第九話 崩壊
開店準備は、結論から言えば、まったくというほど間に合わなかった。
身体が重い。その奥から熱が溢れて、とにかく熱い。
視界が揺らいで、歪む。
何度も頬を張り、こんなんじゃいけない、オレはプロなんだと自分に言い聞かせる。
それでも、身体が言うことを聞いてくれなかった。
貼り付けたはずのプロの仮面が、熱で剥がれ落ちていくような感覚を覚える。
昨日のオレの様子を見て、気を利かせてくれたのだろう百瀬くんが、いつもより四十分も早く来てくれた。
まだ、おしぼりさえ準備が終わっていなかった。
良かった、手伝ってもらえば、間に合うかも知れない。
オレの顔を見て、おはようございます、と言い掛けた言葉が止まる。その笑顔が凍り付く。
「チーフ!?
ひでぇ顔色じゃないっすか!」
駆け寄る百瀬くん。
その姿を見て安心したのか、膝から力が抜ける。
フラリと、身体が泳ぐ。
駆け寄った百瀬くんが、身体を支えてくれなければ倒れていたかも知れない。
「ちょっ、チーフ…!?
すげえ熱じゃないですか、何でこんな体調で出勤してるんですか!
無理ですよ!」
「大丈夫…ごめん…ありがとう…。」
口を開こうとするが、喉の奥が張り付いたように乾き、言葉が詰まる。
うまく喋れない。無理に発した声は、ガラガラに掠れていた。
「今日は店閉めましょう!
チーフがこんな体調じゃ無理ですって!」
それだけは…絶対にできない…。
ご予約もある、根津様と安永様もお見えになるはずだ…。
何より…マスターの、帰ってくる場所を。守らなきゃ…。
「絶対に、ダメだ…。
店は、開ける…。
大丈夫だ、店が開けば、この程度、すぐに忘れる、から…。」
嘘だ。
正直にしんどい。
熱が上がってきているのを感じる。
身体中の節々が熱を持って痛い。
制服の下に隠した湿疹が、焼けるように熱くなって、脈を打っているのが分かる。
それでも、休むわけにはいかない。
「どうして、そこまで…!
そうだ、マスターは!?
マスターは、来れないんですか!?」
無理だ…マスターは、とても起き上がれるような状態では…。
「マスターは…お休みだ…。
だから、大丈夫だから、オレが、」
そこまで言って、再び身体がぐらつく。
「チーフ!
ああ、もう!本当に頑固なんだから…!
分かりました、今おしぼりが…あとこのくらいか、てことは、仕入れたフルーツのチェックと掃除だけか!」
「丸、氷は…?」
「そんなの、昨日のうちに済ませましたよ!
チーフのことだから、体調悪くても無理して出てくるんじゃないかって!
まさかここまで…!
とにかくオープンの準備はオレに任せてください!
大丈夫、Yでしっかり仕込まれてるんですから!
せめて、オープンまではバックヤードで休んでてください!
いくらチーフだろうが、これは絶対に譲れませんからね!
オレの方が年上なんだ、そのくらい言うことを聞け!」
頭が熱い、ちゃんと考えられない。
自分でも今の状態が良いわけではないことが分かる。
「ごめん…今日はちょっとだけ、甘えさせてもらいます…。
少し、裏で休んでるね。
開店の時間には、起きるから…。」
それだけを伝えて、百瀬くんの肩を叩いて、後を託す。
こんなことをさせるために来てもらってる訳じゃないのに…。
本当に、申し訳ない。
「チーフ、昨日疲れてるって言ってたし、今日は明らかに普通じゃないですよ…。
このくらいいくらでもやりますし、気にしないで休める時は裏で休んでてくださいよ!
ヘルプだからとかそんなこと気にしないで、もっと頼ってください!
オレ、まだまだ頼りないかも知れないけど、頑張りますから!」
目頭が熱くなる。
百瀬くんの優しさに、甘えてしまいたくなる。
「ありがとう…。」
それだけしか言えず、歪む視界の中、バックヤードに辿り着いて。
上着を羽織って、椅子に腰掛ける。
ステンレスの作業台の冷たい感触が気持ち良いなと頬を付けたと同時に、オレの意識は闇に溶けていった。
店内の騒めきが聞こえる、あれ、チーフは?そんな声で目を覚ます。
時計を見ると開店から一時間は過ぎていた。
ヤバい、寝過ぎてしまった。
慌てて上着を脱いでフロアに戻る。
少し眠ったからだろうか、身体が軽く感じる。
「ごめん、百瀬くん!すっかり甘えてしまって。」
先程よりは声も出る、でもまだまだ掠れた、ガラガラの声だ。
「大丈夫ですか、チーフ…もう少し、休んでた方が…。」
席は既に三割程が埋まっていた。
焦りが頭の中を支配する。
「いや、おかげで充分休めたよ、ありがとう。
何もなかった?
