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第四話 バーテンダー潰し

バーテンダーの祭典、といえばカクテルコンペティションだろう。

数多のバーテンダーが、その頂を目指して研鑽を積む。

 

一度だけ、マスターに連れられて、大会を閲覧したこともあった。

その大会では、何年もエントリーしながら優勝を逃し続けていたバーテンダーが、悲願の栄冠を手にした会で、他人事ながら胸が熱くなったものだった。


とは言え、そのような所謂ショーレースの栄冠には価値を見出さずに、熱気とはかけ離れたところに身を置くバーテンダーも多い。


話は変わるが、バーホッパーと呼ばれる人達がいて、そうした人達は色々なバーを巡り楽しむという。ホッパーはバッタのことで、バーを飛び回る人、といった意味合いだ。

中には、バーテンダーよりも他店の情報に詳しいこともある。

 

今目の前に居られるお客様も、そんなバーホッパーの一人。

「それでさぁ〜、Yの、ホラ今フロア任されるようになったって子の話したじゃん?

その子が、今年は出場の許可が出たってめちゃくちゃ張り切ってたよ。」


Yは隣町の、老舗のバーだ。ウチと同じくらい、修行が厳しいと聞いている。


今フロアを任されているのは、確か。

「確か彼は7年目でしたっけ?」


「そうそう。絶対入賞してやるんだって息巻いてたよ!」


「そりゃやる気にもなりますね。是非頑張って欲しいですね〜。」


「そういうチーフはどうなのさ?出ないの?」

周囲の店でコンテストへの熱気が高まると、この質問をされることは多い。


「私はホラ、一応大学生ですし。」


「それホントなの?落ち着きっぷりといい、その腕といい、この道一本でやった方が絶対いいでしょ〜!」


オレが大学生なのは紛れもない真実だ。疑われる理由が分からない。

「ひどいな〜、何回も言ってるけど一応ちゃんとした美大生なんですよ?今はバイトですし、そもそも2人しかいない店でチーフも何もないじゃないですか。」


「いや何回聞いても信じられないよ?今までも何人かお弟子さんはいたけど、マスターが認めて、チーフって役職まで付けたの、キミだけだよ?

しかも、一年もしないで。」


腕を認めてもらえたようで、正直嬉しいけど。マスターからは、もっと勉強が必要だね、としか言われていないんだよな…。

絶対今までにいたお弟子さんの方が、余程腕が良かったんじゃないだろうか。自分で考えていてヘコむ。


「それは嬉しいことですが、この仕事給料低いからなぁ…。」

「マスターに言っちゃうぞ〜?」


「絶対やめてください!」

二人の間で笑いが起きる。


その時、ドアが開いて蝶番の軋む音がした。


「いらっしゃいませ。」


反射的に歓迎の言葉を述べながらお客様を観察する。

50代だろうか、落ち着いた雰囲気のお客様だ。見たことがある、でもこのお店にいらしたことはないはず。

どこでお会いしたんだったか…。大学の関係者でもないはずだ。


「やっぱりここだったんだね、探させてもらったよ。」


探していた?どういうことだろう…。


こちらの疑問が顔に出てしまったのだろうか。


「思い当たる節はなさそうだね。でも、これなら思い出すかな?

K、あの日私もあそこにいたんだよ。」


Kは2つ隣の駅のすぐ近く、ビルの1階にあるバーだ。先日ご挨拶に伺ったばかりだが、確か…。

その日の記憶を紐解いてみれば、確かに、あの時奥のカウンターにいらしたお客様だ。


「その節はお騒がせして大変申し訳ございませんでした。

それで、探していた、というのは…?」


あの日の記憶をいくら遡っても、こちらのお客様とは会話した覚えがない。

知らず知らずのうちに、何か失礼でもしてしまったのだろうか。

背筋に冷たいものが通り過ぎるのを感じる。


「すまないね、警戒させてしまったかな?

