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時計守と皇女

作者: グゴム

 その街には二つの巨大な建物があった。

 一つは王宮。国を統べる王族が暮らす、絢爛豪華な権威の象徴。

 一つは時計塔。人々に正午を知らせる、正確無比な時の紡ぎ手。

 二つの塔は遥か昔から、互いに見つめ合うように並び立っていた。

時計守と皇女



 まだ目覚めていない早朝の大通りを、少女が全力で駆け抜ける。発覚した場合にはすぐに追いつかれてしまう。その前に何とかたどり着かなければ。少女は追い立てられるように、走り続けていた。

 しばらくすると、少女は街の大広場にまでやってきた。すでに何人か、商人らしき人々が店の準備を始めている。そんな広場の中央までたどり着くと、少女は走るのをやめ、息を整えてからゆっくりと空を見上げた。

「あと、半分くらいかな……」

 すぐ到着すると思っていた少女は、目的地までの予想外の距離にため息をついた。

 少女は、ほとんど外出したことが無い箱入りだ。自身の能力と目的地までの距離、その両方を大きく見誤っていた。

 しかし、少女は諦めない。大きく深呼吸をして息を整えると、再び走り始めた。

 巨大な時計盤が空高く掲げられた、川の中州にそびえたつ時計塔を目指して。



……



 聞きなれない鐘の音で、時計守ベンはいつもより早く目覚めた。この音はなんだったかと、寝ぼけた頭を働かせると、それは来客を告げる鐘の音だということを思い出した。

「誰だ……」

 時計台の住人であるベンは、早々に居留守を決め込んだ。朝が早かったこともあるが、そもそもの性格からして人と関わるのが苦手な彼にとって、それは当然の選択だった。

 何度も鳴る鐘の音を疎ましく思いながら、もう一度寝なおそうと寝返りを打つ。しかし鐘の音はやがて、ドアを叩く音に変わった。

 さすがにこれはただ事ではない、そう思ってなんとかベッドから起き上がると、のろのろと部屋の外へ繋がるドアへと向かう。その途中、うす汚れた姿見に目が留まった。そこには、自身の姿が映し出されていた。

 ひどく寝癖のついた金髪。ソバカスだらけの顔。傷とマメだらけの無骨な手。

 時計守という仕事は、ほとんど人に会う必要がない。そのため生来の人見知りであるベンにとっては、まさに天職と呼べる職業だ。

 だが、これから久しぶりに来客の相手をしなければならない。姿見に映った姿を見て、彼は玄関に向かう事がさらに億劫となってしまった。


 寝室としている部屋のドアを抜けると、大広間に出る。上方には時計台を構成する機構やカラクリが、所狭しと設置されていた。

 時刻はまだ朝だ。この時間は動いている機構は、時計盤が時を刻むために必要な最小限の歯車と、上方の貯水槽に水を運び上げるリフトだけで、その他の機械は沈黙していた。

 そんな大広間を抜け、入り口へと続く階段を下りる。徐々に荒く、叩きつける様にされるノックの音。その元凶を黙らせるために、ベンは玄関のかんぬきをはずし、ドアを開けた。

 そこには見知らぬ少女が、息を切らして立っていた。


「あ……」


 少女が小さく声を上げる。まだ子供のあどけなさを残しながら、すでに完成されつつある高貴な顔立ち。流れる様なブロンドと吸い込まれるように蒼い瞳。透けるように白い肌には清潔な薄絹のドレスを身につけ、華奢な指には宝石のあしらわれた指輪をしていた。

