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見舞い

(……しつこいようですが)

 ・シャルル(王子):七歳、 フランソワ:五歳 です。


「――――あれは、……蜻蛉の翅。……あれはひな鳥の胸の羽毛。あれは、……このあいだ産まれたポルトのお耳……」


 フランソワはさっきからずっと、空を見ていた。



 ――今朝、フランソワに熱はなかった。胸やお腹の調子が悪いというのでもない。

 だが、けだるかった。

 そしてたとえどんなにわずかであろうと、フランソワの異変を見逃すエマではない。すぐさま報告を受けて様子を見にきた母の一言で、フランソワは短くても午前中いっぱいは、自室で大人しくしていることになった。

 苦い薬と軽い食事をとったあと、言いつけどおり寝台に横になって過ごすうちに、いつしかフランソワは眠りに落ちていた。



 一刻前、エマがフランソワの顔色を確認しにきた。それでようやくフランソワは、寝台から抜け出ることができたのだ。

 それからエマは、ゆったりとした部屋着のドレスにフランソワを着替えさせた。生地の色こそベビーブルーで胸元には繊細なレースがあしらわれているがそれを除けば寝衣とさして変わらない意匠のそれは、今日はもう庭どころかこの部屋からも彼女が出ることはないという意味を持つ。



 寝室から続くフランソワのための小部屋の窓辺で、彼女が空に浮かぶ雲を思いつくままに見立てていたのは、たいくつを紛らわすためである。





 ――――『明日も、明後日もあります』


「…………」


 フランソワは眼をつむり、大きく頭を振った。やわらかな蜂蜜色の髪と、エマが後頭部で結んでくれたドレスと同色のレースのリボンがふわりと揺れる。

 そうしてから眼を大きく見開いて、今日も青く晴れ渡った空を凝視する。





「…………なんか……?」


 ――――わかんない……?



 マルセルは、空を何も考えないで眺めるものだと主張していた。が、言われたとおりにしてみようと意識しだすと、そんな気持ちとは裏腹になにかしらフランソワの関心をひくものはないかと探してしまう。

 ただ見ているだけ、というのは、つまらない。なにが面白いのか、フランソワにはさっぱり理解不能だった。

 それで眼で追うことのできるなにか――――かたちがあって動きもある雲は、空におけるフランソワの興味のかっこうの対象物となった。




 フランソワは椅子の背もたれをつかむ両手の上に顎をのせて、おもむろに頭を左に倒した

 お行儀が悪い、と注意する声がとんでくることもない。

 今日はもう、ひとりなのだ。




「僕にはあの雲は、お腹をだして眠っている猫に見える」



 不意に、背後から声がかけられて、フランソワは弾かれたように顔を上げた。


 だってここは、フランソワの部屋である。

 フランソワの具合にほんの少しでも変調が見受けられれば、父と母、父母が不在のときにはエマがいいと見定めるまで兄たちもはいることを許されない。


 だのに、たった今聞こえた声は……。




「すこし、熱があったんだってね。今は……気分はどう?」


 ためらいがちに問う王子は、今日も綺麗だった。

 フランソワが乗っている椅子のすぐ傍にまで近づいていた王子のインパクトは、相変わらず強烈である。


「…………はい。……熱……」


 ………熱?


 王子の姿が眼に映った瞬間、なにもかも真っ白になったフランソワの思考が、一部ずつだが戻ってきた。


 …………熱って? え? え? なんで、そういう話に?


 兄たちを牽制するために、フランソワの不調が大袈裟に伝わるのはいつものことだったが、まさか王子にまで誇張した情報を流していたとは……。

 そうではない、と言おうとして――――。

 同時に己のしていた貴族の子女としてあるまじき姿を、フランソワは思いだした。

 急いで、椅子の上からすべりおりる。

 あまりの恥ずかしさに、フランソワは王子の顔をまともに見ることができずに俯いてしまった。

 まるで、頭のなかまで真っ赤に染まってしまったかのようだ。

 もじもじと震える手で紅潮した頬を押さえようとしたが、よけいに熱さを認識してしまい、もともとなかったはずの熱がかえって出てしまったようだった。



 ――――王子様が、どうしてここに?


