夏の日の夢 7
いつも父や兄たちのあとをついて走っていたフランソワは、追われる立場になった経験があまりない。
フランソワは、焦っていた。――――必要以上に。
なんども振り返り、後ろを確認する。
危うく張り出した枝ににぶつかりそうになって、肝を冷やしたことが二度あった。
それでもう、後ろを振り返るのをやめた。
森はしんと静まり返っていた。薄暗い静寂のなか、ドミニクの蹄が下生えのおおう地面を力強く蹴る音と、自身の荒い呼吸とがやけに大きく耳にこだましている。
追跡者の脚音がかき消えてしまうほどのそのうるささに、フランソワは苛だっていた。
もう、どのへんまで来ているのかしら?
さっき通った楢の木のあたり? それとも……?
手綱を握る手がぐっしょりと汗でぬれている。
気が急いて、気持ちばかりが前へ前へと進もうとして、身体がそれについていかない。
「あっ!」
行く手に横たわる倒木を避けようとしたドミニクの身体が大きくバランスを崩した。
なんとか体勢をたてなおし、転倒をまぬがれる。
ブルルゥ!
ドミニクがさも不服げに鼻を鳴らした。
その声にフランソワは、ハッと我にかえった。
ドミニクは兄のシャルルがフランソワのために、まだ仔馬のうちに駿馬のなかから選りすぐり、世話をする者を選んでこと細かに指示を出し、また彼自らも調教した馬だった。
…………わたしったら。なにをいったい浮き足立っていたのかしら?
規則正しく刻むドミニクの蹄の音が、フランソワの平静さを取り戻していく。
わたしは、ひとりなんかじゃない! お兄様がわたしのために育ててくださったドミニクが一緒にいる。
フランソワとドミニクのコンビは相性もよく、忙しいなかで稽古をつけてくれた父や兄たちのお墨付きだ。
「この森でおまえたちと競って勝てるものなど、世界広しといえど俺たちくらいのものだ」――――と。
「ごめんね、ドミニク。わたしに力をかして」
そう気づけば不思議なもので、急に視界が開けてきた。
先ほどまでとは打って変わって、目の前にあった木立がゆっくりとドミニクとフランソワの身体の横を通り過ぎてゆく。
フランソワの動きたい方向に、彼女が望むままに、ドミニクが応えて走ってくれる。
その感覚は、フランソワがかつて経験したことのないものであった。
――――「人馬が一体になる」という言葉がある。フランソワは今がまさしくその状態なのではないか、という気がしていた。
…………なんなのだ、この娘は?
アンリは一団の先頭にたって、フランソワの騎乗する馬を追いかけていた。
俺は馬術には自信がある。かてて加えて俺の愛馬は、名馬の産地ビシャーでも屈指の駿馬。
それなのに。追いつくどころか離されていく……。
――――女のくせに、馬の背にまたがって騎乗しおって!
