いつもの日常
夜になるのを、待つようになった。
そう思えるようになるのは、もう少し先の話だ。
この頃の蒼にとって夜とは、一日が終わるだけの時間だった。
朝六時二十分。
スマートフォンのアラームが、枕元で小さく震える。
目を開けても、すぐには起き上がれない。
天井をぼんやり眺めながら、「あと五分だけ」と思う。
結局その五分は、毎朝二分で終わる。
「蒼ー、起きてる?」
階下から母の声が聞こえた。
「……起きてる。」
返事だけは早い。
布団をめくると、六月の朝は少しだけ肌寒かった。
制服に着替え、鏡の前で寝癖を直す。
肩まで伸びた髪をまとめる。
寝不足なのか、少しだけ目の下に影がある。
「また夜更かしした?」
朝食を並べながら母が笑う。
「ちょっとだけ。」
「受験生なんだから寝なさいよ。」
「うん。」
うん、と返事をしながら味噌汁を口へ運ぶ。
"うん"と言うだけで終わる会話。
それが嫌なわけじゃない。
家族とは仲がいい。
父は朝刊を読みながらコーヒーを飲み、母は今日の予定を話している。
テレビでは天気予報が流れていた。
平凡な朝。
平凡な家庭。
だけど学校へ向かう時間になると、胸の奥が少しだけ重たくなる。
「いってきます。」
「いってらっしゃい。」
玄関の扉を閉める。
六月の風は湿っていて、雨の匂いがした。
高校までの道は徒歩十五分。
いつも同じ道を歩く。
コンビニの前を通り、横断歩道を渡り、小さな公園を抜ける。
朝早い公園では、小学生くらいの兄妹がブランコで遊んでいた。
まだ学校も始まっていない時間なのに、元気だな。
そんなことを考えながら歩く。
校門が見えてくる。
生徒たちの笑い声も聞こえてくる。
「おはよー!」
「昨日のドラマ見た?」
「今日の小テストやばい!」
自然に輪ができている。
蒼はその横を通り過ぎる。
誰とも目が合わないわけじゃない。
「おはよう。」
すれ違ったクラスメイトが軽く手を挙げる。
「おはよう。」
蒼も笑顔で返す。
それだけ。
決して一人ぼっちではない。
でも、誰かの「一番」でもなかった。
教室へ入る。
窓際の一番後ろ。
蒼の席だ。
鞄を置いて椅子へ座る。
教室の真ん中では数人がスマホを見ながら笑っている。
「それ絶対盛ってるって!」
「いや本当なんだって!」
楽しそうだ。
羨ましい。
……入りたいわけじゃない。
でも、ああいうふうに自然に笑える場所があるのは、少しだけ羨ましかった。
「蒼、おはよう。」
隣の席の結衣が振り向く。
「あ、おはよう。」
「今日化学の課題出した?」
「昨日終わらせたよ。」
「え、早っ。」
少しだけ話して、またお互い前を向く。
気まずいわけじゃない。
仲が悪いわけでもない。
でも、それ以上会話は続かなかった。
先生が教室へ入ってくる。
「席につけー。」
朝のホームルームが始まる。
午前中の授業はあっという間だった。
数学。
英語。
現代文。
黒板を写しながらも、どこか集中できない。
受験生という言葉だけが、毎日頭の片隅にある。
「志望校、決めた?」
昼休み。
友達がそう聞いてきた。
「うん。」
「どこ?」
「まだ秘密。」
本当は秘密じゃない。
ただ、口に出すと現実になってしまいそうで怖かった。
夢は、まだ夢のままでいてほしい。
「蒼って真面目だよね。」
「そうかな。」
「科学部も頑張ってるし。」
そう言われると少し照れる。
科学部。
その言葉を聞くと、自然と気持ちが軽くなった。
放課後になれば、あの部屋へ行ける。
薬品の匂い。
ガラス器具。
静かな実験室。
あそこだけは、自分がちゃんと息を吸える場所だった。
チャイムが鳴る。
六時間目が終わる。
「じゃあまたね!」
教室では部活や遊びの約束をする声が飛び交っていた。
蒼は静かに鞄を持つ。
誰にも気付かれないくらい自然に教室を出る。
廊下を歩きながら、小さく息を吐く。
「……よし。」
科学部へ行こう。
その一言だけで、少しだけ足取りが軽くなった。
まだ蒼は知らない。
この学校にはまだ見つけられていない居場所があることを。
そして、その日の夜。
画面越しに聞こえた「よろしくねーー!」という一言が、自分の人生を少しずつ変えていくことを。




