ひとり
具合が悪くなったことは、しっかり両親に知られていた。
王子とともに皆のところへ戻ったときには普通に振舞えるようになっていたので、ごまかせるかと期待したフランソワだったが、甘くはなかった。
エマが差し伸べる手を掴んでしまったら、向かう先は寝室だろうか?
――もう、お昼寝の時間?
この間、眼が醒めたときには、王子様はもう帰ってしまった後だった……。
眼の前にあるエマの手から、王子のほうへと視線を移す。
即座に、こちらを見つめる王子の視線とかち合った。
どきり、と心臓が縮むような驚きにフランソワは眼をそらそうとして――。
すぐに戻した。
瞬きするほどのほんの一瞬のことであるのに、サファイアの双眸が、寂し気にゆらめいた気がしたのだ。
――――その残滓が、なぜだか小さなフランソワの胸をえぐった。
……………………気になる!
どんなに愉しくても、その時がきたらその場からお別れするのは、フランソワにとって当たり前の決まりごとである。
兄たちや両親と過ごしているとき、庭に出てお気に入りの場所でくつろいでいるとき……、いかなる場合でも例外はなかった。
これまで兄たちがあんな眼をして寄越すことはなかったし、フランソワがもう少しこのままいたいと願っても、いつでも気持ちよく送り出してくれる兄たちにうながされ、愉快な心持ちの余韻に浸りつつその場をあとにすることができたのだ。
兄たちを、そこに残して。
王子と二人で過ごしたあの時間は、フランソワにとって特別だった。
――王子様もたぶん……。
そう感じてくれていたら嬉しい! これが彼女の素直な気持ちだ。
――――王子様のあの眼の色は、わたしを責めたり、決して怒っているのではないと思う。
そんな王子をあっけなく、ただ次の予定の時間が来たからと、ひとり残していこうとしているフランソワを。
だが……。
彼が落胆している。それがひしひしと、フランソワに伝わってくる。
そして、彼をそうさせている原因が自分なのだと、フランソワは幼いながらに理解した。だから落ち着かない気分にとらわれるのだ。
その眼が、訴えてきているような気がして……。
この場に残ったほうがいいのではないだろうか?
彼は、大切なお客様。――王子様、なのだから?
…………ううん。わたしも、もっと一緒にいたい。
フランソワは伸ばしていた手をひっこめた。
「……あの。もう少し、あとではダメ? 王子様にいっぱいお世話してもらったの、わたしちゃんとお礼も言ってなくて……それでもう少しだけ……」
王子様と一緒に――――。
その場に居合わせた人物たちが見せた各人各様の反応に、フランソワが思いきって言おうとしていた言葉は尻すぼみに消えていった。
まず。
王子が、喜色を浮かべた。晴れやかな笑顔はまるで花が咲いたようで、フランソワも嬉しくなった。
母が、大きく眼を見開いた。
……どうして? ちゃんとお礼をしたほうがいいと思ったの。なんでそんなお顔をするの? いつもお母様が言ってることなのに……。
エマの顔が、戸惑いから瞬時に変わった。わずかに眼を細めている。
……え? なに? なにがおかしかったの?
兄たちの表情が、見る間に冷えていく。
…………? え? え?
あとは……。
「お礼だなんて、フランソワ。きみがそんなことを気にかけることはないよ」
フランソワがまわりに気をとられているうちに、王子が喜び勇んでフランソワとの間合いをつめてきた。
今にも手を握らんばかりの勢いに、フランソワの心臓がどきどきしてしまっている。
兄たちの表情が年齢が下にいくほど剣呑なものを帯びていったが、フランソワにそれと気づく余裕などない。
兄たちはともすればフランソワにスキンシップ過多である、――――かまいすぎると注意されている。
もっとも兄達のことを大好きなフランソワは、そんな事情など露しらず相手にされないと自分からひっついていっていたのだが、いつしか兄たちの些細な表情の変化を感じとり、「甘えられないときもある」ということを覚えはじめていた。
対して、王子様は、全力でかまってくる。
兄たちと違って、そこは「お客様」だから?
