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再会


 …………やっぱり、ドレスがよかった……。


 降り立った貴人の姿が目にはいった瞬間、フランソワは自分の装いを後悔した。


 香気が、ふわりと波紋のように彼を中心に広がっていくのが見えた気がした。


 フランソワは、このときに初めて知覚した。


 彼は、――「特別な人」だと。

 彼が現れてから、周囲の空気が変わった。

 父が変える空気とは、明らかに違うものだ。

 どちらかといえば、母に近い。


 なぜそう感じたのか、理由なんてフランソワにはわからない。

 フランソワがまだ幼いからとりわけ鋭敏なのか、それとも皆がフランソワと同じように感じ取っているのかさえも。

 ただ、彼と対面するのに本当にこんな姿でよいのかと、子供ながらに不安と羞恥がフランソワを襲った。



 今朝から、何度も母に確認をした。侍女のエマにも……。

 二年前の、あの男の子が来ると知って。


 あの時は、フランソワはドレスだった。兄たちの身なりも正装だった。

 屋敷は違えど二回目の訪問だから、とでもいうのだろうか。

 二年前のあのものものしさとは、様子が違う。


 そういえば王子だという男の子の服装も、二年前のような仰々しさはない。

 今日の兄たちの装いと同じく、素材は最高級だが二年前のそれとくらべるとこざっぱりとした印象だ。

 そして、フランソワはそれを素敵だと思った。


 近付いてきた男の子ににっこりと笑顔を向けられ、フランソワが抱いたこの小さな疑問はすっかりとってかわられた。



 迎えに出たフランソワたちから数歩の距離で立ち止まった男の子に、家族に続いてフランソワも礼をとる。

 二年前と同じようにスカートの端をつまもうとして、自分がドレスではないということにはたと気づいた。


 ――――いや。そんなことはわかっていた。

 昨日も、男の子の恰好でマルセルに挨拶をしたのだ。

 兄たちにならって、胸に手をあて貴族の男子のする礼を。

 あとで「とても素敵な礼でしたよ」とマルセルに褒めてもらえて、誇らしかった。

 何度も服装のことを母にたずねるなかで、フランソワは王子にどう挨拶をするかについてもちゃんと答えをもらっていた。

 昨日と同じ、でよいのだと。


 だのに、彼に見惚れて、そのことがフランソワの意識からすとんと抜け落ちてしまっていた。

 せつな頭がまっ白になって、フランソワは固まった。


「…………」


 突如動きの止まったフランソワに、王子はもちろんこの場に居合わせた皆の注目が集まる。



 どうして? ……どうしよう?


 なぜあらかじめ今回のために練習していた礼ではなく、二年前のあのとき以来まったくする機会のなかった淑女の礼をしようとしたのか?


 わけがわからず、フランソワは混乱した。

 行き場を見失い、フランソワの両手が両脚の横で力なく閉じられていく。

 その右手に、そっとふれてくるものがあった。


「フランソワ。また会えて嬉しいよ」


 甘さを含んだ声音が、思いもよらぬ至近でもたらされる。

 フランソワはびくりと震えた。

 焦点の戻ったフランソワの目線のそのすぐ下に、薔薇色をした唇に白く儚げな指先をあてがった王子の顔がある。

 フランソワの反応に呼応するかのように、王子の伏せられていた瞼がゆっくりと開いていく。長い金の睫毛の下から陰を帯びたサファイアの瞳が、上目遣いにフランソワをひたととらえた。


 間近でまともに王子と眼があったとたん、フランソワは身を硬くした。ところが縮こまろうとした身体の、右手だけがなにかにひっぱられている。

 そこでようやく聴覚と視覚以外の部分の感覚を取り戻したフランソワは、右手をとらえている感触に、ついで先ほど王子の口元に見えていた抜けるように白い指が自分のものであったことに気がついた。

 フランソワは二重にあわてた。


 あまりにびっくりしすぎて、せりあがってきたはずの悲鳴を声になる前に飲みこんでしまったほどだ。

 とっさに無我夢中でひいた手は、今度はすんなりとフランソワの胸元に戻ってきた。






「案の定、殿下に連れていかれてしまったねぇ」



 そう語るマルセルの表情は、どこか楽しそうだ。

 自室にあてられた部屋の窓から目を細めて庭を見やるマルセルの横顔は、神に侍る国王の代理人としての姿が影を潜め、静かに忍び寄る人生の終焉の足音を聞いているただのひとりの老婆に見える。


