第十四話 祈り
大学に進学して、少しずつ絵に没頭するようになって。
描く楽しさ、さらに上手くなっていく喜びと反比例するかのように、それ以外の時間に考え込むことが増えた。
適度な運動のつもりでサッカーサークルに入り、膝の痛みと相談しながら一日15分までなら大丈夫、と判断して走る様になったのも、考える時間が苦しかったからだった。
と言っても、サークルの先輩達には見抜かれていたみたいで。
昔話をした時には、皆で泣いて、お前のその苦しみを忘れるなよ、それが彼女が最期に残してくれたもんなんだから……大事にしろよ、と言われた時は、少し救われた様な気がして、声を上げて泣いた。
苦しんでもいいんだ、って。
それでも、空虚な心は埋まることはなくて。
不良仲間達とつるんでいた時に覚えた酒と煙草の量が、自然と増えていった。
彼女の一回忌が終わった頃。
その夜は長かった梅雨の終わりを予感させる様な、蒸し暑い夜だった。
暑さに寝苦しくて、買ってあったビールも切れていて。
もっと強い酒が欲しくなって、コンビニに行った。
ただそれだけだった。
昼間の喧騒が嘘の様に静まり返った街並みは、人が消えたんじゃないかと思うほどの寂しさで。
遠くに見えるコンビニの灯りだけが、この街が生きている証の様に思えた。
コンビニの前には、何人かの若い人達…いわゆる不良的な連中がたむろっていて。
少しだけ懐かしくなって、自然と唇の端が持ち上がっていた。
彼らにとって、それが嘲笑に映ったのかも知れない。
「テメェ、今笑ったよな!?」
そんな言葉を投げ付けられる。
オレもそうだったから分かる、彼らにとっては面子が大切で、笑われるなんてあってはならないことだから。
「あぁ、ごめん。
キミらを笑ったんじゃないんだ、昔の友達思い出してさ。」
そんな風に言い訳をしても、彼等の怒りは収まることもなく。
まぁ、二、三発殴らせれば引いてくれるかな、なんて軽く考えながら、駐車場の裏に連れ込まれて。
金を出せ、だの、舐めんじゃねえぞ、だの。
罵詈雑言と、本物の暴力に慣れていないことがわかる怯えた様な拳が飛んで来た。
このくらいなら大したことは無いな、と思って適当に相手をしていたのが悪かったのだろう、相手が逆上して……胸倉を掴まれた時に、首に掛けていたネックレスを見つけられてしまった。
「なんだぁ?こんな指輪なんざ」
それに触れられた瞬間、そいつの腕を掴んで、殴っていた。
奥歯が折れたのか、口から白い小さな塊が吹き飛ぶ。
殴る。マゼンタカラーが混じる唾が飛び散る。
殴る。目が赤く染まるのが見える。
もう一度、殴ろうとする腕を振り上げた時だった。
「すみませんでした!もう、やめてやってください!」
オレに腕を掴まれたまま殴られていたソイツの連れの一人が、振り上げた腕にしがみついて来て謝罪の言葉を吐く。
ふざけるな。
コイツは、オレの由美子に、そこまで考えて、急に怒りが冷めていく。
そうだ、由美子は、もう……。
「……悪かった、やり過ぎたな。
ツッパるのは良いけど、誰彼構わずツッパるのはやめとけよ。」
急にバツが悪くなって、それだけ言って足早にその場を立ち去る。
「「すみませんでした!!」」
謝罪の声に右手を挙げて返事をしながら、殴ってしまった相手は、すぐに目を覚ますと良いんだけど…なんて呑気に考えながら家への道を歩いていったところで、酒を買いそびれたことを思い出した。
あちゃー、と頭を掻こうと伸ばした右拳がジンジンと痺れる様な熱を持っていることに気付く、また拳が破けちまったか。
まあどうでもいいや、とにかく酒だな。
かといって、さっきのコンビニに戻るのはさすがに気まずい。
