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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

「飼い主」から逃げ出した俺が、別の幸せを見つけた瞬間に地獄に突き落とされた件

作者: 零時卿
掲載日:2026/02/12

愛とは素晴らしいものだ。

その人をそばに置いていたいと願う気持ちは、

信じられないほど素敵で、尊く、満たされて、胸が高鳴るものだ……

だが、どんなに純粋な愛であっても、

やがて歪められてしまうことがある……

――作者:零時卿



「なあ、もう正直に言えよ。ツクシロのこと、好きなんだろ?」

「何回言わせるんだよ、違うってば。」

月城ミズキは美しい少女だ。

おそらく、この学園で一番と言っていいほど。

彼女と俺は二年前からの知り合いだ。

最初は、ただの高慢な女だと思っていた。

だが、時が経つにつれて……

「ねえ、カイトくん。」

少しだけ、俺は肩を震わせた。

「な、何だよ、ツクシロ。」

俺の反応を見て、彼女の唇にからかうような笑みが浮かぶ。

「今日は、すごくかっこよく見えるわよ。知ってた?」

その言葉に胸が締めつけられ、心臓が早鐘を打ち始めた。

彼女はそれにすぐ気づき、楽しそうにからかってくる。

「どうしたの? もしかして、もうドキドキしちゃった?」

そう言いながら、彼女は俺のすぐ隣まで近づいてきた。

「おい、そういう冗談はやめろよ、バカ。」

彼女は小さく笑った。

そこには、ほんの少しの意地の悪さが混じっている。

「誰が……冗談だって言ったの?」

そう囁かれ、耳元で息がかかる。

全身にぞくりと寒気が走った。

彼女はゆっくりと離れ、大きな緑色の瞳に妖しい光を宿していた。

「本当に面白いわね、カイト。」

彼女はからかうような笑みを浮かべたまま、校舎の出口へと歩いていった。

その笑顔に、正直言って俺はかなり惹かれてしまう。

というか……彼女は間違いなく、この学園でもトップクラスに可愛い女子だ。

「そういう冗談はやめろよ、バカ……」

そう言うと、彼女の顔にぱっと大きな笑顔が広がった。

ウインクを一つ残し、楽しそうに去っていく。

その場に一人残された俺。

頭がおかしいと言われるかもしれないが――

彼女の頬が、ほんのり赤く染まっていたような気がした。

……もしかして……?

くそ。

そんなことを考えたせいで、心臓が馬鹿みたいに速く脈打ち始める。

こんなくだらない妄想、するべきじゃないのに……。

時間はゆっくりと過ぎていった。日を追うごとに、俺は月城への想いを自覚していった。彼女の姿を見るたび、鼓動は異常なほどに速くなる。

だが同時に、彼女の中で何かが変わり始めていた。毎日、少しずつ……。

「ねえ、月城。土曜日、何か予定ある?」

緊張しながら尋ねた。ああ、あんな声じゃきっと間抜けに見えたに違いない。

彼女は俺に注意を向けることもなく、横目でちらりと俺を見た。

「ええ、ごめん。もう行かなきゃ」

俺に視線を合わせることもなく、彼女は去っていった。何があったんだ? 数ヶ月前までは親友だったのに、今の彼女はまるで見向きもしないかのように俺を遠ざけている。

何度も食い下がってみたが、あることに気づかされた。おそらく、俺が台無しにしたんだ。どこかで、俺が何かをやり損ねたに違いない。彼女はもう俺に目もくれず、無視し、俺の悪口を言うようになった。さらには噂で、彼女が他校の男子と付き合っているなんて話まで耳にするようになった。


「月城……」

彼女は、大して興味もなさそうに俺を見た。

「何かしら、カイト?」

その声は冷たく、まるでおどされているかのようだった。

「どうして、あんな態度をとるんだ……」

彼女は俺をじっと見つめた。一瞬、彼女の表情に満足感のようなものが浮かんだ気がした……。まるで、俺の混乱を楽しんでいるかのように。

「あんな態度って、どういうこと?」

声は冷徹で突き放すようだったが、なぜか背筋が凍るような微笑を浮かべていた。

「今の態度のことだよ。毎日話していたのに、急にこんな……。お願いだ、俺が何か悪いことをしたなら言ってくれ」

彼女の顔に笑みが浮かんだ。それは俺の心を突き刺すような笑みだった。

「あなたは何も悪くないわよ、カイト。ただ……もう少し空気を読めるようになった方がいいんじゃないかしら」

彼女は立ち去り、俺は学園の真ん中で一人取り残された。心は粉々に砕け散っていた。何の解決にもならず、俺はある結論に達した。

彼女は最初から、俺に興味なんてなかったんだ……。

公園は本当に綺麗な場所だ。

……だが、夜になると少し不気味な雰囲気になる。

でも正直、そんなことはどうでもよかった。


俺は人気のないベンチに腰を下ろし、

何もない虚空を見つめながら、夜の冷たい空気を味わっていた。


「……どうしてだ? 俺が何をしたっていうんだ……」


目に涙が滲んだ。

俺は――二番目の選択肢だったのか?


それとも、ただの玩具だったのか。

遊ぶだけ遊んで、飽きたら捨てられる……そんな存在。


「くそ……くそったれ!!」


答えなんて返ってこないと分かっていながら、叫んだ。

だって、もう深夜十二時だ。

誰かが返事をしてくれるわけがない……だろ?


「何を叫んでるのよ、バカ。

人を起こすつもり?」


俺は驚いて立ち上がり、振り返った。


そこにいたのは――

長い赤髪の少女だった。


夜にもかかわらず、

その髪の色ははっきりと目に映っていた。

「……お前、誰だよ?」


苛立ちを隠さずにそう聞いた。


「本気で私のこと分からないの?

同じ学校じゃない、海斗。」


彼女の顔には、からかうような笑みが浮かんでいた。


「だから何だってんだよ。

名前を言う気はあるのか?」


俺の表情を見て、彼女はくすっと笑った。


「私は花沢ユウ。

知らなくて当然よ、同じ学年じゃないもの。

確か……あなたは私より一つ下だったわね。」


その瞬間、記憶がよみがえった。

花沢先輩――

赤い髪で有名な、学校でもかなり人気のある女子。


それ以外のことは、ほとんど知らない。


(……なんで、こんな人気者が

こんな場所に、しかもこんな時間にいるんだ?)

