一話【宙を駆けたことはあるか?】
ハッ――ハッ――ハァッ……!
腕を大きく前後に動かす。脚全体で跳ねるように地面を蹴とばす。十歩、二十歩、三十歩……ああもう、数えている暇なんかない。俺はただ一人で走っているのではない。追われているんだから。
チラリと後ろを振り返る。白とオレンジのストライプ柄の制服を着たコンビニのアルバイトが、全力で俺の後ろ姿を追っている。その必死で正義感に満ちた顔は、たとえば正月の箱根駅伝ランナーなら自分も応援してあげたいのだが、今は針のように体を突き刺してくる。
くそっ、忌々しい! だいたい、犯罪行為を見つけたアルバイトのとるべき行動はそんなだったっけ? 警察に通報するんじゃなかったか? 別のアルバイトでだけど、俺は確かにそう習ったはずだ。
確かに、アルバイトが追いかけてくる可能性も想定はしていた。しかし自慢ではないが中学、高校と陸上部に所属していたから、逃げ切れる自信はあった。それなのに、どうしてこうも引き離すことができないのだろうか。後ろのアルバイトも陸上部員だったのだろうか。こんなことなら、もうちょっと体つきとかを観察しておけばよかったか。「相手を観察することが重要だ」と師匠に何度も教わっていたはずなのに、またそのことを忘れてしまっていた。
ぐぅぅ~。
走っていてもわかるほど、お腹が鳴り響いた。そういえば、空腹に耐えかねてコンビニのデザートをポケットに詰め込んだんだった。つまり、万引きをしたのだ。たった一個拝借しただけだったのに、おかげで随分面倒くさい事態になってしまった。悪い行いというのは、アルバイトも監視カメラも神様も見ているのだなぁとしみじみ考えてしまう。
芽生えそうになった信仰心は、突然目の前に飛び出してきたママチャリで掻き消えた。体をひねりながらかわそうとするが、肘が思いきりカゴにぶつかってしまった。
バランスを崩したママチャリのおばちゃんが「どこ見て走ってんのよ!」と怒号を飛ばす。万引き犯の自分が言うのもなんだが、こんな繁華街で自転車に乗っている方も常識がないと思う。いっそあのママチャリをぶち壊してしまった方が世のためだったかもしれない。
こんな忙しない状況ではあるが、頭の中は興奮で燃え上がっていた。
深夜にも関わらす、濁った熱気と匂いが漂う繁華街。ゴミはあちこちに散乱し、不潔な彩りをこれでもかと添えている。
行き交う人々。仕事終わりのサラリーマンに、派手な化粧をしたホストやホステス。慣れない夜遊びにかき回される学生たち。赤ら顔で練り歩く酔っ払い。人間版百鬼夜行と言ってもいい。
そんな中を俺は、妖しげなネオンサインに照らされながら駆け抜けていた。しかも後ろには、自分を捕まえようと猛追する正義のアルバイトが迫る。
これが興奮せずにいられようか! 始めこそ「ああ、運が悪かったなぁ」と悪態ばかりついていたのだが、世を騒がせる大泥棒にでもなった気分だ。
人間が、ネオンサインが、引き伸ばされながら後ろへ流れていく。まるで自分が光速の世界に突入したように錯覚する。濁った繁華街が、鮮やかなファンタジーの世界に塗りつぶされていくようだ。
「待て、このコソ泥ォ!」
その一言でハッと目が覚めた。
いけないいけない。興奮すると、つい自分の世界に入り込んでしまう。悪い癖だ。頬を叩き、再び腕と脚を力強く振る。
ハァ……ハァ……カハッ!
