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アイリス


王子シャルル:七歳、 フランソワ:五歳です。


 流れ落ちる水のカーテンの向こうに、鮮やかなアイリスの花の群れが広がる。

 水のフィルターを通してゆらめく色彩は、艶やかで涼しげな雰囲気を醸し出しており、舞い上がる飛沫で白くけぶる滝つぼには、降り注ぐ柔らかな陽射しを受けて七色の丸く小さな虹がかかっていた。



「――わぁ!」


 フランソワは眼を瞠った。

 色とりどりのアイリスが咲き乱れる一画からさほど離れていない場所に、人工的につくられた丘に流れる小さな滝がある。

 いつも外からしか見たことのなかった滝を、彼女は今、内側から眺めていた。




 アイリスが見たい、と所望した王子は、フランソワにその案内を請うた。

 その場には、アレンもいた。

 フランソワのすぐ上の兄であるアレンは、同い年の王子の遊び相手としてたびたび王宮にあがっていた。

 王子の突然の要望に驚いてしまったフランソワは、彼女のすぐ隣で兄が不服そうに唇を尖らせるのに気づかなかった。


 むしろ、彼女は嬉しかったのだ。

 兄妹のなかで一番下のフランソワに、兄たちをさしおいて頼みごとをしてくる者などこれまで誰もいなかった。

 兄たちが頼りにされそれを手際よくこなしていく姿を、フランソワは彼らの後ろにひっついてまわりながら身近で見て育ってきた。

 フランソワにとってその姿は、憧れであり羨ましくもあった。

 なかにはただ物を運んでいるだけの、取るに足りないように見える雑用もある。

 

 このくらいなら、わたしにもできるのに!


 そう思って声をかけても、兄たちは笑って丁寧にフランソワをなだめるか、申し訳程度のささやかな仕事をまかせてくれるだけである。


 それが、――「大切なお客様が、わたしにお願いをしてくれた!」


 瞳を輝かせるフランソワを、まぶしそうに見つめる王子の眼差しにも、彼女は気がついていなかった。



 フランソワが先に立って庭園を進んでゆく。フランソワは道すがら目についた植物についても王子に紹介をした。王子は愛想よく聞いてくれて、ときおりちょっとした質問もはさんでくる。

 ちゃんと聞いてもらえてる、――と実感できて、得意になったフランソワはいつもよりずっとおしゃべりになった。

 植物ひとつひとつのきめ細かい観察という面においてなら、ずっとここで療養しているフランソワのほうが兄たちより詳しいこともある。

 それらを披露しながら進むうち、いよいよアイリスの花々が前方に見えてきた。

 そこまで来たところで、王子がなにごとかアレンに耳打ちをした。

 アレンはつかの間、迷うような素振りを見せたものの、「すぐ戻ってまいります」と王子に頭をさげて来た道を急ぎ引き返していった。


 アレンが去って、王子とフランソワのふたりきりになった。

 実際は王子の意向でかなり遠巻きに警護の者たちが配されているのだが、ふたりからはまったくその存在が感じられない。


 彼は今回、表向き王子としてではなく神子見習いの子供としてマルセルに随ってきた。

 わがままを通すにあたって、マルセルからは一日遅れてこの屋敷へ到着することを承服させられた。

 それで彼は長旅で体調を崩したために、昨日一日領主館に留め置かれたということになっている。


 ゆっくりと周辺の庭の景色を見渡す王子の服の袖を、フランソワの小さな手がつかんでひいた。


 アイリスの庭はもうすぐだ。


 王子が少し驚いたように眼を見開いて、フランソワを見つめる。


 あ! とフランソワがすごすごとはずした手を、今度は王子の手が優しくつつんだ。


「もうすぐだね。行こう」




 一面のアイリスを前に、フランソワは満面の笑みをたたえて王子の顔を見上げた。

 昨日マルセルと訪れたときより、いちだんと見事に咲きそろっている。


 王子様に、こんなに綺麗なアイリスを見てもらうことができた!


