第十八話 最期のギムレット
横山マスターから合格をもらったあの日からちょうど一週間。
オレは再び、パリッとした制服に身を包み、ioriのカウンターに立っていた。
一人で全てを背負っていた気になっていた今までとは違って、たくさんの人に支えられていることを実感して立つカウンターから見る世界は、全く違うもののように見えた。
新しくioriの代表となったケンジさんは、マスターと名乗ることを拒否して、マネージャーと名乗っていた。
「オレにはまだマスターは早いよ。」なんて言って。
正式にスタッフとなった百瀬くんも、オレがいない三週間程の間に自信を持ったのだろう。
堂々として見えて、頼もしさを感じた。
――戻ってきたんだ。
その実感が、少しずつ身体の隅々に沁み込んでいく。
「ご迷惑をお掛けしました。改めて、今日からよろしくお願いします!」
開店前に二人に頭を下げる。
百瀬くんはもう泣きそうになってる。
「百瀬くん…カウンターの中では、泣いちゃダメだよ?
オレたちはプロなんだからね。
お客様に安心感を与えられるようにしなきゃね。」
「カウンターでぶっ倒れた奴が言っても説得力ないけどな。」
ケンジさんの言葉に、三人で笑ってしまった。
その日は、たくさんの人が来てくれた。
根津様は約束通り、秘書の方を連れて来てくれて。
お二人に、ポストカードに描いたピエタをそれぞれプレゼントさせてもらったら、根津様はもちろんのこと、秘書の方がめちゃくちゃ感激してくれて。
素直に嬉しかった。
安永様は、オレの姿を見るなり泣き出してしまって。
安永様がオレの入院代を出してくれていたことも聞いてたから、ここに戻って来た姿を見せられたことが嬉しくて、オレも泣きそうになった。
市川様も、村上先生と岸本様と三人でお越しになった。
病院での冷静な村上先生の姿と、ちょっとはしゃいでるような姿のギャップが信じられなくて、市川先生と二人で目を丸くしてしまった。
三井様も、ご夫妻でお越しくださって。
良かった、って言ってくれた時はオレもホッとしてしまった。
ちょっと意外だったのは、見舞いにも来てくれた後輩の子が店にも来てくれたことだった。
アトリエに顔を出した時にお店の場所といつからバーテンダーさんに戻るんですか、って聞いてきてたのはこういうことだったのか。
かっこいいかっこいいとはしゃぐ彼女の言葉に、少し恥ずかしさを覚えながらも、素直に嬉しかった。
百瀬くんが可愛い…と見惚れていたので、かっこいいとこ見せてやれよ、と揶揄ったら顔を赤くしてしまって。
元気を取り戻した安永様にさらに揶揄われてあたふたしてる姿に、みんなで笑ってしまった。
そうやって、オレはioriに戻った。
間違いなく、幸せだと言える日々に、オレはバーテンダーになって良かった、と思った。
2月27日。
その日は、朝から間も無く訪れるであろう春の温もりを予感させるような、暖かい日差しが差し込む日だった。
通常はまだオープンしているはずのない、14時という早い時間。
だけど、既にioriにはたくさんの人が詰め掛けていた。
カウンターの中には、オレと百瀬くん。
そして、奥にはパリッとした制服に身を包んだ先輩方…みんなこのカウンターで学んだ、オレの兄弟子たち。
全員が、一様に緊張がヒシヒシと伝わってくるような、固い表情をして立っていた。
席は既に満卓。
立ち見のようになって、カウンターを覗き込む方もいるくらいだ。
新しくこの店のオーナーとなった根津様。
安永様も、三井様ご夫妻も。
市川様や村上先生の顔も見える。
他にも、昔からこの店を支えてくれてきた、大切なお客様ばかりだ。
一席だけ、端の席にはリザーブカードが置かれている。ケンジさ…ケンジマネージャー曰く、特別なお客様が座るための席だと言っていた。