大丈夫だった?」
水を一杯だけ飲み、百瀬くんに確認する。
冷たい水が喉を冷やす。
食道の形が水の流れで鮮明に分かる。
少しだけ頭が冷静になった気がする。
「大丈夫です!
まだこの程度なら…。」
百瀬くんが言い掛けた瞬間に蝶番が軋む。
根津様と安永様だ。
「「いらっしゃいませ。」」
百瀬くんがお二方の上着を預かろうとカウンターの外に出る。
だが、そんな百瀬くんには目もくれず、お二人の目がギョッと見開いてオレを見ていた。
「チーフ大丈夫かい?
酷い声だな…。
顔色も悪いみたいだけど…。」
「風邪でも引いたかも知れませんね…。
いや、お恥ずかしい。
なに、動いている内に治りますから、大丈夫、ですよ。」
「いや、無理しないで休んでた方がいいんじゃないのか?」
「おい、チーフ、休め!」
安永様が声を荒げる。
店の視線が、一気にオレに向かう。
空気が不穏な色を帯びたのを感じる、ダメだ。
こんなのは、この店では許されない。
「お気遣いありがとうございます。
いや、何。
このくらい、大丈夫ですよ。
こう見えても、まだまだ若いんですからね。」
そう言って、大したことないふりをしてカウンターをチェックする。
そこには百瀬くんの奮闘の後が残されていた…レモンやライムはカットしたまま、ペティナイフもそのまま置き去りにされていて拭いた痕すらない。
氷が飛び散り、あちこちに水滴が飛び散っていた。
いつもなら怒らなければならないところだが、それがそのままオレが百瀬くんに掛けた負担のように思えて申し訳なさに押し潰されそうになる。
黙ってシンクの水道を流し、おしぼりを強く絞る。
荒れた指先に冷水が沁みる、この程度がなんだ。
オレのせいで百瀬くんにキャパシティをオーバーするような負担を掛けてしまった。
その痛みが、オレにとっては当然の罰のように思えた。
「あっ…すいません、チーフ!今片付けますから!」
「大丈夫だよ。
根津様と、安永様のオーダーを確認してくれるかな…
まぁ、ギムレットだと思うから、すぐに準備を終えるから。
少しだけ待ってもらってください。」
「チーフ……分かり、ました…。」
納得の行かない顔だ。
それでも、オレがカウンターに立つという意思を曲げないことを理解したのだろう。
百瀬くんがお二方の席へ向かう。
彼が戻る前には、カウンターの作業台は落ち着きを取り戻した。
さあ、ここからリセットだ。
お二方の顔を見つめる…少しボヤけて見える、顔が二重に見える。
これではお二人が求めるギムレットが読めない。
意識を集中しろ。
オレは、お前は誰だ。
プロのバーテンダーだ、このカウンターを守る者だ。
マスターの、帰る場所を、守るんだろう!