心配しなくていいよ、ただキミの酒を飲んでみたくてね。

座っても良いかな?」

「これは大変失礼いたしました。どうぞ、こちらへ。」


カウンターへと誘導しながら、上着をお預かりしてクロークへ持って行く。

番号札とおしぼりを渡し、必要ないだろうな、と思いつつも念のため、とメニューをお渡しする。だがしかし、予想通りそのメニューを開くことはない。

 

「まずは駆け付け3杯、ではないけどね。

ジンフィズ、をいただけるかな?」


ジンフィズ。

スタンダード中のスタンダードであると同時に、バーテンダーにとって必要とされる技術が全て詰まっているとさえ言われる、難しいカクテルだ。

心の中が、一段冷静になるのを感じる。試されてる、というのがわかる。


「かしこまりました。」


タンブラーグラスに氷を入れ、ステアして冷やす。水を切り、グラスの外側の水滴を拭いてカウンターに置く。


シェーカーのストレーナーを開け、氷を組む。

ゴードンドライジンを45ml、レモンを搾り、15mlを測る。シュガーシロップ1tsp。

ストレーナーを被せ、キャップを置き空気を逃す。


お客様の前でシェーカーを構える。カクテルメイクの前の、独特の空気がカウンターを満たす。


世界が、オレ一人だけになったように研ぎ澄まされて行く。

カシャン、とシェークが始まる。

2ストロークでテンポに乗り、カシャ、カシャ、カシャと小気味良いリズムに乗せて氷の音が響く。


スローダウンさせたシェーカーのキャップを外し、タンブラーグラスに注ぎ、下を向いていたシェーカーを未練を断ち切るように回す。


カシャン。


液体の抜けたシェーカーの中で、氷が動く音が響いて…僅かな残響を残して、消える。

役目を終えたシェーカーを横に置き、ソーダの蓋を開けてグラスに満たす。

バースプーンを差し込み、下から氷を持ち上げるように、2回。

カットレモンをグラスの縁に刺して、コースターの上に置く。


「ジンフィズでございます。」

カクテルメイクの緊張から解放されたカウンター、しかし今度はまた違った緊張がカウンター越しに生まれる。


お客様が神聖なものを見詰めるような面持ちのまま、グラスを持ち、傾けて行く。

無色透明なカクテルがお客様の唇に触れ、口内に注がれ、喉を通る音がする。


どんな評価なのだろう。あの日、あの店にいらしたのなら、これはただのジンフィズ以上の意味があるはずだ。


「ふむ…特別な材料を使うこともなく、至ってスタンダードな、普通のジンフィズだ。

なのに、酸味、甘味、そしてジンのコシ…全てがしっかりと生きている…。口の中で弾ける炭酸がそれを洗い流して、次のひと口をまた新しい気持ちで迎えさせてくれる。

なるほど…。」


「ありがとうございます。」


頭を下げるオレを見ながら、グラスを持ち上げて問いを投げ掛ける。

「どうして、至って普通のジンフィズを?

Kの客、と分かっていたのなら、少しくらいは対抗心を出すだろう?」


「対抗心、ですか…。すみません、全く考えもしませんでした。」


「「えっ!?」」

なんで常連さんまで驚いてるんですかね?

聞き耳立ててたな…。


「正直に申し上げますと、お客様がKに限らず、バーに慣れたお客様であるということは分かりましたし、アレンジするべきか迷ったことは事実です。

ですが、」


お客様の手元のグラスを見ながら言葉を続ける。

「私が、お客様に出すのはこのカクテルが初めてでしたから。

お客様のお好みも、お酒の強さも。何も分かりません。

だからこそ、アレンジするのではなく、最もスタンダードなジンフィズにするべきだと思いました。

このジンフィズを基準にして、お客様のお好みを教えていただきたい、と。」


同じカクテルを作るにしても、使う酒…ジンならゴードンなのか、ビフィーターなのか、タンカレーなのか…お客様のお好みや体調、メンタル、そして飲むペースに合わせて提供する酒を調整するのが、プロのバーテンダーだ。


