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第十七話 止まり木

入院して、一週間が経った。


毎日の様に色々な人が病室に来てくれて、安永様なんかは一日も欠かさずお越しくださった。

その熱心さに、ただただ恐縮するばかりだった。


根津様も、お忙しいのにも関わらず二日と明けずにお越しくださって。

ioriの買取りの件と言い、運営にまで安永様とお二人で携わってサポートしてくださるという。

良かった、これでもう、ioriは守られたんだ、と思うと、少しだけ肩の力が抜けた気がした。


百瀬くんは横山マスターと一緒に来てくれた。

横山マスターはめちゃくちゃに怒って、オレが無理しない様にとioriの技術顧問として就任してくださることになったらしい。

オレが休んでいる間に、従業員まで貸してくれて…ご負担ばかりおかけして、本当に申し訳ない。


それでも、マスターの大切なお店が、たくさんの人に支えられてるんだなってことが嬉しかった。


百瀬くんは、ケンジさんと横山さんとの間で話して、正式にioriの従業員になることが決まったという。

これで、ioriも安心だな。


三井様もご夫妻でいらしてくださった。

旦那さんは随分と落ち込んでいて、オレも何か力になりたかった、と嘆いていた。

そんな、こうしてお見舞いにいらしてくださるだけでも心強いというのに…そう伝えたら、泣いてしまって、奥様にしっかりしなさい、なんて怒られてた。

しっかり尻に敷かれてるんだな、と思うとなんだか微笑ましくなった。

いつかオレにも、力になれることがあったら…必ず力にならせてくれ、そんな約束を残して三井様はお帰りになった。


市川様も、岸本様をお連れになって良く様子を覗きに来てくれた。

病室に空きがないからと、わざわざVIPルームを空けさせたと聞いた時は、支払いにゾッとしたが、「緊急対応でここしかなかったんだから大部屋と同じ扱いになる様に処理させてあるよ、小児科長ならそのくらいのワガママは通るものだ」と笑っていた。

岸本様が苦笑いしていたから、嘘だと思う。

市川様にそんな嘘を吐かせてしまったという事実が、胸を締め付ける。


村上先生も毎日顔を出してくださって、時には見舞いにいらしてくれた方とおしゃべりしたりして。

ずっと厳しい先生だとばかり思っていたけど、意外とお茶目なところもあるんだな、と思うと何だかおかしかった。


本当はお酒が好きで、オレのあの恥ずかしい異名(ギムレットの王だけじゃなくてバーテンダー潰しまで知ってた)を聞いて、気にはなっていたらしい。

奥様から怒られるのが怖くて中々行けなかったけど、患者の様子伺いと言って堂々と行けると言っていたのには思わず笑ってしまった。


驚いたことに、佐川教授も来てくれた。

四戸さん、トシ先輩にも声を掛けてくれたみたいで、三人で…やっぱり、めちゃくちゃ怒られてしまった。


四戸さんとトシ先輩は、オレの大好きなデルピエロのプレーDVDを買って来てくれた。

欲しかったのに諦めてたヤツだったから、めちゃくちゃに嬉しかった。

四戸さんが、「あとコレも、ナースものだぞ」って肌色が全面に出ていたDVDを出そうとしてトシ先輩に怒られてるのを見て爆笑してしまって。

咳が止まらなくなったのを見てまたトシ先輩に怒られていたのは、まぁなんと言うか四戸さんらしい。


教授は、後輩達…まあ、学校に残れたとしたら同級生になる訳だけど、みんなも心配してるぞ、と言っていた。

余り口もきいたことがないのに…と思っていると、「お前、デッサンの時、後輩達に指導してただろう」と言う。

そう言えばそんなこともしていたな。

そのせいでスランプを抜け出して伸びたと言う子達も多かったらしい。

「早く授業に戻って、また指導してやってくれ」と笑っていた。


入院して、不思議なことに…毎日たくさんの人がお見舞いに来てくれた。

賑やかな病室は、これまでに感じたことのない温かいもので満たされている様な気がしていた。

 