 フランソワの疑問に答えるかのようなタイミングで、王子が胸に手をあてて丁重に礼をする。


「きみが熱を出したと聞いて、いてもたってもいられなくなってしまいました。見舞いを申し出たのですが、一度断られてしまって。――――それで、お許しをいただいたらもう嬉しくて、どうやら貴女のもとに知らせが届く前に来てしまったようです」


 はにかみながら語る美麗な王子の表情は甘く、嬉しそうだ。


「…………あ」


 声にならない。

 いろいろ疑問に思うことはあるのだが、それがうまくまとまらない。

 フランソワにできたことは、ぽかんとあけていた口をかろうじて閉じることだけである。


「きみが空を見ていたのが嬉しくて、つい不躾にも声をかけてしまいました。人は具合が悪いと顔をあげていることすらもつらいと聞きますから。ひとまずは安心してもいいのでしょうか?」


 昨日までと違って、王子の話しぶりが丁寧である。

 これが、兄のアレンが「王宮では言葉遣いが難しくてときどき舌をかみそうになる」とこぼしていた言い回しであるのかと、フランソワは思った。

 アレンは、相手の身分や場によっても作法が細かく変わるので面倒、とも言っていた。

 フランソワはこの屋敷にいるときにはほとんど気にかけてこなかった、「身分」というものが急速に気になりだした。


 気さくに接してくれる王子に甘えて、昨日、自分はずいぶん王子に対して失礼な振る舞いをしていなかったか?

 「身分」を気にしだしたフランソワに、年齢も身分も下である彼女へのそのような王子の対応は彼女を落ち着かない気分にさせた。

 子供ながらにフランソワとて、身分制の社会のそのあたりの微妙な感覚はおのずと身についていたのである。




「どうか貴女を驚かせてしまったことをお許しください。伯爵にも、あとでいかようにもお詫びいたします。ただこれだけはわかってください。人づてにではなく、僕はどうしても、きみの元気な顔を、きみの様子をこうしてこの眼で確かめたかったのです。これも貴女のことを尊く大切に思えばこそ。お許しいただけますか?」


「…………」


 フランソワはもうどうしてよいか、見当もつかなかった。

 ただ王子を相手に、いくら彼の話している内容が己の理解の範疇を軽く超えているからといって、安易に流されてはいけない。

 『許す』だのと口にするのはとんでもない! これだけは言ってはいけない。

 それしか、考えられなかった。



「……それで、僕にはあの雲は猫の姿に見えたのですが。……あぁ。もう雲が流れて形が変わってしまった。それでは、あの雲は? きみにはどう見える?」


 王子がずい、と身をのりだして窓の外を見やった。

 王子の手が先ほどまでフランソワが乗っていた椅子の背もたれにかかる。結果としてフランソワは、王子の隣りに並んで立つことになった。

 そうと気がついて、「あっ」と思ったが、王子に間近で微笑まれたので、間違ってはいないのだろうと、自分に懸命に言い聞かせる。


 昨日は途中で具合が悪くなって、それどころではなくなってしまったけれど……。

 今日はさっきから、昨日とは違った意味でも緊張する。

 フランソワは王子が指差した雲を見つめて、なにに見えるかと、必死に考えを集中した。





「……驚いたな、タリス子爵。いつこちらに?」


 王子の一言で、見立て遊びに夢中になっていたフランソワの思考が中断された。

 王子に遅れて振り返ると、扉口にエマともうひとり、フランソワが見たことのない男が立っている。

 立派な身なりをした細身の男は、どことなく王子に似た雰囲気を纏っていた。


 タリス子爵、後のグレアム候である。


「つい先ほど、陛下の命により罷り越しました。ひいては陛下より、殿下にお渡しするようにとお預かりしてまいりました品がございます」


 フランソワには、タリス子爵と呼ばれた男の言葉でところどころ意味不明の部分があったが、隣りでは王子が穏やかな表情でうなずいている。


 このかたは、やはり王子様なのだ。

 このかたの生活では、こんな会話が当たり前のようにやり取りされている。


 もちろんまだ五歳のフランソワに、理屈としてこれらのことがわかっているわけではない。だが感覚的に、フランソワはそう悟った。

 彼女は、隣りにいるはずの王子が急に遠くなったように感じた。



「ご苦労でした。ところでこれは……?」


 王子が、タリス子爵の捧げ持つ赤い絹布の上にのった小箱に目を留める。


「……『せっかくの機会だし、どうせなら殿下もかの地にて受け取りたいだろう』……との仰せにございました」


 王子が小箱を受け取ると、タリス子爵は恭しく頭をたれて部屋の中ほどへ退がっていった。


「どうぞ、殿下ご自身でとくとご検分くださいませ」


 豪奢な布貼りの箱の蓋をあけて、中をあらためた王子の眼が細められる。

 なにが入っているのだろう、と首をのばしかけたフランソワのほうへ、王子が静かに視線を向けてきた。

 王子にじっと、食い入るように瞳を覗き込まれて、フランソワはたじろいだ。



 王子がちょっと罰がわるそうに瞬きをした。

 フランソワの横をすり抜けて、椅子からやや離れた位置に置かれたテーブルへと歩み寄る。


「これを……お渡しするのを忘れていました」


 小箱をそれは大切そうにテーブルの上に置く。

 かわりに傍にあったものを手にとって、王子がフランソワに向き直った。

 フランソワの機嫌をうかがうような王子の表情に、彼女はどきりとした。


 ――今度は、なんだろう?