 ベンはすぐに、少女が自分と違う身分の人間だと理解した。

「中に入れて!」

「おい、待っ……」

 少女はするりと中に入ると入り口の、玄関のドアを半ば無理やり閉めた。

「何なんだ――」

「静かに!」

 少女は手荒に、両手を突き出してベンの口を塞ぐ。彼の無骨なそれとは別の生き物のような、華奢で美しい掌からは、花のような香りがした。

 突然の状況に固まってしまったベンの耳に、外から男達の声が聞こえてくる。


『この辺か?』

『分からない。だが広場の連中はこちらの方向に走っていったと言っていたが……』

『とにかく、手分けして探すぞ』


 金属製の鎧が擦れる、耳障りな音が響く。どうやら武装した兵隊のようだ。数人はいるようだが、徐々に足音は遠ざかっていった。



「……行ったようね」

「一体、なんなんだよ……」

 寝起きのベンには状況が飲み込めない。しかし、先ほどの男達がこの少女を捜している事だけは分かった。

 なにか面倒な事になりそうだと、ベンは感じた。

「突然の非礼を謝罪するわ。私はエスタ。エスタ・フォン・バスハルグ」

「バスハルグって……まさか、王家の人間……ですか?」

「そうよ。それより、ここの主は誰?」

 エスタはずけずけと、時計塔の奥に進みながら言った。ベンは慌ててその小さな背中を追いかける。

 少女はエスタと名乗った。世間の事情に疎く、世捨て人とも揶揄される時計守であるベンですら、エスタという名は知っていた。

 国花である月下草の化身とも賛美される、才色兼備の美女と名高い、バスハルグ王家の第一皇女の名前だ。


 いったい何が起きている? 寝ぼけ頭のベンには現状が理解できなかったが、なんとか混乱した頭をなだめ、この突然の来訪者の対応を考える。

 相手が王家という事は、手荒に扱うわけにはいかない。とりあえず用件を聞いて、なんとか穏便にお帰り願う事にした。

「主なら俺です。ベンと言います。十年程前から、ここには俺しかいな……いません」

「そう。なら話は早い……わぁ!」

 エスタが中抜けの大広間にたどり着く。壁や天井に、無数に張り付いた歯車群を見上げ、エスタは感嘆した様子で声を上げていた。

 この大広間を初めて見た人は、大体このように圧倒される。ベンが時計塔の内部に来客を招く事はあまり無いが、たまにこの大広間を見せた時の人々の反応は、嫌いではなかった。

 しかしエスタはすぐに真剣な表情へと戻り、ベンの方に振り返った。

「ベン。私を匿って」

「は?」

「王宮から逃げ出してきたの」

「いや。そんな無茶な……」

「お願い。なんでもするから」

「くっ……」

 エスタは上目遣いにベンに擦り寄り、懇願した。月下草に例えられる美しさを持つバスハルグ家の第一皇女に、このように懇願されてなびかない男などいない。ベンも勿論例外ではないのだが、ギリギリのところで理性を発揮していた。

 皇女が兵隊に追われて時計塔に来た。これはどう考えても厄介事である。ここで匿ってしまえば、ベンはどのような罪を着せられるか分かった物ではない。


「……何が目的だ?」

 ベンは敬語を使うのも忘れ、少女に質問する。しかしエスタは気後れすることなく言った。

「前からこの時計塔に来てみたかったの。それと」

 エスタが上に広がる歯車群を指差した。

「頂上の時計盤を間近で見たい」

「それはダメだ!」

 ベンが声をあげて拒絶する。

「なぜ?」

「どうしてもだ。やっぱり、今すぐ帰ってくれ」

「いや!」

 今度は反対にエスタが、見た目の華奢さからは想像もつかない力強い声で、きっぱりと拒否をした。

「今、外に出たらすぐに捕まってしまう。そうなったら、二度とここには来られない。お願い、匿って」

 そう言うエスタの表情には悲壮感があった。頼れる人はベン一人というような。彼が女性にここまで切迫した様子で頼られるのは、もちろん初めての経験だ。


 どうするか。ベンはしばし考える。どう考えてもまともな話ではない。確実に面倒な事になる。だがこんなにも真剣な少女の懇願を、無碍むげに断るのも男としてどうなのか。

 そしてベンは決断した。深くため息をつきながら、エスタに向かって言う。

「働けよ。働くなら匿ってやる」

「やった!」

 飛び上がって喜ぶエスタ。思わず、その可憐な姿に見とれてしまった時計塔の主は、軽く鼻を掻きながら自嘲していた。

「とりあえず朝飯だな。俺は起きたばかりなんだよ」

 ベンはぶっきらぼうに言った。



……



 時計塔は街の中央にある。頂上に設置された巨大な時計盤が、街を見下ろすように時を刻んでいた。

 塔の傍には、街を横断して流れる巨大な川があり、その流れを汲み取って回る巨大水車の回転は、無数の歯車により頂上の仕掛け時計にまで伝えられている。同時にあるカラクリの動力源とするために、巨大な貯水槽へと水を運んでいくリフトが、大広間を通って上層部へと絶え間なく登り降りしていた。

 中抜けの大広間にはすべての機構が集まっている。その大広間を囲むように、今は使われなくなってしまった多くの部屋が配置されていた。ベンは皇女を名乗る少女エスタを、その中の一つ、いつも食事や休憩に使っている部屋へと案内した。


 テーブルには無造作にパンが放られている。それは質の悪い麦で作られた下級品だ。加えて、出不精なベンはまとめ買いするため、パンは既に石の様にガチガチに堅くなっていた。

「茶でいいか? まあ、それ以外の選択肢は無いが」

 ベンは錆付いたナベでお湯を沸かしながら、物が詰った食料棚らしき場所に顔を突っ込んでいた。

「紅茶? 私はミルクティーがいいわ」

「あー、紅茶ね。そんな高級な茶じゃない。ミルクも無いしな」

 湯の沸いた鍋にバラバラと、カビ色をした粗悪な茶葉を入れる。そして火かき棒の様な、みるからに料理用ではない金属棒で鍋をかき回すと、やがて油入れ用の無骨な金属製コップにそれを注いだ。

「ほらよ」

 乱暴に置かれたそれは、彼女が見たことの無い色をした液体だった。テーブルに並べられたパンと茶に目をぱちぱちとさせながら、エスタが呟く。

「こ、これで全部?」

「ああ。なんだ。足りないのか?」

「いや……ジャムとかスープとか、果物はないの?」

「無い。あきらめろ」

 ベンの言葉に、エスタはパクパクと口を動かしていた。だが思い直したように頷いて、その固いパンにかじりつく。そして茶を口に含んで何回も咀嚼し、涙目になりながら飲み込んでいた。

 文句の一つは言われると思っていたベンが少し驚く。意外と根性のある姫様だなと、エスタを見直していた。


「それで、お前にやってもらうことだが」

「その前に約束して。仕事が終わったら、頂上の時計盤をみせる事」

「あそこまで行くのは、お姫様にはムリだ」

「じゃあ、連れて行って」

「断る」

「うぎぎ……」

 皇女とは思えぬうめき声が聞こえたが、ベンは無視してパンにかじりついた。

 頂上へ行く道は階段を登りきり、さらに常時稼動している歯車群を潜り抜けていかなければならない為、かなり大変で危険だ。当然、このお姫様が一人で行く事など到底不可能だった。

 しかしそれとは別に、ベンには彼女を時計盤に連れて行きたくない理由があった。誰にも知られていない、彼だけの秘密が――



……



「それじゃ。始めるか」

「はい」

「って、お前その格好で働く気か」

「何か、問題が?」

 薄絹のドレスの裾はふわふわと広がっており、すぐに機械に引っ掛かってしまうだろう。透き通った肌に身につけられたきらびやかな指輪もネックレスも、作業の邪魔になる。とてもこれから作業するとは思えないひどい格好だった。

 仕方無く、ベンは倉庫からボロボロのツナギを持ち出し、エスタを着替えさせた。


「わぁ。これはなかなか動きやすいな!」

「おれがガキのころ着ていたツナギだ。少しぼろいが我慢しろ。あと、その長い髪も括って、ツナギの中に入れとけ」

「あはは! なんだか楽しいぞ」

 エスタは言われた通りに髪をまとめると、何が嬉しいのか、その場で自分の姿を何度も確認して、けらけらと笑っていた。


「さて、いまはまだ朝だが、昼にこの時計塔でなにが起きるか知っているか?」

「正午の鐘!」

「そうだ」

 時計守の一番仕事は、正午の鐘を鳴らすカラクリを動かす事である。街中に正午の時間を知らせる鐘の音は、王族でも知っているようだ。

「午前中は鐘のカラクリに異常が無いかをチェック。鐘を鳴らした後は点検して、時計塔全体のメンテナンスだ。まあお前は何をすればいいのかわからないだろうから、適当にそこらへんを掃除でも……」

