第二話 残されたグラス
マスターからの電話で目が覚めた。
腰が痛い、今日は休むから店を頼む――。
それだけ言って電話は一方的に切れた。
マスターもいい歳だ。仕方ないな、そんな風に思いながらシャワーを浴び、出勤の支度を始める。
予定よりも早い出勤になりそうだが、問題はない。
枕元のデジタル時計が14:07を知らせる。まだ余裕はある。
家のドアを開けた時、降り始めた雨を見て家の中に引き返す。
そういえば、昨日寝る前に見た天気予報が雨を知らせていた気がする。
クローゼットからインナーを取り出し、服を脱いだ素肌の上に着る。
冷たいインナーが、首元のネックレスに通した指輪の上を通り肌を滑る感触に身を震わせ、一度脱いだ服を急いで着込む。
傘を手にしてドアを開けた瞬間―ふと、靴が濡れるな、なんて小さな憂鬱を感じた。
なぜか今でも、その感覚だけは覚えている。
店に着いてすぐに丸めたおしぼりをタオルウォーマーに並べてスイッチを入れる。
開店の時間までには、十分にお客様の冷えた手を温めてくれることだろう。
開店の準備を終え完璧に整った店内を確かめ、重いドアを押し開けて看板を出す。
蝶番の音が、いつもより不安げに聞こえた。
雨はいつの間にかみぞれ混じりになっている。
コンセントに繋がれた看板に照らされた街並みは、いつもより沈んだ色をしていた。
思った通り、来客は目に見えて落ちていた。
高い位置の窓から外を見れば、雨はいつの間にか雪に変わり、時折開くドアから流れ込む冷気は一段と鋭さを増している。
車通りもほとんどない。
雪の日は、すべての音が消えるように感じる。
雑踏も、喧騒も、人々の焦燥感すらも―降りしきる雪に溶けて、代わりに張り詰めた静寂が街を支配していた。
少しずつ、ゆっくりと空席が埋まっていく店内。
いつもより静かな空間で、オーダーの声さえ少ない。
抑えられたボリュームのBGMと、シェーカーの小気味よい音だけが響く。
少しは営業として形になっただろうか。
そんな安堵が胸をかすめた矢先だった。
せっかく来てくださったのに足早に席を立つお客様も多く、ほとんどの方がいつもより少ない杯で終えてしまう。
おしぼりを補充し、グラスを洗いながら、技術が足りないのだろうか、練習を増やすべきか―答えのない問いが頭の中を巡る。
すべてのグラスを引き上げ、窓を見るといつしか雪は雨に戻っていた。
少しだけドアを開けて外を覗いて見れば、雪もすべて溶けていた。
雪が降っていた時間は、二時間にも満たない。
それでも、街並みは静かなまま、行き交う人の姿も見えない。
先程までの雪が、人の気配まで消してしまったような不穏な想像に、身を震わせる。
店内にグラスを磨くキュッ、キュッ、という布の音が響く。
心の中で不安が揺蕩ったまま消えてくれない。
モヤモヤとした気持ちを抑え込みながら、磨き終わったグラスをグラスホルダーに戻す。
カウンターに一人残られていた最後のお客様が、そろそろ、と申し訳なさそうに席を立つ。
聞こえないように小さな溜息を漏らして、マスターがいればどやされるな、なんて思いながら作り笑顔で会計をする。
お預かりしていた上着をお渡ししながらもう雨に変わってましたよ、と告げてドアの外まで見送り、足元にお気を付けて、と声を掛ける。
蝶番を軋ませて、いつもより重く感じるドアを開け、店内に戻る。
ゆっくりと閉まるドアを背に、自分の未熟さに打ちひしがれていた。
いけない、こんなんじゃ。
一人残されたカウンターの中で、気合を入れ直そうと頬を張った瞬間。
蝶番が低く唸るような音を立てて軋んだ。
その音が、いつもより小さく聞こえる。冷たい空気が店内の温度を下げる。
馴染みのお客様が、ドアの中に滑り込む。もう一度、その重さを感じさせるように蝶番が軋んで、ゆっくりとドアを閉じていく。
その馴染みのお客様は、週に一度はいらしていただけるお客様だった。
多い時には週に三回も来られることもある。
気さくで、軽い冗談を飛ばして店を明るくしてくれる、そんなお客様で。
間違いなくこのお店の常連で、楽しくお酒を召される、お店としても嬉しいお客様。
オレにとって特別なお客様だった。
バーテンダーがお客様に出すことを師匠から許される、その人生で一度きりの、大切な、特別な一杯。
その一杯を許された、オレにとっても忘れることは決してない……そんなお客様だった。