「私の、好み…か。」

グラスを片手に、お客様がしみじみと呟く。

「はい。

お客様それぞれにお好みがあります。

それを知り、それに合わせてアレンジをしていくことこそ、バーテンダーには必要な技術だと思っています。」


カウンターに、静かな緊張が降りる。

常連さんのグラスの中の氷が、カラン、と音を立てる。


「…そうか…。

お客様を向いて、お客様に合わせる。

それが、キミのバーテンダー像か…。」


「はい。

とはいっても、全部マスターからの受け売りなんですがね。」

オレの理想のバーテンダー像は、間違いなくマスターの顔をしている。


「よく分かったよ。

このジンフィズは、確かに今日の最初の一杯に相応しい。」


そう語ったお客様は、その後は考えるように押し黙ってしまった。


ジンフィズをゆっくりと味わい、グラスに残る氷が少しだけ小さくなって来た時。

「次は…、ギムレットにしよう。

本物のギムレットをくれ。」


悪戯な笑顔を浮かべながらご注文される。

またマニアックな注文だな、と思いながら、かしこまりました、と頭を下げる。


カクテルグラス…いや、ロックグラスを取り出して丸氷を入れる。

お客様の驚く顔を敢えて無視して、プリマス・ジンを注ぎ、リンスして棄てる。

 

シェーカーのストレーナーを開け、氷を組む。

プリマス・ジンを30ml。タンカレー10を10ml。ローズ社のコーデュアルライムジュースを10ml、そしてフレッシュライムジュースを10ml。


ストレーナーを被せ、キャップを嵌め、空気を逃す。

左肩の前にシェーカーを構え、一呼吸。

再び、周囲の世界から切り離されるような感覚…その世界に身を委ねる。


カシャン…音を立てて、シェーカーが踊り出す。

カシャ、カシャカシャカシャ…。

軽快な音を立てるシェーカーが、やがてゆっくりと止まる。


キャップを外し、ロックグラスの丸氷の上から静かにオレの本物のギムレットを注ぐ。

最後に、バースプーンで丸氷を軽く回すようにして馴染ませる。

 

「お待たせいたしました。"本物の"ギムレットでごさいます。」

「これが、キミにとっての本物のギムレット…。いや、まずはひと口いただこう。」


「おぉ…見事…。いや、これはすごいな…!」


素直な感嘆の声が漏れる。良かった。

安堵の溜息をグッと堪えて、来るであろう質問に備える。


「これは、どういうことだい?

本物のギムレット、と言えばプリマス・ジンとローズのライム、それだけ、のはずだ。

そのレシピを、キミが知っていたことも驚きだが…何より、このギムレットは…うまい!」


手放しに褒めてくださる。ちょっと恥ずかしいな。

「はい、レイモンド・チャンドラーの小説の中で、本物のギムレット、として確かにそのように言及されていますね。

 

ただ…今その本物のギムレット、は"お出しできません"。

 

プロとして、美味しくない、お客様のお好みに合わないと分かっているものを、お出しすることはできないからです。」


「ああ、美味しくないんだ。

確かに、前に他の店で飲んだ時には、甘ったるくて飲めなかったんだ!」


そう。

本物のギムレット、とされるレシピは、今の時代には絶対に合わない。


そして、何よりも、勘違いされていることがある。

「その記載の出てくる長い別れは、1953年の出版のはずです。

その時代は、まだまだ家庭用冷蔵庫も普及しておらず、当然冷凍庫も、製氷機も普及していませんでした。シェイクに使える程硬い氷は貴重だったはずです。

また、果実としてのライムも貴重品で、フレッシュなライムジュースを使うカクテルは贅沢品でした。」


お客様の表情が、先程よりも大きな驚愕に歪む。


「コーデュアルにはコーデュアルの良さがあります。ですが、その始まりは保存性の問題からのスタートであり、代用品でしかありません。

現在ドライ嗜好が高まっている、と言われて久しいとされていますが、そうした技術の進歩、流通の発達が、より美味しいと感じる味わいへと変化していくのは自然なことだと思うのです。」


「時代が、進歩した…ということなのか…。

いや、確かに君の言うとおりだ。

だが、何故、私にはこの本物のギムレットが合わない、と?

