九話【諦めそうになったことはあるか?】
(お主は、妙なところで律儀じゃのう……)
既に凜子さんの足音が俺の耳にも届く時だった。
マロンは生粋の猫背をスッと伸ばし、「ニャァン。ニャア、ミャッミャァ……」と小さい声で鳴き始めた。この窮地に何を呑気に! と憤慨しそうになるが、次第に青白い光を纏い始めるマロンを見て、その真意を悟った。
これはまさに昨夜見た光景、マロンが魔法を使うときだ。パチパチッと弾ける音が発せられ、マロンのふわふわの体毛が静電気を帯びたようにまとまって行く。
「ミャッ!」
最後にそう鋭く言い放つと、マロンの体から光が抜けていく。それと同時にマロンの輪郭が次第にぼやけていき、その姿を消していく……! 煙が薄まって、空気へ溶け込んでいくようだった。
(マ、マロン! 大丈夫か!?)
驚いて手を伸ばすと、俺の肩から先、つまり腕全体がすっかり消えていた。鏡台を見れば、俺の顔半分がマロンと同じように消滅していた。
(うっ……ウワアァァッ!)
(ええい、煩い! 静かにせんか!)
(えっ、マロン!? どこにいるんだ!?)テレパシーで声は聞こえるが、その姿は既にどこにもない。気づけば、俺の全身もすっかり消え失せていた。
(儂の魔法で体を透明にしたのじゃ。それより早く、部屋の隅に移動するぞ。見えないだけで、ちゃんと儂らは存在しとるのじゃからな)
すると俺の体に、マロンのもふもふの手触りが感じられた。それと同時に、寝室のドアノブがカチャカチャ音を立て始めた。壁一枚を隔てて、既に凜子さんは目の前に迫ってきていたのだ! 俺は手探りでマロンを抱きかかえ、鏡台とキャビネットの隙間に体を潜ませた。
バンッ! と、勢いよくドアが開く。寝室に飛び込んだ凜子さんの手には、リビングで見かけたゴルフクラブの一本が力強く握られていた。その顔はこわばっているが、表情に反して顔色は悪く、土気色をしている。。
「……誰もいない?」
寝室を見渡した凜子さんは、同じ部屋にいる俺たちを見つけることはできなかった。一瞬、凜子さんと目が合った。ヒッと声を上げそうになって口を押さえるが、本当に彼女からは俺の姿が見え無いようで、ぷいっと顔を背けられた。
「気のせいだったかしら。なんだか人の気配がしたと思ったんだけど……」
警戒を若干解いた凜子さんは、手にしていたゴルフクラブをベッドに放り投げると、部屋を見渡し始めた。すると鏡台に目を停め、しゃがみこんで引き出しを一段一段確かめだした。しかし極力部屋の物をいじらなかったのが功を奏したのか、指輪の入っていた箱を確かめられないまま凜子さんは立ち上がった。部屋を荒らすタイプの空き巣なら、既に通報されていてもおかしくない。
「でもなんだかおかしいわね。なんだか、部屋の中が汗臭いというか、生臭いというか……」
その凜子さんのつぶやきでハッとした。そういえばこのスーツ、最後にクリーニングに出したのは何か月も前だったような気がする。そのうえ、まだまだ昼間は暑いこの季節。スーツを着て自転車で走っていれば汗もかなりかくだろう。
(そういえばお主、ちょっと臭うのう。儂の魔法じゃ、臭いは消せんぞ)
(う、うるさいなぁ……! 体はちゃんと毎日洗ってるよ!)
「……それと、なんだか動物の臭いもするわねぇ」
(って、マロンもしっかり臭ってるじゃないか!)
(うっ、うるさいにゃあ! 儂は猫だから仕方ないのにゃ!)
臭いに訝しみながらも、凜子さんは鏡台から何かを取り出した。よく見れば、それは体温計だ。凜子さんはベッドに座ると、それを服の下に潜り込ませた。二十秒ほどするとピッピッと音が鳴り、その結果を確認した凜子さんの表情が曇った。
「三十八度二分……やっぱり熱があるみたいねぇ」
その結果を聞いて、やっと納得がいった。
おそらく、凜子さんは体調不良で会社を早退してきたのだろう。寒暖の差が激しい今は、体調を崩す人も多い。俺は運悪く、そのタイミングでこの家に侵入してしまったのだ。自分の運の悪さに舌打ちしそうになるが、慌てて口を思い切り閉じる。
大丈夫、普通ならここで力づくの脱出を試みることになるだろうが、俺には魔法使いのマロンがいる。現に凜子さんを前にして、俺はいまだ発見されていない。このまま数分も待てば、彼女は病院に行くはずだ。その間に、俺たちは脱出すればいいだけなのだ。そう自分に言い聞かせて、なんとか平静を保とうとする。
ちょうど正面に姿見が置いてあった。何とはなしに見ると、不自然なものが鏡に映っていた。
それは耳だった。耳が宙に浮いている。まさか……と思い自分の左耳を引っ張ると、鏡に映った耳も引っ張られた。すると今度は、耳を引っ張る指先までもが鏡に映り始めた。指が一本、二本……次第にその姿を現していく。左手の指をくいっと動かせば、やはり鏡の中の指も同じように動く。
(……マ、マッ、マロンッ! これひょっとして、魔法が解けてきてるんじゃないのか!?)
口を押さえつつ、テレパシーでマロンに問いただす。
(……マロン? マロン、応えろよ! こんな時に悪ふざけはよせよ!)
しかしいくらテレパシーを送っても、マロンからの返答はなかった。そういえば、いつの間にかマロンの感触が感じられない。魔法の制限時間を知っているからこそ、一人で逃げて行ってしまったのだろうか?
猫の指輪を擦りながら、祈るように必死にテレパシーを送る。それでも、何も変わらない。焦りと不安と苛立ちが、体中に満ち満ちていく。
「おかしいわねぇ……。保険証、どこに入れたかしら?」
先ほどから保険証を探している凜子さんは、キャビネットの前にしゃがみこんだ。そのすぐ隣に潜んでいる俺は、既にはっきり見えている左耳と左手を鏡台の裏に押し込んだ。ひんやりとした感触がじわりと頬に伝わってくる。
「……やっぱり、このあたりから何だか臭いがするわね。それになんだかあったかいような……」
目の前に迫った凜子さんが、いよいよその異変の核心を突こうとしていた。
この中途半端な透明人間を発見したら、凜子さんはどういう反応をするんだろう。パニックを起こして、ベッドの上のゴルフクラブで暴れ回るだろうか? 突然の化け物の登場に失神してしまうだろうか? 想像したくない……。
ぎゅっと目をつむりながらも、片目だけそっと開けて姿見を確認する。すると、ついに右手の指までもが徐々に映り始める……!
(もうダメだっ!)心の中で悲鳴を上げたその時、あの高級感のあるインターホンの音が家の中に響いた。