一度だけ下を向く、息を吸う。
一瞬息を止めて、大学の人体を描くためにと受講していた解剖学で学んだ血管を、頭の中に蘇らせる。
肺に取り込んだ酸素が、肺を通って心臓から血管を巡って二酸化炭素に置き換えられ戻って来るのを感じる。
深く、深く息を吐き出し、体内の熱を口から逃す。
視界がハッキリとしてくるのを感じる、よし。
顔を上げて、もう一度お二人を見る。
心配そうに、オレの顔を覗き込む、その表情を差し引く。
お越しになった瞬間のお二人を思い出せ。
昨日の契約の話が具体的に進んだのか、お二人とも笑顔で談笑していた気がする、なら。
二つのロックグラスに丸氷を入れる。
同時に百瀬くんには根津様のチェイサーを指示する。
ゴードンで丸氷をリンスして、すぐにその液体をグラスから捨てる。
二人で同じギムレットで乾杯するなら、基本的な味わいを変えないで、絆の深まりをイメージする。
大型のシェーカーのボディをカウンターに置く。
氷を満たしながら、頭の中でレシピを組み立てる。
ボディの中に氷が落ちる音が、警鐘のように頭の中に響く。
身体の不調に蓋をして、意識をギムレットに集中させる。
意識がさらにクリアになる、この感覚だ。
この感覚に祝意を乗せて写し取れ。
冷凍庫に保存されていたゴードンを取り出す、90ml。
フレッシュなライムジュースを30ml、ローズのコーディアルライムジュースを2tsp、粉糖を1tsp。
隠し味にリモンチェッロを2dash。
シェーカーの中にバースプーンを入れかき混ぜる、軽く掬い手の甲に乗せる。
ひと舐め、味覚がハッキリしない。
もう一度、全神経を舌に集中させる。
まだボヤけているように感じるが、悪くない気がする。
ストレーナーを被せ、キャップを締めて空気を抜く。
構える、意識を集中…いつもと感覚が違う、あの世界と断絶する点が遠い…!
これじゃダメだ、息を止めて探る、もっと深く、深く……届いた!
瞬間、店内のBGMが消える、ストロークが始まる。
シェーカーの鳴らす音が遠くに響く。
荒れた指先にシェーカーの冷たさが滲みる、この痛みがオレを正気に戻してくれるようで、心地良さすら感じる。
敢えて粉糖を溶かし切らないように、優しく。
イメージの中で、鮮やかにシェーカーの中の液体が混じり合う。
繊細なリモンチェッロの風味を殺さぬよう、慎重にタイミングを見極める…ここだ。
スローダウン、ピタリと止まったシェーカーの中の氷が、慣性に従って名残惜しそうに小さな音を響かせる。
二杯のロックグラスに注いでいく、最後は粉糖が残っている分があるので意識的に根津様の分をほんの気持ち甘くなるように調整して。
できた。
「お待たせしました。
ギムレットでござい、ます。」
たったそれだけを伝えるのにも息が切れる。
呼吸の仕方を忘れたようだ。
お二人はグラスに手を伸ばしながらも、不安げにオレの目を見る。
「あ、ああ…ありがとう…。」
「……。」
戸惑いながら根津様がグラスを手にする、安永様は憮然とした表情のままひと言も発することはない。
身体の節々が再び痛み出す、指先に熱を感じる。
全身が脈を打つように感じる。
身体中が血管になったようだ。
ちょっと熱が上がってきたかも知れない。
乾杯、とグラスを合わせるとチン、という高い音が響く。
フゥ…、と満足げな溜息が聞こえる、良かったちゃんと満足してもらえたようだ。
フラリ、と膝から力が抜けそうになる。
集中が途切れたんだ。
いうことを聞かない膝に力を入れて踏ん張る。
オレは、バーテンダーなんだ。
このカウンターで、お客様を不安にさせるわけには、いかない。
気持ちだけで立っているような状態だった。
そんな時に限って、店は忙しくなるものだ。
そこから30分もしない内には、7割程のカウンター席が埋まる。
オレらしくないミスが続く。
ステアの時に氷はぶつかるし、グラスを落として割る。
シェイクの音は散々だ。
リズムが乱れそうになる度に、息を止めて立て直す。
その度に、心配そうな百瀬くんと、苛立ったような安永様の視線がオレを見向く。
ダメだ、オレはプロだ。
プロの、バーテンダーなんだ。
カウンターの中で、お客様の前に立っている時には、完璧でいなきゃいけないんだ。
お客様の前で頬を張るわけにもいかない、拳を握り締めて、気持ちを入れ替えようとする。
ギィ…と古びたドアの蝶番が軋む音が聞こえる、市川様のグループだ、今日はお二人か。
あのスーズ・ギムレットの夜に、堪え切れずに嗚咽を漏らしていた若い方を連れている。
表情は、霞が掛かったように遠くに見えて、笑っているのか、強張っているのかも読み取れない。
「百瀬、くん、コートをお預かり、してくれるか…。」
息が、上手くできない。
「おい、チーフ、大丈夫か?
酷い顔色だぞ。熱があるんじゃないのか?」
市川様に、気を使わせてしまった、申し訳ない、
「ちょっと、風邪ひいちゃった、みたいで、すみません…、大丈夫です、この、くらい…。」
嘘だ。
本当は息をするのも辛い。
話すだけでも喉が焼ける、
肺の奥からジリジリとした熱が上がってくる。
いや…、これは熱じゃない。
身体が、燃え尽きる前兆だ。
「チーフ…、後ろで、休んでいた方が…。」
百瀬くんの声は泣きそうに震えている。
今日が、
儀式の日だったら、
どうするんだ、
スーズ、ギムレットは、
まだ、百瀬には、
はや、い。
ドク、ドク、ドク…。
心臓の鼓動がやけに大きく感じる。
思考が、浮かんでは言葉にならずに霧散していく。
グラリと視界が歪んで、身体がよろめく。
カウンターの作業台に手をつく、その拍子に出しっぱなしになっていたメジャーカップが床に落ちる。
「どう見ても普通じゃないぞチーフ!
オレと約束しただろう!」
安永様の声が遠くに聞こえる、
耳の中がグワングワンと歪んで、
蜂でもいるのかな、
うる、さい。
「百瀬、さん、ごめん、ちょっと裏、いって、休んで来る…。」
「いやチーフ…今日はもう、帰った方が…。」
「流石、にまだ、も、もせさんひとり、には任せられ…ないから、ね、大丈夫、さっきみたいに、少し休めば、直ぐによくなる、から…。」
足元がふらつく、一歩ごとに視界が揺れる。
カシャンと、何か金属質なものが落ちる音がするが、もうどうでもいい。
シェーカーが落ちた音だろうか。
休みたい。
壁に手をつきながらバックヤードに辿り着いた。
これで休める、そう思って。
緊張の糸が、切れた。
ドン、と大きな音がした気がする。
背後の壁に何かが触れる、冷たい。
床が近づいてくる感覚、頭に血が上るような、鉄の味が口の中に広がるような、そんな錯覚。
頬に何かが触れる、冷たい、気持ちいい。
「***!***!」
百瀬くんが何かを言っている。
どうしてここにいる。
誰がカウンターを見るんだ。
喋ろうとする、うまく声が出ない。
ぜひ、ぜひ、と変な音が喉から漏れる。
「百瀬、くん…カウンター…に…戻れ…」
「*ーフ!」
「店を…頼んだ…まも、て」
そこから先は、意識が途切れた。
もう、何処にもいないはずの彼女の影が、寂しそうに見つめているような気がした。
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今日は岸本くんが久々にチーフの酒が飲みたい、と言って来た。
岸本くんは、あの日のスーズ・ギムレット以来のチーフのファンだ。
もちろん、私も。
後から彼が、まだ大学生で、あの時はバーテンダーとして始めて間もない18歳だったと聞いて驚いたものだった。
このまま成長していったらどんなバーテンダーになるのだろうと楽しみにしていたら、あっという間にチーフに任命され、彼個人のファンもかなり増えたようだ。
最近では、ギムレットの王と呼ばれるようになったと聞く、確かに彼の振るギムレットは一級品だ。
思い出すだけで気が逸り、その日のカルテの整理もやっと終わって病院を出た。
やっとチーフの酒が飲める、そう思ってドアを開けたのだが、明らかにチーフは普通の状態ではなかった。
見たこともないような酷い顔色で、視点も定まらない。
最近入ったらしい若いバーテンダーに促され、何度か見たことのある常連らしき男性客が声を荒げて、ようやく休むことにしたようだった。
壁に手をつきながら、フラフラとバックヤードに向かうチーフの背中を見送り、今日は諦めて帰るか、と思った瞬間だった。
ドン、とバックヤードから何かが倒れた音がする。
一拍遅れて、何かを倒したような金属音。
百瀬くんと言ったか、もう一人のバーテンダーが慌ててバックヤードへ飛び込むのが見える。
「チーフ!チーフ!」
「…**…」
「チーフ!!」
チーフが、倒れたのだとようやく理解する。
理解が行き届くと同時に、客の市川、ではなく医師の市川、として駆け出す。
「チーフ!どうした!」
そこには、散乱する金属製のボウルの中に倒れ込むチーフの姿があった。
「市川さん!チーフが!!」
百瀬くんが慌てて半ばパニックを起こしている。
「分かっている!岸本くん!救急車を!」
「はい!」
バックヤードは電波が弱い、岸本くんが携帯電話を耳に押し当てながら店の外に駆けていくのが見える。
百瀬くんと場所を代わり、少しでもチーフを楽な姿勢にしてやろうと、蝶ネクタイを外す。
フロアのダウンライトの薄暗い下ではなく、バックヤードの明るい照明に照らされるチーフの顔を初めて見た気がする。
こんなにやつれていたのか…!
