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夕暮れの鐘は嘘をつかない ~婚約破棄された聖女令嬢、前世の記憶で村外れの鐘を鳴らしたら、私を捨てた王国が滅びの秒読みに入りましたわ~

作者: uta
掲載日:2026/08/23

「聖女の力なき偽聖女め、貴様との婚約を破棄する!」


王太子ジェラルドの指が、まっすぐわたくしに突きつけられました。


大広間のシャンデリアが、まるで断罪を演出するかのように煌々と輝いております。集まった貴族たちのざわめき、扇の陰から向けられる好奇の視線。傍らには、涙に濡れた瞳で王太子の腕にすがる男爵令嬢リゼット。


――ああ、始まりましたわね。


わたくし、クラウディア・エルフェンベルクは、眉一つ動かしませんでした。


(……で、この人たち。わたくしが抜けた後の魔力供給、どうするつもりなのかしら。まあ、知りませんけど)


前世で読んだ古い伝承集『夕暮れの鐘』。この世界がその舞台だと気づいたのは、辺境ヴェルデ村へ飛ばされて三日目のことでした。


前世のわたくしは、日本の激務に耐えた社畜でした。どれだけ働いても評価されず、擦り切れるように生きて――そして死んだ。その最後の慰めが、古びた伝承集を読むことだったのです。


村外れの、朽ちた鐘楼。


村人は言いました。「夕暮れに鐘を鳴らすと厄災が来る」と。


ですが、前世の記憶を持つわたくしだけが知っていた。あれは厄災を呼ぶ鐘ではない。厄災の到来を告げ、封じ込める――王国全土を守る結界装置なのだと。


「聞いているのか、クラウディア! 貴様のような無能な女が、聖女を名乗るなどおこがましいのだ!」


「あら、そう」


わたくしはただ、そう返しました。


ジェラルド殿下の顔が、屈辱に赤く染まります。彼が期待していたのは、泣き崩れるわたくしだったのでしょう。すがりつき、弁明し、無様に取り乱すわたくしを。


残念ですけれど。


「クラウディアさま、そんなに冷たいお顔をなさらないで……わたし、あなたと仲良くしたかったのに」


リゼットが、甘ったるい声で言いました。うるうると潤む瞳。計算され尽くした涙。


(……この子、自分の『浄化』がなぜ効いていたのか、本気で分かっていないのね。哀れなくらい無自覚)


彼女の『聖女の力』が効いたように見えたのは、いつも夕暮れの後。わたくしが鐘を鳴らした、その残響が浄化を肩代わりしていただけ。


ですが、教えて差し上げる義理もございません。


「クラウディア・エルフェンベルク。貴様の領地は剥奪。今日限り、王都からの追放を命じる!」


殿下が高らかに宣言しました。まるで自分が世界を正したかのような、満足げな顔で。


わたくしは、ゆっくりと一礼いたしました。


「かしこまりましたわ。では――」


顔を上げ、翠の瞳で真っ直ぐに王太子を見つめる。


「今日限り、鐘を鳴らすのをやめさせていただきます」


「……は? 鐘だと?」


殿下は怪訝な顔をなさいました。何のことか分からない、という表情。


ええ、分からないでしょうとも。


「ええ、お分かりになりませんでしょうとも。三年間、あなた方が誰一人見向きもしなかった、村外れの鐘のことなど」


(さあ、滅びの秒読みが、今始まりますのよ。……まあ、知りませんけど)



ヴェルデ村へ戻る道は、夕暮れに染まっておりました。


馬車も、護衛も、もう何もございません。追放された令嬢に付き従う者などいないのです。


ただ、村へ着くと――村人たちが、道の両脇に並んでおりました。


「領主様……」


老村長ハンスが、皺深い顔をくしゃりと歪めて進み出ます。節くれだった手を、震わせながら。


「話は、聞きました。都で、ひどい仕打ちを受けたと」


「……ええ。ですが、もう終わったことですわ」


わたくしは静かに微笑みました。


三年前、この村人たちはわたくしを恐れておりました。『厄災を呼ぶ鐘を鳴らす、不吉な令嬢』だと。石を投げられたこともございます。


ですが、毎夕、雨の日も、雪の日も、熱を出した日でさえ、わたくしは鐘を鳴らし続けました。誰に理解されなくとも。


いつしか村人たちの目は、変わっていきました。


「クラウディア様」


ハンス村長が、深く深く頭を下げました。その後ろで、村人たちも一斉に膝を折る。


「あんたは……いや、あなたは、村の恩人だ。何をしてくださっているのか、わしらにはずっと分からんかった。だが、あなたが鐘を鳴らす夕暮れは、いつも魔物が村に近づかなんだ。それだけは、確かなんじゃ」


