菜摘 (1)
4月16日の火曜日。
相良菜摘はブラスバンド部に出たあと、友達の桜田美枝と一緒にアントルメというケーキ屋さんに行く約束をしていた。
ところが、部活が終わる頃、菜摘の歯が急にうずき出し、ついでに頭も痛くなってきて、ケーキなど食べに行くような気分ではなくなってしまった。歯医者にはもう間に合わないかもしれないけれど、とりあえず家に帰って痛み止めの薬でも探してみるつもりだった。
自分から美枝を誘っていたので、ちょっと気が引けて、
「ごめん! 美枝! 歯が痛くて行けそうもないから、来週にしよう!」
と菜摘は美枝にあやまった。
「ったく…、しょうがないな。じゃ、来週ね」
ということで、美枝と別れて菜摘は家へと向かった。
家に着くと、母が父になにか電話をしていた。
「春樹が…」…、「トラックが」…という言葉の断片、声を詰まらせている母の様子を見て、なにか変だと感じ、菜摘は急いで居間に上がり、母の後ろに歩み寄った。そして、兄の相良春樹が交通事故に遭った知らせを受け、母が父にそれを伝えているのだということが、だんだんわかってきた。
母の震える背中に手を当てて、菜摘は途方にくれてしまった。母の電話を聞いて必死に全体の状況を把握しようとしているうちに、歯の痛みなんかどこかに消えてしまっていた。
後から考えるとちょっと不思議だった。美枝とケーキ屋に寄っていたら、菜摘が家にたどり着く頃には、もう母は病院に行っていたかもしれない。虫の知らせってこういうことなのだろうか。
母が電話でタクシーを呼び、菜摘と二人で春樹が運び込まれたという市立病院へと急いだ。
春樹はすぐに手術室に運ばれ、処置を受けているということだった。母も菜摘もどうしていいかわからず、ただ放心状態で待合室に座っていた。
ほどなく父がやってきて二人を見つけた。母と菜摘に何かを聞いても無駄なことは明らかだったので、父は医師に直接説明を聞きに行った。父が待合室に戻った時、ぽつりと
「もう8時か…」と言った。
「春樹はかなり危ない状態のようだ。助かるかどうか…、微妙なようだ」
父はつとめて落ち着こうとしていたが、言葉の最後は震えており、そのまま次の言葉を飲み込んでしまった。
「バイクになんか…、乗らなければ」
と言うなり、母はすすり泣きをはじめ、菜摘も一緒に泣き出した。
バイクを買うことをあきらめようとしていた春樹に、買うことを強く勧めたのは、ほかでもない、菜摘だったのだ。
この春、大学の入学が決まり、アルバイトで貯めたお金で春樹がバイクを買いたいと言った時、両親はそろって反対した。
春樹がバイクを欲しいと言うなんて、菜摘にとっては驚きだった。春樹はあまり活発な感じではない。どちらかというと勤勉という感じで、静かでいつも聞き訳が良かった。そんな兄とバイクというイメージが重ならなかったのだ。
春樹は誰にも言わず、こっそり免許を取得していた。でもバイクをこっそり買うことは難しい。それで、言い方を考えに考えて、やっと切り出したようだった。
「肌に風を感じて走ってみたいんだ。きっと気持ちがいいと思うんだ」
と言い出した春樹のことを、菜摘はすごく新鮮に感じた。そして、素直にその夢を叶えさせてあげたい、と思ったのだ。
菜摘は春樹が大好きだった。いつも優しいお兄ちゃんで、ひっそり自分を守ってくれている感じだった。両親の言うことに逆らうこともなく、勉強もできたし、優等生だった。そんな春樹のことを偉いといつも思っていた。
気の優しい兄とは対照的に、菜摘は気が強く、何かを譲るのはもちろん、あやまったり、自分の非を認めるのが下手くそだった。
両親が反対すると、春樹は我を通すことをあきらめようとしていた。そんな春樹の様子をみて、菜摘はいらいらしてしまった。
「お兄ちゃん、あきらめないで! 自分の欲しい物を、自分のお金で買うのよ! 誰にも止めることなんかできないわ。がんばって、買って、走るところを見せてね」
なんでいつも春樹は人のことを先に考えるのだろう。堂々と自分のやりたいことを通して、さっそうと風切って走る春樹を菜摘は見たかったのだ。
それがどうだろ。春樹が事故に遭った今となっては、菜摘が春樹に強く勧めたことすべてが責苦となって押し寄せてきていた。春樹はもしかしたら、菜摘が言わなければ、バイクを買うことをあきらめていたかもしれない。その方が良かったんじゃないのか?
(過労で居眠り運転をしていたトラックの運転手がいけないのに! お兄ちゃんは、何も悪くないのに! どうして!)
どれだけ涙を流してみても、事故を起こした相手を責めてみても、もう時間を元に戻すことはできない。菜摘は悔しくて悲しくて、自分の言ったことを後悔し、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまいそうだった。