第十六話 顔のないピエタ
チーフの人生を守る、そう安永くんと約束した後。
秘書からの折り返しがあり、チーフが住んでいたアパートは私の所有する物件のひとつだったことが判明した。
通りで聞き覚えがある気がしたと思ったはずだ…。
家賃の支払いを私に切り替えようと秘書に指示をすると、詳しい事情を教えてくれ、と秘書が聞いてくる。
社会貢献活動の一環としての寄付は多々してきたとはいえ、一個人に対しての肩入れとしてはこれまでにないことだったから疑問に思ったのかも知れない。
彼は信頼のできる優秀な秘書だ、詳しい話を知れば今後も折を見て協力してくれることもあるだろう。
私は、彼にチーフのことを話した。
そんなことが、有り得るのか、と彼も強い衝撃を受けていた。
私もそうだった、無理もあるまい。
しばらく黙り込んでいた秘書は、少し落ち着きを取り戻したのだろうご事情かしこまりました、と一言告げた後、こう続ける。
『会長…差し出がましいようですが、家賃の支払いだけでは厳しい可能性があります。』
「どういうことだ?」
『今のアパートのままでは、父親の干渉を防げません。
秘密裡に転居させ、父親からの干渉を防げる態勢を作らなければ、また再び同じように苦しむことになるのでは。』
言われてみればその通りだ。
私もつい熱くなっていたようだ…。
少し考えればわかることだろうに。
彼のおかげで、少し冷静な思考を取り戻せたように感じる。
「確かにその通りだ。
今住んでいる部屋と同じような条件で、新しい部屋の手配を頼めるか?
まだ多少の時間的猶予はあるはずだ、至急とまでは言わないが、なるべく早くお願いしたい。
あぁ、余り家賃的にも変わりのない部屋にしてくれ。
彼が負担に感じてしまわないようにな。」
『会長がそこまで肩入れされるとは…そのチーフという彼は相当な人物なようですね。
かしこまりました。手配いたします。
それと、例の美大のアポイントの件ですが。』
「おお、取れたか!」
『はい。今日この後でも、とのことです。
ただ、何の件かとかなり警戒されてるようで、ウチの学生が何かやらかしたのか、としきりに聞かれてまして。
取り敢えず誤魔化してはおいたのですが…。』
「ああ、そういえば詳しくは話していなかったからな。
この後このまま向かわせてもらうと伝えておいてくれ、先方には心配しなくていいと。
チーフ…フミト、という学生の件で相談したいことがある、と伝えてくれ。」
『フミト……Fumito?
まさか、あの!?
会長、それ私も連れてってもらって良いですか?』
「何だ?チーフのことを知っているのか?」
『知っているも何も!
Fumitoと言えば、一年半前に一度だけ開いた個展で、この辺じゃ有名な幻の画家ですよ!』
私の知らないチーフの一面を知っているらしい、いつも冷静な彼には珍しい秘書は、その後すぐにタクシーで駆け付けた。
一緒に車に乗り込み、彼の話を聞くと、約一年半ほど前に駅前の喫茶店でFumitoという画家の小さな個展が開催されたという。
期間は二週間。その噂を聞いた秘書が駆け付けた時には、30点ほどの作品の全てが売約済みとなっていたという。
私もそこまでとは知らなかったが実はかなりの美術オタクであったらしい秘書は、その時かなり悔しがり、その後もずっと彼の作品を探し求めていたらしい。
だが、その後彼の名前で作品が発表されることは二度となかった。
「作品を入手することはできませんでしたが、観ることは叶いました。
ピエタという、ミケランジェロの傑作をモチーフにした作品ばかりだったのですが……,
とにかくその表情が。
鬼気迫るというか、穏やかな表情のはずなのに、内に秘められた絶望、悲しみが溢れてくるような…。
悲愴のピエタ、と偶然訪れた高名な美術評論家が絶賛したと聞いています。」
悲愴。
彼の発した言葉が、チーフの献身の覚悟を示しているように感じる。
それに、一年半程前、ということはその頃には既にマスターは入院していたはずだ……。
もしかしたら、マスターの医療費のために、彼は大切な作品を手離したのではないか。
言い知れない、何かまだチーフが隠している大きな秘密を垣間見たような不穏な予感が、私を包んでいた。
チーフの通う美大の駐車場に車を停め、学生課の窓口で話をするとすぐに課長が出てきた。