「私も鐘を鳴らすのを手伝う」

 エスタは上機嫌な様子のまま言った。その純粋な瞳に、ベンはたじろぐ。

「……まあ、荷物持ちくらいならできるか。じゃあついて来い。ただし、上で作業している時は、絶対に俺から離れるなよ」

「うん!」


 ベンはあきらかに重量オーバーな量の荷物をエスタに持たせると、外周を伝うように伸びた階段を上り始めた。

 鐘のカラクリは時計台の上方に設置された貯水槽の水を、一気に開放することにより起動させる。貯水槽に水を上げる作業は水車が自動で行なってくれるのだが、カラクリの起動は手動で行わなければならない。そしてその作業こそが、時計塔の守たるベンの最も重要な仕事だった。


……


 ベンが午前中の起動チェックを終えたのは、正午より20分ほど前だった。それはいつもより大分遅い時間である。やはりエスタがいる分色々と気を使ってしまい、時間がかかってしまった。

 それでもまだ余裕は残っているため、ベンは落ち着いていた。外周の階段に腰掛けて息を切らすエスタに声をかける。

「今から正午の鐘のカラクリを起動させてくる。いいか、ここにいろよ。すぐに戻ってくる。今は動いていない歯車が、鐘を鳴らす時には全部動き出す。危険だから絶対動くなよ」

「……はい」

 そう言いつけて、ベンは中央の貯水槽に向かった。階段や足場は外周にしかないため、貯水槽に行くには歯車などの機構を伝わなければならない。当然、慣れていないと辿り着く事さえできなかった。

 しかし、物心がつく前からこの塔を遊び場としていたベンにとって、それは簡単な事だ。すいすいと歯車をすり抜けると、あっという間に鐘を鳴らすカラクリの起動装置まで辿り着く。

 その場で起動の最終確認を終えると、懐から愛用の懐中時計を取り出す。毎日完璧に塔の時計と合わせているその小さな時針は、正午から10分前を示していた。

「11時50分――よし」

 時間を声に出した後、鐘を鳴らすカラクリを起動させる。すると時計塔の機構が目覚め、ぎしぎしという鈍い音共に動き始めた。

 すぐにこの場所でもカラクリが動き出す。そうなると危険だ。動き出した歯車を避けながら、ベンはすばやく元の場所に戻った。


 ベンが外周の階段に戻った時、そこにいるはずのエスタの姿が無かった。預けていた仕事道具は全て、その場所に放置されていた。

 彼女は時計塔の頂上にある、時計盤を見たがっていた。そしてベンの監視が無くなったのを見計らい行動を起こしたのだ。

 その事に気が付いたベンは、心臓の鼓動が高まるのを感じた。

 鐘のカラクリが起動中の時計塔内部は、ベンですらも、安全な場所を完全には把握していない危険な場所に変わるのだから。

「あのバカ! あれほど離れるなといったのに!」

 彼は慌てて、外周の階段を駆け上った。



……



 ベンが正午の鐘を鳴らすために外周から離れると、エスタはすぐに頂上にある時計盤に向かった。漠然と上に登れば時計盤に着くだろうと考えて、外周の階段を登っていたのだ。

 かなり上まで来ると、階段は途切れていた。そこからはまだ動いていない歯車群を伝って登ろうともがいてみたが、彼女の体力ではうまくいかなかった。

「んー。上に登っていけば時計盤までいけると思ったけど」

 そう呟いてペタリと座り込むと、エスタは大きくため息をついた。 


 エスタの住む王宮は、この時計塔とは街の中心を挟んで反対側にある。特に、エスタの私室と時計塔の時計盤は向かい合うような位置にあり、窓からよく眺めていた。物心ついた時から存在していた時計塔に、エスタが思いをはせるようになったのはいつだったか。