バックヤードの扉が開いて、換気扇の音が一瞬だけ大きくなって、直ぐに閉じられたのが分かる。
ケンジマネージャーが、今日の主賓を連れて来たんだ。
胸が一瞬でいっぱいになる。
まだ姿も見えないのに、シュッ、シュッ、という衣擦れの音が、いつもより控え目なBGMに混じるだけで涙が溢れてくる。
ダメだ、泣いちゃダメだ。
自分に言い聞かせる。
このカウンターに立つ以上。
オレはプロとして、お客様に安心を与える存在じゃなきゃいけないんだ。
泣くのは…今日が終わってからだ。
――帰って来たんだ。
マスターが、このカウンターに……この、ioriに。
オレが。
この二年という長い時間、この日をどれだけ待ち侘びたことか。
辛いこともあった。
苦しいこともあった。
色々なものを失い、たくさんの人に迷惑をかけてしまった。
だけど、この一日だけで。
その全部が報われた気がした。
コツ、コツ――
小さな…記憶にあるよりもずっと軽く聴こえる足音が響く。待ち切れなくてバックヤードに身体を向ける。誰かの洟を啜る音が聴こえる。その足音がカウンターの中に届いた時――
「お待たせしました。」
少しだけ、ハリをなくした、でも懐かしい声。
オレを救ってくれた、あの優しい声が。
オレの鼓膜を震わせる。
視界が滲む。
顔がボヤけていく。
小さく親指で目尻を拭う。
ちゃんと見るんだ、マスターの姿を。
これが……最期なんだから。
我慢しようとしても上擦る声を必死に絞り出す。
「お帰りなさい……マスター!」
懐かしい、マスターの制服姿……。
記憶にあるよりも小さく、肌には黄疸の痕が見られる。
それでも、マスターはマスターだ。
マスターが、ioriに帰ってきたんだ。
一拍遅れて、皆の震える声が届く。
「お帰りなさい!」
「待ってたよ、マスター!」
ふと見ると、根津様が涙を堪え切れずに、喋れなくなってしまったのか拍手をしている。後ろに立っていた秘書さんは、ハンカチで目を拭っていた。
「良かったなぁ、チーフ!」
村上先生が目を赤くさせ、椅子から身を乗り出してオレの肩を叩く。
「すごい…すごいぞ、フミトくん!
これは、もう奇跡だよ!
キミが起こした、奇跡だよ……!
余命宣告を遥かに超えて、ここまで……!
しかも、まさかもう一度こうしてカウンターに立つ日が来るだなんて!
すごいなぁ、すごいよ!」
そうだ。
あの日、村上先生からは、長くても余命一年と言われていたのに。
マスターは、二年以上も頑張ってくれたんだ。
もちろん、抗癌剤が上手く効いてくれたとか、医療関係者の方々が頑張ってくれたから、とか。
そういうことを含めても、マスターはこうして、このカウンターに戻ってきたんだ。
村上先生からの言葉が、オレのしてきたことを無駄じゃなかった、と言ってくれてるようで、また涙が溢れそうになる。
「村上先生……ありがとう、ございます。」
「ほらほら、その辺にして、せっかくのマスターのお帰りなんだ。
皆さん落ち着いてくださいよ。」
ケンジマネージャーがそう言って、喧騒を収めようと声を上げる。
それでも、目は赤く染まり、睫毛の先には拭い切れない涙の雫が残っていた。
「さっきまでピーピー泣いてたヤツに言われてもナァ、ケンジよ。」
そう言って、ウチの制服に身を包んだ横山マスターも出て来た。
ケンジマネージャーと一緒に、わざわざ車を出してマスターを迎えに行ってくれていた。
「その通りだな、ケンジ。
それにな。ありがたいことじゃないか、こんなに沢山のお客様に出迎えてもらえるなんて。
私は、幸せだよ。」
マスターがそう言って、柔らかく笑って。
お客様に向き直って、お礼の言葉を述べる。
「皆様。
この度は長きに渡り、お休みをいただき誠に申し訳ございませんでした。
にも関わらず、このように盛大にお出迎えいただき、ありがとうございます。