応接室に通され、受付にいた女性がお茶を置いて退室した後、正面に座る小太りな彼が神妙な表情を崩さないまま身を乗り出してくる。
「根津様、お世話になっております。
フミトという学生の件と伺いましたが、彼に何か…?」
心配しなくていい、とは伝えたが、不安を消し去ることはできなかったのだろう。
ただ、私もそこまで気持ちに余裕があるわけではない。いきなりだが本題に入らせてもらおう。
「急に済まない、不安にさせてしまったかな。
いや、実は彼は私が贔屓にさせてもらっている店のバーテンダーでね。
少し込み入った事情があるのだが、彼が留年する、ということを聞いたんだ。
まずはこのことを確認させて欲しくてね。」
「そうだったんですね。
ですが根津様、流石に根津様とは言えど学生の個人情報は……。
それに、もしその彼が留年するとしても、その決定につきましては…その、」
「ああ、もちろん、課長さんの言うこともよく分かるつもりだ。
留年を取り消せ、などと言うつもりもないんだ。
まずは私の話を聞いて欲しい。」
そして、私の知るチーフのことをこの職務に忠実な課長に打ち明けていく。
彼の親との確執。
マスターが倒れた後、たった一人で店を守ろうとしていたチーフ。
チーフが倒れ、師匠の命の対価を彼が負担していたことを知ると、課長は嗚咽を漏らしていた。
「そんな、ことが…。
フミトくんは、私も、良く知っています…。」
課長の語る彼の姿は、私の知るチーフの姿とは全く違っていた。
新興の美大として、軽んじられがちなこの大学において、異才と言われ、予備校にすら通わず現役で合格したこと。
専攻の教授からも期待を一身に受けて、みるみる内にその実力を伸ばし、大学としても期待されていた逸材だったと言う。
また、学生課としても、ただの大学生の一人、ではなかったらしい。
怪我のせいでサッカーサークルに入りながらも思うようにプレイできず、悔しそうにしていたことを聞いた時には胸が痛んだ。
そして、まだ整備の追いついていない大学の、体育会組織の基盤作りに尽力し、サッカーサークルのみならず様々なサークルの活動をサポートできるよう、この目の前の彼を説き伏せて協力体制を築いて行ったらしい。
彼の献身性を裏付けるような話だった。
その彼が、二回生の終わり頃から大学にも姿を見せることが少なくなっていたこと。
たまに来ても、疲れたような表情で、元気がなかったこと……。
課長としても、個人的にかなり心配をして何度か話をしたこともあったらしい。
その度に、チーフはちょっと金を稼ぎたくて、バイトを増やしたから…と誤魔化していたという。
いくら個人的な繋がりがあるとは言え、一学生の生活に踏み込むことはできず、心配を募らせていた――。
涙を浮かべてそう語る彼を見て、私はこういう方が学生を支えてくれてるのだな、と胸を熱くしながら話しを聞いていた。
「まさか、フミトくんが……。そんなことになっていた、だなんて……。」
「そう、なんだ。
ただね、彼の勤めていた店については、私が出資して買い取る方向で話をしている。
その売却金を持って、マスターの医療費に充てることになっている。
だから、これ以上彼が無理をする必要はない。
それに、先程も言った通り、留年についての取り消しなどは一切考えないでやってくれ。
それは、彼の覚悟と行動に対して、余りにも失礼だ。
それに、彼が学び直す時間も、しっかりと与えてあげたいんだ。」
「それはもちろんです…。
そうすると、どういったご用件で……?」
「先程話した通り、彼の親は…もう彼を見放したらしい。
学費も出さない、と言われたそうだ。
そこで、だ。
彼の留年した分の学費は私が負担したい。」
課長の目が驚愕に見開らく。
「課長さん、貴方に頼みたいこと、というのは、だ。
もし彼から退学の申し出があっても、決して受け付けないで欲しい。
そして、彼を父親から守ってあげて欲しいんだ。
もしかしたら、学校に彼の父親から連絡があるかも知れない。
決して彼の情報を、彼の父親には明かさないでくれ。」
ゴクリ、と唾を飲む音が聞こえる。
「今、彼の転居先についても私の方で手配している。
無理なお願いだとは承知しているが、なんとかお願いできないだろうか。」
「そういうことであるならば、喜んで……!
ええ、ええ!
それが彼の力になれるのなら、私に任せてください!」
未だ涙の流れる頬のまま、課長はそう言って、私の共犯者となることを快諾してくれたのだった。
私は深い安堵とともに、課長の涙の笑顔にこれでようやくチーフの人生の「地面」が固まったことを実感することができたような気がした。
その後、課長にお礼を告げながら、せめてもの私の気持ちとしての寄付の話を詰めさせていただいた。
その中で、せっかくなら担当の教授とも話してみて欲しい、と言われ、教授の到着を待った。
5分もしないで訪れた教授は、小柄な白髪の、老紳士といった風情の方だった。
秘書は私の後ろで、佐川先生……!
と感激に震えていた。それなりに有名な方であるらしい。
「こんにちは、本日はどうも。
何でも、フミトくんのことでお越しになった、と伺いましたが……。」
「そうなんです、佐川先生。
彼の苦境を知って、こちらの根津様が留年した分の学費をご負担くださる、と!
あぁ、もちろん、このことは内緒にしておいてくださいね?」
「なんと、まあ…ありがとうございます。
いやぁ、あの才能をこのまま打ち据えることは余りにも勿体ないと、私もどうにかできないかと考えていたところでした。」
「佐川先生にそこまで言わせる程、ですか……!」
秘書が口を挟む。
彼の新たな一面を知ったような気がして、少しだけ心が愉快になった。それに、この目の前の教授が、彼を認めているという事実が、とても嬉しく感じた。
「まぁ、ここで話すよりも。描きかけではありますが、彼の作品をご覧になった方が、私の言葉の意味も分かるでしょう。
アトリエへ案内します、少し歩きますが、どうぞ着いていらしてください。」
そう言って、教授は私達の返事を聞くこともなくドアを開けて歩き出す。
この大学に来て、私の知らないチーフの姿を何度知ったことだろう。
車の中での違和感を忘れて、少し胸が躍るような心持ちすらしていた。
教授の、次の言葉を聞くまでは。
「彼は……今も自分を責めているのですか。」
目の前が真っ暗になったような衝撃が私を襲う。
自分を責めている。
不思議と、その言葉は、彼の余りにも大きな自己犠牲についてを証明するようだった。
「そこまではご存知ではなかったのですか……。
詳しくは、彼の絵を観ながら話をするとしましょうか。」
アトリエは油絵の具とオイルの匂いの充満した、独特な雰囲気に満ちていた。
数名の学生が、思い思いにキャンバスに向かいながら、佐川教授に挨拶をしながらもその後ろを歩く私を訝しげに、あるいは興味深げに見詰めている。
教授は、ん、と短く返事をしながら、一度離れて俯瞰で観なさい、などと一言二言のアドバイスをしていた。
秘書は私の後ろから、興奮したようにキョロキョロと辺りを見渡している。
そして、アトリエの隅の一角で教授が足を止める。
「ここが、彼のスペースです…。
彼が取り組んでいた作品が、このピエタです。」
そこには。
暗く、複雑な色合いの背景から、一筋の光源の中に眩しいほどの明るさで浮かび上がる、一対の聖母子像。
緊張感が、その巨大な作品の中から溢れ出てくるのをヒシヒシと感じる。
横たわるイエス・キリストの姿が、どこかチーフが倒れた時の姿に重なる。
死せるイエス・キリストからは、もう何もない、ということを象徴するかのように一切の表情を読み取ることができなかった。
胸元には、指輪を通したネックレスが描かれている。
そして、彼をその膝に抱く聖母マリアは……
顔が、削り取られたように真っ白だった。
未完だというのに、その絵を目にしただけでも胸が苦しくなる。
何も読み取れないキリストと、表情を削り取られた聖母マリア。
分かってしまう、これは……チーフの、フミトという若き青年の、苦しみの声だと。
今もなお、彼はこの絵の奥に潜む何かに囚われているのだと。
そして、その苦悩が、マスターへの究極の献身、自己犠牲の根本になったのだと。
「彼の…サッカーサークルの先輩から、聞いた話です……。
彼は、高校の時に、恋人を亡くした、と。
それを、自分のせいだ、と今もずっと……。」
教授の、小さな……重い声が、ゆっくりと耳に届く。
彼を見ると、苦悩に顔を歪ませながら、ポツリ、ポツリと語ってくれた。
「根津さん。
貴方が、彼を救おうと……守ろう、としてくれているなら。
貴方には知っておいて欲しい……。
彼に、何があったのか。」
教授が語る彼の過去は、余りにも悲劇的だった。
憎んでいた親との確執、恋人との運命的な出会い。彼自身にはどうすることもできない別れ、そして訪れた予想だにしない悲劇……。
言葉を発することができない。
彼は、あの若さでどれ程の悲しみを、苦しみを知ったというのか。どれだけのものをその背中に背負っていたというのか。
そして。
「彼は、このアトリエで作品に向き合う時は、いつも自分を追い込む様な、極限状態に身を置いていました。
徹底的に食事を抜き、睡眠すら削っていたこともあると聞いています。
ふらつく彼を連れて、食事に連れ出したこともありました…。
正にその姿は、狂気的とまで言えるほどに。
彼の先輩から、彼の過去を聞いた時にようやくその理由が分かりました。
彼にとっては、絵とはただの制作活動ではない。
贖罪だったのだ、と。」
教授は、悲しそうな目を、彼のピエタに向ける。
「彼が、バーテンダーという仕事を始めたと聞いた時は、無茶をするんじゃないかと心配したものです。
ですが、その仕事を始めた頃から、少しずつ彼の表情が明るくなっていった。
その仕事に、彼なりに何かを見つけられたのでしょう。
色彩も、鮮やかで多彩なものになりつつありました。彼の中に、喜びの色が根付いたことを表している様で…。
私は、ホッとしていたのです。
それが、」
一昨年の終わり頃から、彼がこのアトリエを訪れる時間がガクリと減り、たまに顔を見せたと思えば酷く疲れた顔をして、数時間だけ制作に取り掛かり、急いで帰って行くという様な状況だったという。
そして。
「彼の描く色彩は、再び暗く、沈んだものに戻っていきました。
そして、彼自身が意図していたかどうかは分かりませんが…キアロスクーロと呼ばれる、極端な明暗を描き分けるドラマティックな構図へと変わっていったのです。
短い時間の中で、取り憑かれた様にキャンバスに向かう様は、まるで…狂気に染められたあの夭折の天才、カラヴァッジョを思わせる様な、それ程の。
そして、今年に入ってからは…ほとんど顔を見せる機会もなくなってきたのです。」
ふぅ、と教授が息を吐き出す。
「そんな彼が、秋頃からでしょうか…。
少し、時間が取れる様になったから、とアトリエに戻ってきたのです…。
安心したと同時に、酷くやつれて……それだけでも彼が相当の無理を重ねていることは見て取れました。
何度も、彼には問い質していたのです。
何があったのか、何を抱えているのか、と。
ですが、彼はただ金を稼ぎたくて、バイトを増やしただけだから、とだけ言って作品に向かってしまったのです…。」
その言葉だけで、教授もまた、チーフを救おうと苦しんでいたことが分かってしまう。
何もできないまま、何があったのかを知る由もなく、ただ苦しんでいたということも。
「そして……。
先程、課長の話を聞いて。
根津さん、貴方が、彼を……フミトの未来を、救おうとしてくれていることを聞きました。
どうか、どうか……彼を、よろしくお願いします。」
そう言って、教授が私に向かって頭を下げる。
教授の頭越しに、チーフが描いたピエタが……そして、顔のないマリアが、私に問い掛けてくる。
彼の苦しみを、本当にお前が背負えるのか、と。
負けてなどやるものか。私はもう覚悟を決めたのだ。
「佐川教授。
お話をしてくださって、本当にありがとうございます。
これで、私のやるべきことが、ようやくハッキリと分かりました…。」
気付けば涙が一条――彼が苦しみながらこのキャンバスに向かっていた、その床に落ちる。
涙は、無数の古い油絵の具が固まってできたシミの中に紛れて、すぐに分からなくなった。
まったく、今日はチーフに泣かされてばかりだ。
「私は、彼を――この贖罪という重い鎖から、必ず解き放ちます。」
三日後。
私はケンジを伴い、ioriのマスターの病室を訪れていた。
ioriの買取について、細かな話を詰めるためにだ。
私がioriのマスターに会うのは、これが初めてとなる。
ケンジと、そしてチーフ。
彼等を育て上げたという人物に会えるという純粋な興奮と、知らぬこととは言えチーフを苦しめ続けることになったことに対する憤りを覚えながら、ケンジが病室のドアをノックする音を聞いていた。
どうぞ、と小さな声が返ってくる。
ケンジがドアを開け、病室のベッドに腰を掛け座る老人の、小さな姿が目に入る。
痩せ細り、鼻に管を通され至る所に黄疸が浮くその姿は痛々しいのにも関わらず、しっかりと髪をセットし、上品なカーディガンを羽織り、穏やかな笑みさえ浮かべている――
ケンジが主治医に聞いたところによれば、もう明日をも知れぬ程の転移に蝕まれ、あちこちが絶え間なく痛むはずなのに、痛み止めすら飲まずにいるという。
その痛みをおクビにも出さず、汗一つかいていない。
自然と、背筋が伸びるのが分かる。
有り体に言えば、私は圧倒されていた――その老人が醸し出す迫力、言い知れない圧力に。
「マスター……そんな、無理に身体を起こさなくても……。」
「馬鹿タレが!
あんなチンケな店を、儲かるかどうかも分からん上に、一度店を潰した馬鹿弟子のために出資してくださるという根津様に、失礼なところをお見せする訳には行かんだろう!
根津様…この度は、不祥の弟子が大変なご面倒をお掛けしたと伺っております。
誠に申し訳ございません。」
矍鑠たる声を上げてケンジを叱責したと思えば、私に向かって綺麗なお辞儀を見せる。
この人が……ケンジと、チーフを育てたという、マスター。
「初めまして。
根津、と申します。
ここ二年程、 ioriに通わせていただいておりまして、チーフの虜となりまして。
この度のお話を伺いまして、是非お力添えできれば、と。
その様に思った次第でございます。」
「ああ…そうでしたか。
あの子は……元気にしておりますかな?」
ケンジがその言葉を聞いて俯く。
それだけで、チーフの病状、苦境を…伝えられていないのだということが分かる。
――余計な心配を掛けて負担に思わせたくないのだろう。
「はい、元気に…ioriを、立派に回しておりますよ。」
「そうですか……根津様も、罪なお方ですな…。」
心臓が止まるかと思った。何故だ、何故気付いた。
「あの子は……毎週、日曜日には、必ず見舞いに来てくれていたんだ…。
それが、昨日は来なかった……。
何かあったんだ、とすぐに分かりましたよ。」
種明かしをするように、小さく溜め息を吐き出して、マスターは続ける。
「ここ最近は、私の前では空元気を見せてはいたが、随分とやつれて…。
こんな老いぼれのために、あの子には……随分と、苦労を掛けてしまった。
私が……店を、頼む、などと、ワガママを言ったばっかりに……。」
……やはり、チーフの師匠なのだな、と納得させられてしまう。
それまで矍鑠たる態度を見せていた老人の左目から、スゥッ、と涙が落ちる。
「根津様。そして、ケンジよ……。
店を頼みます。
あの子を……守ってやってくれ。」
その場で、私とケンジに深く頭を下げる。
この老人もまた、チーフを救えない自分に、苦しんでいたということが痛い程に伝わってきた。
この人に、憤りを感じていた自分を恥ずかしく思う。
「店はお譲り致します。
条件は、全てお任せします。
如何様にでもお進めしてください。
ただ……ケンジよ、一つだけ、頼みがある。」
ケンジが背筋を伸ばし、マスターの顔を真っ直ぐに見つめる。
「はい……。何なりと。」
「一日だけでいい。
私を、もう一度カウンターに立たせてくれ。」
その言葉は……今の彼の体調を考えれば、到底聞き入れられるものではなかった。
「そんな、まさか!マスター、それだけは!無茶だ……!」
「良いんだ、ケンジ。
どうせ、もう長くはないさ……。
これは、最期のワガママなんだよ、私の。
それにな。」
マスターは窓の外を見る。
そこには、もうすぐ冬が終わりを告げようとしているかの様な澄んだ青空が広がっていた。
「あの子に、まだ教えていないことがあるんだ。
それを教えてやらなきゃ……私は、死んでも死に切れんよ。」
もう一度、ケンジの顔を見るマスターの顔は……悪戯を思いついた様に、笑っていた。
「そうだ、どうせなら。
あの子の誕生日にしよう。
あの子は、これまで誰にも誕生日を祝われたことがないんだとさ。
私がカウンターに立つ姿を、あの子の誕生日プレゼントにしてやろう。」