 フランソワは、心から喜んでいた。


「すごい! 聞きしに勝るあでやかさだね……」


 王子も感嘆のため息をもらしたあと、フランソワに極上の笑みを返してくれる。

 その笑顔に引き込まれるように見入るフランソワの眼に、日光が飛び込んできた。 



 不意に、くらり、ときた。


 おりしも晴れ渡った青空のもと中天にさしかかりはじめた太陽の光が、フランソワにはまるで放射状の光の槍となって突き刺さしてくるかのように堪える。

 視線をまっすぐ前に戻しても視界はくらみ、フランソワは立っているのが辛いと感じた。

 呼吸が早くなり、気持ちの悪い汗が額と背中にじっとりと滲みでてくる。

 身体の表面は熱く火照っているのに、身体の芯は重く冷え切っていた。


 今日はいっぱいいいことがあって、はしゃぎ過ぎたようだった。

 夢中になって、フランソワはつい加減を忘れてしまった。

 フランソワは、自分でもイヤになるほど体力がない。他の子供であれば苦にもならないような運動でも、すぐにへばってしまう。無理がきかない体質だった。


 

「……フランソワ? 涼しいところへ移動しようか?」


 お客様の手前、気分が悪いと言い出せずにいたフランソワに、早々に気づいてくれた王子の心遣いはとてもありがたかった。




 王子がフランソワの身体を支えて、近くに立つ木陰へと連れてきてくれた。

 木の根元にフランソワをそっともたせかけると、労わるように手巾でフランソワの額の汗をぬぐってくれる。


「ここでちょっと待ってて」


 そう告げて灌木の茂みの向こうへ消えた王子が戻ってくるまでに、いったいどのくらいの時間がたったのか、フランソワにはわからない。


 朦朧とするフランソワに、王子はポケットから一粒の果実を取り出してフランソワの口に含ませる。

 条件反射で噛んだ果実はぷちりと軽い音をたて、口のなかいっぱいに甘くみずみずしい果汁が広がった。

 たったそれだけなのに、弱ったフランソワの身の内に滋養がしみいっていくようで、人心地がついたフランソワは大きく息を吐き出した。


「ここよりもっと涼しくていいところがある。そこで休もう」


 身体を動かすのも億劫だったが、王子に励まされようよう立ち上がる。

 しどけなく王子にもたれかかる自身の姿を、このときのフランソワは気にかける余裕すらなかった。




 ――こんなところに、こんなものがあるなんて。

 

 フランソワは知らなかった。


 薄暗い地下へと続く通路。王子の持つ手燭の灯りがなければ、ここは本来真っ暗な場所のはずだ。

 ぼんやりとしながらも地面にあいた穴のなかに入っていくのだと知って、戸惑いがなかったわけではない。躊躇するフランソワに、先に穴のなかにはいった王子が両手をのべて彼女の身体を抱きいれてしまった。


 普段のフランソワなら、きっと気味が悪くて怖気づいたことだろう。

 だが今は、その暗さもひんやりと湿った空気も、心地よいと思った。少なくとも、外にいるよりはずっとマシだと。


 王子がまたひとつ、果実を差し出してくれた。今度はちゃんと受け取って、自分の手で口へと運ぶ。

 フランソワが口にするのを見届けて、王子もまた自分の口へ果実をほうりこんだ。

 その甘さにほころぶ顔をお互いに確かめあって、王子のあいたほうの手がフランソワの手をしっかりと握る。


「大丈夫。すぐに着くから」


 王子に導かれて、フランソワは仄暗い石造りの通路を転ばないよう慎重に歩いていった。





 そこは、小ぢんまりとした空間だった。

 東屋より少し広いくらいのスペースに、窓側に向けて大理石でできたテーブルと長椅子が設置されている。

 出入り口近くに並ぶ台の上には、飲み物や菓子に果物、食器がのった盆と、布が重ねて置かれていた。


「よかった。ちゃんと伝わったみたいだ」


 シャルルは満足げに微笑むと、一枚の長方形の布をとり椅子に敷いてフランソワに座るようにうながす。

 布は薄く詰め物がされているらしく、座り心地は申し分ない。

 フランソワにはもっとよく外を眺めていたい気持ちもあったが、腰掛けたとたん急に疲れが押し寄せてきた。


 グラスに注いだ果汁をシャルルが一口含んだあとで、それをフランソワに持たせてくれた。

 こくこく、とフランソワが喉を潤しているそばで、シャルルが目の前のテーブルに果物や菓子を運んでくれる。

 ひざ掛けまでかけてくれる甲斐甲斐しさに、フランソワは、そういえばとっても世話好きな王子様だったと思い出していた。


 絶え間なく流れる水の音は耳に心地よく、しっとりと冷気を含んだ空気は気持ちよくフランソワの火照った身体を癒した。


 しばらくここで過ごすうち、ともすれば菓子や果物を手ずから食べさせてくれようとするシャルルに、もう自分でできると納得してもらえるくらいには、フランソワは回復した。



「……ここは、王子様だから、特別に入れるお部屋なんでしょうか?」


 気分が落ち着いてくると、フランソワはあることが気になりだした。

 子供のフランソワがまだ入ってはいけない部屋が、屋敷には数多く存在するのだ。


 もしかしたら、ここもそうなのではないか?