キミが私に出したのは、たった一杯…先程の至ってスタンダードなジンフィズだけだろう?」


確かに、このお客様に出すカクテルはこのギムレットで二杯目だ。それは間違いない。

だけど。


「そうです。

その、先程の一杯で。いくつか気付いたことがありまして。

そこからお客様のお好みを推察して少しアレンジをさせていただきました。」


「たった…あれだけで!?

だが、しかし私はジンフィズについての感想は述べたが、好みに繋がるようなヒントは何も話さなかったはずだ!

それで何がわかると言うんだ!」


「はい、ですから、あくまでも推察に過ぎないことは確かなのですが。」

一つ前置きをして続ける。


「お客様のオーダーやジンフィズの味わい方。味わいを表現されるご様子からも、かなり飲み慣れた方かと。

また、ひと口目、ふた口目のペースからも、今の時代の、比較的ドライ嗜好のカクテルがお好みなのではないかと。」


お客様のグラスの丸氷が、カラン、と小さく回る。

「そうすると、チャンドラーの言う本物のギムレットは甘過ぎる、と。

また、お客様程の飲み慣れた方であれば、本物のギムレットもお口にされたことはあったのではないか、とも思いました。

ですので、いわゆる本物のギムレット、をベースにアレンジをさせていただいた次第でございます。」


「飲む…ペース…。

たった、それだけで…。

だが、タンカレー…それも、テンを使ったのは何故だ?」

タンカレー、そのボトルを片手に見せる。


「仰られる通り、こちらのギムレットには、プリマス・ジンの他にこちらのタンカレー10を用いました。

プリマス・ジンは、ドライ・ジンとは全く違う、ストレートやステアに向いたジンです。

シェーカーでは折角の味わいが壊れ、水っぽくなってしまう懸念を感じました。

また、心待ちアルコール度数が低いこともあり、シェイクに耐え得るコシの強さを持ちながら、プリマス・ジンの個性とぶつかることなく、アルコール度数の補強にもなってくれそうな…この、タンカレー10を選んだのです。」


「だが…、それならゴードンでも良かったのでは…?」


「確かに、仰られる通りです。

ただ、先程のジンフィズ。三口目以降のペースが落ちていたように見受けられました。

ゴードンの、スタンダードなスタイルには多少飽きているのかも、と思い、少しだけ変化を楽しんでいただければ、と思いまして。」


「そこまで考えていた、ということか…。

だったら…ロックスタイルにしたのは何故だ。」


「それも、先程のゴードンとタンカレー10を選んだ理由と同じですね。

三口目以降のペースが落ち着いたことから、お客様は本来、ゆっくりとお酒を嗜まれるのがお好きなのではないかと。ですので、多少ゆっくりと飲まれても、味が落ちないようにとロックスタイルにさせていただきました。」


