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第五話 帰る場所

バーは10人の常連がいてくれれば成り立つ、と言われている。常連さんが落としてくれる売り上げが、どれだけバーにとっての生命線か分かるような言葉だと思う。

立地や規模によっても変わってくるから、それが全てとは言わないが、常連のお客様によって根本が支えられる、という点では正しいのは事実だ。

とは言え、もちろんたくさんの人に来て欲しい、というのもバーテンダーとしての本音だ。


どんな綺麗事を述べたって、こっちも商売なんだ。

ボランティアじゃないんだから、売上も上げたいし、とにかく今は金が必要だ。


とはいえ、バーが落ち着いた、オトナの隠れ家である以上。

いらしていただくのは誰でもいいってわけじゃない。余り騒がしいお客様にはいらして欲しくないのも事実だ。


例えば、今目の前にいるこのお客様とか。


「で、チーフ〜?」

「勘弁してください…四戸先輩。」

 

最悪だ…。見つけて欲しくない人に見つかった。

この人は、大学のサッカーサークルの先輩。とはいっても、サークルにはもう全く顔を出せないでいる。


店に出なければいけないからだ。

まあ、どうせもうサッカー選手としては、以前の怪我で完全に終わった身だ。プレーヤーとして参加している、というよりは、賑やかし要員みたいなもんで、たまに顔を出しては軽く身体を動かす程度だったから。


中学時代、あの日まではずっとサッカー漬けだった。ひたすらボールを追いかけて、走り込みと足元の技術の向上。

こう見えても、地域のトレセンに召集される程度には、期待もされていた。

 

中学2年の冬。


突然それが終わった。


先輩の引退式を終えて、新しくオレたちの代でのチーム作りを考え始めたその冬の、シュート練習で脚を振り抜いた後。

バチン、と、何かが切れる音がして。抑えきれない痛みは、その音の後にすぐに襲ってきた。

手術自体は上手くいったけれど、二度と本気で走ることはできないと言われた。


全てを失った抜け殻みたいに、しばらくは無力感に苛まれて、取り敢えず高校へ進学して…。


その後も色々あったけれど、結局オレは絵を描くためにこの大学に進んで。膝の痛みも幾分かマシになってきたこともあって、軽い運動のつもりで大学のサッカーサークルに足を運んだ。

四戸さんはそのサッカーサークルの副部長。気安く声を掛けてくれて、オレが少ししか走れないってことを知っても、無理しねぇで楽しくやろうぜ、って声を掛けてくれて。気に入られたのか、色々連れ回してくれたりしていた。


一緒にいると楽しくて、粗野なところが気取らなくて、冬場の炬燵みたいな人だ。蜜柑の華やかさは足りないが。

そういや、入った直後にサークルなのに副部長なんすかって聞いたら、アイアンクローを食らったな。あれだけは今でも解せぬ。 


「サークルにも授業にも顔を出さないで…。

バーテンダーやってるのは聞いてたけどさ。

なんだ、随分と洒落た店じゃないか。

こんな洒落た店なら、女の子と来たりしたらめちゃくちゃポイント高いじゃねぇかよ。もっと早くに言えよお前〜!

んで、チーフだって?

