄)です。


 どっしりと重厚な拵えの年代ものの椅子に深々と座り、伯爵は憮然とした表情で、侍従の報告を聞いていた。


「……は。……それがあまりに堂々とおひとりで歩いておられたもので。王子殿下がおひとりでおられることを訝しむ者も少なからずおりましたが、その……アイリスを手に殿下はわき目もふらず、ずんずん廊下をお進みになっていかれまして……。なにかしら事情がおありで、もしやお急ぎになっておられるのであれば、こちらからお声をおかけするのもはばかられるかと皆、躊躇したようです……」


 伯爵が私室としている部屋は、建造当時からあまり手をくわえられていない。部屋だけでない。そこにある調度類も、長い時をへてきたものしか持ちえない落ち着いた雰囲気を醸し出している。

 皮肉なことに、本来、魅力であるはずのこの情趣こそが室内にたれこめている息苦しい空気をさらに重くし、今また伯爵を中心にして周囲へと霜が降りていくのに一役かっているようだった。


 そんな伯爵の斜め向かいの椅子に腰掛けたカトリーヌは、紅茶のはいったカップを手にこんな場面ですら優雅なたたずまいを見せている。

 さすがは伯爵夫人――とちらりと走らせた侍従の眼は、いれられてからほとんど減っていない鮮紅色のカップの中身をとらえた。

 女主人からの助け舟は期待できそうになかった。



 彼はアルティエ家につかえる侍従にふさわしく冷静沈着で胆もすわった人物であるのだが、今はその顔が恐縮のあまりに色を失い額にはうっすらと汗が浮いている。

 伯爵に仕えてるようになってこれまで、主から何を問われても如才なく答えを返してきたはずの彼の口がここまで窮する事態になったことなどかつてない。紡ぎだされる言葉は、しだいに歯切れが悪くなっていった。


「たまたま折悪しく、ご使者一行の先触れが到着した時刻に殿下はアイリス園におられました。――使用人たちの間であらたにお客人をお迎えする準備のための連絡もとびかっておりまして……。廊下であれば他に人気もありますし、なにかあれば他の者も気がつくでしょうし、なにより殿下からお声がかかるだろうものと……」



 ようするに、王子を見かけた者たちの間には、王子が一人でいるように見えたとしても実際に一人であるはずがない、という思い込みがあった。まして誰しも忙しいときに面倒ごとは避けたいという心理がはたらく。おまけに、「相手がまだ七歳の子供だから」――というのもたぶんにあったのだろう。



 ――それでも、フランソワの部屋は、この滞在中、殿下の部屋としてあてられた客間からはずいぶんと離れている。


 伯爵はどなりつけてやりたい衝動を、自らのこめかみをぐりぐりと押し続けることでどうにかこらえていた。



 釈然としない点は他にもある。国王の急使としてやってきたタリス子爵のたどってきたルートだ。


 タリス子爵の一行がカトリーヌへ入った旨を急報してきたのは、カトリーヌ候領の西北西、シムス伯領との境に設けられた関所からだった。たしかに、そこはこの屋敷からは一番近い。

 が、王都からもっとも短い日数でカトリーヌに至ろうとするのであれば、北東にある関所を通るのが一般的である。そこからならば、タリス子爵の屋敷への到着は、先触れよりももっとあとになるはずである。

 同日の、それも二時間あまりという短い間のうちに、両者が到着するという事態にはならなかった。


 急使が、最短ルートをとらずに迂回をしてきた。しかも、シムス伯領は通過してきただけらしい。




 間が悪い――――?



 ――昨日のあの時間、大切な話があるというマルセルに連れられて、伯爵は温泉場にいた。

 そこで、フランソワと同じ手順どおりに入浴するよう迫られたのだ。追体験するのが一番てっとりばやくわかるだろう、と……。


 婚約時代には精神的に追い詰められていたカトリーヌが、そしてフランソワが誕生してからも、なにかと世話になってきた恩人の言に、伯爵はしかたなくしたがった。

 王都からの急使の先触れが到着したとき、伯爵はまさに入浴中であった。


 ――伯爵が途中であがることを、マルセルは許さなかった。


『陛下が使者にタリス子爵を遣わしたってことは、慌てるほどの大事ではない。もしのっぴきならぬ異変が起こっているというのなら、陛下は子爵をもっと大変なところへおくるだろうからね』と言って。