「ああ、思い出した。……それで、そもそもなんで俺の名前を知ってるんだ?」


俺は前の涙を拭いながら、少し不思議に思って尋ねた。


「まあ、本当のことを言うと、君は結構有名人なのよ。月城さんの『忠実な飼い犬』としてね」


その言葉を聞いた瞬間、俺は拳を強く握りしめ、指の関節が白くなるほどだった。月城への想いはそんなに丸出しだったのか。それに、何より……なぜ俺が『飼い犬』なんて呼ばれなきゃいけないんだ!


「おい、月城の飼い犬ってどういうことだよ?」


彼女は小さく笑った。


「だって、本当にそう見えるんだもの。どこへ行くにも彼女の後ろをついていって、貢ぎ物をして……まるで彼女のペットみたいじゃない」


本当に、俺はそこまで無様な姿を晒していたのか。周囲の目には、ただの月城のペットにしか映っていなかったんだ。自分が情けなくなり、誰の目から見ても俺はただの馬鹿なのだと思い知らされた。


「……そうかよ。それで、あんたこそこんな公園で何してるんだ? もう夜の12時だぞ」


「私は……」


彼女は急に口を閉ざした。気まずい沈黙が流れる。これなら、家で寝ていた方がよっぽどマシだったかもしれない。

「あんたみたいな人に教える必要はないわ」


彼女はそっけなく答えた。だが、それがかえって俺の好奇心を掻き立てた。


「じゃあ、あんたこそ何してるんだよ?」


「ちょっと、それって卑怯じゃない! 自分の理由も言わないのに、なんで私に教えろなんて言えるわけ!?」


彼女は俺の頭に一撃を食らわせた。人気者の女子にしては、かなりの腕力だ。俺はその衝撃でたじろぎ、打たれた場所をさすった。


「声が大きいのよ、バカ」


「……うるさいな」


俺はベンチに座り直し、彼女もその隣に腰を下ろした。


「なあ、もう寝なきゃダメだろ。明日も学校なんだぞ、花沢先輩」


「それは、そっくりそのまま君に返すわよ」


俺たちはしばらく沈黙した。それは気まずい沈黙ではなかったが、かといって心地よいと言えるほどのものでもなかった。

「それで、私が来た時に女の子みたいに泣いてたのはどうして?」


その言葉に、俺は完全に凍りついた。


「おい、ちょっと馴れ馴れしすぎないか?」


「話してくれるの? それとも、私を退屈死させるつもり?」


本当は、話したくなんてなかった。すべてを自分の中に閉じ込めておきたかった。だが、心の奥底ではこの痛みが俺を蝕んでいた。誰かに話すべきだとは分かっていたが……。よりによって、彼女のような人に? 会ったばかりで何も知らないんだぞ、クソッ。嫌だ、だけど……。

「月城のことだよ。……ああ、馬鹿げてるって分かってるけど、彼女のことで泣いてたんだ」


花沢先輩は俺をじっと見つめると、ケラケラと笑い出した。当然、俺はイラっとした。席を立って帰ろうとしたが、彼女は俺の服を引っ張り、無理やり座らせた。こんな細い女の子がこれほどの力を持っているなんて、予想外だった。


「なるほどね。どうせ、彼女が他の男と一緒にいて、君のことは無視してる……そんなところでしょ?」


俺は沈黙した。どういうわけか、彼女は正確な理由を言い当てた。まあ、ある程度は予想していたことだ。なぜか人気者という人種は、そういう特別な勘を持っているものだから。

「当たってたでしょ?」


「……ああ」


彼女は小さく笑うと、俺の方を見た。


「月城さんらしいわね。彼女、いつもそうなのよ。だから大嫌いなの」


俺は驚いて彼女を見た。


「仲が悪いのか?」


「最悪よ。自分が可愛いからって、何でも思い通りになると思ってる高慢こうまんな女なんだから」


彼女はいら立ちを隠そうともせずに吐き捨てた。だが正直なところ、花沢先輩について耳にした噂を思い返すと、彼女も月城と似たり寄ったりなんじゃないか……なんて思えてしまう。


「そうなんだな。それで、花沢先輩。なんでこんな公園にいて、わざわざ俺に話しかけてるんだ?」


「別に。家にいても暇だったから、散歩してただけよ」


彼女はどこか上から目線で答えたが、その瞳の奥には微かな嘘が見えた。今はあえて追求しないでおくことにしたが。

「迷惑な話よね、きっと」


街灯の光だけに照らされながら、俺たちは長い沈黙に包まれた。


「ねえ、少し歩かない?」


不意を突かれた。それと同時に、どこか妙な感覚に襲われた。正直、長いこと誰かと出かけるなんてなかったし、ましてや女の子となんて。


「いいよ。それに、この公園にいたら寒さで死にそうだ」


彼女は小さく笑った。


「そうね。秋にしては、ずいぶん冷え込むわ」


俺たちは他愛もない話をしながら、公園内を歩いた。花沢先輩のことはまだほとんど知らないが、彼女は驚くほど早く心の距離を詰めてくるタイプらしい。そんな風に話し、歩いているうちに、俺たちはいつの間にかファミレスにたどり着いていた。

「ねえ、カイト君。どうやって復讐するつもり?」

「えっ? ……何のことだよ」

「ねえ、バカなの? それともフリをしてるだけ? 当然、月城さんのことよ。だって、君は彼女に『飼い犬』扱いされてるのよ?」

「……っ!」

俺はテーブルの下で拳を強く握りしめた。悔しさはあったが、彼女の言う「月城への復讐」というアイデアは、それほど悪くない響きに思えてしまったんだ……。

「あんたの言う通りだとして、どうやって復讐しろって言うんだよ? 俺があいつに勝てる要素なんて何一つない。成績は完璧だし、人気者で、美人で……他にも色々ある。あいつを苦しめる手段なんて、俺は何も持ってないんだ」


「そうね。君みたいな惨めな男には、逆立ちしたって何もできやしないわ」


「おい! それでよく復讐なんて提案してくれたな!」


花沢先輩は声をあげて笑った。温かい場所で見ると、彼女の笑顔はとても魅力的だった。それを見た瞬間、俺の胸に微かなときめきが走った。……待て、なんで俺はこんなことを考えてるんだ? 彼女は俺とは住む世界が違う、高嶺の花なんだ。……まさか、な。

「花沢先輩」

俺は決意を込めて立ち上がった。自分を変えるなら助けが必要だ。そして、月城を誰よりも嫌っているこの人以上に適任な奴なんて、他にいるか?

「えっ、急にどうしたの?」

「つ、月城のことで苦しむのはもう終わりにしたいんだ。だから……俺の彼女のフリをしてほしい!」

言ってしまった。本当にか。月城以外の女の子に、こんな台詞を吐く日が来るなんて思いもしなかった。花沢先輩のことはまだほとんど知らない。だけど、彼女ならこの状況を変えてくれる……そう信じてもいいよな?

「な、ななな……何を言ってるのよ!? あんたみたいな人と私が付き合うなんて、どうやったらそんな発想になるわけ? 私たちが付き合ってるなんて、誰も信じないわよ!」


彼女の顔が赤らみ、動揺しているのが見て取れた。まあ、いくら復讐のためとはいえ、突然付き合ってほしいなんて言われたら、誰だって赤面するだろう。


「お願いします、花沢先輩」


俺は彼女の前で膝をついた。……ああ、我ながらなんて惨めなんだ。


「どうか、俺を助けてください」


俺は跪いたまま、返事を待った。


「ど、どうしても助けてほしいっていうなら、納得のいく理由を言いなさいよ! それにさっさと床から立ち上がりなさい、変質者みたいじゃない!」


俺が顔を上げると、彼女の赤らみはさらに増していた。手で顔を隠そうとしていたが、その姿はどこか愛らしくて……。いや、待て、俺は何を考えてるんだ。とりあえず立ち上がろう。

「よし。そうやって座ってる方がずっとマシよ、バカ」


「悪い。……どうしても、あんたを説得したかったんだ」


彼女は長い溜息をつくと、ようやく肩の力を抜いた。


「それで。私たちが付き合ってるフリをすることが、どうしていいアイデアだなんて思ったわけ? 説明しなさいよ」


「……あいつにとって、大きなショックになるはずだ。想像してみてくれ。自分の『飼い犬』だったはずの奴が反旗を翻して、あろうことか天敵であるあんたと付き合ってるんだぞ」


自分で言っていて情けなくなるが、どうにかして花沢先輩を納得させなければならないんだ。 彼女はもう一度溜息をつき、片手で髪をかき上げた。


「……馬鹿げた計画だけど。でも、それなりに筋は通ってるわね」


「じゃあ……助けてくれるのか?」


俺は期待を込めて尋ねた。もし彼女が協力してくれれば、月城への想いを断ち切れるかもしれない。そして……いつか、他の誰かを好きになれるかもしれないんだ。

「いいわよ。でも、もし失敗したら……私の兄貴に、あんたを死ぬほどボコボコにさせるから。誓ってね」


「あ、ありがとう、花沢先輩! 精一杯頑張るよ」


「お礼なんていらないわ。自分の『子犬』に見捨てられた月城さんがどんな顔をするか、それを見たいだけなんだから」


「おい、俺はまだここにいるぞ!」


助けてくれるとは言っても、彼女の俺に対する扱いは相変わらず見下したままだ。


「冗談はこれくらいにしましょう。それで、カイト君。この計画、一体どうやって進めるつもりなの?」


「ああ、やりたいことのアイデアなら、もうぼんやりとあるんだ」


……待てよ。今、彼女、ついに俺のことを名前で呼んだか? 妙な感じがするが、同時にどこか温かい感覚が胸に広がった。

「いいわ、カイト君。でも、さっきも言った通り、失敗したらお兄ちゃんに叩き殺されるからね」


「心配しないで。月城に復讐するためなら、俺のすべてを懸けるよ」


心なしか、辺りの空気も少し和らいだ気がした。


「分かったわ。そこまで言うなら、今夜のドリンクバー代と追加注文、あんたが払いなさいよ」


「えっ……? 何だって?」


「『すべてを懸ける』って言ったじゃない。だったら、持ってる円を全部出しなさいよ。ポテトも頼むから」


俺はただ諦めて溜息をついた。一週間分のお小遣いを彼女に差し出す。まあ、協力してくれるって言ってくれたんだ。これくらいは当然の代償だろう。俺のなけなしの金がフライドポテトへと姿を変えていくのを見て、正直、胸が締め付けられるような思いだった。

「それで、あんたの計画って何なのよ?」


「ああ、説明するよ」


それから深夜が明けるまで、俺は計画の詳細を話し続けた。話の端々で、彼女が緊張したり、動揺したりするのが見て取れた。すべてを話し終えた時、彼女は満足感と、どこか感心したような入り混じった表情で俺を見た。


「あんた……性格悪いわね。でも、その計画気に入ったわ。どうやら、見た目ほどマヌケじゃないみたい」


「おい、そこまで言うことないだろ」


「はいはい、そうね」


俺たちは諦めたようにファミレスを後にした。時刻はもう、午前2時を回った頃だった。

「じゃあ、カイト君。また後で、学園でね」


「あぁ。それから、改めてありがとう、花沢先輩。協力してくれて」


彼女は少し決まり悪そうな顔をした。それが俺の目には、たまらなく愛らしく映った。


「お礼なんていいって。あんたの言ったことがうまくいくのを願ってるだけ。……それじゃあ、私、行くわね」


「うん。また後で、花沢先輩」


俺が笑顔で手を振ると、彼女も小さく微笑み返してくれた。


「また明日ね、カイト君」


その声は、まるでお使いの天使のように優しく響いた。誰もいない夜道を去っていく彼女の後姿を見送りながら、俺の鼓動は激しく打ち鳴らされていた。……待て、俺はどうしちまったんだ? まさか、花沢先輩に惚れたのか? まだ出会ったばかりだっていうのに!