どうぞ今日は、心ゆくまでお楽しみくださいませ。」
病いを感じさせない、ハッキリとした声で告げ、頭を下げる。
巻き起こる拍手の渦。
ああ、これでこそマスターだ。
マスターが、本当にこのカウンターに帰って来たんだ。
「ほらほら、お前たち。
いつまでボーッとしてるんだ。
お客様がお待ちだ、オーダーを聞いてきなさい。」
「「「ハイっ!」」」
マスターはブランクを感じさせない動きで、お客様のオーダーを作り上げていく。
今日お越しになるお客様には、マスターに負担にならないようにと一杯だけ、としていた。
二杯目以降はオレたちが作る、そういう約束だった。
オレたちがマスターのペースを見ながら無理のないようにコントロールしてお客様のオーダーを聞き、マスターに伝える。
マスターは一人一人のお客様に声を掛けて、言葉を交わしながらお客様に合わせたカクテルを作っていく。
来席の誰もが、出されたグラスを手を持った時には、涙を堪えながら口をへの字に曲げて唇を付けていた。
三井ご夫妻の番になった。オーダーを聞こうとするオレを、マスターが片手で制して声を掛ける。
「三井様…遅くなりましたが、ご結婚おめでとうございます。」
「ありがとうございます、マスター…。」
ご主人はマスターに声を掛けられただけで涙目になっている。
奥様はそんなご主人の手を握りながら、ウン、ウンと頷いている。
「お二人には、私から贈り物とさせてください。」
そう言って、オレがオーダーを聞く前に材料を取り出していく。
オレンジジュース、パイナップル、レモン。そして、白ワイン、カシス…あれは…。
ワイングラスを出し、カクテルグラスは冷凍庫に入れ冷やしておく。
「まずは、ご主人にはこちら。キールでございます。」
ワイングラスに注がれた、キール・ロワイヤルの元となったカクテル。
そして、だとしたらもう一杯は…。
あっという間にカットしたオレンジ、レモンをスクイーズし、ブレンダーでパイナップルを砕き漉したそれをシェーカーに注ぐ。
軽やかな手付きで小気味良いシェイクの音を刻んで、カクテルグラスに注がれる、柔らかな黄色の液体。
「奥様には、こちら。シンデレラでございます。」
ありがとうございます、そう告げて二人がグラスを傾ける。
「「美味しい〜!」」
マスターはニコニコと笑いながら、幸せそうなお二人を眺めている。
でも、何故…。
「あれ、でもこれって……。」
奥様が疑問を口にした。そう、シンデレラは――
「はい。
ノンアルコールのカクテルです。
そのままのレシピでは酸味がキツイので、普段なら酸味を抑えるのですが。
今の奥様にはその酸味がちょうど良かろうとオリジナルでお出しさせていただきました。
アルコールはしばらくお預け、ですよ?」
「えっ…。えっ!?」
ご主人がマスターと奥様の顔を交互に見る。まさか……!
「えっ、ウソ、どうして!?
まだ私も昨日お医者さんに言われたばかりなのに!」
「おめでとうございます。
キールのカクテル言葉は、"あなたに出会えて良かった"。
ご夫婦の出会いと、そして、新しく生まれてくる生命との出会いに、と思いましてな。」
「えっ、えっ!
……ウソだろ、ホントに!?」
驚き慌てるご主人と、顔を赤らめて小さく頷く奥様。
徐々に、喜びが身体を支配したのだろう。
プルプルと少しの間震えた後、ご主人がその喜びを爆発させる。
「やった!やった!
――オレ、パパになるんだ!
ありがとう、ありがとう!!」
降り注ぐ祝福の声。
泣きながらキールを飲み、奥様のお腹に耳を当てて声を掛けている。
「聴こえる?
キミの、パパだよ!」
「こ〜ら、まだ聴こえないってば!
気が早すぎだよ!」
奥様も目を潤ませて喜びを全身で噛み締めている。
「マスター……なんで、」
「ハン、お前もまだまだだなぁ?