もうそろそろ目を覚ましているにしても、まだあの場に残っているだろう。
少し歩くが、違うコンビニにするか。
確か、駅のロータリーの向こうにあったはずだ。
そのコンビニの名前を思い出して、少しだけ寂しさを覚える。
いつもは避けているコンビニ……由美子と出会ったコンビニと同じチェーン店だったから。
大きな病院も近いし、品揃えが良いのは知っていたけど、どうしても足が向かないでいたのだ。
でも、こんな田舎では違うコンビニに行こうとしても三十分はかかる。
仕方ない。
缶ビールとツマミ、それとウイスキーを無事に調達する事が出来たオレは、少しでも早くその場を離れようと足早に歩いていた。
以前に飲んでその香りの良さとバーボンの甘い味わい、そして50.5度の強烈なアルコール度数から来る焼ける程の喉を通る感触が気に入っていた七面鳥が描かれたボトル。
それに思いを馳せるフリをして、他のことは考えない様に努めていた。
歩きながら今夜はあっちいな、と冷えた缶ビールのプルトップを押し上げる。
カシュ、と期待を膨らませる音が、静かな街並みに響いた。
途端に溢れ出す泡を迎えに行くように唇を寄せる。
口内に広がる苦味、喉を洗い流すような強い炭酸と冷たさに、生き返った心地がした。
空を見上げるようにして星を眺めながら、もう一年過ぎたのかと一人呟き、右拳から流れる血をジーンズで拭った時。
「酒が泣いとるな…。」
静寂に夜の虫すらその鳴き声を顰めるような街に、しゃがれた低い声が小さく届く。
静かな凪の池面に小さな石を投げ入れた波紋のように。
いきなり何処から、と驚きつつ辺りを見渡す。
ビルの一階、ちょうど暗がりの中に、そのドアはあった。
重く、暗い色に染められたドア。
その前に、大きな看板…もう照明を落とされたその看板には、「Bar iori」の文字だけが刻まれていた。
その看板を両手で抱えるように、小さな爺さんが立っていた。
他には誰もいない。
さっきの声はこの爺さんか。
「なんだ、爺さん。もう今日は閉店かい?」
荒れていた時に、少しだけ水商売の世界に片足を突っ込んでいた身だ、小さな共感を覚えた。
こういう看板、重いんだよな。
こんな小さな爺さんじゃ仕舞うのも大変だろう、そんな、気まぐれからの声だった。
「看板重いだろ、持ってやるよ。」
これが、マスターとの初めての会話だった。
爺さんは、その見た目に似合わず軽い感じでラッキー、ほんじゃ頼むわ、なんて言ってそのドアを開ける。
ギィィ〜、と耳障りな音を立てる。
予想通り滑りが悪くなって、余計に重く感じる看板を店の中に引き込む。
それを見届けるように再び蝶番が唸りを上げて、BGMの消えた店内に残響を響かせていた。
「すげえ音だな、このドア。
蝶番、直した方がいいんじゃないの?」
「ふん、良いんだよそのドアはそれで。
その音が、私の代わりにお客様をお出迎えしてくれるってもんだ。」
「なんだそりゃ…。
しっかし、狭い店だな。
カウンター席とちっさなテーブルが二つか。
こんなので、商売になるもんなのかい?」
これから締め作業なのだろう、爺さんが店の照明の明るさを上げる。
そこに広がっていたのは、小ぢんまりとしたバー。
「まあな。
大儲けできる訳ではないが、そこそこなんとかなってるよ。」
「そうなんだ。
まあ、それなら何よりだね。
んじゃ、帰らせてもらうよ。」
ドアに手を掛けようと背を向けたオレに、その爺さんは声を掛ける。
「まぁ急ぐな。
さっきみたいなツラして飲まれる酒が可哀想だ。
看板を仕舞ってくれた礼だ、私の奢りだ。
一杯飲んで行きなよ。
そのくらいの時間はあるんだろう、若いの。」
「え?
酒に可哀想もなんもないんじゃないの?