そんな考えを振り払い、俺は家路についた。すべてがうまくいくことを願いながら……。


翌日、学園の空気はどこか違って感じられた。いや、変わったのは俺の方なのかもしれない。


登校してすぐ、俺は月城の方へと向かった。彼女は相変わらず傲慢な瞳で、俺から視線を逸らした。どうせいつものように、俺が機嫌を取りに話しかけてくるとでも思っているのだろう。だが、もう違う。今回は……。


俺は、彼女を素通りした。


通り過ぎる瞬間、背中に彼女の視線を感じた。さりげなく振り返ると、彼女の顔には困惑の色が浮かんでいた。……哀れなほど世間知らずだな。計画は順調だ。そして花沢先輩も、次のフェーズのために配置についている。

「おはよう、花沢先輩」


俺は出せる限りの、最高に親愛の情を込めたトーンで話しかけた。


「おはよう、カイト君。昨日はどうしてたの?」


彼女は愛おしそうに俺を見つめた。……正直言って、彼女には女優としての天性の才能がある。


「すごく元気だよ。知っての通り、自分を磨こうと頑張ってるところだから」


「素敵ね、カイト君。君はいつも一生懸命なんだから」


俺たちはそんな会話を続けながら、校舎へと足を進めた。周囲の野次馬や見も知らぬ生徒たちからの視線が突き刺さるのを感じる。学園屈指の有名人が、俺のような『変な奴』とこれほど親密に話しているなんて、異常事態以外の何物でもない。だが、何よりも……一瞬だけ見えた月城の表情。それは純粋な困惑と、どこか恨めしげな色が混じったものだった。


完璧だ。計画は、これ以上ないほどうまくいっている。

「花沢先輩、そろそろ教室に行かないと」

「カイト君……私を一人にして行っちゃうの?」

彼女はひどく愛らしい声を作ってみせた。……どうしてだろう、彼女とこうして話しているのが、不思議と心地よく感じてしまう。

「心配しないで。休み時間にまた会おう、ね?」

「……約束してくれる?」

「ああ、約束するよ」

彼女はにっこりと微笑んだ。作り笑いかと思ったが、驚くほど綺麗で……。思わず、本物の笑顔なんじゃないかと思ってしまうほどだった。

「分かった。気をつけてね、……君」


俺は自分の教室へ、彼女は彼女の教室へと向かった。教室へ歩きながら、計画が完璧に進んでいることを確信した。月城はあの一流の『イチャイチャ』を見せつけられただけでなく、今もまだこちらを凝視している。最高だ。すべてが思い通りにいっている。


俺はいつものように教室に入った。月城はいつもの席に座っている。普段なら俺は彼女の隣に座るのだが……。さあ、自分の毒を味わう時間だ。


俺は、そのまま彼女を素通りした。

教室に入った瞬間、クラスメイトたちの視線が刺さるのを感じた。月城の『飼い犬』が、彼女を無視するなんてことがあり得るのか? ……確実に、俺の勝ちだ。一瞬だけ見えた彼女の顔は、驚愕とショックで固まっていた。


俺はあえて彼女から何席も離れた場所に座った。具体的には、友人たちのところへ行き、計画の次の段階を実行に移したんだ。


「よう、お前ら。調子はどうだ?」


「カイト……お前、月城さんの隣に行かないのか? いつもならベッタリなのに」


「ああ、そうだったな。でも、もうあいつの隣に座る理由なんて、どこにもないんだ」

俺は友人たちに不敵な笑みを浮かべた。すると、案の定だ。グループの中で一番のバカ、レイジが俺の計算通りの言葉を吐いてくれた。


「そりゃそうだよな! このクソ野郎、あの高嶺の花の花沢先輩とデキてやがんだから!」


俺はわざとらしく動揺してみせたが、内心では快哉を叫んでいた。レイジはいつも思慮が浅く、おまけに声が無駄にデカい。こいつがそう叫べば、クラスの全員に聞こえる。……当然、月城の耳にもな。

「よ、よせよ! なんでそんな話になるんだよ……っ」


俺は必死に動揺を装った。


「隠すなよ。学園中がお前らを見てたんだぞ」


「そうそう。入り口で花沢先輩と一緒にいるのを見て、みんな噂してたぜ。お前、ずいぶん趣味が良くなったよな、えぇ?」


「お前らが思ってるようなことじゃないって! 俺はただ……」


俺が体を硬直させたところで、タイミングよく教師が教室に入ってきた。


「おい、何を突っ立っている。さっさと席に着け」


全員が席に戻り、俺の計画は完璧にハマった。話を途中で切り上げたことで、あいつらの中に「疑念」という名の種を植え付けることができた。月城に聞こえるような声のトーンで話したのも、すべて計算通りだ。最高だ……。想像以上にうまくいっている。

『 小さな主人公はまだ知る由もなかった。月城の心の中で、何かが音を立てて壊れたことを。火遊びをすれば、いつかはその身を焼くことになるのだ。


教室の最後列、月城の席では……。 』

「クソ……カイトのくせに、何様のつもり? 犬の分際で、飼い主に牙を剥くなんて……誰が許したのよ……」


『 彼女はそう低く呟いた。その手に握られた哀れなボールペンが、無惨にもへし折られる音を立てて……。 』

休み時間のチャイムが鳴ると同時、俺は昨日花沢先輩と決めておいた場所へと向かった。


「遅かったじゃない。……それで、どうだった?」


人気のない空き教室に着くや否や、彼女は単刀直入に尋ねてきた。


「最高だよ。すべてが計画通りに進んだだけじゃなく、あいつに全部聞かせてやったからな」


花沢先輩はクスクスと、可笑しそうに喉を鳴らした。


「ねえ。あんたの計画、本当によくできてるわ。……やっぱり、この話に乗って正解だったみたいね」


「だろ? 俺は天才なんだよ」


俺たちは顔を見合わせ、声を潜めて笑い合った。

「……でも、これだけじゃまだ足りないわね」


その言葉に、背筋が凍り付くような感覚を覚えた。


「えっ……? どういうことだよ、花沢先輩。計画はこれで終わりのはずだろ。もうこれ以上は必要ないと思うし、それに今、俺たちが付き合ってるんじゃないかって噂がものすごい勢いで広まって……」


「それがどうしたの? 私はもっと見たいのよ。月城さんが苦しむ姿をね。……どうすればいいか、私には分かってるわ」


「待てよ、何かとんでもないことをしようとしてるんじゃ――」


彼女は予期せぬ動きで俺の手を掴むと、そのまま中庭へと引きずり出した。……手のひらが、驚くほど柔らかい。って、そんなこと考えてる場合か! 一体何をさせるつもりだ!?

