菜摘 (6)
春樹はあの日、買ったばかりのバイクに乗って、中学一年の時に引っ越してしまってからずっと会っていない友人を訪ねるつもりだった。いつか会おうと約束していたのだ。
走り出してみると、今まで感じたことのない世界が見えた。自分の身体にまとわりつく風のスピードが違う。まるで自分が空気になってしまったみたいで、すごく気持ちが良かった。どんどん気持ちが高まって来ていた。
見慣れた所を出ると、さらに気持ちがハイテンションになって行った。その時、国道のセンターラインを越え、トラックがこちらに突っ込んできたのだ。
春樹は耳をふさいだ?
いや、耳をふさいだのは佐輔だった。トラックが自分に突進して来るという恐怖の一瞬はもう思い出したくなかった。すると、その佐輔の気持ちが通じたかのように、その恐怖の思い出は途切れ、するりと今の春樹の思いに帰ってくることができた。
春樹は抜け殻となった自分の身体をもう一度よく見ておくことにした。
(こうやって身体を離れて、ぼくはどこかに行ってしまうのかしら)
そう思うと、春樹は両親のことが気になった。そう思った瞬間、春樹の身体は病院の壁を幽霊のようにすり抜けて、仮眠室で横になっている両親の元に飛んで来ていた。
「父さん! 母さん!」
春樹が声に出して呼びかけると、母がガバっと起き上がった。母は時計を確かめて立ち上がると、父を揺り起こした。
「母さん!」
もう一度呼んでみたが、どうやら母には春樹の声は聞こえていないようだった。聞こえたから起き上がったのかと思ったけれど、それはただ偶然の一致だったようだ。
両親は仮眠室を出て、春樹の病室に向かうようだった。春樹はその二人の上を漂いながら、母の肩の方に手をさしのべて触ろうとしてみたのだが、どうやっても母には触れることができず、身体をすりぬけてしまう。がむしゃらに手足を動かして、父をけとばそうとしたが、それもできなかった。
両親は、春樹のかたわらに腰掛けた。
「さよなら、父さん、母さん」
春樹は言ってみたが、二人は何も答えず、ただただベッドに横たわる春樹のことを見つめるばかりだった。
(菜摘…)
そこに姿のなかった菜摘のことを強く思うと、その瞬間に春樹の身体は自分の家の玄関をすり抜けていた。玄関、応接、キッチン、どの部屋も優しく春樹を迎え入れてくれた。
まるで幽霊になってしまったように、春樹は自由自在に部屋から部屋へとすり抜けて漂うことができた。いや、もしかしたら、これが幽霊の正体なのかもしれない。
両親の寝室になっている畳の部屋はがらんとしていたが、どうしたことだろう、部屋の半分にはいくつかの段ボール箱が開けたままになっていて、アルバムやら、紙、ノートのような物が散乱し、ごちゃごちゃに積まれていた。
(どうしたんだろう。何か探し物でもしていたのだろうか)
目に入ってくるガラクタはどれも思い出につながる物ばかりで、手に取ってみたかったが、手を差し伸ばしてみても、春樹の手では決して触ることはできなかった。もどかしく切ない思いだけが募った。
次に春樹は菜摘の部屋にワープした。見慣れた菜摘の部屋。クリーム色の壁紙。赤のギンガムチェックのベッドカバー。菜摘が好きなタレントの写真。春樹はそれらを一つずつ心に刻み込むようにていねいに見ていった。
菜摘は顔をしかめて眠っていた。
なぜ顔をしかめているのだろうか。悪い夢でも見ているのだろうか。春樹は菜摘の気持ちを楽にさせてあげたかった。
「菜摘、さよなら」
春樹が声をかけると
「お兄ちゃん…」と、菜摘がぽっそりと言った。眠りから覚めたわけではなかったけれど、口元がほぐれ、優しく微笑んだ。まるで、春樹の声に答えたように見えたけれど、たぶん、春樹の声が本当に届いたわけではないのだろう。
それでもかまわなかった。春樹は菜摘に伝えたいことだけを話し始めた。
「菜摘、ありがと。もう苦しまないで。バイクに乗って風を切るのは気持ちが良かった。菜摘のせいじゃないよ。ぼくが自分で決めて、自分で本当にやりたかったことをやっただけなんだ。今までどおり、菜摘は菜摘のままで自由に生き生きとしていて欲しい」
菜摘の頬に触れてみたくて手を伸ばしてみたが、やはり触れることはできなかった。
(ああ、春樹はもう行ってしまうんだ)
佐輔にはそれがわかった。
(もう、ここに帰って来ることはないんだ)
春樹の目の前に、春樹の行くべき道が、ぽっかりとトンネルのように現れた。トンネルの入り口は暗いのだが、中の方をのぞくと、ずっと先にまぶしいくらいの白い光が差し込んでいて、キラキラと金色のゆらめきが見えた。
春樹はすっと立つと、実に安らかな気持ちでその道を歩き始めた。その光は佐輔が今までに見たどんな光よりもまぶしく、美しく、魅力に満ちていた。その先にはきっと帰れない場所があるのだろうとわかっているのだけれど、不思議と怖いとは思わなかった。
佐輔も春樹と一緒になってその道を歩き出していた。歩いているというよりは、ふわふわと弾むような感じだった。
そこは春樹の行く場所であり、まだ佐輔が行くべき所ではない。頭のどこかでそれがわかっていながら、光の正体を確かめたくて、佐輔はわくわくしていた。