その日は、ケンジさんが来てくれて。

これからのioriのことを色々教えてくれた。


根津様がオーナーという形にすることで、柔軟な対応ができる様にはするが基本的には口を出さないこと。

横山マスターが技術顧問として入ってくれることや、百瀬くんが正式にioriに移籍することなどは既に聞いていた通りだった。


よく分からないけれど、個人経営ではなく、会社組織にすると言っていた。

根津様の後ろ盾があることや、横山マスターのバックアップが入ることで、ioriは大きくなって行くはずだから、とのことだ。

ちょっとだけ、新しいioriに、オレの居場所はあるのかな、って不安になって、そんな不安が顔に出ていたらしい。


「早くお前も戻って来い。ioriのチーフは、これまでもこれからもお前だけなんだからな。」


ケンジさんにそんな風に言われた時には、思わず泣いてしまって、ケンジさんを焦らせてしまった。



この頃には、村上先生が言っていた言葉の意味を考える様になっていた。

どれだけの人に、愛されて、必要とされているか……見舞いに来てくれる人たちは皆、早く元気になれよ、無理はすんなよ、なんて声を掛けてくれて。

帰る前には、皆で揃って、早く戻ってこいよ、って言ってくれて……。


店を守る、そのことだけに必死になって、周りが見えなくなっていたような気がする。


皆が心配そうな顔で病室のドアを開けるのを思い出すと、胸が締め付けられるような苦しさを覚える。

倒れるところを見せたせいで、たくさんの人に迷惑をかけてしまったな…。


色んな人が、色んな形でオレを助けようと動いてくれたことを聞く度に、申し訳なさと一緒に、胸の奥底から温かいものが広がって、言葉が詰まりそうになる。

オレなんかのために、こんなにたくさんの人が、必死になって動いてくれて…。


オレに、ここまでしてもらう価値はあるのだろうか。


体調はかなり回復して来たが、村上先生からは退院の許可は降りないままだった。

体力が回復するに従って、時間を持て余す事も増えた。

デルピエロのプレー集は何度も観て、あんな風に走れたらな、と羨ましくなったりもした。


すっかり休んでしまった。

腕もかなり鈍ってしまっただろう。

また練習を増やさないといけないな。


いつもは、店が終わってから五時間くらいの練習にしていたが、二時間くらい増やそうか。

それとも、百瀬くんが来た時に、道具を持って来てもらうようにお願いして、病室で練習しようか。


そんな風に考えていた時だった。


病室のドアがノックされ、返事をする前に開けられる。

横山マスターだ。

百瀬くんも来てくれた。


ちょうど良い、さっき考えていたことを頼んでみようか。


「横山マスター、百瀬くん!

忙しいのにわざわざ申し訳ない、ありがとうございます。」


「おお、大分顔色も良くなって来たな!」


「良かった、元気そうで!」


ホッとしたような顔で綻んだ笑顔が、二人から溢れる。


「そうですね、かなり体調も戻って来ました。

やる事もなくて暇なんですよ。


時間もあることだし、腕も鈍ってるだろうからここで退院までリハビリがてら練習出来ないかなって考えてたところです。」


そう言うと、二人の動きが止まる。

なんだろう、おかしなことを言っただろうか?


「お前…正気か?」


「え?

いや、当たり前じゃないですか。


早くカウンターに戻って、皆さんに元気なところをお見せしないと、心配かけたままでは申し訳なくて。」


「……。


お前…。

何も分かってないな。」


横山マスターが、怒りと……どこか悲しさを感じる声で、呆れたように吐き出す。


なんで…一日も早く、カウンターに復帰したいと思うことのどこが、


「ふざ……けんなよ……。」


小さな、ただハッキリとした怒りを含んだ声が響く。


百瀬くんが顔を真っ赤にして、オレを睨みつけていた。


「ふざけんなよ!

みんながどんだけ心配したと思ってるんだよ!

あんな、ボロボロになってまで……!

なんで、なんでそこまでして、カウンターに拘るんだよ!


死ぬとこだったんだぞ!」


「百瀬、くん……。」


百瀬くんの目から、堰を切ったように涙が溢れる。

その熱が、オレの胸の奥深くまで伝わってくるような迫力があった。


「お前、分かってんのかよ!なぁ!


チーフの酒が飲みたい、なんて言う人居ないんだよ!

チーフに会いたい、そう言う人ばっかりなんだぞ!


みんな……チーフに会いたいんだ!

生きて、またあそこで笑ってるチーフに会いたい、って、待ってるんだよ!」


溢れた涙を拭う事もせず、百瀬くんが感情のままに、オレにぶつけてくる。


オレに、会いたいと、言ってくれる人がいる、なんて考えた事はなかった。


「お客様から、お見舞いに行きたい、行きたいって!

チーフがあの店で!