 この時期、時計盤は夜になると不思議な淡い光に包まれる。エスタは向かいの塔にかかげられた、月明かりのように幻想的に光る時計盤を見つめるのが好きだった。街の明かりとは異質に、白く幻想的に輝く時計盤は、エスタにとってつまらない王宮生活での希望の光だった。

「絶対、行くんだから」

 エスタは自らを鼓舞するように呟いた。しかし、その声は突然鳴り響き始めた轟音に掻き消される。

 その音にハッと物思いから目覚めたエスタは、周囲を見渡して驚いた。今まで動いてなかった歯車が次々とかみ合い、動き始めていたのだ。彼女が居た場所は、カラクリの機構が集まっている上層部分だった。時間がたつにつれてエスタは機械に追い詰められ、安全な場所がなくなる。ガラガラと音を立てて動く歯車群を前に、エスタは全く動けなくなってしまう。



「助けて……ベン……」



……


 いた!


 歯車に囲まれたエスタを見つけたベンは、急いで傍まで行くと怒鳴りたい気持ちを抑えてその小さな首根っこをつかんだ。

「ベン!」

「掴まってろ!」

 そして素早く小さな体躯を抱き上げると、回転する歯車群をかわし、貯水槽に水を運び終わって降下中のリフトの一つに、飛び乗った。

 ぐらぐらとゆれる不安定なリフトのロープに、力強く掴まるベン。その大きな体に、赤子のように必死にしがみ付くエスタ。

 その時、正午の鐘が鳴り響いた。

 澄んだ鐘の音が、塔中を包む――



 ベン! すごい音だな!!



 凄いだろ! 俺の自慢だ!!



 お互いの耳に目一杯顔を近づけて、二人は叫びあった。



……


 

 午後からはエスタも反省したようで、ベンの命令に素直に従い真面目に働いた。塔内の仕事を終えると、夕方には時計塔の傍を流れる川で魚釣りをした。生まれて体験したというエスタにそれを教えてやると、彼女は大いに楽しんでいた。

 夕飯はエスタが釣った魚を焼き、ワインと自家栽培しているハーブで作ったソースをあえたソテーだった。意外にも、調理したのはエスタである。

「私、料理は得意なの」

 そう自信満々に言い放ったエスタだったが、言うだけの事はあってそれはとても美味しく、上品な味だった。川魚など、塩かハーブ焼きでしか食べた事が無かったベンは、大いに驚かされてしまった。


 そして夜。

 夕飯を済ませるとベンは、何年も掃除していないが一応は住めそうな部屋にエスタを放り込んだ。

「ここがお前の部屋だ」

「なにこの部屋? 汚い。私にこのような部屋で寝ろって言うの?」

「あぁ。ここ以外だと、寝られるのは俺の部屋くらいだからな。一応、新しい毛布は貸してやるから。我慢しろ」

「ではそなたの部屋で、二人で寝ればよいのでは?」

 エスタはきょとんとした様子で首を傾げていた。ベンが慌てて答える。

「お姫様。少しは警戒をしてください。ここは王宮じゃない。俺は貴方様の家族でもなければ侍女でもない」

「ふーん」


 そうしてベンは、不満顔のエスタを放置して自室へと戻った。そしてお気に入りの肘掛け椅子に座ると、今日起きた出来事について考え始める。

 皇女が王宮からいなくなった事は、朝の兵隊達の様子から考えても、すでに街中に知れ渡っているだろう。となると街はバケツをひっくり返したような大騒ぎになっているはずだ。この時計塔にエスタが匿われている事がばれるのも、時間の問題だろう。

 別にエスタを匿う理由はないし、逆に匿っている事がばれた場合、自分が罪に問われる可能性がある。状況を客観的に見れば、皇女をさらって監禁しているようにしか見えないのだから。

 やはりさっさと追い出してしまうのが賢明なのだろうか……

 