フランソワはアンリが驚嘆するほどの腕前を、彼の目にまざまざと見せつけていた。
それに、この森のことをよくわかっているのだろう。
木立のなかでも比較的草木のまばらなところを選んで馬を走らせている。
途中で気がついてアンリたちも同じ道を走るようにしているのだが、それでも徐々に前を行くフランソワの背中は遠ざかっていく。
――未来の世継ぎにと献上され、それに相応しく訓練をされているはずの俺の馬が、これ以上早く走るのを嫌がっている。
その気持ちはアンリにもよくわかる。足元がよくないうえに枝葉が身体をかすめるほどに狭い箇所もある曲がりくねった空間を、これ程のスピードで駆け抜けるのは彼にとっても未知の領分だった。
それでも、ここで小娘に振り切られたとあってはいい恥さらしだ、己の意地にかけてフランソワをつかまえずにはおかぬ、と揺れる彼女の長い髪を睨みすえ鞭をくれる。
森のなかへと進むほど、木と木の間隔はますます不規則に、地面から木の根が大きく隆起していたりもするのだが、フランソワの速度がかえって増しているように思えてならない。
これはどういうことだ? 俺はまだ酔っているのか? さっきの休憩でだいぶ抜けたように思っていたが。
いや。あの娘を見てやわらいでいた頭痛が、怒りでどこかへいってしまっていただけで、じつはまだ俺は酔っているのだ。でなければ、あんな小娘に俺が遅れをとるはずがない。
フランソワが獣道をはずれて、川岸のほうへとおりていく。
狩場と「魔の森」とを隔てるリーヌ川。その流れは意外にも清らかで川幅は馬車一台分くらいと、アンリが想像していたより広くはなかった。
あの娘はさっきから川伝いに走っている。どのみち川の向こうへは行けないのだ。このまま追い続けていれば、そのうちに必ず追いつく。
アンリはそう確信し、無理に川岸へはおりずこのまま獣道を進むことにした。
川が大きくアンリたちの進む方向にカーブしているのが見えてきた。
アンリたちより川岸に近い位置を走るフランソワは、そのまま川に沿って進むしかない。
ということは、フランソワのほうでアンリたちの進む先へと近づいていくことになる。
あそこで追い詰められる!
アンリの手綱を握る手に力がはいる。
ところが――――。
フランソワは曲がろうとするどころか、カーブの手前にある川幅のいくぶん狭くなっている場所へまっすぐドミニクを向かわせている。
――――まさか?
アンリの顔から、二日酔いでもとから薄かった血の気がさらにひいた。
この川を隔てて向こうは、「魔の森」――――。
「待て! そこから先へは行ってはいけない!!」
咄嗟に、アンリの口から悲鳴にも似た叫び声があがる。
アンリの制止の言葉を振り切り、フランソワはひらりと軽やかに跳躍を決めると、「魔の森」の奥へと走り去ってしまった。
蜂蜜色の長い髪が、霧の漂う森のなかへと消えていく。
…………自分が驚かせて追い詰めたせいで、あの娘を危険な森の奥へと追い込んでしまった。
「……殿下」
アンリの馬に離されていた侍従たちがようやく主人に追いつこうかという、そのとき。
アンリが草木の間隙をぬって川岸へとおりていく。そして、フランソワが川を飛び越えた地点へ向かって、落ちていた馬の速度を再び上げはじめた。
「殿下? お待ちください、殿下っ!」
アンリもまた川を飛び越え、「魔の森」へと渡ってしまった。
驚きと困惑を隠せない部下たちを叱咤するように、侍従が声を張り上げる。
「……ネイサン、ジュール。おまえたちニ名は来た道を引き返し、ユルグ殿を捜し出して急ぎこのことを伝えよ! 他のものはわしに続け!」
悲壮な決意に満ちたその声は、川のせせらぎの音にのって、あたりの森のしっとりと湿り気を含んだ空気を震わせて響いた。
フランソワは、慄いていた。
「魔の森」へ逃げ込めば、逃れられると思っていたのに……。
まさか、こんなところまで追ってくるなんて! 正気の沙汰ではないわ……。
「魔の森」へ踏み入ったと見せかけて、フランソワは十メートルほど上流の川岸から少し離れて立つ柳の古木の下にいた。たなびく霧と枝垂れる枝のすき間から、アンリたちの様子をじっと見張っていたのだ。
予想に反して対岸からアンリが川を渡ったのを認めたフランソワは、今度こそ挫けそうになっていた。
――――どこまでも、ついてくる気なのかしら?
そう思うと身震いがする。
この森を、やたらに動き回るのは危険なのに。どうしよう?
そうこうしているうちに、なんとアンリの従者たちまでこちらに来てしまった。
――――お母様! お父様!