どれだけの人に、必要とされてるか分かってんのかよ!

チーフがぶっ倒れて、誰か一言でも文句言ったかよ!

みんな、待ってるのに!


何で自分のことを一番に考えてくれないんだよ!」


「百瀬、そこまでだ。


気持ちは分かるが……後はオレが話す。

お前は、少し車で休んでろ。」


横山マスターが車の鍵を取り出して、百瀬くんを促す。

居た堪れない空気が病室を満たしていく。


オレは……何を間違えたんだろう……。

 

「待たせたな。」


横山マスターはすぐに戻って来た。

百瀬くんは大丈夫だったろうか。


「お前という奴は…。

客のことは良く見えているのに、本当に自分のことはなんにも見えてないんだな…。」


自分のこと…。


少なくとも、良くわかっていたつもりだった。

マスターにはいつも言われてた。


バーテンダーとしての技術はそこそこ。

だから、練習量でカバーするしかない、精々が並のバーテンダー。


そんなオレがお客様の魂を癒すためには、人の何倍も練習して、人の何倍もお客様のことを見なきゃいけない。


だけど。

横山マスターが言っているのは、そういうことじゃない気がした。


「まったく…あの弟弟子は……。

一番大切なことを教えてなかったんだな。」


マスターが、教えてくれなかったもの。

もしかしたら、これから教えてくれる予定だったもの。

オレには、足りないもの…。


分からなかった。何も思い付く事ができない。

答えを、横山マスターは持っているのだろうか。


「一番、大切なこと、って、何ですか。」


「お前…自分のことを嫌いだろ。」


何も誤魔化そうとしない、真っ直ぐな言葉が胸を突き刺す。


「いや、お前の場合は、ただ嫌いというより…自分を憎んでる、と言っても良いよな。

お前が、その若さで何があって、何を背負ってるのかなんざオレには分からんさ。


だがな。」


横山マスターの目が、オレを射抜くように鋭さを増す。


「お前が傷付くことを、放って置けない連中がたくさんいるってことを…お前は見ようとしていない。


それは、自分にはそんな資格がない、そんな思いを受け取る資格はないと思っている。


違うか。」


「それは……。」


図星だった。

由美子を殺したオレに、誰かに心配してもらったり…必要とされたり、だとか。


してもらって良いはずがない。しちゃいけない。


「お前さ。

今、幸せか?」


「幸せ…?」


自分の幸せなんて、考えた事もなかった。

考えちゃいけないと思ってた。


オレは、もっと苦しまなきゃいけないんだって。


「ハァ……。


あんの、馬鹿は…。

なぁ、フミト。」


「は…はい。」


「お前が、お前のことを大切にしないってことはな。


周りがどれだけお前を大切だと思っていても、その人たちの事を裏切ることになるんだよ。


その人たちの心をな。

お客様を裏切る奴は、バーテンダーじゃねぇんだ。


いいか、バーテンダーってのはな。

バーに優しさ…英語でテンダー、だな。


そいつがあって初めてバーテンダーと呼べるんだ。


バーテンダーにとって大切な優しさってのはな。一番最初に自分に向けなきゃいけねぇんだ。


追い込むように自分に厳しくする事が必要な事もある。

とにかく前だけを見て、進む無謀さが必要な事もある。


だがな。」


横山マスターの目が優しい光を灯す。


「それはな。

全部、自分の幸せのために必要なもんなんだ。

幸せに向かう、道の途中だからそれはあっても良いもんなんだよ。


お客様の魂を癒し、笑顔を取り戻して、明日を生きる活力にしてもらうためにはな。

ちゃんと自分が、幸せに向かって歩いてなきゃ、ダメなんだよ。」


オレが……幸せに、向かって……歩かなきゃ、いけない。


良いんだろうか、そんなこと。

由美子を殺した、オレが。


「お前に今必要なのはな。

復帰に向けたリハビリ練習じゃねぇよ。


自分と向き合って、自分のことを考えて。

自分のために、自分の幸せについて考える時間だ。


技術顧問としての命令だ。

オレが良いと言うまで、一切の練習も勉強も禁止だ。