 ティーポットを持つ手が震えているのに気付いたカトリーヌは、不安を振り払うようにつとめて明るく声をかけた。


「昨日のうちにいらしたのは正解でしたね、殿下は相変わらずというか、……王家の性を久しぶりに目の当たりにして、息子や使用人たちの手前いたたまれない思いをいたしました」


「おまえさんだって殿下くらいの年齢のときには、あれが当たり前だと思ってただろうに。わたしだってそうだった」


 吹き込んできた風が、テーブル脇の花台の花瓶にいれられたアイリスの花を揺らしていく。


「ファウリーシュでは、よその国よりよっぽど国王のイメージは大切だからね。王自身の人品ばかりか、国王一家が健やかで円満であることも求められる。でもって物心つく前から、いいや母親の胎にいるときから二親のイチャイチャぶりを見せつけられて育つんだ。まして王位を継ぐ可能性のある男子なら、なおさらね」


 ありし日の思い出を手繰り寄せているかのような眼差しで、マルセルは微笑んだ。

 それは幸せそうでありながらも……。



 カトリーヌの淹れてくれた紅茶を、マルセルは時間をかけてじっくりと味わった。

 カップをソーサーの上に置いたマルセルの節くれだった手は、膝の上におろされることなくまるで抱き込むようにカップにふれている。


 視線を落としたまま、とつとつとマルセルは語りだした。



「……カトリーヌ。わたしはおまえに謝らなければ、とずっと思っていたことがある。老い先短いこの年寄りが、召される前に昔暮らした思い出深いこの屋敷のこの部屋で、こんなふうにおまえと二人きりで話をする機会を与えられたことに、とても感謝しているよ」


 なんとなく、カトリーヌには予感があった。

 マルセルが長期にわたって神殿を離れるなど、異例のことだ。

 ただ療養のためだけにはるばるやって来るのではないのだろうということは、カトリーヌも、そして恐らくは伯爵も察していた。


 黙したまま静かに耳を傾けるカトリーヌに、彼女の言葉を待っていたらしいマルセルはおもむろに面をあげて、その白く美しい顔をじっと見つめた。


「おまえが産まれて間もないころ、わたしがおまえのことを「橋渡し」となる娘だと言ったばかりに、他国の王子との縁談で、それは辛い思いをさせてしまった……」


 ほっそりとしたカトリーヌの肩が、ぴくりと震える。


「……そのようなこと……」


 もう忘れていた、カトリーヌにとってそれは忘れていたい出来事だった。

 思い出と呼ぶには、あまりに苦すぎる――。



 カトリーヌとて第一王女として生を享けたからには、相応に覚悟をしていたつもりであった。

 見も知らぬ他国の、会ったこともない王族のもとへ嫁ぐであろう己の未来を。

 持ちあがった縁談が、いずれも友好国というよりは微妙な緊張関係が続いていた国の王子であったのには、マルセルの言葉の影響が確かにあったかもしれない。

 だがそのあとに双方の国を襲った不運と不幸は、マルセルの言葉とは関係のないものだ。


 むしろあの忌まわしい出来事がなければ、カトリーヌがエルガー伯爵のもとに嫁ぐことなど到底かなわなかった。

 そう考えることで、彼女は自身を立て直し前向きに生きてきたのだ。


 それというのも現在ファウリーシュを治めるヴリア王家の初代は、他を圧倒する強大な武力を背景にしてたった王ではない。それゆえ過去においても、王家が特定の勢力と親密になりすぎるのを、殊にひとびとは警戒した。

 そしてそうした懸念を抱かれる一族のうちの筆頭にあがっていたのが、アルティエ家であり、当時その継嗣であったエルガー伯爵であった。




 ――――打ち続いた戦乱の果てにいつしかひとびとの間で、どの領主が、どの豪族が、どんな勢力が覇権を握ろうとも争いが収まることはないという厭世観が浸透していった。王権は機能せず、それぞれが己の野心と保身のために勝手に行動し、或いは様子見を決め込む。疑心と不信の連鎖は止まらず、不満を持つ者たちがが蜂起してはそこかしこで不毛な戦闘を繰り広げた。そのうちに、他国の脅威が看過できぬところまで押し迫ってきた。

