二話【猫と話したことはあるか?】
足元……とは言っても、三十メートルは下なのだが、俺のアパートが見えてきた。周囲の明かりに照らされ、そのクリーム色の外観を見ると、我が家に帰ってきた安堵でホッとする。貧乏だけど、住むところにはこだわって借りている、九畳一間の一人暮らし用アパートだ。
その気の緩みを感じ取ったかのように、体が次第に重くなってきた。正確には、元の重量に戻ってきただけなんだろうが。ゆるやかに、しかし確実に加速しながら俺の体が降下していく。
「……そういえば、どうやって着地すればいいんだぁっ!?」
俺の体は夜の街に引きずり込まれるように、真っ逆さまに落ちて行った。迫る地面に、目を閉じて顔を背ける。本当に今日は、目を背けたくなる出来事ばかりだ。
バキバキと、何かいろいろなものを砕きながら着地した。どうやら落ちた先はゴミ捨て場のようで、早くから捨てられていたゴミ袋達がクッションになって衝撃を吸収してくれたようだ。
「本当に今日は、こんなことばかりだ……」頭の上に乗った生ごみをつまみながら、ゴミ袋の群れから這い出した。
服の中に拾った猫を忍ばせながら、アパート横の階段を上って自分の部屋に帰ってきた。ペットなんて飼う気もなかったから気にしていなかったが、確かこのアパートはペット禁止だったはずだ。他の住人に見つかっても面倒だから、見つからないに越したことはない。幸いにも自分の部屋は二階の一番手前にあるから、他の部屋の前を通らずに済むし、隣り合う部屋も少ない。秘密にペットを飼うのには、案外好都合かもしれない。
「ただいま~」誰もいない室内に一言。一人暮らしというのは気が楽だが、やはりどうにも寂しい。もう半年はこんな生活をしているのに、いまだに慣れない。十八歳は、まだまだ子供だということか。
とりあえずお風呂に入りたい。一刻も早くゴミ臭さを消し去りたいし、この猫も少し洗ってやりたい。ぱっぱと服を脱いで洗濯かごに突っ込み、出会ったばかりの猫と裸の付き合いと洒落込む。
「ふぅ、いいお湯だった」運動をした後の風呂は格別だ。今回は運動というより逃走ではあるが。寝巻に着替えて、自分の髪と猫の体をしっかりと乾かす。
猫というのは風呂が嫌いとよく聞くが、この猫は随分とお行儀よく洗われてくれた。そういえば、この猫は何か変だ。先ほどの逃走劇でも、体が青白く光ったかと思うと、俺は空を飛んでいた。まさか、この猫には何か特殊な力でも備わっているのだろうか?
ドライヤーの温風を遠くから当てながら、俺はその猫の体を改めて観察した。茶トラというのだろうか、薄い茶色にトラのような縞々が飾られている。背中側が茶色で、腹側は白い。さながら、きなこを振りかけられたお餅のようにも見える。どこにでもいる、普通の猫と変わりない。
乾かし終わった猫は、お餅と違ってふわふわした毛をその身にまとっていた。触ってみれば手のひらいっぱいにふんわりとした感触が伝わり、猫の体温が伝わってくる。あのときに感じた、静電気のような痛さはない。次第に、あの時の光景が全ていつもの妄想ではないかと思えてきた。
猫の琥珀色の目が、不思議そうに俺を見ていた。そして「ニャァ……」と一鳴き。何かを要求しているように聞こえた。
「ああ、そうか。お前も腹が減ってたのかぁ」
とはいえ、当然我が家にキャットフードなるものは置いてない。この時間では、ペットショップだって開いてはいないだろう。
「まぁ、たぶん、牛乳とかでいいんじゃないかな」
そう考えて、皿に牛乳を注いで猫の前に置いた。突然出された牛乳に、猫は少し警戒しているように臭いをかいだりしている。
お湯を入れておいたカップラーメンを頬張りつつ、その様子を観察する。結局、俺がラーメンのスープを飲み干すまで待ってみても、一口も口をつけてくれなかった。飲みたいけど、飲みたくない。そんな相反する素振りをみせるだけだった。
「――悪いなぁ、猫ちゃん。俺は猫のことなんてさっぱりわからないから、君が何を食べたいのかさっぱりわからないんだよ」
と、こんな弁解をしても仕方がない。せめて猫の言葉が分かれば、こんな苦労もないんだろうが……。
もう諦めて牛乳の皿を下げようとしたところ、意を決したように猫が舌を伸ばして、牛乳の水面に舌を付けた。問題ないと判断したのか、徐々に勢いを増して舌で舐めとって行く。あっという間に、お皿は空っぽになってしまった。
ただ牛乳を注いだだけだが、自分の出した食べ物を食べきってくれただけで、幸福感が溢れてきた。そうか、ペットを飼う人の気持ちというのは、こういうものなのかもしれない。こんなことなら、もっと早く猫を飼っておけばよかったかな。
そんなほんわかした、快い気分のまま皿を洗おうとすると、
「まったく、成猫に牛乳は駄目というのも知らんかったのか……」
背後から女の子の声が聞こえてきた。テレビから流れてきたのかと振り返ってみたが、画面に映っているのは二人組の芸人だ。どちらも男性だし、その二人以外は誰もしゃべっているようにも見えない。
空耳か、部屋の外から聞こえてきたのか。訝しみながらも皿洗いを再開しようとすると
「しかしまぁ、なんともないようじゃな。案外融通の利く体なのかもしれん。もう少し過ごしてみればはっきりと……」
いや、確かに部屋の中から聞こえる! よくよく聞いてみれば、足元の方から声が聞こえる。しかしそこにいるのは……猫だ。つぶらな瞳で、こちらを見ている、猫だ。
どっかと腰を下ろして、真正面から猫と向き合う。カーテンをしっかり閉め、声を潜めて、冗談半分で猫に話しかけた。
「……お前か? お前がしゃべっているのか?」そう訊ねた。
俺の言葉を聞いた猫は、不思議そうに首をかしげる。「え? 何言ってるんですか? 頭大丈夫ですか?」という表情にも見える。一人暮らしの寂しさと俺の妄想癖がついに結びついて、こんな空耳まで生み出してしまったのか?
いよいよ俺も病気なのだぁと、そう結論付けようとしたとき
「なんじゃ。この世界では、猫はしゃべったりせんのか?」
可愛らしいωの口から、はっきりと猫の声が発せられていた。
「…………しゃべらないよ。たぶん、君だけだ」
間抜けなのか律儀なのか、俺は猫の質問に答えていた。