夕暮れの鐘は嘘をつかない ~婚約破棄された聖女令嬢、前世の記憶で村外れの鐘を鳴らしたら、私を捨てた王国が滅びの秒読みに入りましたわ~
「聖女の力なき偽聖女め、貴様との婚約を破棄する!」
王太子ジェラルドの指が、まっすぐわたくしに突きつけられました。
大広間のシャンデリアが、まるで断罪を演出するかのように煌々と輝いております。集まった貴族たちのざわめき、扇の陰から向けられる好奇の視線。傍らには、涙に濡れた瞳で王太子の腕にすがる男爵令嬢リゼット。
――ああ、始まりましたわね。
わたくし、クラウディア・エルフェンベルクは、眉一つ動かしませんでした。
(……で、この人たち。わたくしが抜けた後の魔力供給、どうするつもりなのかしら。まあ、知りませんけど)
前世で読んだ古い伝承集『夕暮れの鐘』。この世界がその舞台だと気づいたのは、辺境ヴェルデ村へ飛ばされて三日目のことでした。
前世のわたくしは、日本の激務に耐えた社畜でした。どれだけ働いても評価されず、擦り切れるように生きて――そして死んだ。その最後の慰めが、古びた伝承集を読むことだったのです。
村外れの、朽ちた鐘楼。
村人は言いました。「夕暮れに鐘を鳴らすと厄災が来る」と。
ですが、前世の記憶を持つわたくしだけが知っていた。あれは厄災を呼ぶ鐘ではない。厄災の到来を告げ、封じ込める――王国全土を守る結界装置なのだと。
「聞いているのか、クラウディア! 貴様のような無能な女が、聖女を名乗るなどおこがましいのだ!」
「あら、そう」
わたくしはただ、そう返しました。
ジェラルド殿下の顔が、屈辱に赤く染まります。彼が期待していたのは、泣き崩れるわたくしだったのでしょう。すがりつき、弁明し、無様に取り乱すわたくしを。
残念ですけれど。
「クラウディアさま、そんなに冷たいお顔をなさらないで……わたし、あなたと仲良くしたかったのに」
リゼットが、甘ったるい声で言いました。うるうると潤む瞳。計算され尽くした涙。
(……この子、自分の『浄化』がなぜ効いていたのか、本気で分かっていないのね。哀れなくらい無自覚)
彼女の『聖女の力』が効いたように見えたのは、いつも夕暮れの後。わたくしが鐘を鳴らした、その残響が浄化を肩代わりしていただけ。
ですが、教えて差し上げる義理もございません。
「クラウディア・エルフェンベルク。貴様の領地は剥奪。今日限り、王都からの追放を命じる!」
殿下が高らかに宣言しました。まるで自分が世界を正したかのような、満足げな顔で。
わたくしは、ゆっくりと一礼いたしました。
「かしこまりましたわ。では――」
顔を上げ、翠の瞳で真っ直ぐに王太子を見つめる。
「今日限り、鐘を鳴らすのをやめさせていただきます」
「……は? 鐘だと?」
殿下は怪訝な顔をなさいました。何のことか分からない、という表情。
ええ、分からないでしょうとも。
「ええ、お分かりになりませんでしょうとも。三年間、あなた方が誰一人見向きもしなかった、村外れの鐘のことなど」
(さあ、滅びの秒読みが、今始まりますのよ。……まあ、知りませんけど)
*
ヴェルデ村へ戻る道は、夕暮れに染まっておりました。
馬車も、護衛も、もう何もございません。追放された令嬢に付き従う者などいないのです。
ただ、村へ着くと――村人たちが、道の両脇に並んでおりました。
「領主様……」
老村長ハンスが、皺深い顔をくしゃりと歪めて進み出ます。節くれだった手を、震わせながら。
「話は、聞きました。都で、ひどい仕打ちを受けたと」
「……ええ。ですが、もう終わったことですわ」
わたくしは静かに微笑みました。
三年前、この村人たちはわたくしを恐れておりました。『厄災を呼ぶ鐘を鳴らす、不吉な令嬢』だと。石を投げられたこともございます。
ですが、毎夕、雨の日も、雪の日も、熱を出した日でさえ、わたくしは鐘を鳴らし続けました。誰に理解されなくとも。
いつしか村人たちの目は、変わっていきました。
「クラウディア様」