フランソワの両親は国王一家の滞在中は、その接待のために侯爵の館と王家が滞在する屋敷との間を往復しており、レムの屋敷にいる彼女はもう五日も両親と顔を合わせていない。
フランソワの瞼に、優しく温かい眼差しで自分をつつんでくれる両親の姿が浮かんだ。
フランソワの胸は、後悔の念で押しつぶされそうになっていた。
日頃から、お母様に無茶をしないように、とたしなめられていたのに。……こんなことになって……。
でも、どうしても、……どうしても!
フランソワは鞍の後ろに落ちないようにしっかりと固定された荷袋に手をやった。
そのなかには、籠におさめたシャルルのためにフランソワがこしらえた花冠がはいっている。籠に固定した台紙に細く丈夫な糸で花冠を縛ってさらに固定して、エマと細心の注意を払って壊れないようにと梱包した。
……殿下に、お見せしたかった。
あんな、寂しそうな笑顔を見たままでお別れなんて。
それが、どうしてもイヤだった――――。
…………。
そういえば、わたし、お母様やお父様、お兄様たちも……。殿下のような、あんなお顔を見たことがないわ……。
それはフランソワの家族が、決して彼女の前では見せない表情だった。病弱なフランソワを心配している様子は見せても、幼いフランソワが心を痛め、彼女に気遣わせてしまうような態度はいっさい見せてこなかったのである。
…………こんなにも……、どうしようもなく切なくて、胸がもやもやとして苦しくて、いたたまれなくて……。
シャルルのあの表情は、フランソワをたまらない気持ちにさせる。
――――笑っていた家族の顔が、彼の表情と重なっていく。
――――――――!!
フランソワは慄然とした。不意に背中を思いっきり叩かれて、己を正されたような心地がした。
そんなのはだめ! 絶対!! お母様やお父様に、お兄様たちに、そんな顔をさせてしまうなんて。
殿下も、……花冠を届けようとしてこんなことになったってお知りになったら? わたしが勝手をしただけなのに、お優しい殿下はどんなに胸をお痛めになるだろう?
フランソワは右手を花冠のはいった荷袋へとはわせた。白く細い指が、荷袋の端を握りしめる。
わたしが見たいのは、あのおかたのお喜びになる姿なのに……。
――――殿下の美しいお顔が、わたしの愚かな行いのせいでゆがむところなど、見たくない!!
フランソワは、いま一度、自らを奮い立たせた。
なんとしても、無事にみんなのところに帰るのよ! この場を、切り抜けてみせる!!
ひんやりとフランソワの周囲をおおい隠していた白い霧が、たゆたうように左右に流れていく。こんもりとした柳の葉陰からいくすじものやわらかい光が射し込んできて、馬上のフランソワをあたたかく照らした。
アンリは「魔の森」へ飛び込んだもののたれこめる濃い霧にはばまれて、フランソワの姿を見失ってしまった。
自身を呼ぶ侍従の声にいったん川岸へ戻ったものの、今すぐ引き返すべきである、との上申にもいっこう耳を貸す気配はない。
手がかりを求めて周囲を見渡したアンリは、上流の木立で目をとめ、息を呑んだ。
濃い霧の間から柳の古木が頭をつきだしている。
その下でいくえにも重なった白い霧が、一枚ずつ左右に幕が引かれるようにゆっくりと流れていく。
その向こうから、姿を現したのは――――。
…………ひと?
フランソワの白すぎる肌とやわらかな蜂蜜色の髪を、クリーム色を基調とした乗馬服に身を包んだすらりとした肢体を、緑色の天蓋から降り注ぐ光が碧く染め上げている。
その神秘的な光は、フランソワの整いすぎた美貌からいっさいの人間らしい表情を隠しさり、アンリの眼をまっすぐに射貫く深いエメラルドの瞳に妖しげな力をあたえていた。
ぞわり、とアンリの肌が粟立つ。
……昨日は、夏至……。
よもや――――この森に棲まう精霊に、俺は誘い込まれていたのではあるまいな……?