分かったな。」


「……ハイ…。」


頭の中は、自問自答が渦巻いていて正直考える余裕すらもなかった。

オレが、自分の幸せについてなんて……本当に考えて良いんだろうか。


「それとな。

お前に何があったのかは知らねぇがな。


そのせいにはすんなよ。

それはな、逃げって言うんだぜ。


精々しっかりと悩めよ、お前はまだ若いんだ。


また来る。

それまで、可愛いナースさんのケツでも眺めながらよ〜く考えとけ。」


言いたいことだけ言って、横山マスターは病室を去っていった。


オレの、幸せ。

その言葉だけを残して。


「幸せ」――その言葉は、由美子の葬儀の日から、オレの辞書から消え失せていた音だった。

苦しみと贖罪の中にしか、由美子への償いはないと思っていた。


――本当に、オレは、生きて、幸せになって、良いのだろうか。


その問いは、何度考えても答えは出なかった。



次の日になっても、答えの出ないままオレは自問自答を繰り返していた。

皮肉なことに、時間だけはたっぷりとあった。


コンコン、と控えめなノックの音が響く。

「はい。」


ドアを開けて顔を覗かせたのは…確か。倒れる前に、大学のアトリエで絵を描いていた時、オレを見て顔を背けていた子だ。

余り口を聞いたこともある訳ではないのに、何故わざわざ……?


「フミト先輩、本当に入院してたんですね。

教授から聞いて、いてもたっても居られなくて、来ちゃいました!」


「あ、ああ、ありがとう。


自分の制作があるだろうに、わざわざオレなんかのために来てくれてごめんね。」


「先輩、オレなんかのために、ってやめてくださいよ〜!

私、フミト先輩のアドバイスでめちゃくちゃ助かってたんですからね?

ホント、先輩って絵についてはめちゃくちゃ凄いのに、そういうとこは自虐的ですよね!」


その言葉は……あの、いつの日にか車の中で由美子に言われた言葉にそっくりで。


「私は今日は、ちゃんとその時のお礼と……その、また学校、来てくれるんですよね、って事が聞きたくて。」


「ああ、勿論、だよ。」


嘘だ。


退院したら留年の通知を受け取る前に退学するつもりでいる。


アトリエも片付けなきゃな。

絵も、もう終わりだな。


「そう言えば、こないだ教授のところに根津さん来てましたよ!

先輩って根津さんともお知り合いなんですか?」


「え、根津様が?」


「根津様って、なんか大人な言い方ですね!

あ、私のバイト先のホテルが根津さんがオーナーなんです!

先輩のアトリエのとこで教授と何か話してたから、お知り合いなのかなって。」


「あ、ああ。

オレがバイトしてるバーの大切なお客様なんだ。」


頭の中は疑問でいっぱいだった。


根津様くらいの実業家であれば、大学に影響力が多少なりともあっておかしくはないと思う。

でも、何故教授と、オレのアトリエで、何の話を…。


「え〜!先輩、バーテンだったんですか!カッコいい〜!」


「いや、かっこいいなんて仕事ではないよ、地味な仕事ばっかりだし。


あと、オレには別にいいけど、他のバーテンダーさんにはバーテン、なんて言っちゃダメだよ。

嫌がる方もいらっしゃるから。」


「そうなんですか?

バーテンダーとバーテン、って何か違うんですか?」


「実際には俗説らしいんだけどね。バーテン、っていうのが蔑称みたいに感じる人もいるみたい。


それにね。


バーテンダー、という言葉の意味を、みんな大切にしてるんだ。」


「言葉の…意味ですか?」


「そう。


バーはね。疲れた人が休むための止まり木、っていう意味なんだ。

そこに、腰掛けて休む人への優しさ、テンダーを持つ人のことを。


バーテンダーって言うんだ…よ。」


腰掛けて休む人への優しさ。

「……そうか…。

そういうこと、だったんだ……。」


「ヘェ〜、やっぱりカッコいい!

…あれ、先輩、どうかしたんですか?」


「いや、うん、ありがとう。来てくれて。


話してて、色々なんかさ。

気付けた事があったからさ。」


「変なの!


あ、そうだ先輩、聞いてくださいよ!

この間ななちゃん……分かります?