――――よくわからない。
王子様が考えてることなんて、フランソワには。
けれど兄たちにかまわれているときは、嬉しかったり、ちょっとうるさかったりなんてこともごくたまにはあるけれど、こんなふうに妙に心がざわついてしまったり、などということはない。
「もちろんきみがそう思ってくれているのは僕にとって喜びだけど、それより僕は、きみが僕と同じ気持ちでいるんだってことが嬉しくてたまらない!」
……王子様が喜んでくれている。
――よかった! とフランソワは思った。
まくしたてた王子の話は、半分もわからなかった。というより彼の顔が近すぎて、フランソワの意識はそちらに集中してしまって、耳にほとんど入ってこなかった。
とにかく、王子の無邪気な笑顔に、いくらか気持ちが軽くなった。
ところが。
「ダメだ! ちゃんと日課の昼寝は守りなさい、フランソワ。申し訳ございません、殿下。娘の体調のことは家族であるわたしどもがよくわかっております。しかも先ほど、娘は気分が優れず殿下のお手をわずらわせてしまったと聞き及んでおります。であるなら、なおさら娘には普段どおりじゅうぶんな休養をとらせてやるのが肝要かと存じます。また明日も、明後日もありますゆえ……」
さほど大きな声ではなかったが、威厳ある低音が狭くはない玄関ホールに響き渡った。
母とエマが、ほっとしたように顔を見合わせている。
兄たちの表情から険がとれ、神妙な顔つきになった。
王子は不満そうな顔を垣間見せたが、すぐに言葉の意味するところを悟ったのだろう。ぎゅっと唇を引き結んでいる。
フランソワは、こと自身の体調に関わる問題が絡んだきの父は、なにを言っても無駄だと知っていた。
――――また……。
わたしが、もっと元気な女の子だったら。
時間なんて気にしないで、いっぱいご一緒に遊べたのに。
それこそ、――遊びつかれるまで。
いつだって、さっきみたいに互いが同じ気持ちでいられる、とは限らないのに。
気がのらないときだって、きっとある。
……いつもわたしだけ、時間になると遊びの輪から抜けていく。
遊びたい! と思うときに、遊べない。いいところでいなくなるって、――――つまんない、……と思う。
兄様たちは、わたしが妹だから、それでも変わらず遊んでくれるけど……。
珍しく嬉しいことが続いて、はしゃいで、……失敗してしまった。
浮き立って、一時ははちきれんばかりに膨らんでいた気分があえなくしぼんでいく。
「……はい、お父様」
エマに手をひかれて、フランソワはとぼとぼと玄関ホールをあとにした。
彼女は、王子のほうを振り返らなかった。
王子の顔を、見ることができなかった。
わたしだけ、おいていかれる。
ひとりで、取り残されて……。
――――ふと瞼を上げれば、色彩も、何も無い空間にいた。
前後左右も、上下の感覚すらも覚束ない。
自分は確かに立っているはずなのに、足元を支えてくれているものの存在が感じられない。
ひどく不安定で心もとなくて……。
何かにすがりつこうと腕を伸ばす。
…………?
フランソワはもう一度、力の限り腕を伸ばした。
腕が、見えない。
伸ばしているはずの腕が。
恐る恐る、視線を下へとおろして――――。
そこで、眼がさめた。
いやな汗で全身がぐっしょりと濡れている。
おぼろげな視界に、見慣れた天蓋が徐々に形をなしていく。
「……お目覚めだね。ちょうど起こそうかという頃合いだった」
しわがれた声がして、フランソワの汗ばんだ顔に冷たいものがあてられた。
マルセルが水を固く絞った手巾で、丁寧に汗を拭き取ってくれる。
マルセルは優しく何度もそれを繰り返し、こわばった手つきながらもフランソワを着替えさせてくれた。
「……温泉?」
マルセルの身体から髪につかう香油に混じって、ほのかに温泉の独特の匂いがした。
フランソワの呟きを耳にしたマルセルが、にっこりと笑む。
「ああ。さっきまで堪能させてもらってたよ。ほんとうにいい湯だった」
節くれだった両手をさすりながら、
「おかげでずいぶんほぐれて、楽になった。今頃は、殿下もカトリーヌの温泉の素晴らしさにご満足なさってることだろうて」
茶目っ気のある語り口で、フランソワの眼を覗きこむ。
「ここまで来て、温泉に入らないで帰るってほうはないからね」
……王子様も?