「花沢先輩、一体何をするつもりですか……っ?」


中庭へと向かう道中、俺は声を潜めて尋ねた。


「月城さんにとどめを刺すのよ。それから、あんたの『飼い犬』っていう情けない評判を、今日ここで終わらせてあげる。……それとも、怖気づいた?」


彼女は急に立ち止まると、俺の目をじっと覗き込んできた。……顔が熱い。俺の顔は今、とんでもなく赤くなっているはずだ。 どうすればいい……? 彼女のこの狂ったような計画に乗るべきか、それとも……。

「……分かった。でも、手短に頼むよ」


俺が覚悟を決めると、彼女は満足そうに口角を上げた。


「いいわ。……覚悟しておきなさいね。これからは私の熱狂的な信者たちに、ボコボコにされる覚悟で追い回されることになるんだから」


「待て、やっぱり後悔し始めて……っ!」


「遅い!」


彼女は俺の手を引いたまま中庭を抜け、カフェテリアへと連れ出した。周囲の生徒たちの顔には驚愕と困惑が広がり、瞬く間にざわめきが波のように伝わっていく。 ようやくカフェテリアに辿り着いた時、一人で食事をしている月城の姿が目に飛び込んできた。彼女がこちらを見た瞬間、その表情が真っ白に染まる。……それは、純粋なまでの衝撃だった。

「花沢先輩、さすがにやりすぎじゃ……俺……」

「何言ってるの、カイト君?」

彼女は説明のつかないほどの慈愛に満ちた瞳で俺を見つめた。

「先輩と一緒にご飯を食べるのが嫌なの? ……そんなこと言われたら、私、すごく悲しいな」

その声はあまりにも優しく、それでいて拒絶を許さないほどに力強かった。……そして、月城にすべてが聞こえるように。

「わ、分かりました……花沢先輩」

彼女は俺を連れてランチを買いに向かった。歩いている間、背中に突き刺さるような冷たい視線を感じる。……これ、とんでもなくマズいことになるんじゃ……。

注文を済ませると、俺たちは少し離れた席に並んで座り、昼食を食べ始めた。彼女が選んだ席は、月城のすぐ近くだった。花沢先輩は本当に、今日ですべてを終わらせるつもりらしい。……でも、正直に言って、今のこの状況は嫌いじゃない。こうして『彼女』と一緒に過ごすのは、こんなにも居心地がいいなんて……。

いや、待て。俺は今、何を考えた? 花沢先輩はこの計画のための偽の彼女、ただのビジネスパートナーだろ?

「カイト君、はい、あーんして……」

……完全に、歯止めが効かなくなっている。 今の俺に何ができる? 俺はただ、されるがままに従順に口を開け、彼女の箸から食べ物を受け取った。待てよ、これって、つまり間接キス――っ。 ……チッ、なんだか変な感じだ。でも、それと同時に、すごく気分がいい。花沢先輩との会話は、月城と一緒にいた時とはまるで違うんだ。

花沢先輩がびくりと肩を揺らした。彼女の頬が朱に染まっていくのが分かる。俯いた彼女の赤ら顔を見て、俺は思い切ってテーブルの下で彼女の手を握った。


「カ、カイト……何してるの……っ?」


「ご飯、あーんで食べさせてくれてありがとうございます。花沢先輩」


彼女は顔を真っ赤にして俺を見つめた。


「ば、バカ……」


そう言いながらも、彼女が俺の手を離すことは一度もなかった。……心地いい。この時間が、ずっと終わらなければいいのに。


『 愛というものは、時に最も予期せぬ形で芽生えるものだ。だがそれは同時に、深刻な火種にもなり得るのである……。 』

『 月城はそのすべてを、平然を装いながらも見逃さなかった。彼女が握りしめた拳には凄まじい力がこもり、手にしていた箸が不自然にひしゃげていく。 』


「……飼い犬の分際で、反抗期かしら」


『 彼女は忌々しげにそう呟いた。心の奥底ではカイトを求めていながらも、今の彼の行動は到底許容できるものではない。 』


「……少し、お灸を据えてあげないといけないわね」


『 彼女は影を落としたような暗い表情を浮かべ、食堂を後にした……。 』

ようやく放課後になった。だが、どういうわけか……。


「なあ、花沢先輩」


「なあに、カイト君?」


「ちょっと……やりすぎじゃないか?」


「どうして?」


「いや、距離が近すぎるっていうか……」


彼女は俺の手を握りしめ、わざとらしく自分の肩を俺の肩にぶつけていた。


「ああ、これ? ダーリン。……これはただの『警戒』よ」


「そ、そうか……」


俺はどうしちまったんだ? 『ダーリン』なんて呼ばれただけで、どうしてこんなに心臓がバクバクしてるんだ?

そこで、俺たちは足を止めた。

「それじゃあカイト君、私はもう行くわね」

「はい。ありがとうございました、花沢先輩。助かりました」

俺が少し照れくさそうに微笑むと、彼女の頬がわずかに赤らんだ気がした。

「別にいいわよ、バカ……。あ、そうそう」

彼女は俺の耳元に顔を寄せ、熱い吐息とともに囁いた。

「ファミレスで待ってるわよ、ダーリン」

その言葉に、俺の血の気が引くと同時に、言いようのない焦燥感が胸を突き上げた。

「そんなに緊張しないで。別に取って食おうっていうんじゃないんだから。……じゃあね、ダーリン」

彼女は遠くから投げキッスを寄越すと、そのまま軽やかに走り去っていった。 ……なんだ、この胸の温もりは。どうしてこんな気持ちになるんだ? これが、『彼女がいる』っていう感覚なのか? でも、俺と先輩はあくまで利害が一致しただけの偽物の関係で……。まさか俺、あいつのことを……。