こりゃなおのこと鼻が高いなぁオイ!」


片手にダイキリのグラスを持ち上げながら、ニヤリと片頬を上げる。


「だから…勘弁してください、四戸先輩。

連れて来れる女の子なんてどこにいるんですか。

山岡が前に言ってましたよ、また四戸先輩が振られたっつってヤケ酒に付き合わされたんだって。

そもそも二人しかいない店で、チーフも何もないですよ。名ばかりのチーフなんですから。」


灯り取りに設けられた窓の外が、夜の訪れを告げる。

少しずつ日は伸びて来たとは言え、まだまだ寒い日もある。

そんな寒さを残した、水仕事にはもう少し我慢の続くこの季節、開店したばかり、口開けの四戸さんはキッツい。いや別にこの季節じゃなくてもキツい。間違いない。

幸いなのは、まだ他にお客様がいらっしゃらないことだろうか。


「二人って、お前、一人しかいねぇじゃん。

つーか山岡のヤロウ、余計なこと言いやがって…あとでシメてやらなアカンなあいつは!」


痛いところを突くな〜…。


「マスターは今日はお休みいただいているんです!」


付き合いがあるからか、つい言葉が強くなる。いかんいかん、ここではプロなんだ、冷静にならないと。


「休み、ね…。」


四戸さんが小さく息を吐く。

なんだろう、何かを言いたいのに、迷ってる気がする。

小さな不安が胸に宿る、でも、カウンターの中で動揺を見せるわけにはいかない。その不安に蓋をして、飲み干されたダイキリのお代わりを作る。


なお、四戸さんはウワバミである。潰れる心配は要らない。ただし、声がデカくなる悪癖があるのでそこはコントロールしないとな、と心に秘めながら新しいカクテルグラスを取り出す。

 

取り出したグラスを冷凍庫に入れる。

シェーカーに氷を落として組みあげていく。

バカルディのホワイト・ラムを45ml。フレッシュなライムジュースを15ml。四戸さんの好みに合わせてその粉糖を2/3tsp、ほんの気持ちだけ甘さを控える。

ストレーナーを被せ、キャップを嵌め、僅かな空気を逃す。


カウンターに座り、酒を求める人がいるなら、それはオレにとって大切なお客様だ。

たとえそれが四戸さんだとしても。


肩の位置に構えて。

世界から切り離される感覚がする、全ての音が消えて――シェーカーがリズムを刻み始める。

粉糖をバカルディラムに溶かすために、スタンダードなシェイクよりも僅かにハードに、でも氷が砕けないように。


触れる指の温度が、急速にシェーカーに奪われていく。

その温度と、氷がシェーカーの中で前後する音で、完璧なタイミングを測る。

スローダウンしたシェーカーを下ろしてキャップを外す。


冷凍庫に入れていたカクテルグラスを取り出して、シェーカーの中身を注ぎ…最後の一滴を見届けて、シェーカーを持ち上げる。

突然動かされた氷が鳴くような音を立ててシェーカーの底に落ちる――残響。


注がれたダイキリを、空いたグラスと入れ替える。

「お待たせしました、ダイキリでございます。」


「……あ、ああ。あんがとよ。

その、なんだ…。

さっきも見てて思ったけど…すげえな、お前…。

キまってんじゃん、なんかマジでプロのバーテンダー、って感じだな。」


四戸さんに言われるとめちゃくちゃこそばゆくなるな…。

「この夏には二年になりましたしね、コレ始めて。

ていうか、四戸先輩こそ、良くダイキリなんて知ってましたね?」


四戸さんは普段黒霧島のロックオンリーである。

一度飲み会の幹事を任された時、黒霧島の置いてあるお店、という指定を受けたくらいだ。


二杯目のダイキリを、そのひと口目を飲み込んだ四戸さんが、ムキになって言い返してきた。

「バッキャロおめぇ、オレだってこういう店に行ったことくらいあらぁな!」


「普段あの駅前の居酒屋ばっかりのくせに?ウチの学生御用達の。」

薄い目で見詰めてやる。


「ゔっ…いや、本当はお前の顔見に来るのに、調べたんだよ…わりぃかよ…。」


威勢のいい言葉の割に、声はだんだんと小さくなっていく。妙に素直なところは、歳上のくせに可愛いと感じてしまう。四戸さんのくせに。

 