フランソワは、つと心に広がる不安を口にしていた。
「……王子様、愉しい、……かな?」
それは、フランソワが家族やエマや使用人たちの前では、決して言葉にしてこなかった思いだった。
「……ん?」
「だって……」
フランソワにとって、温泉にはいるという行為は、あくまで治療の一環としてである。いつも決められた工程にしたがって、彼女は入浴した。
温泉場ですべきことも、その順序も、時間も、すべて定められたとおりに――――。
「……やれやれ。大切に思うあまりに、かえって肝心要の部分がおろそかになってるようだね。さしもの伯爵も、いざ愛娘のこととなると柄にもなく青二才ぶりをさらしているって、こいつはおかしいね」
マルセルの分厚いてのひらが、フランソワの背中を撫でる。血管の浮いた手の甲や指の印象からは想像もつかない柔らかさに、フランソワの緊張がしだいにとけていく。
「伯爵とは、おまえが殿下と庭で過ごしている間に少し話しをしたんだが。……帰る前にもう一回、時間をとってもらうとしよう」
マルセルはフランソワの左手を彼女の手にのせてつつみこみ、ぽんぽんと軽くたたいた。
「大丈夫。温泉は、心と身体を癒してくれるものなんだ。王子様も、おまえと会うというので忘れていた旅の疲れを、ゆったりと湯に浸かって洗い流していることだろう。王都にいたんでは味わえない贅沢を、ありがたぁ~く頂戴しているよ」
「……贅沢?」
王子様が? ……温泉を、贅沢?
不思議そうな顔をするフランソワに、マルセルはいよいよおかしそうに笑い出した。
「一年の大半をカトリーヌで過ごすおまえには、まして温泉にはいるのはおまえの意思とは関係がない。なるほど、これが贅沢だなんて確かに思えないかもしれないね」
フランソワの顔が曇る。
それは、フランソワがもっとも気にしていることだった。
「……あぁ。まだ子供だから、小さいからわからないだろう……って、……そんなことはないんだってことは、わたしが一番よく知ってるよ。かつて、わたしがそうだった」
マルセルの手の中のフランソワの左手に、わずかに力がこもった。
「でもそれは、おまえをないがしろにしているからじゃない。それはわかっているだろう?」
わかってる。むしろ、とても、とっても大切にされている。
フランソワは大きくうなずいた。
「……いい子だ」
――――ぽた。
腕に落ちた涙の感触で、フランソワは自分が泣いているのだと知った。
あたかもありえないものでも見るかのように、視界にいれた流れ落ちる水滴は、すぐにぼやけて見えなくなった。
涙が、とめどなく溢れてくる。
ひとしきり泣いたあと、フランソワはぼんやりと火照った頭でマルセルの言葉を聞いていた。
「…………なんで? なんて、考えなくていい。自分でもどうにもならないことなんて、たくさんある」
ふとてのひらの上をなにかがなぞる感触がして、フランソワはそちらに眼をやった。
マルセルが、フランソワのてのひらに、かさかさの指で文字を書いている。
何度も……。
「……空?」
「あたり。よくできたね。わたしは神殿暮らしが長いからね、いわゆる閉じた世界のなかで生きてる人間だ。だから、ね。……空を見ることにしてるんだよ」
……それって、今の自分と近いってこと?
フランソワは首を傾げた。
でも。
「……なぜ?」
――――空……?
「なぜって? 考えるな、って言ったろう。そうやって眺めるもんなんだよ、空ってのは」