胸の奥が、じんと熱くなりました。


報われない、ということには慣れているつもりでした。前世でも、今世でも。


ですが。


「……ありがとう」


気づけば、そう口にしておりました。令嬢らしからぬ、飾らない声で。


わたくしは鐘楼へと歩きました。


三年かけて修復した、朽ちた鐘楼。磨き上げた鐘の綱を、そっと握ります。手のひらに馴染んだ、この感触。


夕日が、鐘を紅く照らしておりました。


「――最後に、一度だけ」


わたくしは綱を引きました。


ゴォォォン……。


荘厳な音が、村を、森を、そして遠く王都の方角までを、震わせながら渡っていく。


この音が、三年間、王国全土を魔物の氾濫から守ってきた唯一の楔。


村人たちは、知りません。王都の誰一人、知りません。


これが――最後の音だということを。


(さようなら。わたくしを捨てた、王国)


鐘の残響が消えていく夕暮れ。


その瞬間から、滅びの秒読みが始まったことを、まだ誰も知らないのでした。



――ドサリ、と。


村外れに、影が舞い降りました。


漆黒の鱗、紅の双眸。長身の偉丈夫が、翼をたたみながら地に降り立ったのです。


村人たちが悲鳴をあげて逃げ惑いました。


「り、竜人だ! 隣国の、竜殺しの将軍……!」


『冷酷無比の竜殺し』――ジークハルト・ヴァルゲンティア。その名は、この辺境にすら轟いておりました。


わたくしは、綱を握ったまま、静かにその男を見つめました。


(あら。伝承通りなら、この方は……)


竜人将軍は、ゆっくりとわたくしの前まで歩み寄り――そして。


ガシャン、と。


鎧のまま、片膝をつきました。


「え……?」


さすがのわたくしも、少し驚きました。


見上げれば、戦場で恐れられるという紅の双眸が――潤んでいるではありませんか。


「……あなたが。あなたが、鐘を守っていた御方か」


低く、重い声。しかし震えている。


「三年だ。三年もの間、誰にも理解されず、村外れの朽ちた鐘を修復し、毎夕鳴らし続けた……。伝承集『夕暮れの鐘』の、あの一節そのものだ。『名もなき守人は、報いを求めず、ただ黄昏に鐘を鳴らす』――」


彼は、ぼろぼろに擦り切れた一冊の本を、胸から取り出しました。


わたくしが前世で愛読した、あの伝承集。


「俺は、この物語を一字一句諳んじられるほど愛してきた。だが、まさか……本物の守人が、実在するとは思わなかった」


ぽたり、と。


竜人将軍の頬を、涙が伝いました。


(……泣いてらっしゃる。冷酷無比の竜殺しが、伝承一つで号泣してらっしゃるわ)


あまりの落差に、わたくしは思わず頬を緩めそうになりました。


「クラウディア・エルフェンベルク公爵令嬢。いや――『鐘守りの君』よ。あなたの献身を理解できぬ王国に、あなたはもったいない」


ジークハルトは、真っ直ぐにわたくしを見上げました。涙を拭いもせず。


彼は、両手を差し伸べました。


「その鐘の音を、俺の国で鳴らしてくれ。俺は、あなたを守る。この命に代えても」


打算でも、政略でもない。


ただ、純粋な感動と敬意から差し伸べられた手。


この世界で、ただ一人。わたくしの三年間の意味を理解してくれた人。


わたくしは、そっとその手に、自分の手を重ねました。


「……よろしくてよ。ジークハルト様」


彼の顔が、ぱぁっと輝きました。まるで大きな犬のように。


「本当か!? では――あの、鐘楼を守っていた時の話を、聞かせてくれるか! どんな気持ちで鳴らしていた!? 雪の日はどうしていた!?」


「……一つずつ、お話ししますわ」


(甘えん坊なのね、この方)