「いや、でもコレうまいな〜!ナンボでも飲めそうだわ!」


「ダイキリが美味しいのは賛成ですが、それ度数高いんですからね?そのペースで飲めるのは四戸先輩くらいなもんですよ…。」

二杯目のダイキリは、もう半分程が四戸さんの胃袋に消えている。ホントどうなってんだ、この人の肝臓の処理能力は。


「そういや、こないだの試合はどうだったんですか?」


先日の日曜日には所属している地域リーグの試合があったはずだ。来れたら来いよ、とは言われていたが、行きたい…行かなければならない場所があったので顔を出せなかった。まあ、行っても選手として出場は無理なんだけどな。


「ああ、何とか勝ったぜ。

つっても、最初人足りなくてな。試合できるかそっちのがヒヤヒヤしたぜ〜、キックオフん時になってやっと9人だぜ?」


「良く勝ちましたねそれで…。」


「いやそれがな?向こうも一人足りなかったみたいでよ。んで、こっちは遅れて二人来てくれてよ、揃ってからは余裕だったわ。

まあ、向こうはウチのリーグでも最下位のチームだったし、みんなメタボのおっさんばっかりだったからな、まぁ順当勝ちってとこよ。」


地域リーグの、それも下位のチームなんてみんなそんなもんだ。趣味と健康のための運動が主な目的、というチームも多い。


「じゃあまあ、なんとか上位はキープしてる、ってとこなんですね。

良かったじゃないですか。」


もう顔を出せないとは言え、所属していたチームが勝ってくれるのは正直に嬉しい。


そんな言葉をかけた瞬間、四戸さんの顔からスッと表情が消える。

「なぁ…もう、サークルには顔出さないのか?」


心臓をギュッ、と鷲掴みにされる。

今度は、オレの顔から表情が消える。


「バイトが、忙しくて…。ホラ、画材も高いですし。」 


「…馬鹿。無理、し過ぎなんだよ。」


 やっぱり…この人は苦手だ。


「お前、授業にもほとんど顔出してないだろ。

絵はどうするんだよ。せっかく才能あるのに、もったいねぇだろ。」


「…絵は…。でも、今は、まだ。」


大学1年の夏に縁があってこの店のマスターと出会って、そこからバイトとして雇ってもらって。

見習いを卒業し、カウンターに立つようになり。チーフに任命されたのは、去年の春だ。


そうして1年もしないうちに、オレはほとんど1人でこの店を切り盛りすることになって。

今となっては、サークルはおろか、正直大学の単位も怪しい。店を守る、というのはそのくらい重いってことを、身を持って実感させられているってのが本音だ。


一度持ち上げられたグラスが、しかし唇に触れることはなく、そのまトン、とコースターに置かれる。


「トシから聞いたよ。」


心臓の鼓動が、


ひとつ跳ばして、聞こえてきた。


トシ先輩。

オレがこうなった時に、相談させてもらった、サッカーサークルの部長だ。


「なんで…お前がそこまで背負うんだ?そこまでの義理は、ないんじゃないのか。」

分かってる…。四戸さんが、きっと正しい。


「お前の、昔話も聞いたよな?」


サークルの先輩たちは、オレに何があったのか、全部知ってる。

全部、話したんだ。

その上で、全部知っても受け止めて、受け入れてくれた。


かけがえのない、もう手にすることはできないと思っていた、大切な場所だと思っていた…。

もう、手放して、戻ることはできないけれど。

 

「いっつもさ、笑ってても、絵を描いていても。寂しそうな、自分を殺しそうな、そんな眼をしてたお前がさ。

話を聞いた時に、分かった気がしたよ。」


グラスに掛けられた手を外して、拳を握るのが映る。


「…お前は、自分が許せないんだろ。」


何も言葉を返すことができない。

 

なんで、この人は。

全部、見透かすんだろう。


だから、苦手だ。


「それでも、サッカーしてる時だけは、心の底から本気で楽しそうにしてさ。

昔のこととか、全部忘れてさ。夢中になって、ボールを追って。

本当にサッカー、好きなんだなって思ったよ。

15分…リミットを超えたら、名残惜しそうに、しやがってさ。」


サッカーは今でも、好きだよ。

もっと走りたい。ボールを追いたい。

その気持ちには、嘘はない。


「マッチアップした時とか、トシが手ェ抜いてるっつってキレてたよな?

