佐輔 (2)
家に帰ると、佐輔はまず目を覚ますために水シャワーを浴びた。春とはいえ、寒くなって身震いする。でも目が覚めたのは束の間だった。頭のぼんやりはすっきりとはならず、そのぼんやりのまま時間を過ごし、夕飯を食べ、母親の小言や妹の悪たれ口を頭の上の上の方で聞き、やっとのことで歯みがきして自分のベッドに倒れ込んだ。まだ6時半だった。父はまだ帰っていなかった。
(ああ~。やっと極楽~)
布団はちょうど良くひんやりしており、身体に巻き付くようにフィットして、心地よい眠りが佐輔を迎えに来た。
(ああ~、このまま目が冷めなくても、おれ、シアワセ)
その瞬間、佐輔は本当にそう思ったのだ。
だけどそのシアワセは1時間しか続かなかった。
ふと気が付くと、あたりは地獄のようなありさまだった。パトカーのサイレンが鳴り響き、ざわついている。身体の周りには焦げたような臭い、機械油のような臭いがたちこめていた。
夢にしてはあまりにリアルだったので、最初、佐輔は夢だとは思っていなかった。何があったのかを必死に思い出そうとしていた。
佐輔は横たわっていて、自分の額から何かどろどろしたものがたれていて、ぼんやりと、それが血だろということがわかった。手を動かしてそれを確かめたいのだが、身体は動かせなかった。
佐輔は自分の身体を点検しようとしていた。目は開いているのか? つぶっているのか? それさえもわからない。怪我をしいている感じだけれど、痛みもわからない。でもさっき寝たんじゃなかったのか? ということは…、夢といえば夢なのか? 頭も足も、身体全体に力が入らず動かそうにも動かない。ただの棒切れのように地面にころがっているといった感じだった。
と、佐輔は何かに持ち上げられて、静かに運ばれるのを感じた
「おい、気をつけて」
「はい、そこ開けて」
「何か、名前のわかるものはないか?」
ざわめきの中から、いくつか、意味のわかる言葉が耳に入ってきた。
(あれ? オレ、事故った?)
ぼんやりしていてまとまらない頭を必死で働かせようとしたが、わけがわからなかった。
次に佐輔は車に乗せられ扉が閉まる感じがわかった。
(救急車だ! 病院に行くのかな?)
救急車になど乗った経験もないのに、そう確信した。頭の一部はやけに冷めている感じで、自分の置かれている状況をわかろうとしている。
(だけど、やっぱり夢だよな、これ。だって、やっぱり間違いなくさっき眠ったよな?)
その時、ふとシャーペンで自分の太ももを痛めつけたことが思い出された。
(やっぱり夢だよ。今日は学校に行って、まっすぐ帰って来ただけだよ)
今の状況を自分で納得するには、「夢」ということにするのが、一番ぴったりくるような気がした。
ピ~ポ~という、聞きなれた音がして車が走り出し、それがサイレンに変わった。そしてだんだん意識が遠のいていった。
しばらくして再び意識がもどってきた。さっきよりは気持ちが落ち着いていた。(まぶたがやけに重い)と佐輔は思った。そのまぶたをどうにかこうにかうっすら開けてみることができた。白色と影で成り立っている世界が見えた。それ以上まぶたを押し上げることができないので、細目の範囲で辺りを見回してみた。
(夢? また? 続き?)
なんとも不思議な夢だった。鼻に異物感があって、何かが差し込まれていて、いかにも病院という匂いがしている。
(え? 救急車に乗ったし? 病院に運ばれたってこと?)
佐輔は、けんめいに今の状況がどういうことなのかを考えようとしていた。でもどうやっても「夢」以外に説明はつけられない。さっきの夢と妙につながっているし、なんだか現実感があって変な感じだった。
手はあるだろうか、足はあるだろうか、佐輔は自分の身体を確かめながら動かしてみようと試みた、だけれど、やっぱり身体は動かせなかった。
(金縛り?)
佐輔は金縛りに遭ったことはなかったのだけれど、少年雑誌の特集かなんかで読んだことがあった。
かろうじて動かせるのはまぶただけだ。だけどそれもやっとこやっとこ少しだけ。
(やっぱりまだ夢の続きなんだ。これは)
佐輔はそう思い込もうとした。これが現実だったら訳がわからないし、現実であって欲しくない。
その時、佐輔のかたわらで何かがすっと立ち上がり、薄緑色の上着が目に入ってきた。それは今見えている物の中で、初めて色のついたものだった。そしてその薄緑色の上着の隙間から、チラリと黄色いチューリップがのぞいた。それは、たぶん、洋服の柄だった。
(チューリップ…)
なぜか、佐輔はその花の形や全体の模様をはっきり思い浮かべることができた。