ハンス村長が、深く深く頭を下げました。その後ろで、村人たちも一斉に膝を折る。
「あんたは……いや、あなたは、村の恩人だ。何をしてくださっているのか、わしらにはずっと分からんかった。だが、あなたが鐘を鳴らす夕暮れは、いつも魔物が村に近づかなんだ。それだけは、確かなんじゃ」
胸の奥が、じんと熱くなりました。
報われない、ということには慣れているつもりでした。前世でも、今世でも。
ですが。
「……ありがとう」
気づけば、そう口にしておりました。令嬢らしからぬ、飾らない声で。
わたくしは鐘楼へと歩きました。
三年かけて修復した、朽ちた鐘楼。磨き上げた鐘の綱を、そっと握ります。手のひらに馴染んだ、この感触。
夕日が、鐘を紅く照らしておりました。
「――最後に、一度だけ」
わたくしは綱を引きました。
ゴォォォン……。
荘厳な音が、村を、森を、そして遠く王都の方角までを、震わせながら渡っていく。
この音が、三年間、王国全土を魔物の氾濫から守ってきた唯一の楔。
村人たちは、知りません。王都の誰一人、知りません。
これが――最後の音だということを。
(さようなら。わたくしを捨てた、王国)
鐘の残響が消えていく夕暮れ。
その瞬間から、滅びの秒読みが始まったことを、まだ誰も知らないのでした。
*
――ドサリ、と。
村外れに、影が舞い降りました。
漆黒の鱗、紅の双眸。長身の偉丈夫が、翼をたたみながら地に降り立ったのです。
村人たちが悲鳴をあげて逃げ惑いました。
「り、竜人だ! 隣国の、竜殺しの将軍……!」
『冷酷無比の竜殺し』――ジークハルト・ヴァルゲンティア。その名は、この辺境にすら轟いておりました。
わたくしは、綱を握ったまま、静かにその男を見つめました。
(あら。伝承通りなら、この方は……)
竜人将軍は、ゆっくりとわたくしの前まで歩み寄り――そして。
ガシャン、と。
鎧のまま、片膝をつきました。
「え……?」
さすがのわたくしも、少し驚きました。
見上げれば、戦場で恐れられるという紅の双眸が――潤んでいるではありませんか。
「……あなたが。あなたが、鐘を守っていた御方か」
低く、重い声。しかし震えている。
「三年だ。三年もの間、誰にも理解されず、村外れの朽ちた鐘を修復し、毎夕鳴らし続けた……。伝承集『夕暮れの鐘』の、あの一節そのものだ。『名もなき守人は、報いを求めず、ただ黄昏に鐘を鳴らす』――」
彼は、ぼろぼろに擦り切れた一冊の本を、胸から取り出しました。
わたくしが前世で愛読した、あの伝承集。
「俺は、この物語を一字一句諳んじられるほど愛してきた。だが、まさか……本物の守人が、実在するとは思わなかった」
ぽたり、と。
竜人将軍の頬を、涙が伝いました。
(……泣いてらっしゃる。冷酷無比の竜殺しが、伝承一つで号泣してらっしゃるわ)
あまりの落差に、わたくしは思わず頬を緩めそうになりました。
「クラウディア・エルフェンベルク公爵令嬢。いや――『鐘守りの君』よ。あなたの献身を理解できぬ王国に、あなたはもったいない」
ジークハルトは、真っ直ぐにわたくしを見上げました。涙を拭いもせず。
彼は、両手を差し伸べました。
「その鐘の音を、俺の国で鳴らしてくれ。俺は、あなたを守る。この命に代えても」
打算でも、政略でもない。
ただ、純粋な感動と敬意から差し伸べられた手。
この世界で、ただ一人。わたくしの三年間の意味を理解してくれた人。
わたくしは、そっとその手に、自分の手を重ねました。
「……よろしくてよ。ジークハルト様」
彼の顔が、ぱぁっと輝きました。まるで大きな犬のように。
「本当か!? では――あの、鐘楼を守っていた時の話を、聞かせてくれるか! どんな気持ちで鳴らしていた!? 雪の日はどうしていた!?」
「……一つずつ、お話ししますわ」
(甘えん坊なのね、この方)
夕闇の中、竜人将軍に伴われ、わたくしは隣国へと旅立ちました。
王国に、背を向けて。
*
鐘の停止から、七日。
王都は、地獄と化しておりました。
「ま、魔物だ! 魔物が城壁を越えてくるぞ!」