お前、トシはアンダー代表だったんだから、敵うはずないだろってのにさ。」


あれは後から冷静になって恥ずかしかったのを覚えてる。


「オレたちはさ。

お前の話も聞いた上でさ。その上で、ちっとはお前の居場所になれたのかって思ってたんだぜ?

怪我をして、物足りなくて。全部をは埋めらんないんだろうな、ってことも。」


一気に喋った後、ふぅ、と息を吐く。

「そんなお前がさ。このバイト始めて、少しずつ表情が柔らかくなってきたのを見てさ。

この仕事に、救われてんだなって、思ったよ。」


ああ…。そうだ。そうだよ…。

全部、四戸さんの言う通りだ。


オレは、この仕事を始めてから。

あのことがあった日から、ようやく。


生きていても良いんだな、って、思えるようになったんだ。


「オレはさ…。お前みたいな、キツい体験とか、そういうのしたことないからさ。

なんてぇか、うまく伝えられないけどさ。」


やめてくれ…。

バーテンダーは、カウンターの中では、笑ってなきゃいけないんだ。


「もっと、オレたちを頼れよ?

仲間だろ、オレたち。」


喉の奥が熱くなり、視界が滲む。


ダメだ…。

泣くな。


笑え。


プロだろ、オレ。


必死に自分に言い聞かせる。


「すみ…ませ…ん。

でも、オレは…。

マスターに助けてもらった、その100分の1も、返せてないんす…。

今は、オレがこの店を守らないと…。

マスターの、帰る場所が、なくなっちまう…。」


声が、小さく震えて響くのは止められなかった。


上手く喋ることができない。

言葉が、途切れ途切れになる。


クソっ、BGM、大きくしておけば良かった。


「…お前の、判断はさ…。

きっと、間違ってなんかは、いないよ…。


でもさ。


お前の人生まで、犠牲にしても、マスターは喜ばないんじゃないか?」

 

胸が苦しくなる。

薄々、そうなのかも知れないと思ってはいた。

それでも、言葉にして突き付けられると、…やっぱり、キツい。

  

「この店は…。

マスターの全て、なんです。

マスターがもう一度、立つ場所を…。

せめて、守りたくて…。」


「…それで…、いいさ。

大学、せめて授業は顔出せよ。

あと、これ返しとくからな。」


退部届だ。

こうなってすぐ、トシ先輩に渡していたものだ。


「この仕事を辞めろ、だとか。お前の決めたことを、どうこう言いたくて来たんじゃないんだ。

たださ。


お前が、マスターの帰る場所を守るんなら。


お前が帰る場所は、オレ達が守ってやるから。


たまにはサークル、顔出せよ。」


「ありがとう…ございます…。」


息の仕方を、忘れる。


ダメだ、泣くな。

そうやって、自分に言い聞かせてるのに。


一度溢れ出した涙が、頬を濡らすのを止めることが出来そうにない。


「馬鹿、泣くなよ。

お前の作った酒、旨いよ。

頑張ってんだな、悪かったよ。

もっと早くに、来るべきだったな。ごめんな。」


カウンター席で立ち上がった四戸さんが、オレの肩を優しく叩く。


謝らないでください、四戸先輩。

全部オレが、オレの考えで、決めたことなんだ。


すみません、マスター。

今日は、今日だけは。


マスターの教えを、破ってしまいました。


カウンターに置かれたコースターの上に残されたグラスには、希望というカクテル言葉を持つカクテルが、半分程取り残されたまま。


少しだけ、グラスに付いた水滴が、スッ…と音もなく落ちていった。



 

同じカウンターの隅。ダウンライトに照らされた請求書の封筒が、置き去りにされている。


国立がんセンター。


宛名は、今はここにいない、マスターの名前になっている。

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