 ベンは考えながら、うとうとし始めていた。

 そんな中、カタンという物音にはっとして意識を覚醒させる。すると目の前にはツナギを脱ぎ、薄絹の肌着姿になったエスタが立っていた。

「なっ……」

 あっけにとられ、口を閉じられないベンに対して、エスタは不機嫌そうに言った。

「やっぱり、あの部屋は不快よ。貴方のベッドで寝かせて」

「お前……その格好は……」

「え? 私は寝る時、いつもこうだけど」

 きょとんとした様子で答えるエスタ。お姫様。さすがに俺も自制できなくなりますよ――そう思わず頭を抱えるベンだった。

 しかしそんなことは歯牙にもかけず、エスタはとことこと歩いてベッドの端に座り、芸術品のように白く美しい足をぶらぶらとさせる。そしてきょろきょろと部屋を見渡すと、思い出したように言った。

「ベンはここに一人で住んでいるのか?」

「そうだよ……」

「両親はどうしたの?」

 真剣な表情をみせるエスタを前にして、ベンも不惑な事を考えるのを中断した。

「いない。生まれた時からこの塔でじいさんに育てられた。じいさんの話じゃ、ある日時計塔の前に捨てられてた俺を拾った、だってさ。名前だけ書かれた手紙と一緒にね」

「おじいさまは?」

「死んだよ。10年位前だ。おれ15になった直後だった。まあ、年だったから」

「そう……」

 エスタは申し訳無さそうに顔を伏せる。ベンは暗い雰囲気を晴らすよう、陽気な声で言った。

「とにかく、それからはずっと一人。週に一回くらい、食い物と仕事用具を買いにいくだけに街に出る。言ってしまえば引き篭もりさ」

 ベンは自嘲気味に手を広げた。元々の出不精に加え、この時計塔の敷地と傍らに流れる川のお陰で、ほとんど自給自足の生活が出来てしまう。この事が彼の引きこもり癖を助長していた。

 しかしベンの様子に悲壮感は無い。自分は今の生活に満足しているのだから。彼は時計守としての仕事が好きだったし、育ての親から受け継がれたこの時計塔を大切に守っていた。


 ベンが努めて明るく話したにもかかわらず、エスタはベッドに座ったまま、下を向いて沈黙していた。長い沈黙が続いた。

 そして、エスタは突然呟いた。

「私は来月、隣国に嫁ぐ事になったの」

「えっ……」

 ベンは少し驚いた。それは彼女がどうみても、まだ子供だったからでは無い。彼が驚いたのは、婚姻を控えた国の皇女が、お供一人も連れずに王城を抜け出したという事実だった。

 困惑するベンに、エスタは瞳に涙を浮かべながら言う。

「私もそなたと同じ、引き篭もりだ。王宮から一歩も出たことが無かった。もし嫁いだら、今度はその国の王宮から一歩も出られない。そう考えたら、怖くなったの」

 気持ちが溢れ出るように、エスタは止め処なく続けた。

「だから、最後に自分の好きにしてみようと思った。昔からしてみたい事があったの。子供の時から毎日見ていた時計塔。あの場所に行ってみよう――真夜中に淡く光る、あの不思議で綺麗な時計盤を、目の前で見てみたい――」

 途中からエスタは涙が止まらなくなり、ただ気持ちを吐き出すように言葉を繋いでいた。感情をあらわにして泣き出した彼女の前で、ベンはただ黙りこむ事しか出来なかった。


「――」


 その時、表からかすかに怒号が聞こえた。

「何だ……こんな時間に」

 ベンが立ち上がり、様子を見ようと部屋の外へと向かう。しかし腕を掴まれてしまう。見るとエスタの華奢な手が、必死に彼の腕を掴んでいた。

 エスタの顔からは、血の気が引いていた。

「ばれたのだ。私がここにいる事が」

「え?」

 入り口のほうから轟音が響いた。ついで号令が、時計塔全体に轟く。


『皇女はここにいる。一刻も早くお救いしろ!』


 そして大勢の足音が聞こえてきた。どうやらベンが考えるよりも早く、エスタの居場所がばれてしまったようだ。

「お迎えがきたぞ」

 そう言って、余った手でエスタの肩をぽんと叩く。これで今回の奇妙な来訪はお終いだ。ベンは安心したような、これからどうやって言い訳すればいいのか不安なような、どっちつかずな気分だった。