カウンターの外に歩み寄り、いらっしゃいませ、と声をかけ、少しだけ肩を濡らしたコートを受け取る。
普段はお洒落なネクタイを自慢するくらい、スーツにはこだわるお客様だった。
体型維持にも気を遣っていると笑っていた姿を思い出す。
その日の装いはただ―黒かった。
黒のスーツに黒のネクタイ。
いつもの整然としたスーツが弔いの色に変わっていた。
お通夜か、葬儀か……こちらから伺うわけにもいかない。
ガランとしたカウンターの端に腰掛けたお客様に、温かいおしぼりを広げ、そっと言葉をかける。
「今日は本当に寒い一日でしたね。お疲れ様でした。」
こういう時は、出来るだけいつも通りに接した方がいい。
お客様の手元を見る。
小さく震える手は、寒さだけが理由ではない。
彷徨う視線は、きっと見送ってきた誰かへ向けられているのだろう。
お客様の瞳の下には、涙の跡は伺えない。
ただ、疲労と動揺と、言葉にならない苛立ちのようなものが、その表情に沈んでいた。
かける言葉のないままに、沈黙だけが流れる。
今、バーテンダーに……オレにできることは、ただ待つことだけだ。
「すまないね…。
いやぁ、流石にこの時期の雨は堪えるね。
まあ、雪よりはマシだけど。
まだ唇が凍えてる気がするよ。
何にしようかなぁ…そうだなぁ、雨にちなんで、まずはレイニーブルーにしようか。」
いつもより言葉が少なく、声のトーンも幾分か沈んでいる…当然だ。
「さっきまでは雪でしたからね。お陰様でこの通りですが。
今日は朝まで雨は止まないようですよ。
少しでもゆっくりなさってくださいませ。」
徳永英明のあの名曲から名付けられた、静寂さを湛える青のカクテル。
「レイニーブルーですね。かしこまりました。」
ブルーキュラソーを小さな小皿に垂らし、別の皿に砂糖を満遍なく広げ、ブルーキュラソーで薄く濡らしたグラスの縁をシュガースノー・スタイルに仕上げ、冷凍庫に入れ冷やす。
シェイカーに氷を組み、ウォッカを30ml、コアントローとブルーキュラソーを10mlずつ、バナナリキュールを8ml。ライムジュースを2tsp。
お客様の好みに合わせて、ほんの少しだけドライになるように調整する。
ストレーナーを被せ、キャップをつけて、空気を抜いて。
柔らかく手首のスナップを意識しながら、小気味良い音を響かせシェイカーを振る。カクテルグラスを冷凍庫から出して、青い液体を注ぐ。
お客様の前に、そっとコースターを添えて差し出す。
「お待たせいたしました。レイニーブルーです。」
「あぁ、ありがとう。レイニーブルー、もぉお〜、終わったは〜ず〜なのに〜、か…。」
口ずさみながら、お客様はカクテルグラスに口をつけて…
そのまま、飲み干した。
いつもの、飲み方じゃない。
喉仏が大きく上下する。荒々しさすら感じるその動作に、隠しきれない悲しみが現れているようだった。
トン、とコースターに戻された弾みで、グラスを縁取るシュガーが涙の代わりに滑り落ち、底に残された青に溶けて消えて行く。
その一杯は、深い悲しみの前に。
ただの液体として、一瞬で消えてしまった。
湧き上がる焦燥を必死に抑え込み、いつも通りの手順でグラスを下げる。
「今日はペースが早いようですね。明日はお休みですか?」
動揺を覆い隠し、平常を装う。
「いや、仕事だよ…。
すまないね、部下の葬儀でね。
今日は飲みたい気分なんだよ。
潰れる前には帰るさ。」
胸に走る小さな痛みを隠すように小さく息を吐く。
何かを、間違えている気がする。
「そうだったんですね…。
お悔やみ申し上げます…。
お仕事には響かない程度になさってくださいね?」
「わかってるさ…。
次は…そうだな、もう一杯、雨繋がりでブラックレインでも飲ませてくれ。」
「かしこまりました。」
ブラックレイン、松田優作の遺作映画にちなんだカクテル。
フルート型シャンパングラスに、ブラック・サンブーカを30ml、シャンパンで満たし、軽く混ぜ合わせる。
ブラック・サンブーカ由来のスパイシーな香りが漂う。
無骨さと、どこか懐かしさのある寂しさをシャンパンが包む。
松田優作の人生をそのまま写したような一杯。
弱い光を吸い込むようなその黒が、お客様の悲しみの深さと出口のないオレの焦燥を映しているように見えた。
震えそうな手を抑えながら、ブラックレインを置く。
「ありがとう。」