結界が綻び、封印されていた魔物が津波のように溢れ出したのです。悲鳴、怒号、崩れる建物。かつての平和な王都の面影は、もうどこにもありません。
王城の大広間で、ジェラルド王太子は青ざめた顔で喚いておりました。
「リゼット! 早く浄化しろ! お前は聖女だろう!?」
「や、やってます! やってるのに――」
リゼットが、必死に両手をかざします。しかし。
何も、起きません。
光の一つも、生まれません。
「なんで!? いつもは効いたのに! どうして今日は効かないの!?」
彼女は泣き喚きました。
(いつもは効いた――夕暮れの後だけは)
そう、彼女の『浄化』が効いたように見えたのは、いつだって鐘の残響がある時だけ。その事実を、本人すら知らなかったのです。
そこへ、宮廷魔術師長エルミナが、青い顔で駆け込んできました。銀縁の眼鏡の奥、鋭い眼光に、隠しきれぬ動揺を浮かべて。
「殿下。調査結果が、出ましてございます」
「エルミナ! 一体どうなっている! なぜ結界が崩れた!?」
老練な魔術師は、一呼吸置いて――そして、容赦なく告げました。
「殿下。これは、魔物の氾濫ではございません」
「なに……?」
「三年間、王国全土を守っていた魔力源は――辺境ヴェルデ村で、鳴らされ続けた一つの鐘でございました」
大広間が、しん、と静まり返りました。
「その鐘を鳴らしていたのは――あなたが七日前、偽聖女として追放した御方。クラウディア・エルフェンベルク公爵令嬢でございます」
ジェラルドの顔から、みるみる血の気が引いていきます。
「そ、そんな……そんなはずは……」
「リゼット嬢の『浄化』が効いて見えたのも、すべては鐘の残響が肩代わりしていたに過ぎません。彼女に、聖女の力など――最初から、一片もございませんでした」
「う、うそ! わたし、本物だもん! わたしは悪くないもん!」
リゼットが金切り声をあげました。
エルミナは、冷ややかにその姿を一瞥し、王太子へと向き直ります。
「殿下。はっきりと申し上げます」
銀縁の眼鏡が、鈍く光りました。
「我々は――自らの手で、王国唯一の守護者を、追放したのです」
ジェラルドは、へなへなとその場に崩れ落ちました。
「……余は。余は、なんということを……」
遠く、城壁の向こうから、魔物の咆哮が響いてまいります。
失ってから、ようやく。
誰もが、あの鐘の音の意味に、気づいたのでした。
*
隣国ヴァルゲンティア。竜人王国の、荘厳な城館。
わたくしは、暖炉のそばで紅茶をいただいておりました。
傍らでは、ジークハルト様が伝承集を膝に広げ、うっとりとした顔で朗読しております。
「『――そして守人は、報われぬまま去った。だが、失われて初めて、人々はその鐘の尊さを知る』……ああ、まさに今のあなたの物語だ、クラウディア。何度読んでも泣ける……」
「ジークハルト様。三度目ですわよ、その一節」
「何度でも読みたいんだ」
(本当に、伝承のこととなると子供みたいなんだから)
そこへ、従者が慌ただしく駆け込んでまいりました。
「クラウディア様! アルディア王国より、使者が――!」
通された謁見の間には、憔悴しきった王国の使者たちが、床に額をこすりつけておりました。
土下座、でございます。
「クラウディア様! どうか、どうかお助けを! 王都は魔物に蹂躙され、民は逃げ惑い、もはや我が国は滅びの淵に! お願いでございます、あの鐘を、どうかもう一度――!」
わたくしは、静かに紅茶のカップを置きました。
「顔を上げてくださいませ」
使者たちが、すがるような目を向けます。
三年間、誰にも見向きもされなかったわたくしに、今さら。
「あなた方は、わたくしを偽聖女と呼びました。領地を奪い、王都から追放なさいました。真実を、何一つ調べもせずに」
「そ、それは……!」
「ジェラルド殿下は、目に見える華やかな成果しか、評価できないお方でした。地道な献身を『何もしていない』と切り捨てる。まあ、そういうお方なのだと、わたくしは存じておりましたわ」