ただ酔えれば良い、それが酒だろ?」
不思議と、イライラすることはなかった。
ただ面白いこと言う爺さんだな、くらいなもんで、どうせこのまま家に帰って飲むよりかは、一杯奢ってくれるってんならいただいとくかくらいなもので。
つまりは、まあただ酒が飲めるんなら良いかという程度の、深く考えることもなく。
どんなもんを飲ませてくれるんだろう、って、ちょっと楽しみな気持ちもあった。
「とりあえずは、だ。
酒を出す前に、見せてみろ。
その手。」
静かな店内の一角に腰掛け奢りだという一杯を楽しみに辺りを見渡していたオレに、爺さんは告げる。
口元は先程までの好々爺然とした形のままであるのに、目だけが鋭い。
でも、その声には咎めるような響きは全くなくて、何故か隠すこともなく、オレは言われた通りにカウンターに少し固まり始めた自分の血で赤くなったその手を置いた。
「派手にやらかしたな。喧嘩か?」
「あ、ああ。ちょっと、揉めて。」
「ハン!若いってのは良いねぇ、エネルギーが有り余ってやがる。
……ちっと待ってろ。」
そう言って、爺さんはタオルウォーマーから二本のおしぼりを取り出し、蛇口を捻って水道水に曝す。
ギュッと力強く絞る、おしぼりから滴り落ちる水をサッと振って切ると、カウンターの下から小さな箱を左手に抱えて来る。
おしぼりで手の甲の血を拭った後、その箱を開ける。
それは救急箱だった。
「ちっと滲みるぞ。我慢しろよ。」
そう言って、消毒液を取り出して拳の傷に振りかける。
ビクン、と拳が跳ねる。
顔が歪むが、我慢できないほどでは無い。
手早く消毒液を拭き取り、絆創膏を貼り付けていく。
ドクン、ドクンと脈打つようだった傷の痛みが少し引いていく。
「ありがとうございます、手慣れてるんですね。」
「なんだ、急に敬語になりやがって。」
なんでだろうか、自然に敬語が出ていた。
「さあ…?
ただ、ちゃんとお礼をしなきゃな、と思ったら、自然に。」
すみません、じゃなくて、ありがとうだよ!
懐かしい声が聴こえた気がする。
大丈夫、ちゃんと守れてるよ。心の中で返事をする。
「変なとこで素直だな。
まあ、悪いことじゃないから良いんだけどな。」
「その救急箱は…?
やっぱり酔って暴れる客とかいるんすか?」
「ああ、これか。
こないだまでいたバカ弟子がな、喧嘩っぱやいやつでな。
しょっちゅう怪我してやがったもんだからよ。
おかげでこんくらいならお手のもの、ってな。
……喧嘩の原因は、ソイツか?」
親指で胸元を指差し、何かを指し示す。
先程胸倉を掴まれた時にボタンが吹き飛んでいたのか、ネックレスの通された指輪が剥き出しになっていることにこの時初めて気付く。
隠そうと慌てて襟を寄せようとして、シャツの生地ごとネックレスを握り締めるような形になる。
「よほど大事なものらしいな…高いもんじゃねえだろうが、随分と大切にしてるようだな?
人に見られるのすらイヤか。」
「……関係、ないだろ。」
吐き出した言葉に棘が籠る。
これに、触れるな……!
「目付きが変わりやがったな。
それ程のもんか…。
ああ、関係ないさ。
ただな。」
爺さんの目が、優しさを帯びてオレの目を……心を覗き込んでくるように感じた。
「お前が、悲しんでることだけは分かるさ。」
鼓動が跳ね上がる。
全部バレてる、そんな焦燥に駆られる。
何も言っていないのに、何故。
「気にすんな、別にとって食おうってんじゃないさ。
お前の抱えてるモンに、ケチをつける気もないしな。」
そう言いながら、グラスを冷凍庫に入れる。
何かのボトルを取り出し、シェーカーを目の前に置く。
「今、うまいモン飲ませてやるよ。」
そう告げて、ニヤリと笑う。
爺さんの所作は流れるようで、一点の無駄もなく。
カン、という音を弾ませて、あっという間にシェーカーに氷を入れ、ボトルから酒を注ぎ、ライムを搾り入れる。
組み立て直したシェーカーを左肩の前で構えて、一呼吸…軽やかな音を響かせながらシェーカーが踊る。
気が付いたら、その動きを目で追っていた。
呼吸を忘れたかのように、何も喋ることができない。
爺さんは穏やかな表情を見せているのに、鬼気迫るものを感じる。
有り体に言えば、見惚れていた。
そして、儀式にも似たその所作にも終わりが来る。
再び冷凍庫からグラスを取り出し、オレの目の前のコースターに乗せる。
シェーカーから零れ落ちる液体は、店の明るい照明に照らされて輝いていた。
カシャン。
一際高い音を立ててシェーカーを回し。
「ギムレットだ。飲め。」
ぶっきらぼうに告げる。
グラスに伸ばす指先が震える。
これは、オレが今まで飲んでいた、酔うためだけに何も考えず浴びるように飲んでいた酒とは違う。
もっと神聖で、敬虔な…祈りにも似た。
例えるなら…キリストが起こした奇跡。