夕闇の中、竜人将軍に伴われ、わたくしは隣国へと旅立ちました。


王国に、背を向けて。



鐘の停止から、七日。


王都は、地獄と化しておりました。


「ま、魔物だ! 魔物が城壁を越えてくるぞ!」


結界が綻び、封印されていた魔物が津波のように溢れ出したのです。悲鳴、怒号、崩れる建物。かつての平和な王都の面影は、もうどこにもありません。


王城の大広間で、ジェラルド王太子は青ざめた顔で喚いておりました。


「リゼット! 早く浄化しろ! お前は聖女だろう!?」


「や、やってます! やってるのに――」


リゼットが、必死に両手をかざします。しかし。


何も、起きません。


光の一つも、生まれません。


「なんで!? いつもは効いたのに! どうして今日は効かないの!?」


彼女は泣き喚きました。


(いつもは効いた――夕暮れの後だけは)


そう、彼女の『浄化』が効いたように見えたのは、いつだって鐘の残響がある時だけ。その事実を、本人すら知らなかったのです。


そこへ、宮廷魔術師長エルミナが、青い顔で駆け込んできました。銀縁の眼鏡の奥、鋭い眼光に、隠しきれぬ動揺を浮かべて。


「殿下。調査結果が、出ましてございます」


「エルミナ! 一体どうなっている! なぜ結界が崩れた!?」


老練な魔術師は、一呼吸置いて――そして、容赦なく告げました。


「殿下。これは、魔物の氾濫ではございません」


「なに……?」


「三年間、王国全土を守っていた魔力源は――辺境ヴェルデ村で、鳴らされ続けた一つの鐘でございました」


大広間が、しん、と静まり返りました。


「その鐘を鳴らしていたのは――あなたが七日前、偽聖女として追放した御方。クラウディア・エルフェンベルク公爵令嬢でございます」


ジェラルドの顔から、みるみる血の気が引いていきます。


「そ、そんな……そんなはずは……」


「リゼット嬢の『浄化』が効いて見えたのも、すべては鐘の残響が肩代わりしていたに過ぎません。彼女に、聖女の力など――最初から、一片もございませんでした」


「う、うそ! わたし、本物だもん! わたしは悪くないもん!」


リゼットが金切り声をあげました。


エルミナは、冷ややかにその姿を一瞥し、王太子へと向き直ります。


「殿下。はっきりと申し上げます」


銀縁の眼鏡が、鈍く光りました。


「我々は――自らの手で、王国唯一の守護者を、追放したのです」


ジェラルドは、へなへなとその場に崩れ落ちました。


「……余は。余は、なんということを……」


遠く、城壁の向こうから、魔物の咆哮が響いてまいります。


失ってから、ようやく。


誰もが、あの鐘の音の意味に、気づいたのでした。



隣国ヴァルゲンティア。竜人王国の、荘厳な城館。


わたくしは、暖炉のそばで紅茶をいただいておりました。


傍らでは、ジークハルト様が伝承集を膝に広げ、うっとりとした顔で朗読しております。


「『――そして守人は、報われぬまま去った。だが、失われて初めて、人々はその鐘の尊さを知る』……ああ、まさに今のあなたの物語だ、クラウディア。何度読んでも泣ける……」


「ジークハルト様。三度目ですわよ、その一節」


「何度でも読みたいんだ」


(本当に、伝承のこととなると子供みたいなんだから)


そこへ、従者が慌ただしく駆け込んでまいりました。


「クラウディア様! アルディア王国より、使者が――!」


通された謁見の間には、憔悴しきった王国の使者たちが、床に額をこすりつけておりました。


土下座、でございます。


「クラウディア様! どうか、どうかお助けを! 王都は魔物に蹂躙され、民は逃げ惑い、もはや我が国は滅びの淵に! お願いでございます、あの鐘を、どうかもう一度――!」


わたくしは、静かに紅茶のカップを置きました。


「顔を上げてくださいませ」


使者たちが、すがるような目を向けます。


三年間、誰にも見向きもされなかったわたくしに、今さら。


「あなた方は、わたくしを偽聖女と呼びました。領地を奪い、王都から追放なさいました。真実を、何一つ調べもせずに」


「そ、それは……!」


「ジェラルド殿下は、目に見える華やかな成果しか、評価できないお方でした。地道な献身を『何もしていない』と切り捨てる。まあ、そういうお方なのだと、わたくしは存じておりましたわ」