わたくしは、翠の瞳を細めました。
「ですが――ようやく、お気づきになったのですね。失ってから」
使者は、言葉を失っております。
「あの鐘をもう一度鳴らせ、と。ずいぶんと、身勝手なお願いですこと」
わたくしは、ゆっくりと立ち上がりました。
「よく、お聞きなさいませ」
静かに、しかしはっきりと。
「だが、断りますわ」
使者たちが、息を呑みました。
「あの鐘は、わたくしを信じてくれたヴェルデの村と――そして、わたくしの献身を唯一理解してくださった、この方のために鳴らすと決めましたの」
傍らのジークハルト様が、感極まったように目を潤ませております。(また泣いてらっしゃる)
「王国が滅びるのは、わたくしの報復ではございません。あなた方が、自ら招いた――因果ですわ」
わたくしは、彼らに背を向けました。
報復など、この手で下す必要はないのです。
真実を見抜けなかった愚かさが、献身を踏みにじった傲慢さが、そのまま王国を裁く。
それで、十分。
「お引き取りを。二度と、この国の土を踏まぬよう」
――後に伝え聞いたところによれば。
ジェラルド王太子は廃嫡。リゼットの詐称は白日の下に晒され、投獄されたそうです。
そして誰もが、口々に語ったとか。
『我々は、本物の聖女を、自らの手で捨てたのだ』と。
遅すぎる後悔を、抱えながら。
*
ヴァルゲンティア王国の、丘の上。
新しい鐘楼が、夕日を浴びて輝いておりました。
ジークハルト様が、この国の職人を総動員して建ててくださったもの。ヴェルデ村の鐘を、そっくりそのまま移して。
「クラウディア。時間だ」
隣に立つジークハルト様が、優しく声をかけてくださいます。戦場では竜殺しと恐れられる大男が、今は穏やかに微笑んで。
「ええ」
わたくしは、磨き上げた鐘の綱を握りました。
手のひらに馴染む、懐かしい感触。
この国では、村人たちがわたくしを『鐘守りの聖女』と呼び、心から敬ってくれます。
報われなかった三年間は、もう遠い昔。
(前世でも、来世でも。わたくしはきっと、鐘を鳴らすのね)
それでも、今は――こんなにも、心が満たされている。
「ジークハルト様。一緒に、鳴らしてくださいますか」
「……いいのか? 俺が?」
紅の双眸が、少年のように輝きました。
「あなたと一緒でなければ、意味がございませんわ」
二人で、綱を引きました。
ゴォォォン……。
荘厳な音が、竜人王国の空に、どこまでも渡っていきます。
夕暮れの鐘は、嘘をつかない。
報われぬ献身も、見抜かれぬ真実も、時が来れば必ず、正しい音を響かせる。
ジークハルト様は、案の定、涙をこぼしておられました。
「……美しい。世界で、一番美しい音だ」
「もう。すぐお泣きになるんだから」
わたくしは、くすりと笑いました。
――ですが。
その時。
鐘の音が、遠く、遥か遠くの山脈へと届いた、その瞬間。
ズ、ズズ……ン……。
大地が、微かに震えました。
「……クラウディア。今の、感じたか」
ジークハルト様の顔から、涙が引き、将軍の鋭さが戻ります。
わたくしも、綱を握ったまま、遠い山脈を見つめました。
(この揺れ……伝承集の、最後の一節。『――そして、新たな鐘の音は。眠れる古き竜を、目覚めさせるだろう』)
背筋を、冷たいものが伝いました。
封印されていた、さらに古き竜。
それが今、この鐘の音に呼応するように――ゆっくりと、目を覚まそうとしている。
「……あら、まあ」
わたくしは、ため息まじりに呟きました。
「せっかく、平穏に暮らそうと思っておりましたのに」
「クラウディア。俺が守る。何が来ようとも」
ジークハルト様が、頼もしく前に立ちました。
夕日が、二人を紅く照らします。
次なる伝説の幕が、今、静かに上がろうとしておりました。
――夕暮れの鐘は、嘘をつかない。
それは、始まりの合図でもあるのです。
(まったく。前世でも今世でも、わたくしって、どうしてこう厄介事に縁があるのかしら。……まあ、知りませんけど)
〈次なる伝説へ、続く〉