私のスペースの隣りの――」


その子は、大学での話を面白おかしく教えてくれて、またアトリエで待ってますね、と言い残して帰って行った。

もっと大学にいたいな、と思ってしまった。


まぁ、絵はどこでも描ける…そういえば根津様が教授になんの用だったんだろう。

今度お越しの際に聞いてみよう。



それよりも。


彼女と話していて、横山マスターが言っていた事に、今さら気付いたんだ。


バーテンダーという言葉。


バーは、疲れた人が休むための『止まり木(Bar)』。

テンダーは、そこに腰掛ける人への『優しさ(Tender)』。


その二つが合わさって、バーテンダー……。


止まり木は飛び疲れた鳥が休んで、また飛び立つためにあるものだ。

オレは……自分のための止まり木を失くしていたんだ。


バーカウンターに立つなら、オレ自身も止まり木で休む必要があったんだ。

バーテンダーを名乗るなら、自分も含めて、その止まり木に休む人に優しさを向けなきゃいけなかった。


オレは、その優しさを、自分自身に向けることを忘れていたんだ。


マスターが教えてくれてなかったんじゃない。

最初から、マスターはオレを止まり木に休ませてくれようとしていた。

ioriが、オレにとっても止まり木になるようにしてくれていたのに、それに気付かないでいたのはオレ自身だった。


結果、せっかくioriにお越しいただいた皆様に心配掛けてちゃ、そりゃバーテンダー失格だって言われても仕方ないよな。

と、またこんな風に考えたら自虐的って言われてしまうな。


そんな自分がおかしくて、一人で笑ってしまった。



由美子が、最初に教えてくれた言葉を思い出していた。


―ごめんなさい、じゃなくてありがとう、だよ―


いつの間にか、形だけでありがとう、と言っていたように感じた。


胸のネックレスに通した指輪を握り締めて、由美子の笑顔を思い出す。


ありがとう、由美子。

最初っから、キミが教えてくれていた事だったね。


よし、今日はまだ早いけど、少し眠ろう。

こんなスッキリした気分で眠れるのはいつ以来だろうか。




翌日、根津様がお見えになった際に、教授のことを聞いてみた。

そしたら、根津様の口からは、とんでもない言葉が出て来たんだ。


「ああ、そのことか。

退院して落ち着いてから話そうと思っていたんだが…まあ、聞いたのならちょうど良い、話しておこう。


キミの留年についての話をしてきたのさ。

留年して、もう一度大学に通いなさい。

学費についても、私が払っておいたから心配は要らない。」


「え…えっ!?」


息が止まる。


なんでもないことのようにさらりと言われてしまったが…とんでもないことだぞ!?