 おずおずと尋ねるフランソワに、シャルルは破顔した。


「どうだろうね? でも今日、僕がここに来るのはきみのお父上もご承知のうえだ。僕がひとりでないことも、たぶんね。だから気にすることはないよ」 


 フランソワが安心したように笑顔になる。

 シャルルはその横顔を見つめグラスに残った果汁を飲み干すと、誰にともなくつぶやいた。


「昔、この屋敷で王様が『アイリスを見る』と言ったら、ここで過ごす、って意味だったんだ」



 王宮はもちろん王家が所有する屋敷には必ず、隠し通路が設けられている。

 いざという時の緊急脱出用なので、王家でその在り処を知る者は国王と王太子のみであり、他家に、ましてや他国に嫁ぐ可能性のある王女にはその存在すら決して知らされることはない。

 この屋敷は比較的国内外の情勢が落ち着いてきた頃に建てられたので、地下通路の枝分かれした先のうちにはこんなお楽しみの場所も用意されていた。ここは避難経路からはずれているため王妃も知る、いやそもそも王妃と水入らずで過ごしたいと画策した国王によりつくられた秘密の隠れ部屋だった。


 滝側にあけられた窓からは流れ落ちる水越しに庭を眺めることができるが、外からは滝つぼから二メートルほど上方の岩壁に直径六十センチくらいの小さな穴があいているようにしか見えない。



 傷みもなく室内の整然と手入れされた様子から、エルガー伯爵が少なくともこの部屋とここに通じる通路は現在も使用しているのだと知れる。




 シャルルが伯爵にその旨の希望を伝えたのは、昨晩、寝所にひきあげる直前だった。


「父上からレムの屋敷にはそれは見事なアイリスの園があると聞いてきた。眺めも秀逸だと……。僕もぜひ一度この目で見てみたいな」

 

「……今の時期、庭で一番の見所です。ぜひご観覧ください」


 とだけ、伯爵の返事は実にあっさりとしたものだったが。


 通路への入り口は子供の力でも対処できるように、すでに半ば以上開けられていた。

 カモフラージュにさえ気がつけば、通路に入ることができるようにお膳立てがされていた。巧妙に隠されてはいたが、あらかじめ聞かされていた場所と変わってはいない。それをシャルルは難なく見抜いた。





 初めて目にする光景に、フランソワは顔に飛沫がかかるのも構わず窓から身を乗り出して外を見やった。


 具合がよくなると、フランソワはシャルルに窓辺に寄って外を見たいとお願いした。

 快く同意したシャルルに礼を述べるやいなや、フランソワは窓へと駆け寄った。


 一心に素晴らしい景色に心を奪われていたフランソワだったが、ふと感じた違和感に肩に眼をやって息を飲んだ。

 いつの間にか自身の両肩には肩掛けがかけられており、その上にシャルルの手が添えられている。


 落ちないように心配をかけてしまったのか、とフランソワが急いで身体をひっこめると、彼女の捲毛が、頭ひとつ分高いシャルルの顔をかすめた。


 いきなりのフランソワの行動に意表をつかれたのか、シャルルが苦笑をもらしたようだった。

 髪に、シャルルの吐息がかかる。


 フランソワは、むしょうに照れくさくなった。

 ひいたはずの熱がたちどころに上がってきて、心臓をせわしなく叩きだす。

 気分はまったく落ち着かないのに、身体はなぜだか固まってしまって身じろぎひとつできないでいる。

 



「髪を伸ばしたんだね、とても素敵だ」


「…………ありがとう……ございます」


 こう真っ向からてらいもなく褒められて嬉しくないわけではないのだけど、それよりも気恥ずかしさのほうが先にたつのはどうしてだろう。


 不可解な感情に、フランソワがのんびり悩んでいるひまなどなかった。


 シャルルが、フランソワの髪をひと房すくいとり、なんとくちづけている。


「…………」


 




 ――――王子様というのは、こんな物語の登場人物のような行いも、台詞も、堂々と、しかもさらりとやってのけてしまえる方なのか。


 兄たちが妹を甘やかすなかで、或いはどこか似たような場面があったかもしれないが、それにしてもニュアンスが決定的に違っている気がする。

 フランソワが褒められ慣れしているからこそなのか、幼いながらに彼女はその微妙な違いを肌で感じ取っていた。






「……真に恐れながら……、殿下、そろそろお戻りいただきませんと……」


 音も無く控えていた迎えの言葉に、シャルルは鷹揚に頷いた。


 


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