その時、背後から拍手の音が聞こえた。

「ずいぶん楽しそうじゃない。……ねえ、カイト君? 私の見間違いかしら?」

俺はゆっくりと振り返った。そこにいたのは、月城だった。

「月城……。お前、ここで何してるんだ?」

俺は毅然とした声で言った。もう、誰にも気圧されたりなんかしない。

「何って、見れば分かるじゃない。あの花沢の女狐とイチャイチャしちゃって。……何? あいつのあのデカい胸にでも釣られたわけ?」

俺は目を見開いた。月城に何が起きたんだ? あいつがこんな風に口を叩くなんて聞いたことがない。だが、どういうわけか、花沢先輩を侮辱されたことに、俺は猛烈な怒りを感じていた。

「……花沢先輩をそんな風に言う権利はお前にはない。お前に、そんな口を聞かれる筋合いはないんだ」

その言葉に、彼女は微かに目を見開いて驚愕した。

「あらあら。たった一日目を離しただけで、ずいぶん反抗的になっちゃって。……そんなところも可愛いわよ、カイト君。さあ、家まで送ってあげる」


彼女は手を差し伸べてきた。その声は、まるで天使のように清らかだった。だが、もう騙されない。花沢先輩を侮辱した瞬間に理解したんだ。月城という女が、どれほど卑劣な共依存の化身マニピュレーターであるかを。


俺は、差し出されたその手を、自分の手で強く振り払った。


彼女の顔に驚愕が走り、その『優しい美少女』という仮面が音を立てて崩れ始める。


「……何をするつもり、カイト?」


その声は、先ほどまでの甘さが嘘のように、猛毒を含んで低く響いた。

「俺は、正しいことをしてるだけだ。これからは、もっとマシな人間になる。……お前の飼い犬でいるよりも、ずっとな」

彼女の顔が怒りで赤く染まった。

「あの花沢とかいう泥棒猫と縁を切るチャンスをあげてるのよ! あいつはあんたを傷つける。手口を知ってるから言ってるの。いいから来なさい。さっさと帰るわよ、カイト」

俺は沈黙した。花沢先輩と話したすべての瞬間を思い返していた。そして、確信したんだ。……ああ、月城の言う通りだろう。花沢先輩だって、決して『いい人』なんかじゃない。でも、あの人は月城なんかよりもずっと、血の通った人間らしさを持っていた。その温もりは、どこの誰ともしれない奴の言葉より、ずっと価値がある。

「……もう言ったはずだ。それに、俺はもうお前になんて興味はないんだよ、月城」


俺は背を向け、歩き出した。背中に刺さるような彼女の視線と、それに続く絶望に満ちた叫び声を感じる。


「間違ってるわよ、カイト……っ!」


彼女は叫んだ。その声は最初は悲鳴のようで、次第にどす黒い怒りへと変わっていく。


「いい子にして、こっちに来なさい。……私の飼い犬でしょ!」


俺は一瞥もくれず、彼女を無視して歩き続けた。


「カイト! 行くんじゃないわよ! 犬は飼い主に逆らったりしないの! 私の言葉を忘れなさい……犬は絶対に飼い主に逆らわないのよ! くそっ、この、クソ野郎がぁぁっ!」


彼女の声が聞こえなくなるまで、俺は足を止めなかった。 やり遂げたんだ。月城から解放され、あいつに屈辱を味わわせてやった。 胸の中にあるのは、静かな平安。……だが、最後に解決すべきことが一つ残っている。花沢先輩と合流しなきゃならない。ファミレスに来いとは言われたが、時間は聞いていない。おそらく、昨日と同じ時間だろう。 ……また夜中に家を抜け出すしかないのか。全く、面倒なことになったもんだ。

数時間後、俺は自分の部屋にいた。時刻は夜の11時30分。……そろそろ時間だろう。 俺は足音を殺して家を抜け出し、ファミレスに向かって夜の街を駆け抜けた。 午後の間ずっと考え続けて、ようやく気づいたんだ。あの時、花沢先輩に対して感じた胸の温もりの正体に。


どうして、あんなに心地よかったのか。どうして、あんなに自由でいられたのか。 その理由は……。


俺は、花沢先輩に恋をしていたんだ。

ファミレスに入ると、席についている花沢先輩の姿が目に飛び込んできた。

「ふふっ。来ないかと思ったわ」

彼女はいつもの意地悪そうな笑みを浮かべて言った。

「俺の方こそ、先輩がいないんじゃないかって不安でしたよ」

俺は彼女の隣に座り、言葉を交わし始めた。

「花沢先輩、助けてくれてありがとうございました。先輩がいなかったら、俺、どうなっていたか分かりません」

「……そんな恥ずかしいこと言わないで。私はただ、あんたが月城さんに仕返しするのを手伝っただけなんだから」

彼女はぷいっと横を向いた。だが、その耳まで真っ赤に染まっているのを見て、俺は彼女が照れていることに気づいてしまった。

「それでも、本当に感謝しています。……ようやく自由になれた」

彼女は顔を上げ、不思議そうに俺を見つめた。

「よかったわね。これでやっと、あんたは自由よ」

「ええ。でも、それも全部花沢先輩のおかげですから」

俺は迷わず彼女の手を握った。その瞬間、彼女の身体がびくりと強張り、顔全体がみるみるうちに赤く染まっていく。

「な……何してるのよ、カイト君っ?」

「先輩が助けてくれるなら何でもするって、言いましたよね? だから、俺なりに精一杯の感謝を伝えてるんです」

「ば、バカ……っ。計画は今日まででしょ?」

「分かってます。でも……お願いします。この『偽物の関係』、もう少しだけ続けさせてください」

持てる限りの勇気を振り絞って、俺はそう告げた。心臓が、まるで肋骨を突き破らんばかりに激しく打ち鳴らされている。

「ど、どうしてそんなことしなきゃいけないのよ……っ?」


その問いに、俺の背筋に冷たいものが走った。……だが、瞬時に一つのアイデアが浮かぶ。


「それは……この嘘を、もっと信じ込ませるためです」


「……は?」


「つまり、もし明日になって俺たちが他人事みたいに振る舞ってたら、月城に計画だって気づかれるかもしれない。考えてみてください。あと数日だけでいい……このまま続けましょう」