かれこれ三分は逃げ回っただろうか。いよいよ体力が底をついてきたようだ。いくら脚に自信があるとはいえ、栄養不足というハンデはいかんともしがたい。ポケットに入れた戦利品を食べようかとも思ったが、既にどこかへ落としてきたしまったようだ。ああ、もったいない。こんな空腹状態で食べ物を粗末にするなんて、バカを超えて愚かと言いたい。
とにかくこのままじゃ逃げ切れない。どこかへ隠れて、やり過ごすのが一番だろう。そう判断して後ろを振り返ると、ちょうど酔っ払いの会社員たちが自分とアルバイトの間に入り、視界を遮ってくれている。
今だ! 地面を渾身の力で横に蹴り、通り過ぎようとした細い路地に飛び込んだ。「よし、完璧なタイミングだ!」心の中でガッツポーズをしかけた時、足元に空き缶が転がっているのが見えた。
「危ない、空き缶だ! 避けろ!」脳から送られた回避の指令は、悲しいかな空き缶を踏む前に脚には届かなかった。着地しようとした足はグキッと勢いよくひねり、それこそ缶のように俺は路地で無様に体を転がした。ぱたりと転がり終わったときには、俺は路地に捨てられたゴミたちの仲間になっていた。生臭いにおいが鼻を突き刺す。
しかし不幸中の幸いというのか、ちょうど路地の入口を横切って、表通りをあのアルバイトが走り去って行った。体中のゴミがカムフラージュになって、俺の存在感を消し去ってくれたのかもしれない。できることなら、沁みついてしまった臭いも消し去ってほしいのだが、それはゴミたちには無理な相談か。
落ち着いたところで、ひねった足を庇いながら立ち上がった。もし、今見つかれば逃げ切れないだろう。ここからは隠れながら家に帰るしかなさそうだ。
「どうか、見つかりませんように……」
アルバイトとは反対の方へ歩みだそうとしたとき、視界の端、足元に何か大きな塊が見えた。ビール瓶か何かかと思って目を凝らして見ると、それは猫だった。捨て猫かと思ったが、それにしては綺麗な毛並みをしている。このあたりの人たちが世話しているのだろうか? それにしては、ぐったりと横たわり、顔を近づけてみても呼吸がほとんど感じられない。
「お、おい! 大丈夫かよ!」
無意識のうちに抱きかかえて声をかける。耳がピクッと反応はしたが、目を開けてはくれない。素人目でも、危険な状態だとは分かった。
「……こんな時に、何してるんだろうな。俺は」そうつぶやいた時には、猫を抱えて歩き出していた。足をくじいていて、しかも追われている身だ。こんな時に余計な荷物を抱えるなんて、自殺行為だ。
そうはわかっていても、見捨てることができなかった。ここでこの猫を見捨ててしまえば、俺はもう根っこから悪になってしまう。そう感じた。いや、もっと本能的な部分で、助けなくちゃいけないと思った。動物全般に宿っている、優しさとか慈しみいうものかもしれない。
とにかく、早く家に連れて行こう。あともう少しなんだ。
地面を蹴ろうとして、痛みに顔がゆがんだ。ひねった足が悲鳴を上げる。どうやら走るのは無理なようだ。片足を庇いながら、不器用に一歩一歩踏み出す。
「待ってろよ。もうすぐ俺の家に付くから……って、ひゃあっ!」
今度は口から悲鳴を上げた。正面に、あのアルバイトが見える。キョロキョロ辺りを見回していた彼と、ついに目が合ってしまった。さすがにイライラしてきたのだろう、離れていても彼の血走った目が確認できる。捕まったら、そのままの勢いで半殺しくらいにはされるかもしれない。
命の危機すら感じとって、俺は再び路地に戻った。この明かりの少ない路地なら、運が良ければ見つからずにやり過ごせるかもしれない。そう思っていたが
「もう逃がさねぇぞ、コソ泥野郎ッ!」
若干口汚くなった彼の言葉で、もう隠れることもできないと悟った。鬼に見られながらのかくれんぼは、言うまでもなく負けが確定している。
どうする? 戦うしかないか? ゴミ袋を振り回してみるか? 空き缶や瓶をぶちまけて足止めするか? 全てを諦め、命乞いでもしてみるか?
あれやこれやと考えているうちに、彼はイノシシのようにまっすぐ突進してきた。あんなのを食らったら、この腕の中の猫まで怪我をしてしまうのではないか?
「――そうだ、猫だ!」俺は猫の脇を持って、前に差し出した。人は可愛いモノに弱い。この愛くるしい猫を視界に入れれば、誰だって踏みとどまってくれるさ。
「ブウオオオォォォォーーーーーッ!」
いや、無理だ! 彼の真っ赤な瞳には、もう猫など映っていなかった。彼の人間性は、俺がこの数分間で変えてしまったらしい。せめて猫だけは、この猛獣から守ってやらねば。しっかりと腕の中に抱いて、自分の背中を盾にした。
目をぎゅっと閉じて、襲い掛かる衝撃を待った。すると閉じたまぶたの向こうから、かすかな光を感じた。
そっと目を開けてみると、猫は目をぱちりと開けて、俺の顔を見つめていた。その体は淡く青白い光に包まれ、体中の毛がチクチクと逆立っていた。猫を包み込む手には、パチパチと軽い静電気のような刺激が伝わってくる。
「……なんだよ、これ?」その不思議な光景に目を奪われると同時に、足の痛みが消え、体が羽のように軽くなるのを感じた。
「跳べ!」
頭の中で、そのシンプルな命令が弾けた。意識するより先に膝を曲げ、バネのように地面を思い切り蹴飛ばした。
瞬間、視界いっぱいに夜空が広がった。自分を見下ろしていた薄汚れた建物たちを、今は自分が見下ろしている。真下を見ると、目を点にしたアルバイトが俺を見上げ、腰を抜かしていた。その表情の変わり具合に、つい笑い声をあげてしまう。
全身に涼しい風を浴びながら、その時、俺は確かに宙を駆けていた。いつもより星や月を近くに感じながら、俺は口笛を吹き、そのありえない空中散歩を受け入れていた。