フランソワとアンリが最初に出会った場所に、三十人ほどの騎士たちが集まっていた。
第三王子シャルルとその従者が五名、そしてダニエル子爵とアレン、その配下のものたちである。
彼らは皆、剣のほかに槍と弓矢、もしくはそのいずれかを携えて武装していた。槍と弓は狩猟小屋と番小屋から調達したものがほとんどである。
番小屋は、エルガー伯爵がカトリーヌの管理に関わるようになってからその数が増やされ、森へと至る各道の森の入り口などに設置されていた。
八頭の猟犬を見下ろして、ダニエル子爵が問う。
「…………これだけか?」
「本日は鷹狩りの予定でしたので。狩猟小屋と比較的近くの番小屋にいた森の奥へはいれる犬はこれですべてにございます。お嬢様の笛の音が聞こえてただちに他の小屋へも使いを走らせておりますので、いま少しお時間をいただければ、数がそろうかと……」
貴婦人方を同伴する今日の狩りは、あまり血生臭くならないように、との配慮から鷹狩りと決まっていた。うさぎなどの小動物や鳥類を獲物とする鷹狩りにも猟犬を使用するが、鹿や狼など大型の獲物を狩るときとは別種のものである。
子爵たちはユルグとレムの屋敷から侍従が寄こした使者たちの知らせを受け、国王から先行する許しを取り付けると狩場のある森へと急いだ。
ユルグからは、約束の刻限を過ぎても合流地点にアンリ王子の一行が現れない、もしや予定が変わって王子は国王たちと一緒におられるのか、とたずねるものであった。
レムの屋敷からは、フランソワが護衛の三騎を連れ狩猟小屋へ向かった、というものである。
道中、彼らは伯爵のもとへ走る番小屋からの使者とも行き逢った。
この使者がもたらした情報は、子爵たち一行を驚愕せしめた。
いわく、「フランソワが護衛たちと離れ単騎で森のなかへはいっていった、フランソワを追っているのはアンリ王子の一行、七騎である」――という、にわかには信じ難い内容であったからである。
さらには、子爵たちより先にジャンたちと蹄の跡をたどって森にはいっていたユルグからあがってきた報告は、引き返してきたアンリの従者を見つけたと、そのものたちの言によれば、「フランソワたちが「魔の森」へはいった」、と想定しうるなかで最悪のものだったのである。
森の奥へ行くほど危険な獣に遭遇する可能性は高くなる。
――急なことではある。だがそれでもやはり、捜索を行うには、そろえられたそうした獣に対応できる猟犬の数はとうてい満足のいくものではなかった。
「待てんな。――アレン、おまえは後から来る犬どもを待って森へはいれ。殿下は……」
子爵は最前から刺すような視線を、自分に投げかけ続けているシャルルに向きなおった。
「お引き止めしても、ついてこられるのでしょうな?」
「無論だ! それに兄上が一緒かもしれぬというのなら、なおさら俺がいたほうが都合がよかろう?」
おやおや、その仰りようでは、お救いするべき優先順位が殿下のなかではわれわれと逆転しておられますな……。
子爵は目を細めてしげしげとシャルルを見やる。
シャルルの白皙の肌は心なしか上気していた。すぐにでも森のなかへ飛び込んでいきたい衝動をどうにかねじ伏せている、という風情がありありと伝わってくる。サファイアの瞳は落ち着きなく揺れ動いており、彼の心情を雄弁に物語っていた。
これまでなにごとにおいても事なかれ主義を貫いてこられたシャルル殿下が、フランソワのこととなれば話は別、……兄王子に対してもお諌めになるお覚悟を決められる、か……。
「シャルル殿下。申し上げるまでもないことですが、森のなかではいかな殿下といえどもわたしどもの指示に従っていただきます。これは遊興でも訓練でもございませぬゆえ」
「わかっている」
臣下には優雅な物言いを忘れないシャルルのいつになく素っ気ないせっつくような返事に、ダニエル子爵は心のうちで微笑まずにはいられない。
「そのお言葉、くれぐれもお忘れになりませんようお願いいたします」