奥様がトイレに行かれる頻度くらいチェックしとかんか。
それに椅子に腰掛ける時、お腹に手をやっとったろうが。
馬鹿タレめ。」
つい聞いたオレに、マスターの馬鹿タレ、が響く。
懐かしい、ずっと、待っていた声。
嬉しくなって、顔がニヤけてしまう。
それだけで、涙が溢れそうになる。
そして、市川様と村上先生の番になる。
もう、ここからはマスターが自ら話させてくれ、と言っていた。
オーダーもマスターが直接伺う。
「市川先生、村上先生…馬鹿弟子が、大変お世話になりました。」
そう告げて、深く頭を下げる。
そんな、マスター。
オレのために。
「マスター…、いや、私は、医者として、当たり前のことを、」
市川様は、ボロボロと涙を溢しながら、声を震わせる。
「市川先生には、やはりこちらですな。」
そう言って、テキパキと準備を進める。
スーズ、そしてライム…。
このカクテルは、あの日の。
カクテルグラスを冷凍庫に入れて冷やして準備をしておく。
軽やかな手付きで小気味良いシェイクの音を刻んで、カクテルグラスに注がれる柔らかな金色の液体。
「スーズ・ギムレットです。
あんな馬鹿弟子でも、私にとっては……最後の、大切な弟子だ。
本当に、ありがとうございました。」
涙が、勝手に溢れていく。
必死に袖で拭って、マスターを見る。
ちゃんと、全部見るんだ。
そして、村上先生の元へ。
「お待たせして申し訳ない。
村上先生には、私も、馬鹿弟子も。
二人ともお世話になりました。
本当に、感謝してもしきれない……ありがとうございました。」
「いや…マスター、私こそこんな場に呼んでもらって…。
貴方が今日ここに立っているのは、あのチーフがこのお店を守ってくれていたから。
私は、この奇跡だけでもう胸がいっぱいだよ。」
「ふふふ、そうですな。
間違いなく、あの馬鹿弟子が頑張ってくれたから……。
その分、負担も掛けてしまった。
それでも、村上先生に対しての感謝は変わることなどございません。
先生には、こちらですな。」
そう言って用意したのは、ウオッカ、コアントロー、ライム…。
それを見て、丸氷をロックグラスに入れ、ステアして氷をリンスしておく。
丁寧に、祈りにも似たその美しい所作でその一杯をシェイクし、丸氷を入れたロックグラスに注ぐ。
そして、最後にライムピール。
「カミカゼ、でございます。
余り急いで飲み過ぎて奥様に怒られないように、ごゆっくりお召し上がりください。」
悪戯を見つかった時のように、ニヤリと笑う。
してやられた、という顔で笑い返す村上先生。
早い。
あっという間に、二杯のカクテルを作りあげていく。
オレなら、まだまだこの二杯のタイムラグがお待たせする時間になってしまっていたはずだ。
ほとんど時間差なく提供された二杯のカクテルを、お二人でチン、と鳴らして喉に流していく。
「これは…。
ハーブ由来の苦味がライムの酸味と、ここまで一体化するなんて…!」
「こっちのカミカゼもすごい…!
キリッとした味わいに、フワリと包み込むような甘さ、爽やかなライムがスッキリとして…!
これはうまいな……!」
カミカゼのカクテル言葉は、確か――
あなたを救う、
そしてもう一つ――
覚悟。
生命を背負い、時にその理不尽さに打ちのめされることもあるであろう村上先生に、これ以上ピッタリなカクテルはないだろう。
満足そうに声を上げ笑い合う二人の医師。
ニコニコと笑って、その二人を眺めるマスターの横顔。
もっと、見ていたい。
そして。
安永様の番になった。
「安永様……。
あの日も、そしてあの子の時も。
安永様には、大変にお世話になりました。
全てを、あの子との約束に縛られて、秘密にしていらしたと伺いましたよ…。
安永様にはご苦労をお掛けしましたなぁ…。
本当に、ご迷惑をお掛けしました。」
そう言って、深々と頭を下げる。
安永様は、声も出せずに涙で溢れる目を拭う。
「安永様には……やはり、安永様のお好きな、こちらのカクテルですな。」
そう言って、ザ・グレンリヴェットの18年を取り出す。
そして、ドランブイ。
丸氷をロックグラスに入れ、ステアしてマスターに渡す。
流れるようなグラスでのステア。
コト、とも音を立てることなく…混ざり合っていく、二つの琥珀。
そして――バースプーンはゆっくりと止まる。
「ラスティネイルです――。
安永様。
あの子のそばにいてくれたのが。
あの子と、苦しみを共にしてくれたのが。
貴方で――本当に、良かった。
ありがとう。」
差し出されたグラスを握り締め、安永様は嗚咽を漏らす。
その姿が、オレの身勝手な約束のせいで、どれ程安永様を苦しめていたかをまざまざと見せ付けられるようで、胸が痛い。
マスターの作ったラスティネイルが少しでもその苦痛を和らげてくれたなら…。そんな風に願ってしまう。
そんな安永様の手に、そっと自分の掌を重ねて…マスターは囁くような優しい声で告げる。
「安永様……。
ありがとうございました。
貴方が支えてくださったから、あの子は頑張れたんだ。
本当に、ありがとう。」
その言葉に、安永様は耐え切れなくなったのだろう……。
崩れ落ち、声を上げて泣いて……控え目なBGMを塗り潰すほどの、それは――慟哭。
その声に釣られる様に、あちこちから……オレの背後からも、啜り泣く声が聞こえる。
オレも、拳を震わせて、痛む喉を誤魔化すように何度も唾を飲み込む。
ダメだ。
どんなに泣きそうでも、カウンターの中で泣いちゃダメだ。
ちゃんと、最後まで見届けるんだ。
「マスッ、ター…!マス、ター!あり、がとう…!