酷い顔色だ、シャツのボタンを外して呼吸を楽にし…ようとして、手が止まる。
胸元には、ネックレスに通された指輪。
決して高そうなものではない。
それよりも私の目を引いたのは…身体中に広がる、夥しい湿疹…。
掻きむしったのだろう、血が滲んでいる箇所もあった。
ただの風邪ではないことは明白だった。
額に掌を当てる、異常な高温だ。
呼吸も浅く、喘鳴音も認められる―まずい、気道に炎症を起こしている。
脈を見ようとチーフの手を取った時に、愕然とする。
ボロボロだ…。
指の先はひび割れ、爪も縦に濃い筋が浮き上がり白斑が出ている。
湿疹、爪の異常…まさか。
あり得ない、あってはならない。
嫌な予感が脳裏を渦巻く。
「あり得ない…。」
「どうしたんですか!市川先生!」
「根津さん…。」
根津さんは実業家としても有名なだけでなく、ウチの病院にも多額の寄付をしてくださっている篤志家の顔も持っていた。
私も何度かご挨拶をしたことがあった。
いつも落ち着いた根津さんが、見たこともない程狼狽えた様子でチーフを見、息を呑む。
ここで言うべきではないかも知れない…。
だが、泣きそうな程に心配している彼を見て、隠す訳にもいかない。
「ここで正確な診断ができるわけではないのですが…。
チーフは、極度の栄養失調に陥っている可能性が高い。
それに加えて、高熱と湿疹…。
感染症を併発しているかも知れない。」
「栄養失調…?でも、チーフは、ちゃんと…。」
「百瀬くんと言ったな。
とにかく、救急車が来た時に、チーフを運び出すルートを確保したい。
お客様の誘導を頼めるか?」
「はい、もちろん、です…!」
何かを思い出したように言い淀む。
なんだ?
今優先するべきなのは、チーフ以上にあるはずがないだろう!
「ただ…チーフが…。」
「チーフが、なんだ!」
苛立ちが声に出る。
チーフの容態は一刻を争うかも知れないというのに…!
「店を…守って、くれ、と…。」
自分の顔が驚愕に歪むのがわかる。
チーフは学生と聞いている。
ただのバイトじゃないのか…?
何故そこまで、店に固執する?
今日だって、明らかにこの体調なら出勤するべきではないはずだ。
何を守ろうとしてるんだ?
「そんなことは責任者に任せればいいだろう!
マスターには連絡は付かないのか!」
「マスターは…一度も見ていません…。」
ここで、初めて気付いた。そうだ。
チーフが見事に店を切り盛りしていたから気付かずにいただけだ。
もう、2年はマスターを見ていない気がする。
異常だ。
見ていないと言えば、チーフがここまでになる前に、私なら気付けたはずだ。
私は…彼の、何を見ていた?
「市川先生!
救急車来ます!
ただ、受け入れ先が!」
岸本くんが駆け込んでくる。
「ウチの救命救急はどうした!」
「先程高速で多重事故があり、受け入れ困難と!」
クソっ、こんな時に!
「とにかく百瀬くんはお客様を誘導し、担架の通り道を確保しろ!
岸本、お前は救急車を!
受け入れ先は、オレが確保する!」
指示を飛ばしながら、足早に店のドアを開ける。
そのままリダイアルに残っていた職場に電話をかける。
患者一人一人に思い入れすぎちゃダメだといつも言っているのに、これまで一度も使ったことのない権力を行使するのにも迷いはなかった。
今は理屈ではない。
この「ギムレットの王」を、必ず助けなければならない。
「小児の市川だ!
急患の要請だ、今すぐ受け入れの準備をさせてくれ!
病床がない?
構わん、小児科長の権限でVIPルームを開けろ!
それと、内科の村上先生はまだ院内に残っているはずだな?
声を掛けてくれ!
ああ、オレの頼みだと言えばいい!
ASAP!
今すぐだ!」
-----------------
「はい、バーYです。」
『横山マスター!
