宣戦布告……?
「フランソワ」
それは――――本来、男の子に与えられるはずの名前である。
兄弟のなかで婚約者が決まっているのは自分だけなのだと、シャルルは父王から教えられていた。
順番が逆だから、兄たちはもちろん周囲にもこのことは秘密にしているようにと、シャルルは「男と男の約束」まで父王と交わしていた。
いくら賢くても、そこはまだ五歳の子供である。
「お相手の女の子」――この言葉の醸し出す甘い響きにらしくもなく酔いしれてしまったシャルルは、思考の停滞したスキをつかれた。もっともらしく説く父に、念の入った同意を取りつけられてしまったのである。
してやられた! ――――気づいたときには、後の祭りだった。
父以外に、婚約者の情報を得られる手立てをシャルルは絶たれてしまったのだ。
考えあぐねたシャルルはじっとしていられなくて、国内のありとあらゆる女の子の名前を洗いだす、なんてことまでやっていた。そうして、まだ見ぬ婚約者の幻を追い求め、日々想像を膨らませていたのだ。
三人の王子たちのなかでも、「最年少でありながら一番聞き訳が良い」と守り役が胸を張るシャルルの焦れる様子を、父王は面白がっていた。ときに妃にたしなめられるほど、わざとシャルルの恋情を煽るような言動を繰り返したりもした。
よくぞこんな父親から、一月余りでお相手の女の子の名前を聞き出せたものである。
――――が。
そうは問屋が卸さない。
婚約者の名前を告げたときの、シャルルと同じ色をした瞳は、そう語っているようだった。
それは、――――まったく予想の圏外にあった名前であった。
シャルルの人生で――このとき、じゃっかん五歳ではあったが――最初にして最大の衝撃、といっても過言ではないだろう。
これで思惑どおりにお相手の令嬢のことをイメージしやすくなるかと思いきや、かえって困惑という名の泥沼にシャルルはどっぷりとはまってしまった。
悶々として途方に暮れるシャルルをさらに不安の淵に追い落としたのは、フランソワの両親の反応である。
ようやく訪れたカトリーヌの地。
滞在先の屋敷にて初めて面会した彼らを前に、フランソワが療養中の屋敷をシャルルが訪問する旨を、父王が一方的に決めてしまったとき――――。
フランソワの母カトリーヌ侯爵は噂に違わぬ至極麗しい顔を微妙にくもらせ、父のエルガー伯爵は明らかに不満顔であった。
仮にも国王である父を前にしてああまでわかりやすい態度を見せる男がいることにも驚いたが、それよりも気になるのは、夫妻のあの表情はいったい何を意味するのか? ということである。
王子たる自分がたずねていくというのに、ここまでハッキリ迷惑そうにされるとは思ってなかった。
しかも、自分は夫妻の娘の婚約者なのだ。
なのに、なぜ?
期待はもちろん、不安もいや増してゆく。
――――そこへもってきての、この、僥倖。
フランソワが入ってきたそのときから、シャルルのサファイアの瞳は彼女に吸い寄せられ、眼があった瞬間、――彼は笑み崩れていた。
自分が、近頃では呆れている母を前にした父親とそっくり同じ表情をしているなどと、シャルルは露ほども気づいていない。父が母によくそうするように、フランソワの手をとろうと彼女の前に進み出ようとした。
しゃなり、とフランソワがお辞儀をする。
彼女のちいさな指は、スカートの生地をつかみきれずにすべってしまった。
花びらのようなオーガンジーの薄い生地だけが、ふわり、と持ち上がる。
わずかに腰の位置が下がり、ほんの少し上体が倒されただけの彼女のしぐさに、シャルルは眼を奪われた。
練習ではとてもここまでできていなかった。フランソワの纏う雰囲気が、練習のときとはがらりと違う。
フランソワが改まった場で貴人に挨拶をするのは、これが初めてである。
カトリーヌをはじめ兄たちは、稚いフランソワのその真摯な姿に、シャルルとは違う意味で目を瞠った。
三歳の女の子にしては上出来のなんとも愛らしい挨拶に、王子一行を迎えて緊張していた場の空気が一気に和んだ。
しかし、しょせんは付け焼刃である。
まだ幼いフランソワの身体は、立ち上がろうとしてバランスを崩し、前後に揺れた。
シャルルがすかさず、手を差し伸べる。
ところが、フランソワより少し離れて後ろに立っていた少年のほうが素早かった。
あっという間にフランソワのすぐ背後に立った少年は、彼女の胴に腕を回し支えると、その左手をとってゆっくりと彼女の身体を持ちあげる。
ダンスの動きを彷彿とさせるような優雅さで、少年は小さな淑女に忠誠を誓う騎士さながらに、フランソワをそっと降り立たせた。
行き場を失ってしまった両手を持て余し、呆然とたたずむシャルルに少年は恭しく礼をする。
「…………大儀」
もしフランソワが転んだりシャルルに倒れこんだりでもしていたら、彼が心待ちにしていた対面の場は気まずい雰囲気に支配されることになっただろう。