わたくしは、翠の瞳を細めました。


「ですが――ようやく、お気づきになったのですね。失ってから」


使者は、言葉を失っております。


「あの鐘をもう一度鳴らせ、と。ずいぶんと、身勝手なお願いですこと」


わたくしは、ゆっくりと立ち上がりました。


「よく、お聞きなさいませ」


静かに、しかしはっきりと。


「だが、断りますわ」


使者たちが、息を呑みました。


「あの鐘は、わたくしを信じてくれたヴェルデの村と――そして、わたくしの献身を唯一理解してくださった、この方のために鳴らすと決めましたの」


傍らのジークハルト様が、感極まったように目を潤ませております。(また泣いてらっしゃる)


「王国が滅びるのは、わたくしの報復ではございません。あなた方が、自ら招いた――因果ですわ」


わたくしは、彼らに背を向けました。


報復など、この手で下す必要はないのです。


真実を見抜けなかった愚かさが、献身を踏みにじった傲慢さが、そのまま王国を裁く。


それで、十分。


「お引き取りを。二度と、この国の土を踏まぬよう」


――後に伝え聞いたところによれば。


ジェラルド王太子は廃嫡。リゼットの詐称は白日の下に晒され、投獄されたそうです。


そして誰もが、口々に語ったとか。


『我々は、本物の聖女を、自らの手で捨てたのだ』と。


遅すぎる後悔を、抱えながら。



ヴァルゲンティア王国の、丘の上。


新しい鐘楼が、夕日を浴びて輝いておりました。


ジークハルト様が、この国の職人を総動員して建ててくださったもの。ヴェルデ村の鐘を、そっくりそのまま移して。


「クラウディア。時間だ」


隣に立つジークハルト様が、優しく声をかけてくださいます。戦場では竜殺しと恐れられる大男が、今は穏やかに微笑んで。


「ええ」


わたくしは、磨き上げた鐘の綱を握りました。


手のひらに馴染む、懐かしい感触。


この国では、村人たちがわたくしを『鐘守りの聖女』と呼び、心から敬ってくれます。


報われなかった三年間は、もう遠い昔。


(前世でも、来世でも。わたくしはきっと、鐘を鳴らすのね)


それでも、今は――こんなにも、心が満たされている。


「ジークハルト様。一緒に、鳴らしてくださいますか」


「……いいのか? 俺が?」


紅の双眸が、少年のように輝きました。


「あなたと一緒でなければ、意味がございませんわ」


二人で、綱を引きました。


ゴォォォン……。


荘厳な音が、竜人王国の空に、どこまでも渡っていきます。


夕暮れの鐘は、嘘をつかない。


報われぬ献身も、見抜かれぬ真実も、時が来れば必ず、正しい音を響かせる。


ジークハルト様は、案の定、涙をこぼしておられました。


「……美しい。世界で、一番美しい音だ」


「もう。すぐお泣きになるんだから」


わたくしは、くすりと笑いました。


――ですが。


その時。


鐘の音が、遠く、遥か遠くの山脈へと届いた、その瞬間。


ズ、ズズ……ン……。


大地が、微かに震えました。


「……クラウディア。今の、感じたか」


ジークハルト様の顔から、涙が引き、将軍の鋭さが戻ります。


わたくしも、綱を握ったまま、遠い山脈を見つめました。


(この揺れ……伝承集の、最後の一節。『――そして、新たな鐘の音は。眠れる古き竜を、目覚めさせるだろう』)


背筋を、冷たいものが伝いました。


封印されていた、さらに古き竜。


それが今、この鐘の音に呼応するように――ゆっくりと、目を覚まそうとしている。


「……あら、まあ」


わたくしは、ため息まじりに呟きました。


「せっかく、平穏に暮らそうと思っておりましたのに」


「クラウディア。俺が守る。何が来ようとも」


ジークハルト様が、頼もしく前に立ちました。


夕日が、二人を紅く照らします。


次なる伝説の幕が、今、静かに上がろうとしておりました。


――夕暮れの鐘は、嘘をつかない。


それは、始まりの合図でもあるのです。


(まったく。前世でも今世でも、わたくしって、どうしてこう厄介事に縁があるのかしら。……まあ、知りませんけど)


〈次なる伝説へ、続く〉

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