確か、ウチの大学の学費は200万近くはしたはずだ。

それを、そんな簡単に……。


驚きと共に、それでも湧き上がるのは、またあの場所で絵筆を握れるという喜び。

絵を描けるんだ、という喜びが、身体の奥底から溢れ出て来て、どうしても嬉しさが優ってしまう。


「それと、キミの父親からの干渉も懸念してね。

学校にはその配慮もお願いしてあるが、合わせて転居をオススメするよ。

転居先についても見繕ってあるし、そこは私の持っている物件だから家賃についても心配は要らない。


退院したら、時間を作ってくれるか?」


なんて…大きいんだ……。

根津様の心遣いが、ただただ嬉しかった。


オレにとって、金は憎しみの対象でしかなかった。

由美子を奪い、オレを縛り付けていた呪縛のような……。

そいつらは、皆自分の欲望のために金を使っていた。


何らかの見返りを求めて。


根津様の、オレにしてくれた支援は。

そんな憎しみの対象とは対極にあった。


なんの見返りも求めていない、純粋にオレを助けるためだけに、惜しみなく。


そう思えたら、涙が溢れて。止められなくなっていた。


「あり……がとう、ございます……ありがとうございます!」


根津様の手を握り、泣き崩れたオレを、根津様はどこまでも優しい笑顔のまま抱き留めてくれて。


ああ、オレは。こんなにも、幸せだったんだ。


根津様は、ただ優しく抱き留めてくださった後。

泣き止んだオレに、オレがioriに戻ったら、秘書を連れて行って良いか、と聞いて来た。

何でも、店の近くの喫茶店で一度だけ開催した個展にも来てくれていて、オレの絵のファンだと言う。

もちろん喜んでお待ちしております、と伝えたら嬉しそうに彼も喜ぶぞ、ありがとうと言って帰って行った。


せっかくなら、根津様はもちろんだけどその秘書さんにも喜んで欲しいな。

小さな作品だけど、絵を描いてプレゼントしようか。

オレの個展を観てくれていたなら、喜んでくれるかな。


そんな風に考えながら、一人でニマニマしているとまた病室のドアがノックされる。


「はい、どうぞ。」


そう返事をしたのに、ドアは中々開かない。

どうしたんだろう?とスリッパを履いてベッドから立ち上がろうとした時。


ドアがゆっくりと開いて、百瀬くんが顔を出す。


「あの……、失礼します……。」


元気がない。この間のことを気にしているのだろう。

無理もない。


「百瀬くん……。

良かった、来てくれて。

オレも、キミと話したかったんだ。」


そう言葉を掛けても、百瀬くんは病室に足を踏み入れようとはしない。

沈んだ顔のまま、ドアの前で立ち尽くしている。


病室のドアが、静かにスライドレールを回して閉まろうとしていた。

慌てて駆け寄り、ドアを押さえて百瀬くんの背中に手を乗せて中へ促す。


「まずは座ろう。ささ、中に入って。」


俯き、言葉を探すように口をもごもごと動かしながら、百瀬くんは足を引き摺るようにして椅子に腰を掛ける。

オレは向き合うようにベッドに腰を掛けて、百瀬くんの顔を見ながら言葉を掛ける。


「百瀬くん。」


あの時、彼はどんな思いで、オレに怒ってくれたのだろう。

そう思うと、申し訳なさと一緒に、彼が本気でオレのことを思ってくれていることを感じて嬉しさを覚える。


「この間はすまなかった。

百瀬くんが怒ってくれて、横山マスターとも話をして。

お陰で、色々考えることができたよ。


ありがとう。」


バッと顔を上げ、オレを見つめる百瀬くん。

その瞳は、今にも泣き出しそうに潤んでいた。


「ごめんな、本当に。

オレが自分のことも省みずに無理をしたせいで百瀬くんに負担ばかり掛けていたというのに、また無理をしようとしていた。

あんなんじゃ、怒られて当たり前だね。

チーフ失格だ。」


「オレ……オレっ!

チーフが、また無理して、ぶっ倒れたらどうしようって…!

つい、カッとして、あんなこと言って……ッ!

オレ、チーフに、嫌われたんじゃ、ないかって……!」


「バカだな。

オレのことを思ってくれたからこそ、本気で怒ってくれたんだろ?

そんな百瀬くんのことを、嫌いになんてなれるはずがないじゃないか。


ありがとう、百瀬くん。


不甲斐ないチーフだけど、これからもよろしくな。」


嗚咽を漏らしてしゃくり上げる百瀬くんの背中を抱いて、感謝の気持ちを込めて応える。


「良い顔になったじゃねえか。」


そんな声に顔を上げれば、いつの間にか横山マスターがドアを開けて、優しい笑顔を浮かべてオレたちを見つめていた。


「少しは考えられたようだな。ん?」


「横山マスター……。

はい。しっかりと考えることができました。


オレは……幸せ者です。

こんなにもたくさんの人たちに支えられて。」


「どうだ、分かっただろう。

苦しみの中に自分の生きる場所を探すな、馬鹿野郎。


バーテンダーなら、ちゃんと自分の幸せを噛み締めて生きろってんだ。」


「はい……。肝に銘じます。」


「それとな。これはジジイの戯言だがな。


恩送り、って知ってるか?」


「恩送り、ですか?」


気付いたらいつの間にか泣き止んでいた百瀬くんも、まだ少しだけしゃくり上げながら、しっかりと涙を拭って横山マスターの言葉を聞いている。


「ああ。

良いかお前ら。


どんなに恩を返そうとしたってな。

受けた施しによって救われた恩はな、返せることはねぇんだよ。


だからな。その恩を。

次の、誰かに受け渡すんだ。


そうやって、恩は巡り巡って、広がっていく。


それが、恩送り、っつうんだ。」


恩送り。それは、恩による永遠の円環。


嗚呼……なんて、素晴らしい永遠なんだろう。


「お前らは、恩を受けっぱなしにするなよ。


ちゃんと、次の人間に、そのバトンを渡せる人間になれ。


いいな、分かったか!」


「「……ハイ!」」


二人で、力強く返事をする。

そうだ。この恩を、必ず次に受け渡していこう。


「おい、チーフ。


合格だ。」


突然、横山マスターが合格を告げる。

何のことか…もう、聞かなくても分かっていた。


「村上先生にはオレから話しておいてやるよ。

退院の準備をしておけ。


一週間くれてやる。

そしたら、ioriに戻って来い。


待ってるぞ、チーフ。」


「分かりました。

ありがとうございます。」


「何だお前、ニヤニヤしやがって。」


「いえ……今は早くカウンターに立ちたいな、って。


皆さんに、ioriでお礼を言えることが、心から嬉しいんです。」

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