今度は流石にひと息にはいかないけれど、それでもいつもよりは格段に速いペース。
そして、黒い雨も通り過ぎるように消えた。
そんな迷いが、顔に出てしまっていたのだろうか。
「悪いね。いつもならもっとちゃんと味わいたいんだが…。
今はね、ただ酔いたいんだ。」
辛いはずなのに、こちらを気遣う言葉に胸の痛みが大きくなる。
同時に――ただ酔いたいんだ、という言葉が。
酒なら何でもいいんだ、と突き付けられているようで。
かつてのマスターの言葉が頭をよぎる。
酒が泣いてる――。
「いえ…別れを惜しむ時間も、痛みに身を任せる事も。
時には必要な事ですから。」
オレは…無力だ。
「そう言ってくれると助かるよ…なぁ、死を悼むカクテル、なんてのはあるのかい?」
死を悼むカクテル…。
悼む。
その言葉を聞いた瞬間、このお客様に差し出した、"人生で一度きりの特別な一杯"の記憶が脳裏に蘇る。
そう―ただ、目の前のお客様の事だけを思って作った、あの一杯を。
お客様をよく見ろ。
マスターの口癖が、ようやく頭ではなく、胸の奥に落ちていく。
オレは…少し作れるようになっただけで、ただ自分の未熟な技術を誇示することしか考えてなかった。
目の前のお客様を見ず、お客様の悲しみを理解しようともせず、そんな一杯がお客様に届くはずがない。
届かなかった理由が、ようやく腑に落ちた。
お客様の痛みに寄り添い、見送られた方を共に偲ぶための一杯。
拙い知識をフル回転させ、ロンドンの伝説のカクテルを思い出す。
「そうですね、有名どころですとブラックベルベット辺りでしょうか。
ヴィクトリア女王の夫、アルバート公を偲んで作られたカクテル、とされています。」
「ブラックベルベットは聞いたことがあるが、そんな逸話があったのか。
知らなかったよ。
じゃあ、そいつをくれるか?」
「かしこまりました。少しお待ちくださいませ。」
「珍しいな、待てだなんて。」
他に誰もいない中で、このシンプルなはずのカクテルを待て、と言われたことに、驚くのも当然だろう。
「いやぁ、自分で提案していてなんですが…このカクテル、緊張するんですよ。
シンプルなんですが、難しくて。」
「え?君でも難しいカクテルなのかい?
だって、黒ビールとシャンパンだけだろ?」
「流石にご存知でしたか。
ただだからこそ難しいというか…ご覧になるとわかるかと。」
そう言いながら、フルート型のシャンパングラスを出す。
そう、レシピは単純だ。
黒ビールとシャンパンを同量、それを注ぐだけ。
このブラックベルベット、レシピは変わらないが、作り方が3つある。
一つは黒ビールを先に注ぎ、シャンパンをその後に注ぐ作り方。
そして、その逆にシャンパンから注ぐのが二つ目の作り方だ。
これからオレが用いるのは、そのどちらでもない、もう一つの作り方。
シャンパンと黒ビールを開け、片手にそれぞれのボトルを持つ。
そして。
シャンパングラスの上から、"同時に"注ぐ。
「へぇ、器用なもんだ。
初めて頼んだけど、確かにこいつは難しそうだな。」
このスタイルは本来ならパフォーマンス用、ただし泡立ちも違うし、注ぎ口も違う。
流量を見ながら同量を、泡立てて吹きこぼれないように注ぐのには神経を使う。
ゆっくりとグラスの中で混ざり合う、黒と金、二つの液体を見つめる。
グラスの縁からこぼれ落ちようとする泡を、押さえ込むようにボトルを持ち上げる。
「お待たせいたしました、ブラックベルベットでございます。」
ブラックレインとブラックベルベット。
二つの黒を引き換えにする。
その漆黒は――アルバート公を亡くしたヴィクトリア女王が生涯脱ぐことがなかったとされる喪服を思わせる、哀悼の黒。
「おお、こいつはさっきのブラックレインとはまた違った黒さだね。
どれどれ…。」
お客様の手が、グラスの脚を摘む。
持ち上げられたグラスがお客様の唇に触れ、漆黒色のビロードがお客様の喉を通り過ぎる。
「うん、うまいじゃないか!」
今日、初めてのお客様の笑顔を見れた気がする。
「ありがとうございます。
うまくいくかヒヤヒヤしましたよ…。いやぁ、緊張しました。
最初に練習する時は水でやるんですが。
手はプルプルするし、ついどっちかの方が多くなっちゃったりして。
やっと出来るようになったと実際に作ってみると、泡が吹きこぼれるしで…。
何回失敗したことか。」
「そうなんだ!