 もはや国としての体をなさぬほどに荒廃したファウリーシュの危機に、疲弊した人心を結集するための旗印として担ぎ出されたのが、ヴリア王家初代の国王だった。

 国王として初代に求められたのは、徳と公正さと抜きんでた調整能力。

 初代の「神とみまごうほど」と称えられたその美貌も、それにひと役買ったのだ――と、カトリーヌは伝え聞いている。




 あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。

 エルガー伯爵はなにかと貴婦人方の間でも有名な御仁であったが、カトリーヌは彼とは公式行事で形式的な挨拶を交わした程度だった。

 カトリーヌの心に彼のことが忘れがたく刻み付けられたのは、初の外征から帰ってきた弟が、最も信頼を寄せる相手。帰還の挨拶の終わったあとに、改めて弟から紹介された折であった。

 うら若い乙女だったカトリーヌの眼に、無骨だが、王太子にも自分にも変に身構えすぎることなくまっすぐに向きあおうとする騎士の姿勢がどれほど眩しく映ったことか。


 その後、彼とは、不思議な縁で結ばれた。


 しかし、――とカトリーヌは思う。

 アルティエ家は建国以来、王家とは絶妙の距離感を保つことで政争に巻き込まれるのを極力回避してきた一族だ。大きな浮き沈みを経験してこなかったぶん、ひっそりとだが着実に勢力を拡大してきた。


 あの忌まわしい出来事と、それがためにカトリーヌについてまわった不吉な噂の件を抜きにしても――。

 もとよりカトリーヌとの縁組を、アルティエ家は、夫は、ほんとうは望んでいなかったのではないか?




「若気の至り、と言うんだろうね。滅多にあることではないんだよ。「天啓」が降りる、……なんて経験。あれがまさしくそうだと思った。そう考えたら矢も楯もたまらなくなって、軽々しく他の者に明かしてしまった。その意味するところを深く読み取ることをしないまま……」


「……マルセル様?」


 言わんとする言葉の意味をはかりかねて問うたカトリーヌに、マルセルはさながら子供の悪戯を発見したときのような眼をして答える。


「おまえは知っていたかい? おまえのとこの次男の名前だけど、あれは異国の神だか精霊だかに通じる名前だ。よほど遠い異邦の地だから、ファウリーシュでそれとわかる者はまずおるまいが……。どうやら伯爵は嫡子に王族の名前をつけられて周りがやっかむほどには有り難がってはないようで、そこはさすがにアルティエ家と言うべきなんだろうね」


 ふふ……と笑ってから、マルセルは続けた。


「おまえが嫁いだ一族は、国に、いいやもっと突き詰めれば代々受け継いできた土地にこそ忠誠を誓ってる一族だ。ひとたび王を見限れば自ら進んで事を構えたりはしてこないだろうが、いざ事が起こったときには王家のために一兵たりとも動かしはしないだろう。……おまえは、見事に橋渡しをしてくれたよ。……ありがとう!」


 驚いたカトリーヌが立ち上がりかけたのを、マルセルが手で制する。


「大叔……マルセル様……、わたしはそのような。それにあの人は陛下に忠節を尽くしてくれております」


「当代はね。代替わりしたら、どうだろう?」


「…………まだ、先のことかと存じます」


 カトリーヌはわなわなと自身の手が震えるのを隠すことができないまでに動揺していた。


「……そうだね。年をとると、どうもよけいなことばかり考えてしまう、忘れておくれ。でもね、カトリーヌ……」


 哀しみに沈んでいくカトリーヌの瞳を、マルセルは愛おし気に見つめる。


「これだけは、確信をもって言えるよ」


 これだけは、伝えようと思ってきた。死ぬ前に、伝えなければならないと。

 運命に翻弄されてきた、同じ王家の血をひく可愛い娘に……。



「あの男は、おまえだから命を賭けたんだ」




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