「あの、たった一杯でそこまで…。」

しばらく手の中のギムレットを眺めた後、ふぅ〜、と息を吐き出す。

その顔は、どこかスッキリとして見えた。 

「試すような真似をして悪かったね。

いや、素晴らしい。

よく勉強しているだけじゃない、本当にキミは客のことを見ているんだな。」


「とんでもございません。それもまた、バーの楽しみのひとつ、と思っております。

この仕事をするなら、酒の歴史を知ることも大切だと思います。

先人達が紡いできたバーという文化を、疎かにするわけにはいきません。」


オレの応えに、柔らかな微笑みを返してくれる。やっと、お客様に認めてもらえた気がする。

きっと、この柔和な包み込むような笑顔が、このお客様の本当の表情なんだろうな。


その後は穏やかな時間が進む。

Kからのお客様は実業家らしく、お名前を伺った常連さんが驚いていた。この辺では有名な方らしい。

大学でこの街に来たオレには、ピンと来なかった。いけない、もっと勉強しないとダメだな。


「そういえば、Kって…店閉めるらしいじゃないか。

突然でみんな驚いてたよ?」

思い出したように常連さんが呟く。


その話は、先週大きな驚きを持って近隣の店を駆け巡ったものだった。


「ああ、そのことか。そのようだね。まあ、原因はこの子なんだけどね。」

え。それは初耳…。


「え、チーフが?」

「そうなんだ。

この間彼がKに来てね。私はそこにいたんだよ。」


「Kのマスター、って、前ここで修行していた子だろ?」


「はい、私もそのように伺っておりまして、遅ればせながらご挨拶にお邪魔したのですが…。」

Kのマスターはここの店で修行して独立された方、つまりは兄弟子に当たる。


「それで、マスターも最初は喜んでいたんだけどね。

ほら、今度カクテルコンペがあるって話。知ってるだろ?」


お邪魔した時、Kのマスターも自信満々にこのカクテルならきっと上位入賞できるはずなんだ、と語っていた。


「彼が、ここのマスターからチーフを任された、というのが気に入らなかったらしくてね。

まあ、対抗心を燃やしたんだろう。

それで、カクテル勝負を挑んだのさ。」


「へぇ〜、カクテル勝負!なんだよチーフ、そんな面白いことしてたのかよ!」


仲間外れにされたとでも思ったのか、常連さんが拗ねたような顔をオレに向ける。

いや、その日は本来ご挨拶のつもりで、純粋に客のつもりで行ったんだけど、成り行きで、というか。


「いえ、一杯作ってみろ、と言われただけなんですが…。」


そもそもが、あの時はそこにいらしたお客様にそれぞれが作ったカクテルをお出ししただけだ。


「審査員に選ばれたのは、Kに良くいらしていた若いお嬢さんでね。

Kのマスターはコンペに出すオリジナルカクテルを出したんだ。あそこの常連は、間違いなく一度は飲んだことのあるカクテルさ。」


確かに美味しい、美しいカクテルだった。コンセプト、完成度、味わい…いずれも非常に素晴らしいものだったと思う。

だけど…。


「そこの彼は何を出したと思う?」

とびきりのなぞなぞを出すように、楽しそうな笑みを浮かべて、もったいつける。


「う〜ん…チーフの代名詞といえばギムレット…?

いや、オリジナルカクテルに対抗して、チーフのオリジナルカクテルかな?」

いや、違う。そんなカクテルは、あの時"絶対に出せなかった"。


「胡椒を少しだけ混ぜたハーフムーンにした、バージン・メアリさ。」


「えっ…それって、ノンアルコールのカクテルじゃ!?」


「はい。拝見したところ、あのお客様は既にかなりのお酒を召されていました。

これ以上のお酒は命の危険すらあり得る。プロとして、絶対にお酒を出すことはできないと判断しました。

また、通常はバージン・メアリといえば塩だけ、ですが。

胡椒の刺激が酔い覚ましの効果を促進してくれたら、と思いまして、少し手を加えさせていただきました。」


カウンターの中に立つからには、いついかなる時でもプロとして振る舞わなければならない。

これも、マスターの教えだ。

何より…くだらない見栄なんかで、誰かの命を危険に晒させてたまるか。よりによって、オレの見ている前でなんて。


「お嬢さんは、マスターのオリジナルカクテルは少し口を付けただけだった。

彼のバージン・メアリを美味しそうに飲み干した後、帰って行ったよ。」

 

狙い通りに酔い覚ましに効いてくれたようで安堵したのをしっかりと覚えている。


「その後にも一度お邪魔したんだが…。

あの翌日お嬢さんから電話があったらしくてね。あのバーテンダーのお店が知りたい、と。

そして、もうKには行かない、あのバージン・メアリがなかったら、確実に潰されていたと言ってね。」


潰される、とは強烈なセリフだが、そう思うのも仕方ないかも知れない。

 