有名なカクテルなのにね。
そんな難しいカクテルだったとは知らなかったよ!」
「いえ、実際には、ほとんどのバーでは別々に注ぐそうです。
ウチも普段はそうですね。」
「そうなのかい?
じゃあ、わざわざ難しいやり方で…なんでまたそんな面倒なことを?」
「…お客様にとって大切な、その方への私からの弔いの思いを、少しでもこのカクテルに込めたい…。
そう、思ったんです。」
お客様が俯く。唇を噛み締めるのが見える。
「それに…何より、差し出がましいようですが…。
せっかくこのカウンターに座っていただけるのなら、少しでも…そのお気持ちを、楽にしていただければ、と。
すみません、出過ぎた真似を。」
「…そうかい…。すまないな、気を使わせちまったか。
オレもまだまだだな〜、うん。」
「いえ!マスターにはいつも言われるんです。もっと気を使えって。」
「あ〜、マスター厳しいもんな〜?」
「ええ、もうちょっと優しくして欲しいですね、あとお給料も上げて欲しいです…。」
肩をすくめて見せる。
「そんなこと言ってるとまた怒られるぞ?」
「マスターには内緒にしていてくださいね?」
二人で顔を見合わせて笑う。
当初よりは相当に柔らかい、温かな空気が流れるのがわかる。
良かった、少しはいつもの雰囲気に戻ってくれた。
いつもならそろそろ程よく酔いが回って来た頃合いかな、という時。
少しだけ、呂律の回らなくなって来た口が、二、三度言い淀むように開いては、閉じる。
そして、遂に、耐え切れなくなったように、呟きのような問いが発せられた。
「なぁ…死にたい、と思ったことはあるかい?」
グラスの中の氷が、カラン…と静かに音を立てた。外の雨が窓を打つ音も、少し強くなった気がした。
空気が、重い。
最初の時とは違った緊張が、カウンター越しに横たわる。
オレはその緊張を見なかったフリをして、わざと何でもないことかのように答える。
「ありましたよ、昔は。
今は、バーテンダーとして一人前になることに必死で、そんなことを考えることはないですが。」
「どんな時だい…、死にたい、と思うのは。」
「昔、サッカーやってたんですよね、私。
ただ、酷い怪我をしまして…、もうサッカーはできないって言われた時は死にたい、って思いましたね。
あとは失恋した時、とかでしょうか。」
フゥ〜と随分と酒臭くなった溜息を一息、何かを噛み締めるように吐き出して。
「そうか…アイツは、なんで死んだんだろうなぁ…。」
お客様の告白は、もう止まらない。
「わからないんだよ、なんで死を選んだのか。
彼女ともうまくいっていたらしいし、仕事も頑張っていたんだ。
前の日なんか、みんなで飲んでたんだぜ、オレも一緒に。
全然、死のうとしてるなんてなかったんだよ、少なくとも、全然そんなのおクビにも出しやしねえ…
だから、本当によ、誰もなんで死んだのか、わからないんだ…。」
上を向いて、ダウンライトの柔らかな光を見つめる。
お客様の苦しみが、手に取るように分かる。分かってしまう。
このお客様は。
悔やんでいるんだ。
気付けなかったことに。
止められなかったことに。
「いつだって、残される側は唐突です…。
残される側の都合なんて、残す側からしたら関係なくて。
もしかしたら、残される人がどんな思いを抱えるかなんて、考えもしないままだったのかも知れない。
そもそもが、そこに、理由なんてないのかも知れない。
結局は、本人しかわからないことなのかも知れません。」
痛む胸に目を背けて、お客様を見つめるオレの視線と、お客様の、少し苛立ったような視線が絡み合う。
「なんだよ、そりゃ…。
訳が分かんねえよ…。
そんな、訳のわからないまま、アイツは死を選んだのか…?」
次の言葉は…考えるより先に出てしまった。
「理由があれば…納得されるのでしょうか。」
「…!!」
しまった、言い過ぎた。
何かを考えるように、あるいは誤魔化すように眉を顰めるお客様を見ると、自分の未熟さが嫌になる。
「失礼いたしました。
お詫びに、今日の最後の一杯は私からサービスさせてくださいませ。」
そう言い切った後は返事を聞くこともなく、背を向けてロックグラスを取り出す。
丸氷を入れ、空のままバースプーンで回してグラスを冷やす。
冷えたグラスに、スコッチ・ウイスキーを45ml、ドランブイを25ml。それを氷に滑らせるように注ぎ、もう一度バースプーンを挿し入れ、静かにステアする。