俺は握った手に、さらに力を込めた。彼女は言葉を失い、俺のこの無茶な提案を飲み込もうとするかのように、じっと黙り込んだ。

ようやく彼女は溜息をついた。まだ赤ら顔ではあったが、先ほどよりは少しリラックスした様子だった。


「分かったわよ。このまま続けましょう。……でも、昨日と同じ。ポテト代はあんたが払いなさいよね」


俺は彼女の手を離し、安堵して肩の力を抜いた。


「おいおい、俺、今お金ないですよ」


「そんなの私の知ったことじゃないわ」


彼女は少しだけ唇を尖らせて不満げなぷいっをした。その仕草に、俺は思わず無意識に笑みがこぼれてしまう。 ……この日々を、全力で楽しんでやる。

『 こうして、日々は過ぎていった。カイトと花沢は、無意識のうちに日に日に距離を縮めていった。夜の密会は二人の間の「伝統」となり、少しずつ、この嘘は歩幅を速めて幸せな関係へと変わっていったのだ。……だが、悲しいかな。この世のすべてが完璧であり続けることなど、あり得ないのである。 』

「なるほどね……。私の可愛いワンちゃんは、飼い主の言うことを聞かずに、他の女のところへ甘えに行ったっていうわけね。……どうやら『お仕置き』が必要みたい。ペットは飼い主に絶対服従しなきゃいけないって、その身に叩き込んであげないと……」

『 月城との決別計画から三ヶ月。ある暖かな夜のこと。カイトと花沢は、「寒いから」という口実で手を繋ぎながら、街の外れを歩いていた……。 』


「ねえ、今日は冷えるわね?」


「……寒い、ですか?」


俺の身体に緊張が走った。正直に言えば、寒くなんてさらさらない。ただ、彼女の手の温もりを感じていたいだけなんだ。


「ルート通りなら、もうすぐ湖に着くわ。運が良ければ月が水面に反射して、最高の景色が見られるんですって。……私、楽しみだな」


「その運があるといいですね、花沢先輩」


俺たちは森の奥へと足を踏み入れた。もし運良く湖が月を映し出したら、その時こそ……。 ……俺の本当の想いを、花沢先輩に伝えよう。

『 だが、二人はまだ知る由もなかった。暗闇に紛れ、一人の少女がその後を執拗に追い続けていることを……。 』

しばらく歩くと、俺と花沢先輩は湖に辿り着いた。……そして、息を呑んだ。すごい、なんて綺麗なんだ。今日は本当に運が俺に味方してくれている。

「ねえ、これ……信じられないくらい素敵じゃない、カイト君?」

「本当に……。最高ですね、花沢先輩」

空気は穏やかで、心地いい。先輩は湖畔に歩み寄り、水面に映る自分自身の姿を覗き込んだ。俺も彼女の隣に並ぶ。

「伝説は本当だったみたいね。月明かりのおかげで、自分の顔がはっきり見えるくらい水が透き通ってるわ」

「そうみたいですね……。あの、花沢先輩。俺、先輩に出会えて本当によかったです」

彼女は顔を上げ、俺を包み込むような、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。

「私だってそうよ、カイト君。……ただの負け犬が、こんなに素敵な人だったなんて、誰が予想できたかしら?」

彼女はくすくすと悪戯っぽく笑い、俺はそれに言い返した。

「相変わらず、人聞きの悪い先輩だな」

「知ってるわよ、バカ」

俺たちはじっと見つめ合った。月明かりが二人を照らし出し、水面には寄り添うような二人の影がくっきりと刻まれている。 ……今だ。今しかない。俺は唾を飲み込み、汗ばんだ手に力を込めた。

「花沢先輩。……ずっと、伝えたかったことがあるんです」

その言葉に、彼女の身体が微かに強張った。

「どうしたの、カイト君? もし困ってることなら、遠慮なく言いなさい。私が力になってあげるから」

彼女の顔に不安の色が浮かんだ。……俺のことを、それほどまでに心配してくれているんだ。運の神様、頼む。今だけは、この瞬間をぶち壊さないでくれ。

「……すごく、深刻な問題なんです」

「カイト君、何があったの? 私、なんだって力になるって言ってるでしょ」

俺の顔はみるみる赤くなり、緊張は頂点に達した。

「……問題は、俺の心臓にあるんです」

俺は彼女の柔らかい手を、そっと、包み込むように握った。

「先輩の隣にいると……俺の心臓、壊れそうなくらい激しく鳴り止まないんです。花沢先輩」

その瞬間、彼女は思考を奪われたかのように、呆然と立ち尽くした。

「カ、カイト君……。一体、何の話をして……」

「俺が言いたいのは、花沢先輩……。あなたが……」

くそっ、どうしてこれっぽっちの言葉が出てこないんだ。頼む、勇気よ、俺を裏切らないでくれ……。

「……あなたのことが、好きなんです」

彼女が俺を見つめた。その瞳は、いつの間にか潤んでキラキラと輝いている。

「……じ、冗談……なのよね?」

今にも泣き出しそうな、震える声で彼女は言った。

「いいえ、花沢先輩。嘘じゃありません。この三ヶ月間、先輩の隣にいて気づいたんです。他人に厳しく振る舞っていても、本当は誰よりも優しくて純粋な心を持っているんだって。俺みたいな、どうしようもない奴を放っておけないくらいに……」

俺が微笑みながら告げると、彼女の瞳から大粒の涙が溢れ出した。

「カイト君……っ。私も……私も、あなたのことが好きなの」

……待て。これは現実か? 夢じゃないよな? 頼む、神様、これが現実だって言ってくれ。

「運動神経が良くて、頭も良くて、人気者の人たちから何度も言い寄られたわ。……でも、あなた以外の誰一人として、私をこんなに……心地よく、幸せな気持ちにさせてくれる人はいなかった」

「は、花沢先輩。お願いします。俺の想いに応えてください。……俺の、彼女になってください!」

ついに、言ってしまった。もう後戻りはできない。

「カイト君……。私、……喜んで」

彼女は涙を流しながら、この世で最も柔らかな微笑みを浮かべて答えてくれた。 やったんだ。俺はやり遂げた。……これからは、すべてが良い方向に進んでいくはずだ。

「大好きです、花沢先輩……」

「私もよ、カイト君」

『 それは、本来ならば、月明かりの下で交わされる甘い口づけで幕を閉じるはずの光景だった。……だが、悲しいかな。運命というものは、時に自然の猛威と同じほど、予測不能で残酷なものなのである。 』