オレ自身も、あの場でコンペに出すカクテルを自信満々に…お客様を見ようとしない兄弟子の姿を、哀しく思ったのは事実だった。

お客様を酔い潰して前後不覚にしてしまうなど、バーテンダーとしては絶対にやってはならない。私たちの取り扱う酒は、薬にも死を招く毒にもなるのだから、とマスターからは口を酸っぱくして言われていたことだったから。

その言葉を忘れてしまったのだろうか、と憤りを覚えたのだ。


彼の顔を潰すことになっても、あの場で指摘することもできた。それを止めたのは、兄弟子への遠慮もあったのだが…心のどこかには、呆れもあったことは否定できない。だから、切り出そうかどうか迷っていた相談を、胸の内に留めたのだった。


「その時、あのマスターも流石に随分と落ち込んだ様子でね。

もう一度修行のやり直しだ、って店を畳む決心をしたらしい。

私は彼からキミの店を聞いてここまでやって来た、というわけさ。

あれだけ自分の店を誇りに思っていた男に、店を畳む決心をさせた男の酒を飲んでみたい、と思ってね。」


「そんなことが…。

じゃあ、Kが潰れるのって…チーフのせい?」


「いやいや、チーフ、彼のせいでは決してないよ。

ほら、Kのマスターは、一度小さな大会で入賞したことがあったろ?それで自信を付けたのだろうけれど、たまに押し付けるように酒を出すことがあったからね。」


お客様が助け舟を出してくれた。少しだけホッとため息が漏れる。


「そうですね…。確かに、その傾向は感じました。

バーテンダーなら、そういう時期もあることは承知しています。実際、私もありましたし。

マスター…、ああ、ここのマスターにはいつもお客様に向き合え、と言われていました。

私は、その教えを思い出すことで、原点に立ち戻れました。今回も、その教えに従っただけです。」


バーテンダーなら、自分の技術を過信してそれをお客様に押し付けてしまうことはままある…恥ずかしながらオレ自身もあった。

その時は、マスターの口癖…お客様をよく見ろ、という言葉を思い出すことで、お客様にバーテンダーの想い…このカウンターに座っている時は、お客様が背負った何かを下ろして、心から安らいで欲しい。

そんな想いを、お客様にお伝えするためだけにバーテンダーの技術はある、ということに気付くことができたんだ。


「それが答えさ。

Kのマスターは、天狗になって一番大切なことを忘れてしまった。だから、それに気付いた時に、やり直す決心をしたんだろう。

まあ、あそこの常連としては、いい迷惑だがね。」


「それは…なんと申し上げればいいのか…。ご迷惑をおかけして、申し訳ありません。」


思わず頭を下げる。どんな理由を述べたとしても、このお客様の行きつけのバーがなくなる原因がオレにあるのだとすれば、謝るしかできない。


「いや、いいんだよ。

その代わりに、こんなに良い店、良いバーテンダーに出会えたんだ。

それだけでもお釣りが来るくらいさ。」


「そうだぜ、チーフ。そんなに落ち込むこたぁないさ。

お前は謝らなくていい。お前は何も間違っちゃいねぇよ。

Kのマスターだって、そのことを理解したからこそ、やり直しを決めたんだろう。

お前が非難される謂れなんてどこにもないさ。」


「…お気遣いありがとうございます。」


「折角だから、Kのマスターと、そしてキミという素晴らしいバーテンダーを育てたという、マスターにもご挨拶したかったんだが…。」


すみません、マスターは…。心の中だけで留めて、もう一度頭を下げる。


「申し訳ございません。マスターはお休みをいただいておりまして。

私の方から申し伝えておきます。」


「そうしてくれるかな?

いや、うん。本当に良いお店に出会えたよ。

そのことは、Kのマスターに感謝だな。」


「ありがとうございます。

過分な評価とは存じますが…これからもよろしくお願いいたします。」


「なに、良ければもしキミが独立する時には声を掛けてくれよ。是非力にならせて欲しい。」

嬉しいお申し出ではあるんだけど…どうかわそうか、と考えていたら、横から口が挟まれる。


「あ〜、お客さん。

そうは言っても、チーフ、まだ大学生だよ?