 王子の一挙手一頭足に、そのつど身構えてしまう。


「はじめに見舞いを断られたとき、それならせめて見舞いの品をと、伯爵にお願いして僕自身が選んで切り取ったものです」


 それは、アイリスだった。 


「都から持ってきたものも他にあったのですが、見舞いにはこれが一番よいかと思いました」


 フランソワの脳裏に昨日の出来事が、鮮明に蘇る。 


 王子とふたりで、眺めたアイリス。

 あの場所で――――。

 時間が許されるなら、もっとずっとあそこにいて、王子とふたり夢のような時間を過ごしていたかった。


 ――外に出られるようになったら、もう一度あそこに行ってアイリスを見たい。



 アイリスの大振りの花びらの濡れたように鮮やかな色が、じん、とフランソワの眼にしみた。アイリスのひやりとした茎から、両手を通して不思議とあたたかいものが流れてくるようだ。心へと達したそれが満ちていくにつれて、フランソワの眠っていた希望も、ふくらんでいくようだった。



「……それから、これも」


 王子のしっとりと温かい手が、アイリスを持つフランソワの右手にそっと触れた。王子がフランソワの指を開こうとしているのだと、彼女は気づいた。ところが、指がこわばってしまってうまく開かない。

 フランソワの緊張が伝染したのか、王子の手も微かに震えている気がして、フランソワはなおさら焦ってしまった。


 閉じた小箱が、その手にのせられる。フランソワの小さいてのひらが、小箱にすっかり隠れてしまった。



「これは……僕の気持ちです。あわただしくこちらへ来ることになって僕が出発するまでに間に合いませんでしたが、貴女にお渡ししたいと思っていたものです」


 フランソワの手から小箱が落ちないように、王子の手が添えられる。意外に不器用な手つきで、王子が繊細なつくりの小さな箱の蓋を開いた。



「――ほら。きみの瞳の色にそっくりだ!」


「…………」


 残念なことにフランソワからは、蓋の陰に隠れてしまい中のものが見えなかった。それで首を大きく前方に傾けようとしたところで、王子がそれを手にとって、フランソワに見せてくれる。

 それは、王子の親指の爪ほどの大きさの、丸い小さな玉だった。 

 とろりとした緑色をして、それでいて光を受けて透き通っている。

 フランソワはきらきらと光る玉より、それを見つめる王子の青く輝く瞳のほうが綺麗だと思った。


「…………でも、本物のほうがずっといい」


 王子の双眸が、フランソワの瞳をひたととらえる。

 その眼差しにこもる熱を受け止めきれずに、フランソワは瞬きを繰り返した。


 すると王子が、今度は柔らかく微笑んで……。

 その笑顔に惹き込まれるように、フランソワの表情も自然と笑顔をかたちづくっていた。




「これはもとは一つの石だったものを、二つにわけたものなんだ」


 言われて箱をよく見れば、王子の手にある石ともう一つ、色も形もまったく同じと思しきものが箱の中に残っていた。


「ひとつを僕に……くださいますか? フランソワ嬢」


 フランソワは息をのみこんだ。

 王子の眼は真剣だ。それが時折、揺らめいている。……心配そうに?


 答えなくては、と思うのに、なんと答えたらよいのか、フランソワはとっさに思いつかなかった。

 だって――――。


 王子様がわたしに『ください』と言っている石は、王子様のものだ。

 なのになぜ、王子様がそのようにお話になるのか?


 もうなにがなんだか――。

 自分の身に起こっている現実に、ちっとも思考が追いついていってない。


 フランソワは、王子の真摯な問いかけに答えるに、今の己が思うことを率直に伝える――ことくらいしか頭が回らなかった。



「……これは、王子様のものです」


 たどたどしい物言いになってしまった。


 たまらなく恥ずかしくて、それでも気になって、フランソワがちらりと、王子の表情を盗み見る。

 王子はにっこりと、――どこか、ほっとしたような笑顔をしていた。


「では、もうひとつお願いが」


 しゅるっと、フランソワの髪からリボンが抜き取られる。

 彼女が驚く間もないほどの早業だった。



「今日の……証にこれを。きみが身につけていたこのリボンを僕に……」 


 



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