百瀬です!』
百瀬はウチからチーフのところにヘルプに出している見習いバーテンダーだ。
営業中に珍しい、電話口の声は酷く焦っているように聞こえる。
『チーフが!
チーフが、倒れました!』
「…!すぐに行く!
それまで、お前は店をなんとかしておけ!」
あれほど頼れ、と言っていたのに、あの…頑固者が!
チーフには百瀬を貸し出す時に事情を聞いた。
アイツは、よく頑張っている。
チーフは私の弟弟子の弟子。
弟弟子とはいえ、私などよりも余程筋が良く、あっという間に追い越された。
嫉妬と同時に、抱いた憧憬は今も胸の奥に熾火のように残っている。
だが、それでも、弟弟子は弟弟子だ。
なら、その弟子を助けるのは、兄弟子である私の役目だ。
「木下、坂上。
今すぐに荷物をまとめろ。お前たちの弟を助けに行くぞ。
詳しくは車の中で話す。
山村、今日はお前に任せる。
できるな?」
「「「はい!」」」
バーテンダーの師弟関係は強い。
ろくな説明もないままでも、皆が私の無茶な指示に即座に従う。
木下と坂上は、状況は呑み込めていないのだろうが「身内の一大事だ」という空気を読み取り、硬い表情を見せたまま慌ただしくバックヤードへ向かう。
上着を羽織り、店の裏手の駐車場から車を回して店の前に付ける。
空気が冷たい。
一つ星が瞬くのが見える。
たった一人、店を守るために無理を続けてきたチーフを思う。
アイツは、百瀬を送った後も、お礼のためにと何度も来てくれた。
その度に説教はしていたが、抱え込むクセがある。
後一人二人くらい、出せる余裕はあった。
それとなく、何度か話を振ったこともある。
だが、これ以上迷惑はかけられないから、とその度に断られていた。
クソッタレ、無理矢理にでも押し付けてやるんだったわ!
自分の読みの浅さに腹が立つ。
ドアベルが鳴り、木下と坂上が車に乗り込む。
山村なら大丈夫なはずだ、昨年のコンペでも初出場ながら入賞して、今は乗っている時だ。
天狗になったら鼻っ柱をへし折ってやればいいだけだ。
「行くぞ。」
アクセルを踏み込む。
チーフを、あんな風にしたのは、誰の責任だ。
もちろん、体調管理を疎かにしたチーフ本人の責任が一番重い。
だが、彼を一人にさせた弟弟子、そして、彼の無理に気づけなかった私にも、責任の一端がある。
彼の苦しみを思うと、喉の奥がグゥッと熱くなって、フロントガラスが滲みそうになった。
ギギッと蝶番の音を軋ませて重いドアを開ける。
瞬間、ざわめきが止まり、いくつもの視線が集中する。
「横山マスター!
すみません、ありがとうございます!
木下さんも坂上さんも…助かります!」
おい、あれって…横山って、Yの…一方向に向いたささやきが広がっていくが、今は後回しだ。
店内は思ったよりも落ち着いていた。
六、七割方のカウンターが埋まるフロア。
百瀬を貸し出して三ヶ月ほど、短時間とはいえ、このフロアを一人で回せるはずは…。
私の元に駆け付けるかと思った百瀬は、しかし。
一人の男性客に声をかける。
「次は何にいたしましょうか。」
「あ〜、ちょっと酔ってきたし、ロングがいいなぁ…。
モスコ、にしようかな。」
「かしこまりました。」
流れるような動作で、銅製のマグカップを取り出し、氷を組む。
ウオッカを注ぎ、ジンジャーエールをアップ。
ライムを搾って、ステア、2回。
空いていたグラスと引き換えにモスコミュールのカップを置く。
「モスコミュールです。
少しウオッカを抑えて飲みやすくしてみました。
ごゆっくりお楽しみくださいませ。」
完璧だ。
オーダーから2分もかかっていない。
これ…本当にあの百瀬か?
いや、いかんいかん。
私たちは見物に来たんじゃない。
後ろを見れば、連れて来た2人も、百瀬の動きに唖然としている。
「木下!坂上!
さぁ、準備しろ!
分かってんだろうな、先輩のお前らが百瀬に負けてらんないぞ!
さあ、行けッ!」
私はコートを脱げばそれだけで今すぐにでもカウンターに立てる。
二人が上着を脱ぎながらバックヤードに駆け込むのを横目に、クロークにコートを掛け、洗い物をする百瀬の横に立つ。
「見違えたな、百瀬!