ほら、あそこの美大の。

今も信じられないけど。」


おい。

流石に常連さんでもそれは聞き捨てならないよ?


「嘘だろ…。てっきりベテランの、30代とかかと思って…、

あ、いや、ごめん」


お客様も追い討ちかけないでください…。

「そんなに老けてますかね、私…。

結構気にしてるんですが…。」


「いや、うん、老けてるというか、ほら、落ち着き方がだね?とても20代そこそこには見えない、というか…」


慌ててお客様が取り繕うが…それはトドメである。


「ごめんなさい…まだ19なんです…今二年生です…。」


「「…ごめん…。」」


チクショウ。




オレの、何かを悟ったような表情にいたたまれなくなったKからのお客様がお帰りになった後。常連さんは根が生えたようにまだカウンターに座ったままだ。


「いやー、大学生は聞いてたけど、まだ2年生だったのか〜。それも19とは…」


蒸し返さないでくれる?

「蒸し返さないでいただけます?」

心の声はダダ漏れである。


「まあ良いじゃないか〜、でもチーフ、さっきのお客さんにもらった名刺は絶対取っとけよ!」

「いや、ですが独立とか、今は全然そんなこと考えていませんし…。まだまだ勉強中ですし、それに大学もまだ卒業すら…。」


「バッカお前、あの人はこの辺りじゃ相当に名の知れた実業家だぞ?あの人が後ろ盾になる、だなんて成功間違いなしだぜ?

あの人の会社と付き合いがある、ってだけで、この辺じゃステータスになるくらいなんだからな。

チーフ、お前は今日、価値のあるものを手に入れたんだ。」


そんなにすごい方なんだ…。

「価値のあるもの…ですか?」


「ああ。信用だよ。

あのお客さんは、自分の行きつけを失ったのは痛いだろうが、それ以上に、命の危機に瀕した常連客を救ったお前の師匠の教え、そしてお前の実力に心から感銘を受けた。」


「…。」


「あの申し出は、社交辞令なんかじゃない。

お前のバーテンダーとしての哲学に、自分の持つ『力』で応えたいという、真剣な敬意の証だ。そういう、信用を形にしてくれる人は、そうはいない。

そういう人との繋がり、その人からの信用こそが、お前が今日、この場で得られた最大の報酬なんだよ。」


「最大の報酬…。」


「そうだ。だから、人の好意は素直に受け取っておきなさい。

断ることが失礼に当たるってこともあるんだぜ?」


その言葉は、マスターの教えとはまた違う、世間を知る人間の優しさと重みがあった。胸に未だ刺さっていた罪悪感は、少しだけ和らいだ気がした。


「まあ…また来てくれると良いね?」

「そうですね。

きっとまたいらしていただけるとは思いますよ?バーがお好きなようですし。」


「まあ、行きつけがなくなったみたいだしね?

しかしなぁ、まさかKの閉店にチーフが関わっていたとは…。」


Kの閉店自体は耳にしてはいたけれど、まさかオレが理由だなんて思わないじゃないか。

「いや、まさかこんなことになるとは私も思わなかったので驚きなんですが…。でも、きっとバーテンダーは続けられるとは思いますよ。」


「そうだろうな〜、修行のやり直し、って話しみたいだしね。

うーん、しかし…。」


奥歯に物が挟まったように、何かを考え込むような素振りを見せる。

「どうなされたんです?」


「いや、チーフの異名が出来たなって。」


「異名?」


なんのことだ?全く心当たりがない。


「バーテンダー潰し。ピッタリじゃん?」


……。


「そんなにバージン・メアリが飲みたいなら、一生トマトジュースだけお出ししますよ?」


「やめてくれ!

オレ、トマトは大嫌いなんだよ!」


―不本意ながら。

この異名があっという間に定着してしまうことを、この時のオレはまだ知る由もなかった。

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