オレ……今日の、ラスティネイルは、絶対に、忘れない、
忘れないから!!」
上擦る声を必死に紡いで、安永様はグラスを持ち上げて、その琥珀色の液体を飲み込む。
溢れる涙を、乗り越えるように。
「うまいよ…うまいよ、マスター……!」
その様子を見て、マスターは微笑む。
安永様の手を優しく叩いて、もう一度。
「ありがとう、安永さん。」
そして――、根津様の前に立つ。
「根津様……。
このioriの買い取り、そして経営。
ありがとうございます。
この店を、よろしくお願いします。」
そう言って、頭を下げる。そして。
「何より、あの子を助けてくれて。
守ってくれてありがとう。
本当に、ありがとう。
あの子が私のせいで苦しんで居たというのに、私には何も出来なかった…。
ありがとう。
フミトを、あの子を頼みます。」
そう言って、力強く根津様の手を握り、目を潤ませながら感謝の言葉を繰り返す。
ずるいよ、マスター……。
なんで、さっきから、オレのことばっかり。
そう思ったら、せっかく我慢してたのに…。
床に一つ、二つ。堪え切れずに水滴が落ちる。
「根津様。これは、私からのお礼です。」
そう言って、オレを片目で見て秘蔵のマッカランのシェリーオーク30年の封を開ける。
オレは袖で目を拭い、ロックグラスに丸氷を入れて、震える手を抑えながらリンスする。
その間にマスターが取り出すのは、ディ・サローノ・アマレット。
ダ・ヴィンチの弟子の一人に、愛を重ねた女性が贈ったと言われる杏の種子から作られたリキュールが、マスターの手に持つグラスの中で珠玉のウイスキーと混ざり合い、一つになる。
見惚れる程に美しいステアの末に生まれたカクテルの名前は。
「ゴッドファーザーです。」
その、グラスが今、マスターから根津様の前に…静かに置かれる。
「貴方には、このカクテルこそが相応しい――。
貴方は、本当に素晴らしいお方だ。
何の見返りも求めず、あの子を救ってくださった。
本当に"偉大"な方だ。
貴方になら、このioriと、あの子を――私の、子どもたちを。
安心して任せられる。
よろしく、頼みますよ?根津様。」
「はい……確かに、任されました、マスター……。
何があっても、私が。
必ずや、守ってみせます。
この店と、フミトくんの――貴方の、子どもたちの未来を。
必ず…!」
背筋を伸ばし、流れる涙をそのままに、根津様が応えて。
そのグラスの中の、偉大というカクテル言葉を持つ液体を口に含む。
それは、きっと。
父としての役割を、根津様にバトンタッチするかの様な――。
マスターが、オレを。
子どもたち、と。息子と、そう、思って、くれてた、なんて――。
マッカランのシェリーオークの重厚さ、そして30年という長い時間を経て初めて生まれるその重さに、或いは、託されたものの重さに。
根津様は打ち震える様に、呟く。
「マスター……。
私は、今、改めて思うよ。
この店を、買ったことは。
正しかった。
貴方の魂を受け継ぐバーテンダーたちが、こんなにいる。
私は、必ずや私の責務を果たそう。
安心してください。
ありがとうございました、マスター。」
何度も、何度も嬉しそうに微笑みながら頷くマスター。
根津様は涙を拭い、マスターに笑って告げる。
「うまいよ、マスター。」
それは、バーテンダーへの最高の賛辞。
根津様の一杯が終わり、そして――そこには、いまだに掲げられたリザーブカード。
この席に座る方は、いつ来られるんだろうか。
相当な遠方から――
「フミト。」
「は、はい!」