それを回避させた功績に報いるに、シャルルはもっと気の利いた言葉を少年にかけてやるべきなのだが、今の彼はこれだけを口にするので精いっぱいだった。
シャルルの労いの言葉に、彼はもう一度礼をしてまた元の位置に退がっていった。
シャルルからフランソワをかっ攫っていった少年は、先ほど挨拶をしたばかりの伯爵家の長男だった。
――――シャルル・エドモンド・アルティエ。
父エルガー伯爵の武勲により王族にしか許されぬ名前を賜りし、七歳年上のシャルルの従兄――。
遅れをとってしまったシャルルは、悔しさに歯噛みしたい思いを必死に堪える。
婚約者の危機を救うのは、僕の役目のはずなのに!
状況を客観的に判断する理性とは裏腹に、感情ではシャルルは自分がフランソワを助けたかったのである。
半面、自分では彼のようにスマートにはいかなかったろうという自覚も、ある。……認めたくはないが。
いかなシャルルとて、子供の時期の年齢の差は埋めがたいものがある。
俊敏さと、そしてフランソワを支えるにたる腕力でも、二人のシャルルの違いは歴然としていた。
シャルルは猛然と、「自分は頼もしい男」――アピールを開始した。
「――はい」
………………また。
フランソワは、ほとほと弱ってしまった。
お客様がまた、フランソワの先回りをしてフランソワの手が伸びる前に目当ての玩具を取って差し出してくれたのだ。
「ありがとう、ございます」
フランソワの一言で、にっこりと極上の笑みが返ってくる。
さっきからずっとそんな調子で、お客様は片端から玩具をフランソワに寄越してくれる。
で、本人はなにをしているかというと、にこにことフランソワの隣に腰掛けてじっとフランソワの遊ぶ様子を見ているのだ。
兄たちと遊んでいるときとは、ずいぶんと勝手が違う。
――――お客様のご希望だからと、子供たちを残して大人たちがこの部屋を離れることになった。
母から、「大切なお客様だから、わがままを言って困らせてはだめよ」と釘をさされたフランソワだったが、わがままもなにも一方的にお客様から奉仕される状態が続いている。
兄たちに甘やかされおっとりと育ったフランソワも、この普通ではない状況がさすがに気になりだしていた。
「大切なお客様」が、理由はわからないまでも気をつかう存在であることは、幼いフランソワにもなんとなくわかっている。
今朝からの屋敷の喧騒や母や兄、使用人たちの様子、お客様をお迎えしてから一変した屋敷内のピンとした空気……。
お客さまに、よくしなきゃいけないのって、わたしのほうなんじゃ……?
それなのに、完全に真逆をいってしまっている。
どうしてよいかわからず、部屋の中央にある椅子から、壁際に設置された長椅子に並んで座り見守っている兄たちに目をやっても困ったような笑顔が返ってくるばかり。
しかも、明らかに不機嫌になるのだ。フランソワが余所見……兄たちのほうへ視線を送ると……。
「ねぇ、フランソワ。ずっと遊んでいて、お腹はすいていない?」
こちらを向いて、と言わんばかりに話をふってくる。
「え? あ、……はい」
確かにちょっとお腹がすいてきていた。フランソワは、素直に答えた。
「うん。だと思った。これは王都から持ってきたんだ。上にのっているのは南方の国から取り寄せた珍しい果物を乾燥させたものなんだけど、すっごく甘くて美味しいんだよ。それでいてしつこくないしいくらでも食べられちゃうけど、食べすぎはよくないからね。僕がとってあげる」
お菓子の上のドライフルーツは、南国の太陽の光を凝縮したような色をしていた。
お客様の手によって、小ぶりのお菓子がつぎつぎと小皿に取り分けられる。フルーツは花のかたちに切りそろえられ、生地は小さな子供でも食べやすいように丸く小さく焼いてあった。
そのまま食べさせてくれそうな勢いに、フランソワが目を瞬くと、お客様の綺麗な顔がほんのりと赤くなった。
「……母上は、こうしてるんだけどな」
と、はにかんで、フランソワの口元へもってきていた焼き菓子を彼女のてのひらにのせてくれた。
「……おいしい!」
フランソワの歓声に、お客様の花のようなお顔がぱぁっ、と輝く。
フランソワはさっきより、もっと大きく瞬きをした。
…………お客さまの今の表情は、…………お口のなかのお菓子より甘い……。
お菓子が美味しいからか、お客様の蕩けるような笑顔につられてか、フランソワの縮こまっていた表情も自然と笑顔をかたちづくる。
お客様は、ますます嬉しそうだ。
もぐもぐと口を動かし、フルーツが歯にくっつく感じがするな、とフランソワが思っていると、
「はい、どうぞ」
とハーブティーのはいったカップを差し出された。これも身体によい飲み物らしい。
なんともはや至れり尽くせり、である。
自分ばっかり、してもらっていてよいのだろうか?