驚いたぞ!」
「横山マスター、すみません、Yも忙しいのに。
ありがとうございます!
いや、あのチーフ、がずっとマンツーマンで、指導してくれてるんですから、」
そこからは言葉が続かない。
チーフ、と名前を出したことで、彼が倒れた時のことを思い出したのだろう。
木下と坂上が準備を終えて辺りを見回しながら戻ってくる。
「いつも一人でこの店を回してたって考えると…。」
「…バケモンっすね…。」
言葉にはしないが、同感だ。
しかも、チーフは自分の技術を磨くだけでなく、「王のギムレット」の精神を百瀬に植え付けていた。
それは、単なる技術指導の枠には収まらない。
正に、魂そのものの継承。
「百瀬、店のことを二人に教えてやれ。
二人も、Yでは先輩でも、ここでは後輩だからな!
しっかり教えてもらえよ!」
「「「はいっ!」」」
「それと…百瀬、とりあえず落ち着いたらでいいから、詳しいことを聞かせてくれるか?」
「いや…それは、私から話そう。」
声の方を振り向けば…根津様だ。
今日はこっちにいらしてたのか。
ウチに来た時も、チーフの話題には事欠かなかった。
その度に、我が事のように嬉しそうに語る根津様を、忸怩たる思いで眺めていたという過去の自分がチクリと胸を刺す。
根津様さんの表情は、暗く憔悴している。
目に、いつもの光がない。
百瀬に許可をもらい、二人でバックヤードに向かう。
流石に、フロアで不安を煽るような会話は出来まいて。
そこで根津様から聞いた話は、耳を疑うような事実だった。
「栄養失調?チーフが?」
あり得ない。あり得るはずがない。
ここは日本だぞ?
しかも学生バイトとはいえ、チーフとしてあれだけ出勤している彼が、食事に困るほど給与が安いはずがない。
弟弟子を問い詰めてやりたいところだが、今のアイツには負担はかけられない。
「先程、病院に同行した安永君から連絡があってな。
それで体力を無くしていたところに、インフルエンザだそうだ。
今は点滴を受けていて、まだ意識は戻ってないらしい…。」
「インフルエンザか…それはしばらくは復帰は無理だな…。」
ただでさえ栄養失調という有り得ない状況だ。
しっかりと休んで体力を回復させないと、カウンターに立たせる訳にはいかない。
「二週間は見た方がいいな。
その間はここは閉めさせるか。」
「横山さん、そのことなんだが…。
チーフは、最後まで店を頼む、と百瀬くんに話していたそうでな。
何か、知恵はないだろうか…。
私に、協力できることは…。」
「……あんの、バカ野郎…!」
目に浮かぶようだ。
あの、馬鹿は自分のことは二の次三の次だ。
どうしようもなくなってから手を伸ばす…手遅れになってから。
助けを求める声を上げることを教えなかったのは。
弟弟子の、教育不足だ。
「分かりましたよ、根津さん。
私がなんとかしますわ。
Yから人を送る。
店の心配は要らない、安心してください。」
「すまないな、負担を掛ける…くそっ!!」
「心配しなさんなって。
これも、弟弟子の尻拭いだ。」
「そうじゃないんだよ、横山さん…!」
俯き、膝の前で手を組む彼の表情は見えない。
コンクリートの床に、小さな雫が落ちたのは見なかったことにした。
「私は…チーフが気に入ってね。
いっぱしの常連ヅラしてかなりの頻度で通わせてもらっているつもりだった…。
なのにな、チーフがこんな状況になっているなんて、想像だにしなかった…。
こんなになる前に、出来ることが、あったんじゃないか、そう思うと、」
根津さんの言葉は…そのまま私の胸を締め付ける。
「私は、何も見えていなかった…。
彼を助ける機会は、必ずあったはずなのに…!」
「根津さん…。
起きてしまったことは、もう変えられないんですわ。
とりあえず、今はチーフの復帰を待ちましょうや。
なに、私が付いてる、心配しないでください。
あの馬鹿が戻って来るまで、この店は私が責任を持つ。」
「すまないね…私に出来ることがあればなんでも言ってくれ、必ず力になる。」
「な〜に、言ったでしょう?