急に声を掛けられ、驚いて返事が澱んでしまう。
「そこに、座れ。」
「えっ……。」
「その席は。最初っから、お前の席だよ。フミト。」
なんで。なんで…。
「フミト。座ってくれ。
最期の一杯は……お前に飲んで欲しいんだ。」
最期の、一杯――その言葉が耳に届いて。
分かりたくないのに、分かってしまう。
視界が滲み出す。
マスターがオレに微笑む、その顔がぼやけていく。
「最期、だなんて。マス、ター、ダメだよ。
やだよ、飲めないよ、そんな、」
「頼む、フミト。
――お前に、飲んで欲しいんだ。」
「マスタ、ぁ…。」
涙がこぼれ落ちる。
カウンターの中なのに。
涙を見せちゃダメだ、そう思って、顔を両手で覆う。
涙が止まってくれない。
いやだ。
これが最期だなんて。
いやだ。
もっと、マスターに、色々教えて欲しかったのに。
いやだ。
いやだ。
いやだ…。
「チーフ。
頼む。座ってやってくれ。」
ケンジマネージャーが、目を真っ赤にしたまま。
涙を流して、オレの腕を取り、カウンターの外へ連れ出す。
嫌だ、オレがここに座ったら、マスターは、ここを去ってしまう。
「座るんだ、チーフ!」
俺の肩に手を掛ける横山マスターの声が震えている。
「今日マスターは何のためにここに立ったと思っている!
全部、全部!お前の、ためにッ!」
それ以上は、下を向いて言葉が続かない。
ぼやけるマスターの顔を、涙を拭ってしっかり見ようとする。
マスターの顔が、少しだけ困ったみたいに、寂しそうに、小さく歪む。
「フミト…。ごめんな。
オレは、もう一緒にはいてやれないんだよ。
でもな。」
マスターが、オレが一番大好きな、優しい目で――
「この店をお前が守ってくれたから――。
お前には、苦労ばかり掛けてしまったな。
だから、そんなお前に、こうしてオレの酒を飲んでもらえることが嬉しいんだよ。」
ダメだよ、マスター……。
マスターの顔が滲んで、見えなくなるよ。
マスターが、さぁ、座ってくれ、ともう一度促して…ノロノロとその席に座る。
マスターが手を伸ばそうとしたリザーブカードを横山マスターが奪うように取る。
「おい…。
最後は、オレが横に付く。良いよな。」
「横山さん…。そうだね、お願いできるかな。」
そう言って、マスターはシェーカーのボディを裏返し、氷を組む。
横山マスターは、何を出すのか分かっていたのだろう。
迷うことなく、カクテルグラスを冷凍庫に入れゴードンのドライ・ジンをそっと置く。
ライムを丁寧に洗い、カットして。
粉糖を添える。
ゴードン・ドライ・ジン45ml、メジャーカップを持つ手が微かに震えているように見える。
そっとメジャーカップを傾けシェーカーに注ぐ。
氷が常温のジンに触れ、小さくピキ、と音を響かせる。
ライムをスクイーザーで丁寧に、丁寧に搾る。
一粒一粒の果肉と会話するような、優しい表情で。
それを15ml。
最後に、粉糖を1/2tsp。バースプーンで測り取ったそれを、シェーカーの氷の上から振り掛ける。
ダウンライトに照らされた粉糖が、まるで滑るように煌めきながらシェーカーに落ちていく。
ストレーナーを被せ、キャップを付けて。
空気を抜くように、作業台に二度打ち付け、左肩の前で構える。
「お前ら、見ておけよ!これが……バーテンダーだ!しっかりその目に焼き付けろ!」
横山マスターの、震え上擦る声が響く。
あちこちから嗚咽が聞こえる、涙を拭い全スタッフが見届ける中。
それは始まる。
カシャ…
カシャ、カシャ
カシャカシャカシャカシャカシャカシャ