音を立てることなく、丸氷がグラスの中で静かに回転していく。
琥珀色の二つの液体が完全に混ざり合い、新しい味わいへと生まれ変わる。
ピタリとバースプーンを止め、丸氷の慣性を終わらせる。抜かれたバースプーンから滴り落ちる雫は、優しい色をしていた。
そっとそのグラスを持ち上げ、すでに空いていたグラスを片手に取り、音を立てないように交換する。
「こいつは…ラスティ・ネイル…?」
「はい。ラスティ・ネイルです。お好きでしたよね?」
グラスを持ち上げて、一口。
琥珀色の液体が、グラスの中で静かに波打つ。
「ああ…この後味の甘さがね、好きなんだよ。」
「このラスティ・ネイルのカクテル言葉をご存知ですか?」
「カクテル…言葉?」
「はい。
あまり知られた話ではないのですが、カクテルにも意味があるそうです。
このラスティ・ネイルのカクテル言葉は――
"苦痛を和らげる"、
だそうです。」
答え合わせのように、言葉を繰り返す。
「苦痛を…和らげる…。」
手の中にある、グラスの中に揺蕩う琥珀を見つめて、少し固まって考えている。
「私から見たら、今のお客様は、答えのない苦痛に囚われているように見えてしまうのです。
もしかしたら、その方は、誰にも言えない悩みを抱えていたのかも知れない。
それとも、希死念慮に囚われて、衝動的に選んでしまったのかも知れない。
でもそれは、本人以外には分からないことなのです。」
「分からないこと…か…。」
「はい。
分からない事、答えのないことに苦しんでも、そこに意味はないのだと思います。
残された側としては、答えを探したくなる、理由が欲しくなる気持ちもわかります。
ですが。
意味のないことに、出口はないんだと思います。
それよりも、出来ること、なすべきことをする方が、よっぽど意味があるんじゃないかと。」
「出来ること…なすべきこと…そんなものが、あるのか…。」
「あります。」
息を一つ、深く吸う。
「忘れないことです。
今は悲しみ、何もできなかったことを後悔して、その後悔を抱えて、生きる。
残された側にできるのは、するべきなのは――
そのくらいだと思っています。」
後悔を捨て去ることなんて、簡単に出来るはずがない。悲しみだって、すぐに消えてくれやしない。
だけど、時間が解決してくれる、なんてチープな言葉で誤魔化したくはなかった。何より……時間は、何もしてくれやしない。
「そうか…。」
アルコールの匂いを含んだ息を深く吐いて。
絞り出すような声で。
「後悔して、生きる、か…。
そうだな、あぁ、そうだ……もう、死んだんだ。
オレたちをこんなに苦しめて、悲しませて、アイツは死んだんだよな…。
恋人なんて、ひでえ有様さ…あの、バカヤロウ…。
あんな可愛い子を置いて行きやがって。
ずっと泣いてんだぜ…?
なんて言葉をかけたら良いか、分かんなかったよ…。
オレだって、悲しいはずなのにさ。
アイツが、何か抱えていたなら、言ってくれりゃあ良かったのによ…。
そしたら、できることが、何かあったのかも知れない。
でも、」
煽るように、震える手で持ち上げたその中身を、ひと息に飲み干して。
叩きつけるようにコースターの上に、グラスを置く。
そのグラスを握る手を、もう片方の手で抱き締めるように。
下を向いて、カウンターの上に一つ、二つと…雫が落ちる。
「もう、アイツは死んじまった。
アイツにはもう何もしてやれないんだよな。
もう、灰になって、終わっちまったんだ。
もう、終わったんだ。」
そっと新しいおしぼりをお客様の前に置いて。
これから告げる言葉は、もしかしたら残酷に聞こえるかも知れない。
それでも、どうしても伝えたかった。
「残酷ですが…終わったことに囚われるよりも。
残された側に、理由なんてない、そう言い聞かせて、後悔を抱えてでも――生きていくしか、ない。」
そっとカウンターの上に手を乗せ、このカウンターの向こう側に座った日のことを思い出して拳を握る。
「苦しみに、悲しみに負けそうな時には、このカウンターが受け止めてくれます。
お客様の苦しみを、悲しみを、黙って受け止めるために。
バーのカウンターは分厚いんですから。」
カウンターの上に、雫が作る染みが広がっていく。
「ありがとう…ありがとう……。
すまない……今日は、今日だけは。」
「構いません。
マスターも今日はお休みですしね?」
今日が雪の日で良かったと…この時、初めて思えた。