震える指先が、ようやくグラスの脚を摘む。
重い…、だが、ゆっくりと持ち上げ、唇に寄せる。
薄く、淡いジンクホワイト色の液体の上には、細かな氷の粒が浮き、光に照らされ微かな輝きを放つ。
グラスを傾け、口腔にその液体を流し込み含む。
最初に感じたのは、香り……。酒気を孕んだ香りを包むような柑橘系の爽やかな香り。
舌先に当たる強いアルコールの刺すような刺激、口腔内を鮮やかに彩る微かな甘み。
冷やされた液体と冷たい氷の粒が先程までの外の暑さを忘れさせる。
それら全てを洗い流すような酸味が喉元へ流れ落ちる寸前に、僅かな苦味を残して……フワリ、と消える。
これが、酒。
これが、ギムレット…。
「どうだ、うまいだろ。
それが、お前が馬鹿にした酒だ。
これが、本物の酒だよ。」
何も言えないオレに、爺さんは続ける。
「オレはバーテンダーだ。
だから、あんな悲しそうな顔をしながら酒を飲むヤツが気になってな。
なあ、若いの。」
「なん、ですか……。」
まだ驚きが身体を支配する。上手く言葉が出ない。
「カクテル言葉、ってのがあるんだ。
一杯一杯のカクテルに意味があるんだとさ。
まあ、誰が決めたんだか知らないがね。
そして、そのギムレットのカクテル言葉は。」
唾を飲み込む。
何か、大切なことをこの爺さんは言おうとしている。
「"遠い人を思う"…。
お前にとって、その指輪の相手がどれだけ大切な存在だったのか……、今の表情見りゃ、痛いほど分かるさ。
何があったのかも、薄々は察しが付く。」
表情、と言われた瞬間、自分が泣いていることに気付く。
いつの間に…。
シャツの袖で涙を拭う、それでも涙は止まらない。
「なんで……、なんで、泣いてんだ、オレ……。」
「お前さ。
自分のこと、責めてるだろ。」
心臓が止まったかと思った。
そうだ。だって、由美子はオレのせいで死んだんだ。
悪いのはオレだ。
そんなオレを責めるのは、当たり前じゃないか。
「なんでだ?
ああ、別に自分を責めるな、なんて言うつもりはないさ。
だけどな。
お前、その相手のこと、ちゃんと悲しんでないだろ。
自分のことを責めてばかりで、相手のことを思って泣いてないだろ。」
相手のことを思って、悲しんでないだろ。
その言葉が、胸に突き刺さる。
オレが、悲しい、なんて思う資格は……。
「お前……自分のせいだと責めてばっかで。
悲しむ資格がないとか思ってないか?」
何故この爺さんは。
オレの心が分かるんだ。
「理由なんてないだろ。
資格なんて関係ないだろ。
相手に対しても失礼だろうよ。
いいか、若いの。」
息を吸って、爺さんは声を張り上げて、こう言ったんだ。
「悲しむべき時は、ちゃんと悲しめ!
それが、相手を思うってことだ……みっともないだの、自分のせいだ、だの。
言い訳すんなよ、自分によ。」
小さく溜息を吐いて。爺さんは続ける。
「悲しい時は、泣け。
余計なことを考えずに、相手のことを思え。
それが…残された者の、礼儀だ、馬鹿タレが。」
言葉は厳しい……だけど。
だけど。
その響きは、何処までも優しくて。
彼女の笑顔を思い浮かべる。
一番好きだった、あの柔らかな笑顔。
思い出すのは全部、笑顔で……その愛おしい声で、彼女だけの特別な呼び方で、オレを呼んで――。
由美子。
愛しいその名を、久しぶりに音にして呼ぶ。
それだけで、思いが溢れる。
もう、キミに、会えないなんて。
悲しいよ。
寂しいよ。
ごめん、何もしてやれなくて。
気付いてやれなくて。
ごめん、ごめんなさい……。
オレも。
「大好きだよ……!」
声に出して、あの日から言えなかった思いを告げる。
涙はもう、我慢することはなかった。
全ての水分が流れ出たんじゃないかと思うほど泣いた後。
爺さんの差し出してくれたおしぼりで顔を拭いて、もう一度先程のカクテルを飲もうと手を伸ばす。
その手を、爺さんが止める。
「え、なんで。」
「そいつはもうダメだ。壊れちまった。
ちょっと待て、もう一杯作り直してやる。」
そう言って、止める間もなくカクテルを作り始める。
再び始まる、その儀式にも似た一切の無駄のない動き……一瞬たりとも見逃したくない。
食い入るように爺さんの動きを見詰める。
そして、目の前のグラスと引き換えに、新しいグラスが置かれ、新しい生命を宿したギムレットが注がれる。
「ありがとう、ございます。」
新しいギムレットを口に含む。
…遠き人を思う…。
先程よりも鮮やかに、彼女の笑顔を思い浮かべることができる。
爺さんがニヤリ、と笑って、
「本当の酒、というのはな。
飲むべき時、飲むべき相手。そいつをテメェで選ぶもんさ。
コイツは、お前が泣いている間に役目を終えた。
だから、バトンタッチしたのさ。」
「壊れた、と言っていたのは…?」
「気になるか?