その時、森の奥から拍手の音が聞こえてきた。俺は弾かれたように、花沢先輩をかばうように前に出る。

「素敵ね。……どうやら、正式にお付き合いを始めたみたいじゃない」

木々の隙間から、彼女が姿を現した。――あの日、完全に決別したはずの、あの少女が。

「月城……! お前、何でここに……っ!?」

俺は激しく動揺しながら問い詰めた。背後では、花沢先輩が俺の背中に隠れるように身を寄せている。

「あら、カイト。……決まってるじゃない。私の『持ち物』を取り返しに来たのよ」

「……っ!」

その言葉を聞いた瞬間、花沢先輩は俺の背後に隠れるのをやめた。彼女は一歩前へ踏み出し、月城を真っ向から見据えた。

「どの面下げてそんなこと言ってるのよ。あんたなんて、今の彼にとっては何者でもないわ」

「あら、相変わらず短気ね。あなたはそう思いたいんでしょうけど、彼は私の可愛いワンちゃんなの。飼い主の腕から逃げ出して、別の飼い主に拾われただけ……。私はただ、自分の『所有物』を返してもらいに来ただけよ」

「地獄に落ちなさい! カイト君は誰のモノでもないわ。それに、これからは私たちが二人で幸せになるのよ!」

月城は何も答えず、ただ静かに俺たち二人を見つめていた。

「最後に一度だけチャンスをあげるわ、カイト君。私の腕の中に戻って、忠実なワンちゃんとして生きるか……。それとも、力ずくで私に分からせられるか」

俺の身体は凍りついた。怖い。……どうして、こんなにも身体が震えるんだ? 彼女に従うべきなのか? もし俺が拒絶して、彼女が花沢先輩に何かしたら……俺は一生自分を許せない。俺は、どうすれば……。

「ダメよ、カイト君」

驚いて花沢先輩を見ると、彼女は真っ直ぐに俺を見つめていた。

「あんな魔女の言うことなんて聞いちゃダメ。立ち向かうのよ。本当の勇気っていうのは、恐怖を前にしても逃げずに、それと向き合う人のことを言うの。……お願い、カイト君」

その真っ直ぐな言葉が、俺の心を突き動かした。彼女の言う通りだ。もう二度と、恐怖に支配されたりなんてしない。

「ありがとうございます、花沢先輩」

俺は真っ直ぐに月城を見据えた。

「お前のところには戻らない。俺は今、心から愛している人と一緒にいて幸せなんだ。それは、お前がどうあがいても変えられない。……月城」

彼女は沈黙したまま俺たちを見つめていた。その瞳は温度を失い、ただ冷酷な光を宿している。

「……そう。反抗することを選んだのね。だったら――私が手に入れられないなら、あんたを誰

彼女は袖の中からナイフを取り出すと、猛烈な速さでこちらへ突進してきた。俺は花沢先輩をかばおうと、その前に立ちはだかる。だが、月城は俺を狙うどころか、鮮やかな動きで俺をかわした。

嫌な予感がして、俺は咄嗟に振り返る。……そこで目にしたのは、この世のものとは思えない惨状だった。

月城の狙いは、俺じゃなかった。彼女は花沢先輩へと狙いを定め、その鋭利な刃で彼女の腹部を深く突き刺していたんだ。

「花沢……先輩ッ!!」

俺はなりふり構わず彼女へと駆け寄った。彼女は、最期の力を振り絞るように、俺の瞳をじっと見つめ返した。

「カ……カイト君……。逃げ、て……」

月城は冷酷に花沢先輩を突き放し、湖へと突き落とした。透き通っていた水面は一瞬にして深紅に染まり、美しく輝いていた月の反射を飲み込んでいく。俺はただ、目の前で起きた地獄のような光景を、絶望と共に呆然と見つめることしかできなかった。

「ふふっ……。ねえ、素敵だと思わない? カイト君」

「……っ、何なんだよ……何なんだよお前はッ、月城ぉぉお!!」

俺は理性を失い、ありったけの力を込めて彼女へと飛びかかった。

「そうよ、おいで……。私の可愛いワンちゃん。待ってたわよ……」

『 数分後。静まり返った森の中に、穏やかな子守唄が響き渡っていた。カイトは胸を深く切り裂かれ、血に染まりながら地面に横たわっている。その隣には、寄り添うように座り、優しく歌い続ける月城の姿があった。 』

ようやく、すべてを理解した。

【 『 カ……カイト君……。逃げ、て…… 』 】

どうして俺は、花沢先輩の言葉を聞かなかったんだ? どうしてあんなに愚かで、短絡的な行動をとってしまったんだ? ……彼女を愛していたからか、それとも俺がただの救いようのない馬鹿だからなのか。

「私の可愛いワンちゃん。こんな最期になっちゃうなんて残念だけど……もう、眠る時間よ。ゆっくり休んで、もっといい場所へ行きなさい」

目の前には、すべての元凶である月城がいた。彼女は慈しむような手つきで俺の頬を撫でている。……反吐が出るほど、偽善に満ちた優しさだ。 意識が遠のいていく。彼女はあの忌々しい歌を歌い続けている。……確か「子守唄こもりうた」とか言ったか。まあ、今となってはどうでもいいことだ。

これが、本当の終わりなのか? ……ああ、そうなんだろうな。 あの時は認めようとしなかったが、月城の言っていたことは正しかったのかもしれない。

俺は結局、彼女の飼い犬だったんだ。……そして、犬は決して、飼い主から逃げることなんてできないんだから。




最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。

この物語を書き始めた当初は、ハッピーエンドにするつもりだったんです。でも、執筆を進めていくうちに、いつの間にか全く別の……今の暗い結末へと辿り着いてしまいました(笑)。

もしよろしければ、皆さんの率直な感想や意見を聞かせていただけると嬉しいです。

それでは、また次の物語でお会いしましょう!


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