フランソワはふと、そう思った。
フランソワから差し出された焼き菓子を前に、シャルルは固まっていた。
はじめにシャルルがそうしたように、なんとシャルルの口元にまで運んできてくれている。
父上が母上にやってもらっているところはもうイヤになるほど目にしてきたが、いざ自分が、となるとこんなに恥ずかしいものだとは……。
シャルルの顔はみるみる熟れた林檎より赤くなってしまった。
部屋の端のほうで、がたたっ、と音がしたが、そんなものシャルルの耳にはいっこうに届いていない。
動きの止まってしまったお客様の様子に、フランソワは小首をかしげた。
白皙の肌だけが、みるみる赤く染まっていく。
あ! そうか。
手にのせればいいんだ。
不思議そうにシャルルを見つめていたフランソワが、お菓子をつまんだ指をおろしはじめた。
「待って!」
慌てたシャルルが、フランソワの手首を力いっぱいつかんで引き戻そうとする。
とたんに、フランソワの顔が苦痛にゆがんだ。
「あ! ごめん……」
気づいたときには、遅かった。
フランソワの眼に、大粒の涙がたまっていく。
「……フランソワ、ごめん、ごめんよ」
「う………ぅわぁああん」
シャルルの謝罪の言葉もむなしく、とうとうフランソワが泣き出してしまった。
シャルルは焦った。
王宮の奥で大人に囲まれて育ってきたシャルルは、このように泣き喚く子供を相手にした経験がない。ましてや、そういう場面に居合わせたこともない。
どうしたらよいのか、さっぱりお手上げだった。
…………僕が、フランソワを泣かせてしまうなんて!
誰よりも、自分が守ってあげたい女の子を泣かせてしまった!
ショックとどうすることもできない混乱から、シャルルはただおろおろと情けなく、謝罪の言葉を繰り返すことしかできないでいた。
「フランソワ」
頭上で声がしたと思ったら、フランソワの身体が宙に浮いた。
見上げれば、いつの間に傍に来ていたのか、長兄のシャルルがフランソワを抱き上げていた。
「どうしたんだい? フランソワ」
腕のなかでなおもぐずり続けるフランソワの顔を、長兄のシャルルが優しく覗き込む。
兄と眼を合わせたフランソワが、なんとそこで泣くのをやめた。
「…………」
甘えるように兄の胸に身を寄せるフランソワの姿に、シャルルはこれ以上ないほど打ちのめされた。
しかも泣き止んだだけではない。フランソワの周囲に集まってきた兄たちにあやされて、フランソワの機嫌がしだいによくなっていく。
王子として生まれ、その非凡な才を褒められ育ってきたシャルルの、これが初めて味わう挫折と屈辱であった。
このあと、失態を挽回すべく、呆れる兄たちを尻目にシャルルがよりいっそうの過剰サービスにつとめたことは言うまでもない。
――――あの強気の発言も、フランソワの兄たちに向けてのシャルルの対抗意識の現われであったのだが……。
よりにもよってエルガー伯爵家の四兄弟に、宣戦布告をしたに等しい結果になってしまった。
当時まだ五歳の子供だったシャルルが物心つくようになって他人の前で初めて見せた子供らしい行動であったのだが、これ以降、シャルルはフランソワの家族にソデにされ続けることになる。
まさに、シャルル一生の不覚であった。