まあ、聞くより体験する方がなんとやらだ、飲んでみな。」
そう言って、シンクに流される寸前だったグラスをもう一度オレの前に置く。
見れば、先程までの氷の粒は全て溶けて無くなり、表面には申し訳程度に小さな小さな泡が、ほんの僅かに浮いているだけだった。
そっと唇に寄せ、口に含む。
まだ冷たい、といえば冷たい……だけど、先程までの鮮烈な冷たさは感じない。
酒のエグいような味わいが口の中に広がり舌を焼く。
酸味はキツくて香りも鼻につくだけだった。
「なんだこれ!さっきと全然違う……。
なんでこんな、」
「面白えだろ?
バーの世界ではな、ショートは五分、ロングは十五分ってな。」
「ショート??
ロング??」
「おっと、悪いな。
ショート、ってのはこんなふうに…まあなんだ、氷を入れずに飲むような酒だと思えばいい。
強めの酒が多いな。
だから酒の量も少なめだ。
ロングってのは、氷を入れて、こんなふうなグラスで飲む酒のことだ。」
そう言って、細長いグラスを目の前に置いて見せてくれる。
「まぁ、本当はもっと色々あったりするんだけどな。
んで、だ。ショートカクテル、って言われるヤツは、時間の経過で温度は上がるし、一度混ぜた味が分離していく。
だから、分離しきっちまう前に飲み切れ、ってことで五分、と言われてるってことだ。」
先程の、「役目を終えた」グラスをスッと下げて、今度こそシンクに流す。
「んで、ロングカクテル、ってヤツはな。
中に入ってる氷があるから、そのお陰で飲む時にグラスが傾くことで、軽く混ざり合うから味が分離しそうになっても大丈夫なのさ。
ただ、今度は氷が溶けて薄くなっちまう、だから氷が溶け出す前に飲め、ってことで十五分、と言われてるのさ。」
「へぇ〜!面白いな、酒って!」
「な?面白えだろ?
もちろん、お前がさっきまで飲んでいたビールだとか。
その袋の中の、ワイルド・ターキーだって同じだ。
作り手の魂が宿ってる。
それを、ただ酔うためだけに飲むなんてな、もったいないだろう。
それも、あんな辛そうな顔して飲むなんてな。
酒に失礼だと思わないか?」
「それで、酒が泣いてる、って……。
そう、ですね。確かに……酒に対して、失礼だった。
すみませんでした。」
「なに、良いってことよ。
どうだ、オレの酒はうまいだろ!」
子供のような、嬉しそうな顔で爺さんが笑う。
釣られて、オレの顔にも自然と笑顔が浮かんでいた。
「はい…うまい、です。
こんなうまい酒があるだなんて…。」
「ソイツはな。
ただ酔うための酒じゃねえ。
ただうまいだけじゃないんだよ。
オレたちバーテンダーがな、目の前のお客様のために作る一杯ってのはな。」
そう言って、爺さんは真剣な目をして、さっき下げたグラスを照明に透かして、こう言ったんだ。
「魂を癒すんだ。」
カッコよかった。
魂を癒す……。
その言葉が、頭の中に福音のように響き渡って、震えた。
次の言葉は、考えるより先に口を突いて出た。
「魂を、癒す……オレにも、できるかな…。」
爺さんは、オレの言葉を聞いても、笑うことはなく。
「……できるさ。
痛みを知るお前にしか出来ない一杯が。
このカウンターに立って、な。
どうだ、やってみるか?」
オレは、爺さんの言葉を聞いて、立ち上がり頭を下げる。
「よろしくお願いします!
オレも…、やってみたい……!」
そうして、オレはバーテンダーになった。