弟弟子の尻拭いだ、これは私の仕事だよ。
どうしてもってんなら、全部終わった後に、みんなを連れてうまいもんでも連れてってくださいよ!」
閉店後の店内は、営業中の喧騒が嘘のように、洗い物とカウンターを拭く音だけが響く。
静かな店内に、今日のイレギュラーを乗り切った、という安堵が溢れる。
「百瀬…お前、すごいな。」
坂上が唸る。
百瀬は驚くほどの成長を見せていた。
シェイクの技術こそまだまだだが、ステアは中々のものだ。
何より、お客様への観察力は…正直、有り得ないほどのレベルに達していると言ってもいい。
この店の人気カクテル、ギムレットのオーダーが出る度に、坂上と木下に事細かにレシピを指定していた。
シェイクの強度、回数に至るまで。
それは、一人一人のお客様の好みと、酔い具合に合わせた、正に王のギムレットを受け継ぐものだった。
「いえ…全部、チーフのおかげっすよ…。
いつも言われてるんです、もっと気を使え、って。
もっと、お客様を観察しろ。
見て、見て、見て、学べ。
お客様の答えは、お客様の中にしか、ないんだ、って…。」
レジを閉めながら、わずかに鼻を啜る音がする。百瀬め、泣き虫なのは成長してないな…。
「あれ?」
百瀬の声が、静かな店内に響き渡る。
「マスター…これ…何、ですか…?」
手にした封筒を。
百瀬は、震える手で差し出してくる。
国立がんセンター。
表紙の右端には、残酷な現実を告げる文字がハッキリと書かれていた。
宛名は、ここには居ない弟弟子の名前。
その封筒は…何故、ここにある?
言葉が出ない。嫌な予感がする。
奪うように封筒を受け取る。
封は空いている、中の書類を取り出す。
口座振り込みの請求書…。
あり得ない。
アイツは、外出できるはずがない。
極度の栄養失調。
あんなになるまで店を開けることに固執した、チーフの姿。
点と点が繋がってしまった気がする。
そこに記された金額は、弟弟子の病状の深刻さを物語っていた。
振込用紙はすでに切り取られ、そこには金額だけしか載っていない。
「ここのマスターって…だから、いつもいないんですか!?」
オレの表情を見て百瀬の目に涙が滲む。
全てを察したのだろう。
コイツも、何も聞いていないのか…。
百瀬が付けていた帳簿、その端から1枚の紙がはみ出している。
ここに、全ての答えがある気がする。
最悪の予想を、必死で抑えながら手を伸ばす。
あってはならないんだ、そんなこと。
抜き取ろうとした手が、大きく震える。
上手く挟むことができない。
ようやく摘んだその紙を、手に取る。
何かを計算したメモだ。
276,450
-243,500
32,950
ガザイ 20,000
¥12,950
馬鹿な。
なんだこれは。
帳簿を広げて、他にメモがないか調べる、あった。
284,500
-252,200
ガザイ 25,000
¥7,300
273,950
-243,120
ガザイ 25,000
¥5,830
メモを見つける度、手の震えが大きくなる。
メモに水滴が落ち、そこに記された文字が滲んでいく。
「百瀬よ…。
アイツ、スゲェな…。
スゲェ……大馬鹿野郎だ…。」
声が震える、アイツが背負ってきたものの大きさに押し潰されそうになる。
百瀬も、そのメモを見て息を呑む。
みるみる内に、顔を歪めて、頬を濡らす。
「なあ…百瀬よ…。
お前、アイツの背中を、しっかり見とけよ…。
アイツが、お前の師匠だ。」
それだけを告げて、百瀬が力強く頷くのを見届けてから、メモをポケットに突っ込む。
ただならぬ様子に、坂上と木下が百瀬から事情を聞き、馬鹿か、ふざけんなと声を荒げる。
その声は、明らかに震えていた。
「少し外に出る。」
流れる涙を拭うこともしないまま、蝶番を大きく軋ませて、ドアを勢いよく開ける。
今だけはこの涙を拭いたくない、あの馬鹿の痛みを、少しでもオレが背負いたい。
取り出した携帯電話のメモリを操作して、あのすごい男の、兄弟子の番号をダイヤルする。
コールの音がもどかしい。
早く、出ろ…!お前の師匠と弟弟子のピンチに、テメェは何をしてる…!
五回、鳴り響いた後に電話が繋がる。
「ケンジか。
横山だ。
お前、今どこにいる?」