カシャ、カシャ、
カシャ……ン。
全ての音が消えた空間の中、寂しげな残響を残して――
その最期のシェイクが終わる。
横山マスターが取り出したカクテルグラスを受け取り、シェーカーのキャップを外して傾けて…淡くジンクホワイトに染まる液体が、カクテルグラスに流れ落ちる。
最後の一滴がカクテルグラスに落ち、シェーカーを持ち上げた時。動いた氷が名残惜しそうに声を上げ、その一杯は――
完成する。
「ギムレットだ。飲んでくれ。」
コースターの上に置かれたギムレットは、今までにオレが振ったどんなギムレットよりも――
神聖で。
美して。
儚くて。
でも、飲まなきゃダメなんだ。
このカクテルは、五分間の命…。
その間に飲まなければ、この最期のギムレットが何の意味もなくしてしまうから。
震える指先でグラスの脚を摘む。
持ち上げた動きで液面に浮いた氷のフレークがダウンライトの柔らかな光を反射してプリズムを生む。
グラスが唇に触れ、ジンの香りがライムの爽やかな香りと混じり合い、鼻腔を満たす。
冷たい液体が口腔内に流れ込み、僅かな氷のフレークが溶け出すのを感じる。
ゴードン・ドライ・ジンのどっしりとした味わいを、粉糖の甘さが優しく包み込んで、ライムの鋭い酸味がスッキリとまとめ上げる。
喉を通る時、涙を一緒に洗い流すように――スゥっと消えていく。
これが、ギムレット。
これが、オレが一番最初に出会い、憧れた…魂を癒す酒の原点。
「誕生日、おめでとう。フミト。」
ひと口目を終え、グラスを置いた瞬間。
マスターの、優しい声が耳に届く。
滲む視界のまま顔を上げれば、マスターがオレを見ている。
そうか、今日は。
オレの、誕生日……。
だから、マスターは。全部、全部オレの、ために…。
涙が、溢れて、カウンターに一つ。
もう……いいよね?
カウンターの中じゃ、ないから。
漏れる嗚咽が抑えられない。
いけない、グラスに涙を落としてしまったら、このギムレットが終わってしまう。
慌てて、グラスから顔を離す。
笑顔を浮かべるマスターが、フラリとよろめく。
「マスター!」
ケンジマネージャーが駆け寄り、横山マスターが身体を支える。
「大丈夫だ…。
もう少しだけ、もう、少しだから。」
震える手をカウンターについて、マスターが問い掛ける。
「どうだ…うまいか、フミト。」
声が出ない、でもちゃんと返事をしなきゃ。
何度も何度も頷いて。
声を絞り出す。
「うん……うん、
うまい。うまいよ、マスター……。」
「そうか。良かった。
なあ、フミトよ。」
マスターの顔を見る。
「今度は、お前が。
救われるんだよ――。」
もう、言葉にならない。
泣きじゃくりながら、首を縦に振る。
「あり、がとう、
マスター、
ありがとう、
ありがとう……!」
支えられながら、マスターがバックヤードに下がろうとする。
支える横山マスターも、ケンジマネージャーも嗚咽を漏らしていて。
百瀬くんも、その後ろにいる兄弟子たちもが、しゃくり上げ、涙で顔をぐしゃぐしゃにしている。
「こらこら、バーテンダーがカウンターの中で泣くんじゃない。
泣くんなら…カウンターの外で、だ。」
苦しそうに歪めていた顔に、一瞬だけ優しい笑顔を浮かべて…その目尻に、少しだけ光るものを浮かべながら、ふとマスターが振り返る。
少しだけ陽の落ちた灯り取りの細い窓から伸びる残照を見つめる。
「ああ…今日も、良い日になったなぁ……。」
3月4日
Bar iori
マスターバーテンダー
山根祐一郎 逝去
享年81歳