 しかしエスタは、ベンの腕を掴んだまま、瞳をうるわせて彼を見つめている。

 庇護を求める子供のように、神の啓示を待つ修道女のように、騎士に救いを求める――姫君のように。


「……わかったよ。連れて行ってやる」

「え……」


 そう呟くと、ベンはその小さな手を取り、部屋を飛び出した。


……


『いたぞ! 上だ!』


 兵士達は数人――外にいるのを合わせると数十人はいるだろう。二人の姿を見止めると、我先にと殺到してきた


「きゃ!」

「掴まれ!」 


 階段の途中で躓き、こけてしまったエスタを抱き上げ、ベンは階段を駆け上がる。兵士達はガチャガチャと鎧の擦れる音をかき鳴らしながら追いすがってきた。


「ベン! 追いつかれる!」

「っは。ここを何処だと思っている。俺を誰だと思っている。ここは時計塔で、俺はベンだ。追いつけるものならやってみろ!」


 ベンは跳ぶように階段を上りきり、その先に――昼間エスタが立ち往生した歯車群に辿り着く。さらに彼は、ガラガラと音を立てて動くそれら歯車群をいとも簡単にすり抜けて、屋上へと続くはしごに手を掛けた。


「しっかり掴まってろよ」

「うん」


 エスタを背負った状態で、ベンは錆付いたはしごを上りきる――



「ついたぞ」

 背に顔を預けていたエスタに、ベンが声をかける。すると彼女はするりと腕をはなし、夜風の吹きさらす屋上へ降り立った。

 時計塔の屋上には、真っ白な花が一杯に咲き誇っていた。

 国の花――月下草。この時期の、しかも夜にだけ咲く花で、月光をそのまま映し出したように、白く輝く美しい花だ。

 その月下草が所狭しと敷き詰められている事で、屋上は月の光を反射して幻想的な明るさをしていた。


 神秘的な花畑を見て惚けるエスタ。ベンがその肩を叩き、上を見上げさせる。そこには月下草の反射光を受けて光り輝く、巨大な時計盤が、静かに時を刻んでいた。

「これが時計盤……」

 探していたものはこれだった。幼少の頃より憧れて、救われてきた輝きが、目の前にあったのだ。

 自然と溢れてきた涙を隠そうともせず、エスタは時計盤を見上げ続けていた。


「なぜ嫌がっていたの?」

 しばらくして、エスタが聞いた。ベンが時計盤を見せる事を嫌がっていた理由がわからなかったのだ。

 ベンが少し恥ずかしそうに、鼻を掻きながら答えた。

「こんな……お花畑を作っているなんか、男らしくないじゃないか……」

「え……」

 ポカンとするエスタ。顔を赤くして恥ずかしげに顔を伏せるベンだったが、エスタの反応が無い事を見てぶっきらぼうに付け加えた。

「なんだよ、笑えよ。怒らないから」

「ううん……素敵な場所ね。とても気に入った!」


 エスタはそう言うと花畑の飛び込み、楽しそうに手を広げた。そして月下草とじゃれあうように、星空を見上げながら回った。

 月の光を受けて輝く、淡い幻想的な白光の中で、少女は踊るように回る。

 くるくる、くるくると。



 ――ありがとう。またいつか。



 最高の笑顔を見せて、エスタは王宮に帰っていった。



……


 一ヶ月後。皇女が嫁ぐために隣国へ出発する日。

 皇女を乗せた馬車が街の広場に差し掛かる。

 正午にしか鳴らないはずの時計塔の鐘が鳴る。

 皇女の為だけに。



















 お読みいただきありがとうございました。


 この『時計守と皇女』は2年ほど前に大筋だけ書いていたものの焼き直しです。

 確か『お姫様』『引き篭もり』『時計塔』という三つのキーワードから考えた物語だったと思います。友人に大筋を話したら「それって『ノートルダムの鐘』じゃん」と言われて、「確かに」と意味不明な納得をした記憶があります。(『ノートルダムの鐘』は子供の時に一度観たきりだったので……)


 拙い作品ですが、楽しんでいただけたなら幸いです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] グゴムさんの作品は全部読ませいただきましたがどれも大変おもしろかったです。 [一言] 次も楽しみにしてます
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