 伯爵が屋敷に戻ったときには、「宝玉の誓い」は既になされてしまっていた。






「…………まったく! 王族ってのは!」


 どんどん渋面になっていく伯爵と眼があったカトリーヌは、さっとあらぬほうへ顔を逸らしてしまった。

 じつは婚約時代にカトリーヌも、ほぼ同じ方法で王宮の馬場にいる伯爵のところまでひとりで尋ねてきたことがある。そのとき伯爵は、彼女をひどく叱りつけてしまったのだが、その折のことを思い出したのだろう。カトリーヌの顔が、みるみる赤く染まっていく。


 伯爵はわざとらしく咳払いをすると、あからさまに話題を変えた。


「……明日のことなんだが、シャルルも連れていく。カトリーヌ。おまえ宛の陛下からの書状にはなんとあった?」


「イシュワンとサグレーの開戦の知らせでした。これじたいは織り込み済みではあったけれど、イシュワン側の一方的な優勢は想定していた以上のもので、わが国でも緊急に対応策を練り直す必要に迫られていると。……それで召し出し状のしまいには陛下の直筆で添え書きがございました。要約しますと、わたしの、――カトリーヌ侯爵の代理としてあなたを寄越してほしいそうです」


「……うむ」


 サグレーはイシュワンの南方に位置する国である。織物業がさかんで、とみに壁一面を覆い尽くす大きさの手のこんだ珠玉のタペストリーは、冬の季節の防寒と美観の両面から各国の王宮や貴族たちの間で珍重されている。

 サグレーの王家には、ファウリーシュの三代前の国王の妹が嫁いでいた。



「フランソワの熱は、まださがらんのか?」


「……はい」


「あの、エメラルドは?」


「わたしが持っております。……あなた、……ご出立されればあなたとこの次お会いできるまで、どのくらいかかるのかわかりません。ですから今お訊きいたしますが、あなたがご用意なさるはずだったエメラルドは、どうなさるおつもりでしょうか?」






 もう数えきれないほどの寝返りをうったあと、フランソワはとうとう寝台から上体を起こした。

 眠れなくて横になりながらもずっと瞼を開けていたから、一本の蝋燭が灯っているだけの暗闇でも眼が戸惑うこともない。


 王子と一緒にいる間じゅう、「熱っぽい」と感じていたフランソワの懸念は当たっていた。

 見舞いに来てくれた王子を部屋でお見送りしたあと、フランソワは今度こそ正真正銘の病人としておとなしく寝ているように言い渡された。

 それで、昨日は結局、自室から出ることなく過ごした。


 食事と薬を服用するために起こされたとき以外の時間、フランソワはぐっすりと眠っていた。


 どのくらい眠っていたのか、びっしょりとかいた寝汗の不快さにフランソワは眼をさました。はねのけた掛け具からはみでた胸や腕が、空気にさらされてひやりとする。肌に吸い付く寝衣と、顔や首筋にぺたりと貼りつく髪の毛が気持ち悪い。

 熱があったときより幾分ましになってはいるが、寝起きのせいもあるのかまだ頭はぼうっとしている。


 蝋燭の明かりをたよりに部屋のあちこちを探り見て、自分ひとりなのだと確認する。フランソワは、ほぅっとかすかに息を吐いた。



 こんなふうに夜中に眼がさめることがしばしばあった。以前は部屋に灯火はなく真っ暗だった。そしてフランソワはそのたびに声をころして泣いていた。


 声をたてたら、――――眠りについている漆黒の闇に潜む「なにか」を呼び起こしてしまうような気がして、得体のしれない「なにものか」に見つけられてしまうのが恐ろしくて。


 朝になってフランソワが泣きはらした目をしていることが何度かあって、フランソワの寝室では一晩じゅう蝋燭が灯されるようになった。



 顔を照らす蝋燭のあたたかい色の光に安堵して、フランソワはしばらく明かりのつくりだす長く伸びる影をながめていた。やがて飽きてきたら蝋燭の残りの長さを、就寝前に見たときと比較する。


 朝になるまで、あとどのくらいの時間があるのか?


 そうしてフランソワは、自分が中途半端な時間に目覚めてしまったのだと理解した。

 夜明けを待ち望んでやりすごす夜を重ねるうちに、蝋燭の減り具合で経過したおおよその時間をはかるすべを、彼女は経験で学んでいたのだ。


 もう一度、眠ってしまおう。

 そう考えて寝具にもぐりこんだフランソワだったが、今夜はなかなか寝付けなかった。

 ごろごろと寝返りをうってみるものの、フランソワの視線はある一点へと戻っていく。


 いつもの夜にはない、そこに……。

 長々とした影をひいている、アイリスの花――。



 アイリスをじぃっと見つめるフランソワは、ときおり寝具に顔をよせたり眼を見開いたりつむったりと、細かな表情の変化を繰りかえしている。


 どのくらいそうしていたのか。

 突然フランソワが、がば、と起き上がり、寝台から転び落ちそうな勢いで床に降り立った。


 暗がりのなか、いっさんに寝台横の壁際に設えられた小卓へと駆けてゆく。


 フランソワは眠りに落ちるまで、あの石を握っていたのだ。

 エマや母にいくら諭されようとも、離そうとはしなかった。離したくなかった。

 それが、食事で起こされたときには、フランソワの手に石はなかった。

 

 どうして、あのとき、気がつかなかったのか?

 眠っている間に、もしや落としてしまったのか?


 王子様からいただいた、フランソワの持ち物のなかでも、いっとう綺麗で大切な宝物――――。


 そこでふと、フランソワはリボンやボタンなどの細々とした彼女のお気に入りたちを納めた箱を入れている抽斗のことを思い出した。


 あの石はきっと、あそこにしまってあるに違いない!

 エマがきっと入れてくれている!


 すがるような思いで、フランソワは慎重に抽斗の把手に手をかけた。

 ずしりと重い。もう少し力をこめて引いてみる。

 抽斗が斜めになって引っかかり途中でとまってしまった。フランソワが抽斗に手をつっこんでがたがたと動かしているうちに、小箱のひとつが落ちてしまった。

 蓋が開き、中からばらばらと小さなボタンがこぼれて転がっていく。




 フランソワは泣きそうな思いで、ボタンを捜していた。

 ひとつひとつ拾っては、小箱のなかに片付けていく。

 今、回収しようとしているのは寝台の下の隙間に入り込んでしまったボタンだ。

 狭いうえに奥のほうは明かりが届かなくて、さっぱり見えない。しかしここに転がっていくのをフランソワは見ていた。


 はじめのうちはそろそろと慎重にさぐっていた。けっこうな時間、そうしていた。それでも見つからない。見つからない焦りと疲労といらだたしさから、フランソワはやみくもに腕をつっこんではてのひらに触れる部分をはたいて捜すようになった。



 ――――ガタン。





 フランソワは泣いていた。

 手にしていた小ぶりな燭台の灯火は、フランソワが転んだ拍子に消えてしまった。



 フランソワは寝室の壁に、見たこともない四角い穴を見つけた。そこには壁があったのだ。こんなところにこんな穴はなかったのに――。

 フランソワがすこし屈めばくぐれるくらいの高さの穴の向こうには、見たことのある通路が続いていた。



 明かりを失った通路は、真の暗闇が支配していた。

 冷たく固い石の感触も、湿っぽくまとわりつくような空気も、滅入っていたフランソワにさらに追い討ちをかけた。

 息を潜めて縮こまっているのに耐えられなくて、フランソワの口からとうとう嗚咽がもれだした。

 いけない、――と思いながら。

 小刻みにふるえるフランソワの小さな身体は、それをとめることができなかった。




 ――――音が聞こえた。

 いつから聞こえていたのだろう。そう遠くはない距離で、音が響いている気がする。

 

 カツン。……カツン。



 フランソワの息がとまった。

 起こしてはいけないものを、起こしてしまったのだ!

 瞬時に、フランソワはそう思った。恐れていたことが、現実になってしまった。

 フランソワの口は大きく開いてわなないていたが、彼女の力のかぎりの叫びは声にならなかった。



 ……カツン。カツン。


 また、近づいてくる。

 音は狭い通路のなかで反響して、それ自体が、いましもフランソワに襲い掛かってくるようだった。



 恐怖のあまりふさごうとしたフランソワの眼に、光がとびこんできた。


「……」



「……だれか、そこにいるの?」


 それは……。

 フランソワをこの通路へといざなった存在の声だった。

 彼との思い出があったからこそ、フランソワはここに足を踏み入れた――。



 また、近づいてくる。


 彼の姿が、背後からの蝋燭の明かりに照らし出される。


 また、近づいて、――足音がフランソワの傍らでとまった。

 優しい王子の眼差しが、フランソワの涙にくれる顔を覗きこむ。



「――フランソワ……」


 フランソワは泣き出していた。堰を切ったように。

 自身が王子の胸にしがみついていることなど、彼女は気づいてもいなかった。




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